国木田独歩 Doppo Kunikida

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こちらのページでは【文壇発見】「国木田独歩」


自然主義文学の話ですが…第三話



をお楽しみください

国木田独歩イラストポートレート(Syusuke Galleryより

自然主義文学物語3部作紹介

田山花袋

Katai Tayama

1872-1930

文学家

「田山花袋」自然主義文学の話ですが…第一話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第一話目の注目は…
・柳田國男との出会い
・森鴎外との出会い
・先を越された「蒲団」

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島崎藤村

Toson Shimazaki

1872-1943

文学家

「島崎藤村」自然主義文学の話ですが…第二話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第二話目の注目は…
・田山花袋との出会い
・「破戒」がスタート
・「春」はわたしの懺悔

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国木田独歩

Doppo Kunikida

1871-1908

文学家

「国木田独歩」自然主義文学の話ですが…第三話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第三話目の注目は…
・徳富蘇峰との出会い
・竜土会
・元祖は誰

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自然主義文学「国木田独歩」物語

1871-1908を生きた詩人であり、自然文学主義の先駆けと称される「運命論者」「正直者」を1903年に発表も紅露時代の波に押し流された。

第三(完結)話案内役は
私、国木田独歩が務めます!

本名「国木田亀吉(かめきち)」と申します

かめきち

今回もわたしの十八番(オハコ)自然主義文学について綴ってみます

かめきち

そうそろ自然文学主義の世界掴めてきましたか?

くにお
かめきち

実は、自然主義文学の本家本元は私の筈です

ろくや

俺じゃないの…

はるき

第一話で話したの聞いてなかったの?

国木田独歩と島崎藤村の会話(いらすとすてーしょんより)
【自然主義】文学の話ですが…第一話「田山花袋 Katai Tayama」より
ろくや

あぐっ…

国木田独歩について

かめきち

田山花袋や島崎藤村より1年早い1871年(明治4年)
いまの千葉県銚子市で生まれました

かめきち

父は戊辰戦争で新政府軍側から戦ってその療養先の銚子でオイラが生まれた
そうして父の仕事の関係で中国地方で育ったんだ

独歩上京し徳富蘇峰に出会う

かめきち

そうして機会を得て上京
時同じくしてジャーナリストの徳富蘇峰氏に明治23(1890)年出会う

かめきち

これがわたしの人生の転機となる
ここで一転して文学の世界に足を踏み入れた!

かめきち

そうして時を経て、彼が設立した「民友社」に1894年入社して記者となった

記者 独歩誕生

いいちろう

久しぶり!徳富蘇峰(本名は猪一郎)です

1863-1957を生きたジャーナリストであり日本を代表する思想家の一人、近世日本国民史は戦国時代から西南の役にいたる歴史書はいまも高く評価されている。
【ジャーナリストの部屋|徳富蘇峰】 第二の福沢なり、第二の新島に非ず
いいちろう

たしかわたしと出会ったこのころ亀吉から「哲夫」って改名したよね?

かめきち

さて話を戻すと…
記者となった年に日清戦争が勃発

かめきち

海軍従軍記者として民友社の発行する国民新聞に記事を掲載したところ…
これがウケた!

かめきち

一躍わたしの名は全国に響く…

いいちろう

あの時、かめきちは飛ぶ鳥を落とす勢いだった

いいちろう

そして伴侶を見つけるも…その後大変だったんだろ

かめきち

その話をここで出しますか?

かめきち

やっとの思い出結婚できましたが…
妻に失踪されるとは…
わたしの不徳と致すところです

独歩 作家活動再開

かめきち

でも翌年の明治29(1896)年には作家活動を再開できました

かめきち

そこで田山花袋や島崎藤村に出会えた

かめきち

その後、わたしの作品も御二方が刊行なされた『抒情詩』に掲載いただき感謝感謝です

ろくや

ジョインしてくれてありがとう

かめきち

詩人として文学界をスタートさせてから小説も書き始めたけど、もちろん作家とは無名に近い

かめきち

いまでいうところの浪漫派と位置づけられていたみたい

国木田独歩「武蔵野」発表

かめきち

わたしの代表作は「武蔵野」
武蔵野という土地をわたしのイチオシ視点で表現した作品

かめきち

この作品、もしかしたら日本で展開された自然主義文学ではなく、ゾラの提唱した自然主義文学に近かったのかもしれないと今となっては思ってる

ろくや

この武蔵野を発表したのは明治31(1898)年だったね

たしかこの頃から「独歩」というペンネームを使うようになったよね?

かめきち

そう!
明治30年に発表した「独歩吟」を機に国木田独歩としたんだよ

かめきち

このころはもう一度新聞記者もしていました。
もしかするとリアリズムをより感じていたのかもね…

国木田独歩 「運命論者」「正直者」発表

かめきち

そうして1903年
抜擢された月刊グラフ雑誌編集長をつとめた傍らで「運命論者」「正直者」を発表

かめきち

当時はウケなかったですが…
あとあと自然主義の先駆け、って評価がついたのは意外でした。

はるき

これが俺たちの自然主義文学の元祖だったっていうことだな

かめきち

第1話で藤村くんの指摘とおり…
この時の紅露は強かった。尾崎紅葉&幸田露伴!

かめきち

本当はもっと「運命論者」「正直者」はウケる筈だったけどなぁ…

かめきち

まっ、この話は置いておいて…
そうして1904年日露戦争勃発したから編集者として忙しい毎日だった

ろくや

このころだよね「運命」は

国木田独歩「運命」発表

かめきち

明治39年(1906年)でした
「運命」でようやく自然主義文学の仲間入りを果たせたと思ってます

「運命」国木田独歩_岩波書店
国木田独歩「運命」岩波書店
かめきち

そんな中でしたが、順調そうに見えた仕事も資金繰りが問題で相次いで仕事を手放してしまい…

かめきち

同時に肺結核にかかってしまってしまい38歳でこの生涯を閉じました

かめきち

これも「運命」かぁ…

ろくや

文壇はもとより日本中、国木田独歩の死を悲しんだ

ろくや

そして友人代表として独歩の墓石はわたし田山花袋が書かせてもらったんだ

かめきち

おかげさまで安らかに青山霊園で眠っております

かめきち

自然主義文学3話完結の最終話はわたし国木田独歩目線で自然主義文学をお届けしました

かめきち

近代日本文学の一つの潮流「自然文学主義」を少しでも感じ取っていただけましたら嬉しいです

はるき

第1話から3話までお付き合いいただきありがとうございました

かめきち

ちなみにわずか10ヶ月程度
わたしと弟の収二が下宿した坂本永年邸に「城下町佐伯 国木田独歩館」がございます
ぜひお近くまで来られた際はお越しくださいね

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城下町佐伯国木田独歩館に行こう

城下町佐伯国木田独歩館

〒876-0848  大分県佐伯市城下東町9−37
0972-22-2866
行き方 JR佐伯駅から徒歩20分、タクシー約5分/東九州自動車道佐伯ICより車で約15分
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週月曜日・年末年始(12月29日- 1月 3日)(月曜日が祝日の場合は翌日休館)

