東京都出身の音楽家

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13東京都
1930-を生きるノンフィクション作家。幼少期に満洲へ移住。敗戦後の引き揚げ体験が後の作品に深く影響を与える。早稲田大学卒業後、中央公論社編集者を経て、1972(昭和47)年「妻たちの二・二六事件」で作家デビュー。以後「火はわが胸中にあり(1978)」「滄海よ眠れ(1986)」など、昭和史・戦争・女性の生き方をテーマに綿密な取材と史実に基づく作品を多数発表。菊池寛賞、日本ノンフィクション賞、朝日賞など受賞歴多数。社会的発言にも積極的で、「九条の会」呼びかけ人など戦争の悲劇と平和の尊さを訴え、現在も活動を続ける。
【文学の部屋|澤地久枝】昭和時代編.173New!!
13東京都
1930-2007を生きた小説家。戦前は海軍軍医の父の転勤に伴い各地を転々とする。津田塾大学英文学科卒業後、夫の赴任先アラスカで執筆を開始。1968(昭和43)年、アラスカの風土に生きる男女を描いた「三匹の蟹」で芥川賞を受賞し文壇に登場。その後、女学生時代に広島で原爆投下後の救援活動に従事し、その惨状体験を生かした「浦島草(1977)」などの神話的な世界観や、超越した人間描写で、数々の作品を手がけた。1987年から約10年間、芥川賞初の女性選考委員を務めた。本名は美奈子。
【文学の部屋|大庭みな子】昭和時代編.172New!!
13東京都
1929-1981を生きた脚本家、小説家でありエッセイスト。父の転勤に伴い全国を転々とする中で、鹿児島での生活を「文学の原点」と語る。実践女子専門学校卒業後、映画雑誌編集者を経て、1958(昭和33)年に、シナリオライター集団Zプロに参加後、ラジオ・テレビの脚本執筆に携わる。「寺内貫太郎一家(1974)」「阿修羅のごとく(1979)」など、庶民の生活を温かく、時に鋭く描いたホームドラマで一世を風靡し、倉本聰、山田太一と並び「シナリオライター御三家」と称された。エッセイ「父の詫び状(1978)」や短編小説集「思い出トランプ(1980)」で文筆家としても高く評価される。翌年、台湾取材中の航空機事故により急逝。享年51。日常の陰影を繊細に描き、昭和の家庭と人間模様を刻んだ文学家であった。
【文学の部屋|向田邦子】昭和時代編.171New!!
13東京都
1929-2011を生きた詩人であり童話作家。東京芸術大学油絵科卒業後、画家を志すも、夫となる谷川俊太郎の影響により、茨木のり子の主宰した詩誌「櫂」の同人となり詩作に転向し「忘れた秋(1955)」を発表した後に離婚。その後、芸大同級生の中谷千代子とのコンビで絵本にも関わり、「かばくん(1962)」を発表した。詩人の田村隆一と結婚離婚後に発表した「かえってきたきつね(1973)」も代表作の一つ。また「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「赤毛のアン」など、テレビアニメの主題歌作詞でも知られ、優しく詩情豊かなことばのリズムで子どもたちの心を捉えた。父は、劇作家岸田国士。
【文学の部屋|岸田衿子】昭和時代編.170New!!
13東京都
1914-1989を生きた詩人。結婚・引揚を経て詩作を開始。1960(昭和35)年から3年間、朝日新聞家庭欄に日常生活に根ざした平易な作風で詩を連載し大きな反響となり「月曜日の詩集(1962)」としてまとめられた。その後詩誌「野火(1966)」を創刊・主宰し、全国800人以上の会員を擁する詩のネットワークを築いた。合唱曲の作詞も手がけている。
【文学の部屋|高田敏子】昭和時代編.167New!!
