高野長英





Choei Takano(1804-1850)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょん
こちらのページでは 高野長英 ビフォーアフター

P.F.シーボルト編⑨
をお楽しみください

高野長英
イラストポートレート Syusuke Galleryより

P.F.シーボルト来日前後史

シューちゃん

この特集でお届けしているシーボルト編の方々だよ↓

ビフォーアフターP.F.シーボルト編

ツンベルク
1743-1828
2024年4月14日公開
1743-1828を生きた医学者であり博物学者。分類学の父と称されたリンネ(1707-1778)に学び、解体新書が登場した翌年1775年に出島に来日。76年には江戸参府一行に加わり日本の医学者と交わったとされる。日本へ刺絡療法のほか、消毒・殺菌効果を利用した水銀水(マーキュロクロム液)療法を広めた。一方、鍼灸療法をヨーロッパに持ち帰ったとされる。
小石元俊
1743-1809
2024年4月15日公開
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
斎藤方策
1771-1849
2024年4月16日公開
1771-1849を生きた医学者。関西遊学時に小石元俊に蘭学を学び、その後元俊の薦めで芝蘭堂へ留学し、大槻玄沢、宇田川玄真に蘭学を学んだ。その後大阪に戻りクリニックを開業する。1822年に西日本で流行したコレラ(狐狼狸)の治療を積極的に行ったとされている。
華岡青洲
1760-1835
2024年4月17日公開
1760-1835を生きた医学者。漢蘭折衷医家は、外科分野で全身麻酔による世界初めての乳がん摘出手術(1804年)に成功し、その名を刻みこの部位では合計で143症例を行ったとされ、その他の手術も行っている。
シーボルト
1796-1866
2024年4月18日公開
1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
楠本たき
1807-1869
2024年4月19日公開
1807-1869を生きた名付遊女でありP.F.シーボルトの妾。二人の間に生まれた楠本いねは後に医師となり日本初の女性医師(未資格)となった。シーボルトの命名したアジサイの学名「Hydrangea otaksa」は楠本たきを愛した想いに寄せたと伝わる。
宇田川榕菴
1798−1846
2024年4月20日公開
1798−1846を生きた医学者であり博物学者。宇田川玄真の養子となり、医学・薬学・植物学・化学などの分野を切り開いた。特に本草学から植物学を、そして化学分野では元素・酸化・還元・水素・酸素・炭素などの語彙をつくり、イギリス化学書であったElements of Experimental Chemistryの蘭語版を翻訳。増補し舎密開宗として1837年初版を完成させた。
多紀元簡
1755-1810
2024年4月21日公開
1755-1810を生きた医師。幕府の奥医師として徳川家斉の侍医は漢方を中心とした考証学派の中心人物となる。となり幕府官立の江戸漢方医学校であった躋寿館を父から受け継ぐ。
高野長英
1804-1850
2024年4月22日公開
1804-1850を生きた医学者であり博物学者。江戸遊学時に杉田玄白の流れを汲む杉田塾そして1825年鳴滝塾でシーボルトより蘭学、医学を学んだ。シーボルト事件の難を逃れ、江戸麹町にてクリニックを開業。オランダで出版された数々の生理学書を纂述した「西説医原枢要」を1832年に著し日本初の生理学書となる。このころ蘭学者であった渡辺崋山と出会い共同研究を進め、その後蛮社の獄で追われる身となった。その際、庇護された宇和島藩の西洋化に成功している。

最終回は高野長英

シューちゃん

館長!今回のビフォーアフターP.F.シーボルト編全9回のいよいよ今回が最終回…

館長

あっという間に最終回ですね

シューちゃん

ここまでシーボルトさんの来日前後を見てきて、日本の医学にシーボルトさんが大きな影響を与えたことは間違いないって感じたよ

館長

では今回のビフォーアフターP.F.シーボルト編最終回は高野長英さんに登場いただきます

シューちゃん

高野長英さんは岩手県の出身だよね

館長

早くにお父上を亡くして、藩医をされていた叔父さんの養子になられました

館長

その養父は蘭学を杉田玄白さんを師として学びんでおられたそうです

1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】ビフォーアフター解体新書編③

蘭学を目指した高野長英

シューちゃん

そんな環境で育てば高野長英さんは蘭学に目覚めるよ

館長

そのようで、高野長英さん江戸遊学を志したそうです

館長

ちなみになぜだかわかりませんが、養父は江戸遊学には反対だったようでした…

江戸、長崎に遊学

シューちゃん

そしてついに高野長英さん江戸に行くんだね

館長

江戸についた高野長英さん蘭学を学び、その才能は誰もがうらやむほどだったそうです

館長

そんな折、鳴滝塾への扉が開き1825年に長崎に向かいます

シーボルトに学ぶ

シューちゃん

ここでシーボルトさんに出会うんだね

1796-1866を生きた医学者であり博物学者。オランダ商館の医官として1823年に来日し、出島外での活動の許可を得て翌24年には鳴滝塾を開校。蘭学の中でも医学を中心に学ぶために各地・各藩から学者が集まり、シーボルトの門下は蘭方医の流派としてその後の日本の医学を発展させた。将軍謁見のため江戸旅行、日本の情報を持ち出し処分を受けたシーボルト事件。再来日を果たすなど、幕末日本に大きな影響を与えた。
【医学の部屋|シーボルト】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑤
館長

