佐多稲子 Ineko Sata

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こちらのページでは【文壇発見】「佐多稲子」8月9日11時2分、今日読みたい1冊・樹影 文学の部屋 をお楽しみください

佐多稲子イラストポートレート(Syusuke Galleryより

あの人たちは…「樹影」

被爆地長崎。敗戦後3年目の夏、華僑の女柳慶子と画家麻田晋は出遭った。原爆病に脅かされる2人はいたわり合い、自らの生を確かめるように愛し合い、10数年の苦痛の果てに死んで行った。著者の故郷長崎の、酷く理不尽な痛みを深い怒りと哀惜をこめて強靱に描く。原爆を告発した不朽の名作。野間文芸賞受賞。
あの人たちは何も語らなかっただろうか。
あの人たちは本当に何も語らなかっただろうか。
あの人たちはたしかに饒舌ではなかった。
それはあの人たちの人柄に先ずよっていた。

長崎で過ごした幼少期
その日を生きるのも必死だった家族
そして母親の死

叔父をたよりに11年住んだ長崎をあとに上京
過ごした波乱の10代はその後の作品に
そしてさらに波乱の20代が待ち受ける

叔父から学んだ文学
ひょんな縁で可愛がられた芥川龍之介や菊池寛に

終戦は東京で迎えた
その5年後帰る家もない故郷へ
いつも彼女の心の中に長崎があったのだ

そして戦後25年の時を経て執筆した「樹影」
約20年温め続け、時には冷やした原爆投下の事実

作家として故郷の長崎を、故郷の事実を綴った

1972年野間文芸賞受賞

講談社創設者「野間清治」を冠にした小説・戯曲・評論らの中から優秀作を選ぶ賞。
1941年に創設され、戦後の中断をへて1953年再開。2022年は第75回の節目となる。

1972年野間文芸賞受賞作品「樹影」

その記念として1985年12月1日、長崎(諏訪)公園内(長崎市上西山町)樹影文学碑の序幕式挙行

この長崎公園は長崎県最古の公園として市民憩いの場として今も愛されています。
※元来諏訪神社に隣接していることから「諏訪公園」と呼ばれていましたが、明治23年より長崎公園と改名
※ちなみに当時公園と呼ばれる敷地は全国に21ヶ所と記録されていたそうです

現在、長崎公園には27の記念碑(人物像含)あり、「樹影文学碑」もその一つです

生家に程近い諏訪公園には、昭和六十年、地元の有志 によって「樹影の碑」が建立された。碑文には冒頭の次 の文章が刻まれている。 あの人たちは何も語らなかっただろうか。あの人たち は本当に何も語らなかっただろうか。あの人たちはたし かに饒舌ではなかった。それはあの人たちの人柄に先ず よっていた。 この碑は、悲しい出生の後、幼くして故郷を離れ、二 度の結婚と離婚など人生の曲折を味わってきた佐多に とって、「ふるさと」へ回帰する場所となった。

野間清治をしっとるか?

せいじ

講談社を作ったのがワシ「野間清治」

10群馬県
1878-1938を生きた講談社創業者は剣道を愛し、そして南総里見八犬伝を座右の書をして雑誌王と呼ばれるまでに至る。
【研究ネタ】「野間清治」雑誌王はワシ 日本史からみた偉人たち

【日本史探究】「野間清治」キーワードは「講談社創業者」「南総里見八犬伝は座右の書」日本史から見た偉人たちをイラストポートレートでお届けします。

行こう長崎

長崎と武雄温泉間に2022年9月23日西九州新幹線開業予定

祝開業!2022年9月23日「西九州新幹線」

西九州新幹線は、「全国新幹線鉄道整備法」に基づき昭和48年に「整備計画」が決定された九州新幹線西九州ルート(福岡市・長崎市間)のうち、2022年9月23日に開業する武雄温泉・長崎間の路線名称です。
武雄温泉・長崎間は線路延長約66kmをフル規格(標準軌)により整備し、武雄温泉駅で博多・武雄温泉間を運行する在来線特急列車と同じホームで乗換を行う「対面乗換方式」により運行します。

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前回の「佐多稲子」投稿はこちら

いねこ

2度も取り上げていただいて光栄ですわ

日本史探求
1904-1998を生きた自身の実体験から生きることを赤裸々に作品へ、そしてジェンダーダイバーシティにも積極的に取り組んだ小説家。
【探求ネタ】「佐多稲子」日本史から見た偉人たち

【日本史探究】「佐多稲子」キーワードは「戦争責任」「ジェンダーダイバーシティ活動先駆者」日本史から見た偉人たちをイラストポートレートでお届けします。

8月6日広島原爆の日読みたい1冊はこちら

ますじ

この時期になるとよく読まれますな

34広島県
1898-1993を生きた小説家は故郷広島を想い郷土愛に溢れ、原爆を題材とした大作『黒い雨』(1965-66)を発表
【文壇発見】「井伏鱒二」8月6日8時15分今日読みたい1冊・黒い雨 文学の部屋

画家を志した満寿二は兄のすすめで文学の道へ。1929(昭和4)年「山椒魚」等で文壇に登場。1938年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を、1950年「本日休診」他により読売文学賞を、1966年には「黒い雨」で野間文芸賞を受けるなど受賞多数。1966年には文化勲章受賞。

