ウォルト・ホイットマン Walt Whitman

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こちらのページでは【文学の部屋|ホイットマン】


詩に宿る自由と平等をお楽しみください
※ホイットマン 詩に宿る自由と平等は文学の部屋


よりお届けします

ホイットマン


イラストポートレート(Syusuke Galleryより

Leaves of Grass

"草の葉" 序文:草の葉の歌の抜粋をお届けします

I celebrate myself, and sing myself

I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.
館長

ホイットマンは草の葉で、個人主義、自己認識や自然とのつながりをテーマにしていました

館長

一人ひとりの人間のとしての存在に重きをおき、自分自身を大切にすること、他人を尊重することの大切さを詩に込めていました

館長

これだけですと一見、自己中心的な考え?と思えますが…

館長

人同士のつながりや共感、そして哲学的な視点の持ち主でした

館長

先ほどの序文にある…

館長

For every atom belonging to me as good belongs to you.

館長

自分の一部が他人にも属すると述べていて

館長

個人の垣根を越えて、人間同士が共有しあえるものがあると問うているのが伺えます

ホイットマンを知る手掛かり

ホイットマンの世界をいらすとすてーしょん風に探ってみます

個人の重要性の強調

ホイットマンは、詩集の中で、個人の自己の重要性を強調しています
彼は自己を祝福し、自己を讃えることによって、個人が他者と共通性を見出し、自分自身を尊重することの重要性を説いている点を抑えたいですね

STEP
1

他者との共感の強調

ホイットマンは、先ほどもクローズアップしました「For every atom belonging to me as good belongs to you. (私と同じようにあなたもここに存在している、そしてあなたにも私と同じものをたくさん持っている)」と述べています
この一節からもわかるように、他者との共通点やつながりが存在し、個人の境界を超えて人間同士は共感しあえる存在であることを説いています

STEP
2

自然とのつながりの探求

ホイットマンは、自然と人間との関係を大切にしました
それを自然と人間とのつながりを見出し、自然と人間の間に存在するかたちを表現しています
これは、自然と人間の共存を訴えかけているかのようです

STEP
3

個人の成長と経験の表現

ホイットマンは、自己成長や経験を通じての得られた、自己への理解や受容のプロセスを詩に描いています
他人を受け入れるためには、それはまず自己を受け入れること、そして継続した学びを得ることを説いています

STEP
4

自己主義を超えた普遍的なテーマ

ホイットマンは、自己主義を超えて、人間の共感、つながり、自己理解、自然との一体感など、より普遍的なテーマをフォーカスしていました
ホイットマンの詩は、自己を超えた自己を感じることができると思います

STEP
5

ホイットマンに心動かされた私たち

田山花袋 1872-1930
島崎藤村 1872-1943
国木田独歩 1871-1908

ろくや
ろくや

わたしは、ホイットマンの詩を読み、その自由なスタイルやテーマに影響を受けたんですよ

はるき

わたしは、ホイットマンの詩の影響を受けたんですよ

1872-1943を生きた近代日本文学を代表する一人は詩から小説家に転身し日本における自然主義文学のファーストインクラス「破戒」を発表
【文壇発見】「島崎藤村」自然主義文学の話ですが…第二話
ろくや