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第1話は私でした「田山花袋」

第1話はわたしの番でした
【自然主義】文学の話ですが…第一話「田山花袋 Katai Tayama」

・「柳田國男」との出会い
・「森鴎外」との出会い
・先を越された「蒲団」
1872-1930を生きた漢詩文を学び尾崎紅葉に弟子入り、その後自然主義文学を私小説として書き上げた。

第2話は私でした「島崎藤村」

第2話はわたしの番でした
【自然主義】文学の話ですが…第二話「島崎藤村 Toson Shimazaki」

・「田山花袋」との出会い
・「破戒」がスタート
・「春」はわたしの懺悔
1872-1943を生きた近代日本文学を代表する一人は詩から小説家に転身し日本における自然主義文学のファーストインクラス「破戒」を発表

文学家・新着偉人(It's New)は


こちらから

13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21New!!
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20New!!
13東京都
1874-1916を生きた詩人、翻訳家であり英文学者。島崎藤村らに合流し文学界の同人となり、東京帝大入学後は「帝国文学」の創刊に参加する。その後、西欧の象徴詩の紹介と翻訳に力を注ぎ、1905(明治38)年の訳詩集「海潮音」は、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの詩を翻訳し、日本の詩壇に大きな影響を与えた。晩年には京都帝国大学教授や同志社大学でも教鞭を執り、多くの門下生を育成し、日本の英文学、フランス文学の発展に貢献した。唯一の小説として1910(明治43)年に自伝的小説「うづまき」を著している。41歳で早世。
【文学の部屋|上田 敏】明治時代編.19New!!
26京都府
1873-1935を生きた歌人であり、文学者、教育者。教員を経て、1900(昭和33)年に創刊した文学雑誌「明星」は、北原白秋や石川啄木など多くの若手歌人を輩出し、ロマン主義運動の中心的存在となる。与謝野晶子の才能を見抜き、歌集『みだれ髪』の出版を支援。晩年にはパリを訪れ、ヨーロッパ各地を歴訪し帰国後、慶應義塾大学の教授としても多くの後進を育てた。
【文学の部屋|与謝野鉄幹】明治時代編.18New!!
38愛媛県
1873-1937を生きた俳人であり随筆家。正岡子規に野球を教わったことがきっかけで俳句に強い関心を持ち、子規の高弟として高浜虚子と共に、俳句革新運動を助けた。1902年子規の没後に新聞「日本」の俳句欄選者を受け継ぐ。その後、従来の5-7-5の定型を破り、自由詩形式を取り入れた自由律俳句を提唱し、俳句の新しい表現方法を追求した。新傾向俳句に与えた影響は大きく、また高浜虚子との対立を生んだ。代表作には「碧梧桐句集」や「三千里」などがあり、旅行記や随筆も多く執筆した。晩年にはヨーロッパからアメリカを訪れ、その経験を作品に反映させた。
【文学の部屋|河東碧梧桐】明治時代編.17New!!
10群馬県
1872-1930を生きた小説家。幼少期から文学に親しみ、特に漢詩文や西洋文学に強い関心を持つ。兄に従い上京し、尾崎紅葉の門下となり、その後、国木田独歩、島崎藤村と交流を深めた。1902年に発表した「重右衛門の最期」で作家としての地位を確立した。その後「蒲団」や「田舎教師」などの作品で、自己の内面を赤裸々に描写する「私小説」として自然主義運動の先頭に立ち自然主義文学の代表的作家となった。
【文学の部屋|田山花袋】明治時代編.16New!!
21岐阜県
1872-1943を生きた詩人であり小説家。幼少期から文学に親しみ、特に詩作と小説に強い関心を持つ。明治学院で学び、在学中に「文学界」に参加し、ロマン主義詩人として「若菜集」を発表。その後、小説に転向し、1906年に発表した「破戒」で自然主義文学の代表作家となる。代表作には「春」や「家」などがあり、特に父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説「夜明け前」は歴史小説として高く評価されている。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴であり、明治・大正・昭和期の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|島崎藤村】明治時代編.15New!!
04宮城県
1871-1952を生きた詩人であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に詩作に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、在学中に「帝国文学」の編集委員となり詩作を始める。高山樗牛の勧めで1899年に発表した処女詩集「天地有情」で新体詩人としての地位を確立。その後も「暁鐘」や「東海遊子吟」などの詩集を刊行した。詩風は漢文調の叙事詩が特徴で、特に「荒城の月」の作詞者(瀧廉太郎作曲)として広く知られる。晩年にはギリシャ語の原典からの翻訳としてホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」の翻訳を手掛けた。1950年文化勲章受章。
【文学の部屋|土井晩翠】明治時代編.14
06山形県
1871-1902を生きた文学家、文芸評論家であり思想家。東京帝国大学で哲学を学び、在学中に小説「滝口入道」が懸賞入選となり、文壇デビュー。雑誌「太陽」の編集に携わり、ロマン主義や日本主義を唱えた。その後、ニーチェの思想に影響を受け、個人主義や超人思想を賛美し「美的生活を論ず」を著した。また日蓮への傾倒し「日蓮上人とは如何なる人ぞ」を著した。32歳で早世も多くの評論を残し、明治時代の文学と思想に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|高山樗牛】明治時代編.13
12千葉県
1871-1908を生きた小説家、詩人でありジャーナリスト。幼少期から文学に親しみ、特に自然主義文学に強い関心を持つ。現在の早稲田大学で学び、徳富蘇峰の影響を受けた。1894(明治27)年に日清戦争の従軍記者として活動し、弟宛てに送った手紙をルポルタージュとして発表した「愛弟通信」で文壇デビュー。その後、「武蔵野」や「忘れえぬ人々」などの作品を綴った。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「婦人画報」の創刊にも関わり、編集者としても活躍した。
【文学の部屋|国木田独歩】明治時代編.12
32島根県
