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0049ドイツ連邦共和国出身
1780-1849を生きた作曲家。 法律家から進路を一転音楽家の道へ。その後、音楽活動をウィーンに移し、アルブレヒツベルガー(1736-1809)に師事。ケルントナートーア劇場、ウィーン宮廷歌劇場などの楽長をつとめた。1834年に作曲したオペラ『Das Nachtlager in Granada』で一躍、名作曲家の階段を登った。
【音楽の部屋|クロイツァー】国民的オペラに挑んだロマン派作曲家New!!
0049ドイツ連邦共和国出身
1786-1826を生きた作曲家であり、ピアノの名手そして指揮棒を用いた近代的指揮法の先駆者の一人とされる。モーツァルトの「魔笛」の影響を受け、ジングシュピール(歌芝居)形式を用いて「魔弾の射手」を作曲し、ドイツ国民歌劇およびロマン派オペラの創始者となる。そしてこの作品は後のワーグナーへと受け継がれる。ピアノ曲や協奏曲も手掛けており「Invitation to the Dance」や「Konzertstück in F minor」はその代表作となっている。
【音楽の部屋|ウェーバー】独ロマン派・国民的オペラ作曲家New!!
0049ドイツ連邦共和国出身
1758-1832を生きた作曲家であり音楽教育者。煉瓦職人として働きながら音楽を独学し、後の師となるC.F.C.Fasch(1736-1800)の創立したアマチュア合唱団ベルリン・ジングアカデミーに入団、そこで研鑽を積み、その後引き継ぐ。その努力が実り、画家、彫刻家、建築家などの著名な芸術家が集うプロイセン(現:ベルリン)芸術アカデミーの会員となり、現在のベルリン芸術大学宗教音楽研究所の前身となる王立音楽研究所を設立したことでもその名を刻む。そこでの音楽教育活動で多くの音楽家を育てる。また30年以上の、詩人Goethe(1749-1832)とは親友であり、よき理解者であった。
【音楽の部屋|ツェルター】19c.ベルリン音楽の礎を築いた作曲家New!!
0099420チェコ共和国
1756-1808を生きた作曲家であり、その生涯を指揮者、ヴァイオリニスト、オルガニストとしてウィーン音楽に捧げた。とりわけ1790年、レオポルト2世の戴冠祭典で高く評価されていたオペラ「Oberon oder König der Elfen」を上演しその名をさらに高め、1792年には皇帝フランツ2世の戴冠式のために戴冠交響曲を作曲するなど王室からの厚い信頼を得ていた。その手がけた作品はヨーロッパ全土に認知され、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどからも高く評価されていたとされる。
【音楽の部屋|ヴラニツキー】名だたる作曲家に匹敵する才能New!!
0039イタリア共和国出身
1755-1824を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。師と仰いだG.Pugnani (1731-1798)と共にヨーロッパで巡演し、ヴァイオリニストとしての才能を開花させる。弓の改良を手がけ、弓のアクセントを利用して強弱のアクセントをつける技法を確立させ近代奏法の第一人者となった。フランスでは興行師としての活動も行い、ケルビーニ(1760-1842)と共にパリの音楽シーンで活躍している。
【音楽の部屋|ヴィオッティ】ロマン時代の国際派ヴァイオリニストNew!!
0039イタリア共和国出身
1760-1842を生きた作曲家。幼少期からその音楽の才能を発揮し、ジュゼッペ・サルティ(1729-1802)のもとで学んだ。その後にフランスにわたり国立音楽院の院長にも抜擢されるほどの実力を兼ね備えていた。フランスでの代表作はMédée (1797)。その後ウィーンでもオペラ作曲を中心に活躍し、ウイーンでの代表作Faniska(1806)はベートーヴェンやハイドンに賞賛され、影響を与えた作品としてその名を刻んでいる。
【音楽の部屋|ケルビーニ】偉大な作曲家の集大成はレクイエムNew!!
0039イタリア共和国出身
1749-1801を生きた作曲家。ナポリ楽派で音楽を学びオペラ・ブッファの分野で活躍。1787年にエカテリーナ2世に招聘されペテルベルグへ、そして1791年には立ち寄ったウィーンではレオポルト2世に呼び止められ音楽活動を行い、その時作曲したIl matrimonio segreto(秘密の結婚)が代表作となる。レオポルト2世の死去に伴いナポリに帰郷、政治の混乱に巻き込まれ謎の死を遂げた。
【音楽の部屋|チマローザ】モーツァルトの影に埋もれた作曲家New!!
0049ドイツ連邦共和国出身
1735-1782を生きた作曲家。J.S.Bachの18番目の子であり、父J.S.Bachの亡き後、C.P.E.Bachに育てられ、その後イタリアへ留学し、サンマルティーニに学びミラノ大聖堂のオルガニストとして研鑽を積んだ。その後英国にわたり、シャーロット王妃の音楽教師となり活躍。Bach一族の中で唯一オペラを手がけた。 ミラノのバッハ、ロンドンのバッハとも呼ばれる。
【音楽の部屋|J.C.バッハ】J.S.Bachの偉大な末息子
0099420チェコ共和国
1729-1774を生きた作曲家。父親の反対にあい、一路イタリアへ。ヴェネツィアで音楽修行を行いオペラ作曲の研鑽を積んだ。その後、バレエを用いたオペラ改革に臨んでいたグルックのもとへ、バレエ振り付けの後継としてウィーンに招聘される。そこでオペラ作曲も手がけるようになる。また1765年のフランツ1世の死去で休暇となった期間を利用したヴェネツィア訪問時にサリエリ(1750-1825)を見出し弟子とし、ウィーンへ帯同させ、自身の後継者としてフックスの教科書を用いて育成。父フランツ1世を引き継いだその子、ヨーゼフ2世のもとグルックの後継者として宮廷楽団のトップとして活躍した。
【音楽の部屋|ガスマン】18世紀ウィーン音楽の立役者
0043オーストリア共和国出身
1708-1772を生きた作曲家。作曲家であった父に英才教育を受けるもウィーンでのオルガニストの職に就けず、イタリア留学でオペラや教会音楽を学ぶ。帰国後、シュテファン大聖堂、ウィーン宮廷楽長をつとめた。オペラ、オラトリオ、そしてミサ曲などのウィーン教会音楽の保守、発展に尽力し、多くの作品を手がけた。
【音楽の部屋|ロイター2世】18世紀のウィーン教会音楽を死守した作曲家
0039イタリア共和国出身
1728-1800を生きた作曲家。ナポリ楽派にてレオナルド・レオに音楽を学び、La Cecchina(1760)など、オペラ・ブッファの分野で活躍した。その名声でマリー・アントワネットの音楽教師となる。その後、ライバル視されていたグルックと対立構図となるグルック‐ピッチンニ論争がフランスで勃発し巻き込まれた。それはブフォン論争から約20年後の出来事であった。
【音楽の部屋|ピッチンニ】フランスに認められたナポリ楽派
0039イタリア共和国出身
1714-1774を生きた作曲家。ナポリ楽派にてレオナルド・レオに音楽を学び、これまでのアリアによる演出から、物語に重きをおき、またバレエをオペラ作品に導入するなどオペラ・セリアの改革を行ったことでもその名を馳せている。これはフランスで起きたブフォン論争後のグルックのおけるオペラ改革と比較されるほどの出来事であった。
【音楽の部屋|ヨンメッリ】ナポリ楽派初オペラセリアの改革者
0039イタリア共和国出身
1694-1744を生きた作曲家。ナポリ楽派の祖A・スカルラッティ、同楽派の重鎮レオナルド・ヴィンチの後を継ぎ、その後のナポリ楽派を牽引した。ナポリ楽派におけるオペラ・ブッファや現代和声法(harmony)を確立した一人としてその名を刻んでいる。また指導者としても名高く、ペルゴレージ、ピッチンニ、ヨンメッリなどが門下で育った。
【音楽の部屋|レーオ】ナポリ楽派を軌道に乗せた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1749-1832を生きた文学家であり博物学者。ゲーテによって生み出された詩や戯曲は、多くの作曲家によって音楽化される。その中でもシューベルトは70曲を手がけた。またモーツァルトやベートーベンの音楽に強い関心を持ち、高く評価した。ゲーテ作品の中でも「ファウスト」は50作品以上がオペラとして作曲されているほど、絶大な人気戯曲となっている。
【音楽の部屋|ゲーテ】作曲家たちが愛した詩人
0049ドイツ連邦共和国出身
1784-1859を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。幼少期からヴァイオリンの才能を認められ、15歳ごろにはすでに宮廷楽団で活躍し、その才能を更に開花させる機会を得る。その後楽団長などを歴任し、アン・デア・ウィーン劇場の指揮者となる。この時を契機にベートーベンと信頼関係が生まれ、そのベートーベン亡き後の音楽界の中心人物となった。 ヴァイオリンのチンレスト(顎当て)、そして指揮をする際に棒を用いたこと先駆者でもあった。 自伝としてSelbstbiographieを著している。
【音楽の部屋|シュポーア】独バイオリニストの最高峰