わたし達は、
フランス人のエミール・ゾラと、

ろくや

そして、アメリカ人のホイットマンに影響を受けて、日本における自然主義文学をつくりあげていきました

ろくや

もしよろしければ、私たちのイラストポートレートにお立ち寄りくださいね

文学家・新着偉人(It's New)はこちらから

13東京都
1887-1940を生きた小説家であり実業家。永井荷風に師事し、1911(明治44)年に短編「山の手の子」を発表し、都会に生きる人々の孤独や憂いを描いた作品で注目を浴びる。1925(大正14)年には長編小説「大阪の宿」を発表し、大阪の郷土色溢れる作品で評価を得る。1933(昭和8)年には父の創業した明治生命保険会社の取締役に就任し、実業と文学を両立させた。
【文学の部屋|水上瀧太郎】大正時代編.27New!!
02青森県
1887-1928を生きた小説家。徳田秋声に師事し、1912(大正元)年に「哀しき父」を発表。その後1918(大正6)年に「子をつれて」で文壇に注目された。貧困や病気、酒びたりの生活の中で、家庭の問題を描いた作品で注目を浴び、私小説作家として自虐的なまでの姿勢をつらぬき「苛烈味の文学」と評された。
【文学の部屋|葛西善蔵】大正時代編.26New!!
27大阪府
1887-1953を生きた国文学者、民俗学者であり歌人。短歌を好み「アララギ」に身を置き、のちに北原白秋らの「日光」のメンバーとなり、歌壇で独自の輝きを放つ。柳田国男を生涯の師と仰ぎ、国文学に民俗学的研究を導入した。民俗学者として各地を巡る旅の中で、その心に湧き上がる情感を、短歌にのせ、多くの作品を世に送り出した。
【文学の部屋|折口信夫】大正時代編.25New!!
10群馬県
1886-1942を生きた詩人。短歌を好み、その後1913(大正2)年北原白秋主宰誌「朱欒」に5編の詩を発表して詩壇デビューとなる。その朱欒を通じて室生犀星と出会い、生涯の良き好敵手となる。1917(大正6)年処女詩集「月に吠える」で詩壇の精鋭となり、1923(大正14)年「青猫」を発表し、口語自由詩による近代象徴詩を完成させた。
【文学の部屋|萩原朔太郎】大正時代編.24New!!
13東京都
1885-1967を生きた歌人、小説家であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注いだ。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.23New!!
13東京都
1885-1965を生きた小説家であり詩人。東京帝国大学文学部国文学科卒業後、1913(大正2)年に初の小説として、幼少年期を描いた「銀の匙」が恩師夏目漱石に認められ刊行。30代後半ごろから詩を書き始め詩集「琅玕(1935)」などを残した。
【文学の部屋|中 勘助】大正時代編.22New!!
45宮崎県
1885-1928を生きた歌人。早稲田大学英文科卒業後、尾上柴舟に師事。1908(明治41)年に初の歌集「海の声」を刊行し、その後、自然を愛する短歌で注目を浴びる。自然を情感豊かに詠んだ歌や、旅と酒にまつわる自由闊達な歌風で活躍した。
【文学の部屋|若山牧水】大正時代編.21New!!
13東京都
1886-1965を生きた小説家、劇作家であり教育者。東京帝国大学国文科中退後、永井荷風に認められ、反自然主義的な作風で小説を始め、1910(明治43)年に初の短編「刺青」を発表した。その後モダニズムの作品を手掛けた。1923(大正12)年の関東大震災を機に関西に移住し、古典的な日本美に傾倒しながら「痴人の愛(1924)」などの作品を残した。1949年文化勲章を受章。
【文学の部屋|谷崎潤一郎】大正時代編.20
15新潟県
1883-1950を生きた詩人、歌人、評論家であり教育者。早稲田大学文学科卒業後、島村抱月に師事し、「早稲田文学」の編集を手掛ける。自然主義評論を執筆や口語自由詩運動に深い関心を持ち詩人としても活躍しながら短歌を始める。1905(明治38)年に初の歌集「睡蓮」を刊行後、口語自由詩で注目を浴びた。その後、文壇を離れ良寛の研究者として活動を展開した。母校、早稲田大学校歌の作詞者としても知られている。
【文学の部屋|相馬御風】明治時代編.36
06山形県
1882-1953を生きた歌人、精神科医であり教育者。東京帝国大学医学部卒業後、伊藤左千夫に師事し、アララギ派の中心人物として活躍しながら短歌を始める。1913(大正2)年に初の歌集『赤光』を刊行し、写生・万葉調の歌で注目を浴びる。1917(大正6)年には、長崎医学専門学校教授を務め、その後、1931(昭和6)年、青山脳病院の院長となり、精神科医、教育者としても多くの業績を文学とともに残した。1951年文化勲章を受賞。
【文学の部屋|斎藤茂吉】大正時代編.19
34広島県
1882-1936を生きた小説家、児童文学者であり教育者。東京帝国大学文学部英文学科在籍時、夏目漱石の授業を皮切りに師事する。その後、小説「千鳥」「桑の実」を発表。娘の誕生を機に、児童文学に深い関心を持ち、1918(大正7)年に児童文芸誌「赤い鳥」を創刊し、芸術性に富んだ童話・童謡の創作を推進し、児童文学の発展に大きく貢献。小川未明、新美南吉らの童話作家を育て、児童文学の普及に尽力した。
【文学の部屋|鈴木三重吉】大正時代編.18
15新潟県
1881-1956生きた歌人、美術史家、書家であり教育者。早稲田大学英文科卒業後、坪内逍遙に師事し、奈良の仏教美術に深い関心を持ち、美術史家としても活躍しながら短歌を始める。1924(大正13)年に初の歌集「南京新唱」を刊行し、ひらがな書きの万葉調短歌で注目を浴びる。1931(昭和6)年、母校の早稲田大学文学部教授となり、仏教美術史を中心に教鞭を奮った。
【文学の部屋|会津八一】大正時代編.17
34広島県
1881-1928を生きた劇作家、演出家。東京帝国大学英文科卒業後、森鴎外の助言を受け、劇評や翻訳を手がけ「新思潮(第1次)」を創刊し、ヨーロッパの演劇運動や新文芸の紹介を行う。1909(明治42)年二代目市川左団次らと自由劇場を結成し、イプセン、ゴーリキーらの戯曲を試演して近代演劇の基礎を築いた。1924(大正13)年には、土方与志らと築地小劇場を創設し、演出の確立、近代俳優の養成、指導理念の提唱した。
【文学の部屋|小山内 薫】大正時代編.16
13東京都
1879-1959を生きた小説家・随筆家。広津柳浪の門に入り小説家を志すも、落語家や歌舞伎作者に傾倒する。その後、アメリカやフランスに外遊し、帰国後「あめりか物語(1908)」「ふらんす物語(1909)」を発表し文学界に新風を吹き込む。1910(明治43)年には慶應義塾大学教授となり、「三田文学」を創刊。その後、大学職を辞し1916(大正5)年、隠退的自由さの中で花柳小説代表作「腕くらべ(1918)」などの作品を手がけた。1952年文化勲章を受賞。
【文学の部屋|永井荷風】大正時代編.15
04宮城県
1878-1948を生きた劇作家・小説家。第二高等学校医学部中退後、小栗風葉などに師事。1907(明治40)年小説「南小泉村」を発表して自然主義の新鋭と期待されるも二度にわたる原稿二重売り事件で文壇から退いた。1913(大正2)年松竹に入社し、新派劇の座付作者となり戯曲を手がける。一幕物である「玄朴と長英」「平将門(まさかど)」「元禄(げんろく)忠臣蔵」などの歴史劇を発表し、劇壇の一線で活躍した。
