ゲオルク・ロイター2世

Johann Georg Reutter

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こちらのページでは【音楽家の部屋|ロイター2世

18世紀の教会音楽を彩った作曲家
をお楽しみください

ロイター2世 イラストポートレートSyusuke Galleryより )

ロイター2世って

館長

今回はロイター2世さんのイラストポートレートをお届けしました

なぜ2世?

館長

ロイター2世さんは、父ロイターさんと同姓同名

館長

そのため、父ロイターさんと区別する意味で2世であったり、ロイター・ザ・ヤンガーなどと表記されています

館長

ロイター2世さんのお父様はDuomo di Vienna の楽長であり作曲家した

館長

そして父より英才教育を受けます

18歳でデビュー

館長

18歳でオラトリオ、19歳でオペラを作曲したそうです

館長

そして、満を持してウィーン宮廷のオルガニストに名乗りをあげるのですが…

苦い経験

シューちゃん

何度も落選…

館長

シューちゃん、ようこそ!

館長

かなりの腕前だったはずのロイター2世さんが何度も落選?

シューちゃん

これにはロイター2世さんはかなりショックだったみたい

シューちゃん

もちろんお父上も

館長

でも、なぜ??

ジャッジはフックス

シューちゃん

一説によると、当時の宮廷楽団長だったフックスさんによって落とされていたみたいなんだ

館長

教会音楽における対位法の理論書を著された、あのフックスさんですか?

1660-1741を生きた作曲家。ウィーン・ショッテン教会やシュテファン大聖堂のオルガニストを歴任し神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇后(ハンガリー王妃)の楽長をはじめとして、レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世といった3代の皇帝に仕えた。オペラ、オラトリオ、パルティータを含む多くの作品を残す。教会音楽における対位法の理論書『Gradus ad Parnassum』(1725年)は、理論と実践が教師と生徒の対話形式で綴られ、その教育的なアプローチと理論は、その後の音楽教育に大きな影響を持った。J.Sバッハもこの理論書で学び、作曲家としての基礎を築いたとされている。
【音楽の部屋|フックス】大バッハが学んだ教科書の著者
シューちゃん

その真相はわからないけどね

イタリアへ留学

シューちゃん

でも、これがきっかけでロイター2世さんはイタリアへ私費留学を決める

館長

苦労は買ってでもしろって感じでしょうか

シューちゃん

そうだったかも!

シューちゃん

この留学でオペラや教会音楽をさらに学んだロイター2世さん

帰国

シューちゃん

さらにバージョンアップして22歳のころウィーンへ帰国

シューちゃん

その翌年には宮廷音楽団に採用される

館長

まさに苦労が実ったのですね

シューちゃん

そのころ、宮廷歌手で活躍していたウルスラとも結ばれて公私共に幸せだったみたいだよ

シューちゃん

その後1738年に父1世が亡くなって、その父の職であったシュテファン大聖堂の楽団長に就任する

ハイドンの師匠

シューちゃん

このロイター2世さんが楽団長のとき、聖歌隊にはハイドンさんが入隊しているよ

ハイドン登場

館長

ロイター2世を師匠と思ったのですが、あまりかまってくれなかったので…残念でした

1732-1809を生きた圧倒的な演奏時間と作曲数で交響曲の父と称される作曲家は、音楽が階級の高い人たちだけのものだった時代(バロック)から、市民にも手に届く時代(古典派)に活躍。そして楽曲形式のひとつ「ソナタ形式」を確立。
【音楽の部屋|ハイドン】市民による市民のための音楽をつくりました
館長

ハイドンさんから心の声が届いていますよ!

館長

せっかくロイター2世さんに師事したとおもったら、何年もの間に数えるぐらいのレッスンしかしてくれなかったと…

シューちゃん

実際、そうだったみたいなんだ

オーストリア継承戦争

シューちゃん

1740年からオーストリアは戦禍に見舞われたことも考えられる
※オーストリア継承戦争

館長

そんな時代背景もあったのでしょう…

シューちゃん

この戦争中も、その後もオーストリアは混乱期にあったみたい

シューちゃん

それはウィーンの音楽事情にもつながるんだ

館長

ではロイター2世さんも巻き込まれていたのでしょうね

シューちゃん

そうなんだけど、ロイター2世さんは自身の作品を貫き通した

シューちゃん

つまり、ウィーンでの伝統的な教会音楽を守ったんだと思う

マリア・テレジアのもとで活躍

シューちゃん

そんな活動が実って、戦争の火種だったマリア・テレジア皇后(1717-1780)より宮廷楽団の副楽長、その後楽長の階段を登る

館長

混乱期にあった18世紀のウィーンの教会音楽

館長

それまでの音楽を保守して、さらに発展させたのがロイター2世さんだったってことですね

館長

ではロイター2世さんのミサ曲をお聞きください

ロイター2世作 Kyrie Missa a 4 voci G-Dur

館長

いかがでしたか?