0099421スロバキア共和国
1778-1837を生きた作曲家でありピアニスト。父から音楽を学び、そしてW.A.モーツァルトに8歳からの2年間、住み込みでレッスンを受ける。その後ヨーロッパ各地を巡り、クレメンティ、ハイドン、アルブレヒツベルガー、サリエリなど当時を彩った作曲家たちの指導を仰ぐ機会で、さらにその才能が広がる。1819-37年ワイマール宮廷楽長を務めた際は、ゲーテより文学も学んだとされる。ベートーヴェン、シューベルトなど音楽家の友好関係も多く、その人柄も際立っていたことが伺える。 著書Anweisung zum Piano-Forte-Spiel はピアノ・フォルテの演奏法として1829年に出版され、その後のピアニストの教科書となる。
【音楽の部屋|フンメル】芸術家を調和した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1719-1787を生きた作曲家であり、ヴァイオリニスト。言わずと知れたW.A.モーツァルトの父は、バイオリニストとして、そしてその奏法について初となる理論書バイオリン奏法(Versuch einer gründlichen Violinschule)を1756年に著した。子女Maria Anna、Wolfgang Amadeusの音楽教育に情熱を注ぎ、その才能を開花させた。
【音楽の部屋|L.モーツァルト】英才教育者は偉大なヴァイオリニスト
0049ドイツ連邦共和国出身
1710-1784を生きた作曲家。J.S.Bachの長男であり、ドレスデン・ソフィア教会やハレ・マリア教会でオルガニストとして活躍。大バッハの子の中でも音楽才能は高く天才肌でありながら、父没後は波乱に満ちた生涯を送り孤独と貧困をたたかったとされている。ドレスデンのバッハ、ハレのバッハとも呼ばれる。
【音楽の部屋|W.F.バッハ】大バッハの長男
0043オーストリア共和国出身
1797-1828を生きた作曲家。それまで器楽曲が絶対の時代に、ライヒャルトそしてゲーテなどが草創したリート(歌曲)を継承し、詩と音楽の見事な調和により芸術分野にまでその価値を高めた。その作曲数は600曲を超え、その作品1として18歳で完成させた魔王(D328)はゲーテの詩を用いたリート代表作品となっている。器楽曲作品では交響曲未完成(D759)が圧倒的な存在感を今も聴く人に与える作品。31歳10ヶ月で早世したその才能はシューマン、ブラームスにロマン派音楽として受け継がれることになる。
【音楽の部屋|シューベルト】歌曲を最高の芸術に高めた作曲家
0041スイス連邦出身
1712-1778を生きた哲学者であり文学、音楽家。1750年ごろからフランスで編纂された大規模な 百科事典「百科全書」の音楽項目を担当。1752年にはフランス文化を二分することになるブフォン論争でラモーらの支持するフランス伝統のオペラ派に対してイタリアで人気を博していたコミック・オペラを支持した。日本との関わりも多く、明治時代の自由民権運動で中江兆民がルソーの唱えた社会契約論(1762)を用いている。またルソー自身の自伝「告白録」は日本の自然主義文学に影響を与えている。
【音楽の部屋|ルソー】イタリア派で参戦したブフォン論争
0049ドイツ連邦共和国出身
1714-1788を生きた作曲家。父大バッハ、そして父の友人であったテレマンより英才教育を受け、フリードリヒ2世の宮廷チェンバリスト、そしてテレマンの後を継ぎハンブルク教会音楽監督として活躍した。その才能は一家の中で最高峰と称され、古典派初期のドイツ音楽を担った。 1753年(1762年増補)に著したVersuch über die wahre Art, das Klavier zu spielenは鍵盤楽器奏法の教科書として、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンもこれを用いて学んだとされる。 「ベルリンのバッハ」または「ハンブルクのバッハ」とも呼ばれている。
【音楽の部屋|C.P.E.バッハ】バッハ家No.1の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1749-1818を生きた作曲家でありオルガニスト。The University of GöttingenよりAllgemeine Geschichte der Musikにて学位を取得し、同大学における音楽プログラムに携わり音楽教育をおこなったことから音楽学の創始者の一人と位置付けられている。Lorenz Christoph Mizler(1711-1778)に次ぐJ.S.Bach研究を行い、Über Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke(1802)を著し、バッハ研究の礎となっている。
【音楽の部屋|フォルケル】J.S.Bach研究の第一人者
0007ロシア連邦出身
1752-1814を生きた作曲家。シューベルトが開花させたリート(Lied)の草創期を創り上げ、音楽のみならず18世紀末から19世紀初頭のドイツ文化、特にドイツ・ロマン派の文学に大きな影響を与えた。その交友関係は広く、文学者J.Wゲーテ(1749-1832)と共同でオペラやリートなど音楽作品を制作。ゲーテの戯曲『エグモント』にヴェートーヴェンと同じく音楽を提供している。E.T.Aホフマン(1776-1822)などのドイツ・ロマン派へ音楽の世界を紹介した。宮廷楽長としての仕事にとどまらず、音楽評論や雑誌編集、民衆教育、社会政治など幅広く活動した。
【音楽の部屋|ライヒャルト】ドイツ文化を築いた作曲家
音楽の部屋-
1935-2024を生きた指揮者。ボストン交響楽団(BSO)音楽監督やウィーン国立歌劇場の客演指揮者を歴任し、東アジア圏から世界に通じた音楽家の先駆者となる。
【音楽の部屋|小澤征爾】Groundbreaking Japanese Conductor
0039イタリア共和国出身
1747-1800を生きた作曲家。ドイツの子守唄であるMatthias Claudiusの詩Abendlied(Der Mond ist aufgegangen)やクリスマスキャロルIhr Kinderlein, kommetへメロディを作曲したことで現在もその名を響かせている。ベルリンで活躍したのちに、デンマーク王立宮廷指揮者としてコペンハーゲン音楽の発展に尽力した。いまでもドイツ北部の町リューネブルク市庁舎にある塔上のマイセン焼き鐘楼よりシュルツ作品が毎日奏でられている。
【音楽の部屋|シュルツ】口ずさまれるドイツ音楽の作曲家
0039イタリア共和国出身
1743-1805を生きた作曲家でありチェリスト。コントラバス奏者である父の影響を受け、チェリストとしてデビュー。その後当時のスペイン王の弟ルイス皇子(第13代チンチョン伯)の作曲家兼奏者となり、その後スペインで生涯を送った。ルイス皇子の死去後はプロイセン王に作品を献呈していたとされる。チェロ用の協奏曲やソナタを数多く残し,特に弦楽四重奏曲にチェロを加えた弦楽五重奏曲は100曲以上あり、その作品は当時のハイドンを二分するほどの人気を得ていたとされている。チェロ2挺編成によるString Quintet in E major, Op. 11, No. 5はボッケリーニの代名詞となっている。
【音楽の部屋|ボッケリーニ】忘れ去られたチェリストの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1759を生きた作曲家。父の目を盗んで音楽を学び、オルガニストとしてその才能を開花させ、オペラに関心をもつ。その後イタリアでさらに才能を深化させ、後のジョージ1世のカペルマイスターとなり、生涯英国音楽、とくにオラトリオで活躍した。そのジョージ1世の特注により作曲したWater Musicは西洋音楽で人気の高い音楽を寄せ集めテムズ川をヘンデル色で染め上げる成功を収めた作品となった。
【音楽の部屋|ヘンデル】屋外コンサートは船遊びで
0049ドイツ連邦共和国出身
1741-1801を生きた作曲家。18世紀後半のスウェーデン音楽発展に尽力した一人。ヴェネツィアで音楽を学び、生まれ故郷のドレスデンで活躍したのち、1777年にスウェーデン王立楽団のメンバーとなり宮廷礼拝堂の再建を遂げた。その後1782年スウェーデンオペラの歴史を飾るCora och Alonzoで大成功を収め、その名を刻んだ。
【音楽の部屋|ナウマン】スウェーデン音楽を築いた作曲家
0039イタリア共和国出身
1740-1816を生きた作曲家。オペラ・ブッファの分野で活躍し、エカチェリーナ2世から招聘を受け約8年間ロシアで作曲活動を行う。その間に1782年Le barbier de Sévilleを作曲しペテルブルクで初演を飾る。帰国後、ナポレオン政治に翻弄された。生涯の作品は、オペラ80曲を超え、宗教曲やハープシコード協奏曲を含む器楽曲など多岐にわたった。
【音楽の部屋|パイジエッロ】ロシアを魅了したナポリ作曲家
0099420チェコ共和国
1739-1813を生きた作曲家。古典派の伝統とロマン主義の初期の要素を融合し独創性と技巧的と称されている。その作品は印刷楽譜として多く出版され世界中で演奏された。歴史に名を残す偉大な作曲家4人が結成した弦楽四重奏団の一人としてチェロを担当した。