【文学の部屋|真山青果】大正時代編.14
20長野県
1876-1926を生きた歌人。生まれ故郷の小学校教育に携わりながら、歌を伊藤左千夫に学ぶ。1903 (明治36)年に歌誌「比牟呂」を創刊し、1909(明治42)年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、斎藤茂吉、土屋文明らとともにアララギ派の有力歌人として活躍。万葉調と写生とを生かした作品から、東洋的な鍛錬道(象徴主義)を貫く作品を展開した。代表作には「馬鈴薯の花(1913)」「切火(1915)」「太虗集(1924)」などがある。
【文学の部屋|島木赤彦】大正時代編.13
33岡山県
1877-1945を生きた詩人・随筆家。岡山県尋常中学校を中退後、上京してイギリスの浪漫主義詩人キーツ・ワーズワース、日本では島崎藤村の詩に触れ独学で文学を学ぶ。その後、杜甫の詩句「花密蔵難見(1897)」を発表し、島村抱月らに認められ文壇デビューとなる。第一詩「集暮笛集(1899)」を刊行し、詩壇的地位を確立した。以降「ゆく春(1901)」など浪漫派詩人として活躍し、蒲原有明とともに象徴派詩人としても知られ、近代詩の一時代を築いた。
【文学の部屋|薄田泣菫】明治時代編.35
13東京都
1872-1943を生きた劇評家、劇作家であり小説家。慶應義塾大学を卒業後、1893(明治26)年に時事新報の記者として劇評家としての活動を開始し、報知新聞に移籍して辛辣な劇評で知られるようになる。1902(明治35)年に、岡本綺堂と合作の「金鯱噂高浪」を上演。その後、2世市川左団次の明治座革新興行に参画、松竹に入り文芸顧問として活躍したのち、日本演劇社社長となった。小説では「小猿七之助」「今様薩摩歌」などの作品を手掛けている。
【文学の部屋|岡 鬼太郎】明治時代編.34
13東京都
1872-1939を生きた小説家・劇作家。1890(明治23)年に東京日日新聞に入社を皮切りに、各紙で劇評に携わる。1902(明治35)年に岡鬼太郎との合作「黄金鯱噂高浪」で最初の自作作品が上演される。1911(明治44)年「修禅寺物語」が大ヒットし、2代市川左団次と提携した「鳥辺山心中」「番町皿屋敷」などおおくの歌舞伎作品を生んだ。小説では1916年からは「半七捕物帳」を連載し、捕物帳の先駆者となる。
【文学の部屋|岡本綺堂】明治時代編.33
04宮城県
1883-1971を生きた小説家。1908(明治43)年に武者小路実篤らとともに「白樺」を創刊し、「網走まで(1910)」で文壇デビュー。その後も「白樺」に代表作「城の崎にて(1917)」などの作品を発表。「和解(1917)」は実父との和解の経験を描いた作品。1949年、文化勲章を受賞。
【文学の部屋|志賀直哉】明治時代編.32
33岡山県
1879-1962を生きた小説家、劇作家であり文学評論家。東京専門学校(現、早稲田大学)を卒業後、「寂寞(1904年)」を発表し文壇デビュー。「塵埃(1907)」「何処へ(1908)」などで自然主義作家として活躍し、つねに文壇の第一線で活動を行なった。その後、活動の主力を「作家論(1942)」「内村鑑三(1950)」などの評論執筆を行なった。
【文学の部屋|正宗白鳥】明治時代編.31
13東京都
1875-1952を生きた詩人。1898(明治31)年に読売新聞懸賞小説に応募し当選するも、すぐに詩作に専念する。「草わかば(1902)」で注目され、その後「春鳥集」、そして「有明集」で複雑な語彙やリズムを駆使した象徴詩人としての才能を発揮した。その作風は北原白秋や木下杢太郎らに影響を与える。
【文学の部屋|蒲原有明】明治時代編.30
38愛媛県
1874-1959を生きた俳人であり小説家。中学校で河東碧梧桐と出会い、その碧梧桐を介して正岡子規に師事し、俳句を学ぶ。1897(明治31)年に「ホトトギス」を子規より引き継ぎ、俳句雑誌として発展させた。子規の没後、碧梧桐の「新傾向」に反対し、伝統俳句の立場に立ち、「客観写生」「花鳥諷詠」の理念のもと、近代俳句を完成させた。1954(昭和29)年には俳人として初の文化勲章を受章している。
【文学の部屋|高浜虚子】明治時代編.29
17石川県
1872-1943を生きた小説家。尾崎紅葉に師事し「藪かうじ(1896年)」で文壇デビューし、読売新聞に連載する「雲のゆくへ」でブレイクした。その後「新世帯(1908)」などで自然主義文学の代表的作家となる。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに紅葉門下の四天王と称されている。
【文学の部屋|徳田秋声】明治時代編.28
39高知県
1869-1940を生きた文学者、翻訳家であり評論家。明治学院在学中に島崎藤村や戸川秋骨と知り合い、卒業後は中学の英語教師を務めながら「文学界」の同人として活躍。その後、日本銀行に勤務しながら文学活動を続けた。1906(明治39)年慶應義塾大学教授となり、欧州大陸文学を講じながら、ドーデ「野の花(1902)」トルストイ「戦争と平和(1914-15)」などの翻訳を手がけた。
【文学の部屋|馬場孤蝶】明治時代編.27
13東京都
1868-1910を生きた小説家、詩人であり評論家。1885(明治18)年に尾崎紅葉や石橋思案らと共に「硯友社」を結成し、機関紙「我楽多文庫」を刊行。その後、坪内逍遥の「小説神髄」の影響を受け、文学改良主義を掲げ、1887(明治20)年に「読売新聞」に「武蔵野」などを連載。口語(言文一致)体の新聞小説として注目を浴びた。演劇や辞書編集 などにも携わっている。
【文学の部屋|山田美妙】明治時代編.26
12千葉県
1868-1954を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から書・画・漢学を学び、梅亭金鵞に師事して「鶯亭金升」の号を貰い、団団珍聞の編集などを担当。その後、改進、万朝報、中央、やまと、読売、都、東京毎日の各新聞社を転々とし、落語、川柳、狂歌、茶番、小唄など庶民の遊びの文芸を多く手がけた。明治の文壇や芸能界の事情に精通し、小山内薫 などを門下した。
【文学の部屋|鶯亭金升】明治時代編.25
42長崎県
1861-1928を生きた小説家。長崎県に生まれ、家業であった医業にならって、東京大学医学部予備門に入学するも退学し、文学の道を選ぶ。1887(明治20)年に処女作「女子参政蜃中楼」を発表し、その後、「変目伝(1895)」、「黒蜥蜴(1895)」、「今戸心中(1896)」などの作品を発表し、下層社会の悲惨な実態を描いた独自の作風は、深刻小説(悲惨小説)と呼ばれ、異彩を放った。
【文学の部屋|広津柳浪】明治時代編.24
07福島県
1898-1947を生きた小説家であり評論家。同人誌「街」や「塔」を創刊し、作家を志す。1923(大正12)年に、菊池寛が創刊した「文藝春秋」に参加。「日輪」「蠅」などを発表して注目を浴びる。1924(大正13)年に川端康成らとともに「文藝時代」を創刊し、新感覚派文学の運動を推進。その後も、新心理主義の作品を試みるなど、意欲的な創作活動を続けた。また、プロレタリア文学に対して「形式主義文学論争」を交わしたことでもその名を馳せている。代表作には「機械」、「上海」、「旅愁」など。