1871-1918を生きた劇作家、小説家、詩人であり文芸評論家。幼少期から文学に親しみ、特に演劇に強い関心を持つ。早稲田大学で坪内逍遥に学び、「早稲田文学」の編集に携わり、文芸評論家として活躍。1902(明治35)年からイギリスとドイツに留学し、帰国後、坪内逍遥と共に文芸協会を設立し、シェイクスピアなどの海外戯曲を上演、新劇運動を推進した。1913(大正2)年には松井須磨子と共に芸術座を結成し、トルストイの「復活」などを上演し、「カチューシャの歌」は当時の大衆に大流行した。作品は心理描写に優れ、人間の内面を深く掘り下げたものが多く、また、文芸評論においては、日本の近代文学の理論的基礎を築いた。1918年にスペイン風邪により急逝したことは日本の演劇界にとって大きな損失となった。
【文学の部屋|島村抱月】明治時代編.11
20長野県
1869-1937を生きた作家であり社会運動家。幼少期から文学に親しみ、特に社会問題や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、後にキリスト教に改宗。キリスト教の思想を基に社会問題や人間の生き方を深く考察していく。1899(明治32)年に毎日新聞記者となり、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙運動などで活躍。特に足尾銅山鉱毒問題の報道は社会に大きな影響を与えた。1901(明治34)年には幸徳秋水らと社会民主党を結成し、非戦論を唱えた。代表作に「火の柱」や「良人の自白」など、社会主義や平和主義をテーマにした作品を多く執筆。晩年にはキリスト教と仏教の融合を試みるなど、多岐にわたる活動を展開した。
【文学の部屋|木下尚江】明治時代編.10
43熊本県
1868-1927を生きた小説家、評論家。幼少期から文学に親しみ、特に自然描写や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、兄の徳富蘇峰が創設した民友社に参加。1899(明治32)年に発表した「不如帰」が大ヒット。その後も「自然と人生」や「思出の記」などの作品で人気を博す。作風は、キリスト教の影響を受けた自然描写と人間愛に満ちた内容が特徴。晩年にはトルストイを訪問し、その思想に共鳴し、東京の世田谷に居を構え、「蘆花恒春園」と名付け自給自足の生活を実践した。反戦思想を唱え、社会問題や人間の生き方について深く考察したことでもその名を馳せている。
【文学の部屋|徳冨蘆花】明治時代編.9
13東京都
1868-1903を生きた小説家、評論家。現在の早稲田大学で学び、坪内逍遥の影響を受けたのちに硯友社を結成し、同人雑誌「我楽多文庫」を発刊した。1885(明治18)年に発表した「二人比丘尼色懺悔」で文壇に登場し、その後『金色夜叉』などの作品で人気を博す。作風は、美しい文体と情感豊かな情景描写が特徴であり、写実主義とロマン主義を融合させた。写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。代表作の「金色夜叉」は、貫一とお宮の悲恋物語が当時の読者に大きな衝撃を与えたが、未完に終わった。門下生には、泉鏡花、徳田秋声、小杉天外、柳浪など。
【文学の部屋|尾崎紅葉】明治時代編.7
38愛媛県
1867-1902を生きた俳人、歌人であり評論家。幼少期から文学に親しみ、特に俳句と短歌に強い関心を持つ。東京大学予備門で学び、後に新聞「日本」の記者として活躍する。1892(明治25)年に「ホトトギス」を創刊し、門下生であった高浜虚子や河東碧梧桐などと共に、従来の俳句の形式や内容にとらわれず、写生を重視した新しい運動となった俳句革新運動を推進。同様に短歌においても革新運動をおこなった。代表作には、病床での生活を赤裸々に綴った随筆「病牀六尺」などがあり、短い生涯の中で多くの名作を残した。
【文学の部屋|正岡子規】明治時代編.7
13東京都
1867-1916を生きた小説家、評論家であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に英文学に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、後にイギリスに留学。帰国後、東京帝国大学で教鞭を執りながら、高浜虚子に勧められ「吾輩は猫である」を1905(明治38)年に執筆し文壇デビュー。その後、「坊っちゃん」や「草枕」などの作品で人気を博し、日本近代文学に新たな視点をもたらした。作風は、ユーモアと風刺に富み、人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「こころ」や「明暗」などの作品を残した。
【文学の部屋|夏目漱石】明治時代編.6
13東京都
1867-1947を生きた小説家。幼少期から江戸文学などに親しみ、特に日本古典文学に強い関心を持つ。1889(明治22)年「風流仏」や1892(明治25)年「五重塔」で文壇に登場し、理想主義的な作風で知られた。のちに、写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受賞している。
【文学の部屋|幸田露伴】明治時代編.5
13東京都
1864-1909を生きた小説家、翻訳家。現在の東京外国田大学でロシア語を学び、ロシア文学に傾倒。その後、坪内逍遥の勧めで「小説総論」を発表する。1887(明治20)年に発表した「浮雲」は、日本初の近代小説とされ、写実主義の先駆けとなる。ロシア文学の翻訳も多く手掛け、特にツルゲーネフの作品を手掛けた。
【文学の部屋|二葉亭四迷】明治時代編.4
32島根県
1862-1922を生きた小説家、翻訳家そして陸軍軍医。現在の東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医としてドイツに留学し、そこで西洋文学に触れる。帰国後、文学活動を本格化させ、1890(明治23)年に「舞姫」を発表し文壇に登場した。「ヰタ・セクスアリス」「青年」「妄想」「雁」や歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」、史伝「渋江抽斎」などを執筆している。晩年には宮内省に勤務し、帝室博物館の総長を務めるなど、多岐にわたる活動を展開した。
【文学の部屋|森 鷗外】明治時代編.3
21岐阜県
1859-1935を生きた小説家、劇作家であり教育者。幼少期から文学に触れ、東京大学で文学を学び、後に早稲田大学の教授となり後進の育成に尽力した。評論「小説神髄」、小説「当世書生気質」を著し、近代的な写実主義文学を唱え、日本の小説や演劇の評価を高めた。リアリズムを重視した作品は、正岡子規の俳句に、その影響を受けたとされる。代表作は「桐一葉」など、シェイクスピアの全作品を翻訳したことでも知られる。
【文学の部屋|坪内逍遥】明治時代編.2
42長崎県
