京都府出身の音楽家

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26京都府
1873-1935を生きた歌人であり、文学者、教育者。教員を経て、1900(昭和33)年に創刊した文学雑誌「明星」は、北原白秋や石川啄木など多くの若手歌人を輩出し、ロマン主義運動の中心的存在となる。与謝野晶子の才能を見抜き、歌集『みだれ髪』の出版を支援。晩年にはパリを訪れ、ヨーロッパ各地を歴訪し帰国後、慶應義塾大学の教授としても多くの後進を育てた。
【文学の部屋|与謝野鉄幹】明治時代編.18New!!
26京都府
1791-1875を生きた歌人、陶芸家であり尼僧。度重なる家族の死を経験し、出家して蓮月尼と称する。和歌は上田秋成和らに学び、その才能は広く知られ、自分の歌をほりこんだ陶器蓮月焼は多くの人々の評判を集めた。晩年には幼少の富岡鉄斎に影響を与え、その後の作品に大きな影響を与えたとされる。
【文学の部屋|大田垣蓮月】江戸時代編.27
26京都府
1712-1774を生きた公卿であり歌人。柿本人麻呂や山部赤人の歌を理想とした和歌を目指し、宮廷歌会でその名声は響き渡り、霊元上皇から古今伝授を受け、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|冷泉為村】江戸時代編.8
26京都府
出生年不明-1283を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父、卜部兼顕の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。無常観をテーマにし、深い洞察と鋭い観察力で当時の社会や人間の本質を描き出した日本三大随筆の一つ「徒然草」の著者。晩年には出家し、兼好法師と号した。
【文学の部屋|卜部兼好】鎌倉時代編.6
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1263-1328を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父である藤原為家の影響を受け、和歌の道に進む。訪問先の鎌倉で歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして関東歌壇の発展に貢献した。母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|冷泉為相】鎌倉時代編.5
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1155-1216を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父である鴨長継の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。著書である「方丈記」は、日本三大随筆の一つとして無常観をテーマにした作品。「無名抄」は、和歌の技法や理論について論じた。 ※出生年を1155年とさせていただきます
【文学の部屋|鴨長明】鎌倉時代編.3
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1198-1275を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原定家の影響を受け、和歌の道に進む。続後撰和歌集、続古今和歌集の撰者として活躍。歌学書である「詠歌一体」を著し、和歌の技法や理論について論じている。冷泉為相の父であり、母は、十六夜日記の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|藤原為家】鎌倉時代編.2
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1149-1207を生きた政治家、僧侶であり、文学家。40年間にわたって書き綴った日記「玉葉」は、当時の政治や社会の状況を詳細に記録しており現在、当時を知る歴史資料となっている。また文学的才能は和歌でも発揮され、千載和歌集などの勅撰和歌集に収められている。藤原俊成、藤原定家ら当代の代表歌人の庇護者として大きな役割を果たした。征夷大将軍源頼朝誕生の立役者でもあり、摂政、氏長者、太政大臣。関白の要職を務めた。
【文学の部屋|九条兼実】鎌倉時代編.1
26京都府
1162-1241を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原俊成の指導を受け、その後「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり活躍した。また「源氏物語」などの古典の書写、校訂にも携わった功績を残している。
【文学の部屋|藤原定家】平安時代編.13
26京都府
1114-1204を生きた政治家、文学家であり歌人。九条の祖である兼実に和歌の師として迎えられ、その後「千載和歌集」の撰者として活躍した。「新古今和歌集」で活躍する実子の定家をはじめ多くの歌人を輩出したことでもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|藤原俊成】平安時代編.12
26京都府
1097-1164を生きた政治家、文学家であり歌人。25歳で関白となり、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇を支える。 詩歌にすぐれ、自然の雄大さを詠み、書は法性寺流と書家としてもその名を馳せた。
【文学の部屋|藤原忠通】平安時代編.11
26京都府
1118-1190を生きた武士、僧、文学家であり歌人。武士として鳥羽上皇に仕え、その後出家し、生涯の大半を奥州から九州の諸国を行脚し多くの和歌を詠んだ。花と月の歌がおおく、その独自の歌風は後の文学に影響を与えた。それらの作品は「新古今和歌集」などに数多く収められている。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|西行】平安時代編.10
26京都府
845-907を生きた文学家であり歌人、そして朝廷に仕えた官人。宮廷の歌合わせに出詠し、醍醐天皇の命をうけ「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、編纂に携わる。三十六歌仙のひとり。そして紀貫之の従兄弟でもある。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|紀友則】平安時代編.8
26京都府
870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】平安時代編.1
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1927-2013を生きた経営者であり実業家。1950(昭和25)年、22歳で株式会社丸福(任天堂の前身)を祖父より継ぎ社長に就任。花札やトランプに加え、1965(昭和40)年に「ウルトラハンド」が大ヒットし、任天堂は玩具事業に傾倒。1983(昭和58)年に家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売し、世界的な成功を収める。また、日本人初の大リーグチーム(シアトル・マリナーズ)のオーナーもつとめた。
【経営者の部屋|山内 溥】昭和時代編.39
26京都府
1869-1951を生きた経営者であり実業家。創業者である父より島津製作所を受け継ぎ、1895(明治28)年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見したのを受けて、X線の研究に着手し、翌年に日本国内初のX線写真の撮影に成功させた。1897(明治30)年に京都帝国大学からの注文を受けて鉛蓄電池を作製し、これが後に「GS(Genzo Shimazu)蓄電池」となる。その後、1909(明治42)年に国産初の医療用X線装置を開発し、X線技術の普及に大きく貢献を果たした。日本十大発明家のひとりに選ばれている。
【経営者の部屋|島津源蔵 (2代目)】明治時代編.74
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1864-1936を生きた化学者。帝国大学理科大学化学科を卒業後、ドイツライプツィヒ大学でオストワルド教授の下で研究を行い、帰国後、東京帝国大学教授となる。その後1908(明治41)年、昆布の出汁からグルタミン酸ナトリウムを単離し、甘味、酸味、塩味、苦味に次ぐ第五の味覚として「うま味」の成分であることを発見。その翌年には鈴木三郎助により「味の素」として商品化された。
【化学の部屋|池田菊苗】日本の化学者 明治時代編.1
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1858-1918を生きた経営者であり実業家。小学校教師を経て、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に就任。その後兄の羽室嘉右衛門と共に製糸工場「羽室組」を創業し、1896(明治29)年に郡是製絲株式会社(現、グンゼ株式会社)を創業。熱心なクリスチャンであり、女性工員の教育にも力を入れた。