【音楽の部屋|ヴァンハル】世界最強の弦楽四重奏団の一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1731-1798を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。マンハイムで栄えた前古典期の重要な楽派の一つマンハイム楽派の中心人物として活躍し、交響曲をはじめ、協奏曲、室内楽曲そしてバレエなどの多数の作品を残した。また若きW.A.モーツァルトとの年の差を感じさせない信頼関係は、その後の作曲家人生に大きな影響を与えたとされる。
【音楽の部屋|カンナビヒ】マンハイム楽派の巨匠
0099420チェコ共和国
1722-1795を生きた作曲家。ボヘミアで音楽教育を受け、1750年からフリードリッヒ3世(Sachsen-Gotha-Altenburg)の宮廷楽団指揮者として活躍した。イタリア留学でルイーゼ・ドロテア公爵夫人へ捧げたイタリア様式オペラ『Xindo riconnosciuto』頭角を現し、その後メロドラマ形式を取り入れ、この分野で多くの作品を手がけた。その中でもAriadne auf Naxosは最高傑作と称されている。この作品をモーツァルトは大絶賛しベンダの大ファンになったと伝わっている。またDas tartarische Gesetzなどジングシュピールの作品も残している。
【音楽の部屋|ベンダ】メロドラマの巨匠
0033フランス共和国出身
1727-1810を生きたバレエマスターでありバレエ理論家。古典的な宮廷バレエにパントマイムや感情表現を取り入れ、バレエに革新をもたらした。それはBallet d'actionと呼ばれ、20世紀初めに確立したモダンバレエの前身であり、ノヴェールはモダンバレエの祖とも称されている。1760年出版されたLettres sur la danse et les valleysよりバレイ芸術革命の火蓋が落とされたとされる書。
【音楽の部屋|ノヴェール】モダンバレエの祖
0032ベルギー王国出身
1741-1813を生きた作曲家。イタリアでオペラを学び、18世紀のフランスで特にオペラ・コミックの分野で人気を博す。その時代背景を風刺し、親しみやすいメロディや軽妙な表現は当時のフランス社会や文化に染まる。
【音楽の部屋|グレトリ】時代を風刺したオペラコミック
0049ドイツ連邦共和国出身
1718-1795を生きた作曲家であり音楽理論家。音楽のあらゆる分野でその才能を発揮した。その中でも音楽理論書Die Abhandlung von der Fugeはフーガに関する原則や技法を解説し形式、構造など理論的に著し、当時の作曲家たちに大きな影響を与えたとされている。
【音楽の部屋|マルプルク】フーガを科学した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1714-1787を生きた作曲家。イタリア様式オペラ(オペラ・セリア)をベースに、当時フランスでブームを起こしたオペラ・コミックをウィーン様式に変革、そしてブフォン論争で揺れたフランス・オペラ界に音楽と演劇の融合を目指し「Iphigénie en Tauride」を作曲し大成功を収め、この論争に終止符を打つ作品となる。グルックの無意味な音楽的装飾や、歌い手の技巧といった重厚感より、単純で明快でそして自然な表現を重視した結果であった。そして18世紀のオペラ改革の先駆者としてその名を残している。
【音楽の部屋|グルック】モーツァルトに繋ぐオペラ改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1704-1759を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。ドレスデン宮廷歌手として、後にフリードリヒ2世の宮廷楽長として活躍した。作曲家としてイタリア様式オペラや宗教音楽を手がけ、南ドイツの豊かな国際性とは対照に、北ドイツ音楽の気質に影響を受けていたとされる。その楽曲は重厚で閉鎖的な傾向があり、バロック時代の北ドイツ音楽の伝統を反映している。1755年に作曲された受難曲イエスの死は19世紀までの約150年間で最も演奏された作品とされている。兄Johann Gottlieb Graunも作曲家として活躍し兄弟でベルリン音楽史にその名を刻んでいる。
【音楽の部屋|グラウン】北ドイツ音楽を繋いだ作曲家
0033フランス共和国出身
1697-1764を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。フランス・バロック期に活躍しルイ15世時代の宮廷音楽団のメンバーをつとめた。1764年に現在も未解決の事件でこの世を去った。その謎はGérard GefenのL’Assassinat de Jean-Marie LeclairやJaume CabréのConfiteorの題材となっている。
【音楽の部屋|ルクレール】謎の死を遂げたヴァイオリニスト
0049ドイツ連邦共和国出身
1687-1755を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。ドレスデン・バロック期最高峰のヴァイオリニストとして名高い。その奏法はもちろんのこと、人柄や指導力に優れ、ドイツ音楽史にその名を刻んでいる。J.S.Bach、G.P.Telemannなどに影響を与えイタリア留学時にはVivaldiとの親交により曲が捧げられたエピソードも伝わっている。
【音楽の部屋|ピゼンデル】ドレスデン・バロックの名手
0048ポーランド共和国出身
1687-1750を生きた作曲家でありリュート奏者。リュート演奏一家に育ち、フランスで再興されていた新たなリュート(バロック・リュート)をドイツで演奏し、その奏でる音色はJ.S.Bachの耳にも留まり競演を行うなど、その新たなリュートと共に自身の存在を高めた。
【音楽の部屋|ヴァイス】バロックリュートのヴィルトーソ
0049ドイツ連邦共和国出身
1684-1748を生きた作曲家でありオルガニスト。ドイツ語で初めて書かれた音楽辞典Musicalisches Lexicon oder musicalische Bibliothecを1732年に著し、その後の基盤をつくる。J.S.バッハとは親戚でありバロック期音楽を共に歩んだ。
【音楽の部屋|ヴァルター】大バッハと歩んだバロック
0049ドイツ連邦共和国出身
1681-1764を生きた作曲家でありオルガニスト。ハンブルク・オペラ歌手としても活躍した。ハンブルク大聖堂音楽監督やホルシュタイン公宮廷楽長などの要職を務めた。中年期に難聴を患うが音楽理論家として活動し、1739年にDer vollkommene Cappellmeisterを著す。ヘンデル(1685-1759)と終生の友情を築き、1761年にはGeorg Friedrich Händels Lebensbeschreibungをヘンデルの伝記としても残している。
【音楽の部屋|マッテゾン】ヘンデルの大親友
0033フランス共和国出身
1674-1763を生きた作曲家でありフルート奏者。フルートやリコーダーなどの木管楽器制作家系であるオトテール一族に生まれ、室内楽に適した木管楽器の制作、演奏法の開発、そして作曲を手がけた。
【音楽の部屋|オトテール】一族一のフルート奏者
0039イタリア共和国出身
1752-1832を生きた作曲家でありピアニスト。幼少から楽才を認められロンドンで英才教育を受け、世界で最初のピアニストとしてその名を馳せる。1781年ウィーンでモーツァルトと競演し、そのピアノ表現力は人々を魅了したとされている。そして簡潔かつスケールの大きいソナタは後のベートーヴェンに影響を与えた。イギリスでピアノ製造業や楽譜出版にも携わり、後進の育成にも携わった。ピアノ・ソナタやトリオなど70曲以上を作曲。晩年の著したGradus ad Parnassum(1826年)は演奏技法の基本を成す教本として今日でも高い評価がなされている。
【音楽の部屋|クレメンティ】世界最初の名ピアニスト
0039イタリア共和国出身
1710-1736を生きた作曲家。ナポリ楽派オペラで活躍し、その中でもオペラ・ブッファ領域を切り開いた。1732年Lo frate 'nnammoratoで大成功を収め、翌年1733年にはフランスにおけるフランスとイタリアのオペラの優劣を争うブフォン論争(1752年)を引き起こすほどの傑作となったLa serva padronaはペルゴレージの最高傑作となった。それらの作品は巧みな心理描写で劇的な効果を生み出し、その後のイタリア・オペラの先駆けとなる。26歳で早世した。
【音楽の部屋|ペルゴレージ】ブフォン論争の原点
0039イタリア共和国出身
1700-1775を生きた作曲家。交響曲の先駆者であり、バロック末期から古典派期への作曲に影響を与えた。それまでオペラ序曲として用いられていた3楽章に、サンマルティーニ独自のアレンジを加えのオペラから独立した3楽章で完結する交響曲の構成を導入した。
【音楽の部屋|サンマルティーニ】交響曲の先駆者
