大槻玄沢 Gentaku Otsuki

ようこそ!フリーイラストポートレートと


歴史の停車場いらすとすてーしょん」へ
こちらのページでは【医学の部屋|大槻玄沢】


解体新書を完成させました
をお楽しみください

大槻玄沢イラストポートレート(Syusuke Galleryより

私、大槻玄沢の師は


杉田玄白・前野良沢先生です

げんぱく

我が私塾「天真楼」でよく学んだのぅ

1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】日本初の解剖学書を著しました
げんたく

これは我が師の杉田玄白せんせ

りょうたく

お前さんはとても優秀だった!

1723-1803を生きた中津藩医であり蘭学者、杉田玄白と共に解体新書を発刊
【医学の部屋|前野良沢】蘭学の化け物
げんたく

これはこれは我が師の前野良沢せんせ

げんたく

お二人から学べたお陰で大きな仕事ができました

げんたく

お二人のことは本当に尊敬していて…

げんたく

私の名前もお二人から一文字ずつ


いただいて「玄沢」としました

りょうたく

そう言ってくれると嬉しいよ

げんぱく

行かんせん
私たちの著した解体新書は…

りょうたく

不完全なところが多くて…

げんぱく

そなたが改定してくれた重訂解体新書


でようやく日本の解剖学書が完成した

げんたく

いえいえ、それもお二人のご努力が


あってこそです

げんぱく

やはり、解体新書を託してよかった

りょうたく

ちなみにこの解体新書を巡っては


いろいろあるからな…

げんたく

まっ、それはまた時間がある時にでもお聞かせください

げんぱく

ヴェサリウス著(1568年)


「人間の身体の構造」

げんたく

それはそうと、世界ではすでに


1568年

げんたく

ヴェサリウスが解剖学・生理学書を


著していたんだですよ

げんぱく

まだ江戸もはじまっていない時にか…

ゔぇさりうす

これは日本の先生方
お初にお目にかかります

1514-1564を生きた医学者。2世紀ガレノスによって興った解剖を、De Humani Corporis Fabrica Libri Septem(1543年)によって解剖を学問レベルに引き上げた。その詳細な解剖図はガレノスの学説からの転換期となる。その後カール5世の侍医などの要職をつとめた。その解剖学の先鋭眼は当時の医学界に大きな衝撃を与え、風当たりも強かったとされる。 それらの背景には16世紀に発展した印刷技術によりガレノスの著作物に触れる機会が多くなったことが挙げられる。またこの当時の解剖学の先駆者としてはレオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられ、その解剖図は数百とも言われ臓器図も描かれている。
【医学の部屋|ヴェサリウス】16世紀以前に活躍した世界の医学者④
げんぱく