文学家・新着偉人(It's New)はこちらから

02青森県
1909-1948を生きた小説家。幼少期より文学に親しみ、芥川龍之介に傾倒も左翼思想に接する。東京帝国大学文学部仏文科に進み、井伏鱒二に師事する。非合法運動に関係するも離脱し、大学も中退。そして、 戦前・戦後を通じて、自己破壊的な生き方と鋭い人間観察をもとに作品を発表。第二次大戦中に「富嶽百景(1939)」「走れメロス(1940)」など、戦後は「斜陽(1947)」「人間失格(1948)」など、時代と個人の葛藤を描いた。 無頼派として、坂口安吾・織田作之助らと並び称され、戦後の文学潮流に大きな影響を与えた。私生活では度重なる自殺未遂、薬物依存、心中事件など波乱に満ちた人生を送り、1948(昭和23)年、愛人と玉川上水で入水自殺。遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」として命日を偲ぶ日となっている。本名は津島修治。
【文学の部屋|太宰 治】昭和時代編.80New!!
18福井県
1919-2008を生きた小説家。幼少期に貧困のため臨済宗寺院にて徒弟生活に入るも、旧制中学卒業を機に出奔。その後、様々な職業を遍歴しながら文学への志を育み、戦後は宇野浩二に師事。1959(昭和34)年に、実際の詐欺事件を題材にした社会派推理小説「霧と影」を発表し、本格的に作家活動を開始する。 1961(昭和36)年「雁の寺」で第44回直木賞を受賞。以後、「飢餓海峡」、「越前竹人形」など禅寺での体験や女性の宿命的な悲しみを描いた作品で多くの読者を魅了した。
【文学の部屋|水上 勉】昭和時代編.79New!!
13東京都
1919-2008を生きた評論家であり小説家。東京帝国大学医学部在学中より、中村真一郎らと共に押韻定型詩の文学運動「マチネ・ポエティク」を起こす。卒業後、血液学を専門とする医師として活動の傍ら、戦後は日米原爆影響合同調査団の一員として広島に赴き、被爆の実態を調査した経験をもつ。その後フランス留学を経て、医学から文化の見識を深める。帰国後、「日本文化の雑種性(1950)」などで日本文化の多様性を論じ、知識人として注目を集める。 1958(昭和33)年に医業を廃し、以後は執筆活動に専念する。国内外の大学で教鞭をとるなど日本文化と世界をつなぐ知の架け橋として、戦後日本の思想界に大きな足跡を残した。晩年は「九条の会」の呼びかけ人として平和憲法擁護の活動にも尽力。
【文学の部屋|加藤周一】昭和時代編.78New!!
16富山県
1918-1998を生きた小説家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業後、戦時中の中国上海に渡り、武田泰淳らと交わる。敗戦後も現地に留用され、中国国民党宣伝部で徴用された経験を持つ。帰国後、作家活動を開始し、1951(昭和26)年に「広場の孤独」「漢奸」で第26回芥川賞を受賞。第2次戦後派作家と称される。戦後日本の歴史と国際社会を鋭く見つめる視点を持ち、南京事件を中国人の視点から歴史と人間存在の本質を問う戦後文学「時間(1953)」や、画家ゴヤの生涯を描いた「ゴヤ(1973~76)」、古典を現代に読み解く長編エッセイとなる「方丈記私記(1970)」など、歴史・思想・文化を横断する作品を多数発表した。
【文学の部屋|堀田善衛】昭和時代編.76New!!
33岡山県
1917-1978を生きた小説家。慶應義塾大学文学部支那文学科卒業。在学中より「三田文学」に短編を発表を重ねる。戦時中は、召集された南方で遭難し、約半日の漂流し、その後奇跡的に助けられた経験を持つ。戦後は編集者を経て佐藤春夫などに師事し、創作に専念。1951(昭和26)年に「イエスの裔」で第26回直木賞を受賞し、文壇に登場。1956(昭和31)年より週刊新潮に連載された「眠狂四郎無頼控」で剣豪小説ブームを巻き起こし、以後「赤い影法師(1960)」「三国志英雄ここにあり(1969)」など、時代・歴史・伝奇小説を中心に多彩な作品を発表する。スピード感ある文体と自由な発想で人気を博し、「シバレン」の愛称でも親しまれた。1970(昭和45)年には「柴錬三国志・英雄ここにあり」で吉川英治文学賞を受賞。晩年は直木賞選考委員を約12年務めた。
【文学の部屋|柴田錬三郎】昭和時代編.75New!!
28兵庫県
1915-1991を生きた小説家。京都帝国大学文学部仏文科卒業後、大阪市役所に勤務。戦時中はフィリピンに出征や、治安維持法違反により陸軍刑務所に収監された経験を持つ。戦後、1946(昭和21)年に発表した「暗い絵」で文壇に登場し、椎名麟三や武田泰淳らと共に、第1次戦後派の旗手となる。「真空地帯(1952)」は戦後文学の記念碑的作品として、特に海外で高く評価された。また、部落差別による裁判事件を追及した「狭山裁判(1976)」など、小説作品にとどまらず、社会構造を鋭く描いた作品も多く手がけた。生涯にわたって、強い社会意識と、不条理に抗う姿勢を著した文学家であった。
【文学の部屋|野間 宏】昭和時代編.74New!!
13東京都
1914-2006を生きた劇作家。東京帝国大学英文科在学中に中野好夫に師事し、シェイクスピア研究に傾倒。大学院に進み、第二次世界大戦中に日本の民話を素材にした戯曲を書き、戦後に「彦市ばなし(1946)」「夕鶴(1949)」などを発表し、木下民話劇として注目を集めた。その後、ゾルゲ事件の尾崎秀実をモデルにした「オットーと呼ばれる日本人(1962)」など、鋭い視点で思想と現実を表現し、戦後演劇界を代表する存在となる。民話劇から歴史劇、思想劇まで幅広いジャンルを手掛け、常に日本の演劇の可能性を追求し、日本人の心と社会に深く問いかけ続けた文学家であった。
【文学の部屋|木下順二】昭和時代編.73
23愛知県
1913-1943を生きた児童文学作家。幼くして母を亡くし、養子に出されるなど寂しい幼少期を過ごす。旧制半田中学校卒業後、小学校の代用教員として働きながら、児童雑誌「赤い鳥」に「正坊とクロ(1931)」が掲載されたのをきっかけに、童謡・童話の掲載を重ねる。その中でも、1932(昭和7)年に発表した「ごん狐」で注目を集めた。東京外国語学校に入学、そして卒業後は、病気と戦いながら、愛知県立安城高女の教職に就きながら創作を続けるも、第一童話集「おぢいさんのランプ(1942)」が生前の最後の本となった。結核により29歳で早世。戦後は、国語教科書に採用され続け、現在も広く親しまれている。本名は渡辺正八。
【文学の部屋|新美南吉】昭和時代編.72
38愛媛県
1913-1969を生きた俳人。松山中学在学中に俳句を始め、五十崎古郷より「波郷」の号を受け、「馬酔木」に投句をはじめる。その後、上京し水原秋桜子に師事して「馬酔木」に最年少の同人となりながら明治大学で学ぶ。1937(昭和12)年に句誌「鶴」を創刊・主宰する。「鶴の眼(1939)」、 「惜命(1950)」など、人間性に深く根ざした句作で、中村草田男らと共に「難解派」や「人間探求派」などと称された。その俳句創作は、長年苦しんだ持病の結核との壮絶な闘いと深く結びつく。病床での苦悩、生への執着、死への畏れ、そして日常のささやかな喜びが込められた数々の「療養俳句」は、彼の人間的な深みと、俳句にかける情熱を今も伝えている。
【文学の部屋|石田波郷】昭和時代編.71
27大阪府
1913-1947を生きた小説家。第三高等学校在学中、文学作品を手がけ始め、退学後の1938(昭和13)年に発表した「雨」で文壇に注目される。翌年「俗臭」が芥川賞候補となり、その翌年の1940年に著した「夫婦善哉」で新進作家としての地位を確立した。太宰治、坂口安吾、石川淳らとともに無頼派の人気作家として活躍。「オダサク」の愛称で親しまれ、「青春の逆説(1941)」「天衣無縫(1942)」など、大阪庶民の人間味あふれる姿を描いた作品は高い人気を誇った。戦後も数々の作品で、その流行は止まなかったが、結核が悪化し、大喀血して1947(昭和22)年に35歳で早世。短い生涯ながら、戦中・戦後の混乱期における人々の姿を鮮やかに描き出し、日本の大衆文学に多大な影響を与えた。
【文学の部屋|織田作之助】昭和時代編.70
13東京都
1904-1990を生きた小説家であり編集者。印刷業に関わる家庭環境の中で育ち、文学に親しむ。1920(大正9)年、文芸雑誌「サンエス」の懸賞小説に応募した「活版屋の話」が、菊池寛の目にとまり入選。その後小林秀雄らの同人となり数々の作品を手がける。1927(昭和2)年には、横光利一らの推薦を得て文藝春秋社に入社し、その後、編集者、編集長として活躍。戦前に芥川賞・直木賞の制定と運営に深く関わり、「芥川賞・直木賞の育ての親」とも呼ばれた。戦後は、新聞小説「風ふたたび(1951)」などを数多手がけ、連載小説でも活躍し、短編・長編小説の名手として文壇を沸かせた。1981(昭和56)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|永井龍男】昭和時代編.69
20長野県
1912-1980を生きた小説家であり気象学者。 無線電信講習所(現、電気通信大学)を卒業後、中央気象台(現、気象庁)に勤務。戦後、妻・藤原ていの満州からの引揚げ体験記「流れる星は生きている(1949)」がベストセラーとなったことをきっかけに、友情物語「強力伝(1951)」でサンデー毎日の懸賞に入選する。その後、この強力伝を含めた作品集で、第34回直木賞を受賞し文壇に登場。富士山観測所や満州国観象台などでの勤務経験を活かした山岳を舞台の小説を多数執筆した。その他、歴史小説「武田信玄(1969~73)」で、1974(昭和49)年に吉川英治文学賞、1979(昭和54)年には紫綬褒章を受章している。本名は藤原寛人。
【文学の部屋|新田次郎】昭和時代編.68
16富山県
