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It's New 文学の部屋

2025-11-1101北海道

【文学の部屋|森田たま】昭和時代編.147New!!

2025-11-1019山梨県

【文学の部屋|村岡花子】昭和時代編.146New!!

2025-11-0944大分県

【文学の部屋|野上弥生子】昭和時代編.145New!!

2025-11-0801北海道

【文学の部屋|バチェラー八重子】昭和時代編.144New!!

文学者
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世界の文学家

ドイツ連邦共和国
Federal Republic of Germany

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日本の文学家

東京都
Tokyo

1885-1967を生きた歌人であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に第一歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注ぐ。波乱の生涯を通じて近代短歌と女性解放運動に大きな足跡をいまも残している。本名は、宮崎燁子(あきこ)。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.51
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1884-1945を生きた小説家。日本女子大学校国文科を中退後、幸田露伴に師事し、1903(明治36)年に「露分衣」を発表。女優として舞台に立つ時期もあったが、夫の勧めで1911(明治44)年に大阪朝日新聞懸賞小説「あきらめ」で一等当選し文壇に登場。以後、「木乃伊の口紅(1913)」「炮烙の刑(1914)」など、鋭敏で豊かな官能感覚と、複雑な女性心理を描く作品は人気を博した。破天荒な生活、そしてスキャンダラスな恋愛や海外生活を送るも、女性の自立や愛の相克をテーマにした作品で、近代文学に新風を吹き込んだ。その人生を瀬戸内晴美(のちの寂照)が描いた「田村俊子(1961)」は第一回田村俊子賞を受賞している。本名は佐藤とし。
【文学の部屋|田村俊子】大正時代編.51
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1879-1941を生きた劇作家であり小説家。寺小屋教育を受けた後、佐佐木信綱に師事、その後文筆生活に入り、1901(明治34)年に短編小説「うづみ火」を「女学世界」に投稿し文壇に登場。1905(明治38)年、狂女の悲恋を描いた戯曲「海潮音」が読売新聞懸賞で坪内逍遙に認められ特選となり、新富座で上演される。以後「覇王丸」「操(さくら吹雪)」など舞踊劇で女流劇作家として地位を確立。大正期には女性評伝「美人伝」を執筆。また1928(昭和3)年には雑誌「女人芸術」を復刊し、林芙美子や円地文子ら多くの女性作家を世に送り出し、近代日本における女性の文筆活動の礎を築いた。本名は長谷川ヤス。
【文学の部屋|長谷川時雨】明治時代編.44
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1872-1896を生きた小説家。東京府の下級官吏の家に生まれ、幼少期から読書好きで才気に富む。1886(明治19)年14歳で中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し、和歌や古典文学を学ぶ。父と兄の相次ぐ死により家督を継ぎ、生活苦の中で母と妹を養うため筆を取る。半井桃水に師事し、1892(明治25)年に処女作「闇桜」を「武蔵野」に発表。その後、波乱に満ちた道を歩みながら「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「たけくらべ」などを、1894(明治27)年から1年強の月日で秀作5作品を発表し、森鴎外や幸田露伴らに絶賛される。女性作家として初めて文壇の中心に立ち、近代文学に新風を吹き込むも、肺結核により24歳で早世。没後公開された「一葉日記」も高く評価され、近年では五千円札の肖像にも選ばれている。本名は樋口奈津。
【文学の部屋|樋口一葉】明治時代編.43
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1927-2011を生きた小説家であり精神科医。父は歌人で精神科医の斎藤茂吉。東北大学医学部卒業。精神科医として勤務する傍ら、1954(昭和29)年に「幽霊」を自費出版し文壇デビュー。1960(昭和35)年、水産庁調査船の船医体験をもとにした「どくとるマンボウ航海記」で人気を博し、このシリーズはエッセイ文学の金字塔とされ、精神疾患や躁うつ病との向き合いも作品に反映された。同年「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。その後、斎藤家3代を綴った「楡家の人びと(1964)」などを発表し、ユーモアと哀愁を織り交ぜた作風で幅広い読者に親しまれた。 父・茂吉の評伝四部作「青年茂吉」「壮年茂吉」「茂吉彷徨」「茂吉晩年」で大佛次郎賞を受賞。文学と精神医療の架け橋としても注目された。本名は斎藤宗吉。