13東京都
1910-1998を生きた随筆家。幼少期から能や古典芸能に親しみ、アメリカ留学を経て、白洲次郎と結婚。戦前は、志賀直哉、柳宗悦に勧められ「お能(1943)」で随筆家の道を歩み始める。戦後、小林秀雄の影響受けながら、日本の伝統文化の深層を探る著作として「栂尾高山寺明恵上人(1967)」や「かくれ里(1971)」などを発表。古典文学・仏教美術・民俗文化を独自の視点で数多く手がけた。日本文化の深層を現代に伝える語り部として、今もその言葉は読み継がれている。また、当時は女人禁制とされていた能舞台に女性演者として初めて立ったことでも、名を刻んでいる。夫は、白洲次郎。
【文学の部屋|白洲正子】昭和時代編.166
13東京都
1909-2002を生きた歌人。佐佐木信綱に師事した父に影響を受け、若山牧水の勧めにより「心の花」に短歌を発表。その後モダニズムに向かうも、父などが影響を受けた1936(昭和11)年の二・二六事件後は、この事件を題材にした。これらの作品は、第一歌集「魚歌(1940)」に収められている。戦後は、疎開先での暮らしなどを綴った「歌のゆくへ(1953)」、夫と母の介護を綴った「ひたくれなゐ(1976)」などを発表し、現代短歌に大きな足跡を残す。1997(平成9)年には、宮中御歌会始の召人をつとめた。
【文学の部屋|斎藤 史】昭和時代編.165
13東京都
1908-2000を生きた 劇作家であり小説家。東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)在学中に岡本綺堂主宰の演劇雑誌「舞台」に戯曲を投稿。卒業後、聖心女子学院で教職を経て、菊池寛主宰の戯曲研究会に入る。戦後、一幕の対話劇「京都の虹(1950)」「鋏(1955)」など男女の愛憎や人生の機微を描いた作品を手がけた。カトリックの洗礼を受けたのちも、映画シナリオや小説などを数多く著した。登山愛好家としても知られ随筆集「花の百名山」を綴っている。夫は、同じく劇作家の田中千禾夫。
【文学の部屋|田中澄江】昭和時代編.164
13東京都
1905-1986を生きた 小説家であり劇作家。幼少期から家族の影響で古典文学や歌舞伎に親しむ。その後、演劇雑誌歌舞伎に戯曲「ふるさと(1926)」を投稿。「晩春騒夜(1928)」を女人芸術に発表し、築地小劇場で初演を飾った。のちに小説に転じ、戦後「ひもじい月日(1953)」など、抑圧された女性の自我と官能美を描く作品を次々に発表。正宗白鳥 などの賞賛にあう。以後、「朱を奪うもの(1955~56)」「なまみこ物語(1959~61)」など、観念性が強い作風で知られた。古典への造詣も深く、1972-73年に現代語訳「源氏物語」を完成させ古典と現代文学の架け橋を築いた。1985(昭和60)年に文化勲章受章。本名は圓地富美。
【文学の部屋|円地文子】昭和時代編.161
13東京都
1903-1987を生きた小説家でありエッセイスト。文豪森鷗外の長女として、父の溺愛を受けて育つ。仏英和高等女学校卒業後、フランス文学者山田珠樹と結婚し渡仏、滞欧中に父の死を知る。二度の離婚を経て、戦後は世田谷で独居生活を送りながら室生犀星に師事し文筆に専心。1957(昭和32)年、父森鴎外を回想したエッセイ集「父の帽子」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。その後、同性愛をテーマとした「恋人たちの森(1961)」、父への想いをテーマとした「甘い蜜の部屋(1965~75)」など幻想的で耽美な世界を描く作品を発表。独特の文体と世界観から放つ作風は、昭和文学に色濃く刻まれている。
【文学の部屋|森 茉莉】昭和時代編.155
13東京都
1899-1951を生きた小説家。東京女子師範附属高女から日本女子大学英文科に進みんだ1916(大正5)年、17歳で「貧しき人々の群」を坪内逍遥の推薦で中央公論に発表し天才少女と注目される。これを契機に大学を中退し作家生活に入り、代表作の一つ、米国留学後、結婚・離婚の体験を「伸子(1928)」を綴った。1927年からソ連に渡り、共産主義思想に傾倒し帰国後、日本プロレタリア文学運動に参加し、共産党員の宮本顕治と結婚後、弾圧下で検挙・執筆禁止を繰り返しながら創作を続ける。戦後は「歌声よ、おこれ(1946)」などで民主主義文学運動の先頭に立った。女性の自立と社会変革を描き続け、その生涯は日本の近代文学史にその名を刻む文学家であった。本名は宮本ユリ。
【文学の部屋|宮本百合子】昭和時代編.151
13東京都
1885-1967を生きた歌人であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に第一歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注ぐ。波乱の生涯を通じて近代短歌と女性解放運動に大きな足跡をいまも残している。本名は、宮崎燁子(あきこ)。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.51
13東京都