【経営者の部屋|波多野鶴吉】明治時代編.69
26京都府
1914-1995を生きた経営者であり実業家。1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで三越の社長を務めた。三越の経営改革を推進し、百貨店業界の発展に大きく貢献。特に、店舗の近代化やサービスの向上に力を入れ、顧客満足度を高めた。彼のリーダーシップの下、三越は国内外での店舗展開を進め、ブランド力を強化した。
【経営者の部屋|岡田 茂】昭和時代編.24
26京都府
1910-1971を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設し、財を築き上げた。1939(昭和14)年に日本殖産工業を創設し、その後、社長に就任。1949(昭和24)年にリッカーミシンと改称し、一代で上場企業に育てた。浮世絵のコレクターとしても知られ、平木浮世絵財団に保管されている。
【経営者の部屋|平木信二】昭和時代編.23
26京都府
1867-1945を生きた経営者であり実業家。三井家総領家の婿養子となり、三井源右衛門を襲名、1894(明治27)年三井呉服店社長となった。その後三井物産、三井銀行社長を歴任した。蒐集した美術品は、現在も三井記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|三井高堅】明治時代編.51
26京都府
1865-1926を生きた経営者であり実業家。継承難を抱えていた住友家に養子入りし、別子銅山などの経営改革を進める。1900(明治33)年には住友総理事に就任、銀行業など事業拡大を積極的に行い、三井、三菱と並ぶ大財閥へと成長させた。公家出身であり、第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望を兄に持つ。
【経営者の部屋|住友友純】明治時代編.44
26京都府
1864-1926を生きた経営者であり実業家。京都で紙巻たばこ「サンライス」を製造を開始し、国産タバコの普及に尽力する。当時、横文字名の煙草として人気となり、ハイカラなライフスタイルを象徴する商品となった。同時期に東京で紙巻タバコ「天狗」を展開した岩谷松平と派手な宣伝合戦を繰り広げたことでも名を馳せた。その後、たばこの専売制移行により村井銀行を創立し,鉱山・石油業に進出している。
【経営者の部屋|村井吉兵衛】明治時代編.36
26京都府
1861-1924を生きた経営者、実業家であり政治家。京都瓦斯(ガス)会社の設立に関わり、京都市内へのガス供給を推進した。また京津電気軌道(京都と滋賀を結ぶ電気鉄道)の経営にも携わり、交通インフラの整備を通じて地域経済の発展、そして京都の産業発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|奥 繁三郎】明治時代編.34
26京都府
1842-1912を生きた経営者。丁稚奉公で仕事を学び、舶来雑貨の問屋「加賀文」を築き、西南戦争に端を発した物価暴落に目をつけて商品を買い占め、その後の景気回復で財を成した。その後従弟だった勝次郎がその後「加賀文」から「岩井商店」を興しその後の株式会社岩井商店となった。
【経営者の部屋|岩井文助】明治時代編.6
26京都府
1844-1913を生きた経営者であり実業家。洋装の流れと西南戦争の特需の波にのり、その後、第百三十銀行を設立。大阪麦酒など多くの企業設立に関わり、大阪財界を中心に活躍した。藤田伝三郎・田中市兵衛らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|松本重太郎】明治時代編.3
26京都府
1545-1596を生きた経営者。 桃山時代に活躍し徳川家康に仕え、京都を中心とした商家である茶屋の祖であり、その後茶屋四郎次郎は通称となる。 いらすとすてーしょんでは出生地を京都、出生年を1545年とさせていただきます。
【経営者の部屋|茶屋四郎次郎(初代 清延)】室町・桃山時代編.2
26京都府
1688-1748を生きた経営者。先代からの家業であった大文字屋を古着・呉服商で発展させ、正札つき現金販売を取り入れ、越後屋,白木屋とならび当時の大呉服店と称される百貨店大丸の礎を築いた。
【経営者の部屋|下村彦右衛門】江戸時代編.14
26京都府
1832-1903を生きた経営者。小野組の番頭として生糸取引に従事し頭角を顕す。明治7年小野組の経営破綻後、銅山を含む鉱山の買収を通じて独立事業を展開し、古河財閥の基礎を築いた。
【経営者の部屋|古河市兵衛】江戸時代編.12
26京都府
1831-1887を生きた経営者。京都豪商であった井筒屋8代目は、生糸販売,両替業などを営み、江戸時代を経て明治期初期には三井組、小野組とともに財政確立のために莫大な資金を調達、官金出納を扱った(明治7年には、島田組と共に経営破綻している)。また明治6年に渋沢栄一により創設された最古の銀行である第一国立銀行(第一銀行の前身)へ三井組の高福と共に大口出資を行った。
【経営者の部屋|小野善助】江戸時代編.5
26京都府
1700年代に活躍した経営者。京都、江戸、大阪で呉服商や両替商を営み、後の維新時島田組となる蛭子屋を創業し初代となった。江戸時代を経て明治期初期には三井組、小野組とともに財政確立のために莫大な資金を調達、官金出納を扱った(明治7年には、小野組と共に経営破綻している)。
【経営者の部屋|島田八郎左衛門(初代)】江戸時代編.2
26京都府
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
【医学の部屋|小石元俊】ビフォーアフターP.F.シーボルト編②
26京都府
1706-1762を生きた医学者。中国金元時代の医学からの脱却を目指した古方派筆頭の後藤艮山(1659~1733)に師事し、その後同派の大家となる。五臓六腑説に疑問を抱き、ついに1754年幕府の許可を得て日本初の人体解剖を行った。その記録は1759年「蔵志」にて著した。
【医学の部屋|山脇東洋】ビフォーアフター解体新書編①
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1627-1705を生きた儒学者であり古学古義学(堀川学派)の祖。後の傷寒論などの古典に立ち返る医学となる古方派に影響を与えた。山脇東洋もその一人であり、日本初の人体解剖につながる。その生涯は親族から医者になることを勧められるもそれを拒み、加えて儒学者が医者になることを強く非難するも、医者として活躍する多くの門人を抱え慕われた。
【医学の部屋|伊藤仁斎】江戸の儒学と医学④
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1837-1924を生きた絵師であり文人画家。国学、漢学、陽明学を学び西洋画以外の絵画技法を習得していたとされる。田能村直入らと日本南画協会を興し文人画の振興に尽力した。日本文人画における最後の代表画家とされている。
【画家の部屋|富岡鉄斎】最後の文人画巨匠
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1864-1942を生きた日本画家。明治33年渡欧。円山四条派で活躍していた幸野楳嶺 に師事。これに渡欧で学んだ西洋画法をとりいれて独自の画風を確立。その後京都画壇の中心となり上村松園、西山翠嶂,土田麦僊らを育成した。 代表作の獅子は円山四条派の画技に加えてコロー,ターナーのセピア調の写生的作品に仕上げている。
【画家の部屋|竹内栖鳳】動物の匂いまでも描く
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1652-1724を生きた絵師。父の仕事に付き添い江戸に出て、中橋狩野家(狩野安信)にて絵を学ぶ。岩佐又兵衛および菱川師宣の風俗画を好み、江戸庶民の粋な様を絵として残す。また松尾芭蕉らとの交流から俳諧にも通じていた。1698(元禄11)年島流しとなり約12年間三宅島へ流罪。この間に残した作品は島一蝶と呼ばれている。その後大赦にて江戸に戻り人気絵師英一蝶として数々の作品を手がけた。
【画家の部屋|英一蝶】江戸に愛された英派の祖
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1583-1638を生きた絵師。父(もしくは師)光吉とともに現、大阪ぬて土佐派画系の継承につとめ、土佐派を光吉より嗣ぐ。その後、息子の光起を伴い京都に移り土佐派復興につとめる。54帖総ての段を表した源氏物語画帖の絵は土佐光則の作と伝えられているが、その弟子たちによって完成されたとされている。 ※いらすとすてーしょんでは出生地を京都府とさせていただきます
【画家の部屋|土佐光則】土佐派再興に捧げた人生
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1752-1811を生きた絵師。与謝蕪村に俳諧や文人画を学び、その後円山派を創始した円山応挙の影響を受け、写生に開眼し軽妙洒脱な画風を創出。この新しい画風は師の応挙没後、さらに隆盛し、京都四条高倉を居としてた呉春をはじめ,呉春を頼る画家の多くが四条通りに集まっていたため,四条派と呼ばれるようになり、呉春はその四条派の祖と称される。
【画家の部屋|呉春】四条派の祖