威厳ありそうですな…

医学(世界)の部屋・新着偉人


(It's New)はこちらから

0032ベルギー王国出身
1579-1644を生きた医学者であり化学者。パレケルススの化学に基づいた理論で人体の機能を解き明かす医療化学の分野を進めた。四元素や体液説など古代医学を論駁し、また空気とは異なる気体の存在を見出し、この気体をガスと命名し、その概念を明らかにした。
【医学の部屋|ヘルモント】17世紀に活躍した世界の医学者⑨
0049ドイツ連邦共和国出身
1659-1734を生きた医学者であり化学者。 1708年生理学と病理学からなる医学理論書Theoria medica veraを著し、生物にはアニマという非物質が存在し、生命活動を営むとしたアニミズムを提唱した。そしてその理論は、ドイツ哲学者ライブニッツ(1646-1716)が提唱した生気論を牽引した。また化学の分野では、特にZymotechnia Fundamentalis(科学の基礎・1697年)にて、燃焼について酸化の考えにつながるフロギストンという物質をアリストテレスにより広く支持された四元素説に加え唱えた。
【医学の部屋|シュタール】18世紀に活躍した世界の医学者Ⅺ
0098イラン・イスラム共和国出身
865-925を生きた医学者。9~10世紀のイスラム王朝(アッバース朝)に医学、哲学など幅広い分野でその名を刻んだ。天然痘と麻疹の臨床所見の違いを示すなど、特に医学分野でその名を馳せている。
【医学の部屋|ラーズィー】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑥
0033フランス共和国出身
1298-1368を生きた医学者。ヴェサリウス以前の中世ヨーロッパにおいて、ガレノスによる解剖学を学び、外科医としてその名を刻んだ。1363年には外科指南書となったChirurgia magnaを著し、8章からなるラテン語で描かれたこの書は外科医のバイブルとなった。黒死病(ペスト)に立ち向かった医師としても記憶されている。
【医学の部屋|ショーリアック】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑤
0032ベルギー王国出身
1514-1564を生きた医学者。2世紀ガレノスによって興った解剖を、De Humani Corporis Fabrica Libri Septem(1543年)によって解剖を学問レベルに引き上げた。その詳細な解剖図はガレノスの学説からの転換期となる。その後カール5世の侍医などの要職をつとめた。その解剖学の先鋭眼は当時の医学界に大きな衝撃を与え、風当たりも強かったとされる。 それらの背景には16世紀に発展した印刷技術によりガレノスの著作物に触れる機会が多くなったことが挙げられる。またこの当時の解剖学の先駆者としてはレオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられ、その解剖図は数百とも言われ臓器図も描かれている。
【医学の部屋|ヴェサリウス】16世紀以前に活躍した世界の医学者④
0033フランス共和国出身
1510-1590を生きた医学者。これまで主流が内科であった医学に、外科を内科レベルまで引き上げた一人であり、外科学の父と称されている。軍医の経験からそれまで銃創は焼き鏝などで治療を行なうことを止め、独自に調合した軟膏などを用いて治療を行った。また四肢の切断等、血管にも用いられていた烙鉄を動脈結紮による止血法を考案した。これらはヴェサリウスによる解剖学の理解から得られたとされている。著書にA collection of Paré's works(初版1575年)があり、楢林鎮山により紅夷外科宗伝として1706年に翻訳されている。
【医学の部屋|パレ】16世紀以前に活躍した世界の医学者③
0033フランス共和国出身
1497-1558を生きた医学者。世界初の医学理論書と位置付けられている医学(1554年)を著した。この書は、生理学、病理学、治療法の3部構成からなり、特に生理学の始まりを告げたと考えられている。この書の普及には、この当時の印刷技術の発展が大きく寄与している。
【医学の部屋|フェルネル】16世紀以前に活躍した世界の医学者②
0041スイス連邦出身
1493-1541を生きた医学者。ヨーロッパ中を放浪しながら、従来より伝わっていたガレノスなどの当時の医学を論駁し、独自の思想や天文学、錬金術などからなる考え方を示した。その中でも梅毒に対し、物質変換を主旨とした錬金術から見出した水銀を用いた治療を採用するなど、金属化合物の臨床応用を唱えた。このことから毒性学(Toxicology)の分野を切り拓いた一人とされており、医療革命としてのルネサンスの扉を開いた。
【医学の部屋|パラケルスス】16世紀以前に活躍した世界の医学者①
0033フランス共和国出身
1787-1872を生きた医学者。長年経験的に行われてきた治療の一つ瀉血に対して、約2000症例の観察記録、そして約400症例の病理解剖所見から統計学的手法を用いて、この瀉血に治療効果がないことを見出し、この瀉血を当時支持したBroussais(1772-1838)と大論争に発展した。このルイの手法は現在のEBMにつながる医学者の一人と考えられている。
【医学の部屋|ルイ】19世紀に活躍した世界の医学者⑤
0033フランス共和国出身
1781-1826を生きた医学者。J.N. Corvisart(1755-1821)の門下となり、この師の唱えた胸部音など医学を学んだ。その後臨床下で直接よりも間接聴診が適する症例に出会い聴診器を発明、その後De l'auscultation médiate Colophon(1819年)に著し、現在の医療現場でも欠かせない器具となっている。また肝硬変やメラノーマなどを発見し、病理解剖学者としてもその名を刻んでいる。
【医学の部屋|ラエンネック】19世紀に活躍した世界の医学者④
0033フランス共和国出身
1755-1821を生きた医学者。心臓学の分野を切り拓いた一人とされ、L. Auenbrugger(1722-1809)の提唱した胸部打診を広く普及させ、心肺機能の病気診断方法とした。その後門下であったR. Laennec(1781−1826)による聴診器の発明につながっている。教育者であり、臨床医は、皇帝ナポレオンの主治医もつとめている。
【医学の部屋|コルヴィザール】19世紀に活躍した世界の医学者③
0044英国出身
1749-1823を生きた医学者。ジョン・ハンター(1728-1793)に医学を学び、牛痘に一度罹った人は天然痘に感染しないことを実証(牛痘接種法)し、それまでの人痘接種法を上回る免疫を獲得することに成功。1798年Inquiry into the Variolae vaccinae known as the Cow Poxを著し、その後のワクチン誕生への礎となった。
【医学の部屋|ジェンナー】19世紀に活躍した世界の医学者②
0033フランス共和国出身
