ドイツ連邦共和国出身の音楽家

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0049ドイツ連邦共和国出身
1881-1965を生きた化学者。当時、高分子は低分子の集合体と考えられていたところ、粘度や拡散速度などの物理学的測定、化学反応による合成と分析、X線回折などの結果から、高分子が鎖状の巨大分子であることを明らかにした。この発見より高分子化学が大きく促進し、プラスチックやゴム、合成繊維などの高分子材料の誕生へとつながった。高分子化学の創始者として称され、1953年にノーベル化学賞を受賞した。
【化学の部屋|シュタウディンガー】20世紀に活躍した世界の化学者XⅢ
0049ドイツ連邦共和国出身
1876-1954を生きた化学者。ジエン反応の発見と研究により、1950年に教え子のKurt Alder(1902-1958)とともにノーベル化学賞を受賞。このディールス・アルダー反応は、有機合成化学における重要なツールとなり、多くの複雑な分子の合成を可能にした。
【化学の部屋|ディールス】20世紀に活躍した世界の化学者⑨
0049ドイツ連邦共和国出身
1879-1968を生きた化学者であり物理学者。Ramsay(1852-1916)に化学を学び、放射性元素研究を開始。その後、放射性トリウム(Th)などを発見した。1938年ウランの原子核分裂をStrassmann(1902-1980)と共に発見、これは原子炉や核兵器開発の基盤となった。この功績から1944年ノーベル化学賞を受賞した。
【化学の部屋|ハーン】20世紀に活躍した世界の化学者⑥
0049ドイツ連邦共和国出身
1874-1940を生きた化学者であり工学者。Haber(1868-1934)の成功させたアンモニア合成の工業化研究を行い、高圧反応装置を発明。この装置を用いて、ハーバーと共にアンモニア工業生産(ハーバー・ボッシュ法)を成功させた。この功績から1931年ノーベル化学賞を受賞した。
【化学の部屋|ボッシュ】20世紀に活躍した世界の化学者⑤
0049ドイツ連邦共和国出身
1835−1902を生きた化学者。有機化合物の多くは二次元の構造式では説明できないため立体構造を提唱、そして1873年に化学構造が同じでも幾何学的配置が異なる異性体を「幾何異性体」と命名し、立体化学の基礎を築いた。翌1874年にこの説を基として、Le Bel (1847-1930)、van 't Hoff(1852-1911)らが正四面体説へと発展させている。
【化学の部屋|ウィスリツェヌス】19世紀に活躍した世界の化学者XXXⅠ
0049ドイツ連邦共和国出身
1818-1892を生きた化学者。Liebig(1803-1873)に化学を学び、広い有機化学の分野で研究を行い、多くの化学者を育てた。世界初となる合成染料モーブ(Mauve)の発見者Perkin(1838-1907)や、日本から留学した長井長義などもその一人であった。
【化学の部屋|ホフマン】19世紀に活躍した世界の化学者XXX
0049ドイツ連邦共和国出身
1800-1882を生きた化学者。Gmelin(1788-1853)やBerzelius(1779-1848)に学び、無機物から有機物の初合成となるシアン酸アンモニウムを熱することで、無機物から有機化合物である尿素の合成に成功。この発見は有機化合物は生物体しか作り出せないという生気論を覆し、有機化学の発展の布石となった。カリ球を発明したLiebig(1803-1873)と数々の有機化合物における共同研究も行なってる。
【化学の部屋|ヴェーラー】19世紀に活躍した世界の化学者XXⅧ
0049ドイツ連邦共和国出身
1852-1919を生きた化学者。糖類の構造研究に不可欠な試薬となるフェニルヒドラジン誘導体を発見。この発見により天然の糖や自然界には存在しない糖の合成に成功し、グリコシドの合成への道を拓いた。さらに尿酸の研究を通じて窒素化合物の構造を明らかにし、その物質を1884年にプリンと命名した。これらの業績から、1902年ノーベル化学賞を受賞している。
【化学の部屋|フィッシャー】19世紀に活躍した世界の化学者XXⅢ
0049ドイツ連邦共和国出身
1829-1896を生きた化学者。1857年に炭素原子が4つ原子と結合できることを提唱し、有機化合物の構造を説明する理論的基盤を築いた。この業績により構造化学が確立され、有機化学の発展に大きく貢献。またベンゼンが環状構造を持つことを発見し、その後の芳香族化合物の構造理解に大きな進展をもたらしたことでも知られている。
【化学の部屋|ケクレ】19世紀に活躍した世界の化学者XⅥ
0049ドイツ連邦共和国出身
1811-1899を生きた化学者。原子スペクトルにより元素を同定する分光分析の手法をKirchhoff(1824-1887)と共に確立し,セシウムやルビジウムを発見。Roscoe(1833-1915)と共に光化学の研究からブンゼン-ロスコーの法則を見出した。またFaraday(1791-1867)からヒントを得たことによりガスバーナーを開発。現在もブンゼン・バーナーとして使われる。
【化学の部屋|ブンゼン】19世紀に活躍した世界の化学者XⅢ
0049ドイツ連邦共和国出身
1803-1873を生きた化学者。カリ球と呼ばれるガラス製の装置を発明し、有機化合物の元素組成(特に炭素、水素、酸素、窒素)を正確に測定するための標準的な方法を確立した。この技術により、有機分析をより正確かつ簡便になり、有機化学発展の原動力となった。また化学教育の第一人者としてその名を刻んでいる。
【化学の部屋|リービッヒ】19世紀に活躍した世界の化学者Ⅺ
0049ドイツ連邦共和国出身
【化学の部屋|マイヤー】19世紀に活躍した世界の化学者⑧
0049ドイツ連邦共和国出身
1794-1863を生きた化学者。化学組成の似た物質の結晶は同形になるという同形律(Isomorphism)を発見し1819年に報告、また異なる結晶形を持つ同一物質についての二形性(Dimorphism)についても研究し無機化学としての結晶学の礎を築いた。その後有機化学の研究を行い、そんなかで糖の旋光性を利用した検糖計の発明を行なったことでもその名を馳せている。
【化学の部屋|ミッチェルリヒ】19世紀に活躍した世界の化学者⑤
0049ドイツ連邦共和国出身
1742-1786を生きた化学者であり、バリウムやマンガンなどの元素や数多くの化合物を発見し報告した。また酸素ガスにおいて、1777年Chemical Treatise on Air and Fireとして著したがプリーストリーより2年遅れたため、発見者となっていない。プリーストリーより数年前にその酸素の存在を確認していたという。
【化学の部屋|シェーレ】18世紀に活躍した世界の化学者②
0049ドイツ連邦共和国出身
1659-1734を生きた医学者であり化学者。 1708年生理学と病理学からなる医学理論書Theoria medica veraを著し、生物にはアニマという非物質が存在し、生命活動を営むとしたアニミズムを提唱した。そしてその理論は、ドイツ哲学者ライブニッツ(1646-1716)が提唱した生気論を牽引した。また化学の分野では、特にZymotechnia Fundamentalis(科学の基礎・1697年)にて、燃焼について酸化の考えにつながるフロギストンという物質をアリストテレスにより広く支持された四元素説に加え唱えた。
【医学の部屋|シュタール】18世紀に活躍した世界の医学者Ⅺ
0049ドイツ連邦共和国出身
1752-1840を生きた医学者。1789年に著したAnfangsgründe der Physiologie(生理学の基礎)は18世紀の生理学書としてこの分野をまとめ上げる。また前成説の否定派であり、生気論の支持者でもあった。人種という概念を打ち立てたことでもその名を馳せ、人類をコーカサス,モンゴル,エチオピア,アメリカ,マレーの5人種に分類した。
【医学の部屋|ブルーメンバッハ】18世紀に活躍した世界の医学者⑨
0049ドイツ連邦共和国出身
1734-1815を生きた医学者。動物磁気という超感覚的なものが人間に備わっており、その磁気を操作することによって神経系の病気は治癒できるとしたメスリズムの提唱者。この治療を受けるために数ヶ月先の予約まで埋まっていたとされる。その後フランス政府(王室)は調査団を派遣、その結果メスリズムによる治療の無効性を下した。このメスリズムはその後、暗示療法、そして催眠術という経過を辿る。
【医学の部屋|メスメル】18世紀に活躍した世界の医学者⑥
0049ドイツ連邦共和国出身
1614-1672を生きた医学者。ライデン大学でヘルニウス(親子)が始めたベッドサイドトレーニング(BST)を受け継ぎ、医学教育に力を入れ、同時に脳解剖の分野で功績を残し、医学における基礎と臨床の両立を推進した。1628年にハーベーによって提唱された血液循環論を支持したことでもその名を刻んでいる。
【医学の部屋|シルヴィウス】17世紀に活躍した世界の医学者⑥
0049ドイツ連邦共和国出身
1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
【医学の部屋|シーボルト】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑤
0049ドイツ連邦共和国出身
1864-1949を生きた作曲家。音楽家の父の元、最高の音楽環境で学び、そして作曲家の道を歩んだ。Don Juan(1888)、Death and Transfiguration(1889)など20代で数々の交響詩を手掛ける。その後もドイツを舞台にEin Heldenleben(1898)などの代表的な交響詩を残している。また20世紀に入ってからはSalome(1905)をはじめオペラ作品が中心となり活躍した。
【音楽の部屋|R.シュトラウス】ロマン派プログラムミュージック③
0049ドイツ連邦共和国出身
1791-1864を生きた作曲家。アルブレヒツベルガー、クレメンティとの接点があったとされ、10歳のときには天才ピアニストと囁かれるほどの実力を兼ね備えていた。その後、サリエリ、ツェルターに音楽を学んだ。1831年初演された作品Robert le diable(悪魔のロベール)はグランド・オペラ史上3作品目に位置付けられ、フランス・オペラ界の頂点へと駆け上がる。その後も特にブルジョワジーの絶大な支持のもと活躍し莫大な富を得たことから、ワーグナー、スタンダール、シューマンなどから批判を浴びることも多々あったとされる。