1884-1945を生きた小説家。日本女子大学校国文科を中退後、幸田露伴に師事し、1903(明治36)年に「露分衣」を発表。女優として舞台に立つ時期もあったが、夫の勧めで1911(明治44)年に大阪朝日新聞懸賞小説「あきらめ」で一等当選し文壇に登場。以後、「木乃伊の口紅(1913)」「炮烙の刑(1914)」など、鋭敏で豊かな官能感覚と、複雑な女性心理を描く作品は人気を博した。破天荒な生活、そしてスキャンダラスな恋愛や海外生活を送るも、女性の自立や愛の相克をテーマにした作品で、近代文学に新風を吹き込んだ。その人生を瀬戸内晴美(のちの寂照)が描いた「田村俊子(1961)」は第一回田村俊子賞を受賞している。本名は佐藤とし。
【文学の部屋|田村俊子】大正時代編.51
13東京都
1879-1941を生きた劇作家であり小説家。寺小屋教育を受けた後、佐佐木信綱に師事、その後文筆生活に入り、1901(明治34)年に短編小説「うづみ火」を「女学世界」に投稿し文壇に登場。1905(明治38)年、狂女の悲恋を描いた戯曲「海潮音」が読売新聞懸賞で坪内逍遙に認められ特選となり、新富座で上演される。以後「覇王丸」「操(さくら吹雪)」など舞踊劇で女流劇作家として地位を確立。大正期には女性評伝「美人伝」を執筆。また1928(昭和3)年には雑誌「女人芸術」を復刊し、林芙美子や円地文子ら多くの女性作家を世に送り出し、近代日本における女性の文筆活動の礎を築いた。本名は長谷川ヤス。
【文学の部屋|長谷川時雨】明治時代編.44
13東京都
1872-1896を生きた小説家。東京府の下級官吏の家に生まれ、幼少期から読書好きで才気に富む。1886(明治19)年14歳で中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し、和歌や古典文学を学ぶ。父と兄の相次ぐ死により家督を継ぎ、生活苦の中で母と妹を養うため筆を取る。半井桃水に師事し、1892(明治25)年に処女作「闇桜」を「武蔵野」に発表。その後、波乱に満ちた道を歩みながら「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「たけくらべ」などを、1894(明治27)年から1年強の月日で秀作5作品を発表し、森鴎外や幸田露伴らに絶賛される。女性作家として初めて文壇の中心に立ち、近代文学に新風を吹き込むも、肺結核により24歳で早世。没後公開された「一葉日記」も高く評価され、近年では五千円札の肖像にも選ばれている。本名は樋口奈津。
【文学の部屋|樋口一葉】明治時代編.43
13東京都
1927-2011を生きた小説家であり精神科医。父は歌人で精神科医の斎藤茂吉。東北大学医学部卒業。精神科医として勤務する傍ら、1954(昭和29)年に「幽霊」を自費出版し文壇デビュー。1960(昭和35)年、水産庁調査船の船医体験をもとにした「どくとるマンボウ航海記」で人気を博し、このシリーズはエッセイ文学の金字塔とされ、精神疾患や躁うつ病との向き合いも作品に反映された。同年「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞。その後、斎藤家3代を綴った「楡家の人びと(1964)」などを発表し、ユーモアと哀愁を織り交ぜた作風で幅広い読者に親しまれた。 父・茂吉の評伝四部作「青年茂吉」「壮年茂吉」「茂吉彷徨」「茂吉晩年」で大佛次郎賞を受賞。文学と精神医療の架け橋としても注目された。本名は斎藤宗吉。
【文学の部屋|北 杜夫】昭和時代編.140
13東京都
1926-2011を生きた小説家であり評論家。東京帝国大学法学部卒業後、日本銀行に入行するも、結核を患い退職。療養中に日本共産党、その後新左翼陣営に転じて共産主義労働者党を結成。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や思想の科学研究会などで活動を行う。文学家として、戦後に同人誌「世代」の創刊に参加。1961年、太平洋戦争下を背景にした長編小説「斥候よ、夜はなお長きや」を発表。以後、思想・文化・政治を横断する評論活動を展開し、「アメリカの英雄(1965)』などを刊行。また、東大で机を並べた三島由紀夫の自決一ヶ月後、「三島由紀夫(1970)」を刊行し話題をさらった。本名は飯田桃。
【文学の部屋|いいだ もも】昭和時代編.138
13東京都
1926-1997を生きたSF作家。東京大学農学部卒。大学院在学中に父の急逝により星製薬の社長に就任するも、経営難から退任。その後、1957(昭和32)年に短編「セキストラ」で作家デビュー。以後、「ボッコちゃん(1971)」など、奇抜な発想と意外な結末をもつショートショートを多数発表し、SF文学の第一人者として不動の地位を築いた。1968(昭和43)年には「妄想銀行(1967)」で日本推理作家協会賞を受賞。1983年10月には目標としていたショートショート1001編を達成し、以後は若手作家の育成やエッセイ執筆に注力。没後2013(平成25)年、日本経済新聞主催「星新一賞」が創設され、その精神はいまもなお受け継がれている。本名は星 親一。