【文学の部屋|横光利一】昭和時代編.4
40福岡県
1889-1962を生きた小説家であり、禅僧、新聞記者。慶應義塾大学文学部に進学するも、父親の教えに従って中退し、農園経営に従事する。その後、出家し禅僧となるも還俗し、新聞記者として活動する。文壇デビューは「あやかしの鼓」を「新青年」に懸賞投稿し入選から。代表作の長編作品「ドグラ・マグラ」は、怪奇味と幻想性に富み、日本文学において独自の地位を築いた。
【文学の部屋|夢野久作】昭和時代編.3
09栃木県
1887-1947を生きた劇作家であり小説家。東京帝大在学中に芥川竜之介らと第三次「新思潮」を創刊。「津村教授」などの社会劇で新進劇作家として認めら、歴史劇に関心が及び「坂崎出羽守」などを次々に発表。大正末期以降は小説に転じ「真実一路」「路傍の石」などを発表した。戦後は参議院議員となり、国語国字問題に力を注ぎ、当用漢字や現代かなづかい制定、国立国語研究所設立の中心になるなど、多くの功績を残したことでもその名を馳せている。
【文学の部屋|山本有三】昭和時代編.2
26京都府
1887-1928を生きた歌人であり、教育者、社会運動活動家。父、大谷光尊(西本願寺第21代法主)の亡き後、兄の大谷光瑞と共にし、兄嫁と共に仏教婦人会を共同設立し、日露戦争時の兵士への支援活動を行う。佐佐木信綱に師事し、歌集「金鈴」や歌文集「無憂華」などを著した。また1923年の関東大震災後には、築地本願寺の再建やあそか病院の設立などの人道的活動を行った。京都女子高専(現在の京都女子大学)を創設者としてもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|九条武子】昭和時代編.1
03岩手県
1896-1933を生きた詩人であり童話作家、農業指導者。稗貫(後に花巻)農学校教諭となる。その後、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を自費出版。農学校を退職後、花巻市郊外で開墾自炊生活にはいり、羅須地人協会を設立して農業指導に献身。肉体の酷使から病床にあいながらも、「グスコー・ブドリの伝記」「銀河鉄道の夜(未完)」などを手がけた。「雨ニモマケズ」は、その病床で手帖に書き残した作品として知られている。
【文学の部屋|宮沢賢治】大正時代編.12
06山形県
1893-1973を生きた児童文学作家。早稲田大学英文科在学中に、童話「黄金の稲束」が大阪朝日新聞の懸賞に入選。大学卒業後はコドモ社に入社し、編集者を経て作家生活に入った。代表作に「泣いた赤鬼」など、素朴で心温まる内容を特徴とし「ひろすけ童話」として親しまれた。日本児童文芸家協会の初代理事長を務め、児童文学の発展に大きく貢献した。
【文学の部屋|浜田広介】大正時代編.11
34広島県
1891-1943を生きた劇作家であり評論家。上京し、第一高等学校に進学するも健康上の理由で中退。その後、病気療養や家族の不幸に重なりながら執筆活動を行い、戯曲「出家とその弟子」を書き上げ、大きな反響を呼んだ。後に発表した、評論集「愛と認識との出発」は当時の青年の必読書となった。晩年には「日本主義文化宣言」などを著し、国家主義に傾倒していく。
【文学の部屋|倉田百三】大正時代編.10
13東京都
1889-1939を生きた歌人であり小説家、仏教研究家。兄の影響を受け文学に親しみ、与謝野晶子に師事し、与謝野鉄幹の主催する新詩社に入り「明星」に投稿。その後の「スバル」でも活躍し短歌の才能を発揮した。漫画家岡本一平と出会い、長男の岡本太郎を出産。その後、処女歌集「かろきねたみ」を発表後、夫婦で宗教遍歴を歩む。小説家としては、川端康成の知遇を得て発表した、芥川龍之介をモデルにした小説「鶴は病みき」は、文学界に大きな存在を示した。
【文学の部屋|岡本かの子】大正時代編.9
17石川県
1889-1962を生きた詩人であり小説家。逆境の幼少期をへて詩人をこころざす。創作活動を積極的に行い、1913(大正2)年に北原白秋主宰誌「朱欒」に詩集「小景異情」を投稿。これがきっかけとなり生涯の友となった萩原朔太郎と共に詩壇に新しい風を吹き込んだ。30歳代から小説に転じ「あにいもうと」「杏つ子」などを発表した。
【文学の部屋|室生犀星】大正時代編.8
13東京都
1886-1960を生きた歌人であり劇作家。与謝野鉄幹の主催する新詩社に入社し「明星」に次々と歌を発表。その後早稲田大学政治経済科に進学するも中退し、本格的に文学活動を展開する。北原白秋、木下杢太郎らと耽美派文学の拠点となる「パンの会」を結成。「スバル」同人となり、石川啄木らとともに編集を担当した。代表作には歌集「酒ほがひ」、「祇園歌集」、戯曲「午後三時」など。
【文学の部屋|吉井 勇】大正時代編.7
43熊本県
1885-1942を生きた詩人、歌人であり童謡作家。早稲田大学英文科に進学し、詩作を始める。与謝野鉄幹の門人となり、「明星」「スバル」に作品を発表。のちに木下杢太郎らと耽美派文学の拠点となる「パンの会」を結成。代表作には詩集邪宗門」、「思ひ出」、歌集「桐の花」、童謡集「トンボの眼玉」など。また児童文学雑誌「赤い鳥」を通じて童謡運動を推進し、「この道」や「雨降り」などの童謡を数多く発表した。晩年には糖尿病と腎臓病を患い、1942年に57歳で死去した。
【文学の部屋|北原白秋】大正時代編.6
13東京都
1885-1976を生きた小説家、詩人であり劇作家。東京帝国大学に進学するも中退し、文学活動を開始。志賀直哉らとともに文芸雑誌「白樺」を創刊し、白樺派の中心人物として活躍。代表作に「友情」、「お目出たき人」、「井原西鶴」など。理想郷「新しき村」を宮崎県と埼玉県に建設し、理想主義的な社会運動を展開。1951(昭和26)年に文化勲章を受章している。
【文学の部屋|武者小路実篤】大正時代編.5
13東京都
1885-1944を生きた小説家。幼少期から古典文学に親しみ、キリスト教や社会主義の思想に影響を受ける。1906(明治39)年に都新聞(現在の東京新聞)に入社し、処女作「氷の花」を発表。その後、代表作「大菩薩峠」を1913(大正2)年から連載し、未完ながらも大衆文学に大きな影響を与えた。晩年は仏教的思想に傾倒し、独自の文学世界を追求した。
【文学の部屋|中里介山】大正時代編.4
14神奈川県
1884-1963を生きた小説家であり劇作家。新聞記者としての経験を活かし、1925(大正14)年に都新聞(現在の東京新聞)を退社し作家活動を始める。その作風は「股旅物」というジャンルを開発し、人情の機微に描く。代表作には「関の弥太っぺ」、「瞼の母」、「荒木又右衛門」など。また劇作家としても成功し、「沓掛時次郎」や「掏摸の家」などの戯曲を残した。大衆文芸の振興に尽力し、二十一日会や新鷹会などの勉強会を主催し、山岡荘八や池波正太郎、西村京太郎らを育てた。
【文学の部屋|長谷川 伸】大正時代編.3
08茨城県
1882-1945を生きた詩人であり童謡作家。現在の早稲田大学で坪内逍遥に師事するも大学を中退し詩作を始める。その後児童文学雑誌「金の船(のち金の星」に童謡を数々発表し、北原白秋らとともに童謡運動を推進した。また地方色ゆたかな民謡も、多く手がけた。
【文学の部屋|野口雨情】大正時代編.2
15新潟県