【音楽の部屋|マイアベーア】仏グランドオペラの中心作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1780-1849を生きた作曲家。 法律家から進路を一転音楽家の道へ。その後、音楽活動をウィーンに移し、アルブレヒツベルガー(1736-1809)に師事。ケルントナートーア劇場、ウィーン宮廷歌劇場などの楽長をつとめた。1834年に作曲したオペラ『Das Nachtlager in Granada』で一躍、名作曲家の階段を登った。
【音楽の部屋|クロイツァー】国民的オペラに挑んだロマン派作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1786-1826を生きた作曲家であり、ピアノの名手そして指揮棒を用いた近代的指揮法の先駆者の一人とされる。モーツァルトの「魔笛」の影響を受け、ジングシュピール(歌芝居)形式を用いて「魔弾の射手」を作曲し、ドイツ国民歌劇およびロマン派オペラの創始者となる。そしてこの作品は後のワーグナーへと受け継がれる。ピアノ曲や協奏曲も手掛けており「Invitation to the Dance」や「Konzertstück in F minor」はその代表作となっている。
【音楽の部屋|ウェーバー】独ロマン派・国民的オペラ作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1758-1832を生きた作曲家であり音楽教育者。煉瓦職人として働きながら音楽を独学し、後の師となるC.F.C.Fasch(1736-1800)の創立したアマチュア合唱団ベルリン・ジングアカデミーに入団、そこで研鑽を積み、その後引き継ぐ。その努力が実り、画家、彫刻家、建築家などの著名な芸術家が集うプロイセン(現:ベルリン)芸術アカデミーの会員となり、現在のベルリン芸術大学宗教音楽研究所の前身となる王立音楽研究所を設立したことでもその名を刻む。そこでの音楽教育活動で多くの音楽家を育てる。また30年以上の、詩人Goethe(1749-1832)とは親友であり、よき理解者であった。
【音楽の部屋|ツェルター】19c.ベルリン音楽の礎を築いた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1735-1782を生きた作曲家。J.S.Bachの18番目の子であり、父J.S.Bachの亡き後、C.P.E.Bachに育てられ、その後イタリアへ留学し、サンマルティーニに学びミラノ大聖堂のオルガニストとして研鑽を積んだ。その後英国にわたり、シャーロット王妃の音楽教師となり活躍。Bach一族の中で唯一オペラを手がけた。 ミラノのバッハ、ロンドンのバッハとも呼ばれる。
【音楽の部屋|J.C.バッハ】J.S.Bachの偉大な末息子
0049ドイツ連邦共和国出身
1749-1832を生きた文学家であり博物学者。ゲーテによって生み出された詩や戯曲は、多くの作曲家によって音楽化される。その中でもシューベルトは70曲を手がけた。またモーツァルトやベートーベンの音楽に強い関心を持ち、高く評価した。ゲーテ作品の中でも「ファウスト」は50作品以上がオペラとして作曲されているほど、絶大な人気戯曲となっている。
【音楽の部屋|ゲーテ】作曲家たちが愛した詩人
0049ドイツ連邦共和国出身
1784-1859を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。幼少期からヴァイオリンの才能を認められ、15歳ごろにはすでに宮廷楽団で活躍し、その才能を更に開花させる機会を得る。その後楽団長などを歴任し、アン・デア・ウィーン劇場の指揮者となる。この時を契機にベートーベンと信頼関係が生まれ、そのベートーベン亡き後の音楽界の中心人物となった。 ヴァイオリンのチンレスト(顎当て)、そして指揮をする際に棒を用いたこと先駆者でもあった。 自伝としてSelbstbiographieを著している。
【音楽の部屋|シュポーア】独バイオリニストの最高峰
0049ドイツ連邦共和国出身
1719-1787を生きた作曲家であり、ヴァイオリニスト。言わずと知れたW.A.モーツァルトの父は、バイオリニストとして、そしてその奏法について初となる理論書バイオリン奏法(Versuch einer gründlichen Violinschule)を1756年に著した。子女Maria Anna、Wolfgang Amadeusの音楽教育に情熱を注ぎ、その才能を開花させた。
【音楽の部屋|L.モーツァルト】英才教育者は偉大なヴァイオリニスト
0049ドイツ連邦共和国出身
1710-1784を生きた作曲家。J.S.Bachの長男であり、ドレスデン・ソフィア教会やハレ・マリア教会でオルガニストとして活躍。大バッハの子の中でも音楽才能は高く天才肌でありながら、父没後は波乱に満ちた生涯を送り孤独と貧困をたたかったとされている。ドレスデンのバッハ、ハレのバッハとも呼ばれる。
【音楽の部屋|W.F.バッハ】大バッハの長男
0049ドイツ連邦共和国出身
1714-1788を生きた作曲家。父大バッハ、そして父の友人であったテレマンより英才教育を受け、フリードリヒ2世の宮廷チェンバリスト、そしてテレマンの後を継ぎハンブルク教会音楽監督として活躍した。その才能は一家の中で最高峰と称され、古典派初期のドイツ音楽を担った。 1753年(1762年増補)に著したVersuch über die wahre Art, das Klavier zu spielenは鍵盤楽器奏法の教科書として、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンもこれを用いて学んだとされる。 「ベルリンのバッハ」または「ハンブルクのバッハ」とも呼ばれている。
【音楽の部屋|C.P.E.バッハ】バッハ家No.1の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1749-1818を生きた作曲家でありオルガニスト。The University of GöttingenよりAllgemeine Geschichte der Musikにて学位を取得し、同大学における音楽プログラムに携わり音楽教育をおこなったことから音楽学の創始者の一人と位置付けられている。Lorenz Christoph Mizler(1711-1778)に次ぐJ.S.Bach研究を行い、Über Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke(1802)を著し、バッハ研究の礎となっている。
【音楽の部屋|フォルケル】J.S.Bach研究の第一人者
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1759を生きた作曲家。父の目を盗んで音楽を学び、オルガニストとしてその才能を開花させ、オペラに関心をもつ。その後イタリアでさらに才能を深化させ、後のジョージ1世のカペルマイスターとなり、生涯英国音楽、とくにオラトリオで活躍した。そのジョージ1世の特注により作曲したWater Musicは西洋音楽で人気の高い音楽を寄せ集めテムズ川をヘンデル色で染め上げる成功を収めた作品となった。
【音楽の部屋|ヘンデル】屋外コンサートは船遊びで
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1741-1801を生きた作曲家。18世紀後半のスウェーデン音楽発展に尽力した一人。ヴェネツィアで音楽を学び、生まれ故郷のドレスデンで活躍したのち、1777年にスウェーデン王立楽団のメンバーとなり宮廷礼拝堂の再建を遂げた。その後1782年スウェーデンオペラの歴史を飾るCora och Alonzoで大成功を収め、その名を刻んだ。
【音楽の部屋|ナウマン】スウェーデン音楽を築いた作曲家
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1731-1798を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。マンハイムで栄えた前古典期の重要な楽派の一つマンハイム楽派の中心人物として活躍し、交響曲をはじめ、協奏曲、室内楽曲そしてバレエなどの多数の作品を残した。また若きW.A.モーツァルトとの年の差を感じさせない信頼関係は、その後の作曲家人生に大きな影響を与えたとされる。
【音楽の部屋|カンナビヒ】マンハイム楽派の巨匠
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1718-1795を生きた作曲家であり音楽理論家。音楽のあらゆる分野でその才能を発揮した。その中でも音楽理論書Die Abhandlung von der Fugeはフーガに関する原則や技法を解説し形式、構造など理論的に著し、当時の作曲家たちに大きな影響を与えたとされている。
【音楽の部屋|マルプルク】フーガを科学した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1714-1787を生きた作曲家。イタリア様式オペラ(オペラ・セリア)をベースに、当時フランスでブームを起こしたオペラ・コミックをウィーン様式に変革、そしてブフォン論争で揺れたフランス・オペラ界に音楽と演劇の融合を目指し「Iphigénie en Tauride」を作曲し大成功を収め、この論争に終止符を打つ作品となる。グルックの無意味な音楽的装飾や、歌い手の技巧といった重厚感より、単純で明快でそして自然な表現を重視した結果であった。そして18世紀のオペラ改革の先駆者としてその名を残している。
【音楽の部屋|グルック】モーツァルトに繋ぐオペラ改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1704-1759を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。ドレスデン宮廷歌手として、後にフリードリヒ2世の宮廷楽長として活躍した。作曲家としてイタリア様式オペラや宗教音楽を手がけ、南ドイツの豊かな国際性とは対照に、北ドイツ音楽の気質に影響を受けていたとされる。その楽曲は重厚で閉鎖的な傾向があり、バロック時代の北ドイツ音楽の伝統を反映している。1755年に作曲された受難曲イエスの死は19世紀までの約150年間で最も演奏された作品とされている。兄Johann Gottlieb Graunも作曲家として活躍し兄弟でベルリン音楽史にその名を刻んでいる。