1912-1985を生きた小説家。 旧制富山商業学校卒業後、大阪の住友合資会社に入社し、経理畑を歩むサラリーマン生活の傍ら執筆活動を開始。1947(昭和22)年にオール読物に掲載された「たばこ娘」で文壇に登場し、1951(昭和26)年には「英語屋さん」「颱風さん」などで第25回直木賞を受賞。「三等重役(1951-52)」「停年退職(1962)」などがあり、サラリーマン体験の基づいた哀歓をユーモアとペーソスで描いた作品群で「サラリーマン小説」の先駆者と称えられた。「幽霊になった男」「口紅と鏡(1970)」で吉川英治文学賞を受賞。本名は田中富雄。
【文学の部屋|源氏鶏太】昭和時代編.67
13東京都
1912-1976を生きた小説家。 東京帝国大学文学部支那文学科に進学も、左翼運動に関わる。離脱後、仏教に帰依する。1934(昭和9)年、竹内好らと中国文学研究会を立ち上げた。戦時中は中国戦線に従軍し、転向体験と戦場での重苦い体験を、独自の歴史観で評伝した「司馬遷(1943)」を著し、終戦を上海で迎えた。戦後は「蝮のすゑ(1947)」、「ひかりごけ(1954年)」など、思想的・倫理的テーマを深く掘り下げた作品を手がけた。
【文学の部屋|武田泰淳】昭和時代編.66
19山梨県
1912-1976を生きた小説家。東京帝国大学経済学部在学中に尾崎一雄や太宰治らと交遊し、佐藤春夫に師事する。戦後、先妻の死を描いた「リツ子・その愛」「リツ子・その死(1948~50)」で注目を集める。その後、直木賞受賞作となった「長恨歌(1950)」「真説・石川五右衛門(1950~51)」で流行作家の一人に名を連ねた。無頼派の一人として活躍し、私小説・歴史小説・料理随筆など幅広いジャンルで作品を手がけた。
【文学の部屋|檀 一雄】昭和時代編.65
13東京都
1912-1977を生きた文芸評論家であり小説家。 外交官であった父(後の首相)の影響で、外国で少年期を過ごし、その後ケンブリッジ大学に進学するも中退。帰国後、1935(昭和10)年にエドガー・アラン・ポーの、そしてフランス文学、英文学の翻訳や評論活動を開始し文壇に登場。戦後は、「英国の文学(1949)」「シェイクスピア(1952)」を発表した。その筆は、ヨーロッパ文学の素養を活かした知的で洒脱な文体で、戦後日本の独特な文学論,文明論を数多く残した。元首相の吉田茂の長男。
【文学の部屋|吉田健一】昭和時代編.64
28兵庫県
1911-1973を生きた小説家。貧困の中に育ち、果物屋の小僧やコック見習いなど職を転々とした後、宇治川電鉄(現、山陽電鉄)の車掌として働く。その後、共産党に入党するも1931年に検挙され、約2年間の獄中生活でニーチェやキルケゴールに触れ、実存主義思想に傾倒し、ドストエフスキーに触発され文学を目指す。戦後、1947(昭和22)年に「深夜の酒宴」を発表し、実存主義的な作風の戦後派作家として文壇に登場。1950(昭和25)年にキリスト教に入信し、以後は宗教的な作風へと転じる。「永遠なる序章(1948)」「自由の彼方で(1953~54)」など、庶民の生活と信仰を描いた作品は高く評価された。本名は大坪 昇。
【文学の部屋|椎名麟三】昭和時代編.63
0099850朝鮮民主主義人民共和国出身
1910-2006を生きた小説家。青山学院中等部卒業後、文筆活動を開始し、長谷川伸に師事する。その後「上総風土記(1940)」で第12回直木賞を受賞し、文壇に登場。戦後は時代小説・歴史小説を中心に活躍し、朝日新聞に連載した「佐々木小次郎」が大きな反響を読んだ。「水戸黄門」「田沼意次」などの作品が広く親しまれた。その中で、NHK大河ドラマ「源義経」は原作となり、映像化作品も多数ある。1974(昭和49)年に紫綬褒章、1981(昭和56)年に勲三等瑞宝章を受章。 ※いらすとすてーしょんでは出生地を現在の国名としています
【文学の部屋|村上元三】昭和時代編.62
34広島県
1909-1992を生きた小説家。朝日新聞社に入社後、1952(昭和27)年に発表した「或る「小倉日記」伝」で芥川賞を受賞し文壇に登場し文筆に専念。1957(昭和32)年から雑誌「旅」に連載した「点と線」で、社会の構造や人間の心理に深く切り込む社会派推理小説といった新分野を開拓する。また「日本の黒い霧(1960)」などのノンフィクション作品も手掛けた。本名は松本清張(きよはる)。 いらすとすてーしょんでは、出身地を広島県と表記させていただきます。(出身地は福岡県説もあります)。
【文学の部屋|松本清張】昭和時代編.61
13東京都
1909-1988を生きた小説家。京都帝国大学文学部仏文学科を卒業後、フランス文学スタンダール研究に従事。戦後、フィリピンの戦場で米軍の捕虜経験をもとにした「俘虜記(1948)」で作家としての地位を確立する。代表作の一つ「レイテ戦記(1967~69)」はレイテ島における戦闘経過を克明に再現しながら近代日本の核心に迫った大作。戦後文学の一躍をになった文学家であった。
【文学の部屋|大岡昇平】昭和時代編.60
13東京都
1909-1942を生きた小説家。東京帝国大学文学部国文科を卒業後、横浜高等女学校の教員を務めながら執筆活動を行う。1941(昭和16)年南洋庁国語教科書編集書記としてパラオに赴任前に、先輩作家深田久弥に預けた「山月記」「文字禍」が1942(昭和17)年に文学界に掲載され、文壇の登場した。その後、相次いで作品を発表するも、持病の喘息が悪化し、同年33歳でこの世を去った。
【文学の部屋|中島 敦】昭和時代編.59
40福岡県
1909-1974を生きた評論家であり小説家。京都帝国大学文学部在学中の1931(昭和6年)年、サンデー毎日懸賞小説に「七」で入選し文壇に登場。戦後は文芸評論家として活躍し、特に「アヴァンギャルド芸術(1954)」は、時代の潮流を捉え、芸術運動の新たな方向を探るきっかけとなった。1962(昭和37)年には「鳥獣戯話」で評論活動だけでなく小説も手掛けた。
【文学の部屋|花田清輝】昭和時代編.58
14神奈川県
1908-1973を生きた劇作家であり演出家。 幼少期は孤児同様な生活で東京や大阪で育つ。サトウ・ハチローに身を寄せたことをきっかけに詩作を学び、浅草公園劇場の文芸部に入り活動を開始。戦後はラジオドラマ「鐘の鳴る丘(1947-50)」や「君の名は(1952-54)」で大ヒットを記録。1950年には、東宝社長小林一三に迎えられて「がめつい奴(1959)」を大ヒットさせた。その後「放浪記(1961)」「風と共に去りぬ(1966)」などの名作を手掛け、和製ミュージカル界に大きな影響を与えた。本名は菊田数男。
【文学の部屋|菊田一夫】昭和時代編.57
01北海道
1907-1991を生きた小説家。京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、サンデー毎日の懸賞小説に「流転(1936)」が入選し、それをきっかけに毎日新聞社に入社。1949(昭和24)年に短編小説「闘牛」で、芥川賞を受賞し文壇に登場。「氷壁」などの新聞小説作家として人気を博し、「天平の甍(1957)」「楼蘭(1958年)」など、歴史小説で確固たる地位を築いた。日本ペンクラブ第9代会長を歴任。1976(昭和51)年に文化勲章受章。
【文学の部屋|井上 靖】昭和時代編.56
40福岡県
1907-1960を生きた小説家。早稲田大学英文科を中退後、労働運動に参加したが、検挙をきっかけに文学に転向する。日中戦争従軍前に発表した「糞尿譚」は、1937(昭和13)年、第6回芥川賞を受賞し戦地で表彰を受ける。その後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の兵隊三部作(装幀はいずれも中川一政)で流行作家となった。戦後は戦犯作家として指弾されるも、故郷である生家と、そこで生きる人々の姿を描いた「花と竜(1952-53)」などで再び評価を得た。1960(昭和35)年に睡眠薬により自死。本名は玉井勝則。
【文学の部屋|火野葦平】昭和時代編.55
35山口県
1907-1937を生きた詩人。幼少期から文学に親しみ、ランボーやベルレーヌのフランス象徴派の影響を受けて詩作を始める。1925年に上京し、小林秀雄らと交流。1934(昭和9)年に第一詩集「山羊の歌」で、人生の哀愁や孤独描いた作品で刊行し、詩壇にその名を刻んだ。第二詩集「在りし日の歌(1938年)」の編纂直後の1937年に結核性脳膜炎で早世。
【文学の部屋|中原中也】昭和時代編.54
15新潟県
1907-1978を生きた小説家。17歳で製本業などを営み、1933年に雑誌「大衆倶楽部」を創刊後、作家として生計を立てるため、長谷川伸に師事する。戦後は歴史小説家として活躍し、特に経営指南書としても広く読まれた「徳川家康(1953-1967)」は全40巻に及ぶ大作であり、吉川英治文学賞を受賞し、国民的作家として広く認められた。また、剣術家である柳生但馬守宗矩の生涯を描いた「春の坂道」は、NHK第9作品となる大河ドラマの原作として採用されている。本名は山内正造。
【文学の部屋|山岡荘八】昭和時代編.53
15新潟県
1906-1955を生きた小説家。東洋大学印度哲学科を卒業後、文壇の大家であった島崎藤村や宇野浩二らが絶賛した「黒谷村(1931)」などで文壇に登場。戦後は、人間の本質を洞察した作品「堕落論(1946)年」などで、衝撃をもたらした。既存の価値観や権威に囚われない自由な精神と、戦後の虚無感を正面から見据える姿勢から、無頼派などとよばれ、敗戦直後の文壇の旗手として脚光を浴びる。また、歴史小説や推理小説も手掛けている。1955年に50歳で早世。本名は坂口炳五。
【文学の部屋|坂口安吾】昭和時代編.52
20長野県
1905-1987を生きた小説家、編集者であり評論家。 東京帝国大学文学部を卒業後、旧制伊那中学や松本女子師範学校、上京して東京女子大学でも教鞭を執る。その傍ら、1940(昭和15)年に筑摩書房の創立に参加し、戦後発刊した「展望」の編集長として活躍。「現代日本文学全集」「明治文学全集」などを手掛けた。第10回谷崎潤一郎賞となる、新宿中村屋の創立者の相馬夫妻を取り巻く新しい文化を創り出そうとする群像を故郷を舞台に描いた「安曇野」などの作品も残した。