1841-1906を生きた作家、劇作家でありジャーナリスト。西洋学問に親しみ、特に新聞や演劇に強い関心を持つ。幕末には幕府の通訳としてヨーロッパを訪れ、西洋の新聞文化に触れる。明治時代には「江湖新聞」を発行、その後「東京日日新聞」の主筆として活躍し、政治や社会問題に鋭い批評を展開した。また立憲帝政党を結成し、政治活動も行う。論壇を引退してからは、市川団十郎などに共鳴し、演劇改良運動に力をいれ、歌舞伎座の創設にも関わった。代表作に「春日局」など。
【文学の部屋|福地桜痴(源一郎)】明治時代編.1
13東京都
1829-1894を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から当時の文学に関心高く、特に戯作文学に惹かれた。1855(安政2)年に発生した安政の大地震に関するルポルタージュ「安政見聞誌」を執筆したことで、その名を広めるきっかけとなる。1874年には日本人が刊行した最初の漫画雑誌「絵新聞日本地」を創刊した。代表作には「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」など、西洋文化を取り入れた風刺的な作品を残した。
【文学の部屋|仮名垣魯文】江戸時代編.31
13東京都
1816-1893を生きた歌舞伎狂言作者。幼少期から当時の読本などの文学に親しみ、特に歌舞伎に強い関心を持つ。1835(天保6)年に五代目鶴屋南北の門下となり、1843(天保14)年には河原崎座の立作者となった。作品は、特に「白浪物」と呼ばれる盗賊を主人公にした世話物で名作を打ち立て、高く評価された。代表作に「三人吉三廓初買」や「青砥稿花紅彩画」などがある。明治時代には新歌舞伎の先駆者としても活躍し、リアリズムを取り入れた作品を多く手掛け、生涯に手掛けた作品は300以上、晩年までその筆は衰えなかった。
【文学の部屋|河竹黙阿弥】江戸時代編.30
03岩手県
1804-1850を生きた文学者であり、蘭学者、蘭方医。幼少期から文学に親しみ、特に西洋の学問に強い関心を持つ。1837年のモリソン号事件に対する幕府の対応を批判した「夢物語」を著し、幕政を批判後、蛮社の獄で投獄された。その獄中で著した「蛮社遭厄小記」は無実の罪で投獄されたことを記している。いずれも文学としての高い評価を受けている。
【文学の部屋|高野長英】江戸時代編.29
40福岡県
1798-1868を生きた歌人。家業の商いの側、幼少期から文学に親しみ、歌に専念するため家督を弟に譲り、晩年には大阪で時の歌人らと交わった。その歌風は、今この場所を意識した清新自由なもので、庶民生活に即した歌を詠むものであった。
【文学の部屋|大隈言道】江戸時代編.28
26京都府
1791-1875を生きた歌人、陶芸家であり尼僧。度重なる家族の死を経験し、出家して蓮月尼と称する。和歌は上田秋成和らに学び、その才能は広く知られ、自分の歌をほりこんだ陶器蓮月焼は多くの人々の評判を集めた。晩年には幼少の富岡鉄斎に影響を与え、その後の作品に大きな影響を与えたとされる。
【文学の部屋|大田垣蓮月】江戸時代編.27
13東京都
1783-1842を生きた戯作者であり幕臣。旗本の家に生まれ、幼少期から文学に親しみ、『源氏物語』を江戸時代の設定に翻案した長編合巻『偐紫田舎源氏』が大ヒットを記録するも、天保の改革による風俗取締りの影響を受けた。狂歌や川柳にもその才能を発揮し、数多くの作品を残した。
【文学の部屋|柳亭種彦】江戸時代編.26
38愛媛県
1776-1850を生きた歌人であり国学者。村田春海に国学と歌道を学び、医術と歌道の才をもって伊予吉田藩に仕えた。和歌に優れ、平田篤胤や伴信友とともに和学三大家と称された。著作に「潜斎医説」や「みつのなかめ」などがある。
【文学の部屋|本間游清】江戸時代編.25
13東京都
1776-1822を生きた戯作者。黄表紙や合巻、滑稽本の多くの作品を手がけ、その中でも「浮世風呂」や「浮世床」は代表作として知られる。また商人としての一面もあり、化粧品・売薬店を経営して化粧水「江戸の水」薬「仙方延寿丹」などを売り出して成功を収めた。
【文学の部屋|式亭三馬】江戸時代編.24
17石川県
1769-1852を生きた俳人。加賀藩の刀研師の家に生まれ、俳諧を志して京に赴き俳壇活動を始める。その後、江戸や再び京にて活躍し、多くの門人に師事された。句風は天保調で知られる。句集に「梅室両吟集」「梅室家集」など。
【文学の部屋|桜井梅室】江戸時代編.23
13東京都
1767-1848を生きた戯作者。山東京伝に弟子入りを乞うも、弟子ではなく出入りを許され、京伝の代作や黄表紙を執筆。その後、版元だった蔦屋重三郎の後押しをうけ、読本でベストセラーを連発し、一大ブームを巻き起こした。途中でほとんど失明しながら、お路の代筆を得て、大作「南総里見八犬伝」を28年をかけて完成させた。
【文学の部屋|曲亭(滝沢)馬琴】江戸時代編.22
22静岡県
1765-1831を生きた戯作者であり絵師。大坂で浄瑠璃作者となった後、1794(寛政5)年ごろ江戸に出る。版元だった蔦屋重三郎のもとで、黄表紙、洒落本、読み本など著し、人気を博した。その中でも「東海道中膝栗毛」は滑稽本の骨頂作品となった。
【文学の部屋|十返舎一九】江戸時代編.21
20長野県
1763-1828を生きた俳人。幼少期に母を亡くし、継母との不和から家を出て江戸に奉公に出て、その後俳諧師としての活動を始める。松尾芭蕉や与謝蕪村の影響を受けつつも、俗語や方言まじりの生活感情が根付いた、庶民の生活や自然を題材にした独自の作風を確立していく。代表作「おらが春」などを残した。
【文学の部屋|小林一茶】江戸時代編.20
13東京都
1761-1816を生きた戯作者であり浮世絵師。浮世絵を北尾重政に学び、大田南畝に認められ、画師として狂歌絵本の作者となる。その後、朋誠堂喜三二と並び称される黄表紙作家として人気を博するも、洒落本が風俗をみだしたとして50日の刑に処された。それから、読み本作家に転向し、曲亭馬琴と人気を二分する。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」などの随筆を残した。
【文学の部屋|山東京伝】江戸時代編.19
13東京都
1755-1829を生きた歌舞伎狂言作者。初世桜田治助に学んで桜田兵蔵と称し、のち沢兵蔵・勝俵蔵を経て、1811(文化8)年に、南北を襲名した。3世までは、役者あったが4世より作家となる。世話物を得意とし、すぐれた舞台構成と写実的作風の傑作をのこした。代表作「お染久松色読販」「東海道四谷怪談」などがある。
【文学の部屋|鶴屋南北 (4世)】江戸時代編.18
13東京都
1749-1823を生きた狂歌師、戯作者であり幕臣。多くの筆名を持ち、特に「蜀山人」や「四方赤良」の名で知られる。狂歌や狂詩を通じて天明狂歌ブームを牽引し、黄表紙や洒落本など多岐にわたる文芸活動を展開。代表作は、寝惚先生文集や万載狂歌集など。
【文学の部屋|大田南畝】江戸時代編.17
34広島県
1748-1827を生きた漢詩人であり、儒学者。朱子学を学び、私塾廉塾を開いて多くの門人を育成した。その後、福山藩に登用され儒官として活躍。詩集「黄葉夕陽村舎詩」は、当時のベストセラーとなりその人気を博した。