1882-1961を生きた児童文学作家であり詩人。現在の早稲田大学在学中に著した小説「紅雲郷」が坪内逍遥に認められ文壇デビュー。大正デモクラシー思潮に支えられ創刊した「赤い鳥」のブームに乗り、処女童話集「赤い船」を発表後、「赤い蝋燭 と人魚」をはじめ数々の童話集を刊行し近代的な児童文学のに傾倒し、児童文学者として活躍した。
【文学の部屋|小川未明】大正時代編.1
27大阪府
1878-1942を生きた歌人、詩人であり社会運動家。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となる。その鉄幹に見出され1901(明治34)年、奔放な愛の情熱をうたった「みだれ髪」を発表し、大きな反響をよび、その後も、日本浪漫主義を代表する歌人として活躍した。日露戦争時に発表した詩「君死にたまふことなかれ」は日露戦争の激戦地にいる弟の身を案じた作品であり、当時の社会に大きな反響を呼んだ。また1921(大正10)年には、男女平等教育を唱え文化学院の創立に携わり、婦人問題・教育問題への積極的発言もおこなった。
【文学の部屋|与謝野晶子】明治時代編.23
15新潟県
1878-1914を生きた小説家、詩人であり弁護士。現、明治大学を卒業後、弁護士として活動を始め、文学活動にも積極的に参加。石川啄木らと共に同人誌「明星」の終刊後に「スバル」の創刊に携わる。また弁護士としては、幸徳事件(大逆事件)の弁護人を務め、日本の社会主義運動に大きな影響を与えた事件を担当することで、広く注目された。雑誌「太陽」に幸徳事件をモデルにした小説「逆徒」を掲載したが発禁処分を受けている。35歳で早世。
【文学の部屋|平出 修】明治時代編.22
13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20
13東京都
1874-1916を生きた詩人、翻訳家であり英文学者。島崎藤村らに合流し文学界の同人となり、東京帝大入学後は「帝国文学」の創刊に参加する。その後、西欧の象徴詩の紹介と翻訳に力を注ぎ、1905(明治38)年の訳詩集「海潮音」は、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの詩を翻訳し、日本の詩壇に大きな影響を与えた。晩年には京都帝国大学教授や同志社大学でも教鞭を執り、多くの門下生を育成し、日本の英文学、フランス文学の発展に貢献した。唯一の小説として1910(明治43)年に自伝的小説「うづまき」を著している。41歳で早世。
【文学の部屋|上田 敏】明治時代編.19
26京都府
1873-1935を生きた歌人であり、文学者、教育者。教員を経て、1900(昭和33)年に創刊した文学雑誌「明星」は、北原白秋や石川啄木など多くの若手歌人を輩出し、ロマン主義運動の中心的存在となる。与謝野晶子の才能を見抜き、歌集『みだれ髪』の出版を支援。晩年にはパリを訪れ、ヨーロッパ各地を歴訪し帰国後、慶應義塾大学の教授としても多くの後進を育てた。
【文学の部屋|与謝野鉄幹】明治時代編.18
38愛媛県
1873-1937を生きた俳人であり随筆家。正岡子規に野球を教わったことがきっかけで俳句に強い関心を持ち、子規の高弟として高浜虚子と共に、俳句革新運動を助けた。1902年子規の没後に新聞「日本」の俳句欄選者を受け継ぐ。その後、従来の5-7-5の定型を破り、自由詩形式を取り入れた自由律俳句を提唱し、俳句の新しい表現方法を追求した。新傾向俳句に与えた影響は大きく、また高浜虚子との対立を生んだ。代表作には「碧梧桐句集」や「三千里」などがあり、旅行記や随筆も多く執筆した。晩年にはヨーロッパからアメリカを訪れ、その経験を作品に反映させた。
【文学の部屋|河東碧梧桐】明治時代編.17
10群馬県
1872-1930を生きた小説家。幼少期から文学に親しみ、特に漢詩文や西洋文学に強い関心を持つ。兄に従い上京し、尾崎紅葉の門下となり、その後、国木田独歩、島崎藤村と交流を深めた。1902年に発表した「重右衛門の最期」で作家としての地位を確立した。その後「蒲団」や「田舎教師」などの作品で、自己の内面を赤裸々に描写する「私小説」として自然主義運動の先頭に立ち自然主義文学の代表的作家となった。
【文学の部屋|田山花袋】明治時代編.16
21岐阜県
1872-1943を生きた詩人であり小説家。幼少期から文学に親しみ、特に詩作と小説に強い関心を持つ。明治学院で学び、在学中に「文学界」に参加し、ロマン主義詩人として「若菜集」を発表。その後、小説に転向し、1906年に発表した「破戒」で自然主義文学の代表作家となる。代表作には「春」や「家」などがあり、特に父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説「夜明け前」は歴史小説として高く評価されている。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴であり、明治・大正・昭和期の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|島崎藤村】明治時代編.15
04宮城県
1871-1952を生きた詩人であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に詩作に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、在学中に「帝国文学」の編集委員となり詩作を始める。高山樗牛の勧めで1899年に発表した処女詩集「天地有情」で新体詩人としての地位を確立。その後も「暁鐘」や「東海遊子吟」などの詩集を刊行した。詩風は漢文調の叙事詩が特徴で、特に「荒城の月」の作詞者(瀧廉太郎作曲)として広く知られる。晩年にはギリシャ語の原典からの翻訳としてホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」の翻訳を手掛けた。1950年文化勲章受章。
【文学の部屋|土井晩翠】明治時代編.14
06山形県
1871-1902を生きた文学家、文芸評論家であり思想家。東京帝国大学で哲学を学び、在学中に小説「滝口入道」が懸賞入選となり、文壇デビュー。雑誌「太陽」の編集に携わり、ロマン主義や日本主義を唱えた。その後、ニーチェの思想に影響を受け、個人主義や超人思想を賛美し「美的生活を論ず」を著した。また日蓮への傾倒し「日蓮上人とは如何なる人ぞ」を著した。32歳で早世も多くの評論を残し、明治時代の文学と思想に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|高山樗牛】明治時代編.13
12千葉県
1871-1908を生きた小説家、詩人でありジャーナリスト。幼少期から文学に親しみ、特に自然主義文学に強い関心を持つ。現在の早稲田大学で学び、徳富蘇峰の影響を受けた。1894(明治27)年に日清戦争の従軍記者として活動し、弟宛てに送った手紙をルポルタージュとして発表した「愛弟通信」で文壇デビュー。その後、「武蔵野」や「忘れえぬ人々」などの作品を綴った。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「婦人画報」の創刊にも関わり、編集者としても活躍した。
【文学の部屋|国木田独歩】明治時代編.12
32島根県