【文学の部屋|星 新一】昭和時代編.137
13東京都
1926-1995を生きた小説家。早稲田大学中退後、川端康成などが講師をつとめていた鎌倉アカデミアに入学、歌人吉野秀雄に師事し文芸活動を開始。出版社勤務を経て、1958(昭和33)年に開高健の推薦で壽屋(現、サントリー)に入社。PR誌「洋酒天国」の編集やコピーライターとして活躍し、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」のキャッチコピーや、成人・新社会人に向けた叱咤激励「直言シリーズ」で知られた。その後、婦人画報に連載した「江分利満氏の優雅な生活(1961~62)」で第48回直木賞を受賞し文壇に登場。以後、母の出自を探った「血族(1979)」、父の人生を辿った「家族(1983)」などを発表し、庶民の生活感や人間関係をユーモアと哀愁を交えて描いた。1963年から死去までの32年間、週刊新潮に連載された日記形式のコラム「男性自身」は、実に1614話に達し、軽妙かつ日常生活の哀歓を綴り、昭和のサラリーマン文学の金字塔となった。
【文学の部屋|山口 瞳】昭和時代編.136
13東京都
1925-1970を生きた小説家。東京大学法学部在学中、川端康成の推薦で「煙草(1946)」を「人間」に発表し文壇デビュー。卒業後は大蔵省に勤務するも、作家活動に専念するため退職。1949(昭和24)年に自身の内面を赤裸々に描いた「仮面の告白」で戦後文学の旗手として注目を集める。以後、「潮騒(1954)」「金閣寺(1956)」などを発表し、耽美、悲劇や死生観を主題にした作品群で独自の文学世界を築いた。また戯曲「サド侯爵夫人(1965)」「朱雀家の滅亡(1967)」なども高い評価があり、国際的に翻訳上演される。その文才に川端康成は「日本人で最初にノーベル文学賞を受けるなら三島由紀夫君だ」と語るほどであった。しかし、1968年川端のノーベル賞を受賞した後、両者の間に文学的、思想的な立場の違いが鮮明になり距離が生じる。晩年は自衛隊体験入隊を経て民兵組織「楯の会」を結成。1970(昭和45)年、同会員とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地にてクーデターを促す演説後、割腹自殺を遂げる。享年45歳。本名は平岡公威(きみたけ)。
【文学の部屋|三島由紀夫】昭和時代編.135
13東京都
1924-1993を生きた小説家であり劇作家。東京帝国大学医学部在学中に書いた長編小説「終りし道の標べに(1948)」を契機に埴谷雄高の紹介で、花田清輝らが結成した総合芸術運動「夜の会」に参加。卒業後、医師にはならず文学の道へ進む。1951(昭和26)年「壁―S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。代表作の一つ「砂の女(1962)」は、世界各国で翻訳刊行され、1968(昭和42)年にフランスで最優秀外国文学賞を受賞。1970年代には俳優座の仲代達矢、田中邦衛らをメンバーに演劇集団を主宰する。国際的に高い評価を受け、晩年はノーベル文学賞の有力候補とされるも、1993年に急逝。本名は安部公房(きみふさ)。
【文学の部屋|安部公房】昭和時代編.133
13東京都
1923-1990を生きた小説家であり劇作家。戦後、東京都職員として勤務する傍ら、「鈍牛」「牧野富太郎」「渡辺崋山」などの戯曲を執筆し、新国劇に脚本を提供を行う。その後、長谷川伸に師事し、小説を手がけ1960(昭和35)年「錯乱」で直木賞を受賞。以後、戦国から幕末へかけての時代ものを多く手がけ、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の3大シリーズを送り出し、ドラマ化、映画化され国民的な人気を博す。これらの作品は、武士の矜持と市井の人情を融合させ、時代小説に新風を吹き込んだ国民的作家だった。
【文学の部屋|池波正太郎】昭和時代編.132
13東京都
1923-1996を生きた小説家。幼少期を大連で過ごし帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受け、信仰と文学の融合を志す。慶應義塾大学文学部仏文科卒業後、1950(昭和25)年にフランス・リヨンへ戦後初となる国費留学。帰国後は評論活動を経て、1955(昭和30)年に「白い人」で芥川賞を受賞。その後「海と毒薬(1958)」など日本の精神風土とキリスト教の思想を併せ持った独自の作風で文壇を沸かせ、安岡章太郎や吉行淳之介らとともに「第三の新人」として注目を集める。またユーモアあふれる随筆「狐狸庵」シリーズでも人気を博し、幅広い読者層に支持された。1995(平成7)年、文化勲章を受章。
【文学の部屋|遠藤周作】昭和時代編.130
13東京都