【文学の部屋|菅 茶山】江戸時代編.17
13東京都
1746-1811を生きた歌人であり国学者。賀茂真淵に師事し、国学はもとより、歌や漢詩にも優れ、江戸の歌壇に重きをなし、稀代の名文家とも評されている。また、毒舌家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|村田春海】江戸時代編.16
13東京都
1743-1822を生きた戯作者、浄瑠璃作家であり大工棟梁。1786年に主宰した「噺の会」では、初代三笑亭可楽や初代三遊亭円生などの落語家を輩出し、落語の再興に尽力した。また、式亭三馬や柳亭種彦などを庇護した親分肌でもあった。
【文学の部屋|烏亭焉馬】江戸時代編.15
13東京都
1738-1791を生きた俳人。 与謝蕪村、大島蓼太などと共にこの時代の俳諧で活躍。諸国を遊歴したのちに、江戸日本橋に春秋庵を開いて、その記念に「春秋稿」初篇を編む。その後続刊しながら、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|加舎白雄】江戸時代編.14
13東京都
1735-1813を生きた戯作者であり、秋田藩役人。藩に勤めながら、戯作活動を行い、雅号として「朋誠堂喜三二」や「手柄岡持」を使用して、黄表紙界の大物作家となった。代表作の「文武二道万石通」は、松平定信の寛政の改革を風刺した作品として知られている。
【文学の部屋|平沢常富】江戸時代編.13
27大阪府
1734-1809を生きた読本作者、文化人であり国学者。養父に大阪で育てられ、俳諧、和歌、国学を学び、浮世草子を執筆する。その後、火災で家財を無くし、医術を習得し1776年に大阪で開院。同じ年には「雨月物語」を刊行した。また本居宣長と国学上の論争を起こしたことも記録されている。
【文学の部屋|上田秋成】江戸時代編.12
13東京都
1718-1790を生きた雑俳の点者であり興行師。俳句が砕けた雑俳の作品に優劣を評価し点をつけることを生業とし、これを万句合と称して興行化に成功する。前句に対する付句は、短詩としてその後独立し、この点者の俳号から、のちに川柳と呼ばれるようになり、現在の川柳の原型となった。
【文学の部屋|柄井川柳】江戸時代編.11
20長野県
1718-1787を生きた俳人。江戸に出て、御用縫物師の側、蕉風俳諧を学び、江戸座の宗匠たちに対抗して「雪おろし」を著す。また「江戸二十歌仙」を批評して論争をまきおこしたことで、江戸俳壇に地位を築いていく。その門人は、三千に及んだと伝わっている。
【文学の部屋|大島蓼太】江戸時代編.10
27大阪府
1716-1784を生きた俳人であり画家。俳諧師の早野巴人に師事。師の死後、松尾芭蕉の足跡を辿り、奥の細道を旅する。その後、京都に定住し、与謝の地名を取って「与謝蕪村」と名乗るようになり、蕉風復興に尽力した。画家としては文人画でその名を馳せた。代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。
【文学の部屋|与謝蕪村】江戸時代編.9
26京都府
1712-1774を生きた公卿であり歌人。柿本人麻呂や山部赤人の歌を理想とした和歌を目指し、宮廷歌会でその名声は響き渡り、霊元上皇から古今伝授を受け、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|冷泉為村】江戸時代編.8
13東京都
1703-1782を生きた俳諧師。大名の間で流行していた江戸座俳諧宗匠として活躍し、酒井抱一などを輩出した。また与謝蕪村と親交も厚かったとされる。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【文学の部屋|馬場存義】江戸時代編.7
36徳島県
出生年不明-1747を生きた浄瑠璃脚本家。竹本義太夫の舞台復帰を近松門左衛門と協力し、竹本座の座本としても活躍。人形浄瑠璃の全盛時代を築いた。代表作は「菅原伝授手習鑑」。
【文学の部屋|竹田出雲(初代)】江戸時代編.6
18福井県
653-1725を生きた浄瑠璃および歌舞伎の脚本家。京都で公家に仕え、その後、浄瑠璃作家としての道を歩む。竹本義太夫や坂田藤十郎らと連携し、浄瑠璃や歌舞伎の発展に大きな功績を残した。世話物浄瑠璃として、当時の社会や人間の情感を深く描いた「曽根崎心中」などの名作を生み出した。
【文学の部屋|近松門左衛門】江戸時代編.5
29奈良県
1650-1722を生きた俳諧師。俳諧に親しみ、江戸に出て、松尾芭蕉、椎本才麿らと交流し、談林派の全盛期にその名を刻み、その後蕉風で活躍する。感覚的で唯美的な句を詠無事で知られ「木枯の果てはありけり海の音」の句によって「木枯の言水」として世に知られるようになった。
【文学の部屋|池西言水】江戸時代編.4
24三重県
1644-1694を生きた俳諧師。松永貞徳門下、北村季吟の門より松永貞徳を祖とする 俳諧流派であった貞門派、西山宗因らの談林派をあゆみ、幽玄・閑寂といった趣の匂付に重きをおいた蕉風(正風)を確立。俳諧の連歌(現在の俳句)を芸術文学へと導いた。
【文学の部屋|松尾芭蕉】江戸時代編.3
30和歌山県
1642-1693を生きた俳諧師、浮世草子(小説)作家。西山宗因に師事し、談林派を進む。特に速吟(早詠み)で知られ、一日で23,500句を詠んだとされる。その後、浮世草子という新しい文学ジャンルを開拓し、「好色一代男」や「日本永代蔵」などの作品で人気を博し、これらの作品は、当時の町人文化や風俗を生き生きと描き、後世の文学に大きな影響を与えた流行作家となった。
【文学の部屋|井原西鶴】江戸時代編.2
23愛知県
1583-1672を生きた漢詩人、文学家であり武士。徳川家康に仕え、大坂夏の陣で活躍するも、その後浪人となり藤原惺窩に入門。儒学、書道、茶道、庭園設計に精通し、京都の詩仙堂を建てて隠棲した。特に詩文に長け江戸時代の漢詩人の祖としてその名を刻む。著書に「覆醤集」など。また煎茶の祖とも称される。
【文学の部屋|石川丈山】江戸時代編.1
30和歌山県
1421-1502を生きた連歌師であり文学家。若い頃から和歌や連歌に親しみ、30代でプロの連歌師となる。その後、北野連歌会所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。西行、能因に並んで、松尾芭蕉が敬愛した文学家の一人と伝えられている。
【文学の部屋|宗祇】室町・桃山時代編.1
26京都府
出生年不明-1283を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父、卜部兼顕の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。無常観をテーマにし、深い洞察と鋭い観察力で当時の社会や人間の本質を描き出した日本三大随筆の一つ「徒然草」の著者。晩年には出家し、兼好法師と号した。