0099386スロベニア共和国出身
1692-1770を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。Violin Sonata in G minorは夢の中で悪魔と契約を結んだ作品と非凡な技巧や感情表現を示した背後にある起源を象徴化したエピソードが伝わっている。そのヴァイオリンは卓越した速度、そして聴き手を魅了する構成と相まって難易度の高い曲とされる。18世紀ヴァイオリン黄金期を築いた一人。
【音楽の部屋|タルティーニ】悪魔と契約したヴァイオリニスト
0039イタリア共和国出身
1685-1757を生きた作曲家。オペラとカンタータにを確立させた第一人者の父(アレッサンドロ)と同じく音楽の道に進み、出身地ナポリで作曲家のキャリアをスタートさせ、その後ポルトガル王女マリアの音楽教師となり、その関係はマリアがスペイン王妃となった以降も続いた。555曲に及ぶチェンバロのための練習曲集Sonate per tastiera di Domenico Scarlattiは当時のレベルの高さが再発見される作品集と評価されている。
【音楽の部屋|D.スカルラッティ】親子二代の作曲家
0039イタリア共和国出身
1678-1741を生きた作曲家。コンチェルト(協奏曲)の形作りソリストと楽団のための音楽を確立した。特にヴァイオリン協奏曲は現在もなお高く評価され、1725年発表したLe quattro stagioni(四季)は四つのヴァイオリン協奏曲で構成され、季節ごとの情景を描写しソリストとオーケストラとの対話が際立っている。1711年にアムステルダムで最初に出版されたL'estro armonicoは自身初の協奏曲集であり、J.S.Bachの後の作曲活動に大きな影響を与えたとされている。
【音楽の部屋|ヴィヴァルディ】協奏曲を築いた作曲家
0033フランス共和国出身
1683-1764を生きた作曲家でありクラヴサン奏者。フランス古典主義音楽の第3世代に位置付けられ、オペラ、バレエの分野で特筆した活躍を行う。1722年に著した「Traité de l'harmonie réduite à ses principes Naturels」は音楽を科学的にアプローチし音楽理論の発展に当時寄与した論文となった。フランス歌劇を守る正統主義側に立ち、イタリア音楽擁護の百科全書派と対立したブフォン論争の中心人物であった。
【音楽の部屋|ラモー】フランスオペラを愛した作曲家
0033フランス共和国出身
1668-1733を生きた作曲家。ルイ王朝末期に最も活躍したチェンバリストであり、クラヴサン楽派の頂点を極めた。フランスにおける鍵盤楽器のための小品集OrdresやPièces de clavecinは宮廷、社交場で奏でられる作品として作曲。その軽快で柔らかい、繊細で優美な音楽は、複雑で重厚なバロック音楽からロココ時代の幕開けとなった。フランソワのオルドルは現在もクラヴサン奏者の手本であり、その教えは音楽教師の在り方でもあった。
【音楽の部屋|クープラン】クラヴサンの頂点を極めた作曲家
0044英国出身
1557-1602を生きた作曲家。英国における音楽の父ウィリアム・バードに学び、イタリアマドリガルを基として英国独自のマドリガルを創り出した。イギリスの音楽印刷はバードとタリスの独占であったが、マドリガルをはじめとする一部の音楽の出版を許可され、モーリーの音楽は広く知られるようになった。実践的で対話形式で綴られた音楽入門書Plaine and Easie Introduction to Practical Musickeを1597年に著し現在も高い評価を得ている。
【音楽の部屋|モーリー】英国版マドリガルを築いた作曲家
0044英国出身
1505-1585を生きた作曲家。ヘンリー 8 世、そしてその子であったエドワード 6 世、メアリー 1 世、エリザベス 1 世のチャペル・ロイヤルを務めた。その各時代においてそれぞれの宗教音楽を作曲し、英語で書かれた作品が残されていたことからプロテスタント教会音楽の作曲家とされていたが、その後ラテン語で書かれたカトリック音楽が発見され、チューダー朝の最高峰の作曲家として再評価された。当時活躍したウィリアム・バードは弟子であり同僚であった。
【音楽の部屋|タリス】王室に対応した偉大な作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1681-1767を生きた作曲家。バロック期から古典派の時代に活躍。アイゼナハ宮廷楽長として赴任し、当時ワイマール宮廷オルガニストのJ.S.バッハと親交を深める。その後ハンブルクに移り、ハンブルク・オペラの監督を兼務。国際的な作曲家として名を広める。その作曲は多種多作であり、3000曲以上とも言われている。器楽曲室内音楽としてターフェルムジークに適する音楽の分野では世界が最も称賛する作曲家の一人。バッハ家との関係も深く、C.P.E.バッハの名付け親であり、J.S.バッハ亡き後は代父としての存在であった。その自伝は文学家としても評価されている。
【音楽の部屋|テレマン】知られざる大作曲家
0043オーストリア共和国出身
1660-1741を生きた作曲家。ウィーン・ショッテン教会やシュテファン大聖堂のオルガニストを歴任し神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇后(ハンガリー王妃)の楽長をはじめとして、レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世といった3代の皇帝に仕えた。オペラ、オラトリオ、パルティータを含む多くの作品を残す。教会音楽における対位法の理論書『Gradus ad Parnassum』(1725年)は、理論と実践が教師と生徒の対話形式で綴られ、その教育的なアプローチと理論は、その後の音楽教育に大きな影響を持った。J.Sバッハもこの理論書で学び、作曲家としての基礎を築いたとされている。
【音楽の部屋|フックス】大バッハが学んだ教科書の著者
0039イタリア共和国出身
1600-1683を生きた作曲家。オルガニストとして第10代神聖ローマ皇帝の寵愛を受け宮廷で活躍した。また19世紀ロマン派の多くの作曲家が取り入れた標題音楽を、17世紀バロック期に器楽分野でAria bizarraなどのサヨナキドリ(nightingale)の鳴き声を描写し音画的要素とした。Canzon uber das Henner und Hannergeschreyでは雄鶏と雌鶏を描写したとされている。
【音楽の部屋|ポリエッティ】標題音楽器楽曲分野の祖
0039イタリア共和国出身
1653-1728を生きた作曲家であり外交官。祖国イタリアで音楽の研鑽を積み、その後ドイツに渡りオルガニスト、宮廷楽長などをつとめた。その作曲は後のドイツ音楽家に影響を与えたとされている。
【音楽の部屋|ステッファーニ】ドイツオペラ礎を築く作曲家
0039イタリア共和国出身
1660-1725を生きた作曲家。オペラとカンタータにDa capo aria形式を確立させた第一人者である。その作曲活動はソナタ、モテット、ミサなどあらゆる音楽を手がけていた。スペイン大使に帯同したナポリで音楽教育を行ったことからナポリ楽派の祖と称されている。
【音楽の部屋|スカルラッティ】ダ・カーポ・アリアを確立した作曲家
0039イタリア共和国出身
1653-1713を生きた作曲家でありバイオリニスト。Accademia Filarmonica di Bolognaに17歳で入団。ヴァイオリニストとしての才能を認めらSan Luigi dei Francesiなどで活躍した。この17世紀バロック期においてコンチェルト・エクレシアスティコ(教会音楽)とコンチェルト・ディ・カメラ(室内楽)の両場面での音楽が高まり、それぞれ教会ソナタ、室内ソナタを完成させた作曲家として名を馳せている。
【音楽の部屋|コレッリ】教会・室内ソナタを完成させた作曲家
0039イタリア共和国出身
1632-1687を生きた作曲家。フランス宮廷に雑用係として仕事を得て、そこから音楽の才能を活かし研鑽を積む。そしてルイ14世に音楽家として認められ1661年フランス国王室内音楽隊総監督に任命される。その結果、宮廷の世俗音楽の支配権を握った。1672年に王立音楽アカデミー(オペラ座)の開設権を得てからは劇作家フィリップ・キノーと組み数多くのオペラを作曲する。これは事実上フランス・オペラの創始者となったことを意味した。
【音楽の部屋|リュリ】フランスオペラ界で頂点をつかんだ作曲家
0044英国出身
1623-1686を生きた楽譜出版者。The English Dancing Masterを1651年に出版。英国のカントリーダンスとその音楽の教本として出版。これは17世紀の英国におけるダンスと音楽のスタイルを保存し、後世に伝える役割を果たした。その後The Dancing Masterとして1728年まで24版が発行されている。
【音楽の部屋|プレイフォード】how to dance で大ブレイク
0044英国出身
