田山花袋 Katai Tayama

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こちらのページでは【文壇発見】「田山花袋」


自然主義文学の話ですが…第一話



をお楽しみください

田山花袋イラストポートレート(Syusuke Galleryより

自然主義文学物語3部作紹介

田山花袋

Katai Tayama

1872-1930

文学家

「田山花袋」自然主義文学の話ですが…第一話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第一話目の注目は…
・柳田國男との出会い
・森鴎外との出会い
・先を越された「蒲団」

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島崎藤村

Toson Shimazaki

1872-1943

文学家

「島崎藤村」自然主義文学の話ですが…第二話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第二話目の注目は…
・田山花袋との出会い
・「破戒」がスタート
・「春」はわたしの懺悔

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国木田独歩

Doppo Kunikida

1871-1908

文学家

「国木田独歩」自然主義文学の話ですが…第三話

「自然主義文学」を浅く簡単にイラストポートレートと共に3回にわたってお届けします。
その第三話目の注目は…
・徳富蘇峰との出会い
・竜土会
・元祖は誰

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自然主義文学「田山花袋」物語

案内役は田山花袋です

1872-1930を生きた漢詩文を学び尾崎紅葉に弟子入り、その後自然主義文学を私小説として書き上げた。

第一話案内役は
私、田山花袋が務めます!

本名は「田山録弥(たやま ろくや)」です

ろくや

今回はわたしの十八番(オハコ)自然主義文学について綴ってみます

ろくや

かなり浅くですが…
日本の自然主義文学を少し覗いてみてください

田山花袋について

ろくや

1872年ですから明治5年、いまの群馬県館林市に生まれました
館林は、6月上旬から中旬にかけて花菖蒲が見頃なんですよ

Tatebayashi City HP
館林市HP
2022年のたてばやし花菖蒲祭り
ろくや

この館林で当時、吉田陋軒先生に漢学を学びました

ろくや

そうして漢詩文に興味をもって文学ってやつに興味を持たんです

ろくや

ちなみに漢詩文とは、漢字のみで書かれた詩ってこと…お分かりですよね

ぼちぼち上京しました

ろくや

そうこうして、わたしを育ててくださっている兄上が上京

ろくや

わたしも兄に従って東京へいきます

ろくや

ときの文壇で輝いておられた尾崎紅葉先生の門を叩いたんです
あのときは緊張したなぁ…

尾崎紅葉の門下に

とくたろう

尾崎紅葉(本名は徳太郎)です。
いらすとすてーしょんさんではわたしの紹介がまだなのが寂しいのぅ

とくたろう

あれは確か明治24(1891)年だったか…
よくわしを訪ねてくれた

とくたろう

そしてワシの門下生となってよく励みましたぞ

柳田國男との出会い

ろくや

そして明治25(1892)年

ろくや

紅葉先生と同じ新宿に居った、生涯の親友

柳田國男を訪ねたんだ

竜土会

くにお

日本民俗学の父と呼ばれている柳田國男です
尾崎紅葉に続いていらすとすてーしょんさんではわたしの紹介がまだなのが寂しいのぅ

くにお

お主はアポなし訪問が得意なのか!?

ろくや

確かに…尾崎紅葉先生のところにもいきなり押し掛けましたから…

くにお

それでもよく年下のわたしを訪ねてくださった

ろくや

それから10年も経たずにして國男の邸宅に自然と文士が集まるようなった

くにお

それを土曜会って言ってたね

ろくや

それからメンバーも多くなったこともありフランス料理屋さんで集まるようになった

くにお

そのフランス料理屋さんの名前‘竜土軒’を文字って竜土会って呼んでいた

ろくや

確かその頃だったよね

ろくや

ナチュラルリズムという文学があると聞いて自然主義って言い出したんだ

日本独自の自然主義文学が出来上がってきた

くにお

この自然主義文学っていうのはフランス人のエミール・ゾラが定義した人の行動を科学的に、そして客観的に表現するってことだったんだけど…

くにお

花袋たちが人の卑しさの直接表現のような方向にさ

くにお

自然主義文学をもっていったような気がするんだ

ろくや

当時の気質にあっていたのか…
それとも親しくしていただいた森鴎外先との交流の中で確信していったのか…

ろくや

んな中で日本独自の自然主義文学がわたしのなかで確立したと思ってるんだけどな。

ろくや

そしてもう一人、わたしに影響を与えたのが…

森鴎外登場

りんたろう

さて、わたしの名を呼んだか?
森鴎外(本名は林太郎)じゃ。
おっ!さすがいらすとすてーしょんさん
わたしの紹介はあるんだな

1862-1922を生きた陸軍軍医は留学先のドイツにて医学はもちろんのこと文学をも学ぶ。帰国後陸軍医総監まで登りつめた一方、号を鴎外とした文壇としての地位も確立し医学文学の世界で活躍した。
【医学の部屋|森鴎外 Ogai Mori】本日2022年7月9日没後100年
りんたろう

1904年かぁ
日露戦争のころ、従軍記者で広島に来ていたそなたが熱発してな…

りんたろう

わたしのところで治療を受けたのが始まりだったよな

ろくや

そうです!
あの時は治療だけでなく
文学談義もありがとうございました

りんたろう

お主は人を惹きつける能力があるんだろうなぁ

島崎藤村「破壊」発表

ろくや

それから帰郷したんですが…

ろくや

竜土会メンバーでライバルであった島崎藤村に…

ろくや

「破戒」を1905年に発表されてしまったんです

ろくや

この「破戒」は…

ろくや

わたしが感じていた自然主義文学そのものでしたから焦りまくりでした

ろくや

お前は次の出番じゃないの?