1923-1998を生きた詩人であり翻訳家。明治大学文芸科卒業。戦時中は海軍予備学生として従軍し、敗戦後に復員。1947(昭和22)年、鮎川信夫、北村太郎らと詩誌「荒地」を創刊し、戦後詩の旗手として登場。1956(昭和31)年に処女詩集「四千の日と夜」を刊行し、「言葉のない世界(昭和37)」で高村光太郎賞を受賞。その後も、文明批評と叙情を融合させた知的探究溢れるモダニズムを象徴する詩を残す。また翻訳家としてもアガサ・クリスティやロアルド・ダールなどの推理小説・児童文学を多数手がけ、名翻訳家としても人気を博した。
【文学の部屋|田村隆一】昭和時代編.129
13東京都
1922-1993を生きた小説家であり短歌編集者。東京大学文学部言語学科に進学するも中退。戦後は「日本短歌」「短歌研究」「短歌」で短歌雑誌の編集長を務め、塚本邦雄らを見出し、前衛短歌活動を後押しする。その後、創作に専念する。1964(昭和39)年に、塔晶夫の名で発表した長編小説「虚無への供物」は代表作の一つであり、従来の推理小説の枠組みを根底から覆す「アンチ・ミステリー」と称され、そのユニークな作風で熱狂的な支持を集めた。
【文学の部屋|中井英夫】昭和時代編.128
13東京都
1918-1980を生きた小説家。早稲田第一高等学院在学中に短編集「崩壊(1937)」を刊行し、文学活動を開始するも中退。戦下の満州に従軍し、帰国後は同盟通信社記者となる。戦後は貧困生活の中で創作を続け、1954(昭和29)年に短編集「終身未決囚」で第31回直木賞を受賞。以後、「四万人の目撃者(1958)」などを発表し、松本清張とともに、戦後の推理小説ブームを牽引する。1970(昭和45)年「早稲田文学」の第7次編集長に就任し、若手作家の育成にも尽力。晩年は東京空襲の記録活動にも関わり、文学を通じて戦争体験と社会の矛盾を鋭く追求する作品を手がけた。
【文学の部屋|有馬頼義】昭和時代編.123
13東京都
1917-1985を生きた児童文学作家。明治大学文芸科卒業後、新聞などを経て、戦後創作活動に入る。児童文学に力を注ぎ、東北方言の味を加えた民話的発想の童話集「ベロ出しチョンマ(1967)」で小学館文学賞を受賞する。1978(昭和52)年には「天の赤馬」で日本児童文学者協会賞を受賞。画家、滝平二郎とのコンビによる絵本「花さき山」「モチモチの木」などは、民話絵本の新分野を開拓し、小学校教科書にも採用されるなど広く親しまれた。本名は斎藤隆勝。
【文学の部屋|斎藤隆介】昭和時代編.120
13東京都
1914-1939を生きた詩人であり建築家。東京帝国大学工学部建築学科在学中に建築家として将来を嘱望される一方で、堀辰雄や室生犀星に師事し、詩誌「四季」を中心に十四行詩型(ソネット形式)の抒情詩を発表し、詩人としても注目を集めた。代表詩集に「萱草に寄す(1937)」「曉と夕の詩(1937)」。信濃追分での滞在や恋愛体験が詩作に深く影響を与え、青春の憧れと哀しみを音楽的な口語で綴った詩風は、今も多くの共鳴を呼んでいる。病いにて、24歳で早世。「優しき歌」は、没後、師の堀辰雄によって刊行された詩集。
【文学の部屋|立原道造】昭和時代編.117
13東京都
1912-1994を生きた評論家であり劇作家。東京帝国大学英文科卒業後、文芸評論誌「作家精神」に参加し、芥川龍之介などを論じて文壇に登場。戦後、日本近代文学への批判を込めた評論集「作家の態度(1947)」「近代の宿命(1947)」などで日本の作家たちが、社会から孤立していく中で、どうやって自我を確立していったかを展開し注目を集め、当時の「政治と文学」論争において、文学と政治を明確に区別する姿勢を貫く。劇作家としては「キティ颱風(1950)」「龍を撫でた男(1952)」などを発表上演し、T.S.エリオット、ヘミングウェイ、シェイクスピアの翻訳にも取り組む。これらの活動は、「自我」と「社会や文化」との関係を生涯にわたって探求し続け、戦後日本の文化・言語・演劇に多大な影響を与えた。
【文学の部屋|福田恆存】昭和時代編.115
13東京都
1911-1988を生きた文芸評論家。東京帝国大学文学部仏文学科在学中の1933(昭和8)年に小林秀雄らの推薦により「文学界」へ評論を寄稿し、若くして文壇に登場した。1936(昭和11)年「二葉亭四迷論」で、第1回池谷信三郎賞を受賞。その後も、近代リアリズムの正統論に立脚した批評活動を展開。戦後1950(昭和45)年には「風俗小説論」で日本の私小説の歪みを鋭く批判し、戦後文芸評論の方向性を決定づける。また「汽笛一声(1964)」などの戯曲も手がけ、幅広い分野で才能を発揮。また、芥川賞選考委員を30年間務め、後進の育成にも尽力した。本名は木庭一郎。
【文学の部屋|中村光夫】昭和時代編.114
13東京都
1908-1979を生きた評論家でありエッセイスト。早稲田大学理工学部建築学科中退後、1935(昭和10)年に東宝に入社し、宣伝部・調査部などを経て映画評論を開始。戦後は東宝を退社後、「キネマ旬報」などで映画評論や、ジャズ・ミステリー・欧米文学・現代美術・漫画など多岐にわたる分野で独自の批評を展開し、雑学と博識を融合させたスタイルで若者文化の先駆者となる。1955(昭和30)年、江戸川乱歩、大岡昇平、吉田健一とともに「世界推理小説全集」全80巻の監修を行い推理小説の分野でもその名を刻む。その後、若者世代にサブカルチャーの教祖として崇められた。その自由で奔放な行き方は、今もサブカルチャーの源流として語り継がれている。