1612-1706を生きたリュート奏者であり音楽理論家。約70年にわたりChoir of Trinity College, Cambridgeで活躍していたと記録されている。1676年には音楽理論と実践の指南書「Musick's Monument 」を著した。演奏慣習や楽器の使い方など、当時の音楽に関する貴重な資料となっている。
【音楽の部屋|メイス】英国バロック音楽の理論家
0039イタリア共和国出身
1595-1647を生きた音楽学者。古典音楽や音楽理論をフィレンツェ大学で研究を行った。その音楽理論を集約した「Compendio del trattato de' generi e de' modi della musica」を1635年に著した。また当時フィレンツェで初めて興ったオペラ様式にも強い関心を持ち、最新の音楽理論から先駆的な研究を行い、その後の音楽と舞台芸術の融合となるオペラ発展に寄与した。
【音楽の部屋|ドニ】理論で支えたバロック音楽
0039イタリア共和国出身
1525-1594を生きた作曲家。ルターの唱えた宗教改革以降、伝統か改革かを迫られたローマ・カトリック教会音楽。その高位聖職者の心を掴んむ歌詞を重視したポリフォニーでカトリック宗教音楽界の頂点に達した。晩年には最高傑作と称えられるCanticum Canticorum を1584年に完成させた。モテットをベースに当時の権力者であったローマ教皇への進言でもあったとされる作品とされる。
【音楽の部屋|パレストリーナ】ポリフォニー作曲の巨匠
0034スペイン王国出身
1582-1643を生きた作曲家。独自のポリフォニーをスペインバレンシアに開花させ、ミゼレーレ(Psalm 51)を18声以上で書き上げた。スペイン伝統のフラメンコにおける2つのパートで構成されていたビジャンシーコを3つのパートで構成する画期的な変革をおこなったことでもその名を残している。
【音楽の部屋|コメス】ビジャンシーコに変革をもたらした作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1585-1672を生きた作曲家。留学先のヴェネツィア楽派ジョヴァンニ・ガブリエリに師事、帰国後宮廷音楽の発展に尽力した。ドイツ語で表現したPsalmen Davidsを1619年に発表。ヴェネツィア楽派由来の豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させたことは特筆する偉業であった。またドイツにおける最初のオペラと伝わるシュッツ作のダフネはオペラと呼べる作品であったかについて現在検証されている。
【音楽の部屋|シュッツ】大バッハへ繋ぐドイツ音楽の父
0039イタリア共和国出身
1583-1643を生きた作曲家。サン・ピエトロ大聖堂オルガニストとして生涯活躍し、新たなカンツォーナやトッカータを表現し、初期バロック音楽の草分けとなる。フレスコバルディを師と仰いだフローベルガー(1616-1667)の流れを南ドイツ・オルガン楽派と呼ばれている。
【音楽の部屋|フレスコバルディ】南ドイツ・オルガン楽派の祖
0049ドイツ連邦共和国出身
1571-1621を生きた作曲家。著書Syntagma musicum(音楽大全は3巻(当初は全4巻の予定と伝わっています)を発行した最古の音楽事典とされ,その第2巻は当時の楽器についての記述があり当時の貴重な資料となっている。1612年に発表した300以上の舞曲を編曲した「Terpsichore」はフランスを中心としたダンスミュージックに用いられていたと考えらている。
【音楽の部屋|プレトリウス】学者肌の作曲家
0041スイス連邦出身
1486-1542を生きた作曲家。フランドル楽派第2期に活躍した巨匠ハインリヒ・イザークに学び、中世ドイツの旋律や和声法を取り入れた多声歌曲で多くの作品を残した。フランドル楽派とドイツ音楽の融合した作曲活動は後のルネサンス期音楽に大きな軌跡を残した。
【音楽の部屋|ゼンフル】フランドル楽派とドイツ音楽の融合
0039イタリア共和国出身
1567-1643を生きた作曲家。ルネサンス音楽からのバロック音楽の時代を作り上げる。伝統あるサン・マルコ大聖堂の楽長を1602年よりつとめ、1607年に初演されたオルフェオを作曲し注目を集め、バロック時代のオペラ到来となる。モンテヴェルディの最高傑作であり、バロックオペラを代表するオペラポッペーアの戴冠は今でも人々を魅了する演目となっている。
【音楽の部屋|モンテヴェルディ】オペラを開花させた作曲家
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1562-1621を生きた作曲家。フランドル楽派最後の巨匠と位置付けられており、詩篇やモテットなど数多くの作品を残した。またオランダ国内にとどまらず、北ヨーロッパにその名を響かせ、特に多くのドイツ人オルガン奏者を育て上げた功績により「ドイツのオルガニスト育成の父」と称されている。また単一主題と三部構成から成るファンタジアは、のちのバロック期に人気を博したフーガへ発展したとされる。
【音楽の部屋|スウェーリンク】フランドル楽派最後の巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1562-1612を生きた作曲家。ヴェネツィアでウィラートに師事してたガブリエリにから音楽を学び、その後アウクスブルク、ニュルンベルク、ドレスデンで活動。ヴェネツィア楽派のスタイルに独自の音楽スタイルを築き上げた。ルネサンス後期のドイツ音楽をリードした一人。
【音楽の部屋|ハスラー】母国に捧げるドイツ音楽
0044英国出身
1562-1628を生きた作曲家。エリザベス1世らに仕えオルガニストとして活躍。特に鍵盤楽器のための作品を多く残した。その一方でブルの生涯には謎が多くまとわりつく。その謎は女王陛下のためのスパイ活動を行っていたのではとの憶測も広がっている。そして1613年母国英国を離れその後、アントワープ大聖堂のオルガニストとして活躍した。
【音楽の部屋|ブル】謎めく作曲家
0039イタリア共和国出身
1553-1599を生きた作曲家。イタリア・ルネサンス期における宗教音楽が中心だったローマやベネチアと一線を画した、世俗音楽としてマドリガーレ作曲家として特に活躍する。その作品は美しい旋律や感情豊かな表現で人々を魅了した。
【音楽の部屋|マレンツィオ】伊出身・後期マドリガーレの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1559-1625を生きた作曲家であり音楽理論家。アウグスブルクの聖ウルリッヒと聖アフラの修道院で音楽を学び、キリスト教音楽の指導者カントルをつとめた。その後音楽理論を論文として「Compendium musicae」を 1591 年に執筆。1681年までに13 版ヨーロッパ全土で教科書として発行されて、その影響は偉大であったとされている。
【音楽の部屋|グンペルツハイマー】対立を回避させた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1553-1611を生きた作曲家。教会少年合唱団からラッソ率いるバイエルン宮廷楽団の団員となり師事する。その後ヴェネツィアではメルーロにも師事した。ケーニヒスベルクとベルリンの宮廷楽長として約250の宗教音楽などを中心に作曲しました。彼は初期バロック・プロテスタント教会音楽の発展に活躍した。
【音楽の部屋|エッカルト】プロテスタント教会音楽の巨匠
0039イタリア共和国出身
c.1550-1605を生きた作曲家。宗教音楽やマドリガーレでルネサンス期に活躍し、特にマドリガルコメディの分野でその名を刻み音楽劇の先駆けとなった。その作品「L'Amfiparnaso」は1597年ヴェネツィアで出版された。このマドリガルコメディは見て楽しむものではなく、聴く喜劇であると考えられている。
【音楽の部屋|ヴェッキ】音楽劇の先駆け作曲家
0034スペイン王国出身
1528-1599を生きたスペインの宗教音楽の黄金時代を代表する作曲家。ルネサンス期からバロック期にかけてスペインのアンダルシア地方で活動したアンダルシア楽派(Escuela Andaluza)の一人。宗教音楽だけではく、世俗的な音楽(歌曲や器楽曲)も残す。
【音楽の部屋|ゲレーロ】アンダルシア楽派の一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1581-1634を生きた作曲家でありオルガニスト。ニュルンベルクでもっとも古い教区教会の聖ゼーバルト教会でオルガニストを生涯つとめた。さまざまなスタイルのモテットを作曲し17世紀を代表するニュルンベルク楽派の創設者とも称される。
【音楽の部屋|シュターデン】ニュルンベルク楽派の創設者
0049ドイツ連邦共和国出身
1494-1576を生きた詩、音楽を教示するマイスターシンガーであり、本職は靴職人。マルティン・ルターの宗教改革に賛同し、ドイツ語で書いたDie Wittenbergisch Nachtigallは、当時の宗教的な議論や出来事を風刺的に描写し後押しとなる作品となった。後にリヒャルト・ワーグナーはハンスを主人公として楽劇"ニュルンベルクのマイスタージンガー"を作曲している。
【音楽の部屋|ザックス】マイスターシンガー筆頭
0039イタリア共和国出身