1745-1826を生きた医学者。19世紀新たな分野として脳医学を発展させる。それまでは精神病とされた人を鎖で繋ぐなど拘禁の時代に、同僚であったPussin(1745-1811)がその拘禁から解放し待遇改善を行なったのをヒントに医学者として、その行為の妥当性を提唱した。その環境下で精神病の特徴を昼夜観察し、精神医学分野を切り開くTraité médico-philosophique sur l'aliénation mentale(1801年)を著し、精神医学の祖と称されている。
【医学の部屋|ピネル】19世紀に活躍した世界の医学者①
0033フランス共和国出身
1771-1802を生きた医学者。解剖学では構造の単位としての組織を発見、物理・化学的性状や反応の特異性に基づいて21種の組織を分類した。またその疾患の中心は器官から組織にあると着目し、生理学、病理解剖学の分野で活躍した。代用的な書としてAnatomie descriptive(一般解剖学 1801年)などを著している。
【医学の部屋|ビシャ】18世紀に活躍した世界の医学者⑩
0049ドイツ連邦共和国出身
1752-1840を生きた医学者。1789年に著したAnfangsgründe der Physiologie(生理学の基礎)は18世紀の生理学書としてこの分野をまとめ上げる。また前成説の否定派であり、生気論の支持者でもあった。人種という概念を打ち立てたことでもその名を馳せ、人類をコーカサス,モンゴル,エチオピア,アメリカ,マレーの5人種に分類した。
【医学の部屋|ブルーメンバッハ】18世紀に活躍した世界の医学者⑨
0039イタリア共和国出身
1737-1798を生きた医学者。カエルの足に2種類の金属を当てるとけいれんをおこすことを発見し1791年Aloysii Galvani De viribus electricitatis in motu musculari commentarius として発表し、動物電気の存在を提唱。それは生体電気研究の礎を築いた。また、仮説を証明するため数多くの実験を行ったことから生理学実験の礎となる またこの主張に対してA Volta(1745−1827)は否定の立場をとりその後の電池の発明につながっている。
【医学の部屋|ガルヴァーニ】18世紀に活躍した世界の医学者⑧
0039イタリア共和国出身
1682-1771を生きた医学者。フェルネルの病理学、ヴェサリウスの解剖学をあわせた病理解剖学の分野を切り拓く。症状による解剖所見などの700症例にもおよぶ観察記録をDe Sedibus et Causis Morborum per Anatomen Indagatisとして1761年より刊行。これにより正常組織と病的組織の比較という視座が生まれた。
【医学の部屋|モルガーニ】18世紀に活躍した世界の医学者⑦
0049ドイツ連邦共和国出身
1734-1815を生きた医学者。動物磁気という超感覚的なものが人間に備わっており、その磁気を操作することによって神経系の病気は治癒できるとしたメスリズムの提唱者。この治療を受けるために数ヶ月先の予約まで埋まっていたとされる。その後フランス政府(王室)は調査団を派遣、その結果メスリズムによる治療の無効性を下した。このメスリズムはその後、暗示療法、そして催眠術という経過を辿る。
【医学の部屋|メスメル】18世紀に活躍した世界の医学者⑥
0044英国出身
1728-1793を生きた医学者。兄ウィリアムの解剖学の助手となり、その後その外科技術は兄を超えるほどの腕前となり、その後陸軍医、王室医などの要職を務めた。戦場での経験から1794年没後に発表されたA Treatise on the Blood, Inflammation and Gun-shot Woundsを著したことから、炎症と化膿についての先駆者とみなされている。また門下にワクチンの先駆者エドワード・ジェンナー(1749−1823)がいる。
【医学の部屋|ジョン・ハンター】18世紀に活躍した世界の医学者⑤
0041スイス連邦出身
1708-1777を生きた医学者。ライデン大学でブールハーフェに師事し、その後1736年ゲッチンゲン大学の解剖学などの初代教授となる。1747年に生理学に関する概論Primae lineae physiologiae、そして1757~66年にかけて著したElementa physiologiae corporis humani. 8 Bändeで生理学を大家となる。その中でも筋繊維の収縮は物理学的でなく筋肉内に存在する物質による作用であることを見出した。また18世紀におきた論争、前・後成説で、ハラーは前成説の立場をとったことでも知られている。
【医学の部屋|ハラー】18世紀に活躍した世界の医学者④
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1730-1799を生きた医学者。天然痘の予防方法を学ぶために渡英、そこで天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種する人痘法を学ぶ。マリア・テレジアの要請により英国王室より派遣され人痘法を行い成功させる。このことからオーストリア宮廷の侍医となる。また植物と光の関係を明らかにした研究(Experiments upon vegetables 1779年)は、その後の光合成の発見につながっている。
【医学の部屋|インヘンハウス】18世紀に活躍した世界の医学者③
0033フランス共和国出身
1709-1751を生きた医学者。オランダ・ライデン大学でブールハーフェに師事。師の提唱した古来の学説をもとにした生理学とデカルト発の機械論的な視座を併せ持つ機械論的生理学をフランスに持ち帰り、さらに発展させた人間機械論(1747年)を展開した。その主張はフランスでは受け入れられず、のちにベルリンに亡命しフリードリヒ大王の庇護を受けた。
【医学の部屋|ラ・メトリ】18世紀に活躍した世界の医学者②
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1668-1738を生きた医学者であり教育者。牧師の子として生まれライデン大学で神学、哲学を、その後独学で医学を学び、Harderwijk大学で学位を取得。博物学なども研究し、母校のライデン大学で医学講義を開始。その授業はヨーロッパ最高峰のベストティーチングと評判となり各地から聴講生が押し寄せる。同大学でヨハネス・ヘルニウス(1543-1601)より行われていた臨床実習を確立したことから、大学病院設立と臨床教育の先駆者となった。Institutiones medicae(医学教程 1708年)は主に生理学分野に特化した医学理論書、Aphorismi de Cognoscendis et Curandis Morbis(箴言 1709年)は医学実地書として著している。植物学にも明るく、門下のリンネ(1707-1778)は分類学の父と称されている。
【医学の部屋|ブールハーフェ】18世紀に活躍した世界の医学者①
0039イタリア共和国出身