【音楽の部屋|グラウン】北ドイツ音楽を繋いだ作曲家
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1687-1755を生きた作曲家でありヴァイオリニスト。ドレスデン・バロック期最高峰のヴァイオリニストとして名高い。その奏法はもちろんのこと、人柄や指導力に優れ、ドイツ音楽史にその名を刻んでいる。J.S.Bach、G.P.Telemannなどに影響を与えイタリア留学時にはVivaldiとの親交により曲が捧げられたエピソードも伝わっている。
【音楽の部屋|ピゼンデル】ドレスデン・バロックの名手
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1684-1748を生きた作曲家でありオルガニスト。ドイツ語で初めて書かれた音楽辞典Musicalisches Lexicon oder musicalische Bibliothecを1732年に著し、その後の基盤をつくる。J.S.バッハとは親戚でありバロック期音楽を共に歩んだ。
【音楽の部屋|ヴァルター】大バッハと歩んだバロック
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1681-1764を生きた作曲家でありオルガニスト。ハンブルク・オペラ歌手としても活躍した。ハンブルク大聖堂音楽監督やホルシュタイン公宮廷楽長などの要職を務めた。中年期に難聴を患うが音楽理論家として活動し、1739年にDer vollkommene Cappellmeisterを著す。ヘンデル(1685-1759)と終生の友情を築き、1761年にはGeorg Friedrich Händels Lebensbeschreibungをヘンデルの伝記としても残している。
【音楽の部屋|マッテゾン】ヘンデルの大親友
0049ドイツ連邦共和国出身
1681-1767を生きた作曲家。バロック期から古典派の時代に活躍。アイゼナハ宮廷楽長として赴任し、当時ワイマール宮廷オルガニストのJ.S.バッハと親交を深める。その後ハンブルクに移り、ハンブルク・オペラの監督を兼務。国際的な作曲家として名を広める。その作曲は多種多作であり、3000曲以上とも言われている。器楽曲室内音楽としてターフェルムジークに適する音楽の分野では世界が最も称賛する作曲家の一人。バッハ家との関係も深く、C.P.E.バッハの名付け親であり、J.S.バッハ亡き後は代父としての存在であった。その自伝は文学家としても評価されている。
【音楽の部屋|テレマン】知られざる大作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1585-1672を生きた作曲家。留学先のヴェネツィア楽派ジョヴァンニ・ガブリエリに師事、帰国後宮廷音楽の発展に尽力した。ドイツ語で表現したPsalmen Davidsを1619年に発表。ヴェネツィア楽派由来の豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させたことは特筆する偉業であった。またドイツにおける最初のオペラと伝わるシュッツ作のダフネはオペラと呼べる作品であったかについて現在検証されている。
【音楽の部屋|シュッツ】大バッハへ繋ぐドイツ音楽の父
0049ドイツ連邦共和国出身
1571-1621を生きた作曲家。著書Syntagma musicum(音楽大全は3巻(当初は全4巻の予定と伝わっています)を発行した最古の音楽事典とされ,その第2巻は当時の楽器についての記述があり当時の貴重な資料となっている。1612年に発表した300以上の舞曲を編曲した「Terpsichore」はフランスを中心としたダンスミュージックに用いられていたと考えらている。
【音楽の部屋|プレトリウス】学者肌の作曲家
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1562-1612を生きた作曲家。ヴェネツィアでウィラートに師事してたガブリエリにから音楽を学び、その後アウクスブルク、ニュルンベルク、ドレスデンで活動。ヴェネツィア楽派のスタイルに独自の音楽スタイルを築き上げた。ルネサンス後期のドイツ音楽をリードした一人。
【音楽の部屋|ハスラー】母国に捧げるドイツ音楽
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1559-1625を生きた作曲家であり音楽理論家。アウグスブルクの聖ウルリッヒと聖アフラの修道院で音楽を学び、キリスト教音楽の指導者カントルをつとめた。その後音楽理論を論文として「Compendium musicae」を 1591 年に執筆。1681年までに13 版ヨーロッパ全土で教科書として発行されて、その影響は偉大であったとされている。
【音楽の部屋|グンペルツハイマー】対立を回避させた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1553-1611を生きた作曲家。教会少年合唱団からラッソ率いるバイエルン宮廷楽団の団員となり師事する。その後ヴェネツィアではメルーロにも師事した。ケーニヒスベルクとベルリンの宮廷楽長として約250の宗教音楽などを中心に作曲しました。彼は初期バロック・プロテスタント教会音楽の発展に活躍した。
【音楽の部屋|エッカルト】プロテスタント教会音楽の巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1581-1634を生きた作曲家でありオルガニスト。ニュルンベルクでもっとも古い教区教会の聖ゼーバルト教会でオルガニストを生涯つとめた。さまざまなスタイルのモテットを作曲し17世紀を代表するニュルンベルク楽派の創設者とも称される。
【音楽の部屋|シュターデン】ニュルンベルク楽派の創設者
0049ドイツ連邦共和国出身
1494-1576を生きた詩、音楽を教示するマイスターシンガーであり、本職は靴職人。マルティン・ルターの宗教改革に賛同し、ドイツ語で書いたDie Wittenbergisch Nachtigallは、当時の宗教的な議論や出来事を風刺的に描写し後押しとなる作品となった。後にリヒャルト・ワーグナーはハンスを主人公として楽劇"ニュルンベルクのマイスタージンガー"を作曲している。
【音楽の部屋|ザックス】マイスターシンガー筆頭
0049ドイツ連邦共和国出身
1483-1546を生きた神学者であり作曲家。教皇の教義・権威によらないキリスト教信仰の自由や聖書に書かれている教えを信奉することを唱え、95ヶ条の論題を教会のドアに掲示して宗教改革を行う。その改革の一つとして、それまでラテン語であった教会音楽を母国語の歌詞に翻訳し、聖書の言葉を理解しやすい言語で歌い、賛美すること目指しプロテスタント音楽の礎を築く。
【音楽の部屋|ルター】母国語で行った宗教改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1488-1548を生きた作曲家であり印刷技術者。トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)のキリスト教音楽指導者として活動した。宗教改革指導者であったマルティン・ルターを支持しルター派楽譜の普及に尽力する。またラウは印刷業も営み、楽譜印刷を通じて幅広くプロテスタント教会音楽の発展に寄与した。
【音楽の部屋|ラウ】作曲家であり印刷業者
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1577-1640を生きた画家。17世紀フランドルにおいてバロック様式を確立し、それはイタリア美術と肩を並べるほどの技術であったとされる。ミケランジェロ、ティツィアーノの作品から学び、イタリア留学時の盟友カラッチやカラバッジョらから影響を受け巨匠の階段を駆け上がった。帰国後はネーデルランド国における宮廷画家となり、工房を組織化し大規模な制作拠点を築いた。古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家、さらに七ヶ国語をあやつり、外交官としても活躍している。
【画家の部屋|ルーベンス】フランドル・バロックの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1891-1976を生きた画家。第一次世界大戦を背景にあらゆる手法を用いてでも既存の芸術や文化を否定する「ダダイスム」運動に参加。幻想的で謎めいた形而上絵画に端を発したシュルレアリスムの一翼を担い、ジョアン・ミロらと共に中心的な活動を行う。その後第二次世界大戦下ではアメリカに亡命し、戦後フランスに帰化する。
【画家の部屋|エルンスト】シュルレアリスムで活躍
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1497-1543を生きた画家。ハンスの父はデューラー以前の画家で後期ゴシックで活躍し、その息子であるハンスは父の技法に加え写実性を高めた人物画を描き、その中でも肖像画を得意とした。デューラーとともにドイツ・ルネサンスを築く。
【画家の部屋|ホルバイン】ドイツにルネッサンスをもたらす息子
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1471-1582を生きた画家。後期ゴシック美術だった当時のドイツ絵画に対してネーデルランド絵画とイタリアルネサンスを融合させ、油彩画、版画でこの地域にルネサンスの源流を築いた。
【画家の部屋|デューラー】ドイツ・ルネサンスの源流
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1818-1883を生きた経済学者であり哲学者。社会主義的生産様式を経て、階級の消滅と生産手段の共有を含む共産主義社会(マルクス主義)の実現を提唱した。階級闘争や不平等に鋭い洞察を示し、資本論などの著作において、資本主義の問題点とその克服についての理論を展開した。労働者階級の解放と経済的平等を追求し、近代社会科学と政治思想に大きな影響を及ぼした。
