「いらすとすてーしょん」2月推し偉人
SNSで広がる"バズる"俳句短歌
その現代の俳句短歌につながる文学革新を写生論を
通じて運動を展開した「正岡子規」をピックアップ
近代文学に革新をもたらした文豪をイラストポートレートでお楽しみください
正岡子規
Shiki Masaoka(1867-1902)
ようこそ!フリーイラストポートレートと
歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは【文学の部屋|正岡子規】
俳句・短歌の革新に取り組みました をお楽しみください
- 1. 正岡子規イラストポートレート(Syusuke Galleryより )
- 2. 子規と陸羯南
- 2.1. 1892年子規日本新聞社入社
- 2.2. 陸羯南登場
- 2.3. 叔父、加藤拓川に育てていただきました
- 2.4. 子規落第?
- 3. 子規と日本新聞社
- 4. 子規と夏目漱石の出会い
- 4.1. 子規上京
- 4.2. 東京大学予備門予科へ
- 4.3. 夏目漱石登場
- 4.4. 生涯の畏友となる二人
- 4.5. 写生文はこんな感じ
- 4.6. 七草集に対抗して木屑録
- 5. 子規とベースボール
- 5.1. ここも子規からお答えします
- 5.2. 子規、ベースボール知る
- 5.3. 日本のベースボールのルーツって
- 5.4. 子規もプレイしました
- 5.5. 野球用語を新聞「日本」で発表
- 5.6. 野球殿堂入り
- 5.7. 正岡子規記念球場も誕生
- 5.8. 2023 WORLD BASEBALL CLASSIC 開催記念
- 6. 子規に会える場所@子規記念博物館
- 7. 子規の弟子たち
- 7.1. 俳句を学んだ高浜虚子と河東碧梧桐
- 8. 歌会始へ詠進しませんか?
- 9. これまでの「いらすとすてーしょん」推し偉人2022〜2023
- 10. 文学家・新着偉人(It's New)はこちらから
- 11. 文学の部屋へようこそ
- 12. いらすとすてーしょん検索コーナー
正岡子規
イラストポートレート(Syusuke Galleryより )
子規と陸羯南
1892年子規日本新聞社入社
帝国大学(現:東京大学)在学中だった
1892(明治25)年に日本新聞社って
ところでお世話になり始めました
陸羯南登場
久しぶりすぅ!常規(つねのり)!
【ジャーナリストの部屋|陸 羯南】正岡子規生涯の恩人
わたしの本名を呼んでいただけるのは
陸羯南(くが かつなん)社長
じゃないですか
よくぞぉ、わ(私)の創設じた
日本新聞社の門を叩いてぐれたぁ!
何をおっしゃられるのですが…
わたしが雇って欲しいと懇願して…
そなだの叔父、加藤拓川(たくせん)と
わ(私)は親友だったきゃ、常規の
こどは〜よく聞いていだんだ〜な
叔父、加藤拓川に育てていただきました
父、常尚はわたしが5歳のとき
他界してしまったので…
叔父、加藤拓川は育ての親でして
加藤拓川がら〜常規の文才を嫌ど
いうほど聞かされていだから〜な
叔父はそんなことを言っていたの
ですかぁ
わ(私)も常規の才能を認めていだから
入社してけだんずな
これをきっかけに、わたしが描いた
近代文学への道が開くことに
なったんです
子規落第?
はんで帝国大学さ学年末試験にな
落第したごとも功を奏してんぞ
羯南社長…それをここでお話に
ならないでください…はずかしい…
親友の漱石ぐんがら〜中退ば引き留め
されたって聞いだけんど…
あいつは強情っ張りだからな…
落第ばことをきっがけに中退じて、
文学革新に挑めたんじゃ〜はんで
良がったんだ〜な
子規と日本新聞社
日本新聞社って
わ(私)陸羯南よりお答えします
陸羯南が日本新聞社を興し
主筆兼社長となる
1889(明治22年)年2月11日に
新聞「日本」を刊行
明治25年12月1日の誌面
子規博ガイドシートNo.7より抜粋
子規はそこで何をしたの?
ここは子規よりお答えします
日本新聞社にお世話になリ
始めた1892(明治25)年に新聞
「日本」へかけはしの記を発表
この内容は前年明治24年に
松山への帰省時に寄り道した
木曽路の紀行を表したもの
獺祭書屋俳話発表
それと同じ年に獺祭書屋俳話と
いう俳句批評を載せました
この獺祭書屋俳話は俳聖と
謳われた松尾芭蕉をターゲットに
したもの
松尾芭蕉登場
ご批判いただきありがとう
【江戸文学|俳諧の連歌】「松尾芭蕉」俳句を芸術へ
こちらこそ失礼しました
でもこれがスタートになって
現代の俳句に繋がっているん
ですよ
それはわたしのコーナーで
少し学んだんだが…
明治に入って俳諧は高尚な]古典
文化に押し上げられていました
俳諧は江戸のころ、浮き沈みが
結構あったのだが…
神となった芭蕉
松尾芭蕉どのは神と崇められて
いたんですよ
なんとわたしが神?
そうなんです
芭蕉どのが神だとすると
庶民には手が届かないところに
俳諧があって…
なので獺祭書屋俳話を発表する
必要があったんです
とにかく当時の文学重鎮の
方々からの圧はすごいものが
ありましたけど…
文学革新への第一歩
そして文学革新へ歩み出します
文学革新?
俳句は文学!
まずは俳句を文学としました
なるほど
そして後に気が付くのですが
写生を大事にしました
写生って?
写生って?
簡単にいうとどうなるの?
俳句を作る人が見たものや
出来事を読む側が想像しやすく
するってことです
つまり雲の上の人ではなくて、
庶民にも手がとどくって感じか?
そういう感じです
でもお主が一人で騒いでも
どうなるものかなぁ…
俳諧を研究する子規
それでも諦めず…まずは
徹底的に俳諧を学びました
どうやって?