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1733-1795を生きた絵師。狩野探幽の流れをくむ鶴沢派、石田幽汀の門下となり、その後出会う西洋画に魅せられ写実に傾倒した。その新しい写実に溢れた画風は京都の商人の目にとまり発展。多くの門下生が加わり円山派が形成される。この円山派で学び呉春の形成した四条派と併せて円山四条派と呼称される。
【画家の部屋|円山応挙】円山派の祖
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1607-1650を生きた絵師。狩野孝信の次男で探幽の弟は、兄探幽の築いた奥絵師の木挽(竹川)町家初代となり、絵の作成、修理、鑑定、教育、後継者育成といった江戸幕府における画壇の中心的な役割を担った。
【画家の部屋|狩野尚信】奥絵師木挽町家初代
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1602-1674を生きた絵師。徳川政権樹立以降、それまで活動していた京から江戸に活動の拠点を移し江戸狩野を創始。狩野派を象徴す祖父でもあった永徳の大画様式から一転し、余白を生かした瀟洒で端正な新様式で江戸狩野様式を確立。それ以後の江戸狩野派の規範として受け継がれていく。また幕府の権力機構に相応して派の組織改革にの臨み、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と階層組織ををつくり、幕府内での狩野派の地位を不動のものとした。
【画家の部屋|狩野探幽】江戸狩野の祖
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1519-1592を生きた漢画絵師。狩野派二代目狩野元信の三男は、兄 祐雪,秀頼の早世により家督を継承。1563(永禄6)年「涅槃図(大徳寺)」1566(永禄9)年に長男 永徳と共に制作した「山水図、虎豹猿図、四季花鳥図屛風(大徳寺聚光院)」を描いた。父 元信の筆を引き継ぎ、それをさらに平明化し,その作品は柔らく優しさを感じさせるタッチで描かれている。
【画家の部屋|狩野松栄】狩野永徳の父
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870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】日記文学の祖
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1415-1499を生きた僧は本願寺8世。宗祖親鸞以来衰退の危機にあった浄土真宗を1代で現在の続く教団の礎を築いたことから本願寺の中興の祖として称されている。
【探究ネタ】「蓮如」日本の宗教に携われた人々
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1882-1955を生きた日本における内陸アジア(東洋史)研究の第一人者であり京都帝国大学総長は、太平洋戦争の最中、学徒出陣に対して当時の内閣に猶予を求める活動を帝国大学総長として牽引するも学生を戦火に送る苦渋の選択を受け入れる。
【歴史学の部屋|羽田 亨】学徒出陣と戦った京大総長
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1888-1955を生きた京都府出身の画家は時は昭和初期、洋画界の一時代を築いた二人の天才画壇、梅原龍三郎と安井曾太郎。具象画の登竜門「安井賞展」の生みの親でありデッサンの神様のそのスタイルは「安井様式」独自の表現方法を確立した。
【画家の部屋|安井曾太郎】素描の天才・デッサンの神様
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1669-1736を生きた国学の祖は稲荷神官の子として和学をはじめとする古典・国史研究の環境に育ち、学びを深め国学の分野を確立。その成果を当時、儒学のみであった江戸幕府に国学の必要性を訴え、その後発展を遂げていく。
【国学者|荷田春満 Azumamaro Kadano】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人
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1583-1657を生きた日本朱子学の祖は、儒学の祖藤原惺窩を師事しその才能を開化、師の薦めにより徳川家康より4代家綱まで将軍に仕え侍講(君主の学問教育)となる。
【儒学・朱子学|林 羅山 Razan Hayashi】日本朱子学の祖
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1876-1948を生きた浄土真宗本願寺派本願寺(西)22世門主。その後中央アジア3次探検隊(大谷探検隊)として歴訪。
【探究ネタ】「大谷光瑞」日本の宗教に携われた人々
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1905-2004を生きた井上流、井上八千代(四世家元 四代目) は寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始し、約二世紀の歴史を持つ祇園甲部の正式唯一の流派。京都の年中行事「都をどり」を1872年より開催。
【音楽の部屋|井上八千代(四世家元 四代目)】4月の風物詩「京都をどり」を支えた井上流家元
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1883-1959を生きた陶芸や篆刻、書道など芸術を通じた文化人として名を馳せ、美食家でもあった。
【陶芸家の部屋|北大路魯山人】美食家の行き着く先は作陶だった
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1897-1984を生きた陶芸家は呈色剤を含む軟らかい磁土を、何度となく器の表面に塗り重ね、レリーフのように盛り上がった文様をつくりだす技法陶技「彩埏(えん)」を考案
【陶芸家の部屋|楠部彌弌】無限をテーマにアジアの技法を作陶へ
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1600-1650を生きた徳川家康9男は、地元尾張藩の地盤固めのため築城した名古屋城に徳川家康が死去後入城し尾張藩初代藩主となる。
【探究ネタ】「徳川義直」父、徳川家康の意思を継ぐ初代尾張徳川家
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1875-1949を生きた京都府出身の日本画家は明治の女性が画家を志すなど、世間で認められる時代ではなかったが、母仲子は松園の画家としての才能を理解し支え続けた。1948年女性初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。
【画家の部屋|上村松園】西の美人画家代表
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1933-1997を生きた日本を代表する映画監督は遅咲きの51歳デビュー。代表作は「お葬式」「マルサの女」
【銀幕へようこそ】「伊丹十三」遅咲きでも新鮮 映画監督の部屋
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1849-1940を生きた第12・14代内閣総理大臣
【内閣総理大臣の部屋|西園寺公望】第12・14代(通算在職日数1400日)
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1706-1762を生きた日本における解剖学の祖、日本において人体解剖を幕府の許可を得て実施
【医学の部屋|山脇東洋】日本解剖学の祖
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1200-1253を生きた曹洞宗の開祖であり日本の禅における思想を確立した一人とされています
【探究ネタ】「道元」日本の宗教に携われた人々
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1173-1263を生きた浄土真宗の宗祖。法然を師と仰ぎ、本願念仏へ入道。
【探究ネタ】「親鸞」日本の宗教に携われた人々
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1155-1225を生きた天台宗座主。百人一首のうたいびとの一人であり、歴史書「愚管抄」にて源平の戦いを著した。
【探究ネタ】「慈円」日本の宗教に携われた人々
26京都府
1121-1206を生きた平安末期から鎌倉初期の入宗僧、東大寺復興を遂げる。
【探究ネタ】「重源」日本の宗教に携われた人々
26京都府
700年代生きた奈良時代の僧であり、鹿島神宮寺をはじめ数々の寺社仏閣を建立
【探究ネタ】「万巻」日本の宗教に携われた人々
26京都府
1888-1986を生きた京都府出身の日本洋画家は京都府出身 1888-1986 渡仏時に印象派の巨匠ルノワールに感化され、帰国後ルノワールの名声を広めるきっかけをつくり生涯師事する。またあらゆる絵画について研究熱心であり、その技法を自身の作風に活かし日本洋画界を牽引した。
【画家の部屋|梅原龍三郎 Ryusaburo Umehara】色彩感覚はピカソ越え!?