【文学の部屋|臼井吉見】昭和時代編.51
34広島県
1905-1951を生きた詩人であり小説家。慶應義塾大学英文科を卒業後、三田文学に詩や短編小説を発表し始める。1945年に出身地であり疎開先の、広島で被爆し、その体験をもとにした作品「夏の花(1947年)」で第1回水上滝太郎賞を受賞し注目を集める。その後も、ひたすら死を見つめつづけ、作品にその想いを綴った「鎮魂歌」「心願の国」などを残し、1951年に鉄道自殺という最期の選択した。
【文学の部屋|原 民喜】昭和時代編.50
05秋田県
1905-1985を生きた小説家。早稲田大学英文科を中退後、ブラジル移民団に参加し、その経験をもとにした小説「蒼氓(1935年)」で第1回芥川賞を受賞。戦後は社会派作家として活躍し、戦後の混乱や社会問題を描いた「風にそよぐ葦(1949~)」や教育問題に切り込んだ「人間の壁(1957~)」などの力強い作品を発表した。日本文芸家協会理事長や日本ペンクラブ会長を歴任し、日本の文学界の発展に尽力した。
【文学の部屋|石川達三】昭和時代編.49
01北海道
1905-1969を生きた小説家、評論家。 小樽高等商業学校(現、小樽商科大学)在学中の1926年に詩集「雪明りの路」を自費出版する。その後、教員を経て東京商科大学(現、一橋大学)に進学し、ジェイムズ・ジョイスに影響を受ける。戦後1950年には、D.H.ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳を手掛けた際、猥褻文書頒布の容疑で起訴され、物議を醸した。代表作に自伝小説の「若い詩人の肖像(1954~1956)」、日本の近代文学の変遷を詳細に記述した「日本文壇史(1952-1969)」、日本における私小説を西欧と対比し明らかにした「小説の方法(1948)」などがある。本名、伊藤 整(ひとし)。
【文学の部屋|伊藤 整】昭和時代編.48
13東京都
1904-1967を生きた小説家。明治大学商学部を卒業後、舟橋聖一らが結成した劇団心座の一員となり、新劇運動に参加。父の影響を受け、武道の天才児をモデルに、1942(昭和17)年に発表した「姿三四郎」が大ヒットし、流行作家となる。戦後は「刺青(1947)」「面(1948)」で直木賞を受賞。時代物から現代物まで数多く作品を手がけ、映画やドラマ化された。父は、講道館四天王のひとり富田常次郎。
【文学の部屋|富田常雄】昭和時代編.47
13東京都
1904-1976を生きた小説家であり劇作家。 東京帝国大学文学部在学中に、村山知義らと共に劇団心座 を結成。卒業後、文芸雑誌「行動」に加わり、行動主義文学を提唱する。代表作には、戦前の「木石(1938)」や戦後の「雪夫人絵図(1948)」など流行作家としてその名を刻んだ。また井伊直弼の波瀾の人生を書いた歴史小説「花の生涯(1953)」はNHK大河ドラマの第一作(1963)としても知られる。
【文学の部屋|舟橋聖一】昭和時代編.46
24三重県
1904-2005を生きた小説家。 早稲田大学文学部国文学科を卒業後、生家の寺で僧職に就くも、1932(昭和7)年に小説「鮎」で文藝春秋に掲載され、文壇に登場した。男女間の機微を描く風俗小説で人気を博す一方で、「親鸞」「蓮如」などの宗教的作品で人気を博した。作家としての活動だけでなく、日本文芸家協会の運営にも尽力し、日本の文学界の発展に大きく貢献。その長年の功績が認められ、1977年(昭和52年)に文化勲章を受章。
【文学の部屋|丹羽文雄】昭和時代編.45
13東京都
1904-1953を生きた小説家。 東京帝国大学文学部国文科を卒業後、芥川龍之介や室生犀星に師事し、文学活動を展開。1926(大正15)年中野重治らと同人誌「驢馬」を創刊する。代表作には「聖家族(1930年)」などがあり、特に「風立ちぬ(1937)」は婚約者の死に触れた描いた作品として知られる。戦後は戦争末期に租界した軽井沢で、持病であった肺結核と闘病生活を送った。
【文学の部屋|堀 辰雄】昭和時代編.44
44大分県
1903-1975を生きた小説家。幸徳秋水などに傾倒し、東京帝国大学法学部在学中に、プロレタリア文学運動に参加。1926(昭和2)年に小説「林檎」を発表し文壇に登場。1933(昭和8)年に、川端康成、小林秀雄らと共に「文学界」を創刊。戦後は「息子の青春(1950)」などの中間小説をかき、「大東亜戦争肯定論」で話題をよんだ。本名は後藤寿夫。
【文学の部屋|林 房雄】昭和時代編.43
01北海道
1903-1984を生きた小説家であり評論家。 東京帝国大学仏文科卒業後、「文学界」などの文芸雑誌での執筆活動を開始。戦後は、戦争末期にルソン島で日本軍とともに5か月の間山中を敗走した経験を「山中放浪(1949)」で著した。代表作「天皇の帽子(1950)」で直木賞を受賞。文化功労者としても知られ、1968年より文化庁初代長官として日本の文化振興に尽力した。兄は今 東光。
【文学の部屋|今 日出海】昭和時代編.42
07福島県
1903-1988を生きた詩人。 慶應義塾普通部を中退後、中国広東にわたり嶺南大学で学ぶ。1928(昭和3)年に、心情を蛙に託した詩集「第百階級」を刊行。1935(昭和10)年には現在も続く詩誌「歴程」などに加わり、詩作活動を活発化、多くの詩人も育てた。戦後も「歴程」を復刊など、詩の世界で活躍を続けた。その世界観は、特に蛙をテーマにした作品で知られ、自然の息吹や、飾らない庶民の生活を描いた作品が多い。文化功労者、1987(昭和62)年文化勲章受章。日本芸術院会員としても活躍した。
【文学の部屋|草野心平】昭和時代編.41
19山梨県
1903-1967を生きた小説家。後年ペンネームとなる山本周五郎質店で見習い、新聞・雑誌記者を経て、1926(昭和元)年に文藝春秋の懸賞に応募した「須磨寺附近」で文壇に登場。戦後、「樅ノ木は残った(1958)」「赤ひげ診療譚(1958)」「青べか物語(1960)」「さぶ(1963)」など、常に庶民の立場にたち、既成権威に毅然と抵抗する姿を描いた作品は、高い評価を得た。第17回直木賞時には「読者から寄せられる好評以外に、いかなる文学賞もない」と辞退している。また、1987年9月「山本周五郎賞」が新潮文芸振興会により設定された。本名、清水 三十六。
【文学の部屋|山本周五郎】昭和時代編.40
13東京都
1902-1983を生きた文芸評論家であり作家。東京帝国大学文学部仏文科在籍中に、フランス象徴派を基盤とした文学批評を開始し、卒業後の1929(昭和4)年に懸賞評論に「様々なる意匠」を発表し文壇に登場。1933(昭和8)年には文学界を創刊に携わり、1935(昭和10)年「私小説論」で私小説を批判し、文芸評論家としての地位を確立した。戦中に「無常といふ事」や戦後の「モオツァルト」を発表後、思想家としてその存在を高め、晩年は「本居宣長」といった学問論を展開し保守文化人としても知られた。日本芸術院賞、読売文学賞、野間文芸賞など数々の賞を受賞し、1967(昭和42)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|小林秀雄】昭和時代編.39
05秋田県
1903-1933を生きた小説家。小樽高等商業学校卒業後、北海道拓殖銀行に勤務しながら創作活動を開始。志賀直哉に傾倒し、葉山嘉樹らに影響され、プロレタリア文学へと進む。1929(昭和4)年に発表した「蟹工船」で注目を集め、労働者の過酷な生活と闘争を描いた作品で高い評価を得た。1931(昭和6)年に日本共産党に入党し、政治的弾圧を受けながらも「転形期の人々(1931~32)」などの作品を手がけた。1933(昭和8)年に特高警察に逮捕され、拷問の末に29歳で亡くなる。その死は多くの人々に衝撃を与えたが、その作品は後世にわたり、いまも読み継がれている。
【文学の部屋|小林多喜二】昭和時代編.38
33岡山県
1903-1973を生きた小説家であり評論家。東京帝国大学文学部英文学科卒業後、1930(昭和5)年に短編集「恋とアフリカ」、評論集「主知的文学論」を発表し注目を集める。1936(昭和11)年に発表した小説「冬の宿」で作家的地位を確立した。戦後は「黒い影(1949)」「人工庭園(1954)」など、知的かつ人間の内面を深く探求する作品で高い評価を得た。英米文学の翻訳でも知られ、「白鯨(1955)」などの翻訳も手掛けている。
【文学の部屋|阿部知二】昭和時代編.37
07福島県
1902-1977を生きた劇作家であり小説家。早稲田大学英文科在学中に一幕物で注目を集めるも中退。その後農民運動に身を投じる。その後、劇作を再開し、1934(昭和9)年に発表した「鼬(いたち)」が久保田万太郎の演出により上演され注目を集める。戦後は、喜劇から笑劇に傾倒し「中橋公館(1946)」「黄色い部屋(1948)」など、鋭い人間観察と社会風刺を交えた作品で高い評価を得た。放送劇の分野でも活躍。
【文学の部屋|真船 豊】昭和時代編.36
18福井県
1902-1979を生きた小説家、詩人であり政治家。東京帝国大学文学部独文科卒業後、日本プロレタリア芸術連盟に参加し、文学運動を展開する。1931(昭和6)年に日本共産党に入党し、度重なる政治的弾圧を受けた。この経験から、「村の家(1935)」や「斎藤茂吉ノオト(1942)」などの作品をうむ。戦後も、日本共産党員として活動をつづけるも、政治的イデオロギーに縛られない文学の自由を求め、政治主義に抗する文学運動を展開。「むらぎも(1954)」「梨の花(1958)」など、社会主義リアリズムと人間の苦悩を描いた作品で高い評価を得た。1947(昭和22)年~1950(昭和25)年まで参議院議員を務めている。
【文学の部屋|中野重治】昭和時代編.35
0089中華人民共和国出身
