楠本たき





Taki Kusumoto(1807-1869)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょん
こちらのページでは 楠本たき ビフォーアフター

P.F.シーボルト編
をお楽しみください
※楠本たき ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥は医学の部屋よりお届けします

楠本たき
イラストポートレート Syusuke Galleryより

P.F.シーボルト来日前後史

シューちゃん

この特集でお届けしているシーボルト編の方々だよ↓

ビフォーアフターP.F.シーボルト編

ツンベルク
1743-1828
2024年4月14日公開
1743-1828を生きた医学者であり博物学者。分類学の父と称されたリンネ(1707-1778)に学び、解体新書が登場した翌年1775年に出島に来日。76年には江戸参府一行に加わり日本の医学者と交わったとされる。日本へ刺絡療法のほか、消毒・殺菌効果を利用した水銀水(マーキュロクロム液)療法を広めた。一方、鍼灸療法をヨーロッパに持ち帰ったとされる。
小石元俊
1743-1809
2024年4月15日公開
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
斎藤方策
1771-1849
2024年4月16日公開
1771-1849を生きた医学者。関西遊学時に小石元俊に蘭学を学び、その後元俊の薦めで芝蘭堂へ留学し、大槻玄沢、宇田川玄真に蘭学を学んだ。その後大阪に戻りクリニックを開業する。1822年に西日本で流行したコレラ(狐狼狸)の治療を積極的に行ったとされている。
華岡青洲
1760-1835
2024年4月17日公開
1760-1835を生きた医学者。漢蘭折衷医家は、外科分野で全身麻酔による世界初めての乳がん摘出手術(1804年)に成功し、その名を刻みこの部位では合計で143症例を行ったとされ、その他の手術も行っている。
シーボルト
1796-1866
2024年4月18日公開
1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
楠本たき
1807-1869
2024年4月19日公開
1807-1869を生きた名付遊女でありP.F.シーボルトの妾。二人の間に生まれた楠本いねは後に医師となり日本初の女性医師(未資格)となった。シーボルトの命名したアジサイの学名「Hydrangea otaksa」は楠本たきを愛した想いに寄せたと伝わる。
宇田川榕菴
1798−1846
2024年4月20日公開
1798−1846を生きた医学者であり博物学者。宇田川玄真の養子となり、医学・薬学・植物学・化学などの分野を切り開いた。特に本草学から植物学を、そして化学分野では元素・酸化・還元・水素・酸素・炭素などの語彙をつくり、イギリス化学書であったElements of Experimental Chemistryの蘭語版を翻訳。増補し舎密開宗として1837年初版を完成させた。
多紀元簡
1755-1810
2024年4月21日公開
1755-1810を生きた医師。幕府の奥医師として徳川家斉の侍医は漢方を中心とした考証学派の中心人物となる。となり幕府官立の江戸漢方医学校であった躋寿館を父から受け継ぐ。
高野長英
1804-1850
2024年4月22日公開
1804-1850を生きた医学者であり博物学者。江戸遊学時に杉田玄白の流れを汲む杉田塾そして1825年鳴滝塾でシーボルトより蘭学、医学を学んだ。シーボルト事件の難を逃れ、江戸麹町にてクリニックを開業。オランダで出版された数々の生理学書を纂述した「西説医原枢要」を1832年に著し日本初の生理学書となる。このころ蘭学者であった渡辺崋山と出会い共同研究を進め、その後蛮社の獄で追われる身となった。その際、庇護された宇和島藩の西洋化に成功している。

シーボルト初来日

シューちゃん

館長!この特集も後半戦だね…

館長

前回は1823年に初来日を果たされたシーボルトさんを取り上げさせていただきました

シューちゃん

シーボルト事件が起こった1828年までを取り上げたよね

館長

こちらに初めてお越しの場合は、ぜひこちらも併せてご覧ください

1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
【医学の部屋|シーボルト】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑤
シューちゃん