26京都府
1907-1978を生きた京都府出身の戦後を代表する文芸評論家は戦後間も無く話題作となる「島崎藤村」を刊行。それ以降“政治と文学論争”、“芸術と実生活”“純文学論争”などを展開し、独特の評論をする。1955年から「毎日新聞」文芸時評を担当。明治大学教授も歴任した。
【ジャーナリストの部屋|平野 謙 】この人にかかったら… 文芸評論家
26京都府
1053-1140を生きた京都府?出身の高僧そして画家。日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、京都高山寺の鳥獣戯画はそのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。
【画家の部屋|鳥羽僧正 Toba Sojo (覚猷 Kakuyu)】知ってた?漫画原点の作者って

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0039イタリア共和国出身
1525-1594を生きた作曲家。ルターの唱えた宗教改革以降、伝統か改革かを迫られたローマ・カトリック教会音楽。その高位聖職者の心を掴んむ歌詞を重視したポリフォニーでカトリック宗教音楽界の頂点に達した。晩年には最高傑作と称えられるCanticum Canticorum を1584年に完成させた。モテットをベースに当時の権力者であったローマ教皇への進言でもあったとされる作品とされる。
【音楽の部屋|パレストリーナ】ポリフォニー作曲の巨匠
0034スペイン王国出身
1582-1643を生きた作曲家。独自のポリフォニーをスペインバレンシアに開花させ、ミゼレーレ(Psalm 51)を18声以上で書き上げた。スペイン伝統のフラメンコにおける2つのパートで構成されていたビジャンシーコを3つのパートで構成する画期的な変革をおこなったことでもその名を残している。
【音楽の部屋|コメス】ビジャンシーコに変革をもたらした作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1585-1672を生きた作曲家。留学先のヴェネツィア楽派ジョヴァンニ・ガブリエリに師事、帰国後宮廷音楽の発展に尽力した。ドイツ語で表現したPsalmen Davidsを1619年に発表。ヴェネツィア楽派由来の豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させたことは特筆する偉業であった。またドイツにおける最初のオペラと伝わるシュッツ作のダフネはオペラと呼べる作品であったかについて現在検証されている。
【音楽の部屋|シュッツ】大バッハへ繋ぐドイツ音楽の父
0039イタリア共和国出身
1583-1643を生きた作曲家。サン・ピエトロ大聖堂オルガニストとして生涯活躍し、新たなカンツォーナやトッカータを表現し、初期バロック音楽の草分けとなる。フレスコバルディを師と仰いだフローベルガー(1616-1667)の流れを南ドイツ・オルガン楽派と呼ばれている。
【音楽の部屋|フレスコバルディ】南ドイツ・オルガン楽派の祖
0049ドイツ連邦共和国出身
1571-1621を生きた作曲家。著書Syntagma musicum(音楽大全は3巻(当初は全4巻の予定と伝わっています)を発行した最古の音楽事典とされ,その第2巻は当時の楽器についての記述があり当時の貴重な資料となっている。1612年に発表した300以上の舞曲を編曲した「Terpsichore」はフランスを中心としたダンスミュージックに用いられていたと考えらている。
【音楽の部屋|プレトリウス】学者肌の作曲家
0041スイス連邦出身
1486-1542を生きた作曲家。フランドル楽派第2期に活躍した巨匠ハインリヒ・イザークに学び、中世ドイツの旋律や和声法を取り入れた多声歌曲で多くの作品を残した。フランドル楽派とドイツ音楽の融合した作曲活動は後のルネサンス期音楽に大きな軌跡を残した。
【音楽の部屋|ゼンフル】フランドル楽派とドイツ音楽の融合
0039イタリア共和国出身
1567-1643を生きた作曲家。ルネサンス音楽からのバロック音楽の時代を作り上げる。伝統あるサン・マルコ大聖堂の楽長を1602年よりつとめ、1607年に初演されたオルフェオを作曲し注目を集め、バロック時代のオペラ到来となる。モンテヴェルディの最高傑作であり、バロックオペラを代表するオペラポッペーアの戴冠は今でも人々を魅了する演目となっている。
【音楽の部屋|モンテヴェルディ】オペラを開花させた作曲家
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1562-1621を生きた作曲家。フランドル楽派最後の巨匠と位置付けられており、詩篇やモテットなど数多くの作品を残した。またオランダ国内にとどまらず、北ヨーロッパにその名を響かせ、特に多くのドイツ人オルガン奏者を育て上げた功績により「ドイツのオルガニスト育成の父」と称されている。また単一主題と三部構成から成るファンタジアは、のちのバロック期に人気を博したフーガへ発展したとされる。
【音楽の部屋|スウェーリンク】フランドル楽派最後の巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1562-1612を生きた作曲家。ヴェネツィアでウィラートに師事してたガブリエリにから音楽を学び、その後アウクスブルク、ニュルンベルク、ドレスデンで活動。ヴェネツィア楽派のスタイルに独自の音楽スタイルを築き上げた。ルネサンス後期のドイツ音楽をリードした一人。
【音楽の部屋|ハスラー】母国に捧げるドイツ音楽
0044英国出身
1562-1628を生きた作曲家。エリザベス1世らに仕えオルガニストとして活躍。特に鍵盤楽器のための作品を多く残した。その一方でブルの生涯には謎が多くまとわりつく。その謎は女王陛下のためのスパイ活動を行っていたのではとの憶測も広がっている。そして1613年母国英国を離れその後、アントワープ大聖堂のオルガニストとして活躍した。
【音楽の部屋|ブル】謎めく作曲家
0039イタリア共和国出身
1553-1599を生きた作曲家。イタリア・ルネサンス期における宗教音楽が中心だったローマやベネチアと一線を画した、世俗音楽としてマドリガーレ作曲家として特に活躍する。その作品は美しい旋律や感情豊かな表現で人々を魅了した。
【音楽の部屋|マレンツィオ】伊出身・後期マドリガーレの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1559-1625を生きた作曲家であり音楽理論家。アウグスブルクの聖ウルリッヒと聖アフラの修道院で音楽を学び、キリスト教音楽の指導者カントルをつとめた。その後音楽理論を論文として「Compendium musicae」を 1591 年に執筆。1681年までに13 版ヨーロッパ全土で教科書として発行されて、その影響は偉大であったとされている。
【音楽の部屋|グンペルツハイマー】対立を回避させた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1553-1611を生きた作曲家。教会少年合唱団からラッソ率いるバイエルン宮廷楽団の団員となり師事する。その後ヴェネツィアではメルーロにも師事した。ケーニヒスベルクとベルリンの宮廷楽長として約250の宗教音楽などを中心に作曲しました。彼は初期バロック・プロテスタント教会音楽の発展に活躍した。
【音楽の部屋|エッカルト】プロテスタント教会音楽の巨匠
0039イタリア共和国出身