【経済学者の部屋|マルクス】哲学から導いた資本論
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1400頃-1468 を生きた発明家。可動式金属活字印刷機の発明を行い、これにより西洋初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」が完成。グーテンベルクの活版印刷技術の発明は、ルネサンス時代における革新的な出来事であり、その影響はその後の印刷文化に大きな影響を与える。一方でグーテンベルクについては未解決の謎も多く、その技術や方法の詳細はいまも研究されている。
【技術者の部屋|グーテンベルク】活版印刷の魔術師
0049ドイツ連邦共和国出身
1815-1897を生きた数学者。Gudermannの講義により楕円関数に影響を受け、関数要素・解析接続の概念を導入し解析関数を定義して解析関数論を樹立した。またこの解析関数論からノルウェーの数学者アベールの生み出したアベール関数をさらに研究し応用。
【数学者の部屋|ワイエルシュトラス】無学位の大教授
0049ドイツ連邦共和国出身
1646-1716を生きた数学者であり哲学者。変化する量や曲線の面積を計算する微積分を独自に解明。それと同時期に微積分学を発見していたアイザック・ニュートンと共に微積分学の共同創始者と称されている。また著書Monadologyにて Monadという概念を提唱し哲学分野でも大きな影響を与えた。
【数学者の部屋|ライプニッツ】天才を超えた天才
0049ドイツ連邦共和国出身
1873-1916を生きた天文学者。ブラックホールを予測するためのSchwarzschild metric(シュワルツシルト解)を導き出し、ブラックホールの存在を理論的に証明した。現在のブラックホール研究の礎となる研究であった。
【天文学者の部屋|シュヴァルツシルト】ブラックホールを導く理論の先駆者
0049ドイツ連邦共和国出身
1850-1924を生きた生物学者。発生生物学の分野においてEntwicklungsmechanik(発生メカニクス)を提唱。実験発生学を取り入れ、その研究成果から器官形成説を提唱。その後の発生学の礎を築いた。
【生物学者の部屋|ルー】実験発生学の祖
0049ドイツ連邦共和国出身
1834-1914を生きた生物学者。生物の体細胞と生殖細胞(卵子や精子など)が異なる細胞系統を持ち、体細胞の変化が遺伝情報を生殖細胞に影響を及ぼすことはないというThe Germ Plasm Theoryを提唱。これによりチャールズ・ダーウィン「種の起源(On the Origin of Species)」を発展させ個体の変異が環境に適応し、その適応した特性が次世代に遺伝することによって進化が進んでいくという考えを示した。
【生物学者の部屋|ヴァイスマン】Next Charles Darwin
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1882を生きた生理学、生物学者であり医師。すべての生物は基本的な構造単位である「細胞」から構成されるという細胞理論をMicroscopical Researches into the Accordance in the Structure and Growth of Animals and Plants(1839)に発表。細胞が生物学的な基本単位であることを明らかにした。
【生物学者の部屋|シュワン】細胞を発見しました
0049ドイツ連邦共和国出身
1900-1980を生きた心理学者。人間の存在、関係、自己成長、愛といったテーマで、個人の心理状態や人間関係を個人単体の内面だけでなく、社会的な要素や文化的な背景とを結びつけて考察。特に人間の本質的なニーズや社会的な影響してと、社会心理学の分野で活躍した。
【心理学者の部屋|フロム】現在にも通じる社会心理学
0049ドイツ連邦共和国出身
1832-1920を生きた心理学者。心理学を実験的な科学として確立するための先駆者的な役割を果たし近代心理学の父と称される。また異文化間の心理学的な比較研究を行った「Völkerpsychologie」を著し、心理学の領域を個人心理学から社会心理学に発展させた。
【心理学者の部屋|ヴント】近代心理学の父
0049ドイツ連邦共和国出身
1821-1894を生きた物理学者を中心とした科学者。物理学においては、エネルギー保存の法則を提唱した一人であり、生理学分野では光の三原則を見出し発展させた。その他、眼科学や電気生理学、教育などの分野で業績を残こす。
【物理学者の部屋|ヘルムホルツ】エネルギー保存の法則を提唱
0049ドイツ連邦共和国出身
1864-1915を生きた医師。脳組織の検査により、異常なタンパク質の蓄積と神経細胞の変性が明らかになる神経変性疾患を初めて報告し、アルツハイマー病を発見した。
【医学の部屋|アルツハイマー】神経変性疾患の第一人者
0049ドイツ連邦共和国出身
1773-1843を生きた哲学者。カントが唱えた超越論を人間の認識、判断における直感を重視し、心理学へ導いた心理主義を切り拓いた。また倫理学の分野でも、道徳を己の内的な直観に求めその法則に従って行動することが重要であると説いた。
【哲学の部屋|フリース】直観主義の創始者
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1831を生きた哲学者。「自由と平等」を掲げたフランス革命の時代の社会や歴史の変化を重視し、弁証法や絶対知の概念など、独特で抽象的な理論を提唱した。著書に精神現象学、法哲学などがある。
【哲学の部屋|ヘーゲル】変化を重視した哲学者
0049ドイツ連邦共和国出身
1724-1804を生きた哲学者。人間の認識で物事の本質を直接的には把握できないとし、行動の基盤では人々の行動は自己目的性と他者への敬意に基づいて行われるべきと、道徳的な倫理を説いた。 ※ケーニヒスベルクは現ロシア領ですが、いらすとすてーしょんではドイツ出身とさせていただきます。
【哲学の部屋|イマヌエル・カント】理性と敬意が倫理を導く
0049ドイツ連邦共和国出身
1881-1965を生きた化学者は、それまで低分子が会合(ミセル)状態と考えられていた澱粉を使って、一つの巨大な分子(高分子・ポリマー)であることを証明した。その結果1953年ノーベル化学賞を受賞。
【化学者の部屋|ヘルマン・シュタウディンガー】高分子化学の創始者
0049ドイツ連邦共和国出身
1734-1815を生きた催眠術Mesmerise(メスメライズ)を提唱した医師。ルイ16生やマリー・アントワネットなども興味を示したこの催眠療法はオカルト?、ペテン師とも揶揄されるが、現在の催眠療法や精神分析学に受け継がれている。
【医学の部屋|Franz Mesmer フランツ・メスマー】催眠術生みの親はアルモニカと共に…
0049ドイツ連邦共和国出身
1813-1883を生きた歌劇王の異名を持ち19世紀ヨーロッパ全土を魅了した作曲家。その一度聞いたら虜になる作曲はまさに天才。その天才的な音楽家は自身の生活よりも犬を愛した動物好きの一面も。
【音楽の部屋|リヒャルト・ワーグナー】天才歌劇作曲家を癒したのは犬だった!?
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1856を生きた指の影響でピアニストから偉大な作曲家に転身。当時人気のピアニストクララとの二人三脚で音楽界を渡り歩くも、精神疾患を患いその才能を46歳で閉じた。
【音楽の部屋|ロベルト・シューマン】すべてのピアノを愛した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1819-1896を生きた作曲家でありピアニストはドイツ紙幣100マルクの肖像でもあった。
【音楽の部屋|クララ・シューマン】19世紀の天才音楽少女
0049ドイツ連邦共和国出身
1833-1897を生きた高い完成度を求めた作曲家はロベルト・シューマン、クララに出会うことでその後の人生を広げた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「バッハ」そして「ブラームス」)の一人。
【音楽の部屋|ブラームス】本物の完璧主義者!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1750を生きた音楽一家に生まれた偉大な作曲家は苦境の中に光を見出した努力家であった。そして20人の子供をもうけ大家族は音楽一家を形成。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「ブラームス」そして「バッハ」)の一人。
【音楽の部屋|J.S.バッハ】音楽の父は、大家族の父でもあった!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1929-1945を生きた世界に名を馳せた文学少女
【本日まぼろしの93歳】いまアンネ・フランクはキティに何を話しかける?
0049ドイツ連邦共和国出身
1796-1866を生きたドイツ出身医師、鳴滝塾を開設し西洋医学(蘭学)教育を行った
【医学の部屋|Siebold シーボルト】日本近代医学に一石を投じたドイツ人
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1827を生きた作曲家は交響曲,協奏曲,室内楽曲,ピアノ曲,声楽曲など,あらゆるジャンルにわたり作品を手がけた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「バッハ」「ブラームス」そして「ベートーベン」)の一人。
【音楽の部屋|ベートーベン】散歩と引越し好きのドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1577-1640を生きたドイツ出身の画家はバロック期を代表する様々なジャンルの絵画作品を残した画家であり、一方で古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家、さらに七ヶ国語をあやつり、外交官としても活躍した。
【画家の部屋|Pieter Pauwel Rubens ルーベンス】Doodle登場の聖ジョージを描く