館長

さて今回はゲオルク・ロイター2世を取り上げさせていただきました

館長

いらすとすてーしょんでは西洋音楽を彩ってきた音楽家を…

館長

これからもご紹介していきます

館長

どうぞお楽しみに!

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0089中華人民共和国出身
1920-2014を生きた歌手であり俳優。1938年満洲映画協会から中国人専属俳優とした李香蘭という芸名でデビューし日本や満州国で大人気となる。それは誰もが中国人スターと信じてやまなかった。終戦後、日本に帰国してからは山口淑子として銀幕、舞台で俳優、歌手として活躍。参議院議員として3回当選を果たしている。
【音楽の部屋|山口淑子(李香蘭)】ブギウギ放送記念⑤
01北海道
1924-2010を生きた歌手であり俳優。1929年に子役デビューし、俳優としての才能をすぐさま発揮し人気を博す。戦前後に数々のスクリーンに登場し活躍した。歌手としては1949年公開の主題歌カンカン娘で大ヒットを果たす。引退後はエッセイスト、脚本家として活躍した。
【音楽の部屋|高峰秀子】ブギウギ放送記念④
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1910-1998を生きた映画監督。画家になることを夢見たが、現在の東宝に入社し1943年姿三四郎で映画監督デビュー。戦後は敗戦国の姿とヒューマニズムを掛け合わせた作品で、生きることをフィルムに込めた。それは中学時代に読み漁ったロシア文学、その中でもドストエフスキーの影響があったとされている。
【映画監督の部屋|黒澤 明】ブギウギ放送記念③
28兵庫県
1889-1950を生きた経営者であり興行師。夫、泰三を共に大阪天満にて寄席興行をはじめ、後の吉本興業を興す。それは大阪の演芸界に革新を起こし、現在も大阪生まれの独自路線で人気を博している。
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35山口県
1876-1967を生きた言語学者。関口家に生まれるも父を亡くし、新村家の養子となる。東京帝国大学文科大学博言学科卒業後、日本の言語学の先駆者であった上田萬年に師事し、日本の言語学、国語学の道を歩む。その後、研鑽を積み、京都帝国大学教授として長年教鞭を執る。欧州留学を経てキリシタン資料の語学的価値を明らかにするなど、南蛮文化研究の先駆者としても活躍。語源学にも深く取り組み、日常語から古語まで幅広く考証。1955(昭和30)年には国民的辞書「広辞苑」の初版を編纂し、辞書文化の礎を築いた。1956(昭和31)年に文化勲章受章。日本の国語学の基礎を築いた巨星であった。
【文学の部屋|新村 出】昭和時代編.83New!!
37香川県
1888-1948を生きた小説家であり劇作家。京都帝国大学英文科在学中に、芥川龍之介らに勧誘され「新思潮」を創刊。1916(大正5)年に戯曲「屋上の狂人」などを発表する。卒業後、時事新報社の記者となり「無名作家の日記(1918)」などの短編小説を発表し新進作家の道を歩む。また、1917(大正6)年に発表した「父帰る」が1920(大正9)年に2世市川猿之助が演じ、劇作家としての一歩を歩んだ。1923(大正12)年には雑誌「文芸春秋」を創刊し出版業に進出し、 幅広く活躍。 1935(昭和10)年には、亡き友人・芥川龍之介と直木三十五の名を冠した「芥川賞」「直木賞」を創設し、戦後文学の制度的基盤を築いた。戦時中は映画会社「大映」の初代社長も務め、文化産業の発展にも寄与。戦後は公職追放の対象となり、復帰を果たせぬまま1948(昭和23)年に逝去。死後は「菊池寛賞」が創設され、文化功労者を顕彰する制度として現在も継続されている。本名は菊池寛(ひろし)。
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