c.1550-1605を生きた作曲家。宗教音楽やマドリガーレでルネサンス期に活躍し、特にマドリガルコメディの分野でその名を刻み音楽劇の先駆けとなった。その作品「L'Amfiparnaso」は1597年ヴェネツィアで出版された。このマドリガルコメディは見て楽しむものではなく、聴く喜劇であると考えられている。
【音楽の部屋|ヴェッキ】音楽劇の先駆け作曲家
0034スペイン王国出身
1528-1599を生きたスペインの宗教音楽の黄金時代を代表する作曲家。ルネサンス期からバロック期にかけてスペインのアンダルシア地方で活動したアンダルシア楽派(Escuela Andaluza)の一人。宗教音楽だけではく、世俗的な音楽(歌曲や器楽曲)も残す。
【音楽の部屋|ゲレーロ】アンダルシア楽派の一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1581-1634を生きた作曲家でありオルガニスト。ニュルンベルクでもっとも古い教区教会の聖ゼーバルト教会でオルガニストを生涯つとめた。さまざまなスタイルのモテットを作曲し17世紀を代表するニュルンベルク楽派の創設者とも称される。
【音楽の部屋|シュターデン】ニュルンベルク楽派の創設者
0049ドイツ連邦共和国出身
1494-1576を生きた詩、音楽を教示するマイスターシンガーであり、本職は靴職人。マルティン・ルターの宗教改革に賛同し、ドイツ語で書いたDie Wittenbergisch Nachtigallは、当時の宗教的な議論や出来事を風刺的に描写し後押しとなる作品となった。後にリヒャルト・ワーグナーはハンスを主人公として楽劇"ニュルンベルクのマイスタージンガー"を作曲している。
【音楽の部屋|ザックス】マイスターシンガー筆頭
0039イタリア共和国出身
c.1377-1445を生きた作曲家であり詩人。恋人の夜明けの別れの嘆きをテーマとした"ターゲリート"のジャンルで活動を行う。独自のスタイルでその作曲数は100編以上と伝わる。その作風は、愛の成就、時折別れや悲哀の描写を織り交ぜ、その豊かな表現力は詩人としての一面も。15世紀の音楽と文学史にその名を残している。
【音楽の部屋|ヴォルケンシュタイン】後朝の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1483-1546を生きた神学者であり作曲家。教皇の教義・権威によらないキリスト教信仰の自由や聖書に書かれている教えを信奉することを唱え、95ヶ条の論題を教会のドアに掲示して宗教改革を行う。その改革の一つとして、それまでラテン語であった教会音楽を母国語の歌詞に翻訳し、聖書の言葉を理解しやすい言語で歌い、賛美すること目指しプロテスタント音楽の礎を築く。
【音楽の部屋|ルター】母国語で行った宗教改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1488-1548を生きた作曲家であり印刷技術者。トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)のキリスト教音楽指導者として活動した。宗教改革指導者であったマルティン・ルターを支持しルター派楽譜の普及に尽力する。またラウは印刷業も営み、楽譜印刷を通じて幅広くプロテスタント教会音楽の発展に寄与した。
【音楽の部屋|ラウ】作曲家であり印刷業者
0032ベルギー王国出身
1532-1594を生きたその美声から幼少期に誘拐の逸話が残るほどの作曲家。ヨーロッパ各地で活動し、ミラノやナポリで経験を積む。その後ミュンヘン宮廷楽団長となり終身活躍した。ミサ曲やモテトゥス、マドリガーレなど2000曲以上の多彩な作品を残し、宗教曲ではルネサンス様式と劇的な表現の作風。特にミュンヘン宮廷でのアルブレヒト5世公と深い親交と相まって、ヨーロッパ中でそのラッソの音楽は高く評価された。アルブレヒト5世公が門外不出とした「7つの悔悛詩篇曲集」があり現在もなお語り継がれている。
【音楽の部屋|ラッソ】バイエルン公に認められた作曲家
0032ベルギー王国出身
1521-1603を生きた作曲家。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とその後継者ルドルフ2世時の宮廷音楽家としてその名を馳せた。そしてマドリガーレ後期のマドリガル作曲を司り、当時最も多くの作品を残した。その数は1100曲以上とも伝わっている。
【音楽の部屋|モンテ】後期マドリガーレの巨匠
0032ベルギー王国出身
1515-1565を生きた作曲家。音楽家としての才能を発揮するためイタリアへ渡り当時のサン・マルコ大聖堂楽長であったウィラートに師事し研鑽を積み、その後ウィラートを継ぎ同聖堂の楽長となった。特にルネサンス期のマドリガーレの分野でその名を響かせた。 ※出生年を1515年、出生地をベルギーとさせていただきます
【音楽の部屋|ローレ】中後期マドリガーレの巨匠
0039イタリア共和国出身
1517-1590を生きた作曲家であり音楽理論研究者。キオッジャ大聖堂で楽団員となりその後同聖堂のオルガニス、そしてサン・マルコ寺院の当時の楽団長エイドリアン・ウィラートに師事。その後1565 年より同寺院の楽長を終身つとめる。1558年にLe istitutioni harmonicheを著したことで西洋の数学的音楽理論の展開を進め16世紀最大の音楽理論家と称されている。
【音楽の部屋|ツァルリーノ】数学的音楽理論を提唱
0034スペイン王国出身
c.1500-1553を生きたルネサンス期の作曲家。アビラやプラセンシアの大聖堂での楽長として活躍し、その後パウルス3世の治めるローマ教皇庁聖歌隊歌手として活動。時代を反映した宗教曲を数多く残し当時のヨーロッパ音楽に影響を与えた。
【音楽の部屋|モラーレス】スペイン宗教音楽史を刻む作曲家
0039イタリア共和国出身
1533-1604を生きた作曲家兼オルガニスト。1556年にブレシア大聖堂、その後サン・マルコ大聖堂のオルガニストに就任し、30年以上にわたり作曲と演奏で活躍した。また多くの優れた後継者を育て、楽譜の出版も手がける。その偉業はベネチアの音楽文化に大きな影響を与えた。
【音楽の部屋|メールロ】オルガニスト伊の巨匠
0044英国出身
1543-1623を生きた作曲家。カトリック信仰であるバードは、プロテスタントを信仰するエリザベス1世の絶大な信頼を享受し宮廷楽団(チャペル・ロイヤル)としてオルガニストとして、またイギリス国教会のための宗教音楽、マドリガル、コンソート伴奏付き歌曲、室内楽、バージナル音楽、と当時のすべての音楽シーンで活躍した。その偉大さから英国における"音楽の父"と称される。
【音楽の部屋|バード】エリザベス1世に捧げた音楽人生
0033フランス共和国出身
1528-1600を生きたルネサンス期の作曲家。Musique mesurée(フランスの声楽作曲のスタイル)を発展させ、詩の韻律的な律動とリズムを結びつける新しい表現技法を開拓。その結果、クレメン・ジャネランが築き上げたシャンソンをさらに進化させ、新たな音楽的表現を確立。この功績はフランス音楽史に大きな足跡を刻みました。
【音楽の部屋|ル・ジュヌ】シャンソンを発展させた作曲家
0043オーストリア共和国出身
1459-1537を生きた作曲家でありオルガニスト。オーストリア宮廷、神聖ローマ帝国の宮廷で天才オルガニストとして名声を築いた。オルガニストとしてオルガンのための作品を多く手がけ、その才能はヨーロッパ全土に広がっていた。
【音楽の部屋|ホーフハイマー】偉大なオルガニスト