【文学の部屋|北 杜夫】昭和時代編.140
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1926-2011を生きた小説家であり評論家。東京帝国大学法学部卒業後、日本銀行に入行するも、結核を患い退職。療養中に日本共産党、その後新左翼陣営に転じて共産主義労働者党を結成。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や思想の科学研究会などで活動を行う。文学家として、戦後に同人誌「世代」の創刊に参加。1961年、太平洋戦争下を背景にした長編小説「斥候よ、夜はなお長きや」を発表。以後、思想・文化・政治を横断する評論活動を展開し、「アメリカの英雄(1965)』などを刊行。また、東大で机を並べた三島由紀夫の自決一ヶ月後、「三島由紀夫(1970)」を刊行し話題をさらった。本名は飯田桃。
【文学の部屋|いいだ もも】昭和時代編.138
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1926-1997を生きたSF作家。東京大学農学部卒。大学院在学中に父の急逝により星製薬の社長に就任するも、経営難から退任。その後、1957(昭和32)年に短編「セキストラ」で作家デビュー。以後、「ボッコちゃん(1971)」など、奇抜な発想と意外な結末をもつショートショートを多数発表し、SF文学の第一人者として不動の地位を築いた。1968(昭和43)年には「妄想銀行(1967)」で日本推理作家協会賞を受賞。1983年10月には目標としていたショートショート1001編を達成し、以後は若手作家の育成やエッセイ執筆に注力。没後2013(平成25)年、日本経済新聞主催「星新一賞」が創設され、その精神はいまもなお受け継がれている。本名は星 親一。
【文学の部屋|星 新一】昭和時代編.137
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1926-1995を生きた小説家。早稲田大学中退後、川端康成などが講師をつとめていた鎌倉アカデミアに入学、歌人吉野秀雄に師事し文芸活動を開始。出版社勤務を経て、1958(昭和33)年に開高健の推薦で壽屋(現、サントリー)に入社。PR誌「洋酒天国」の編集やコピーライターとして活躍し、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」のキャッチコピーや、成人・新社会人に向けた叱咤激励「直言シリーズ」で知られた。その後、婦人画報に連載した「江分利満氏の優雅な生活(1961~62)」で第48回直木賞を受賞し文壇に登場。以後、母の出自を探った「血族(1979)」、父の人生を辿った「家族(1983)」などを発表し、庶民の生活感や人間関係をユーモアと哀愁を交えて描いた。1963年から死去までの32年間、週刊新潮に連載された日記形式のコラム「男性自身」は、実に1614話に達し、軽妙かつ日常生活の哀歓を綴り、昭和のサラリーマン文学の金字塔となった。
【文学の部屋|山口 瞳】昭和時代編.136
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1925-1970を生きた小説家。東京大学法学部在学中、川端康成の推薦で「煙草(1946)」を「人間」に発表し文壇デビュー。卒業後は大蔵省に勤務するも、作家活動に専念するため退職。1949(昭和24)年に自身の内面を赤裸々に描いた「仮面の告白」で戦後文学の旗手として注目を集める。以後、「潮騒(1954)」「金閣寺(1956)」などを発表し、耽美、悲劇や死生観を主題にした作品群で独自の文学世界を築いた。また戯曲「サド侯爵夫人(1965)」「朱雀家の滅亡(1967)」なども高い評価があり、国際的に翻訳上演される。その文才に川端康成は「日本人で最初にノーベル文学賞を受けるなら三島由紀夫君だ」と語るほどであった。しかし、1968年川端のノーベル賞を受賞した後、両者の間に文学的、思想的な立場の違いが鮮明になり距離が生じる。晩年は自衛隊体験入隊を経て民兵組織「楯の会」を結成。1970(昭和45)年、同会員とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地にてクーデターを促す演説後、割腹自殺を遂げる。享年45歳。本名は平岡公威(きみたけ)。
【文学の部屋|三島由紀夫】昭和時代編.135
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1924-1993を生きた小説家であり劇作家。東京帝国大学医学部在学中に書いた長編小説「終りし道の標べに(1948)」を契機に埴谷雄高の紹介で、花田清輝らが結成した総合芸術運動「夜の会」に参加。卒業後、医師にはならず文学の道へ進む。1951(昭和26)年「壁―S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。代表作の一つ「砂の女(1962)」は、世界各国で翻訳刊行され、1968(昭和42)年にフランスで最優秀外国文学賞を受賞。1970年代には俳優座の仲代達矢、田中邦衛らをメンバーに演劇集団を主宰する。国際的に高い評価を受け、晩年はノーベル文学賞の有力候補とされるも、1993年に急逝。本名は安部公房(きみふさ)。