1537-1619を生きた医学者。パドヴァ大学で医学を学びその後解剖学の分野で活躍。特に先行研究であったエチエンヌ(1504-1564)の発見した静脈弁について、その機能や形状について正確に報告を行った。この研究は、弟子であったハーベーに受け継がれ血液循環説が提唱された。また発生学の分野では動物の胎児形成の研究を行い、この内容もハーベーが引き継いでいる。
【医学の部屋|ファブリツィオ】17世紀に活躍した世界の医学者⑧
0044英国出身
1578-1657を生きた医学者。パドヴァ大学留学の時、ファブリツィオ(1537-1619)に師事し研究を受け継ぐ。その結果1628年血液循環説を提唱し心臓から拍出された血液は全身をめぐり心臓に帰ってくることを突き止めた。これによりガレノスの生理学説は消失する。またファブリツィオ研究の発展として1651年Exercitationes de generatione animaliumにて鶏の胚発生過程を明らかにした。
【医学の部屋|ハーベー】17世紀に活躍した世界の医学者⑦
0049ドイツ連邦共和国出身
1614-1672を生きた医学者。ライデン大学でヘルニウス(親子)が始めたベッドサイドトレーニング(BST)を受け継ぎ、医学教育に力を入れ、同時に脳解剖の分野で功績を残し、医学における基礎と臨床の両立を推進した。1628年にハーベーによって提唱された血液循環論を支持したことでもその名を刻んでいる。
【医学の部屋|シルヴィウス】17世紀に活躍した世界の医学者⑥
0039イタリア共和国出身
1628-1694を生きた医学者。17世紀に入り応用された顕微鏡を用いて、解剖学の分野でとりわけ細胞レベルの解明にその名を刻み、組織学の分野を切り拓いた。その中で肺における毛細血管(1661)、腎糸球体(1666)の発見を遂げている。また発生学の分野では胚の形態形成の過程を示している。1691年にはローマ教皇医師として招かれ、医学講義も行った。
【医学の部屋|マルピーギ】17世紀に活躍した世界の医学者⑤
0044英国出身
1621-1675を生きた医学者。脳解剖の先駆者でありCerebri anatome(脳の解剖学 1664年)を著し、その観察から大脳皮質が思考に影響を与えていると考えていた。また5つの動脈輪で構成されている大脳動脈輪を現したことでもその名を刻み、現在もウィリス動脈輪と呼ばれている。また糖尿病を患うと尿が甘いことを突き止めており、当時の糖尿病はウィリス病と呼ばれていた。
【医学の部屋|ウィリス】17世紀に活躍した世界の医学者④
0044英国出身
1624-1689を生きた医学者であり臨床医。理論よりも臨床を第一に掲げ、マラリアの病態を明確化や猩紅病、リウマチや痛風など観察研究を重視した。このことから疫学研究の祖とも考えられている。その姿はブールハーフェに大きな影響を与えた。イギリスのヒポクラテスとも称されている。
【医学の部屋|シデナム】17世紀に活躍した世界の医学者③
0099386スロベニア共和国出身
1561-1636を生きた医学者。世界最古の大学と目されるパドヴァ大学で哲学を、その後アルクア大学で医学を学び21歳という若さで学位を取得した。その後出身大学のパドヴァ大学医学教授となり、体重、体温、心拍数などのホメオスタシス研究を行った。特に1614年に著したDe Statica medicinaに不感発汗を報告したことでその名を刻んでいる。
【医学の部屋|サントーリオ】17世紀に活躍した世界の医学者②
0045デンマーク王国出身
1638-1686を生きた医学者、解剖学者、博物学者でありカトリック司教。コペンハーゲン大学で医学教育を受けた後、ライデン大学で学位を取得。解剖学分野に長け、耳下腺から口腔に唾液を運ぶ管を発見し、この耳下腺管はステノン管と呼ばれている。その後イタリアフィレンツェにて博物学(地質学)研究でその才能を発揮した。その後、ルターの宗教改革を受けカトリックに改宗、神学を学びドイツのカトリック信仰に努めた。
【医学の部屋|ステノ】17世紀に活躍した世界の医学者①
25滋賀県
1608-1648を生きた儒学者。儒道と士道は同じ道と独学で学びを深めた。朱子学を当時の社会に適応させるべく、王陽明全書を読破し、その思想を開化し陽明医学の実践法の一つとする「致良知説」に傾倒した。そして自ら私塾を開き、その学問を極め日本陽明学の祖とされる。多くの医書も残し、その医術を学ぶために藤樹のもとに留学を希望するものは絶えなかったとされる。
【医学の部屋|中江藤樹】江戸の儒学と医学①
0043オーストリア共和国出身
1857-1940を生きた医師であり神経学者。精神病患者に対する療法としてマラリア原虫を感染させることで高熱を引き起こし、神経症状を改善する効果を狙いマラリア療法を開発。精神医学の分野における治療法の革新という大きな影響を与え、その功績が認められ1927年にノーベル生理学・医学賞を受賞。
【医学の部屋|ヤウレック】マラリア療法でノーベル賞!?
0041スイス連邦出身
1875-1961を生きた医師であり心理学者。精神医学を学び、人間の心の深層に存在する無意識の重要性に焦点を当て研究を行う。分析心理学の創設者の一人。
【医学の部屋|ユング】無意識の重要性
0001アメリカ合衆国出身
1903-1998を生きた医師。専門は小児科であり執筆した育児書「The Common Sense Book of Baby and Child Care」にてより親子の絆や子供の個別性を重視、5000万部の売り上げを誇るベストセラー。平和運動家としても活動。
【医学の部屋|スポック】20世紀代表の小児科医
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1730-1799を生きた医師であり博学者。1796年エドワード・ジェンナーの牛痘を用いた種痘法の約30年前、イングランドで数百人規模の天然痘の膿疱からから採取した物質を傷口に付ける臨床試験を行い成功を収める。その後植物分野の偉大な発見「光合成」を提唱し、革新的な科学の発展に影響を与えた。
【医学の部屋|インゲンホウス】ワクチン研究の第一人者は光合成を発見
0049ドイツ連邦共和国出身
1864-1915を生きた医師。脳組織の検査により、異常なタンパク質の蓄積と神経細胞の変性が明らかになる神経変性疾患を初めて報告し、アルツハイマー病を発見した。
【医学の部屋|アルツハイマー】神経変性疾患の第一人者
0033フランス共和国出身
1771-1802を生きた医師であり解剖学者。現代医学においては組織学の父と称されている。さまざまな組織の構造と機能を詳細に研究し、それぞれの組織が独自の役割を果たしていることを示し組織学の概念を提唱。
【医学の部屋|ビシャ】組織学の父
0044英国出身
1578-1657を生きた医師。著書De Motu Cordisで心臓はポンプとして機能し、血液は循環系を通じて体内を循環すると血液循環の理論を提唱。心臓は拡張期と収縮期を繰り返すことで血液を体内に押し出し、動脈から静脈経由で心臓に戻り、その血管は一方通行であり弁がその役割を果たしていることを解いた。
【医学の部屋|ハーベー】血液循環の証明者
0041スイス連邦出身
