上田秋成






Akinari Ueda(1734-1809)

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こちらのページでは【江戸文学|(前期)読本】「上田秋成」上方の古典博士 をお楽しみください

上田秋成
イラストポートレート Syusuke Galleryより

前期読本といっても江戸の中期だよ

案内はわたし上田秋成です

あきなり

時は1749年だから江戸の中後期頃

読本の祖は都賀庭鐘

あきなり

読本の祖とも称される都賀庭鐘せんせ英草子(はなぶさそうし)を著したことから読本が始まったとされてんねん

しき

なるほど

正岡子規登場

あきなり

おっ!これは正岡子規どのぉ

しき

ちょっとお邪魔するよ

しき

さて、どうしてこの江戸中後期頃に読本が出てきたのかなぁ?

読本は白話小説をもじった?

あきなり

当時、白話小説と呼ばれた中国古来の漢文を口語調で書かれた小説が日本にも入ってきたねん

しき

三国志とか水滸伝とかだなぁ

あきなり

都賀庭鐘せんせ はそれらの白話小説を題材にして、江戸時代前に書かれた物語をアレンジしたん

しき

要は、中国の物語に日本の物語を乗せてしまったんだな?

あきなり

簡単に言うとそう言うことなん

英草子(はなぶさそうし)完成

あきなり

そうして完成したのが英草子

しき

この英草子が(前期)読本の始まりだったんだな

前期読本の時代を間違わないでね

あきなり

この頃の読本が前期読本って言われるので、よく江戸時代前半と間違われる方が多いやなぁ

しき

歴史のテストで出てきたら間違いそうだよな

雨月物語を描きました

あきなり

都賀庭鐘せんせ はわたしの師で、せんせ の読本を見習って雨月物語を描きましたんね

※都賀庭鐘は医師(医術)でもあり、上田秋成はそれを都賀より学んでいたとされています

しき

全9話からなる怪談短編小説なんて言われているよな

あきなり

今だとホラー小説っていうジャンルになるかもしれませんがね

あきなり

人の道理に反すると、怪奇現象が生じるってところですね

しき

それは現代にも漫画あったぞ

例えば2022年に亡くなった藤子不二雄A原作のブラックユーモアの…

あきなり

笑ゥせぇるすまん!

しき

それそれ!

江戸文学へようこそ①仮名草子から前期読本まで

仮名草子
鈴木正三「二人比丘尼」1663年 ほか

江戸時代より以前は手書きで書き写す写本で複製されていた御伽草子
これが江戸時代に入ると印刷技術が進み木版により大量に刷ることが可能に
そして仮名草子となって物語や説話を広めることができた
1579-1655を生きた武士から出家した僧侶であり、庶民にもわかりやすい仏教説話を伝播するため仮名草子作家としても活躍した。日本を形成した思想家の一人としてその名はいまもなお響かせています。
浮世草子
井原西鶴「好色一代男」1682年 ほか

教訓的でお堅い仮名草子から少し砕けた内容が上方(京阪地域)から生まれた
そうそれが浮世草子
ついに庶民に文学が届けられるようになった
1642-1693を生きた西山宗因を祖とする談林派門下の俳諧師であり、まだ小説というジャンルもない時代に、日本で初めてベストセラー小説を生み出した浮世草子の作者。
(前期)読本
上田秋成「雨月物語」ほか

上方(京阪地域)を中心に中国の白話小説(中国古来の漢文を口語調で書いた小説)を日本における古典文学に翻案し、和漢混淆文によって書かれた小説が前期読本
その内容は源氏物語や太平記などの古典がもとになっているので、読むのも教養を要したかも?
1734-1809を生きた(前期)読本の著者筆頭格。前期読本は当時の中国から俗文学として日本に輸入された白話小説を翻案したもので、その代表作となる短編の怪談奇談集「雨月物語」を和漢混淆文で発表。

この続きはいずれ…乞うご期待

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1932-1999を生きた文芸評論家、英文学者。慶應義塾大学在学中に三田文学へ「夏目漱石論(1955)」「続・夏目漱石論(1956)」を発表。これらが「夏目漱石(1956)」として刊行され、文芸評論家としての歩み出す。その後「小林秀雄(1961)」など批評家として活躍する。1962(昭和37)年には、ロックフェラー財団研究員となり日本文学を講じるなどし、「アメリカと私(1965)」を著し、戦後日本とアメリカとの問題を正した。その後、東京工業大学、慶応義塾大学、そして大正大学の教授として後進の育成に尽力した。本名は江頭淳夫(あつお)。
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