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0039イタリア共和国出身
1525-1594を生きた作曲家。ルターの唱えた宗教改革以降、伝統か改革かを迫られたローマ・カトリック教会音楽。その高位聖職者の心を掴んむ歌詞を重視したポリフォニーでカトリック宗教音楽界の頂点に達した。晩年には最高傑作と称えられるCanticum Canticorum を1584年に完成させた。モテットをベースに当時の権力者であったローマ教皇への進言でもあったとされる作品とされる。
【音楽の部屋|パレストリーナ】ポリフォニー作曲の巨匠
0034スペイン王国出身
1582-1643を生きた作曲家。独自のポリフォニーをスペインバレンシアに開花させ、ミゼレーレ(Psalm 51)を18声以上で書き上げた。スペイン伝統のフラメンコにおける2つのパートで構成されていたビジャンシーコを3つのパートで構成する画期的な変革をおこなったことでもその名を残している。
【音楽の部屋|コメス】ビジャンシーコに変革をもたらした作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1585-1672を生きた作曲家。留学先のヴェネツィア楽派ジョヴァンニ・ガブリエリに師事、帰国後宮廷音楽の発展に尽力した。ドイツ語で表現したPsalmen Davidsを1619年に発表。ヴェネツィア楽派由来の豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させたことは特筆する偉業であった。またドイツにおける最初のオペラと伝わるシュッツ作のダフネはオペラと呼べる作品であったかについて現在検証されている。
【音楽の部屋|シュッツ】大バッハへ繋ぐドイツ音楽の父
0039イタリア共和国出身
1583-1643を生きた作曲家。サン・ピエトロ大聖堂オルガニストとして生涯活躍し、新たなカンツォーナやトッカータを表現し、初期バロック音楽の草分けとなる。フレスコバルディを師と仰いだフローベルガー(1616-1667)の流れを南ドイツ・オルガン楽派と呼ばれている。
【音楽の部屋|フレスコバルディ】南ドイツ・オルガン楽派の祖
0049ドイツ連邦共和国出身
1571-1621を生きた作曲家。著書Syntagma musicum(音楽大全は3巻(当初は全4巻の予定と伝わっています)を発行した最古の音楽事典とされ,その第2巻は当時の楽器についての記述があり当時の貴重な資料となっている。1612年に発表した300以上の舞曲を編曲した「Terpsichore」はフランスを中心としたダンスミュージックに用いられていたと考えらている。
【音楽の部屋|プレトリウス】学者肌の作曲家
0041スイス連邦出身
1486-1542を生きた作曲家。フランドル楽派第2期に活躍した巨匠ハインリヒ・イザークに学び、中世ドイツの旋律や和声法を取り入れた多声歌曲で多くの作品を残した。フランドル楽派とドイツ音楽の融合した作曲活動は後のルネサンス期音楽に大きな軌跡を残した。
【音楽の部屋|ゼンフル】フランドル楽派とドイツ音楽の融合
0039イタリア共和国出身
1567-1643を生きた作曲家。ルネサンス音楽からのバロック音楽の時代を作り上げる。伝統あるサン・マルコ大聖堂の楽長を1602年よりつとめ、1607年に初演されたオルフェオを作曲し注目を集め、バロック時代のオペラ到来となる。モンテヴェルディの最高傑作であり、バロックオペラを代表するオペラポッペーアの戴冠は今でも人々を魅了する演目となっている。
【音楽の部屋|モンテヴェルディ】オペラを開花させた作曲家
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1562-1621を生きた作曲家。フランドル楽派最後の巨匠と位置付けられており、詩篇やモテットなど数多くの作品を残した。またオランダ国内にとどまらず、北ヨーロッパにその名を響かせ、特に多くのドイツ人オルガン奏者を育て上げた功績により「ドイツのオルガニスト育成の父」と称されている。また単一主題と三部構成から成るファンタジアは、のちのバロック期に人気を博したフーガへ発展したとされる。
【音楽の部屋|スウェーリンク】フランドル楽派最後の巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1562-1612を生きた作曲家。ヴェネツィアでウィラートに師事してたガブリエリにから音楽を学び、その後アウクスブルク、ニュルンベルク、ドレスデンで活動。ヴェネツィア楽派のスタイルに独自の音楽スタイルを築き上げた。ルネサンス後期のドイツ音楽をリードした一人。
【音楽の部屋|ハスラー】母国に捧げるドイツ音楽
0044英国出身
1562-1628を生きた作曲家。エリザベス1世らに仕えオルガニストとして活躍。特に鍵盤楽器のための作品を多く残した。その一方でブルの生涯には謎が多くまとわりつく。その謎は女王陛下のためのスパイ活動を行っていたのではとの憶測も広がっている。そして1613年母国英国を離れその後、アントワープ大聖堂のオルガニストとして活躍した。
【音楽の部屋|ブル】謎めく作曲家
0039イタリア共和国出身
1553-1599を生きた作曲家。イタリア・ルネサンス期における宗教音楽が中心だったローマやベネチアと一線を画した、世俗音楽としてマドリガーレ作曲家として特に活躍する。その作品は美しい旋律や感情豊かな表現で人々を魅了した。
【音楽の部屋|マレンツィオ】伊出身・後期マドリガーレの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1559-1625を生きた作曲家であり音楽理論家。アウグスブルクの聖ウルリッヒと聖アフラの修道院で音楽を学び、キリスト教音楽の指導者カントルをつとめた。その後音楽理論を論文として「Compendium musicae」を 1591 年に執筆。1681年までに13 版ヨーロッパ全土で教科書として発行されて、その影響は偉大であったとされている。
【音楽の部屋|グンペルツハイマー】対立を回避させた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1553-1611を生きた作曲家。教会少年合唱団からラッソ率いるバイエルン宮廷楽団の団員となり師事する。その後ヴェネツィアではメルーロにも師事した。ケーニヒスベルクとベルリンの宮廷楽長として約250の宗教音楽などを中心に作曲しました。彼は初期バロック・プロテスタント教会音楽の発展に活躍した。
【音楽の部屋|エッカルト】プロテスタント教会音楽の巨匠
0039イタリア共和国出身
c.1550-1605を生きた作曲家。宗教音楽やマドリガーレでルネサンス期に活躍し、特にマドリガルコメディの分野でその名を刻み音楽劇の先駆けとなった。その作品「L'Amfiparnaso」は1597年ヴェネツィアで出版された。このマドリガルコメディは見て楽しむものではなく、聴く喜劇であると考えられている。
【音楽の部屋|ヴェッキ】音楽劇の先駆け作曲家
0034スペイン王国出身
1528-1599を生きたスペインの宗教音楽の黄金時代を代表する作曲家。ルネサンス期からバロック期にかけてスペインのアンダルシア地方で活動したアンダルシア楽派(Escuela Andaluza)の一人。宗教音楽だけではく、世俗的な音楽(歌曲や器楽曲)も残す。
【音楽の部屋|ゲレーロ】アンダルシア楽派の一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1581-1634を生きた作曲家でありオルガニスト。ニュルンベルクでもっとも古い教区教会の聖ゼーバルト教会でオルガニストを生涯つとめた。さまざまなスタイルのモテットを作曲し17世紀を代表するニュルンベルク楽派の創設者とも称される。
【音楽の部屋|シュターデン】ニュルンベルク楽派の創設者
0049ドイツ連邦共和国出身
1494-1576を生きた詩、音楽を教示するマイスターシンガーであり、本職は靴職人。マルティン・ルターの宗教改革に賛同し、ドイツ語で書いたDie Wittenbergisch Nachtigallは、当時の宗教的な議論や出来事を風刺的に描写し後押しとなる作品となった。後にリヒャルト・ワーグナーはハンスを主人公として楽劇"ニュルンベルクのマイスタージンガー"を作曲している。
【音楽の部屋|ザックス】マイスターシンガー筆頭
0039イタリア共和国出身
c.1377-1445を生きた作曲家であり詩人。恋人の夜明けの別れの嘆きをテーマとした"ターゲリート"のジャンルで活動を行う。独自のスタイルでその作曲数は100編以上と伝わる。その作風は、愛の成就、時折別れや悲哀の描写を織り交ぜ、その豊かな表現力は詩人としての一面も。15世紀の音楽と文学史にその名を残している。
【音楽の部屋|ヴォルケンシュタイン】後朝の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1483-1546を生きた神学者であり作曲家。教皇の教義・権威によらないキリスト教信仰の自由や聖書に書かれている教えを信奉することを唱え、95ヶ条の論題を教会のドアに掲示して宗教改革を行う。その改革の一つとして、それまでラテン語であった教会音楽を母国語の歌詞に翻訳し、聖書の言葉を理解しやすい言語で歌い、賛美すること目指しプロテスタント音楽の礎を築く。
【音楽の部屋|ルター】母国語で行った宗教改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1488-1548を生きた作曲家であり印刷技術者。トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)のキリスト教音楽指導者として活動した。宗教改革指導者であったマルティン・ルターを支持しルター派楽譜の普及に尽力する。またラウは印刷業も営み、楽譜印刷を通じて幅広くプロテスタント教会音楽の発展に寄与した。
【音楽の部屋|ラウ】作曲家であり印刷業者
0032ベルギー王国出身
1532-1594を生きたその美声から幼少期に誘拐の逸話が残るほどの作曲家。ヨーロッパ各地で活動し、ミラノやナポリで経験を積む。その後ミュンヘン宮廷楽団長となり終身活躍した。ミサ曲やモテトゥス、マドリガーレなど2000曲以上の多彩な作品を残し、宗教曲ではルネサンス様式と劇的な表現の作風。特にミュンヘン宮廷でのアルブレヒト5世公と深い親交と相まって、ヨーロッパ中でそのラッソの音楽は高く評価された。アルブレヒト5世公が門外不出とした「7つの悔悛詩篇曲集」があり現在もなお語り継がれている。
【音楽の部屋|ラッソ】バイエルン公に認められた作曲家
0032ベルギー王国出身
1521-1603を生きた作曲家。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とその後継者ルドルフ2世時の宮廷音楽家としてその名を馳せた。そしてマドリガーレ後期のマドリガル作曲を司り、当時最も多くの作品を残した。その数は1100曲以上とも伝わっている。
【音楽の部屋|モンテ】後期マドリガーレの巨匠
0032ベルギー王国出身
1515-1565を生きた作曲家。音楽家としての才能を発揮するためイタリアへ渡り当時のサン・マルコ大聖堂楽長であったウィラートに師事し研鑽を積み、その後ウィラートを継ぎ同聖堂の楽長となった。特にルネサンス期のマドリガーレの分野でその名を響かせた。 ※出生年を1515年、出生地をベルギーとさせていただきます
【音楽の部屋|ローレ】中後期マドリガーレの巨匠
0039イタリア共和国出身
1517-1590を生きた作曲家であり音楽理論研究者。キオッジャ大聖堂で楽団員となりその後同聖堂のオルガニス、そしてサン・マルコ寺院の当時の楽団長エイドリアン・ウィラートに師事。その後1565 年より同寺院の楽長を終身つとめる。1558年にLe istitutioni harmonicheを著したことで西洋の数学的音楽理論の展開を進め16世紀最大の音楽理論家と称されている。
【音楽の部屋|ツァルリーノ】数学的音楽理論を提唱