1493-1541を生きた医師であり錬金術の分野で活躍。伝統的な錬金術の要素を取り入れ、物質の三元素(三大原質)である硫黄、水銀、塩のバランスを調整することによって、病気や不均衡な状態を修復することができると主張し、また病気の原因を突き止め、似た物質で治療する類似療法を新しい医療方法を提案した。
【医学の部屋|パラケルスス】錬金術を医学に応用
0001アメリカ合衆国出身
1913-1994を生きた医学者は、脳における右脳と左脳の役割を解明し、1891年ノーベル生理学・医学賞を受賞
【医学の部屋|Roger Wolcott Sperry ロジャー・ウォルコット・スペリー】1981年ノーベル生理学・医学賞~右脳と左脳~
0001アメリカ合衆国出身
1879-1970を生きた医学者は、それまで癌は遺伝子やホルモンの変化で引き起こされるものとされた定説に加え、ウイルスがそれらを惹起すること突き止め、1981年ノーベル生理学・医学賞を受賞。
【医学の部屋|Francis Peyton Rous フランシス・ペイトン・ラウス】1966年ノーベル生理学・医学賞~癌とウイルス~
0061オーストラリア連邦出身
1898-1968を生きた医学者はフレミングによるペニシリンの発見から、活性物質の抽出によって治療薬となり大量生産技術開発により多くの感染症患者を救い、1945年ノーベル生理学・医学賞を受賞。
【医学の部屋|Howard Florey ハワード・フローリー】1945年ノーベル生理学・医学賞~ペニシリン臨床応用~
0044英国出身
1876-1935を生きた医学者は、カナダ・トロント大学教授として若手研究者であったバンティングとベストによるインスリン発見の指導教官として1923年ノーベル生理学・医学賞を受賞。
【医学の部屋|John James Richard Macleod ジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウド】1923年ノーベル生理学・医学賞~インスリン~
0034スペイン王国出身
1852-1934を生きた医学者はニューロンという独立した神経細胞が互いに接触することで神経が成り立っているという説を提唱し1906年ノーベル生理学・医学賞を受書
【医学の部屋|Santiago Ramón y Cajal サンティアゴ・ラモン・イ・カハール】1906年ノーベル生理学・医学賞~ニューロンを提唱~
0001カナダ出身
1891-1941を生きた医学者はインスリンの発見を行いマクラウドと共にノーベル医学賞を1923年、32歳の最年少で受賞。
【医学の部屋|バンティング】11月14日は何の日?World Diabetes Day!
0049ドイツ連邦共和国出身
1734-1815を生きた催眠術Mesmerise(メスメライズ)を提唱した医師。ルイ16生やマリー・アントワネットなども興味を示したこの催眠療法はオカルト?、ペテン師とも揶揄されるが、現在の催眠療法や精神分析学に受け継がれている。
【医学の部屋|Franz Mesmer フランツ・メスマー】催眠術生みの親はアルモニカと共に…
0033フランス共和国出身
1787-1872を生きた臨床疫学の父は、ベッドサイドでの患者観察と剖検所見の照合を行い、現代で言うところのEBM(Evidence Based Medicine)の道を切り開く。1800年代半ばまで標準治療であった瀉血治療の臨床研究を通じてその効果の疑いを発表し医学の発展に名を響かす。
【医学の部屋|Pierre-Charles Alexandre Louis ピエール=シャルル・ルイ】EBMの考え方を示した男
0033フランス共和国出身
1745-1826を生きた当時、精神病患者「狂気」と扱われ鎖で拘束する時代に精神病患者を「病気」と捉え鎖から解放し、その治療の必要性を説いた精神医学の父、そして近代精神医学の祖と称される。
【医学の部屋|Philippe Pinel フィリップ・ピネル】フランス革命と同じくらいの革命を起こした精神障害治療
0044英国出身
1827-1912を生きたルイ・パスツールの研究からヒントを得て消毒を初めて外科手術に用いた医師。ゴミの腐敗臭を軽減する石炭酸(フェノール)に着目して術中・術後の感染を激減させた消毒法の父。
【医学の部屋|Joseph Lister ジョセフ・リスター】消毒はわたしが考えました
0044英国出身
1749-1823を生きた世界で初めてワクチンを作った医師。天然痘ワクチンの発明、予防接種を行い全世界に影響力を及ぼし、免疫学の父とも称される。
【医学の部屋|エドワード・ジェンナー】ワクチンを世界で初めて作った男
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1668-1738を生きた18世紀ヨーロッパ科学界の最高権威者は医学教育の父とも称され、ベッドサイドトレーニング(BST)を初めたことで知られ、今もなお医学生、研修医生のスキルアップに用いられるトレーニングである。
【医学の部屋|Herman Boerhaave ヘルマン・ブールハーフェ】BSLをスタートさせた医学教育の父
0033フランス共和国出身
1709-1751を生きた医師であり哲学者は心霊現象は脳の中に起こっている生理学的プロセスと解き科学心理・認知科学の先駆者として現在評価されています。
【医学の部屋|La Mettrie ラ・メットリー】18世紀にアバターなるものを考えていた!?彼がいま生きていたら
0032ベルギー王国出身
1514-1564を生きた医師であり解剖学者は近代医学の発展のために最も大切なラテン語による全7巻で構成された解剖学・生理学書「ファブリカ」の著者。古代医学の絶対的権力ガレノスやヒポクラテスの色濃く残る時代においてまさにルネサンスとなった。
【医学の部屋|Andreas Vesalius アンドレアス・ヴェサリウス】医学界ルネサンスの扉を開く
0033フランス共和国出身
1510-1590を生きた床屋から宮廷外科医となった近代外科学の父。ルネサンス時代、四代のフランス国王の侍医を務めたパレは当時の常識を覆す治療法をあみ出し、近代外科学の基礎を築いた。
【医学の部屋|Ambroise Paré アンブロワーズ・パレ 】我は処置す、神が癒し給う
0033フランス共和国出身
1497-1558を生きた天文学者であり医学者は人体の臓器機能をまとめて「Physiology」生理学と発表。
【医学の部屋|Jean Fernel ジャン・フェルネル】私が命名したのはPhysiology・生理学
0033フランス共和国出身
1298-1368を生きたローマ教皇侍医はペストと戦い、そして14世紀最大の外科学書となる「大外科書」を完成させた。
【医学の部屋|Guy de Chauliac ショーリアック】14世紀ペストと戦った外科医
0098イラン・イスラム共和国出身
865-925を生きた医師の中の医師と称される生物・化学・医学者はデーターサイエンティストの巨人。910年出版「天然痘と麻疹に関する書物」で天然痘と麻疹の違いを医学知見。
【医学の部屋|Abu Bakr al-Razi アル・ラーズィー】データーサイエンティストの巨人