【文学の部屋|植草甚一】昭和時代編.109
13東京都
1903-1979を生きた評論家でありフランス文学者。東京帝国大学仏文科在学中、今日出海と、ヴァレリーやボードレールなどの翻訳・紹介を通じてフランス文学を深める。1934(昭和9)年にはフランス文学を基とした評論集「懐疑と象徴」を刊行し、文芸評論家としての地位を確立。戦後は、日本文芸家協会の再建、日本著作権協議会の創設、チャタレー裁判の特別弁護人など、文化政策や言論の自由の擁護に尽力。日本中国文化交流協会の設立から理事長としても活躍し、国際的な文化交流にも貢献した。代表作に第一次世界大戦から敗戦と時代の変動を記録した「昭和時代(1957)」などがあり、文学と社会、精神性を融合させた評論で、戦後を代表する文化人として活躍した。
【文学の部屋|中島健蔵】昭和時代編.100
13東京都
1901-1976を生きた随筆家。木綿貿易で巨万の富を築いた近江商人薩摩治兵衛の孫として育つ。1918(大正7)年に渡英し、オックスフォード大学で古典劇を学ぶ。その後パリに移住し、社交界の寵児として「バロン薩摩」の異名をとる。藤田嗣治らと親交を深め、莫大な私財を投じて芸術家の支援に尽力。1929(昭和4)年にはパリ国際大学都市に「日本館(薩摩館)」を建設し、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章。戦中もフランスに留まり、文化人の保護に努める。戦後は無一文で帰国し、東京浅草で随筆「巴里・女・戦争(1954)」「ぶどう酒物語(1958)」などを執筆し生計を立てた。その後、徳島に移住し晩年を過ごす。その生涯は、日仏文化交流に尽力し、激動の時代を駆け抜けた、波乱万丈そのものであった。
【文学の部屋|薩摩治郎八】昭和時代編.94
13東京都
1901-1979を生きた美術評論家であり装幀家。幼少期より絵画や映画に親しみ、画才を発揮。中学時代から骨董品収集に熱中し、20代で柳宗悦、浜田庄司らと民藝運動に参加。永井龍男、小林秀雄らと交遊し、昭和文壇のサロン的存在となる。骨董の鑑識眼と辛辣な批評で知られ、装幀家としても活躍した。戦後は小林秀雄らと文芸美術雑誌「創元(1946~48)」の編集に当たり、同誌に梅原龍三郎論、富岡鉄斎論を発表し、戦後混乱期ながら美の存在を示して文壇を文壇を大いに沸かせた。
【文学の部屋|青山二郎】昭和時代編.93
13東京都
1885-1980を生きた歌人であり教育者。早稲田大学英文科では、島村抱月などに師事し、若山牧水などと交流を深める。卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者として活躍。1910(明治43)年に発表したローマ字三行書きの歌集「NAKIWARAI」で注目を集め、生前の石川啄木に影響を与え、交流が生まれた。その後、朝日新聞に移り、社会人生活をおくりながら短歌を中心とした文学活動を継続した。1913(大正2)年に創刊した「生活と芸術」は啄木の遺志をつぐ文芸思想誌。 短歌のみならず、古典研究、能の詞章創作、中国詩の和訳などその幅広い活動は、近代文学史にその名を刻んでいる。80歳より武蔵野女子大学文学部日本文学科主任教授。
【文学の部屋|土岐善麿】大正時代編.47
13東京都
1883-1956を生きた詩人であり彫刻家。東京美術学校彫刻科在学中に与謝野鉄幹の新詩社に入り、またロダンの影響を受ける。卒業後、1906(明治39)年より米・英・仏に留学し近代彫刻を学ぶ。帰国後は「パンの会」や「白樺」などの芸術運動に参加し、評論・翻訳・詩作に取り組む。1914(大正3)年に詩集「道程」を自費出版し、その後、口語自由詩体の完成に導く。妻である洋画家長沼智恵子の精神疾患と死別を経て、1941(昭和16)年に詩集「智恵子抄」を編む。戦時中は戦争協力詩を多く発表し、戦後はその反省から岩手県花巻に移住し、独居自炊の生活を送りながら創作を続ける。新たな時代の新たな文化を創ろうという思いを込め、1950(昭和25)年に詩集「典型」を刊行。1953(昭和28)年には十和田湖畔に「乙女の像」を完成させ、彫刻家としても再評価を得た。父は彫刻家の高村光雲。本名は光太郎(みつたろう)。
【文学の部屋|高村光太郎】大正時代編.44
13東京都
1919-2008を生きた評論家であり小説家。東京帝国大学医学部在学中より、中村真一郎らと共に押韻定型詩の文学運動「マチネ・ポエティク」を起こす。卒業後、血液学を専門とする医師として活動の傍ら、戦後は日米原爆影響合同調査団の一員として広島に赴き、被爆の実態を調査した経験をもつ。その後フランス留学を経て、医学から文化の見識を深める。帰国後、「日本文化の雑種性(1950)」などで日本文化の多様性を論じ、知識人として注目を集める。 1958(昭和33)年に医業を廃し、以後は執筆活動に専念する。国内外の大学で教鞭をとるなど日本文化と世界をつなぐ知の架け橋として、戦後日本の思想界に大きな足跡を残した。晩年は「九条の会」の呼びかけ人として平和憲法擁護の活動にも尽力。