【文学の部屋|安部公房】昭和時代編.133
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1923-1990を生きた小説家であり劇作家。戦後、東京都職員として勤務する傍ら、「鈍牛」「牧野富太郎」「渡辺崋山」などの戯曲を執筆し、新国劇に脚本を提供を行う。その後、長谷川伸に師事し、小説を手がけ1960(昭和35)年「錯乱」で直木賞を受賞。以後、戦国から幕末へかけての時代ものを多く手がけ、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の3大シリーズを送り出し、ドラマ化、映画化され国民的な人気を博す。これらの作品は、武士の矜持と市井の人情を融合させ、時代小説に新風を吹き込んだ国民的作家だった。
【文学の部屋|池波正太郎】昭和時代編.132
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1923-1996を生きた小説家。幼少期を大連で過ごし帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受け、信仰と文学の融合を志す。慶應義塾大学文学部仏文科卒業後、1950(昭和25)年にフランス・リヨンへ戦後初となる国費留学。帰国後は評論活動を経て、1955(昭和30)年に「白い人」で芥川賞を受賞。その後「海と毒薬(1958)」など日本の精神風土とキリスト教の思想を併せ持った独自の作風で文壇を沸かせ、安岡章太郎や吉行淳之介らとともに「第三の新人」として注目を集める。またユーモアあふれる随筆「狐狸庵」シリーズでも人気を博し、幅広い読者層に支持された。1995(平成7)年、文化勲章を受章。
【文学の部屋|遠藤周作】昭和時代編.130
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1923-1998を生きた詩人であり翻訳家。明治大学文芸科卒業。戦時中は海軍予備学生として従軍し、敗戦後に復員。1947(昭和22)年、鮎川信夫、北村太郎らと詩誌「荒地」を創刊し、戦後詩の旗手として登場。1956(昭和31)年に処女詩集「四千の日と夜」を刊行し、「言葉のない世界(昭和37)」で高村光太郎賞を受賞。その後も、文明批評と叙情を融合させた知的探究溢れるモダニズムを象徴する詩を残す。また翻訳家としてもアガサ・クリスティやロアルド・ダールなどの推理小説・児童文学を多数手がけ、名翻訳家としても人気を博した。
【文学の部屋|田村隆一】昭和時代編.129
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1922-1993を生きた小説家であり短歌編集者。東京大学文学部言語学科に進学するも中退。戦後は「日本短歌」「短歌研究」「短歌」で短歌雑誌の編集長を務め、塚本邦雄らを見出し、前衛短歌活動を後押しする。その後、創作に専念する。1964(昭和39)年に、塔晶夫の名で発表した長編小説「虚無への供物」は代表作の一つであり、従来の推理小説の枠組みを根底から覆す「アンチ・ミステリー」と称され、そのユニークな作風で熱狂的な支持を集めた。
【文学の部屋|中井英夫】昭和時代編.128
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1918-1980を生きた小説家。早稲田第一高等学院在学中に短編集「崩壊(1937)」を刊行し、文学活動を開始するも中退。戦下の満州に従軍し、帰国後は同盟通信社記者となる。戦後は貧困生活の中で創作を続け、1954(昭和29)年に短編集「終身未決囚」で第31回直木賞を受賞。以後、「四万人の目撃者(1958)」などを発表し、松本清張とともに、戦後の推理小説ブームを牽引する。1970(昭和45)年「早稲田文学」の第7次編集長に就任し、若手作家の育成にも尽力。晩年は東京空襲の記録活動にも関わり、文学を通じて戦争体験と社会の矛盾を鋭く追求する作品を手がけた。
【文学の部屋|有馬頼義】昭和時代編.123
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1917-1985を生きた児童文学作家。明治大学文芸科卒業後、新聞などを経て、戦後創作活動に入る。児童文学に力を注ぎ、東北方言の味を加えた民話的発想の童話集「ベロ出しチョンマ(1967)」で小学館文学賞を受賞する。1978(昭和52)年には「天の赤馬」で日本児童文学者協会賞を受賞。画家、滝平二郎とのコンビによる絵本「花さき山」「モチモチの木」などは、民話絵本の新分野を開拓し、小学校教科書にも採用されるなど広く親しまれた。本名は斎藤隆勝。
【文学の部屋|斎藤隆介】昭和時代編.120
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1914-1939を生きた詩人であり建築家。東京帝国大学工学部建築学科在学中に建築家として将来を嘱望される一方で、堀辰雄や室生犀星に師事し、詩誌「四季」を中心に十四行詩型(ソネット形式)の抒情詩を発表し、詩人としても注目を集めた。代表詩集に「萱草に寄す(1937)」「曉と夕の詩(1937)」。信濃追分での滞在や恋愛体験が詩作に深く影響を与え、青春の憧れと哀しみを音楽的な口語で綴った詩風は、今も多くの共鳴を呼んでいる。病いにて、24歳で早世。「優しき歌」は、没後、師の堀辰雄によって刊行された詩集。