1901-1983を生きた俳人。東京帝国大学文学部独文科から国文科に移り正岡子規を卒業研究の題材とした。卒業後、高浜虚子に師事し水原秋桜子に学び、「ホトトギス」で客観写生を学ぶ。当時の新興俳句運動には終始批判的態度を通した。人間探求派の俳人として活動する。戦後1946(昭和21)年「万緑」の創刊は、戦後俳句の散文的傾向に抗した。その後、成蹊大学で教育にも尽力した。名句とうたわれた「降る雪や 明治は遠く なりにけり(1936年・長子)」は、母校の東京・南青山の青南小学校の句碑となっている。
【文学の部屋|中村草田男】昭和時代編.34
46鹿児島県
1901-1977を生きた小説家。國學院大學高等師範部国漢科卒業後、中学教師を務めながら創作を始め、1934(昭和9)年に教師から文筆に専念。1936(昭和11)年に発表した「天正女合戦」と「武道伝来記」で第3回直木賞を受賞し、文壇にその名を刻む。戦後は「平将門」「天と地と」「西郷隆盛」など、史伝文学の復興に尽力し、高い評価を得る。日本の歴史と人物を詳細に描いた作風で、歴史文学界で活躍した功績により、1973(昭和48)年に文化功労者に選ばれている。本名、末富東作。
【文学の部屋|海音寺潮五郎】昭和時代編.33
13東京都
1901-1977を生きた劇作家であり演出家、そして画家でもある。東京帝国大学哲学科を中退後、ベルリンに遊学し、コラージュによる「あるユダヤ人の少女像」や「美しき少女に捧ぐ」などを制作する。1923(大正12)年に帰国後に前衛美術団体マヴォを結成。意識的構成主義を主張して、美術・演劇・舞踊に魅せられた作品を発表した。その後、プロレタリア演劇運動に参加し、「暴力団記」などの戯曲を発表。戦後は、新協劇団の再建や、東京芸術座の創立に関わり、演劇界に大きな影響を与えた。妻の村山籌子の童話につけた童画作家としてもその名を刻んだ。
【文学の部屋|村山知義】昭和時代編.32
15新潟県
1900-1935を生きた小説家であり、翻訳家。明治大学専門部法学科卒業後、渡米し、約7年間アルバイトをしながら英文学を学ぶ。帰国後の1925(大正14)年に全米の放浪体験を題材とした「ヤング東郷」など谷譲次のペンネームで作家デビュー。その後、旅行記はこのペンネームを用いる。その後、林不忘のペンネームは「丹下左膳」などの時代物を、牧逸馬のペンネームで推理小説や家庭小説「地上の星座」などを著した。1935(昭和10)年に35歳で急逝し、大きな大衆文壇を失った。
【文学の部屋|長谷川海太郎】昭和時代編.31
02青森県
1900-1986を生きた小説家。慶應義塾大学文学部国文科卒業後、郷里青森県や秋田県で教員となる。その後、1933(昭和8)年に「若い人」を発表し作家的地位を確立する。戦後は「青い山脈」や「陽のあたる坂道」など新聞小説で頭角を著し、青春と希望を描いた作品で国民的な人気を博した。健全な常識に立ち明快な作品を書き続けた功績が評価され、1966(昭和41)年に第14回菊池寛賞を受賞。
【文学の部屋|石坂洋次郎】昭和時代編.30
27大阪府
1900-1977を生きた小説家。関西学院普通部卒業後、佐藤春夫に師事し、1923(大正12)年に「一千一秒物語」を発表して文壇に登場。1926(昭和元)年に発表した「星を売る店」で注目を集め、天体や科学文明を題材にした幻想的な作風でモダニズムの先駆者として知られる。戦後は「弥勒」「ヰタ・マキニカリス」など、少年愛や哲学的テーマを扱った作品を発表し、1968(昭和43)年に「少年愛の美学」で第一回日本文学大賞受賞。独自の宇宙論的視点と美学で、その名を刻んだ。
【文学の部屋|稲垣足穂】昭和時代編.29
27大阪府
1900-1964を生きた詩人。現在の京都大学を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒業後、萩原朔太郎に寄宿し、その後詩誌「詩と詩論」の創刊に携わり、現代詩運動を展開して文壇に登場。1930(昭和5)年に発表した「測量船」で注目を集め、詩人としての地位を確立した。四行詩集「南窗集」は、フランス近代詩や東洋の伝統詩の詩法をミックスし、美的死的幻想世界から生命感あふれる田園世界を著した作品に仕上げた。1934年、堀辰雄、丸山薫と主知的抒情詩の拠点となる第二次「四季」を創刊し、戦前の中心詩人であった。
【文学の部屋|三好達治】昭和時代編.28
01北海道
1900-1958を生きた劇作家であり、演出家。東京帝国大学文学部卒業後、小山内薫に師事し、築地小劇場で新劇運動を展開して文壇に登場。1938(昭和13)年に発表した大作「火山灰地」や「五稜郭血書(1933)」で注目を集めた。戦後に著した「林檎園日記(1947)」など、社会主義リアリズムと人間の苦悩を描いた作品で高い評価を得て、国内外で深い共感を呼んだ。新協劇団や東京芸術劇場の結成に参加し、演劇界に大きな影響を与えた。その後、郷里北海道を題材とした長編小説「のぼり窯」を執筆中に持病であったうつ病が悪化し、1958年入院先で縊死した。
【文学の部屋|久保 栄】昭和時代編.27
27大阪府
1899-1972を生きた小説家であり、1968(昭和43)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した文豪。東京帝国大学文学部卒業後、横光利一らとともに「文芸時代」を創刊し新感覚派運動を展開して文壇に登場。1926(昭和1)年に青春と孤独を描いた「伊豆の踊子」で注目を集め、戦前から戦後に著した「雪国」「千羽鶴」「山の音」「古都」など、日本の自然美と人間の内面を繊細に描いた作品で高い評価を得る。日本的美意識と孤独、死生観を主題とした作風は、国内外で深い共感を呼んだ。日本ペンクラブ会長や国際ペンクラブ副会長も務め、国際文化交流にも尽力。1972(昭和47)年の自死は多くの人々に衝撃を与えた。
【文学の部屋|川端康成】昭和時代編.26
13東京都
1899-1987を生きた小説家。教員などを経て、1935(昭和10)年37歳時に「佳人」で作家デビュー。1936(昭和11)年に著した「普賢」で翌年第4回芥川賞を受賞し、文壇に確固たる地位を築く。戦後は「焼跡のイエス」「処女懐胎」など、寓意と神話性を帯びた作品を発表し、太宰治・坂口安吾らとともに「無頼派」「新戯作派」として注目を集めたが、その中でも、特に知的で寓意的な作風で異彩を放った。
【文学の部屋|石川 淳】昭和時代編.25
24三重県
1899-1983を生きた小説家であり随筆家。早稲田大学文学部国文科を卒業後、志賀直哉に師事し、私小説の道を歩む。1937(昭和12)年に短編集「暢気眼鏡」で第5回芥川賞を受賞し、作家的地位を確立。戦後は、「虫のいろいろ」や「まぼろしの記」など、病や死と向き合う中での静謐な心境を描いた哲学性の溢れる作品を多く残した。1978(昭和53)年、文化勲章受章。
【文学の部屋|尾崎一雄】昭和時代編.24
44大分県
1899-1974を生きた詩人であり随筆家。海洋文学に傾倒し、東京高等商船学校に入学も病により断念する。その後、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学するも中退。そして詩作に専念。1932年(昭和7)第一詩集詩集『帆・ランプ・鴎』で注目を集め、1933(昭和8)年には堀辰雄らと詩誌「四季」を創刊し、昭和叙情詩の先頭に立つ。戦後は、愛知大学で教鞭を執り、豊橋市に居を構えて創作と教育に尽力した。
【文学の部屋|丸山 薫】昭和時代編.23
14神奈川県
1898-1977を生きた小説家であり僧侶、政治家。兵庫県豊岡中学校を中退後、川端康成と交わり、1923 (大正12)年「新思潮」、そして「文藝時代」に参加する。その後、プロレタリア文学運動に呼応した「文党」を主宰し、新感覚派の作家として注目を集めた。1930(昭和5)年に出家する。戦後も文壇で活躍し、1957(昭和32)年に「お吟さま」で直木賞を受賞。以後「悪名」「春泥尼抄」「河内風土記」など、大阪・河内の庶民文化や人情を描いた「川内もの」の作品で人気を博した。1966(昭和41)年に平泉中尊寺の貫主をつとめ、1968(昭和43)年に参議院議員当選。毒舌和尚としてテレビや週刊誌でも活躍。宗教・文学・政治を横断する異色の文人として昭和文化に独自の足跡を残した。
【文学の部屋|今 東光】昭和時代編.22
34広島県
1898-1993を生きた小説家であり随筆家。早稲田大学仏文科に学ぶも中退し、1923(大正12)年に「幽閉」を発表し、のちに「山椒魚」と改題し、文壇に名を知られるようになる。その後、戦前の日常を描いた「屋根の上のサワン」や、戦後の混沌とした世相を描いた「本日休診」など、おかしみと哀愁を織り交ぜた独自の文体で人気を博す。1938(昭和13)年に「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を受賞し、戦後は原爆を題材にした「黒い雨」で野間文芸賞を受章する。太宰治の師としても知られ、阿佐ヶ谷文士村の中心人物として文壇に大きな影響を与えた。1966(昭和41)年、文化勲章受章。
【文学の部屋|井伏鱒二】昭和時代編.21
14神奈川県
1897-1973を生きた小説家でありノンフィクション作家。東京帝国大学法学部を卒業後外務省を経て、1924(大正13)年に「鞍馬天狗」で文壇にその名を刻み始め、その後「赤穂浪士」でその名を刻む。「ドレフュス事件」「霧笛」「帰郷」など、時代小説から現代小説、ノンフィクションまで幅広いジャンルで活躍する。特に「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」などの歴史ノンフィクションでは、綿密な取材と重厚な筆致で高い評価を得た。戦後は反戦・平和の思想を貫き、文化勲章受章や芸術院賞を受賞。また、鎌倉の自然保護活動にも尽力し、文学と社会活動を両立させた文人として知られる。本名、野尻清彦。
【文学の部屋|大佛次郎】昭和時代編.20
23愛知県