鳴滝塾でもその才能を忌憚なく発揮した高野長英さんは、留学生の中でも特にシーボルトさんに認められたそうです

館長

ここでシーボルトさんの特筆すべきポイントがあるのです

シューちゃん

特筆すべきポイント??

館長

留学生にテーマを与えて、それを蘭(オランダ)語でレポートを提出させることを推奨したのです

シューちゃん

それってほとんどやっていることは大学教授みたいだなぁ

館長

本当によく似ていると感じました

シューちゃん

そのテーマっていうのはもちろん、日本のことについてなんだよね??

館長

シューちゃん、目の付け所が鋭い!

館長

シーボルトさんの興味のある日本にまつわるテーマを留学生に研究させて、そしてレポートを書かせていたのです

シューちゃん

確かに留学生は学問が身に付くし、シーボルトさんは日本の情報が蘭語で手に入るもんね

西洋学術雑誌に初掲載の日本人は美馬順三

館長

鳴滝塾の留学生の一人で塾頭をつとめた、美馬順三(1795-1825)さんは「日本産科問答」というレポートを仕上げました

館長

それが外国を経由してヨーロッパの産科学雑誌に掲載されたことが確認されています
※Journal fur Geburtshilfe Frauenzimmer-und Kinderkrankheiten 1826年

シューちゃん

と、いうことは美馬順三さん論文がヨーロッパの学術雑誌に掲載された初めての日本人ってこと?

館長

シューちゃん、その通りです

館長

さて話は少し脱線しましたが高野長英さんも例外はなく、シーボルトさんよりテーマを与えられて、研究しレポートを数々提出していたそうです

シューちゃん

高野長英さんは順調に蘭学を学んでいったのだね

館長

しかし転機は訪れます

シーボルト事件勃発

館長

1828年に起こった俗に言うシーボルト事件は、高野長英さん自身にも当然嫌疑がかかると察します

シューちゃん

それで高野長英さんは長崎を離れるのだね

館長

長崎を離れてから時が過ぎ、その高野長英さんの姿は江戸にありました

シューちゃん

その江戸で偉業を成し遂げる!

日本初の生理学書 医原枢要

館長

その偉業とはクリニックを営みながら1832年医原枢要 を著します
※京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

シューちゃん

この医原枢要は日本初の生理学書だったんだよね

高野長英、渡辺崋山

崋山

時同じくして、わたしは高野長英に出会った

長英

これは華山どの、あなたと出会えてこの国そのものを変えなければと強く感じました

シューちゃん

この二人の出会いは、のちに大きな事件を引き起こすのだよね

崋山

いわゆる…蛮社の獄

長英

お互い幕府を批判して、鎖国撤廃の機運を探っていたのですが…

館長

二人は幕政批判の罪に問われ無期禁錮が言い渡されました

館長

その服役中高野長英さん機会を見つけて脱獄します

シューちゃん

高野長英さんの人生二度目の逃亡劇だね

館長

いずれも政治の混乱に巻き込まれてしまったというところでしょうか…

シューちゃん

高野長英さんにはもっと表舞台を歩いてほしかったなぁ…

館長

その逃亡は四国まで及んでいたことがわかっています

館長

しかし指名手配中の高野長英さん迷惑をかけることを恐れ、江戸に戻ります

シューちゃん

その江戸で見つかってしまうのだよね…

館長

1850年自害46年年間の生涯を閉じられました

ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑨まとめ

シューちゃん

養父の影響で蘭学に目覚め…

館長

江戸を経て鳴滝塾でシーボルトさんから蘭学を学ばれて…

シューちゃん

シーボルト事件で行方をくらまして…

館長

戻った江戸で渡辺崋山さんに出会い意気投合

シューちゃん

しかし幕府に目をつけられた

館長

そんな高野長英さんですが日本初の生理学書となった医原枢要など、日本に新たな学問を導かれました

シューちゃん

蘭学に出会えたこと、そしてやっぱりシーボルトさんの影響が大きかったのかな…