【文学の部屋|立原道造】昭和時代編.117
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1912-1994を生きた評論家であり劇作家。東京帝国大学英文科卒業後、文芸評論誌「作家精神」に参加し、芥川龍之介などを論じて文壇に登場。戦後、日本近代文学への批判を込めた評論集「作家の態度(1947)」「近代の宿命(1947)」などで日本の作家たちが、社会から孤立していく中で、どうやって自我を確立していったかを展開し注目を集め、当時の「政治と文学」論争において、文学と政治を明確に区別する姿勢を貫く。劇作家としては「キティ颱風(1950)」「龍を撫でた男(1952)」などを発表上演し、T.S.エリオット、ヘミングウェイ、シェイクスピアの翻訳にも取り組む。これらの活動は、「自我」と「社会や文化」との関係を生涯にわたって探求し続け、戦後日本の文化・言語・演劇に多大な影響を与えた。
【文学の部屋|福田恆存】昭和時代編.115
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1911-1988を生きた文芸評論家。東京帝国大学文学部仏文学科在学中の1933(昭和8)年に小林秀雄らの推薦により「文学界」へ評論を寄稿し、若くして文壇に登場した。1936(昭和11)年「二葉亭四迷論」で、第1回池谷信三郎賞を受賞。その後も、近代リアリズムの正統論に立脚した批評活動を展開。戦後1950(昭和45)年には「風俗小説論」で日本の私小説の歪みを鋭く批判し、戦後文芸評論の方向性を決定づける。また「汽笛一声(1964)」などの戯曲も手がけ、幅広い分野で才能を発揮。また、芥川賞選考委員を30年間務め、後進の育成にも尽力した。本名は木庭一郎。
【文学の部屋|中村光夫】昭和時代編.114
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1908-1979を生きた評論家でありエッセイスト。早稲田大学理工学部建築学科中退後、1935(昭和10)年に東宝に入社し、宣伝部・調査部などを経て映画評論を開始。戦後は東宝を退社後、「キネマ旬報」などで映画評論や、ジャズ・ミステリー・欧米文学・現代美術・漫画など多岐にわたる分野で独自の批評を展開し、雑学と博識を融合させたスタイルで若者文化の先駆者となる。1955(昭和30)年、江戸川乱歩、大岡昇平、吉田健一とともに「世界推理小説全集」全80巻の監修を行い推理小説の分野でもその名を刻む。その後、若者世代にサブカルチャーの教祖として崇められた。その自由で奔放な行き方は、今もサブカルチャーの源流として語り継がれている。
【文学の部屋|植草甚一】昭和時代編.109
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1903-1979を生きた評論家でありフランス文学者。東京帝国大学仏文科在学中、今日出海と、ヴァレリーやボードレールなどの翻訳・紹介を通じてフランス文学を深める。1934(昭和9)年にはフランス文学を基とした評論集「懐疑と象徴」を刊行し、文芸評論家としての地位を確立。戦後は、日本文芸家協会の再建、日本著作権協議会の創設、チャタレー裁判の特別弁護人など、文化政策や言論の自由の擁護に尽力。日本中国文化交流協会の設立から理事長としても活躍し、国際的な文化交流にも貢献した。代表作に第一次世界大戦から敗戦と時代の変動を記録した「昭和時代(1957)」などがあり、文学と社会、精神性を融合させた評論で、戦後を代表する文化人として活躍した。
【文学の部屋|中島健蔵】昭和時代編.100
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1901-1976を生きた随筆家。木綿貿易で巨万の富を築いた近江商人薩摩治兵衛の孫として育つ。1918(大正7)年に渡英し、オックスフォード大学で古典劇を学ぶ。その後パリに移住し、社交界の寵児として「バロン薩摩」の異名をとる。藤田嗣治らと親交を深め、莫大な私財を投じて芸術家の支援に尽力。1929(昭和4)年にはパリ国際大学都市に「日本館(薩摩館)」を建設し、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章。戦中もフランスに留まり、文化人の保護に努める。戦後は無一文で帰国し、東京浅草で随筆「巴里・女・戦争(1954)」「ぶどう酒物語(1958)」などを執筆し生計を立てた。その後、徳島に移住し晩年を過ごす。その生涯は、日仏文化交流に尽力し、激動の時代を駆け抜けた、波乱万丈そのものであった。
【文学の部屋|薩摩治郎八】昭和時代編.94