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医学(日本出身)の部屋・新着偉人


(It's New)はこちらから

03岩手県
1804-1850を生きた医学者であり博物学者。江戸遊学時に杉田玄白の流れを汲む杉田塾そして1825年鳴滝塾でシーボルトより蘭学、医学を学んだ。シーボルト事件の難を逃れ、江戸麹町にてクリニックを開業。オランダで出版された数々の生理学書を纂述した「西説医原枢要」を1832年に著し日本初の生理学書となる。このころ蘭学者であった渡辺崋山と出会い共同研究を進め、その後蛮社の獄で追われる身となった。その際、庇護された宇和島藩の西洋化に成功している。
【医学の部屋|高野長英】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑨
13東京都
1755-1810を生きた医師。幕府の奥医師として徳川家斉の侍医は漢方を中心とした考証学派の中心人物となる。となり幕府官立の江戸漢方医学校であった躋寿館を父から受け継ぐ。
【医学の部屋|多紀元簡】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑧
13東京都
1798−1846を生きた医学者であり博物学者。宇田川玄真の養子となり、医学・薬学・植物学・化学などの分野を切り開いた。特に本草学から植物学を、そして化学分野では元素・酸化・還元・水素・酸素・炭素などの語彙をつくり、イギリス化学書であったElements of Experimental Chemistryの蘭語版を翻訳。増補し舎密開宗として1837年初版を完成させた。
【医学の部屋|宇田川榕菴】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑦
42長崎県
1807-1869を生きた名付遊女でありP.F.シーボルトの妾。二人の間に生まれた楠本いねは後に医師となり日本初の女性医師(未資格)となった。シーボルトの命名したアジサイの学名「Hydrangea otaksa」は楠本たきを愛した想いに寄せたと伝わる。
【医学の部屋|楠本たき】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥
0049ドイツ連邦共和国出身
1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
【医学の部屋|シーボルト】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑤
30和歌山県
1760-1835を生きた医学者。漢蘭折衷医家は、外科分野で全身麻酔による世界初めての乳がん摘出手術(1804年)に成功し、その名を刻みこの部位では合計で143症例を行ったとされ、その他の手術も行っている。
【医学の部屋|華岡青洲】ビフォーアフターP.F.シーボルト編④
35山口県
1771-1849を生きた医学者。関西遊学時に小石元俊に蘭学を学び、その後元俊の薦めで芝蘭堂へ留学し、大槻玄沢、宇田川玄真に蘭学を学んだ。その後大阪に戻りクリニックを開業する。1822年に西日本で流行したコレラ(狐狼狸)の治療を積極的に行ったとされている。
【医学の部屋|斎藤方策】ビフォーアフターP.F.シーボルト編③
26京都府
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
【医学の部屋|小石元俊】ビフォーアフターP.F.シーボルト編②
0046スウェーデン王国出身
1743-1828を生きた医学者であり博物学者。分類学の父と称されたリンネ(1707-1778)に学び、解体新書が登場した翌年1775年に出島に来日。76年には江戸参府一行に加わり日本の医学者と交わったとされる。日本へ刺絡療法のほか、消毒・殺菌効果を利用した水銀水(マーキュロクロム液)療法を広めた。一方、鍼灸療法をヨーロッパに持ち帰ったとされる。
【医学の部屋|ツンベルク】ビフォーアフターP.F.シーボルト編①
24三重県
1770-1835を生きた医学者。江戸遊学時に杉田玄白や大槻玄沢から蘭学を学び、その才能を発揮した。本名は安岡であったが宇田川玄随の没後、宇田川家を継ぎ宇田川玄真となる。日本解剖学の流れを組む医範提綱には日本初の銅板解剖図52点を掲載し当時の最高峰の解剖学書となった。また和蘭薬鏡遠、西医方名物考を著し、西洋の薬物学を日本にもたらしたことで西洋薬物療法の父でもあった。
【医学の部屋|宇田川玄真】ビフォーアフター解体新書編⑥
13東京都
1756-1798を生きた医学者。津山藩医の家系に生まれ当初漢方医であったが、大槻玄沢の門下となり、蘭学を学ぶ。オランダの医学者Johannes de Gorter(1689-1762)の著した内科書を西説内科撰要として翻訳し、日本語として初の内科学問書となった。
【医学の部屋|宇田川玄随】ビフォーアフター解体新書編⑤
03岩手県
1757-1827を生きた医学者。杉田玄白の門下となり、その後前野良沢より蘭学を学び蘭学塾として芝蘭堂を開校。江戸蘭学の基盤を築いた。解体新書の改訂となる重訂解体新書を完成させている。玄沢の名は師であった玄白、良沢の名をとったものであった。蘭語の指導書として青木昆陽、前野良沢の流れを汲み「蘭学階梯」を1788年に著しており、外国語教育を発展させた一人でもある。
【医学の部屋|大槻玄沢】ビフォーアフター解体新書編④
13東京都
1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】ビフォーアフター解体新書編③
13東京都
1723-1803を生きた医学者。40歳を過ぎてから習得したオランダ語力を発揮し解体新書の翻訳を杉田玄白の申し出に同意し尽力した。人と交わることを好まない性格であった。数少ない弟子に解体新書の改訂を行った大槻玄沢がいる。
【医学の部屋|前野良沢】ビフォーアフター解体新書編②
26京都府
1706-1762を生きた医学者。中国金元時代の医学からの脱却を目指した古方派筆頭の後藤艮山(1659~1733)に師事し、その後同派の大家となる。五臓六腑説に疑問を抱き、ついに1754年幕府の許可を得て日本初の人体解剖を行った。その記録は1759年「蔵志」にて著した。
【医学の部屋|山脇東洋】ビフォーアフター解体新書編①
26京都府
1627-1705を生きた儒学者であり古学古義学(堀川学派)の祖。後の傷寒論などの古典に立ち返る医学となる古方派に影響を与えた。山脇東洋もその一人であり、日本初の人体解剖につながる。その生涯は親族から医者になることを勧められるもそれを拒み、加えて儒学者が医者になることを強く非難するも、医者として活躍する多くの門人を抱え慕われた。
【医学の部屋|伊藤仁斎】江戸の儒学と医学④
40福岡県
1630-1714を生きた儒学者であり薬学者。浪人の身となったことを機会に江戸や京都に遊学し儒学を学ぶ。そこで出会った江戸期の本草学を発展させたとされる向井元升(1609-1677)と医薬の研鑽を深めた。65歳で花譜、75歳で菜譜、そして80歳のときに大倭本草を著し、元升の本草学をさらに高め、日本における博物学の発展となった。84歳には養生訓を著し18世紀を生きる人々への健康法を記した。
【医学の部屋|貝原益軒】江戸の儒学と医学③
13東京都
1666-1728を生きた儒学者。山鹿素行の説いた古学聖学に、辞学的に研究を行なった古文辞学の一派を築く。その思想はその後国学を形成する本居宣長に影響を及ぼしたとされる。父、兄弟共に医者であり、医に多く触れる環境であり、自身も医学書として徂徠先生医言、素問評、鑒定傷寒論を著している。
【医学の部屋|荻生徂徠】江戸の儒学と医学②
05秋田県
1776-1843を生きた国学者であり医師。秋田藩を脱藩し裸一貫で江戸に出て、最新の学問を苦学で身につけた。1805年本居宣長の嫡子春庭の門下となり1807年に現在の東京京橋にて玄瑞医院を開設。その約2年後には医院を閉鎖。この間に傷寒雑病論解、医道大意(志都能石屋)を著し、医術に深く関わっていたと考えられている。医業を辞めたあとも診察を望む患者は絶えなかったとされる。 国学四大人の一人。
【医学の部屋|平田篤胤】江戸時代の意外な医業者③
27大阪府
1734-1809を生きた(前期)読本の著者筆頭格の作家であり医師。当時中国から俗文学として日本に輸入された白話小説を翻案した前期読本の自身代表作となる短編の怪談奇談集「雨月物語」を和漢混淆文で著した。1771年に火災に伴い全財産を失ったことをきっかけに医師を志し、その2年後に大阪加島で医書を読み漁り、多くの患者と接しながら医術の体得後、1776年大阪尼崎にて開業し1788年には廃業。大阪淡路に隠居の身となり執筆活動を復活させた。
【医学の部屋|上田秋成】江戸時代の意外な医業者②
24三重県