0034スペイン王国出身
c.1500-1553を生きたルネサンス期の作曲家。アビラやプラセンシアの大聖堂での楽長として活躍し、その後パウルス3世の治めるローマ教皇庁聖歌隊歌手として活動。時代を反映した宗教曲を数多く残し当時のヨーロッパ音楽に影響を与えた。
【音楽の部屋|モラーレス】スペイン宗教音楽史を刻む作曲家
0039イタリア共和国出身
1533-1604を生きた作曲家兼オルガニスト。1556年にブレシア大聖堂、その後サン・マルコ大聖堂のオルガニストに就任し、30年以上にわたり作曲と演奏で活躍した。また多くの優れた後継者を育て、楽譜の出版も手がける。その偉業はベネチアの音楽文化に大きな影響を与えた。
【音楽の部屋|メールロ】オルガニスト伊の巨匠
0044英国出身
1543-1623を生きた作曲家。カトリック信仰であるバードは、プロテスタントを信仰するエリザベス1世の絶大な信頼を享受し宮廷楽団(チャペル・ロイヤル)としてオルガニストとして、またイギリス国教会のための宗教音楽、マドリガル、コンソート伴奏付き歌曲、室内楽、バージナル音楽、と当時のすべての音楽シーンで活躍した。その偉大さから英国における"音楽の父"と称される。
【音楽の部屋|バード】エリザベス1世に捧げた音楽人生
0033フランス共和国出身
1528-1600を生きたルネサンス期の作曲家。Musique mesurée(フランスの声楽作曲のスタイル)を発展させ、詩の韻律的な律動とリズムを結びつける新しい表現技法を開拓。その結果、クレメン・ジャネランが築き上げたシャンソンをさらに進化させ、新たな音楽的表現を確立。この功績はフランス音楽史に大きな足跡を刻みました。
【音楽の部屋|ル・ジュヌ】シャンソンを発展させた作曲家
0043オーストリア共和国出身
1459-1537を生きた作曲家でありオルガニスト。オーストリア宮廷、神聖ローマ帝国の宮廷で天才オルガニストとして名声を築いた。オルガニストとしてオルガンのための作品を多く手がけ、その才能はヨーロッパ全土に広がっていた。
【音楽の部屋|ホーフハイマー】偉大なオルガニスト
0032ベルギー王国出身
c.1450-1521を生きたフランス・フランドル楽派の作曲家であり、ルネサンス音楽期に活躍。対位法の巧妙な技術を用いて、旋律の美しさ、複雑さ、そして感情豊かな表現を特徴としている。ジョスカンの作曲が世に広まった背景の一つとして印刷技術の発展があり、それまで書写であった楽譜がペトルッチなどの印刷業者によって印刷した楽譜を出版可能となり、1502年にはジョスカンのミサ曲集が出版されている。
【音楽の部屋|ジョスカン】世界初出版された作曲家
0032ベルギー王国出身
c.1490-1562を生きたヴェネツィア楽派の作曲家。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長となり終生この職を務めた.宗教曲を中心に,器楽曲など多くの曲を残す。その代表モテット作品は「O magnum mysterium」でテクスチュアルな豊かさを放っている。
【音楽の部屋|ウィラート】ヴェネツィア楽派の祖
01北海道
1917-1996を生きた歌手。上京後頼る親戚の不渡りにより芸妓の道へ。浅草で清元を延千嘉、小唄を春日とよ、民謡を菊池淡水に学び、1934(昭和9)年3月より日東蓄音器(ニットーレコード、現:日本マーキュリー)専属歌手となり同年6月10日「水兵ぶし」などでラヂオデビュー。1937(昭和12年)年公開映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌として、同名曲と共に発売された「あゝそれなのに」が90万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手に上り詰める。 戦後は女剣劇四天王のひとり、中野弘子とコンビを組み競演。 ※水兵ぶしは、美ち奴、塩原秩峰のデュオ ※女剣劇四天王 不二洋子、大江美智子、浅香光代、中野弘子
【音楽の部屋|美ち奴】私も売れっ子鶯歌手
34広島県
1915-2011を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝大)卒業後、1年間教職につくが、その美声を買われ1936(昭和11)年にコロムビアより「愛の揺籃」でデビュー。その後「古き花園」「純情の丘」「新妻鏡」などのヒット曲を歌う。戦後、美しい低音で歌う「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「別れても」など数多くのヒット曲を出し戦前戦後と活躍。その歌唱力から「歌謡界の女王」と呼ばれた。終戦の年、慰問で広島を訪れ、8月6日帰りの列車(芸備線)がトンネルに入ったところで原爆が落ち、九死に一生を得た。本来は女の未練歌「フランチェスカの鐘」を鎮魂歌として歌った。
【音楽の部屋|二葉あき子】人柄宿る歌声
14神奈川県
1910-1999を生きた歌手。オペラ歌手を目指し、その後歌謡界に転身。列強日本色濃くなった1936(昭和11)年、「忘れちゃいやヨ」が発禁処分になり、日中戦争の翌年となる1938(昭和13)年にも「支那の夜」が検閲当局に指摘される。しかし日本兵士に圧倒的な支持を得て大ヒット。その後「蘇州夜曲」も大ヒットし李香蘭と人気を二分する国民的歌手となる。戦後の1952(昭和27)年、フィリピンのマニラ市郊外モンテンルパに抑留されていた日本人との交流によって生まれた「ああモンテンルパの夜は更けて」がレコード化され、大きな感動を呼ぶ。NHK紅白歌合戦第1回(1951年)紅組初代トリを戦後の大ヒット曲「桑港のチャイナ街」つとめた。
【音楽の部屋|渡辺はま子】激動昭和の歌姫
13東京都
1906-1976を生きた歌手。1933(昭和8)年、主婦の座からコロムビアに入社。「船頭可愛や」「下田夜曲」 「博多夜船」などのヒット曲を連発し小唄勝太郎などに並ぶ人気歌手となる。戦後、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である「五木の子守唄」は全国にその名が響いた。これは音丸が現地で見出したとされ古関裕而が採譜、音丸によってキングレコードよりレコード化された。
【音楽の部屋|音丸】主婦から人気歌手へ
15新潟県
1904-1974を生きた歌手であり葭町花街芸者。芸者姿で戦前の歌謡界に一時代を築く。1932(昭和7)年独特の節回し♪ハア〜で始まる「島の娘」は空前の大ヒット。そして33(昭和8)年夏にその前年に発売された都会的な盆踊り曲「丸の内音頭」に手を加えた「東京音頭」を三島一声とのデュエットで発売。その後、またなく間に全国に広がり。盆踊りといえば東京音頭と日本の盆踊りシーン定着。それまでの妓籍から一線を画し、小唄不二派の家元として小唄勝太郎が誕生した。
【音楽の部屋|小唄勝太郎】音頭ブームの火付け役
13東京都
1906-1981を生きた音楽家。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)1928(昭和3)年首席卒業。柳宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、ドイツ人声楽家のネトケ・レーヴェに師事。この時皇后陛下の前でのベートーベンの荘厳ミサをアルト独唱者として抜擢される。その後歌謡界でも活躍し「銀座の柳」は大ヒットとなる。また「美しい日本語で歌われる香り高い日本の歌を人々の中に波のように広げよう」という運動を起こし、国語学者の金田一春彦らに呼びかけて「波の会」を結成。現在の日本歌曲振興波の会となっている。 明治時代の初めに銀座の名物であったヤナギは、関東大震災で焼失するも佐藤千夜子の唄う「東京行進曲」に続き四家歌う大ヒット曲「銀座の柳」で復活を果たした。
【音楽の部屋|四家文子】昭和の声楽界大御所
01北海道
1911-1984を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)卒業、その後覆面歌手「ミス・コロムビア」として1933(昭和8)年浮草の唄でデビュー。同年松竹蒲田映画「十九の春」の主題歌を大ヒットさせコロムビアの看板歌手となる。その後生涯と共にするデビューまもない霧島昇と松竹映画「愛染かつら」の主題歌旅の夜風をカップリングし黄金期を迎えた。
【音楽の部屋|松原 操】覆面歌手ミス・コロムビア
02青森県
1907-1999を生きた歌手。日本のシャンソン界を先導した。愛称は「ブルースの女王」。当初ピアノ科であったが、その声に魅せられた白銀のソプラノと讃えられて荻野綾子に薦められ、声楽科に転入し1929年東京音楽学校(現、東京音楽大学)首席で卒業。その歌声は10年に一度のソプラノと話題をさらった。1937年服部良一作曲の別れのブルースが空前の大ヒット。その後も雨のブルース、東京ブルースと、ヒット曲を連発しブルースの女王の地位を確立した。永遠のモダンボーイの異名ももつディック・ミネを歌手として見出したことでも知られている。
【音楽の部屋|淡谷のり子】ブルースの女王はシャンソンの母
13東京都
1919-1981を生きた歌手。作曲家大村能章に弟子入りし、声楽を歌手四家文子の指導を仰いだ。戦後難関とされたビクターの新人歌手オーディションに合格し、その後歌手デビュー。1947年「港が見える丘」が大ヒット。またこれを受けて横浜を代表する公園「港の見える丘公園」が1962年5月に開園。園内には歌碑も設置されている。日本都市公園100選に選ばれている。その歌声は濡れたビロウド(魅惑の低音ボイス)と称されている。
【音楽の部屋|平野愛子】港が見える丘♪が由来!?
37香川県
1914-1985を生きた歌手であり俳優。不合格となった宝塚音楽歌劇学校を諦め、現在の日本歌劇学校の前身であった松竹楽劇部生徒養成所に入る。芸名を三笠静子とし1927年初舞台を踏んだ。その後、改称された大阪松竹少女歌劇(OSSK)の第一回公演「カイエ・ダムール」の主題歌として「恋のステップ」をリリース。その歌唱力とダンスで世間を圧巻した。戦後、戦前からシズ子の才能を認めていた服部良一作曲の「東京ブギウギ」が戦後日本において大ヒットとなり、ブギウギブームを巻き起こした。ブギとつく曲は全16曲を数え「ブギの女王」と称された。2023年秋放送の朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で描かれる。 ※1987年同じくNHKで放映された銀河テレビ小説「わが歌ブギウギ」でも同モデルとして描かれている。
【音楽の部屋|笠置シヅ子】美空ひばりを魅了したシンガー
07福島県
1910-1910を生きた歌手はピアニストの夢を諦めずに、上京後音楽学校編入。コロンビアレコードの所属し1933年デビューを果たす。その後戦火にあわせて軍歌を数々ヒットさせた。戦後は戦前からの同郷の友、古関裕而作曲「イヨマンテの夜」が大ヒット、高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」も古関裕而作曲で1948年に発売している。
【音楽の部屋|伊藤久男】エールに栄冠は君に輝く贈る
28兵庫県
1911-1998を生きた松竹京都撮影所の銀幕スターはその美声で「大江戸出世小唄」を大ヒットさせ歌手デビュー。"歌う映画スター”と称された。戦後はシリーズ「伝七捕物帖」で人気復活を果たす。
【音楽の部屋|高田浩吉】歌う銀幕俳優
36徳島県
1908-1991を生きた歌手はブルースの女王淡谷のり子に見出され、1935年「ダイナ」を大ヒットさせ、和製ジャスの草分け的存在となる。戦後も芸能界で活躍しその分野の親分的存在であった。脚本家ジェームス三木の名付け親でもある。
【音楽の部屋|ディック・ミネ】永遠のモダンボーイ
05秋田県
1908-1944を生きた歌手はサラリーマンを経て当時レコード歌謡人気で勢いのあった日本ポリドールに入社。ポスト東海林太郎と期待され1936年デビューを果たし人気歌手となる。1938年"上海だより"の歌いだし「拝啓 御無沙汰しましたが」は戦争の色濃くなる日本において東海林太郎を上回るヒットとなり当時の流行語にもなる。その後召集され35歳で戦死。