1871-1918を生きた劇作家、小説家、詩人であり文芸評論家。幼少期から文学に親しみ、特に演劇に強い関心を持つ。早稲田大学で坪内逍遥に学び、「早稲田文学」の編集に携わり、文芸評論家として活躍。1902(明治35)年からイギリスとドイツに留学し、帰国後、坪内逍遥と共に文芸協会を設立し、シェイクスピアなどの海外戯曲を上演、新劇運動を推進した。1913(大正2)年には松井須磨子と共に芸術座を結成し、トルストイの「復活」などを上演し、「カチューシャの歌」は当時の大衆に大流行した。作品は心理描写に優れ、人間の内面を深く掘り下げたものが多く、また、文芸評論においては、日本の近代文学の理論的基礎を築いた。1918年にスペイン風邪により急逝したことは日本の演劇界にとって大きな損失となった。
【文学の部屋|島村抱月】明治時代編.11
20長野県
1869-1937を生きた作家であり社会運動家。幼少期から文学に親しみ、特に社会問題や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、後にキリスト教に改宗。キリスト教の思想を基に社会問題や人間の生き方を深く考察していく。1899(明治32)年に毎日新聞記者となり、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙運動などで活躍。特に足尾銅山鉱毒問題の報道は社会に大きな影響を与えた。1901(明治34)年には幸徳秋水らと社会民主党を結成し、非戦論を唱えた。代表作に「火の柱」や「良人の自白」など、社会主義や平和主義をテーマにした作品を多く執筆。晩年にはキリスト教と仏教の融合を試みるなど、多岐にわたる活動を展開した。
【文学の部屋|木下尚江】明治時代編.10
43熊本県
1868-1927を生きた小説家、評論家。幼少期から文学に親しみ、特に自然描写や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、兄の徳富蘇峰が創設した民友社に参加。1899(明治32)年に発表した「不如帰」が大ヒット。その後も「自然と人生」や「思出の記」などの作品で人気を博す。作風は、キリスト教の影響を受けた自然描写と人間愛に満ちた内容が特徴。晩年にはトルストイを訪問し、その思想に共鳴し、東京の世田谷に居を構え、「蘆花恒春園」と名付け自給自足の生活を実践した。反戦思想を唱え、社会問題や人間の生き方について深く考察したことでもその名を馳せている。
【文学の部屋|徳冨蘆花】明治時代編.9
13東京都
1868-1903を生きた小説家、評論家。現在の早稲田大学で学び、坪内逍遥の影響を受けたのちに硯友社を結成し、同人雑誌「我楽多文庫」を発刊した。1885(明治18)年に発表した「二人比丘尼色懺悔」で文壇に登場し、その後『金色夜叉』などの作品で人気を博す。作風は、美しい文体と情感豊かな情景描写が特徴であり、写実主義とロマン主義を融合させた。写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。代表作の「金色夜叉」は、貫一とお宮の悲恋物語が当時の読者に大きな衝撃を与えたが、未完に終わった。門下生には、泉鏡花、徳田秋声、小杉天外、柳浪など。
【文学の部屋|尾崎紅葉】明治時代編.8
38愛媛県
1867-1902を生きた俳人、歌人であり評論家。幼少期から文学に親しみ、特に俳句と短歌に強い関心を持つ。東京大学予備門で学び、後に新聞「日本」の記者として活躍する。1892(明治25)年に「ホトトギス」を創刊し、門下生であった高浜虚子や河東碧梧桐などと共に、従来の俳句の形式や内容にとらわれず、写生を重視した新しい運動となった俳句革新運動を推進。同様に短歌においても革新運動をおこなった。代表作には、病床での生活を赤裸々に綴った随筆「病牀六尺」などがあり、短い生涯の中で多くの名作を残した。
【文学の部屋|正岡子規】明治時代編.7
13東京都
1867-1916を生きた小説家、評論家であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に英文学に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、後にイギリスに留学。帰国後、東京帝国大学で教鞭を執りながら、高浜虚子に勧められ「吾輩は猫である」を1905(明治38)年に執筆し文壇デビュー。その後、「坊っちゃん」や「草枕」などの作品で人気を博し、日本近代文学に新たな視点をもたらした。作風は、ユーモアと風刺に富み、人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「こころ」や「明暗」などの作品を残した。
【文学の部屋|夏目漱石】明治時代編.6
13東京都
1867-1947を生きた小説家。幼少期から江戸文学などに親しみ、特に日本古典文学に強い関心を持つ。1889(明治22)年「風流仏」や1892(明治25)年「五重塔」で文壇に登場し、理想主義的な作風で知られた。のちに、写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受賞している。
【文学の部屋|幸田露伴】明治時代編.5
13東京都
1864-1909を生きた小説家、翻訳家。現在の東京外国田大学でロシア語を学び、ロシア文学に傾倒。その後、坪内逍遥の勧めで「小説総論」を発表する。1887(明治20)年に発表した「浮雲」は、日本初の近代小説とされ、写実主義の先駆けとなる。ロシア文学の翻訳も多く手掛け、特にツルゲーネフの作品を手掛けた。
【文学の部屋|二葉亭四迷】明治時代編.4
32島根県
1862-1922を生きた小説家、翻訳家そして陸軍軍医。現在の東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医としてドイツに留学し、そこで西洋文学に触れる。帰国後、文学活動を本格化させ、1890(明治23)年に「舞姫」を発表し文壇に登場した。「ヰタ・セクスアリス」「青年」「妄想」「雁」や歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」、史伝「渋江抽斎」などを執筆している。晩年には宮内省に勤務し、帝室博物館の総長を務めるなど、多岐にわたる活動を展開した。
【文学の部屋|森 鷗外】明治時代編.3
21岐阜県
1859-1935を生きた小説家、劇作家であり教育者。幼少期から文学に触れ、東京大学で文学を学び、後に早稲田大学の教授となり後進の育成に尽力した。評論「小説神髄」、小説「当世書生気質」を著し、近代的な写実主義文学を唱え、日本の小説や演劇の評価を高めた。リアリズムを重視した作品は、正岡子規の俳句に、その影響を受けたとされる。代表作は「桐一葉」など、シェイクスピアの全作品を翻訳したことでも知られる。
【文学の部屋|坪内逍遥】明治時代編.2
42長崎県
1841-1906を生きた作家、劇作家でありジャーナリスト。西洋学問に親しみ、特に新聞や演劇に強い関心を持つ。幕末には幕府の通訳としてヨーロッパを訪れ、西洋の新聞文化に触れる。明治時代には「江湖新聞」を発行、その後「東京日日新聞」の主筆として活躍し、政治や社会問題に鋭い批評を展開した。また立憲帝政党を結成し、政治活動も行う。論壇を引退してからは、市川団十郎などに共鳴し、演劇改良運動に力をいれ、歌舞伎座の創設にも関わった。代表作に「春日局」など。