【文学の部屋|加藤周一】昭和時代編.78
13東京都
1914-2006を生きた劇作家。東京帝国大学英文科在学中に中野好夫に師事し、シェイクスピア研究に傾倒。大学院に進み、第二次世界大戦中に日本の民話を素材にした戯曲を書き、戦後に「彦市ばなし(1946)」「夕鶴(1949)」などを発表し、木下民話劇として注目を集めた。その後、ゾルゲ事件の尾崎秀実をモデルにした「オットーと呼ばれる日本人(1962)」など、鋭い視点で思想と現実を表現し、戦後演劇界を代表する存在となる。民話劇から歴史劇、思想劇まで幅広いジャンルを手掛け、常に日本の演劇の可能性を追求し、日本人の心と社会に深く問いかけ続けた文学家であった。
【文学の部屋|木下順二】昭和時代編.73
13東京都
1904-1990を生きた小説家であり編集者。印刷業に関わる家庭環境の中で育ち、文学に親しむ。1920(大正9)年、文芸雑誌「サンエス」の懸賞小説に応募した「活版屋の話」が、菊池寛の目にとまり入選。その後小林秀雄らの同人となり数々の作品を手がける。1927(昭和2)年には、横光利一らの推薦を得て文藝春秋社に入社し、その後、編集者、編集長として活躍。戦前に芥川賞・直木賞の制定と運営に深く関わり、「芥川賞・直木賞の育ての親」とも呼ばれた。戦後は、新聞小説「風ふたたび(1951)」などを数多手がけ、連載小説でも活躍し、短編・長編小説の名手として文壇を沸かせた。1981(昭和56)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|永井龍男】昭和時代編.69
13東京都
1912-1976を生きた小説家。 東京帝国大学文学部支那文学科に進学も、左翼運動に関わる。離脱後、仏教に帰依する。1934(昭和9)年、竹内好らと中国文学研究会を立ち上げた。戦時中は中国戦線に従軍し、転向体験と戦場での重苦い体験を、独自の歴史観で評伝した「司馬遷(1943)」を著し、終戦を上海で迎えた。戦後は「蝮のすゑ(1947)」、「ひかりごけ(1954年)」など、思想的・倫理的テーマを深く掘り下げた作品を手がけた。
【文学の部屋|武田泰淳】昭和時代編.66
13東京都
1912-1977を生きた文芸評論家であり小説家。 外交官であった父(後の首相)の影響で、外国で少年期を過ごし、その後ケンブリッジ大学に進学するも中退。帰国後、1935(昭和10)年にエドガー・アラン・ポーの、そしてフランス文学、英文学の翻訳や評論活動を開始し文壇に登場。戦後は、「英国の文学(1949)」「シェイクスピア(1952)」を発表した。その筆は、ヨーロッパ文学の素養を活かした知的で洒脱な文体で、戦後日本の独特な文学論,文明論を数多く残した。元首相の吉田茂の長男。
【文学の部屋|吉田健一】昭和時代編.64
13東京都
1909-1988を生きた小説家。京都帝国大学文学部仏文学科を卒業後、フランス文学スタンダール研究に従事。戦後、フィリピンの戦場で米軍の捕虜経験をもとにした「俘虜記(1948)」で作家としての地位を確立する。代表作の一つ「レイテ戦記(1967~69)」はレイテ島における戦闘経過を克明に再現しながら近代日本の核心に迫った大作。戦後文学の一躍をになった文学家であった。
【文学の部屋|大岡昇平】昭和時代編.60
13東京都
1909-1942を生きた小説家。東京帝国大学文学部国文科を卒業後、横浜高等女学校の教員を務めながら執筆活動を行う。1941(昭和16)年南洋庁国語教科書編集書記としてパラオに赴任前に、先輩作家深田久弥に預けた「山月記」「文字禍」が1942(昭和17)年に文学界に掲載され、文壇の登場した。その後、相次いで作品を発表するも、持病の喘息が悪化し、同年33歳でこの世を去った。
【文学の部屋|中島 敦】昭和時代編.59
13東京都
1904-1967を生きた小説家。明治大学商学部を卒業後、舟橋聖一らが結成した劇団心座の一員となり、新劇運動に参加。父の影響を受け、武道の天才児をモデルに、1942(昭和17)年に発表した「姿三四郎」が大ヒットし、流行作家となる。戦後は「刺青(1947)」「面(1948)」で直木賞を受賞。時代物から現代物まで数多く作品を手がけ、映画やドラマ化された。父は、講道館四天王のひとり富田常次郎。
【文学の部屋|富田常雄】昭和時代編.47
13東京都
1904-1976を生きた小説家であり劇作家。 東京帝国大学文学部在学中に、村山知義らと共に劇団心座 を結成。卒業後、文芸雑誌「行動」に加わり、行動主義文学を提唱する。代表作には、戦前の「木石(1938)」や戦後の「雪夫人絵図(1948)」など流行作家としてその名を刻んだ。また井伊直弼の波瀾の人生を書いた歴史小説「花の生涯(1953)」はNHK大河ドラマの第一作(1963)としても知られる。
【文学の部屋|舟橋聖一】昭和時代編.46
13東京都
1904-1953を生きた小説家。 東京帝国大学文学部国文科を卒業後、芥川龍之介や室生犀星に師事し、文学活動を展開。1926(大正15)年中野重治らと同人誌「驢馬」を創刊する。代表作には「聖家族(1930年)」などがあり、特に「風立ちぬ(1937)」は婚約者の死に触れた描いた作品として知られる。戦後は戦争末期に租界した軽井沢で、持病であった肺結核と闘病生活を送った。