c.1377-1445を生きた作曲家であり詩人。恋人の夜明けの別れの嘆きをテーマとした"ターゲリート"のジャンルで活動を行う。独自のスタイルでその作曲数は100編以上と伝わる。その作風は、愛の成就、時折別れや悲哀の描写を織り交ぜ、その豊かな表現力は詩人としての一面も。15世紀の音楽と文学史にその名を残している。
【音楽の部屋|ヴォルケンシュタイン】後朝の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1483-1546を生きた神学者であり作曲家。教皇の教義・権威によらないキリスト教信仰の自由や聖書に書かれている教えを信奉することを唱え、95ヶ条の論題を教会のドアに掲示して宗教改革を行う。その改革の一つとして、それまでラテン語であった教会音楽を母国語の歌詞に翻訳し、聖書の言葉を理解しやすい言語で歌い、賛美すること目指しプロテスタント音楽の礎を築く。
【音楽の部屋|ルター】母国語で行った宗教改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1488-1548を生きた作曲家であり印刷技術者。トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)のキリスト教音楽指導者として活動した。宗教改革指導者であったマルティン・ルターを支持しルター派楽譜の普及に尽力する。またラウは印刷業も営み、楽譜印刷を通じて幅広くプロテスタント教会音楽の発展に寄与した。
【音楽の部屋|ラウ】作曲家であり印刷業者
0032ベルギー王国出身
1532-1594を生きたその美声から幼少期に誘拐の逸話が残るほどの作曲家。ヨーロッパ各地で活動し、ミラノやナポリで経験を積む。その後ミュンヘン宮廷楽団長となり終身活躍した。ミサ曲やモテトゥス、マドリガーレなど2000曲以上の多彩な作品を残し、宗教曲ではルネサンス様式と劇的な表現の作風。特にミュンヘン宮廷でのアルブレヒト5世公と深い親交と相まって、ヨーロッパ中でそのラッソの音楽は高く評価された。アルブレヒト5世公が門外不出とした「7つの悔悛詩篇曲集」があり現在もなお語り継がれている。
【音楽の部屋|ラッソ】バイエルン公に認められた作曲家
0032ベルギー王国出身
1521-1603を生きた作曲家。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とその後継者ルドルフ2世時の宮廷音楽家としてその名を馳せた。そしてマドリガーレ後期のマドリガル作曲を司り、当時最も多くの作品を残した。その数は1100曲以上とも伝わっている。
【音楽の部屋|モンテ】後期マドリガーレの巨匠
0032ベルギー王国出身
1515-1565を生きた作曲家。音楽家としての才能を発揮するためイタリアへ渡り当時のサン・マルコ大聖堂楽長であったウィラートに師事し研鑽を積み、その後ウィラートを継ぎ同聖堂の楽長となった。特にルネサンス期のマドリガーレの分野でその名を響かせた。 ※出生年を1515年、出生地をベルギーとさせていただきます
【音楽の部屋|ローレ】中後期マドリガーレの巨匠
0039イタリア共和国出身
1517-1590を生きた作曲家であり音楽理論研究者。キオッジャ大聖堂で楽団員となりその後同聖堂のオルガニス、そしてサン・マルコ寺院の当時の楽団長エイドリアン・ウィラートに師事。その後1565 年より同寺院の楽長を終身つとめる。1558年にLe istitutioni harmonicheを著したことで西洋の数学的音楽理論の展開を進め16世紀最大の音楽理論家と称されている。
【音楽の部屋|ツァルリーノ】数学的音楽理論を提唱
0034スペイン王国出身
c.1500-1553を生きたルネサンス期の作曲家。アビラやプラセンシアの大聖堂での楽長として活躍し、その後パウルス3世の治めるローマ教皇庁聖歌隊歌手として活動。時代を反映した宗教曲を数多く残し当時のヨーロッパ音楽に影響を与えた。
【音楽の部屋|モラーレス】スペイン宗教音楽史を刻む作曲家
0039イタリア共和国出身
1533-1604を生きた作曲家兼オルガニスト。1556年にブレシア大聖堂、その後サン・マルコ大聖堂のオルガニストに就任し、30年以上にわたり作曲と演奏で活躍した。また多くの優れた後継者を育て、楽譜の出版も手がける。その偉業はベネチアの音楽文化に大きな影響を与えた。
【音楽の部屋|メールロ】オルガニスト伊の巨匠
0044英国出身
1543-1623を生きた作曲家。カトリック信仰であるバードは、プロテスタントを信仰するエリザベス1世の絶大な信頼を享受し宮廷楽団(チャペル・ロイヤル)としてオルガニストとして、またイギリス国教会のための宗教音楽、マドリガル、コンソート伴奏付き歌曲、室内楽、バージナル音楽、と当時のすべての音楽シーンで活躍した。その偉大さから英国における"音楽の父"と称される。
【音楽の部屋|バード】エリザベス1世に捧げた音楽人生
0033フランス共和国出身
1528-1600を生きたルネサンス期の作曲家。Musique mesurée(フランスの声楽作曲のスタイル)を発展させ、詩の韻律的な律動とリズムを結びつける新しい表現技法を開拓。その結果、クレメン・ジャネランが築き上げたシャンソンをさらに進化させ、新たな音楽的表現を確立。この功績はフランス音楽史に大きな足跡を刻みました。
【音楽の部屋|ル・ジュヌ】シャンソンを発展させた作曲家
0043オーストリア共和国出身
1459-1537を生きた作曲家でありオルガニスト。オーストリア宮廷、神聖ローマ帝国の宮廷で天才オルガニストとして名声を築いた。オルガニストとしてオルガンのための作品を多く手がけ、その才能はヨーロッパ全土に広がっていた。
【音楽の部屋|ホーフハイマー】偉大なオルガニスト
0032ベルギー王国出身
c.1450-1521を生きたフランス・フランドル楽派の作曲家であり、ルネサンス音楽期に活躍。対位法の巧妙な技術を用いて、旋律の美しさ、複雑さ、そして感情豊かな表現を特徴としている。ジョスカンの作曲が世に広まった背景の一つとして印刷技術の発展があり、それまで書写であった楽譜がペトルッチなどの印刷業者によって印刷した楽譜を出版可能となり、1502年にはジョスカンのミサ曲集が出版されている。
【音楽の部屋|ジョスカン】世界初出版された作曲家
0032ベルギー王国出身
c.1490-1562を生きたヴェネツィア楽派の作曲家。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長となり終生この職を務めた.宗教曲を中心に,器楽曲など多くの曲を残す。その代表モテット作品は「O magnum mysterium」でテクスチュアルな豊かさを放っている。
【音楽の部屋|ウィラート】ヴェネツィア楽派の祖
01北海道
1917-1996を生きた歌手。上京後頼る親戚の不渡りにより芸妓の道へ。浅草で清元を延千嘉、小唄を春日とよ、民謡を菊池淡水に学び、1934(昭和9)年3月より日東蓄音器(ニットーレコード、現:日本マーキュリー)専属歌手となり同年6月10日「水兵ぶし」などでラヂオデビュー。1937(昭和12年)年公開映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌として、同名曲と共に発売された「あゝそれなのに」が90万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手に上り詰める。 戦後は女剣劇四天王のひとり、中野弘子とコンビを組み競演。 ※水兵ぶしは、美ち奴、塩原秩峰のデュオ ※女剣劇四天王 不二洋子、大江美智子、浅香光代、中野弘子
【音楽の部屋|美ち奴】私も売れっ子鶯歌手
34広島県
1915-2011を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝大)卒業後、1年間教職につくが、その美声を買われ1936(昭和11)年にコロムビアより「愛の揺籃」でデビュー。その後「古き花園」「純情の丘」「新妻鏡」などのヒット曲を歌う。戦後、美しい低音で歌う「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「別れても」など数多くのヒット曲を出し戦前戦後と活躍。その歌唱力から「歌謡界の女王」と呼ばれた。終戦の年、慰問で広島を訪れ、8月6日帰りの列車(芸備線)がトンネルに入ったところで原爆が落ち、九死に一生を得た。本来は女の未練歌「フランチェスカの鐘」を鎮魂歌として歌った。
【音楽の部屋|二葉あき子】人柄宿る歌声
14神奈川県
1910-1999を生きた歌手。オペラ歌手を目指し、その後歌謡界に転身。列強日本色濃くなった1936(昭和11)年、「忘れちゃいやヨ」が発禁処分になり、日中戦争の翌年となる1938(昭和13)年にも「支那の夜」が検閲当局に指摘される。しかし日本兵士に圧倒的な支持を得て大ヒット。その後「蘇州夜曲」も大ヒットし李香蘭と人気を二分する国民的歌手となる。戦後の1952(昭和27)年、フィリピンのマニラ市郊外モンテンルパに抑留されていた日本人との交流によって生まれた「ああモンテンルパの夜は更けて」がレコード化され、大きな感動を呼ぶ。NHK紅白歌合戦第1回(1951年)紅組初代トリを戦後の大ヒット曲「桑港のチャイナ街」つとめた。