1895-1975を生きた詩人であり随筆家。早稲田大学や東京美術学校、慶應義塾大学などで学ぶもいずれも中退し、1923(大正12)年に詩集「こがね蟲」で詩壇に登場。ヨーロッパ象徴派の影響を受けたモダニズム詩を展開。そして発表した「鮫」は、戦時中も一貫して体制に迎合せず、鋭い社会批評と人間観察に基づく「抵抗詩人」としてその名を刻んだ。戦後は「落下傘」「蛾」など、反戦・反権力の精神に貫かれた詩を著している。自伝的な「人間の悲劇」「どくろ杯」なども残している。
【文学の部屋|金子光晴】昭和時代編.19
17石川県
1895-1984を生きた詩人であり宗教家、そして日本における自然保護運動の先駆者。天台宗の僧侶として修行を積む傍ら、詩歌や評論を発表し、1922(大正11)年創刊「日本詩人」に詩集「東京市」を発表。都市と自然の対比を描いた詩風で注目を集める。やがて都会生活に疑問を抱き、武蔵野に移住して田園生活に入り、野鳥観察を通じて自然との共生を模索。1934(昭和9)年には「日本野鳥の会」を創設し、「野鳥」といった言葉を生み出す。代表作に「野鳥と共に」「野鳥を訪ねて」などがあり、科学的観察と詩的感性を融合させた「野鳥文学」の創始者として活躍した。
【文学の部屋|中西悟堂】昭和時代編.18
15新潟県
1894-1982を生きた詩人であり英文学者。慶應義塾大学を卒業後、1922(大正11)年に渡英し、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。帰国後は慶應義塾大学教授として教鞭を執る傍ら、1933(昭和8)年に詩集「Ambarvalia」を刊行し、日本近代詩におけるモダニズムとシュルレアリスムの先駆者として注目を集める。代表作に「旅人かへらず」「近代の寓話」などがあり、豊かな語感と幻想的なイメージで詩の新境地を切り拓いた。英詩や仏詩の翻訳、詩論・文学評論に大きな足跡を残した一人である。
【文学の部屋|西脇順三郎】昭和時代編.17
41佐賀県
1894-1955を生きた小説家であり社会教育家。東京帝国大学英文科を卒業後、出身地佐賀中学校や校長を務めたのち、文筆と社会教育の道へ進む。1936(昭和11)年より代表作「次郎物語」の連載を開始し、青少年の成長と人間形成を描いた自伝的小説として広く読まれた。その他に「論語物語」「心窓去来」など、その生涯は、文学と教育の両面で昭和の時代で活躍した。
【文学の部屋|下村湖人】昭和時代編.16
21岐阜県
1894-1984を生きた小説家であり俳人。俳句を河東碧梧桐に学び、新傾向俳句運動に参加。1927(昭和2)年に発表した長編小説「無限抱擁」で注目を集めた戦後は「野趣」「俳人仲間」など、独特の描写で高い評価を得た。志賀直哉を生涯の師と仰ぎ、芥川龍之介などとも交わり、文壇では「龍門の四天王」とも称さる。1974(昭和49)年には文化功労者に推されている。
【文学の部屋|瀧井孝作】昭和時代編.15
24三重県
1894-1965を生きた小説家であり評論家。早稲田大学政治経済学部卒業後、1923(大正12)年に「二銭銅貨」で作家デビュー。欧米の探偵小説に影響を受けながら、日本独自の推理小説を確立した。その後「D坂の殺人事件」「人間椅子」など独創的なトリックで読者を魅了する。そして代表作である少年向け「怪人二十面相」シリーズなど、幻想・怪奇・倒錯を織り交ぜた作風で人気を博した。戦後は評論や編集活動を通じて推理小説の普及に尽力。1954(昭和29)年には「江戸川乱歩賞」を創設し、後進の育成にも貢献した。
【文学の部屋|江戸川乱歩】昭和時代編.14
14神奈川県
1893-1969を生きた小説家であり劇作家。慶應義塾大学で学ぶも中退し、1922(大正11)年に演劇を学ぶために渡仏。帰国後、1934(昭和9)年に長編小説「金色青春譜」で人気をさらう。代表作品の「悦ちゃん」「てんやわんや」や「自由学校」など、ユーモアに富む家庭小説や風俗小説で人気を博した。1937(昭和12)年には、久保田万太郎、岸田國士らと劇団文学座を創立し、演劇界にも多彩な才能を発揮した。
【文学の部屋|獅子文六】昭和時代編.13
13東京都
1892-1981を生きた詩人であり翻訳家。与謝野鉄幹と与謝野晶子の勧めで慶應義塾大学で文学を学ぶも中退。1918(大正7)年にフランス詩との若々しい共感を盛った第一訳詩集「昨日の花」などを発表し、日本近代詩に新たな風を吹き込んだ。その功績は、フランス新精神文学の小説、戯曲、エッセイの訳も数多くあり、当時の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|堀口大學】昭和時代編.12
13東京都
1892-1981を生きた俳人であり医師。俳句を高浜虚子に師事し、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に4Sと呼ばれて昭和初期のホトトギスに黄金時代を築いた。1931(昭和6)年主宰誌「馬酔木」で虚子の写生観を批判し、新興俳句運動を推進。東京帝国大学で医学を学び、産婦人科医として活躍。昭和医学専門学校の教授も歴任している。
【文学の部屋|水原秋桜子】昭和時代編.11
27大阪府
1891-1934を生きた小説家。早稲田大学で英文科を学ぶも中退。その後、出版社など設立するも失敗をくり返す。1921(大正10)年31歳の時に「時事新報」に文芸時評を直木三十一の筆名で執筆し、文筆に専念する。ちなみに、年を追って三十二、三十三とし、三十四を飛ばして三十五の筆名で定着している。1930(昭和5)年島津藩の題材とした「南国太平記」を著し、時代小説の流行作家として活躍する。時代小説を芸術分野に高めた功績を讃え、没後その名を冠した直木賞が創設された。本名は植村宗一。
【文学の部屋|直木三十五】昭和時代編.10
03岩手県
1882-1963を生きた小説家。報知新聞社で記者として働きながら、音楽評論家としても活動。1931(昭和6)年から書き始めた「銭形平次捕物控」は383話におよび、江戸時代を舞台とした捕物帳シリーズとして絶大な人気を博した。また、「あらえびす」のペンネームでクラシック音楽に関する評論を数多く執筆し、当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。晩年には故郷の紫波町に蔵書を寄贈し、胡堂文庫を設立。1960年には文化勲章を受章。
【文学の部屋|野村胡堂】昭和時代編.9
13東京都
1890-1954を生きた劇作家であり小説家。東京帝国大学でフランス文学を学び、演劇研究のために渡仏する。帰国後、フランスで学んだ演劇観を著した戯曲「チロルの秋」を1924(大正13)年に発表し注目を浴びた。代表作に「牛山ホテル」や小説「暖流」など。1937(昭和12)年には劇団文学座を久保田万太郎らと創設した。詩人の岸田衿子の父でもある。
【文学の部屋|岸田國士】昭和時代編.8
33岡山県
1889-1971を生きた小説家であり随筆家。東京帝国大学で独文科を卒業し、夏目漱石に師事。1922年に幻想的な恐怖を描いた作品などを綴った処女作品集「冥途」を発表し、注目を浴びる。その後、ユーモアラスに風刺した随筆集「百鬼園随筆」で独自の世界観を著した。
【文学の部屋|内田百閒】昭和時代編.7
23愛知県
1898-1964を生きた小説家。早稲田大学で政治学を専攻するも中退し、その後社会主義運動にも身を投じたが、1921年に「逃避行」を著し文学に転身する。その後、1933年から連載された「人生劇場」が川端康成の目にとまり大ヒットとなり、流行作家の一員となる。戦後は、歴史小説を主に著し「石田三成」や「高杉晋作」などを残している。
【文学の部屋|尾崎士郎】昭和時代編.6
13東京都
昭和 1888-1964を生きた仏文学者であり随筆家。東京帝国大学で法学を学んだ後、文学研究に転向し、フランスに留学。帰国後、母校のフランス文学講座を担当し、フランス文学を日本に数多く紹介した。門下には小林秀雄など、多くの学者、詩人、評論家を輩出した。父は建築家の辰野金吾。
【文学の部屋|辰野 隆】昭和時代編.5
13東京都
1888-1961を生きた小説家、劇作家、評論家。東京帝国大学で英文科を学び、武者小路実篤に勧められ白樺派に加わり、文壇に登場。戯曲「項羽と劉邦」や小説「青銅の基督」などで注目を浴びる。1923年の関東大震災後、「白樺」の後継誌「不二」を創刊し、文学評論家としても活躍。1960(昭和35)年には自伝「わが心の遍歴」などを残している。
【文学の部屋|長與善郎】大正時代編.42
14神奈川県
1888-1983を生きた小説家。東京帝国大学で英文科を学び、武者小路実篤、志賀直哉らと白樺を創刊。1915(大正4)年に大阪での芸者との恋愛を経て、結婚について描いた「晩い初恋」などで文壇に登場。戦前に「多情仏心」や「安城家の兄弟」などの作品で高い評価を受ける。1959年には文化勲章を受章。戦後の代表作には「極楽とんぼ」や「五代の民」など。兄に小説家の有島武郎、画家の有島生馬 がいる。
【文学の部屋|里見 弴】大正時代編.41
13東京都
1884-1976を生きた俳人、俳論家。東京帝国大学で言語学を学び、河東碧梧桐に師事。1911(明治44)年に自由律俳句の機関誌「 層雲」を創刊し、のち碧梧桐と対立し、無季自由律俳句を提唱した。尾崎放哉や種田山頭火らを育て、俳壇に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|荻原井泉水】大正時代編.40
02青森県
1883-1962を生きた劇作家であり児童文学作家。早稲田大学で英文科を学び、小山内薫の主宰する新思潮の記者となり、劇作家として歩む。1913(大正2)年には、島村抱月の芸術座創立に携わる。戯曲「埋れた春」や「国境の夜」などで注目を集める一方で、赤い鳥などに児童文学作品を残した。その後は、プロレタリア芸術運動に身を投じて、エスペラント運動を行う。戦後は、舞台芸術学院の院長などを務め、1960年には黒石市名誉市民に選ばれている。
【文学の部屋|秋田雨雀】大正時代編.39
40福岡県