さて今回はそのシーボルトさんのフィアンセだった楠本たきさんだね

江戸参府から長崎に戻る

館長

では時計の軸をシーボルトさんが1826年の江戸参府から長崎に帰ってきたあたりに戻してみましょう

館長

オランダ商館長の将軍謁見のために長崎を出たのが1826年2月

館長

時の商館長ウィルレムに随行したシーボルトさんは同年7月に長崎に帰ってきました

フィアンセとなった楠本たき

館長

そして以前から慣れ親しんでいた遊女の其扇(SONOGI)と深い中になったとされています

シューちゃん

その其扇さんの本名が楠本たきさんなんだね

館長

その通りです!シューちゃん

娘イネ誕生

館長

そのたきさんシーボルトさんとの間に出来た娘イネを翌年5月に出産しました

館長

親子3人で仲睦ましく暮らしていたのですが…

1828年シーボルト事件勃発

シューちゃん

1828年、とあることで問題が発覚する

シーボルト

様々な方面で入手した日本地図や幕府禁制の品々をオランダ政府に送ろうとしていたところ…

シューちゃん

幕府に見つかってしまったんだよね

館長

一説によるよシーボルトさんが間宮林蔵(1780-1844)さんに送った手紙が江戸幕府に漏れてしまったみたいですね

林蔵

わたしは職務を全うしただけですけど

館長

これは間宮林蔵さん、いずれイラストポートレートページ作成しますのでもう少しお待ちくださいね

シューちゃん

そう言えば、以前までは船が座礁して積荷が発見されたって聞いたような…

シーボルト

それは間違いですよ

たき

なぜか、そのようなフィクションが現代まで伝わっていたようなのですが…

たき

船は座礁するどころか、悪天候で出航できずに停泊していたのです

シーボルト

江戸幕府から早馬で長崎奉行所に連絡が入り、わたしは連日のように取り調べを受けました

たき

夫はその取り調べで、一連の件は私的な興味であったと主張していました

館長

そのことで、シーボルトさんを慕っていることで連座された学者たちの一部には、罪を軽くしてもらうことに成功した人もいたそうです

シーボルト

こころはほとんど日本人でしたらか…

シューちゃん

シーボルトさんは辛い立場だったんだね…

国外退去命令

館長

結局、シーボルトさんは国外退去命が下り再入国不可として追放されることに…

館長

そしてその年の暮れ12月に長崎をあとにし帰国の途につかれます

たき

夫の犯したことは許されるものではありませんでしたが、わたしは辛い日々を2歳になる娘イネとその後を過ごしました

たき

夫はその後の私たちを見守り続けてくれていたそうです

館長

シーボルトさんは日本の開国を促す活動を欧米各国に働きかけていたのですよね

シューちゃん

日本のためもあると思ったけど、愛するたきさんや娘イネさんに会いたかったのだろうね

たき

わたしの名前を紫陽花の学名として刻もうともされていたそうです

シューちゃん

たきさんのことを愛してやまなかったのだろうなぁ

館長

そして時は過ぎ、1858年に日本はオランダを含む5カ国と通商条約締結

館長

その条約締結前にはオランダ政府との交渉によりシーボルトさんの罪は解かれる朗報がありました

シーボルト再来日

たき

1859年、夫は再び帰ってきました

シーボルト

あれから約30年、わたしもたきもそれぞれの家庭をもったりしたのですが、たきとイネとの再会は嬉しかったです

たき

そのころ、娘イネは産科医として活躍していたのですよ
※1884年の医術開業試験制度前としては数少ない女性医師であった

シーボルト

わたしが日本を離れるとき、門下に「たきとイネを頼む」と伝えていたのですが…立派に育ってくれて嬉しかった

たき

その後攘夷論が盛んになり、夫は日本を1863年に離れましたが、とても幸せな時間を過ごすことができました

館長

ちなみに諸説あるようなのですが、この楠本たきさんは長崎の遊女其扇であったという説と、出島に出入りするために遊女に扮していた(名付遊女)とも伝わっています

ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥まとめ

シューちゃん

では今回のまとめだね

館長

シーボルトさんは来日後に楠本たきさんに出会い結婚を誓いあいました

シューちゃん

その二人から生まれた娘イネはその後産科医となっていたね

館長

シーボルト事件の罪で国外退去を言い渡されたシーボルトさん

シューちゃん

その後も日本を思い続けていた

館長

そして退去から約30年経った1859年に再来日され楠本たきさん、娘イネさんに再会されました

シューちゃん

シーボルトさんは日本の学術レベルを上げただけでなく、そこので出会いによって多くの日本人に影響を与えていたってことがよくわかったよ

館長

そして日本での生活を支えたのが楠本たきさんだったのですね

館長

では今回のビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥はここまでとしましょう

次回は宇田川榕菴

シューちゃん

ところで次回の登場の宇田川榕菴さんって?