はるき

まっ、そんな花袋(堅い)こと言うなよ…

ろくや

はるき

わたしのデビュー詩集『若菜集』は
抱えていた情熱や苦悩を作品に込めた
そして多くの若き読者に想いを届けた

はるき

そこで磨いた詩のスキルを小説に活かしたってわけ

はるき

その小説家転身記念作としてできたのが破戒
これがウケた!

田山花袋「布団」発表

ろくや

島崎に先越されたから、自暴自棄になってしまって

ろくや

それでも俺なりにもがき続けた

ろくや

そうして必死に書き上げた「蒲団」

ろくや

話題作となって賛否両論を巻き起こしたけど一躍注目!

国木田独歩登場

ろくや

こんどは国木田独歩氏か…

かめきち

少し私にも言わせてくれよ

ろくや

そなたは島崎の次のはずなのに…

かめきち

お前は真面目なんだよな…

ろくや

それはそうと…

ろくや

わたしと島崎藤村が出した『抒情詩』に寄稿してくれてありがとう

かめきち

こちらこそお声がけいただきありがとうございましたとても嬉しかったよ

かめきち

ところで島崎藤村の「破戒」発表の約2年前だから1903年

ろくや

その話か…

かめきち

わたしが発表した「運命論者」「正直者」が一応自然主義の先駆けっていう評価なんですよ

ろくや

ぐぅ…

はるき

確か、あの時は紅露時代全盛期で国木田氏の作品は世間であまり注目されていなかったような…

はるき

時代を先取りしてしまったって感じかなぁ

かめきち

先見の目はあったってことで…

どうなる自然主義文学…

ろくや

明治も終わりのころ
世の中も激動だったけど、文学の世界もこの約10年の間でいろいろあったんだよなぁ

ろくや

わたしはその後「田舎教師」を1909年に発表
劣等感も挫折もみんな小説に込めた
自然主義文学がもっとももてはやされたころなんじゃなかったかな

ろくや

それが…大正に入ってからこの自然主義文学は衰退の一途を辿ることに…

はるき

奴、かぁ…

かめきち

それって「夏○漱○」?
まぁ、この話はまた今度の機会にでも聞くとするか…

ろくや

いかがでしたか?
今回はわたし田山花袋目線で自然主義文学をお届けしました

ろくや

ここまでお付き合いいただき感謝感謝です

ろくや

ちなみにわたしの生まれ故郷群馬県館林市には
田山花袋記念文学館がございます
お近くまで来られた際はぜひ御足を運んでくださいね

はるき

俺の記念館もあるよ!

ろくや

それはお前のコーナーで紹介しろって…

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田山花袋記念文学館に行こう

田山花袋記念文学館

〒374-0018 群馬県館林市城町1−3
0276-74-5100
行き方 東武伊勢崎線館林駅から徒歩約20分/バス館林・板倉線「子ども科学館前」下車1分/東北自動車道館林ICから車で約15分
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日(休日を除く)・休日の翌日(土・日・休日を除く)・年末年始

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第2話は私「島崎藤村」

第3話は私「国木田独歩」

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48出生地不明
出没生年不明奈良時代を生きたと思われる歌人。情報は作品のみの人物像。宮廷歌人として、また各地を旅し、その土地の歌を残した。自然の美しさや豊かさを写実した叙景歌は特に秀逸であり、万葉集は長歌13首,短歌37首が掲載されている。
【文学の部屋|山部赤人】謎だらけの歌聖
34広島県
802-853を生きた漢詩人、歌人であり政治家。稀代の漢学者として名を馳せ、詩文は「経国集、和漢朗詠集、扶桑集」に、和歌は古今集などに数多く収載にされている。また政治の舞台でも活躍し、律令国家を規制した基本法典養老律令の官撰の注釈書を清原夏野らと共に文人として編纂に携わる。小野妹子の子孫とされ、小野小町、小野道風の祖父ともされている。 ※いらすとすてーしょんでは小野篁の出生地を広島県とさせていただきました。
【文学の部屋|小野 篁】閻魔庁にも仕えた文才
29奈良県
825-880を生きた歌人は六歌仙、三十六歌仙の一人。阿保親王第五子であり、業平をモデルとしたとされる歌物語「伊勢物語」は多くの謎に包まれている。その情熱的な歌風は「古今集」から「新古今集」までの勅撰集に多く収められている。
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48出生地不明
出没生年不明飛鳥時代を生きたと思われる歌人。情報は作品のみの人物像。その作品から皇子、皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての歌が多いところから、歌をもって宮廷に仕えた宮廷歌人であったと考えられる。柿本人麻呂と明記された歌は万葉集に長歌16首、短歌61首を数え、柿本人麻呂歌集では長短含めて約370首を数える。