【音楽の部屋|渡辺はま子】激動昭和の歌姫
13東京都
1906-1976を生きた歌手。1933(昭和8)年、主婦の座からコロムビアに入社。「船頭可愛や」「下田夜曲」 「博多夜船」などのヒット曲を連発し小唄勝太郎などに並ぶ人気歌手となる。戦後、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である「五木の子守唄」は全国にその名が響いた。これは音丸が現地で見出したとされ古関裕而が採譜、音丸によってキングレコードよりレコード化された。
【音楽の部屋|音丸】主婦から人気歌手へ
15新潟県
1904-1974を生きた歌手であり葭町花街芸者。芸者姿で戦前の歌謡界に一時代を築く。1932(昭和7)年独特の節回し♪ハア〜で始まる「島の娘」は空前の大ヒット。そして33(昭和8)年夏にその前年に発売された都会的な盆踊り曲「丸の内音頭」に手を加えた「東京音頭」を三島一声とのデュエットで発売。その後、またなく間に全国に広がり。盆踊りといえば東京音頭と日本の盆踊りシーン定着。それまでの妓籍から一線を画し、小唄不二派の家元として小唄勝太郎が誕生した。
【音楽の部屋|小唄勝太郎】音頭ブームの火付け役
13東京都
1906-1981を生きた音楽家。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)1928(昭和3)年首席卒業。柳宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、ドイツ人声楽家のネトケ・レーヴェに師事。この時皇后陛下の前でのベートーベンの荘厳ミサをアルト独唱者として抜擢される。その後歌謡界でも活躍し「銀座の柳」は大ヒットとなる。また「美しい日本語で歌われる香り高い日本の歌を人々の中に波のように広げよう」という運動を起こし、国語学者の金田一春彦らに呼びかけて「波の会」を結成。現在の日本歌曲振興波の会となっている。 明治時代の初めに銀座の名物であったヤナギは、関東大震災で焼失するも佐藤千夜子の唄う「東京行進曲」に続き四家歌う大ヒット曲「銀座の柳」で復活を果たした。
【音楽の部屋|四家文子】昭和の声楽界大御所
01北海道
1911-1984を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)卒業、その後覆面歌手「ミス・コロムビア」として1933(昭和8)年浮草の唄でデビュー。同年松竹蒲田映画「十九の春」の主題歌を大ヒットさせコロムビアの看板歌手となる。その後生涯と共にするデビューまもない霧島昇と松竹映画「愛染かつら」の主題歌旅の夜風をカップリングし黄金期を迎えた。
【音楽の部屋|松原 操】覆面歌手ミス・コロムビア
02青森県
1907-1999を生きた歌手。日本のシャンソン界を先導した。愛称は「ブルースの女王」。当初ピアノ科であったが、その声に魅せられた白銀のソプラノと讃えられて荻野綾子に薦められ、声楽科に転入し1929年東京音楽学校(現、東京音楽大学)首席で卒業。その歌声は10年に一度のソプラノと話題をさらった。1937年服部良一作曲の別れのブルースが空前の大ヒット。その後も雨のブルース、東京ブルースと、ヒット曲を連発しブルースの女王の地位を確立した。永遠のモダンボーイの異名ももつディック・ミネを歌手として見出したことでも知られている。
【音楽の部屋|淡谷のり子】ブルースの女王はシャンソンの母
13東京都
1919-1981を生きた歌手。作曲家大村能章に弟子入りし、声楽を歌手四家文子の指導を仰いだ。戦後難関とされたビクターの新人歌手オーディションに合格し、その後歌手デビュー。1947年「港が見える丘」が大ヒット。またこれを受けて横浜を代表する公園「港の見える丘公園」が1962年5月に開園。園内には歌碑も設置されている。日本都市公園100選に選ばれている。その歌声は濡れたビロウド(魅惑の低音ボイス)と称されている。
【音楽の部屋|平野愛子】港が見える丘♪が由来!?
37香川県
1914-1985を生きた歌手であり俳優。不合格となった宝塚音楽歌劇学校を諦め、現在の日本歌劇学校の前身であった松竹楽劇部生徒養成所に入る。芸名を三笠静子とし1927年初舞台を踏んだ。その後、改称された大阪松竹少女歌劇(OSSK)の第一回公演「カイエ・ダムール」の主題歌として「恋のステップ」をリリース。その歌唱力とダンスで世間を圧巻した。戦後、戦前からシズ子の才能を認めていた服部良一作曲の「東京ブギウギ」が戦後日本において大ヒットとなり、ブギウギブームを巻き起こした。ブギとつく曲は全16曲を数え「ブギの女王」と称された。2023年秋放送の朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で描かれる。 ※1987年同じくNHKで放映された銀河テレビ小説「わが歌ブギウギ」でも同モデルとして描かれている。
【音楽の部屋|笠置シヅ子】美空ひばりを魅了したシンガー
07福島県
1910-1910を生きた歌手はピアニストの夢を諦めずに、上京後音楽学校編入。コロンビアレコードの所属し1933年デビューを果たす。その後戦火にあわせて軍歌を数々ヒットさせた。戦後は戦前からの同郷の友、古関裕而作曲「イヨマンテの夜」が大ヒット、高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」も古関裕而作曲で1948年に発売している。
【音楽の部屋|伊藤久男】エールに栄冠は君に輝く贈る
28兵庫県
1911-1998を生きた松竹京都撮影所の銀幕スターはその美声で「大江戸出世小唄」を大ヒットさせ歌手デビュー。"歌う映画スター”と称された。戦後はシリーズ「伝七捕物帖」で人気復活を果たす。
【音楽の部屋|高田浩吉】歌う銀幕俳優
36徳島県
1908-1991を生きた歌手はブルースの女王淡谷のり子に見出され、1935年「ダイナ」を大ヒットさせ、和製ジャスの草分け的存在となる。戦後も芸能界で活躍しその分野の親分的存在であった。脚本家ジェームス三木の名付け親でもある。
【音楽の部屋|ディック・ミネ】永遠のモダンボーイ
05秋田県
1908-1944を生きた歌手はサラリーマンを経て当時レコード歌謡人気で勢いのあった日本ポリドールに入社。ポスト東海林太郎と期待され1936年デビューを果たし人気歌手となる。1938年"上海だより"の歌いだし「拝啓 御無沙汰しましたが」は戦争の色濃くなる日本において東海林太郎を上回るヒットとなり当時の流行語にもなる。その後召集され35歳で戦死。
【音楽の部屋|上原 敏】エースの歌声は拝啓ご無沙汰
14神奈川県
1903-1942を生きた歌手は家業の医院を継ぐため医師を目指すも東京音楽学校に進学、音楽校教員からビクター専属歌手となり侍ニッポンが大ヒット。その後の♪とんとんとんからりん…と歌いだしの"隣組"はドリフの大爆笑のオープニング曲の原曲であり、CMソング替え歌としても採用され今耳にしても新鮮。声楽家(Bariton)としても活躍。
【音楽の部屋|徳山 璉】♪ド・ド・ドリフは私の曲
05秋田県
1898-1972を生きた遅咲きの歌手は大学卒業後、満州鉄道入社。その後夢であった歌手を目指しクラシック歌手としてデビュー。その後戦果の色濃くなる時と同じくしてヒット歌謡曲を連発し国民人気歌手の座を射止める。戦後は癌を患い闘病しながらも直立不動の姿勢、独特の髪型、特徴的なロイド眼鏡は健在、歌謡界初の紫綬褒章受賞をはたした。
【音楽の部屋|東海林太郎】その歌う姿は直立不動
0039イタリア共和国出身
1813-1901を生きたイタリアオペラ作曲家。自身3作目となる演目ナブッコの斬新的な旋律でまずはミラノ市民を魅了、その後イタリア統一運動の機運と相まってイタリア全土に支持され象徴的存在になる。このナブッコの第3幕2場で歌われる「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は第二のイタリア国歌と位置付けられ、その作者であるヴェルディはオペラ王と今も称えられている。
【音楽の部屋|ジュゼッペ・ヴェルディ】イタリア全国民の心に響く"Va, pensiero, sull'ali dorate"
0039イタリア共和国出身
1858-1924を生きたイタリアオペラ作曲家はテーマを人間をリアリズムを表現する作風。一度耳にすると口ずさむことのできる旋律で聴衆を魅了。未完でありながら代表作として名を馳せるトゥーランドッドの初回公演を指揮した生涯の右腕トスカニーニの指揮棒を落とす名場面はいまでもプッチーニの偉大さを象徴。
【音楽の部屋|ジャコモ・プッチーニ】一度耳にするとリフレインするイタリアオペラ作曲家
0039イタリア共和国出身
1792-1868を生きた初期ロマン派時代のオペラ界をリードした売れっ子作曲家。作曲の特徴は同じフレーズを徐々に音量を増やしながら繰り返し聴衆を魅了する。また彼の名を世界に今もなお響かせているのは美食家としての一面。特にフォアグラやトリュフを組み合わせた料理はロッシーニ風として今も食卓を彩っている。
【音楽の部屋|ジョアキーノ・ロッシーニ】作曲家と美食家どっちが有名?