【音楽の部屋|上原 敏】エースの歌声は拝啓ご無沙汰
14神奈川県
1903-1942を生きた歌手は家業の医院を継ぐため医師を目指すも東京音楽学校に進学、音楽校教員からビクター専属歌手となり侍ニッポンが大ヒット。その後の♪とんとんとんからりん…と歌いだしの"隣組"はドリフの大爆笑のオープニング曲の原曲であり、CMソング替え歌としても採用され今耳にしても新鮮。声楽家(Bariton)としても活躍。
【音楽の部屋|徳山 璉】♪ド・ド・ドリフは私の曲
05秋田県
1898-1972を生きた遅咲きの歌手は大学卒業後、満州鉄道入社。その後夢であった歌手を目指しクラシック歌手としてデビュー。その後戦果の色濃くなる時と同じくしてヒット歌謡曲を連発し国民人気歌手の座を射止める。戦後は癌を患い闘病しながらも直立不動の姿勢、独特の髪型、特徴的なロイド眼鏡は健在、歌謡界初の紫綬褒章受賞をはたした。
【音楽の部屋|東海林太郎】その歌う姿は直立不動
0039イタリア共和国出身
1813-1901を生きたイタリアオペラ作曲家。自身3作目となる演目ナブッコの斬新的な旋律でまずはミラノ市民を魅了、その後イタリア統一運動の機運と相まってイタリア全土に支持され象徴的存在になる。このナブッコの第3幕2場で歌われる「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は第二のイタリア国歌と位置付けられ、その作者であるヴェルディはオペラ王と今も称えられている。
【音楽の部屋|ジュゼッペ・ヴェルディ】イタリア全国民の心に響く"Va, pensiero, sull'ali dorate"
0039イタリア共和国出身
1858-1924を生きたイタリアオペラ作曲家はテーマを人間をリアリズムを表現する作風。一度耳にすると口ずさむことのできる旋律で聴衆を魅了。未完でありながら代表作として名を馳せるトゥーランドッドの初回公演を指揮した生涯の右腕トスカニーニの指揮棒を落とす名場面はいまでもプッチーニの偉大さを象徴。
【音楽の部屋|ジャコモ・プッチーニ】一度耳にするとリフレインするイタリアオペラ作曲家
0039イタリア共和国出身
1792-1868を生きた初期ロマン派時代のオペラ界をリードした売れっ子作曲家。作曲の特徴は同じフレーズを徐々に音量を増やしながら繰り返し聴衆を魅了する。また彼の名を世界に今もなお響かせているのは美食家としての一面。特にフォアグラやトリュフを組み合わせた料理はロッシーニ風として今も食卓を彩っている。
【音楽の部屋|ジョアキーノ・ロッシーニ】作曲家と美食家どっちが有名?
0039イタリア共和国出身
1466-1532を生きた音楽家はリローネ(弦14本のヨーロッパ古楽器)の発明者。レオナルドダビンチを師と仰ぎ、リュート(有棹撥弦楽器)のスペシャリストとして活躍。またその歌声はルネッサンス期最高の歌唱力と称された。 20世紀に入りレオナルドの描いた肖像画(Portrait of a Musician)はミリオロッティとされています。
【音楽の部屋|アタランテ・ミリオロッティ】私の師はレオナルド
0039イタリア共和国出身
1750-1825を生きたイタリア出身のウィーン宮廷楽長は師であり親代わりの当時の宮廷楽長ガスマンに学び、その後ベートーヴェン、シューベルトといった世界的な音楽家を育てる音楽教育家としても名を残した。
【音楽の部屋|アントニオ・サリエリ】知られざる天才イタリア作曲家
0043オーストリア共和国出身
1736-1809を生きた古典派音楽の作曲家であり音楽教育者は親交のあった交響曲の父フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの依頼によりベートーヴェンの師となる。音楽を理論的思考で捉えていることから、ハイドンは作曲のベストティーチャーと称える。
【音楽の部屋|アルブレヒツベルガー】ベートーベンの師はベストティーチャー
0043オーストリア共和国出身
1756-1791を生きた古典派音楽の天才作曲家は35歳で早世。父レオポルドの英才教育を受け、その才能をさらに開花。そして古典派音楽(交響曲)の父と称されたフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとの出会いによって古典派音楽は絶頂期を迎える。
【音楽の部屋|モーツァルト】まさに天才作曲家
0043オーストリア共和国出身
1732-1809を生きた圧倒的な演奏時間と作曲数で交響曲の父と称される作曲家は、音楽が階級の高い人たちだけのものだった時代(バロック)から、市民にも手に届く時代(古典派)に活躍。そして楽曲形式のひとつ「ソナタ形式」を確立。
【音楽の部屋|ハイドン】市民による市民のための音楽をつくりました
0043オーストリア共和国出身
1908-1989を生きた20世紀世界を魅了した指揮者。解釈された音楽に対して演奏者一人一人の能力を最大限に引き出し、そしてその能力を調和させる卓越したリーダー的要素に加えて、その彼の存在自体がゲストのみならず開場一体を虜にする絶対的なカリスマ性で今もその人気は衰えず。
【音楽の部屋|カラヤン】孤高の指揮者・20世紀クラシック界の帝王
0001アメリカ合衆国出身
1901-1971を生きた「キング・オブ・ジャス」と称されたジャズトランペット演奏者。ニューオリンズ発祥のアフリカ系アメリカ人音楽だったジャズを世界に広げ存在感を高めた。その功績は人種の垣根を乗り越えるダイバーシティ先駆者でもあった。
【音楽の部屋|ルイ・アームストロング】King of Jazz Satchmo!!
0001アメリカ合衆国出身
1898-1937を生きた20世紀のアメリカ音楽史最も名を馳せた作曲家。初のクラシック作曲作品「ラプソディ・イン・ブルー」はアメリカで進化したジャズとヨーロッパ伝統のクラシックを化学反応させたアメリカンミュージックを確立。1935年に発表したオペラ「ポギーとベス」はいまも人気作品のひとつ。
【音楽の部屋|ジョージ・ガーシュウィン】アメリカンミュージックの生みの親
0001アメリカ合衆国出身
1927- を生きる屈指のソプラノ・リリコ・スピント歌手。メトロポリタン・オペラで初のアフリカ系アメリカ人として主演を演じた実力者はアメリカ文化に貢献した人に送られるケネディ・センター賞を1980年に受賞。
【音楽の部屋|レオンティン・プライス】メトロポリンタン・オペラに響かせた伝説の歌姫
0001アメリカ合衆国出身
1897-1993を生きたアフリカ系アメリカ人アルト(コントラルト)歌手。出身のアメリカ合衆国において人種問題をその歌声を武器に闘い革命を巻き起こす。そして敗戦後連合国統治から復帰した1953年に来日を果たし被爆地広島を含む全国ツアーを実施し、その歌声で日米の新たな歴史を繋いだ。
【音楽の部屋|マリアン・アンダーソン】歌声でダイバーシティを巻き起こす
0001アメリカ合衆国出身
1923-1977を生きた20世紀を世界を代表するソプラノ歌手。その人生は公私共に波瀾万丈。トップの座を射止めた歌声は完璧を追い求め、そして愛に翻弄される。2023年は生誕100年、そして2017年に公開された「私は、マリア・カラス」はマリアの未完の自叙伝を映画化。誰も知らないマリア・カラスに会えます。
【音楽の部屋|マリア・カラス】Maria by Callas
13東京都
1911-1997を生きた長唄唄方は豊かな歌唱力と深みある芸風で古典芸能の世界を継承。作曲活動も積極的に努められ、1987年重要無形文化財個人所有者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|杵屋佐登代】昭和の長唄唄方最高峰のひとりは人間国宝
13東京都
1909-1998を生きた日本舞踊流派のひとつ吾妻流を昭和に入り再興した家元。幼きころは7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事し踊りの基礎を学び、14歳で名取りは天才少女と囃し立てられた。
【音楽の部屋|吾妻徳穂】日本舞踊界の天才少女は吾妻流宗家・初代
26京都府
1905-2004を生きた井上流、井上八千代(四世家元 四代目) は寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始し、約二世紀の歴史を持つ祇園甲部の正式唯一の流派。京都の年中行事「都をどり」を1872年より開催。
【音楽の部屋|井上八千代(四世家元 四代目)】4月の風物詩「京都をどり」を支えた井上流家元
13東京都
1924-2018を生きた日本舞踊花柳流の舞踊家は、古典伝承と創作活動(「湯女群像」や「吾輩は猫である」を発表)の両面で活躍。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|花柳寿南海】人間国宝の代表作は「吾輩は猫である」
13東京都
1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
35山口県
1905-1996を生きた学校教師は夢だった歌手に転身、戦前マロニエの木陰が大ヒット、その後第1回NHK紅白歌合戦出場から合計10回の実力派。山口県柳井市には松島詩子記念館。
【音楽の部屋|松島詩子】教師から転職「マロニエの木陰」大ヒット
0049ドイツ連邦共和国出身
1813-1883を生きた歌劇王の異名を持ち19世紀ヨーロッパ全土を魅了した作曲家。その一度聞いたら虜になる作曲はまさに天才。その天才的な音楽家は自身の生活よりも犬を愛した動物好きの一面も。
【音楽の部屋|リヒャルト・ワーグナー】天才歌劇作曲家を癒したのは犬だった!?
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1856を生きた指の影響でピアニストから偉大な作曲家に転身。当時人気のピアニストクララとの二人三脚で音楽界を渡り歩くも、精神疾患を患いその才能を46歳で閉じた。
【音楽の部屋|ロベルト・シューマン】すべてのピアノを愛した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1819-1896を生きた作曲家でありピアニストはドイツ紙幣100マルクの肖像でもあった。
【音楽の部屋|クララ・シューマン】19世紀の天才音楽少女
0049ドイツ連邦共和国出身
1833-1897を生きた高い完成度を求めた作曲家はロベルト・シューマン、クララに出会うことでその後の人生を広げた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「バッハ」そして「ブラームス」)の一人。
【音楽の部屋|ブラームス】本物の完璧主義者!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1750を生きた音楽一家に生まれた偉大な作曲家は苦境の中に光を見出した努力家であった。そして20人の子供をもうけ大家族は音楽一家を形成。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「ブラームス」そして「バッハ」)の一人。
【音楽の部屋|J.S.バッハ】音楽の父は、大家族の父でもあった!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1827を生きた作曲家は交響曲,協奏曲,室内楽曲,ピアノ曲,声楽曲など,あらゆるジャンルにわたり作品を手がけた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「バッハ」「ブラームス」そして「ベートーベン」)の一人。
【音楽の部屋|ベートーベン】散歩と引越し好きのドイツ3Bの一人
28兵庫県
1915-2012を生きた兵庫県出身 1915-2012 元宝塚歌劇団専科の男役で劇団名誉理事を歴任。1933年に新設された星組に配属、戦後雪組組長となり1946年歌劇公演を再開。本名は石井吉子、愛称は春日野先生、ヨッちゃん先生。
【音楽の部屋|春日野八千代】ヨッちゃん先生見守る入学式@宝塚音楽学校

