ラ・メトリ
Julien Offray de La Mettrie(1709-1751)
ようこそ!フリーイラストポートレートと
歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページではラ・メトリ18世紀に活躍した
世界の医学者②をお楽しみください
※ラ・メトリ18世紀に活躍した世界の医学者②は医学の部屋よりお届けします
ラ・メトリ
イラストポートレート Syusuke Galleryより

フランス出身 1709-1751
オランダ・ライデン大学でブールハーフェに師事
師の提唱した古来の学説をもとにした生理学と
デカルト発の機械論的な視座を併せ持つ
機械論的生理学をフランスに持ち帰り
さらに発展させた人間機械論(1747年)を展開した
その主張はフランスでは受け入れられず
のちにベルリンに亡命しフリードリヒ大王の庇護を受けた
18世紀の西洋医学

いらすとすてーしょんでは医学の部屋より18世紀に活躍した世界の医学者と題してイラストポートレートをお届けしています
(参考)17世紀に活躍した世界の医学者たち


さて今回はラ・メトリをお届けします
前回はブールハーフェ

前回はブールハーフェでした

シューちゃん、ご案内ありがとうございます!よろしければこちらもご覧ください↓
【医学の部屋|ブールハーフェ】18世紀に活躍した世界の医学者①

ブールハーフェは18世紀の医学教育を確立や生理学を体系化したのだったよね
ラ・メトリって

そして今回のラ・メトリはどんな医学者だったの?

ラ・メトリは、その18世紀の医学教育を確立や生理学を体系化したブールハーフェに学びました

ラ・メトリはブールハーフェの門下だったんだね

ラ・メトリは、師ブールハーフェの考えに大きく傾倒したそうです
人間機械論 1747年

そして師の説いた機械論的生理学をL'homme-machine(人間機械論 1747年)として著しています

機械論的生理学??

ここには哲学的思想が含まれていますので、かいつまんでお話しします

フランスの哲学者デカルト(1596-1650)に端を発した機械論と、ドイツの哲学者ライブニッツ(1646-1716)の生気論という相反する思想がありました

ブールハーフェはデカルトの機械論を支持し、その思想から生理学を考えていたとされています

そのブールハーフェの考えをラ・メトリは継承したんだね

そうなのです!そして先ほどの人間機械論を著したのでした

なんとなくタイトルからわかりそうだけど、どんな内容だったの??
医学者であり哲学者

お察しの通り、人間は機械であり人間が考えるということは単なる脳の性質にすぎないといったような内容が書かれています

理解できるような、できないような…

ちなみにこの人間機械論を著したことで、ラ・メトリは身の危険を感じて亡命にまで発展したそうです

そう考えたら、ラ・メトリは医学者でもあり、哲学の世界にもその名を刻んだってことだね
次回はインヘンハウス

さて、18世紀に活躍した世界の医学者②ラ・メトリは如何でしたか?

いらすとすてーしょんでは医学の歴史を彩ってきた偉人たちを…

これからもご紹介していきます

どうぞお楽しみに!

今回の18世紀に活躍した世界の医学者②の制作には「医学の歴史(1964)」中公尾新書発行を参考図書として用いております
18世紀に活躍した世界の医学者たち
医学・新着偉人(It's New)はこちらから
【医学の部屋|ヘルモント】17世紀に活躍した世界の医学者⑨
【医学の部屋|シュタール】18世紀に活躍した世界の医学者Ⅺ
【医学の部屋|ラーズィー】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑥
【医学の部屋|ショーリアック】16世紀以前に活躍した世界の医学者⑤
医学の部屋へようこそ
出身国別、都道府県でお届けしています
広告コーナー
いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により
運営させていただいております
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます
いらすとすてーしょん検索コーナー
いらすとすてーしょん検索コーナー
いらすとすてーしょん検索コーナー
新着偉人(It's New)
新たに公開のイラストポートレートをご覧ください
【文学の部屋|東条寿三郎】昭和時代編.225New!!
【文学の部屋|関沢新一】昭和時代編.224
1月16日より、文学の部屋から飛鳥時代〜の文学者をお届けしています↓
2025年1月15日まで、経営者の部屋より明治・大正・昭和時代に活躍した経営者をお届けしました↓

シュー(Syu)です
2026年も、よろしくね

「いらすとすてーしょん」は5年目を迎えました。今年も、皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします








![1920-1992を生きた作詞家であり脚本家。中学卒業後、京都でアニメ映画製作など、職を転々とし、1941(昭和16)年召集され従軍。戦後、東宝の脚本家として「暗黒街の対決(1960)」や特撮映画「モスラ(1961)」などを手がけ、ゴジラシリーズにも名を残した。作詞家としては1958(昭和33)年、日本コロムビアと契約し、歌・小林旭「ダイナマイトが百五十屯(1958)」で鮮烈なデビューをはたす。以後、歌・舟木一夫「学園広場(1963)] 、「銭形平次(1966)」、歌・美空ひばり「柔(1964)」、など、映画やテレビの物語性と共鳴するヒット曲を連発。詞にドラマ性を宿した作風で、昭和歌謡の一翼を彩った。](https://illuststation196.com/wp-content/uploads/2026/01/Shinichi-Sekizawa-300x300.jpeg)