【文学の部屋|卜部兼好】鎌倉時代編.6
26京都府
1263-1328を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父である藤原為家の影響を受け、和歌の道に進む。訪問先の鎌倉で歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして関東歌壇の発展に貢献した。母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|冷泉為相】鎌倉時代編.5
48出生地不明
出生年不明-1283を生きた文学家であり歌人。著書である「十六夜日記」は、相続問題の訴訟のために鎌倉に赴いた際の紀行文。「うたたね」は、失恋と出家を回想する日記。和歌の技法や理論について論じた歌論書の「夜の鶴」の著者でもある。阿仏尼は、藤原為家の側室として知られ、冷泉為相の母でもある。
【文学の部屋|阿仏尼】鎌倉時代編.4
26京都府
1155-1216を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父である鴨長継の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。著書である「方丈記」は、日本三大随筆の一つとして無常観をテーマにした作品。「無名抄」は、和歌の技法や理論について論じた。 ※出生年を1155年とさせていただきます
【文学の部屋|鴨長明】鎌倉時代編.3
26京都府
1198-1275を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原定家の影響を受け、和歌の道に進む。続後撰和歌集、続古今和歌集の撰者として活躍。歌学書である「詠歌一体」を著し、和歌の技法や理論について論じている。冷泉為相の父であり、母は、十六夜日記の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|藤原為家】鎌倉時代編.2
26京都府
1149-1207を生きた政治家、僧侶であり、文学家。40年間にわたって書き綴った日記「玉葉」は、当時の政治や社会の状況を詳細に記録しており現在、当時を知る歴史資料となっている。また文学的才能は和歌でも発揮され、千載和歌集などの勅撰和歌集に収められている。藤原俊成、藤原定家ら当代の代表歌人の庇護者として大きな役割を果たした。征夷大将軍源頼朝誕生の立役者でもあり、摂政、氏長者、太政大臣。関白の要職を務めた。
【文学の部屋|九条兼実】鎌倉時代編.1
26京都府
1162-1241を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原俊成の指導を受け、その後「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり活躍した。また「源氏物語」などの古典の書写、校訂にも携わった功績を残している。
【文学の部屋|藤原定家】平安時代編.13
26京都府
1114-1204を生きた政治家、文学家であり歌人。九条の祖である兼実に和歌の師として迎えられ、その後「千載和歌集」の撰者として活躍した。「新古今和歌集」で活躍する実子の定家をはじめ多くの歌人を輩出したことでもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|藤原俊成】平安時代編.12
26京都府
1097-1164を生きた政治家、文学家であり歌人。25歳で関白となり、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇を支える。 詩歌にすぐれ、自然の雄大さを詠み、書は法性寺流と書家としてもその名を馳せた。
【文学の部屋|藤原忠通】平安時代編.11
26京都府
1118-1190を生きた武士、僧、文学家であり歌人。武士として鳥羽上皇に仕え、その後出家し、生涯の大半を奥州から九州の諸国を行脚し多くの和歌を詠んだ。花と月の歌がおおく、その独自の歌風は後の文学に影響を与えた。それらの作品は「新古今和歌集」などに数多く収められている。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|西行】平安時代編.10
25滋賀県
988-1050を生きた僧、文学家であり歌人。藤原長能に和歌を学び、陸奥、甲斐、伊予などを旅して和歌を詠んだ。大江嘉言や源道済らと交遊し、「賀陽院水閣歌合」「内裏歌合」などに名を連ねた。「能因歌枕」「能因法師集」「玄々集」などを残している。 ※いらすとすてーしょんでは能因の出生地を滋賀県とさせていただきました。
【文学の部屋|能因】平安時代編.9
26京都府
845-907を生きた文学家であり歌人、そして朝廷に仕えた官人。宮廷の歌合わせに出詠し、醍醐天皇の命をうけ「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、編纂に携わる。三十六歌仙のひとり。そして紀貫之の従兄弟でもある。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|紀友則】平安時代編.8
48出生地不明
出没年不明 平安時代を生きたと思われる僧、文学家であり歌人。 僧であり歌人の遍昭を父に持ち、その父の勧めで出家し、隠棲生活を送り、その詩才で多くの人々に影響を与えた。作品は「古今和歌集」など多くに収められている。かな書の名手でもあり、三十六歌仙のひとり。 ※いらすとすてーしょんでは素性の出生地を京都府とさせていただきました。
【文学の部屋|素性】平安時代編.7
48出生地不明
出没年不明 平安時代を生きたと思われる僧、文学家であり歌人。宇治山に隠者生活を送り、その詩才で多くの人々に影響を与えた。人物像は主に作品から推測され、隠遁生活とその心境を詠み、都の喧騒から離れた静かな生活を送っていたと考えられている。作品は『古今和歌集』に収録されており、六歌仙のひとりとして知られている。
【文学の部屋|喜撰】平安時代編.6
48出生地不明
出没年不明 平安時代を生きたと思われる文学家であり歌人、そして琵琶法師としても知られる。音楽と詩の才能で多くの人々に愛された。蝉丸の和歌は『古今和歌集』や『新古今和歌集』に収録されており、人物像は主に作品から推測され、自然や人間の感情を深く表現した作品が多い。
【文学の部屋|蝉丸】平安時代編.5
48出生地不明
845-903を生きた文学家であり漢詩人、歌人、そして貴族。文章(もんじょう)博士として朝廷に仕え、宇多天皇の信任を得て寛平の治を支え、右大臣にまで昇進。しかし、901年藤原時平による讒言により大宰府に左遷となる。その文才は菅家文草や菅家後集に収められている。また、古今和歌集には漢詩の素養を生かした格調高い和歌が収録されており、後世の歌人にも大きな影響を与えた。