1730-1801を生きた国学者であり医師。母の勧めもあり京都にて堀 影山(1688-1757)に師事し国学や医術を学び、1758年10月に故郷の三重松坂に帰郷し本居春庵医院を開業。その後、賀茂真淵に師事し源氏物語や古事記など日本古典を通じて古代の思想・文化研究を行なった。国学の大成を成し遂げたとされ、国学四大人に数えられる。
【医学の部屋|本居宣長】江戸時代の意外な医業者①
07福島県
1828-1897を生きた日本社会福祉の基礎を築いた社会慈善家は女性初の藍綬褒章を受賞、日本におけるナイチンゲールと称される。
【医学の部屋|瓜生岩子】初代!?日本のナイチンゲール
13東京都
1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】日本初の解剖学書を著しました
03岩手県
1757-1827を生きた医学者。杉田玄白の門下となり、その後前野良沢より蘭学を学び蘭学塾として芝蘭堂を開校。江戸蘭学の基盤を築いた。解体新書の改訂となる重訂解体新書を完成させている。玄沢の名は師であった玄白、良沢の名をとったものであった。蘭語の指導書として青木昆陽、前野良沢の流れを汲み「蘭学階梯」を1788年に著しており、外国語教育を発展させた一人でもある。
【医学の部屋|大槻玄沢】重訂にて解体新書を完成させました
28兵庫県
1889-1971を生きた女性医師でありワクチン研究で博士号取得、初の女性国会議員39名の一人。
【医学の部屋|中山たま】医師であり、初の女性衆議院議員
20長野県
1881-1975を生きた東京女子医科大学1期生の女性医師、初の女性国会議員39名の一人でもある。
【医学の部屋|竹内茂代】東京女子医科大学1期生は初の女性衆議院議員
22静岡県
1855-1931を生きた日本における法医学の祖であり、医学を通じた国際貢献の一環として同仁会設立し副会長の職務を全う(会長は大隈重信)。
【医学の部屋|片山国嘉 Kuniyoshi Katayama】日本における法医学の祖
32島根県
1862-1922を生きた陸軍軍医は留学先のドイツにて医学はもちろんのこと文学をも学ぶ。帰国後陸軍医総監まで登りつめた一方、号を鴎外とした文壇としての地位も確立し医学文学の世界で活躍した。
【医学の部屋|森鴎外 Ogai Mori】本日2022年7月9日没後100年
43熊本県
1853-1931を生きた医師であり伝染病予防や細菌学の発展に尽力。破傷風菌の純培養と抗毒素療法の開発で知られ、感染症の予防と治療に大きな進展をもたらす。福沢諭吉の弟子として学び、その福沢の支持を受け、慶應義塾大学医学部や北里研究所を設立し、日本の医学教育と研究の発展に寄与し、国民衛生の向上に貢献し、医学者の育成にも大きな功績を残した。
【医学の部屋|北里柴三郎】恩人福沢諭吉先生へ捧げる人生
41佐賀県
1822-1902を生きた日本赤十字社創始者。佐賀の七賢人とも称えられる
【医学の部屋|佐野常民 Tsunetami Sano】日本赤十字社創始者
13東京都
1844-1882を生きた蘭方医であり陸軍軍医総監、有栖川宮熾仁親王に従ってロシアへ向けて出立するも途中のフランスで39歳で早世。
【医学の部屋|林 研海 Kenkai Hayashi】私の妹は榎本武揚に嫁ぎました
40福岡県
1813-1895を生きた蘭方医であり奥医師はお玉ヶ池設立メンバーの一人
【医学の部屋|林 洞海 Dohkai Hayashi】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1796-1866を生きたドイツ出身医師、鳴滝塾を開設し西洋医学(蘭学)教育を行った
【医学の部屋|Siebold シーボルト】日本近代医学に一石を投じたドイツ人
33岡山県
1810-1863を生きた近代医学の祖は天然痘と闘い、大阪に適塾(大阪大学医学部の前身)を開き人財育成を行う。
【医学の部屋|緒方洪庵】去る天然痘!来るサル痘? ワクチン大規模接種は江戸時代から!?
33岡山県
1835-1901を生きた蘭方医であり徳川慶喜奥医師、戸塚静海は養父。高木兼寛と共に慈善病院(現東京慈恵会医科大学)を創立。日本海軍医。
【医学の部屋|戸塚文海 Bunkai Totsuka】高木兼寛と共に慈善病院(東京慈恵会医科大学・前身)をつくりました
17石川県
1805-1880を生きた蘭方医であり徳川家茂奥医師、大槻俊斎・伊東玄朴らとお玉が池種痘所設立
【医学の部屋|竹内玄同 Gendou Takeuchi】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人
41佐賀県
1801-1871を生きた近代医学の祖と評さる蘭方医は徳川13代将軍家定奥医師を戸塚静海と共につとめ、お玉が池種痘所の開設もおこなった。
【医学の部屋|伊東玄朴 Genboku Ito】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人
22静岡県
1799-1876を生きた江戸三大蘭方医のひとり。徳川13代家定奥医師をつとめ、お玉ヶ池種痘所開設に尽力
【医学の部屋|戸塚静海 Seikai Totsuka】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人
23愛知県
1779-1848を生きた漢方医(古医方)でありインド医学(仏教医学)の影響を受けたとされ「古訓医伝」を著書
【医学の部屋|宇津木昆台 Kondai Utsugi】江戸時代における傷寒論研究の第一人者
35山口県
1771-1849を生きた蘭方医で1822年コレラ流行時には臨床方針を考案。山口県生まれで長州藩医をつとめた。
【医学の部屋|斎藤方策 Housaku Saito】漢蘭折衷医学のスペシャリスト
24三重県
1770-1835を生きた蘭方医で津山藩医をつとめた。江戸時代のベストセラー医学書「医範提綱」を出版
【医学の部屋|宇田川玄真 Genshin Utagawa】芝蘭堂四天王筆頭
34広島県
1762-1848を生きた日本西洋医学における眼科医の祖、眼球の解剖から白内障手術の成功
【医学の部屋|土生玄碩 Genseki Habu】日本眼科医の祖
13東京都
1756-1798を生きた津山藩医、漢方学から蘭学へ変更し日本初の内科書『西説内科撰要』を発刊
【医学の部屋|宇田川玄随 Genzui Utagawa】日本初の内科書「西説内科撰要」刊行
14神奈川県
1751-1822を生きた江戸時代の医師は産科学のスーパードクターは江戸時代に産科を切り開いた医師は産科発蒙を発表、その中で英国産科医スメリーによる鉗子分娩を広める。当時の鉗子は竹製であったそう。また鼻茸(ポリープ)離断を係蹄法を用いた術式は世界初とされている。
【医学の部屋|片倉鶴陵】江戸時代のスーパードクターは名産科医
13東京都
1723-1803を生きた中津藩医であり蘭学者、杉田玄白と共に解体新書を発刊
【医学の部屋|前野良沢】蘭学の化け物
26京都府
1706-1762を生きた日本における解剖学の祖、日本において人体解剖を幕府の許可を得て実施
【医学の部屋|山脇東洋】日本解剖学の祖
11埼玉県
1465-1544を生きた日本における東洋医学(漢方医学)の祖
【医学の部屋|田代三喜 Sanki Tashiro】日本漢方医学の祖
45宮崎県
1849-1920を生きた宮崎県出身の海軍軍医、東京慈恵医科大学創設者は麦飯男爵の異名には、江戸時代より「江戸わずらい・大阪腫れ」と恐れられていた風土病「脚気」を、明治に入り留学から帰国した医学界のエリート兼寛氏が、軍医として麦飯に着目(加えてタンパク質も)し、日本初ともいわれる疫学調査を2軍艦を用いて食事由来であることを証明。この功績から男爵位を授けられ、広く国民から賛辞のまととなる。
【医学の部屋|高木兼寛】海軍カレー創始者?麦飯男爵?東京慈恵会医科大学創始者
20長野県
1901-1992を生きた長野県出身の医学者であり皮膚科医は日本医科大学卒、1947年には同校皮膚科学教室第8代教授就任。病院長等の要職もつとめ1972年には日本医科大学付属ワクチン療法研究施設を創設、所長に就任。生涯丸山ワクチンによるがん治療研究・臨床に力を注いだ。
【医学の部屋|丸山千里】30年経った丸山ワクチンはいま
11埼玉県
1851-1913を生きた埼玉県出身の日本初女性医師は18歳のとき、不慮の病に罹り婦人科治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意。しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走。こうして吟子女史は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となる。
【医学の部屋|荻野吟子】注目のDoodle登場は日本初の女性医師
23愛知県
1852-1927を生きた愛知県出身の日本人女性3人目の公許女医(医師)は済生学舎に女子入学を許可させ、産科での貧窮者の無償施療、乳児院での無償の種痘治療などの慈善活動を生涯にわたり展開した。
【医学の部屋|高橋瑞子 Mizuko Takahashi】 日本女性医師3人目

