美ち奴





Michiyakko (1917-1996)

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こちらのページでは 美ち奴

私も売れっ子鶯歌手
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美ち奴
イラストポートレート Syusuke Galleryより

美ち奴に迫る

本名 久保染子

館長

今回は美ち奴さんについてみてみましょう

館長

美ち奴さんの本名、久保染子さん

館長

お生まれは当時の情報から北海道の北見圏とありました

館長

当時の記録では本名は「向本そめ」とあるのですが、真相はわかりません

浅草芸者に

館長

親戚を頼って上京、そして浅草芸者の道を歩みました

館長

それぞれ、清元を延千嘉、小唄を春日とよ、民謡を菊池淡水に学んだとありますので、かなりレベルの高い環境だったと思います

小唄は春日とよ師に学びました

とよ

記憶が遠くなってしまって、覚えていませんが…
わたしの元で小唄を学んだようですね

1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
館長

そして1934(昭和9)年3月より日東蓄音器(ニットーレコード、現:日本マーキュリー)専属歌手となります

鶯歌手へ

館長

当時はどのレコード会社も芸者を歌手(鶯歌手)にしようと躍起でした

そめこ

お座敷に上がるようになってから、とてもみなさんに可愛がってもらっていたので、その伝手でお声がかかったのだと思います

館長

ところでそのニットーはいまは存在しない会社なのですが、現在は一般社団法人日本マーキュリー が事業を復興しているそうです

「あゝそれなのに」大ヒット

館長

その後テイチクレコードに移籍して、戦前昭和の歌謡史に名を刻む「あゝそれなのに」が1937(昭和12)年に大ヒット

そめこ

この歌は日活映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌としてリリース

そめこ

サラリーマンの旦那の帰りを待つ女房の切なさを歌いきりました

館長

人気絶頂を迎えたのですよね!

館長

あゝそれなのに、それなのに、ねっ、おこるのは、おこるのはあったりまえでしょう」のフレーズが人々の頭の中でリフレインしていました

館長

移籍したテイチクレコードは同じく所属していた東海林太郎と美ち奴の二枚看板かのように珠玉盤として大いに宣伝していました

中野弘子との出会い

そめこ

それから暫くして1939(昭和14)年の師走でした

そめこ

ところは京都花月劇場

そめこ

わたしは歌謡界の大スターに上り詰めゲスト出演のためステージに上がりました

館長

そこで運命の出会いがあったのですよね!

そめこ

弘っぺこと、中野弘子さんに出会うべくして出会ったのです

館長

中野弘子さんは幼い頃から舞台に上がっていたようですね

そめこ

そうみたいです

そめこ

そして、その弘っぺは女剣として「瞼の母」の番場の忠太郎を演じていたのです

そめこ

その姿をみて、女性ながら惚れ込んでしまいました

そめこ

弘っぺはまだ17歳ぐらいでしたが、その姿はなんとも立派

館長

それ以来、親交を深めていくのですね

中野弘子一座と共に

そめこ

1943(昭和18)年ごろには、弘っぺは中野弘子一座を形成して、わたしもその一座と共に合同公演を行なっていましたよ

そめこ

いま振り返ると、この頃が一番輝いていたのかもしれません

館長

そして戦火の色濃くなって

館長

悲しい出来事があったのですよね

そめこ

1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、北海道から呼び寄せた両親を失ってしまいました

館長

それはお気の毒に

そめこ

東京に呼び寄せたことを、どんなに後悔したことか…

館長

そして戦後になり

館長

女剣劇四天王のひとりとなった中野弘子さんと、引き続きコンビを組んで活動を再開

晩年はむつみ園で

館長

その後、波乱に満ちた人生を歩む中、持病に苦しんでおられたのですよね

館長

1981年に寄せた寄稿では「体がね、重たいんですよ。すっごく重たいの」と綴られているのを拝見しました

そめこ

自律神経失調症でした…

館長

その後、美ち奴さんは特別養護老人ホームに入所されます

そめこ

むつみ園で晩年を過ごしました

そめこ

そんな私を元気づけようと、弘っぺはちょくちょくむつみ園に出向いてくれました

館長

美ち奴さんはそのむつみ園で大人気だったのですよね

そめこ

弘っぺとね、「お軽勘平」を演じたり、私の代表曲「あゝそれなのに」を歌ったりして、入所しているみなさんと共に楽しい時間を過ごさせていただきました

そめこ

最後に踊った深川踊りは忘れられない時間でした

館長

美ち奴さんは最期まで売れっ子鶯歌手だったのですね!