0032ベルギー王国出身
c.1450-1521を生きたフランス・フランドル楽派の作曲家であり、ルネサンス音楽期に活躍。対位法の巧妙な技術を用いて、旋律の美しさ、複雑さ、そして感情豊かな表現を特徴としている。ジョスカンの作曲が世に広まった背景の一つとして印刷技術の発展があり、それまで書写であった楽譜がペトルッチなどの印刷業者によって印刷した楽譜を出版可能となり、1502年にはジョスカンのミサ曲集が出版されている。
【音楽の部屋|ジョスカン】世界初出版された作曲家
0032ベルギー王国出身
c.1490-1562を生きたヴェネツィア楽派の作曲家。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長となり終生この職を務めた.宗教曲を中心に,器楽曲など多くの曲を残す。その代表モテット作品は「O magnum mysterium」でテクスチュアルな豊かさを放っている。
【音楽の部屋|ウィラート】ヴェネツィア楽派の祖
01北海道
1917-1996を生きた歌手。上京後頼る親戚の不渡りにより芸妓の道へ。浅草で清元を延千嘉、小唄を春日とよ、民謡を菊池淡水に学び、1934(昭和9)年3月より日東蓄音器(ニットーレコード、現:日本マーキュリー)専属歌手となり同年6月10日「水兵ぶし」などでラヂオデビュー。1937(昭和12年)年公開映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌として、同名曲と共に発売された「あゝそれなのに」が90万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手に上り詰める。 戦後は女剣劇四天王のひとり、中野弘子とコンビを組み競演。 ※水兵ぶしは、美ち奴、塩原秩峰のデュオ ※女剣劇四天王 不二洋子、大江美智子、浅香光代、中野弘子
【音楽の部屋|美ち奴】私も売れっ子鶯歌手
34広島県
1915-2011を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝大)卒業後、1年間教職につくが、その美声を買われ1936(昭和11)年にコロムビアより「愛の揺籃」でデビュー。その後「古き花園」「純情の丘」「新妻鏡」などのヒット曲を歌う。戦後、美しい低音で歌う「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「別れても」など数多くのヒット曲を出し戦前戦後と活躍。その歌唱力から「歌謡界の女王」と呼ばれた。終戦の年、慰問で広島を訪れ、8月6日帰りの列車(芸備線)がトンネルに入ったところで原爆が落ち、九死に一生を得た。本来は女の未練歌「フランチェスカの鐘」を鎮魂歌として歌った。
【音楽の部屋|二葉あき子】人柄宿る歌声
14神奈川県
1910-1999を生きた歌手。オペラ歌手を目指し、その後歌謡界に転身。列強日本色濃くなった1936(昭和11)年、「忘れちゃいやヨ」が発禁処分になり、日中戦争の翌年となる1938(昭和13)年にも「支那の夜」が検閲当局に指摘される。しかし日本兵士に圧倒的な支持を得て大ヒット。その後「蘇州夜曲」も大ヒットし李香蘭と人気を二分する国民的歌手となる。戦後の1952(昭和27)年、フィリピンのマニラ市郊外モンテンルパに抑留されていた日本人との交流によって生まれた「ああモンテンルパの夜は更けて」がレコード化され、大きな感動を呼ぶ。NHK紅白歌合戦第1回(1951年)紅組初代トリを戦後の大ヒット曲「桑港のチャイナ街」つとめた。
【音楽の部屋|渡辺はま子】激動昭和の歌姫
13東京都
1906-1976を生きた歌手。1933(昭和8)年、主婦の座からコロムビアに入社。「船頭可愛や」「下田夜曲」 「博多夜船」などのヒット曲を連発し小唄勝太郎などに並ぶ人気歌手となる。戦後、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である「五木の子守唄」は全国にその名が響いた。これは音丸が現地で見出したとされ古関裕而が採譜、音丸によってキングレコードよりレコード化された。
【音楽の部屋|音丸】主婦から人気歌手へ
15新潟県
1904-1974を生きた歌手であり葭町花街芸者。芸者姿で戦前の歌謡界に一時代を築く。1932(昭和7)年独特の節回し♪ハア〜で始まる「島の娘」は空前の大ヒット。そして33(昭和8)年夏にその前年に発売された都会的な盆踊り曲「丸の内音頭」に手を加えた「東京音頭」を三島一声とのデュエットで発売。その後、またなく間に全国に広がり。盆踊りといえば東京音頭と日本の盆踊りシーン定着。それまでの妓籍から一線を画し、小唄不二派の家元として小唄勝太郎が誕生した。
【音楽の部屋|小唄勝太郎】音頭ブームの火付け役
13東京都
1906-1981を生きた音楽家。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)1928(昭和3)年首席卒業。柳宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、ドイツ人声楽家のネトケ・レーヴェに師事。この時皇后陛下の前でのベートーベンの荘厳ミサをアルト独唱者として抜擢される。その後歌謡界でも活躍し「銀座の柳」は大ヒットとなる。また「美しい日本語で歌われる香り高い日本の歌を人々の中に波のように広げよう」という運動を起こし、国語学者の金田一春彦らに呼びかけて「波の会」を結成。現在の日本歌曲振興波の会となっている。 明治時代の初めに銀座の名物であったヤナギは、関東大震災で焼失するも佐藤千夜子の唄う「東京行進曲」に続き四家歌う大ヒット曲「銀座の柳」で復活を果たした。
【音楽の部屋|四家文子】昭和の声楽界大御所
01北海道
1911-1984を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)卒業、その後覆面歌手「ミス・コロムビア」として1933(昭和8)年浮草の唄でデビュー。同年松竹蒲田映画「十九の春」の主題歌を大ヒットさせコロムビアの看板歌手となる。その後生涯と共にするデビューまもない霧島昇と松竹映画「愛染かつら」の主題歌旅の夜風をカップリングし黄金期を迎えた。
【音楽の部屋|松原 操】覆面歌手ミス・コロムビア
02青森県
1907-1999を生きた歌手。日本のシャンソン界を先導した。愛称は「ブルースの女王」。当初ピアノ科であったが、その声に魅せられた白銀のソプラノと讃えられて荻野綾子に薦められ、声楽科に転入し1929年東京音楽学校(現、東京音楽大学)首席で卒業。その歌声は10年に一度のソプラノと話題をさらった。1937年服部良一作曲の別れのブルースが空前の大ヒット。その後も雨のブルース、東京ブルースと、ヒット曲を連発しブルースの女王の地位を確立した。永遠のモダンボーイの異名ももつディック・ミネを歌手として見出したことでも知られている。
【音楽の部屋|淡谷のり子】ブルースの女王はシャンソンの母
13東京都
1919-1981を生きた歌手。作曲家大村能章に弟子入りし、声楽を歌手四家文子の指導を仰いだ。戦後難関とされたビクターの新人歌手オーディションに合格し、その後歌手デビュー。1947年「港が見える丘」が大ヒット。またこれを受けて横浜を代表する公園「港の見える丘公園」が1962年5月に開園。園内には歌碑も設置されている。日本都市公園100選に選ばれている。その歌声は濡れたビロウド(魅惑の低音ボイス)と称されている。
【音楽の部屋|平野愛子】港が見える丘♪が由来!?