0039イタリア共和国出身
1466-1532を生きた音楽家はリローネ(弦14本のヨーロッパ古楽器)の発明者。レオナルドダビンチを師と仰ぎ、リュート(有棹撥弦楽器)のスペシャリストとして活躍。またその歌声はルネッサンス期最高の歌唱力と称された。 20世紀に入りレオナルドの描いた肖像画(Portrait of a Musician)はミリオロッティとされています。
【音楽の部屋|アタランテ・ミリオロッティ】私の師はレオナルド
0039イタリア共和国出身
1750-1825を生きたイタリア出身のウィーン宮廷楽長は師であり親代わりの当時の宮廷楽長ガスマンに学び、その後ベートーヴェン、シューベルトといった世界的な音楽家を育てる音楽教育家としても名を残した。
【音楽の部屋|アントニオ・サリエリ】知られざる天才イタリア作曲家
0043オーストリア共和国出身
1736-1809を生きた古典派音楽の作曲家であり音楽教育者は親交のあった交響曲の父フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの依頼によりベートーヴェンの師となる。音楽を理論的思考で捉えていることから、ハイドンは作曲のベストティーチャーと称える。
【音楽の部屋|アルブレヒツベルガー】ベートーベンの師はベストティーチャー
0043オーストリア共和国出身
1756-1791を生きた古典派音楽の天才作曲家は35歳で早世。父レオポルドの英才教育を受け、その才能をさらに開花。そして古典派音楽(交響曲)の父と称されたフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとの出会いによって古典派音楽は絶頂期を迎える。
【音楽の部屋|モーツァルト】まさに天才作曲家
0043オーストリア共和国出身
1732-1809を生きた圧倒的な演奏時間と作曲数で交響曲の父と称される作曲家は、音楽が階級の高い人たちだけのものだった時代(バロック)から、市民にも手に届く時代(古典派)に活躍。そして楽曲形式のひとつ「ソナタ形式」を確立。
【音楽の部屋|ハイドン】市民による市民のための音楽をつくりました
0043オーストリア共和国出身
1908-1989を生きた20世紀世界を魅了した指揮者。解釈された音楽に対して演奏者一人一人の能力を最大限に引き出し、そしてその能力を調和させる卓越したリーダー的要素に加えて、その彼の存在自体がゲストのみならず開場一体を虜にする絶対的なカリスマ性で今もその人気は衰えず。
【音楽の部屋|カラヤン】孤高の指揮者・20世紀クラシック界の帝王
0001アメリカ合衆国出身
1901-1971を生きた「キング・オブ・ジャス」と称されたジャズトランペット演奏者。ニューオリンズ発祥のアフリカ系アメリカ人音楽だったジャズを世界に広げ存在感を高めた。その功績は人種の垣根を乗り越えるダイバーシティ先駆者でもあった。
【音楽の部屋|ルイ・アームストロング】King of Jazz Satchmo!!
0001アメリカ合衆国出身
1898-1937を生きた20世紀のアメリカ音楽史最も名を馳せた作曲家。初のクラシック作曲作品「ラプソディ・イン・ブルー」はアメリカで進化したジャズとヨーロッパ伝統のクラシックを化学反応させたアメリカンミュージックを確立。1935年に発表したオペラ「ポギーとベス」はいまも人気作品のひとつ。
【音楽の部屋|ジョージ・ガーシュウィン】アメリカンミュージックの生みの親
0001アメリカ合衆国出身
1927- を生きる屈指のソプラノ・リリコ・スピント歌手。メトロポリタン・オペラで初のアフリカ系アメリカ人として主演を演じた実力者はアメリカ文化に貢献した人に送られるケネディ・センター賞を1980年に受賞。
【音楽の部屋|レオンティン・プライス】メトロポリンタン・オペラに響かせた伝説の歌姫
0001アメリカ合衆国出身
1897-1993を生きたアフリカ系アメリカ人アルト(コントラルト)歌手。出身のアメリカ合衆国において人種問題をその歌声を武器に闘い革命を巻き起こす。そして敗戦後連合国統治から復帰した1953年に来日を果たし被爆地広島を含む全国ツアーを実施し、その歌声で日米の新たな歴史を繋いだ。
【音楽の部屋|マリアン・アンダーソン】歌声でダイバーシティを巻き起こす
0001アメリカ合衆国出身
1923-1977を生きた20世紀を世界を代表するソプラノ歌手。その人生は公私共に波瀾万丈。トップの座を射止めた歌声は完璧を追い求め、そして愛に翻弄される。2023年は生誕100年、そして2017年に公開された「私は、マリア・カラス」はマリアの未完の自叙伝を映画化。誰も知らないマリア・カラスに会えます。
【音楽の部屋|マリア・カラス】Maria by Callas
13東京都
1911-1997を生きた長唄唄方は豊かな歌唱力と深みある芸風で古典芸能の世界を継承。作曲活動も積極的に努められ、1987年重要無形文化財個人所有者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|杵屋佐登代】昭和の長唄唄方最高峰のひとりは人間国宝
13東京都
1909-1998を生きた日本舞踊流派のひとつ吾妻流を昭和に入り再興した家元。幼きころは7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事し踊りの基礎を学び、14歳で名取りは天才少女と囃し立てられた。
【音楽の部屋|吾妻徳穂】日本舞踊界の天才少女は吾妻流宗家・初代
26京都府
1905-2004を生きた井上流、井上八千代(四世家元 四代目) は寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始し、約二世紀の歴史を持つ祇園甲部の正式唯一の流派。京都の年中行事「都をどり」を1872年より開催。
【音楽の部屋|井上八千代(四世家元 四代目)】4月の風物詩「京都をどり」を支えた井上流家元
13東京都
1924-2018を生きた日本舞踊花柳流の舞踊家は、古典伝承と創作活動(「湯女群像」や「吾輩は猫である」を発表)の両面で活躍。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|花柳寿南海】人間国宝の代表作は「吾輩は猫である」
13東京都
1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
35山口県
1905-1996を生きた学校教師は夢だった歌手に転身、戦前マロニエの木陰が大ヒット、その後第1回NHK紅白歌合戦出場から合計10回の実力派。山口県柳井市には松島詩子記念館。
【音楽の部屋|松島詩子】教師から転職「マロニエの木陰」大ヒット
0049ドイツ連邦共和国出身
1813-1883を生きた歌劇王の異名を持ち19世紀ヨーロッパ全土を魅了した作曲家。その一度聞いたら虜になる作曲はまさに天才。その天才的な音楽家は自身の生活よりも犬を愛した動物好きの一面も。
【音楽の部屋|リヒャルト・ワーグナー】天才歌劇作曲家を癒したのは犬だった!?
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1856を生きた指の影響でピアニストから偉大な作曲家に転身。当時人気のピアニストクララとの二人三脚で音楽界を渡り歩くも、精神疾患を患いその才能を46歳で閉じた。
【音楽の部屋|ロベルト・シューマン】すべてのピアノを愛した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1819-1896を生きた作曲家でありピアニストはドイツ紙幣100マルクの肖像でもあった。
【音楽の部屋|クララ・シューマン】19世紀の天才音楽少女
0049ドイツ連邦共和国出身
1833-1897を生きた高い完成度を求めた作曲家はロベルト・シューマン、クララに出会うことでその後の人生を広げた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「バッハ」そして「ブラームス」)の一人。
【音楽の部屋|ブラームス】本物の完璧主義者!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1750を生きた音楽一家に生まれた偉大な作曲家は苦境の中に光を見出した努力家であった。そして20人の子供をもうけ大家族は音楽一家を形成。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「ブラームス」そして「バッハ」)の一人。
【音楽の部屋|J.S.バッハ】音楽の父は、大家族の父でもあった!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1827を生きた作曲家は交響曲,協奏曲,室内楽曲,ピアノ曲,声楽曲など,あらゆるジャンルにわたり作品を手がけた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「バッハ」「ブラームス」そして「ベートーベン」)の一人。
【音楽の部屋|ベートーベン】散歩と引越し好きのドイツ3Bの一人
28兵庫県
1915-2012を生きた兵庫県出身 1915-2012 元宝塚歌劇団専科の男役で劇団名誉理事を歴任。1933年に新設された星組に配属、戦後雪組組長となり1946年歌劇公演を再開。本名は石井吉子、愛称は春日野先生、ヨッちゃん先生。
【音楽の部屋|春日野八千代】ヨッちゃん先生見守る入学式@宝塚音楽学校

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