【文学の部屋|菅原道真】平安時代編.4
34広島県
802-853を生きた文学家であり漢詩人、歌人、そして貴族。稀代の漢学者として名を馳せ、詩文は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」に、和歌は「古今和歌集」などに数多く収められている。また政治の舞台でも活躍し、律令国家を規制した基本法典「養老律令」の官撰の注釈書を清原夏野らと共に文人として編纂に携わる。その仕事ぶりから、昼は朝廷で官吏として働き、夜は冥府で閻魔大王の裁判を補佐するという伝説を残し、「野相公」とも称された。また、小野妹子の子孫とされ、小野小町、小野道風の祖父ともされている。 ※いらすとすてーしょんでは小野篁の出生地を広島県とさせていただきました。
【文学の部屋|小野 篁】平安時代編.3
29奈良県
825-880を生きた文学家であり歌人、貴族。阿保親王の五男として生まれ、官位を持ち、宮廷に仕える。歌才を発揮し、その情熱的な歌風は「古今集」から「新古今集」まで、多くの勅撰集に数多く収められている。また歌物語「伊勢物語」の主人公と知られているが、その多くは謎に包まれている。六歌仙、三十六歌仙のひとり。※いらすとすてーしょんでは奈良県出身とさせていただきます。
【文学の部屋|在原業平】平安時代編.2
26京都府
870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】平安時代編.1
48出生地不明
700年ごろ-785を生きた文学家であり歌人、そして貴族。大伴旅人の長男として生まれ、多くの官職を歴任。歌人としては、日本最古の歌集である『万葉集』の全歌数4516首のうち473首の約10%の歌が掲載されていることから編者の一人とされている。その全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残した。内訳は27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首となっている。政治的な波乱の時代であり、多くの事件や政治闘争に巻き込まれ、759(天平宝字3)年新年の宴の歌を最後に785年の没するまでの約25年間歌を詠まなかったのか、残されていないのか、いまでも不明となっている。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|大伴家持】奈良時代編.2
48出生地不明
出没年不明 奈良時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、下級官人として聖武天皇に仕え、宮廷歌人として活躍したと推察されている。また各地を旅し、その土地の歌を残した。自然の美しさを詠んだ叙景歌で知られ、対句や比喩を多用した緻密な表現が特徴。万葉集は長歌13首,短歌37首が収められている。のちに、柿本人麻呂と共に歌聖と称され、三十六歌仙のひとりでもある。
【文学の部屋|山部赤人】奈良時代編.1
48出生地不明
出没年不明 飛鳥時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、皇子や皇女の死に際しての挽歌や、天皇の行幸に供奉して詠んだ歌が多いことから、宮廷に仕えた宮廷歌人であったと考えられている。柿本人麻呂と明記された歌は万葉集に長歌16首、短歌67首を数え、柿本人麻呂歌集では長短含めて約370首が収められている。皇室関係、自然、旅、死、恋愛などを題材にした雄渾な作風で知られ、のちに、山部赤人と共に歌聖と称されている。
【文学の部屋|柿本人麻呂】飛鳥時代編.1
48出生地不明
出没年不明 奈良時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、下級官人として聖武天皇に仕え、宮廷歌人として活躍したと推察されている。また各地を旅し、その土地の歌を残した。自然の美しさを詠んだ叙景歌で知られ、対句や比喩を多用した緻密な表現が特徴。万葉集は長歌13首,短歌37首が収められている。のちに、柿本人麻呂と共に歌聖と称され、三十六歌仙のひとりでもある。
【文学の部屋|山部赤人】謎だらけの歌聖
34広島県
802-853を生きた文学家であり漢詩人、歌人、そして貴族。稀代の漢学者として名を馳せ、詩文は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」に、和歌は「古今和歌集」などに数多く収められている。また政治の舞台でも活躍し、律令国家を規制した基本法典「養老律令」の官撰の注釈書を清原夏野らと共に文人として編纂に携わる。その仕事ぶりから、昼は朝廷で官吏として働き、夜は冥府で閻魔大王の裁判を補佐するという伝説を残し、「野相公」とも称された。また、小野妹子の子孫とされ、小野小町、小野道風の祖父ともされている。 ※いらすとすてーしょんでは小野篁の出生地を広島県とさせていただきました。
【文学の部屋|小野 篁】閻魔庁にも仕えた文才
29奈良県
825-880を生きた825-880を生きた文学家であり歌人、貴族。阿保親王の五男として生まれ、官位を持ち、宮廷に仕える。歌才を発揮し、その情熱的な歌風は「古今集」から「新古今集」まで、多くの勅撰集に多く収められている。また歌物語「伊勢物語」の主人公と知られているが、その多くは謎に包まれている。六歌仙、三十六歌仙のひとり。※いらすとすてーしょんでは奈良県出身とさせていただきます
【文学の部屋|在原業平】伊勢物語で伝説化!?
48出生地不明
出没年不明 飛鳥時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、皇子や皇女の死に際しての挽歌や、天皇の行幸に供奉して詠んだ歌が多いことから、宮廷に仕えた宮廷歌人であったと考えられている。柿本人麻呂と明記された歌は万葉集に長歌16首、短歌67首を数え、柿本人麻呂歌集では長短含めて約370首が収められている。皇室関係、自然、旅、死、恋愛などを題材にした雄渾な作風で知られ、のちに、山部赤人と共に歌聖と称されている。
【文学の部屋|柿本人麻呂】謎だらけの歌聖
26京都府
870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】日記文学の祖
48出生地不明
700年ごろ-785を生きた歌人であり貴族。三十六歌仙のひとり。大伴旅人の長男として生まれ、多くの官職を歴任。歌人としては、日本最古の歌集である『万葉集』の全歌数4516首のうち473首の約10%の歌が掲載されていることから編者の一人とされている。その全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残した。内訳は27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首となっている。政治的な波乱の時代であり、多くの事件や政治闘争に巻き込まれ、759(天平宝字3)年新年の宴の歌を最後に785年の没するまでの約25年間歌を詠まなかったのか、残されていないのか、いまでも不明となっている。