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1901-1979を生きた美術評論家であり装幀家。幼少期より絵画や映画に親しみ、画才を発揮。中学時代から骨董品収集に熱中し、20代で柳宗悦、浜田庄司らと民藝運動に参加。永井龍男、小林秀雄らと交遊し、昭和文壇のサロン的存在となる。骨董の鑑識眼と辛辣な批評で知られ、装幀家としても活躍した。戦後は小林秀雄らと文芸美術雑誌「創元(1946~48)」の編集に当たり、同誌に梅原龍三郎論、富岡鉄斎論を発表し、戦後混乱期ながら美の存在を示して文壇を文壇を大いに沸かせた。
【文学の部屋|青山二郎】昭和時代編.93
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1885-1980を生きた歌人であり教育者。早稲田大学英文科では、島村抱月などに師事し、若山牧水などと交流を深める。卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者として活躍。1910(明治43)年に発表したローマ字三行書きの歌集「NAKIWARAI」で注目を集め、生前の石川啄木に影響を与え、交流が生まれた。その後、朝日新聞に移り、社会人生活をおくりながら短歌を中心とした文学活動を継続した。1913(大正2)年に創刊した「生活と芸術」は啄木の遺志をつぐ文芸思想誌。 短歌のみならず、古典研究、能の詞章創作、中国詩の和訳などその幅広い活動は、近代文学史にその名を刻んでいる。80歳より武蔵野女子大学文学部日本文学科主任教授。
【文学の部屋|土岐善麿】大正時代編.47
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1883-1956を生きた詩人であり彫刻家。東京美術学校彫刻科在学中に与謝野鉄幹の新詩社に入り、またロダンの影響を受ける。卒業後、1906(明治39)年より米・英・仏に留学し近代彫刻を学ぶ。帰国後は「パンの会」や「白樺」などの芸術運動に参加し、評論・翻訳・詩作に取り組む。1914(大正3)年に詩集「道程」を自費出版し、その後、口語自由詩体の完成に導く。妻である洋画家長沼智恵子の精神疾患と死別を経て、1941(昭和16)年に詩集「智恵子抄」を編む。戦時中は戦争協力詩を多く発表し、戦後はその反省から岩手県花巻に移住し、独居自炊の生活を送りながら創作を続ける。新たな時代の新たな文化を創ろうという思いを込め、1950(昭和25)年に詩集「典型」を刊行。1953(昭和28)年には十和田湖畔に「乙女の像」を完成させ、彫刻家としても再評価を得た。父は彫刻家の高村光雲。本名は光太郎(みつたろう)。
【文学の部屋|高村光太郎】大正時代編.44
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1919-2008を生きた評論家であり小説家。東京帝国大学医学部在学中より、中村真一郎らと共に押韻定型詩の文学運動「マチネ・ポエティク」を起こす。卒業後、血液学を専門とする医師として活動の傍ら、戦後は日米原爆影響合同調査団の一員として広島に赴き、被爆の実態を調査した経験をもつ。その後フランス留学を経て、医学から文化の見識を深める。帰国後、「日本文化の雑種性(1950)」などで日本文化の多様性を論じ、知識人として注目を集める。 1958(昭和33)年に医業を廃し、以後は執筆活動に専念する。国内外の大学で教鞭をとるなど日本文化と世界をつなぐ知の架け橋として、戦後日本の思想界に大きな足跡を残した。晩年は「九条の会」の呼びかけ人として平和憲法擁護の活動にも尽力。
【文学の部屋|加藤周一】昭和時代編.78
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1914-2006を生きた劇作家。東京帝国大学英文科在学中に中野好夫に師事し、シェイクスピア研究に傾倒。大学院に進み、第二次世界大戦中に日本の民話を素材にした戯曲を書き、戦後に「彦市ばなし(1946)」「夕鶴(1949)」などを発表し、木下民話劇として注目を集めた。その後、ゾルゲ事件の尾崎秀実をモデルにした「オットーと呼ばれる日本人(1962)」など、鋭い視点で思想と現実を表現し、戦後演劇界を代表する存在となる。民話劇から歴史劇、思想劇まで幅広いジャンルを手掛け、常に日本の演劇の可能性を追求し、日本人の心と社会に深く問いかけ続けた文学家であった。
【文学の部屋|木下順二】昭和時代編.73
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1904-1990を生きた小説家であり編集者。印刷業に関わる家庭環境の中で育ち、文学に親しむ。1920(大正9)年、文芸雑誌「サンエス」の懸賞小説に応募した「活版屋の話」が、菊池寛の目にとまり入選。その後小林秀雄らの同人となり数々の作品を手がける。1927(昭和2)年には、横光利一らの推薦を得て文藝春秋社に入社し、その後、編集者、編集長として活躍。戦前に芥川賞・直木賞の制定と運営に深く関わり、「芥川賞・直木賞の育ての親」とも呼ばれた。戦後は、新聞小説「風ふたたび(1951)」などを数多手がけ、連載小説でも活躍し、短編・長編小説の名手として文壇を沸かせた。1981(昭和56)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|永井龍男】昭和時代編.69
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沖縄県
Okinawa