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0089中華人民共和国出身
1920-2014を生きた歌手であり俳優。1938年満洲映画協会から中国人専属俳優とした李香蘭という芸名でデビューし日本や満州国で大人気となる。それは誰もが中国人スターと信じてやまなかった。終戦後、日本に帰国してからは山口淑子として銀幕、舞台で俳優、歌手として活躍。参議院議員として3回当選を果たしている。
【音楽の部屋|山口淑子(李香蘭)】ブギウギ放送記念⑤
01北海道
1924-2010を生きた歌手であり俳優。1929年に子役デビューし、俳優としての才能をすぐさま発揮し人気を博す。戦前後に数々のスクリーンに登場し活躍した。歌手としては1949年公開の主題歌カンカン娘で大ヒットを果たす。引退後はエッセイスト、脚本家として活躍した。
【音楽の部屋|高峰秀子】ブギウギ放送記念④
13東京都
1910-1998を生きた映画監督。画家になることを夢見たが、現在の東宝に入社し1943年姿三四郎で映画監督デビュー。戦後は敗戦国の姿とヒューマニズムを掛け合わせた作品で、生きることをフィルムに込めた。それは中学時代に読み漁ったロシア文学、その中でもドストエフスキーの影響があったとされている。
【映画監督の部屋|黒澤 明】ブギウギ放送記念③
28兵庫県
1889-1950を生きた経営者であり興行師。夫、泰三を共に大阪天満にて寄席興行をはじめ、後の吉本興業を興す。それは大阪の演芸界に革新を起こし、現在も大阪生まれの独自路線で人気を博している。
【経営者の部屋|吉本せい】ブギウギ放送記念②

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13東京都
1925-1970を生きた小説家。東京大学法学部在学中、川端康成の推薦で「煙草(1946)」を「人間」に発表し文壇デビュー。卒業後は大蔵省に勤務するも、作家活動に専念するため退職。1949(昭和24)年に自身の内面を赤裸々に描いた「仮面の告白」で戦後文学の旗手として注目を集める。以後、「潮騒(1954)」「金閣寺(1956)」などを発表し、耽美、悲劇や死生観を主題にした作品群で独自の文学世界を築いた。また戯曲「サド侯爵夫人(1965)」「朱雀家の滅亡(1967)」なども高い評価があり、国際的に翻訳上演される。その文才に川端康成は「日本人で最初にノーベル文学賞を受けるなら三島由紀夫君だ」と語るほどであった。しかし、1968年川端のノーベル賞を受賞した後、両者の間に文学的、思想的な立場の違いが鮮明になり距離が生じる。晩年は自衛隊体験入隊を経て民兵組織「楯の会」を結成。1970(昭和45)年、同会員とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地にてクーデターを促す演説後、割腹自殺を遂げる。享年45歳。本名は平岡公威(きみたけ)。
【文学の部屋|三島由紀夫】昭和時代編.135New!!
14神奈川県
1924-2011を生きた児童文学作家。戦後復員し、雑誌「童話」を手に取ったことをきっかけに、1946(昭和21)年に日本童話会に入会。翌年に地元の小学校教諭と「やまびこ子供会」を結成し、佐藤さとると出会う。1950(昭和25)年には佐藤さとる、いぬいとみこ、神戸淳吉らと同人誌「豆の木」を創刊。1956(昭和31)年に「チャコベエ」「トコトンヤレ」などで児童文学者協会新人賞、「ヒョコタンの山羊(1967)」などで児童文学者協会賞を受賞し、地元横浜を舞台に、鉄道や戦争、庶民の暮らしを題材に、子どもたちの視点から平和の尊さを描いた。自宅を開放した「豆の木文庫」など地域活動に尽力し、いまもなおその功績は高く支持されている。
【文学の部屋|長崎源之助】昭和時代編.134
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館長

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