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40福岡県
1893-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法科大学経済学科を卒業後、三井銀行に入行。1921(大正10)年に欧米へ留学し、金融業界の視察を行う。帰国後、福岡銀行副頭取を経て、第一徴兵保険(後の東邦生命保険)の社長に就任。1953(昭和28)年には博多大丸の初代社長に就任し、福岡市の経済発展に大きく貢献した。浮世絵のコレクターとしても知られ、そのコレクションは太田記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|太田清蔵 (5代目)】昭和時代編.9New!!
27大阪府
1893-1986を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、新聞販売店を手伝い始め、新聞業界に興味を持つ。1922(大正11)年に「南大阪新聞」を創刊し成功を収める。1933(昭和8)年には「日本工業新聞」を創刊し、戦時中の新聞統合政策により「産業経済新聞」となった。戦後、公職追放を経て1950年に復帰し、産業経済新聞を全国紙に育て上げた。1957(昭和32)年には日本電波塔株式会社を設立し、東京タワーを建設に尽力した。
【経営者の部屋|前田久吉】昭和時代編.8

2024年パリ オリンピック、パラリンピック開催を記念して「いらすとすてーしょん」ではオリンピックに関連する偉人たちのイラストポートレートをお届けしました↓

いらすとすてーしょん新キャラクター

館長

2022年より"いらすとすてーしょん"にお立ち寄りいただきありがとうございます

館長

さて本年いらすとすてーしょんの新キャラクターが誕生しました

館長

シューちゃんです

シューちゃんはいらすとすてーしょんのキャラクターです
シューちゃん

シュー(Syu)です
よろしくね

館長

3年目を迎えた2024年も皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

いらすとすてーしょんからのお知らせ

創業76年を迎える総合広告代理業を営む栄光社のイチオシと「いらすとすてーしょん」のコラボレーションが2022年7月1日ついにオープン!イチオシ美術とそのイラストポートレートで贈る作者をぜひご堪能ください
創業78年を迎える栄光社Web page新企画「イチオシ」と


いらすとすてーしょん「Syusuke Gallery」


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