37香川県
1914-1985を生きた歌手であり俳優。不合格となった宝塚音楽歌劇学校を諦め、現在の日本歌劇学校の前身であった松竹楽劇部生徒養成所に入る。芸名を三笠静子とし1927年初舞台を踏んだ。その後、改称された大阪松竹少女歌劇(OSSK)の第一回公演「カイエ・ダムール」の主題歌として「恋のステップ」をリリース。その歌唱力とダンスで世間を圧巻した。戦後、戦前からシズ子の才能を認めていた服部良一作曲の「東京ブギウギ」が戦後日本において大ヒットとなり、ブギウギブームを巻き起こした。ブギとつく曲は全16曲を数え「ブギの女王」と称された。2023年秋放送の朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で描かれる。 ※1987年同じくNHKで放映された銀河テレビ小説「わが歌ブギウギ」でも同モデルとして描かれている。
【音楽の部屋|笠置シヅ子】美空ひばりを魅了したシンガー
07福島県
1910-1910を生きた歌手はピアニストの夢を諦めずに、上京後音楽学校編入。コロンビアレコードの所属し1933年デビューを果たす。その後戦火にあわせて軍歌を数々ヒットさせた。戦後は戦前からの同郷の友、古関裕而作曲「イヨマンテの夜」が大ヒット、高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」も古関裕而作曲で1948年に発売している。
【音楽の部屋|伊藤久男】エールに栄冠は君に輝く贈る
28兵庫県
1911-1998を生きた松竹京都撮影所の銀幕スターはその美声で「大江戸出世小唄」を大ヒットさせ歌手デビュー。"歌う映画スター”と称された。戦後はシリーズ「伝七捕物帖」で人気復活を果たす。
【音楽の部屋|高田浩吉】歌う銀幕俳優
36徳島県
1908-1991を生きた歌手はブルースの女王淡谷のり子に見出され、1935年「ダイナ」を大ヒットさせ、和製ジャスの草分け的存在となる。戦後も芸能界で活躍しその分野の親分的存在であった。脚本家ジェームス三木の名付け親でもある。
【音楽の部屋|ディック・ミネ】永遠のモダンボーイ
05秋田県
1908-1944を生きた歌手はサラリーマンを経て当時レコード歌謡人気で勢いのあった日本ポリドールに入社。ポスト東海林太郎と期待され1936年デビューを果たし人気歌手となる。1938年"上海だより"の歌いだし「拝啓 御無沙汰しましたが」は戦争の色濃くなる日本において東海林太郎を上回るヒットとなり当時の流行語にもなる。その後召集され35歳で戦死。
【音楽の部屋|上原 敏】エースの歌声は拝啓ご無沙汰
14神奈川県
1903-1942を生きた歌手は家業の医院を継ぐため医師を目指すも東京音楽学校に進学、音楽校教員からビクター専属歌手となり侍ニッポンが大ヒット。その後の♪とんとんとんからりん…と歌いだしの"隣組"はドリフの大爆笑のオープニング曲の原曲であり、CMソング替え歌としても採用され今耳にしても新鮮。声楽家(Bariton)としても活躍。
【音楽の部屋|徳山 璉】♪ド・ド・ドリフは私の曲
05秋田県
1898-1972を生きた遅咲きの歌手は大学卒業後、満州鉄道入社。その後夢であった歌手を目指しクラシック歌手としてデビュー。その後戦果の色濃くなる時と同じくしてヒット歌謡曲を連発し国民人気歌手の座を射止める。戦後は癌を患い闘病しながらも直立不動の姿勢、独特の髪型、特徴的なロイド眼鏡は健在、歌謡界初の紫綬褒章受賞をはたした。
【音楽の部屋|東海林太郎】その歌う姿は直立不動
0039イタリア共和国出身
1813-1901を生きたイタリアオペラ作曲家。自身3作目となる演目ナブッコの斬新的な旋律でまずはミラノ市民を魅了、その後イタリア統一運動の機運と相まってイタリア全土に支持され象徴的存在になる。このナブッコの第3幕2場で歌われる「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は第二のイタリア国歌と位置付けられ、その作者であるヴェルディはオペラ王と今も称えられている。
【音楽の部屋|ジュゼッペ・ヴェルディ】イタリア全国民の心に響く"Va, pensiero, sull'ali dorate"
0039イタリア共和国出身
1858-1924を生きたイタリアオペラ作曲家はテーマを人間をリアリズムを表現する作風。一度耳にすると口ずさむことのできる旋律で聴衆を魅了。未完でありながら代表作として名を馳せるトゥーランドッドの初回公演を指揮した生涯の右腕トスカニーニの指揮棒を落とす名場面はいまでもプッチーニの偉大さを象徴。
【音楽の部屋|ジャコモ・プッチーニ】一度耳にするとリフレインするイタリアオペラ作曲家
0039イタリア共和国出身
1792-1868を生きた初期ロマン派時代のオペラ界をリードした売れっ子作曲家。作曲の特徴は同じフレーズを徐々に音量を増やしながら繰り返し聴衆を魅了する。また彼の名を世界に今もなお響かせているのは美食家としての一面。特にフォアグラやトリュフを組み合わせた料理はロッシーニ風として今も食卓を彩っている。
【音楽の部屋|ジョアキーノ・ロッシーニ】作曲家と美食家どっちが有名?