1894-1945を生きた小説家。早稲田大学高等予科中退後、職を転々としながら労働運動に参加したことで、プロレタリア文学の道を自ら切り拓く。1926(大正15)年に代表作「海に生くる人々」を発表し、労働者の過酷な生活を描いた作品で注目を浴びる。その後生活は困窮し、流転する道を選び満州へ渡るも、1945(昭和20)年に引き上げ列車の中で病没した。
【文学の部屋|葉山嘉樹】大正時代編.38
30和歌山県
1892-1964を生きた小説家。生田長江や与謝野鉄幹らに師事。1918(大正7)年に谷崎潤一郎の推薦で文壇に登場し、「田園の憂鬱」や「都会の憂鬱」などの作品で大正時代の寵児として、芥川龍之介と並び称され注目を浴びる。1960(昭和35)年には文化勲章を受章。
【文学の部屋|佐藤春夫】大正時代編.37
13東京都
1892-1970を生きた詩人。在学中から「早稲田文学」や三木露風、川路柳虹らの「未来」にもその名を連ねた。1919(大正8)年に初の詩集「砂金」を刊行し、抒情性に富んだ詩風で注目を浴びる。1923(大正12)年にはソルボンヌ大学に留学し、帰国後は早稲田大学文学部教授となる。鈴木三重吉による雑誌児童文芸誌「赤い鳥」に「かなりあ」などの童謡を発表し北原白秋と並ぶ大正期の代表的童謡詩人でもあった。
【文学の部屋|西條八十】大正時代編.36
13東京都
1892-1927を生きた小説家。東京帝国大在学中に菊池寛らと第3、4次「新思潮」を創刊。1916(大正5)年に「鼻」を発表し、夏目漱石の目に留まり文壇で注目を浴びる。代表作には「羅生門」や「地獄変」があり、古典文学を現代に蘇らせる手法で評価を得る。1927(昭和2)年に「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理由に自殺し、その死は大正時代文学に終焉を告げた。
【文学の部屋|芥川龍之介】大正時代編.35
31鳥取県
1892-1930を生きた詩人であり翻訳家。幼少期に生家破産し、各地を転々とする中で詩作を始める。1908(明治41)年に上京し、生田長江に師事しながら独学でドイツ語を学ぶ。1917(大正6)年に初の詩集「霊魂の秋」を刊行し、どこか甘くて、そして感傷的な詩風で注目を浴びる。1920年代にはハイネの詩集を翻訳し、日本のハイネ研究の先駆者でもあった。1930(昭和5)年、播磨灘で投身自殺し、その生涯を閉じている。
【文学の部屋|生田春月】大正時代編.34
40福岡県
1891-1961を生きた小説家。1919(大正8)年に「蔵の中」で文壇デビューし、ユーモアとペーソスを基調とした作風で注目を浴びる。その後、精神的な困難を乗り越え、1933(昭和8)年に「枯木のある風景」で文壇に復帰。戦後は、広津和郎とともに松川事件裁判判決の不当を訴えた文芸評論や、随筆でも多くの業績を残した。
【文学の部屋|宇野浩二】大正時代編.33
13東京都
1891-1968を生きた小説家であり評論家。早稲田大学在学中に、葛西善蔵らと同人誌「奇蹟」を創刊し短編、翻訳などを発表。卒業後、文芸時評に携わり、批評家として活躍。1917(大正6)年に初の小説『神経病時代』を発表し、理想と現実の狭間で揺れ動く主人公の苦悩を鮮やかに描き、読者の共感を呼んだ。戦後は社会の不正に対し声を上げ、特に松川裁判の不当性を強く主張し、文芸誌上で活発な論争を展開。同じく小説家、広津柳浪の子。
【文学の部屋|広津和郎】大正時代編.32
03岩手県
1890-1984を詩人、歌人であり詩人。1908年(明治41)新詩社に入り、「明星」「スバル」に短歌を発表。1912(大正元)年に歌集「悲しき愛」を刊行し注目を浴びる。その後、詩作に転じ、ホイットマン・トラウベル・カーペンターの影響を受けて民衆詩運動を展開し、民衆芸術論の論者のひとりとなる。詩集に「地の子」、訳詩集にホイットマン「草の葉」などを残している。
【文学の部屋|富田砕花】大正時代編.31
13東京都
1889-1963を生きた小説家、劇作家であり俳人。慶應義塾大学文学部在学中に永井荷風や森鷗外に学び「三田文学」からキャリアをスタートさせる。1911(明治44)年に短編「朝顔」や戯曲「プロローグ」を発表し、注目を浴び1917(大正6)年小説「末枯」で文壇にその名を響かせた。1927(昭和2)年には句集「道芝」を刊行し、俳人としても評価を得た。1957(昭和32)年文化勲章を受章。
【文学の部屋|久保田万太郎】大正時代編.30
28兵庫県
1889-1964を生きた詩人であり童謡作家。相馬御風・野口雨情らと早稲田詩社を結成し、その後1909(明治42)年に印象派風の詩や口語自由詩を含む詩集「廃園」で詩壇にその名を刻み、北原白秋の「邪宗門(1909)」と並称され、白露時代を告げる。1918(大正7)年から鈴木三重吉の「赤い鳥」運動に参加し、童謡の作詞を手掛ける。1921(大正10)年には童謡集「真珠島」を出版し、そこに収録された「赤とんぼ」は山田耕筰によって作曲され、現在も広く歌い継がれている。
【文学の部屋|三木露風】大正時代編.29
13東京都
1888-1959を生きた詩人。1907(明治40)年に日本初の口語自由詩「塵溜」を発表し注目を浴びる。1910(明治43)年に処女詩集「路傍の花」を刊行し、詩壇に大きな影響を与えた。1918(大正7)年曙光詩社を創立し、1921(大正10)年「炬火」などの雑誌を創刊し、詩人の育成に尽力した。戦後は法政大学で教鞭を奮ったほか、美術評論家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|川路柳虹】大正時代編.28
13東京都
1887-1940を生きた小説家であり実業家。永井荷風に師事し、1911(明治44)年に短編「山の手の子」を発表し、都会に生きる人々の孤独や憂いを描いた作品で注目を浴びる。1925(大正14)年には長編小説「大阪の宿」を発表し、大阪の郷土色溢れる作品で評価を得る。1933(昭和8)年には父の創業した明治生命保険会社の取締役に就任し、実業と文学を両立させた。
【文学の部屋|水上瀧太郎】大正時代編.27
02青森県
1887-1928を生きた小説家。徳田秋声に師事し、1912(大正元)年に「哀しき父」を発表。その後1918(大正6)年に「子をつれて」で文壇に注目された。貧困や病気、酒びたりの生活の中で、家庭の問題を描いた作品で注目を浴び、私小説作家として自虐的なまでの姿勢をつらぬき「苛烈味の文学」と評された。
【文学の部屋|葛西善蔵】大正時代編.26
27大阪府
1887-1953を生きた国文学者、民俗学者であり歌人。短歌を好み「アララギ」に身を置き、のちに北原白秋らの「日光」のメンバーとなり、歌壇で独自の輝きを放つ。柳田国男を生涯の師と仰ぎ、国文学に民俗学的研究を導入した。民俗学者として各地を巡る旅の中で、その心に湧き上がる情感を、短歌にのせ、多くの作品を世に送り出した。
【文学の部屋|折口信夫】大正時代編.25
10群馬県
1886-1942を生きた詩人。短歌を好み、その後1913(大正2)年北原白秋主宰誌「朱欒」に5編の詩を発表して詩壇デビューとなる。その朱欒を通じて室生犀星と出会い、生涯の良き好敵手となる。1917(大正6)年処女詩集「月に吠える」で詩壇の精鋭となり、1923(大正14)年「青猫」を発表し、口語自由詩による近代象徴詩を完成させた。
【文学の部屋|萩原朔太郎】大正時代編.24
13東京都
1885-1967を生きた歌人、小説家であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注いだ。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.23
13東京都
1885-1965を生きた小説家であり詩人。東京帝国大学文学部国文学科卒業後、1913(大正2)年に初の小説として、幼少年期を描いた「銀の匙」が恩師夏目漱石に認められ刊行。30代後半ごろから詩を書き始め詩集「琅玕(1935)」などを残した。
【文学の部屋|中 勘助】大正時代編.22
45宮崎県
1885-1928を生きた歌人。早稲田大学英文科卒業後、尾上柴舟に師事。1908(明治41)年に初の歌集「海の声」を刊行し、その後、自然を愛する短歌で注目を浴びる。自然を情感豊かに詠んだ歌や、旅と酒にまつわる自由闊達な歌風で活躍した。
【文学の部屋|若山牧水】大正時代編.21
13東京都
1886-1965を生きた小説家、劇作家であり教育者。東京帝国大学国文科中退後、永井荷風に認められ、反自然主義的な作風で小説を始め、1910(明治43)年に初の短編「刺青」を発表した。その後モダニズムの作品を手掛けた。1923(大正12)年の関東大震災を機に関西に移住し、古典的な日本美に傾倒しながら「痴人の愛(1924)」などの作品を残した。1949年文化勲章を受章。
【文学の部屋|谷崎潤一郎】大正時代編.20
15新潟県
1883-1950を生きた詩人、歌人、評論家であり教育者。早稲田大学文学科卒業後、島村抱月に師事し、「早稲田文学」の編集を手掛ける。自然主義評論を執筆や口語自由詩運動に深い関心を持ち詩人としても活躍しながら短歌を始める。1905(明治38)年に初の歌集「睡蓮」を刊行後、口語自由詩で注目を浴びた。その後、文壇を離れ良寛の研究者として活動を展開した。母校、早稲田大学校歌の作詞者としても知られている。
【文学の部屋|相馬御風】明治時代編.36
06山形県
1882-1953を生きた歌人、精神科医であり教育者。東京帝国大学医学部卒業後、伊藤左千夫に師事し、アララギ派の中心人物として活躍しながら短歌を始める。1913(大正2)年に初の歌集『赤光』を刊行し、写生・万葉調の歌で注目を浴びる。1917(大正6)年には、長崎医学専門学校教授を務め、その後、1931(昭和6)年、青山脳病院の院長となり、精神科医、教育者としても多くの業績を文学とともに残した。1951年文化勲章を受章。
【文学の部屋|斎藤茂吉】大正時代編.19