【文学の部屋|福地桜痴(源一郎)】明治時代編.1
13東京都
1829-1894を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から当時の文学に関心高く、特に戯作文学に惹かれた。1855(安政2)年に発生した安政の大地震に関するルポルタージュ「安政見聞誌」を執筆したことで、その名を広めるきっかけとなる。1874年には日本人が刊行した最初の漫画雑誌「絵新聞日本地」を創刊した。代表作には「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」など、西洋文化を取り入れた風刺的な作品を残した。
【文学の部屋|仮名垣魯文】江戸時代編.31
13東京都
1816-1893を生きた歌舞伎狂言作者。幼少期から当時の読本などの文学に親しみ、特に歌舞伎に強い関心を持つ。1835(天保6)年に五代目鶴屋南北の門下となり、1843(天保14)年には河原崎座の立作者となった。作品は、特に「白浪物」と呼ばれる盗賊を主人公にした世話物で名作を打ち立て、高く評価された。代表作に「三人吉三廓初買」や「青砥稿花紅彩画」などがある。明治時代には新歌舞伎の先駆者としても活躍し、リアリズムを取り入れた作品を多く手掛け、生涯に手掛けた作品は300以上、晩年までその筆は衰えなかった。
【文学の部屋|河竹黙阿弥】江戸時代編.30
03岩手県
1804-1850を生きた文学者であり、蘭学者、蘭方医。幼少期から文学に親しみ、特に西洋の学問に強い関心を持つ。1837年のモリソン号事件に対する幕府の対応を批判した「夢物語」を著し、幕政を批判後、蛮社の獄で投獄された。その獄中で著した「蛮社遭厄小記」は無実の罪で投獄されたことを記している。いずれも文学としての高い評価を受けている。
【文学の部屋|高野長英】江戸時代編.29
40福岡県
1798-1868を生きた歌人。家業の商いの側、幼少期から文学に親しみ、歌に専念するため家督を弟に譲り、晩年には大阪で時の歌人らと交わった。その歌風は、今この場所を意識した清新自由なもので、庶民生活に即した歌を詠むものであった。
【文学の部屋|大隈言道】江戸時代編.28
26京都府
1791-1875を生きた歌人、陶芸家であり尼僧。度重なる家族の死を経験し、出家して蓮月尼と称する。和歌は上田秋成和らに学び、その才能は広く知られ、自分の歌をほりこんだ陶器蓮月焼は多くの人々の評判を集めた。晩年には幼少の富岡鉄斎に影響を与え、その後の作品に大きな影響を与えたとされる。
【文学の部屋|大田垣蓮月】江戸時代編.27
13東京都
1783-1842を生きた戯作者であり幕臣。旗本の家に生まれ、幼少期から文学に親しみ、『源氏物語』を江戸時代の設定に翻案した長編合巻『偐紫田舎源氏』が大ヒットを記録するも、天保の改革による風俗取締りの影響を受けた。狂歌や川柳にもその才能を発揮し、数多くの作品を残した。
【文学の部屋|柳亭種彦】江戸時代編.26
38愛媛県
1776-1850を生きた歌人であり国学者。村田春海に国学と歌道を学び、医術と歌道の才をもって伊予吉田藩に仕えた。和歌に優れ、平田篤胤や伴信友とともに和学三大家と称された。著作に「潜斎医説」や「みつのなかめ」などがある。
【文学の部屋|本間游清】江戸時代編.25
13東京都
1776-1822を生きた戯作者。黄表紙や合巻、滑稽本の多くの作品を手がけ、その中でも「浮世風呂」や「浮世床」は代表作として知られる。また商人としての一面もあり、化粧品・売薬店を経営して化粧水「江戸の水」薬「仙方延寿丹」などを売り出して成功を収めた。
【文学の部屋|式亭三馬】江戸時代編.24
17石川県
1769-1852を生きた俳人。加賀藩の刀研師の家に生まれ、俳諧を志して京に赴き俳壇活動を始める。その後、江戸や再び京にて活躍し、多くの門人に師事された。句風は天保調で知られる。句集に「梅室両吟集」「梅室家集」など。
【文学の部屋|桜井梅室】江戸時代編.23
13東京都
1767-1848を生きた戯作者。山東京伝に弟子入りを乞うも、弟子ではなく出入りを許され、京伝の代作や黄表紙を執筆。その後、版元だった蔦屋重三郎の後押しをうけ、読本でベストセラーを連発し、一大ブームを巻き起こした。途中でほとんど失明しながら、お路の代筆を得て、大作「南総里見八犬伝」を28年をかけて完成させた。
【文学の部屋|曲亭(滝沢)馬琴】江戸時代編.22
22静岡県
1765-1831を生きた戯作者であり絵師。大坂で浄瑠璃作者となった後、1794(寛政5)年ごろ江戸に出る。版元だった蔦屋重三郎のもとで、黄表紙、洒落本、読み本など著し、人気を博した。その中でも「東海道中膝栗毛」は滑稽本の骨頂作品となった。
【文学の部屋|十返舎一九】江戸時代編.21
20長野県
1763-1828を生きた俳人。幼少期に母を亡くし、継母との不和から家を出て江戸に奉公に出て、その後俳諧師としての活動を始める。松尾芭蕉や与謝蕪村の影響を受けつつも、俗語や方言まじりの生活感情が根付いた、庶民の生活や自然を題材にした独自の作風を確立していく。代表作「おらが春」などを残した。
【文学の部屋|小林一茶】江戸時代編.20
13東京都
1761-1816を生きた戯作者であり浮世絵師。浮世絵を北尾重政に学び、大田南畝に認められ、画師として狂歌絵本の作者となる。その後、朋誠堂喜三二と並び称される黄表紙作家として人気を博するも、洒落本が風俗をみだしたとして50日の刑に処された。それから、読み本作家に転向し、曲亭馬琴と人気を二分する。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」などの随筆を残した。
【文学の部屋|山東京伝】江戸時代編.19
13東京都
1755-1829を生きた歌舞伎狂言作者。初世桜田治助に学んで桜田兵蔵と称し、のち沢兵蔵・勝俵蔵を経て、1811(文化8)年に、南北を襲名した。3世までは、役者あったが4世より作家となる。世話物を得意とし、すぐれた舞台構成と写実的作風の傑作をのこした。代表作「お染久松色読販」「東海道四谷怪談」などがある。
【文学の部屋|鶴屋南北 (4世)】江戸時代編.18
13東京都
1749-1823を生きた狂歌師、戯作者であり幕臣。多くの筆名を持ち、特に「蜀山人」や「四方赤良」の名で知られる。狂歌や狂詩を通じて天明狂歌ブームを牽引し、黄表紙や洒落本など多岐にわたる文芸活動を展開。代表作は、寝惚先生文集や万載狂歌集など。
【文学の部屋|大田南畝】江戸時代編.17
34広島県
1748-1827を生きた漢詩人であり、儒学者。朱子学を学び、私塾廉塾を開いて多くの門人を育成した。その後、福山藩に登用され儒官として活躍。詩集「黄葉夕陽村舎詩」は、当時のベストセラーとなりその人気を博した。
【文学の部屋|菅 茶山】江戸時代編.17
13東京都
1746-1811を生きた歌人であり国学者。賀茂真淵に師事し、国学はもとより、歌や漢詩にも優れ、江戸の歌壇に重きをなし、稀代の名文家とも評されている。また、毒舌家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|村田春海】江戸時代編.16
13東京都