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01北海道
1894-1970を生きた随筆家であり政治家。文学を志し上京、森田草平に師事。短編「片瀬まで(1913)」「うなぎ(1915)」を発表するも結婚により一時筆を絶つ。1932(昭和7)年、師のすすめで「着物・好色」で随筆家として再デビュー。1936(昭和11)年刊行の「もめん随筆」がベストセラーとなり、女性の生活感覚を鋭敏に描く随筆家として地位を確立。その後、長編小説「石狩少女(1940)」や童話などを手掛けている。戦後も作品を発表する傍ら、1962(昭和37)年に参議院議員に当選し、政界でも活躍した。
【文学の部屋|森田たま】昭和時代編.147New!!
19山梨県
1893-1968を生きた翻訳家・児童文学者。東洋英和女学校在学中に、学友の柳原白蓮とともに佐佐木信綱に文学を学ぶ。卒業後、英語教師を経て銀座の教文館で翻訳や編集に携わり、1919(大正8)年に村岡儆三と結婚後、出版社を創業。その後、長男を病で失ったことを契機に、英米児童文学の翻訳に専心し、1927(昭和2)年に、マーク・トウェイン作「王子と乞食」を翻訳し刊行される。以後、数々の翻訳を手掛け、戦火にも負けず翻訳を行なったモンゴメリ作「赤毛のアン」を1952(昭和27)年に出版。日本における青春文学の先駆的な作品となる。また、戦前はNHKラジオ「子供の新聞」でラジオのおばさんとして親しまれ、また戦後は婦人参政権運動や教育活動にも関与し、多方面で活躍した。本名は村岡はな。
【文学の部屋|村岡花子】昭和時代編.146
シューちゃん

シュー(Syu)です
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