0039イタリア共和国出身
1466-1532を生きた音楽家はリローネ(弦14本のヨーロッパ古楽器)の発明者。レオナルドダビンチを師と仰ぎ、リュート(有棹撥弦楽器)のスペシャリストとして活躍。またその歌声はルネッサンス期最高の歌唱力と称された。 20世紀に入りレオナルドの描いた肖像画(Portrait of a Musician)はミリオロッティとされています。
【音楽の部屋|アタランテ・ミリオロッティ】私の師はレオナルド
0039イタリア共和国出身
1750-1825を生きたイタリア出身のウィーン宮廷楽長は師であり親代わりの当時の宮廷楽長ガスマンに学び、その後ベートーヴェン、シューベルトといった世界的な音楽家を育てる音楽教育家としても名を残した。
【音楽の部屋|アントニオ・サリエリ】知られざる天才イタリア作曲家
0043オーストリア共和国出身
1736-1809を生きた古典派音楽の作曲家であり音楽教育者は親交のあった交響曲の父フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの依頼によりベートーヴェンの師となる。音楽を理論的思考で捉えていることから、ハイドンは作曲のベストティーチャーと称える。
【音楽の部屋|アルブレヒツベルガー】ベートーベンの師はベストティーチャー
0043オーストリア共和国出身
1756-1791を生きた古典派音楽の天才作曲家は35歳で早世。父レオポルドの英才教育を受け、その才能をさらに開花。そして古典派音楽(交響曲)の父と称されたフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとの出会いによって古典派音楽は絶頂期を迎える。
【音楽の部屋|モーツァルト】まさに天才作曲家
0043オーストリア共和国出身
1732-1809を生きた圧倒的な演奏時間と作曲数で交響曲の父と称される作曲家は、音楽が階級の高い人たちだけのものだった時代(バロック)から、市民にも手に届く時代(古典派)に活躍。そして楽曲形式のひとつ「ソナタ形式」を確立。
【音楽の部屋|ハイドン】市民による市民のための音楽をつくりました
0043オーストリア共和国出身
1908-1989を生きた20世紀世界を魅了した指揮者。解釈された音楽に対して演奏者一人一人の能力を最大限に引き出し、そしてその能力を調和させる卓越したリーダー的要素に加えて、その彼の存在自体がゲストのみならず開場一体を虜にする絶対的なカリスマ性で今もその人気は衰えず。
【音楽の部屋|カラヤン】孤高の指揮者・20世紀クラシック界の帝王
0001アメリカ合衆国出身
1901-1971を生きた「キング・オブ・ジャス」と称されたジャズトランペット演奏者。ニューオリンズ発祥のアフリカ系アメリカ人音楽だったジャズを世界に広げ存在感を高めた。その功績は人種の垣根を乗り越えるダイバーシティ先駆者でもあった。
【音楽の部屋|ルイ・アームストロング】King of Jazz Satchmo!!
0001アメリカ合衆国出身
1898-1937を生きた20世紀のアメリカ音楽史最も名を馳せた作曲家。初のクラシック作曲作品「ラプソディ・イン・ブルー」はアメリカで進化したジャズとヨーロッパ伝統のクラシックを化学反応させたアメリカンミュージックを確立。1935年に発表したオペラ「ポギーとベス」はいまも人気作品のひとつ。
【音楽の部屋|ジョージ・ガーシュウィン】アメリカンミュージックの生みの親
0001アメリカ合衆国出身
1927- を生きる屈指のソプラノ・リリコ・スピント歌手。メトロポリタン・オペラで初のアフリカ系アメリカ人として主演を演じた実力者はアメリカ文化に貢献した人に送られるケネディ・センター賞を1980年に受賞。
【音楽の部屋|レオンティン・プライス】メトロポリンタン・オペラに響かせた伝説の歌姫
0001アメリカ合衆国出身
1897-1993を生きたアフリカ系アメリカ人アルト(コントラルト)歌手。出身のアメリカ合衆国において人種問題をその歌声を武器に闘い革命を巻き起こす。そして敗戦後連合国統治から復帰した1953年に来日を果たし被爆地広島を含む全国ツアーを実施し、その歌声で日米の新たな歴史を繋いだ。
【音楽の部屋|マリアン・アンダーソン】歌声でダイバーシティを巻き起こす
0001アメリカ合衆国出身
1923-1977を生きた20世紀を世界を代表するソプラノ歌手。その人生は公私共に波瀾万丈。トップの座を射止めた歌声は完璧を追い求め、そして愛に翻弄される。2023年は生誕100年、そして2017年に公開された「私は、マリア・カラス」はマリアの未完の自叙伝を映画化。誰も知らないマリア・カラスに会えます。
【音楽の部屋|マリア・カラス】Maria by Callas
13東京都
1911-1997を生きた長唄唄方は豊かな歌唱力と深みある芸風で古典芸能の世界を継承。作曲活動も積極的に努められ、1987年重要無形文化財個人所有者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|杵屋佐登代】昭和の長唄唄方最高峰のひとりは人間国宝
13東京都
1909-1998を生きた日本舞踊流派のひとつ吾妻流を昭和に入り再興した家元。幼きころは7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事し踊りの基礎を学び、14歳で名取りは天才少女と囃し立てられた。
【音楽の部屋|吾妻徳穂】日本舞踊界の天才少女は吾妻流宗家・初代
26京都府
1905-2004を生きた井上流、井上八千代(四世家元 四代目) は寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始し、約二世紀の歴史を持つ祇園甲部の正式唯一の流派。京都の年中行事「都をどり」を1872年より開催。
【音楽の部屋|井上八千代(四世家元 四代目)】4月の風物詩「京都をどり」を支えた井上流家元
13東京都
1924-2018を生きた日本舞踊花柳流の舞踊家は、古典伝承と創作活動(「湯女群像」や「吾輩は猫である」を発表)の両面で活躍。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|花柳寿南海】人間国宝の代表作は「吾輩は猫である」
13東京都
1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
35山口県
1905-1996を生きた学校教師は夢だった歌手に転身、戦前マロニエの木陰が大ヒット、その後第1回NHK紅白歌合戦出場から合計10回の実力派。山口県柳井市には松島詩子記念館。
【音楽の部屋|松島詩子】教師から転職「マロニエの木陰」大ヒット
0049ドイツ連邦共和国出身
1813-1883を生きた歌劇王の異名を持ち19世紀ヨーロッパ全土を魅了した作曲家。その一度聞いたら虜になる作曲はまさに天才。その天才的な音楽家は自身の生活よりも犬を愛した動物好きの一面も。
【音楽の部屋|リヒャルト・ワーグナー】天才歌劇作曲家を癒したのは犬だった!?
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1856を生きた指の影響でピアニストから偉大な作曲家に転身。当時人気のピアニストクララとの二人三脚で音楽界を渡り歩くも、精神疾患を患いその才能を46歳で閉じた。
【音楽の部屋|ロベルト・シューマン】すべてのピアノを愛した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1819-1896を生きた作曲家でありピアニストはドイツ紙幣100マルクの肖像でもあった。
【音楽の部屋|クララ・シューマン】19世紀の天才音楽少女
0049ドイツ連邦共和国出身
1833-1897を生きた高い完成度を求めた作曲家はロベルト・シューマン、クララに出会うことでその後の人生を広げた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「バッハ」そして「ブラームス」)の一人。
【音楽の部屋|ブラームス】本物の完璧主義者!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1750を生きた音楽一家に生まれた偉大な作曲家は苦境の中に光を見出した努力家であった。そして20人の子供をもうけ大家族は音楽一家を形成。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「ブラームス」そして「バッハ」)の一人。
【音楽の部屋|J.S.バッハ】音楽の父は、大家族の父でもあった!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1827を生きた作曲家は交響曲,協奏曲,室内楽曲,ピアノ曲,声楽曲など,あらゆるジャンルにわたり作品を手がけた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「バッハ」「ブラームス」そして「ベートーベン」)の一人。
【音楽の部屋|ベートーベン】散歩と引越し好きのドイツ3Bの一人
28兵庫県
1915-2012を生きた兵庫県出身 1915-2012 元宝塚歌劇団専科の男役で劇団名誉理事を歴任。1933年に新設された星組に配属、戦後雪組組長となり1946年歌劇公演を再開。本名は石井吉子、愛称は春日野先生、ヨッちゃん先生。
【音楽の部屋|春日野八千代】ヨッちゃん先生見守る入学式@宝塚音楽学校

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13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21New!!
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20
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シュー(Syu)です
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館長

4年目を迎えた2025年も皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

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