【文学の部屋|大伴家持】万葉集を完結させた編者
0001アメリカ合衆国出身
1819-1892を生きた詩人。自由な詩形と率直な感情表現を用い「草の葉」などの詩で、個人と社会、自然との調和、平等といった普遍的なメッセージを謳った。またその詩の自由なスタイルや率直な感情表現は、文学の形式や表現方法に新たな可能性を見出し、後の詩人や作家に大きな影響を与え、文学史における巨星としての位置を確立している。
【文学の部屋|ホイットマン】詩に宿る自由と平等
0001アメリカ合衆国出身
1817-1862を生きた文学家であり哲学者。トランセンデンタリズム運動(超越主義者)の一翼を担い、個人の内面的な経験や直感を重要視し、自然との調和、個人の直感的な知識、社会的な改革を唱えた。代表作「ウォールデン、または森の生活」では、自身が小屋で過ごした2年間の経験を通じて自然の美と哲学的な思想を著す。そして個人の良心に従うことの重要性を説き、不正義な政府の法律に対する非協力の立場をCivil Disobedience(市民的不服従)として訴え、後の社会運動や抗議活動に影響を与えたとされている。
【文学の部屋|ソロー】エマーソンに憧れた超越主義者
13東京都
1910-1998を生きたエッセイスト(随筆家)。幼児期より能に触れその後、能を主軸としたエッセイを多数執筆。また能を通じた民俗学への探究から著したエッセイは日本文化の伝播となっている。
【文学の部屋|白洲正子】能探究のエッセイスト
13東京都
1914-1989を生きた詩人。朝日新聞家庭欄の詩を担当。その詩集「月曜日の詩集」でおかあさんの詩としてし人気を博する。詩の入門書「詩の世界」は中学生向けに描かれて一冊はどの世代からも支持を集めている。
【文学の部屋|高田敏子】お母さんは詩人
13東京都
1930- を生きるノンフィクション作家。「滄海よ眠れ」「記録 ミッドウェー海戦」は第二次世界大戦ミッドウェーでの日本の戦死者3,057名全員の軌跡をありのまま描く偉業を成し遂げる。また二・二六事件の謎を紐解く「雪はよごれていた」の著者でもある。
【文学の部屋|澤地久枝】桁外れの取材力
13東京都
1844-1903を生きた歌人。江戸末期より短歌を学び、明治に入り東京小石川に歌塾「萩の舎」を開塾。その門下生に樋口一葉をはじめ約1000人を超えたとされる。
【文学の部屋|中島歌子】樋口一葉の歌の師
36徳島県
1890-1948を生きた歌人。正岡子規を源流とするアララギに入門し島木赤彦に師事。その後女流歌人で綴る「明日香」を創刊しその舞台で女性歌人育成に努めた。
【文学の部屋|今井邦子】昭和代表の女流歌人
40福岡県
1885-1942を生きた詩人であり歌人。明治中期に与謝野鉄幹、晶子らによって浪漫主義の代表となった「明星」を舞台に石川啄木らと活躍する。 その後第1詩集「邪宗門」を発表し一躍日本の詩界のリーダーとなる。
【文学の部屋|北原白秋】「明星」の新人賞
45宮崎県
1885-1928を生きた歌人。尾上柴舟の主宰した車前草社の同人となり師事。その後雑誌「創作」を創刊。日本の歌壇をリードした。 早稲田大学同門であり同郷の北原白秋と親交を深め、また石川啄木の友人でもあり最期を看取ったことでも知られている。
【文学の部屋|若山牧水】白秋、啄木の友人
04宮城県
1871-1952を生きた詩人。瀧廉太郎作曲の「荒城の月」の作詞に代表されるように叙事を彷彿させる詩風で日本の詩界を担った。英文学者としても活躍。
【文学の部屋|土井晩翠】荒城の月は私が描きました
03岩手県
1882-1963を生きた小説家。その代表作は連載26年にも及ぶ「銭形平次捕物控」。長短編あわせて383編の著者。同郷の言語学者金田一京助とは同級生で生涯の友、石川啄木は後輩であり文学を教示する間柄であった。
【文学の部屋|野村胡堂】銭形平次の生みの親
19山梨県
1912-1976を生きた小説家。志賀直哉に師事した尾崎一雄にその才能を認められ、その後知り合う太宰治と親交を深めた。妻の臨終を描いた「リツ子その愛、その死」に代表される私小説の分野で注目を集めた。
【文学の部屋|檀 一雄】走れメロスは私のこと?
40福岡県
1891-1961を生きた大正、昭和に活躍した小説家。初期の作品の作風は自然主義の後の沸き起こった白樺派よりは、美しさこそ芸術の価値とした唯美を彷彿させた。その後は実相を表現するリアリスト的な作品に傾倒する。
【文学の部屋|宇野浩二】唯美からリアリストへ
33岡山県
1889-1971を生きた小説家。夏目漱石の門に入り、同門の芥川龍之介と親交を深める。その師の浪漫性の影響を受け、その後短編集「冥土」を発表し、幻想文学の分野を確立した。昭和期には幻想性から現実味ある随筆に傾倒し人間味のある作品を数々残した。
【文学の部屋|内田百閒】我が師は漱石せんせ
03岩手県
1890-1984を生きた詩人であり、作詞家。自由・平等・友愛を目指した民衆詩派の主軸を担った。イギリスの詩人カーペンター、トラハーン、アメリカの自由詩の父とされるホイットマンに魅了され日本に訳詩集を刊行。戦後は活動の舞台を兵庫県に移し県下で校歌や市町歌の作詞を手掛け兵庫県文化の父と称されている。
【文学の部屋|富田砕花】兵庫県文化の父
13東京都
1912-1977を生きたヨーロッパ文学者であり文壇で活躍した。代表作は1949年英国の文学、そして1960年に発表した文学概論。首相をつとめた吉田茂の長男。
【文学の部屋|吉田健一】私の父は吉田茂です
24三重県
1904-2005を生きた小説家。その作風は作家自身の実体験に基づいた私小説風。戦後朝日新聞に渋谷を舞台にした連載した小説「恋文」が大ヒットし、恋文横丁が渋谷に出現。渋谷ブームの火付け役となった。
【文学の部屋|丹羽文雄】50年代の渋谷ブームの火付け役
46鹿児島県
1901-1977を生きた小説家。特に長編歴史小説を執筆。出身地鹿児島の英雄、西郷隆盛を多数題材とした作品を残す。上杉謙信を描いた「天と地と」は大河ドラマ、映画化と今も読み継がれている。
【文学の部屋|海音寺潮五郎】長編歴史小説家

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13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21New!!
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20
シューちゃん

シュー(Syu)です
2025年も、よろしくね

館長

4年目を迎えた2025年も皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

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