館長

宇田川榕菴さんは日本の博物学の先駆者とも言える方ですよ

シューちゃん

博物学か…どんな展開かいまから楽しみだなぁ

館長

さてビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥はいかがでしたか?

館長

今回はシーボルトが初来日した1823年を起点として、そのビフォー&アフターの視点から楠本たきを取り上げました

館長

いらすとすてーしょんでは医学の歴史を彩ってきた偉人たちを…

館長

これからもご紹介していきます

館長

どうぞお楽しみに!

シューちゃん

次回も見てね!

館長

江戸時代の部屋もご用意して皆様のお越しをお待ちしております

イラストポートレートSyusukeGallery江戸時代の部屋Edo Period
江戸時代の部屋 Edo Period
館長

今回のビフォーアフターP.F.シーボルト編⑥の制作には「江戸時代医学史の研究(1978)」吉川弘文館発行、「医学の歴史(1964)」中公尾新書発行を参考図書として用いております

医学・新着偉人(It's New)はこちらから

0032ベルギー王国出身
1579-1644を生きた医学者であり化学者。パレケルススの化学に基づいた理論で人体の機能を解き明かす医療化学の分野を進めた。四元素や体液説など古代医学を論駁し、また空気とは異なる気体の存在を見出し、この気体をガスと命名し、その概念を明らかにした。
【医学の部屋|ヘルモント】17世紀に活躍した世界の医学者⑨
0049ドイツ連邦共和国出身
1659-1734を生きた医学者であり化学者。 1708年生理学と病理学からなる医学理論書Theoria medica veraを著し、生物にはアニマという非物質が存在し、生命活動を営むとしたアニミズムを提唱した。そしてその理論は、ドイツ哲学者ライブニッツ(1646-1716)が提唱した生気論を牽引した。また化学の分野では、特にZymotechnia Fundamentalis(科学の基礎・1697年)にて、燃焼について酸化の考えにつながるフロギストンという物質をアリストテレスにより広く支持された四元素説に加え唱えた。
【医学の部屋|シュタール】18世紀に活躍した世界の医学者Ⅺ
0098イラン・イスラム共和国出身
865-925を生きた医学者。9~10世紀のイスラム王朝(アッバース朝)に医学、哲学など幅広い分野でその名を刻んだ。天然痘と麻疹の臨床所見の違いを示すなど、特に医学分野でその名を馳せている。
【医学の部屋|ラーズィー】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑥
0033フランス共和国出身
1298-1368を生きた医学者。ヴェサリウス以前の中世ヨーロッパにおいて、ガレノスによる解剖学を学び、外科医としてその名を刻んだ。1363年には外科指南書となったChirurgia magnaを著し、8章からなるラテン語で描かれたこの書は外科医のバイブルとなった。黒死病(ペスト)に立ち向かった医師としても記憶されている。
【医学の部屋|ショーリアック】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑤

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イラストポートレートSyusukeGallery医学の部屋 Medical Scientist
医学の部屋 Medical Scientist

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46鹿児島県
1866-1950生きた経営者であり実業家。同郷の川崎正蔵に招かれて川崎造船所(現在の川崎重工業)初代社長に就任。その後数々の会社社長、役員を務めた。文化面でも活躍し、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵、そして様々な美術品は、松方コレクションの名で知られ、東京国立博物館、国立西洋美術館所蔵品の母体と現在もなっている。第4・6代内閣総理大臣を務めた松方正義を父に持つ。
【経営者の部屋|松方幸次郎】明治時代編.45New!!
26京都府
1865-1926生きた経営者であり実業家。継承難を抱えていた住友家に養子入りし、別子銅山などの経営改革を進める。1900(明治33)年には住友総理事に就任、銀行業など事業拡大を積極的に行い、三井、三菱と並ぶ大財閥へと成長させた。公家出身であり、第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望を兄に持つ。
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