1743-1822を生きた戯作者、浄瑠璃作家であり大工棟梁。1786年に主宰した「噺の会」では、初代三笑亭可楽や初代三遊亭円生などの落語家を輩出し、落語の再興に尽力した。また、式亭三馬や柳亭種彦などを庇護した親分肌でもあった。
【文学の部屋|烏亭焉馬】江戸時代編.15
13東京都
1738-1791を生きた俳人。 与謝蕪村、大島蓼太などと共にこの時代の俳諧で活躍。諸国を遊歴したのちに、江戸日本橋に春秋庵を開いて、その記念に「春秋稿」初篇を編む。その後続刊しながら、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|加舎白雄】江戸時代編.14
13東京都
1735-1813を生きた戯作者であり、秋田藩役人。藩に勤めながら、戯作活動を行い、雅号として「朋誠堂喜三二」や「手柄岡持」を使用して、黄表紙界の大物作家となった。代表作の「文武二道万石通」は、松平定信の寛政の改革を風刺した作品として知られている。
【文学の部屋|平沢常富】江戸時代編.13
27大阪府
1734-1809を生きた読本作者、文化人であり国学者。養父に大阪で育てられ、俳諧、和歌、国学を学び、浮世草子を執筆する。その後、火災で家財を無くし、医術を習得し1776年に大阪で開院。同じ年には「雨月物語」を刊行した。また本居宣長と国学上の論争を起こしたことも記録されている。
【文学の部屋|上田秋成】江戸時代編.12
13東京都
1718-1790を生きた雑俳の点者であり興行師。俳句が砕けた雑俳の作品に優劣を評価し点をつけることを生業とし、これを万句合と称して興行化に成功する。前句に対する付句は、短詩としてその後独立し、この点者の俳号から、のちに川柳と呼ばれるようになり、現在の川柳の原型となった。
【文学の部屋|柄井川柳】江戸時代編.11
20長野県
1718-1787を生きた俳人。江戸に出て、御用縫物師の側、蕉風俳諧を学び、江戸座の宗匠たちに対抗して「雪おろし」を著す。また「江戸二十歌仙」を批評して論争をまきおこしたことで、江戸俳壇に地位を築いていく。その門人は、三千に及んだと伝わっている。
【文学の部屋|大島蓼太】江戸時代編.10
27大阪府
1716-1784を生きた俳人であり画家。俳諧師の早野巴人に師事。師の死後、松尾芭蕉の足跡を辿り、奥の細道を旅する。その後、京都に定住し、与謝の地名を取って「与謝蕪村」と名乗るようになり、蕉風復興に尽力した。画家としては文人画でその名を馳せた。代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。
【文学の部屋|与謝蕪村】江戸時代編.9
26京都府
1712-1774を生きた公卿であり歌人。柿本人麻呂や山部赤人の歌を理想とした和歌を目指し、宮廷歌会でその名声は響き渡り、霊元上皇から古今伝授を受け、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|冷泉為村】江戸時代編.8
13東京都
1703-1782を生きた俳諧師。大名の間で流行していた江戸座俳諧宗匠として活躍し、酒井抱一などを輩出した。また与謝蕪村と親交も厚かったとされる。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【文学の部屋|馬場存義】江戸時代編.7
36徳島県
出生年不明-1747を生きた浄瑠璃脚本家。竹本義太夫の舞台復帰を近松門左衛門と協力し、竹本座の座本としても活躍。人形浄瑠璃の全盛時代を築いた。代表作は「菅原伝授手習鑑」。
【文学の部屋|竹田出雲(初代)】江戸時代編.6
18福井県
653-1725を生きた浄瑠璃および歌舞伎の脚本家。京都で公家に仕え、その後、浄瑠璃作家としての道を歩む。竹本義太夫や坂田藤十郎らと連携し、浄瑠璃や歌舞伎の発展に大きな功績を残した。世話物浄瑠璃として、当時の社会や人間の情感を深く描いた「曽根崎心中」などの名作を生み出した。
【文学の部屋|近松門左衛門】江戸時代編.5
29奈良県
1650-1722を生きた俳諧師。俳諧に親しみ、江戸に出て、松尾芭蕉、椎本才麿らと交流し、談林派の全盛期にその名を刻み、その後蕉風で活躍する。感覚的で唯美的な句を詠無事で知られ「木枯の果てはありけり海の音」の句によって「木枯の言水」として世に知られるようになった。
【文学の部屋|池西言水】江戸時代編.4
24三重県
1644-1694を生きた俳諧師。松永貞徳門下、北村季吟の門より松永貞徳を祖とする 俳諧流派であった貞門派、西山宗因らの談林派をあゆみ、幽玄・閑寂といった趣の匂付に重きをおいた蕉風(正風)を確立。俳諧の連歌(現在の俳句)を芸術文学へと導いた。
【文学の部屋|松尾芭蕉】江戸時代編.3
30和歌山県
1642-1693を生きた俳諧師、浮世草子(小説)作家。西山宗因に師事し、談林派を進む。特に速吟(早詠み)で知られ、一日で23,500句を詠んだとされる。その後、浮世草子という新しい文学ジャンルを開拓し、「好色一代男」や「日本永代蔵」などの作品で人気を博し、これらの作品は、当時の町人文化や風俗を生き生きと描き、後世の文学に大きな影響を与えた流行作家となった。
【文学の部屋|井原西鶴】江戸時代編.2
23愛知県
1583-1672を生きた漢詩人、文学家であり武士。徳川家康に仕え、大坂夏の陣で活躍するも、その後浪人となり藤原惺窩に入門。儒学、書道、茶道、庭園設計に精通し、京都の詩仙堂を建てて隠棲した。特に詩文に長け江戸時代の漢詩人の祖としてその名を刻む。著書に「覆醤集」など。また煎茶の祖とも称される。
【文学の部屋|石川丈山】江戸時代編.1
30和歌山県
1421-1502を生きた連歌師であり文学家。若い頃から和歌や連歌に親しみ、30代でプロの連歌師となる。その後、北野連歌会所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。西行、能因に並んで、松尾芭蕉が敬愛した文学家の一人と伝えられている。
【文学の部屋|宗祇】室町・桃山時代編.1

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13東京都
1887-1940を生きた小説家であり実業家。永井荷風に師事し、1911(明治44)年に短編「山の手の子」を発表し、都会に生きる人々の孤独や憂いを描いた作品で注目を浴びる。1925(大正14)年には長編小説「大阪の宿」を発表し、大阪の郷土色溢れる作品で評価を得る。1933(昭和8)年には父の創業した明治生命保険会社の取締役に就任し、実業と文学を両立させた。
【文学の部屋|水上瀧太郎】大正時代編.27New!!
02青森県
1887-1928を生きた小説家。徳田秋声に師事し、1912(大正元)年に「哀しき父」を発表。その後1918(大正6)年に「子をつれて」で文壇に注目された。貧困や病気、酒びたりの生活の中で、家庭の問題を描いた作品で注目を浴び、私小説作家として自虐的なまでの姿勢をつらぬき「苛烈味の文学」と評された。
【文学の部屋|葛西善蔵】大正時代編.26
シューちゃん

シュー(Syu)です
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館長

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