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27大阪府
1894-1958を生きた経営者であり実業家。堺の鉄工所職人だった島野庄三郎は、28歳で独立し、1921(大正10)年に島野鐵工所を創業。フリーホイールの生産に着手し、1939(昭和14)年には日本最大のフリーホイールメーカーとなる。1951(昭和26)年島野工業株式会社にとなり、その後、品質向上と技術革新に挑み続け、外装式変速機の生産を開始し、シマノの基礎を築き上げた。
【経営者の部屋|島野庄三郎】昭和時代編.11New!!
10群馬県
1893-1983を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、米問屋に勤め、1924(大正13)年に独立して山崎種二商店(現、タヤマネ)を設立。1940(昭和15)年には、辰巳倉庫を買収し、ヤマタネの基礎を築いた。1933(昭和8)年には証券業に進出し、1944(昭和19)年に山崎証券(現SMBC日興証券)を創業。日本画の収集家としても知られた、1966(昭和41)年、山種美術館を開設している。
【経営者の部屋|山崎種二】昭和時代編.10

2024年パリ オリンピック、パラリンピック開催を記念して「いらすとすてーしょん」ではオリンピックに関連する偉人たちのイラストポートレートをお届けしました↓

いらすとすてーしょん新キャラクター

館長

2022年より"いらすとすてーしょん"にお立ち寄りいただきありがとうございます

館長

さて本年いらすとすてーしょんの新キャラクターが誕生しました

館長

シューちゃんです

シューちゃんはいらすとすてーしょんのキャラクターです
シューちゃん

シュー(Syu)です
よろしくね

館長

3年目を迎えた2024年も皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

いらすとすてーしょんからのお知らせ

創業76年を迎える総合広告代理業を営む栄光社のイチオシと「いらすとすてーしょん」のコラボレーションが2022年7月1日ついにオープン!イチオシ美術とそのイラストポートレートで贈る作者をぜひご堪能ください
創業78年を迎える栄光社Web page新企画「イチオシ」と


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