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02青森県
1909-1948を生きた小説家。幼少期より文学に親しみ、芥川龍之介に傾倒も左翼思想に接する。東京帝国大学文学部仏文科に進み、井伏鱒二に師事する。非合法運動に関係するも離脱し、大学も中退。そして、 戦前・戦後を通じて、自己破壊的な生き方と鋭い人間観察をもとに作品を発表。第二次大戦中に「富嶽百景(1939)」「走れメロス(1940)」など、戦後は「斜陽(1947)」「人間失格(1948)」など、時代と個人の葛藤を描いた。 無頼派として、坂口安吾・織田作之助らと並び称され、戦後の文学潮流に大きな影響を与えた。私生活では度重なる自殺未遂、薬物依存、心中事件など波乱に満ちた人生を送り、1948(昭和23)年、愛人と玉川上水で入水自殺。遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」として命日を偲ぶ日となっている。本名は津島修治。
【文学の部屋|太宰 治】昭和時代編.80New!!
18福井県
1919-2008を生きた小説家。幼少期に貧困のため臨済宗寺院にて徒弟生活に入るも、旧制中学卒業を機に出奔。その後、様々な職業を遍歴しながら文学への志を育み、戦後は宇野浩二に師事。1959(昭和34)年に、実際の詐欺事件を題材にした社会派推理小説「霧と影」を発表し、本格的に作家活動を開始する。 1961(昭和36)年「雁の寺」で第44回直木賞を受賞。以後、「飢餓海峡」、「越前竹人形」など禅寺での体験や女性の宿命的な悲しみを描いた作品で多くの読者を魅了した。
【文学の部屋|水上 勉】昭和時代編.79
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