【文学の部屋|堀 辰雄】昭和時代編.44
13東京都
1902-1983を生きた文芸評論家であり作家。東京帝国大学文学部仏文科在籍中に、フランス象徴派を基盤とした文学批評を開始し、卒業後の1929(昭和4)年に懸賞評論に「様々なる意匠」を発表し文壇に登場。1933(昭和8)年には文学界を創刊に携わり、1935(昭和10)年「私小説論」で私小説を批判し、文芸評論家としての地位を確立した。戦中に「無常といふ事」や戦後の「モオツァルト」を発表後、思想家としてその存在を高め、晩年は「本居宣長」といった学問論を展開し保守文化人としても知られた。日本芸術院賞、読売文学賞、野間文芸賞など数々の賞を受賞し、1967(昭和42)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|小林秀雄】昭和時代編.39
13東京都
1901-1977を生きた劇作家であり演出家、そして画家でもある。東京帝国大学哲学科を中退後、ベルリンに遊学し、コラージュによる「あるユダヤ人の少女像」や「美しき少女に捧ぐ」などを制作する。1923(大正12)年に帰国後に前衛美術団体マヴォを結成。意識的構成主義を主張して、美術・演劇・舞踊に魅せられた作品を発表した。その後、プロレタリア演劇運動に参加し、「暴力団記」などの戯曲を発表。戦後は、新協劇団の再建や、東京芸術座の創立に関わり、演劇界に大きな影響を与えた。妻の村山籌子の童話につけた童画作家としてもその名を刻んだ。
【文学の部屋|村山知義】昭和時代編.32
13東京都
1899-1987を生きた小説家。教員などを経て、1935(昭和10)年37歳時に「佳人」で作家デビュー。1936(昭和11)年に著した「普賢」で翌年第4回芥川賞を受賞し、文壇に確固たる地位を築く。戦後は「焼跡のイエス」「処女懐胎」など、寓意と神話性を帯びた作品を発表し、太宰治・坂口安吾らとともに「無頼派」「新戯作派」として注目を集めたが、その中でも、特に知的で寓意的な作風で異彩を放った。
【文学の部屋|石川 淳】昭和時代編.25
13東京都
1892-1981を生きた詩人であり翻訳家。与謝野鉄幹と与謝野晶子の勧めで慶應義塾大学で文学を学ぶも中退。1918(大正7)年にフランス詩との若々しい共感を盛った第一訳詩集「昨日の花」などを発表し、日本近代詩に新たな風を吹き込んだ。その功績は、フランス新精神文学の小説、戯曲、エッセイの訳も数多くあり、当時の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|堀口大學】昭和時代編.12
13東京都
1892-1981を生きた俳人であり医師。俳句を高浜虚子に師事し、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に4Sと呼ばれて昭和初期のホトトギスに黄金時代を築いた。1931(昭和6)年主宰誌「馬酔木」で虚子の写生観を批判し、新興俳句運動を推進。東京帝国大学で医学を学び、産婦人科医として活躍。昭和医学専門学校の教授も歴任している。
【文学の部屋|水原秋桜子】昭和時代編.11
13東京都
1890-1954を生きた劇作家であり小説家。東京帝国大学でフランス文学を学び、演劇研究のために渡仏する。帰国後、フランスで学んだ演劇観を著した戯曲「チロルの秋」を1924(大正13)年に発表し注目を浴びた。代表作に「牛山ホテル」や小説「暖流」など。1937(昭和12)年には劇団文学座を久保田万太郎らと創設した。詩人の岸田衿子の父でもある。
【文学の部屋|岸田國士】昭和時代編.8
13東京都
昭和 1888-1964を生きた仏文学者であり随筆家。東京帝国大学で法学を学んだ後、文学研究に転向し、フランスに留学。帰国後、母校のフランス文学講座を担当し、フランス文学を日本に数多く紹介した。門下には小林秀雄など、多くの学者、詩人、評論家を輩出した。父は建築家の辰野金吾。
【文学の部屋|辰野 隆】昭和時代編.5
13東京都
1888-1961を生きた小説家、劇作家、評論家。東京帝国大学で英文科を学び、武者小路実篤に勧められ白樺派に加わり、文壇に登場。戯曲「項羽と劉邦」や小説「青銅の基督」などで注目を浴びる。1923年の関東大震災後、「白樺」の後継誌「不二」を創刊し、文学評論家としても活躍。1960(昭和35)年には自伝「わが心の遍歴」などを残している。
【文学の部屋|長與善郎】大正時代編.42
13東京都
1884-1976を生きた俳人、俳論家。東京帝国大学で言語学を学び、河東碧梧桐に師事。1911(明治44)年に自由律俳句の機関誌「 層雲」を創刊し、のち碧梧桐と対立し、無季自由律俳句を提唱した。尾崎放哉や種田山頭火らを育て、俳壇に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|荻原井泉水】大正時代編.40
13東京都
1892-1970を生きた詩人。在学中から「早稲田文学」や三木露風、川路柳虹らの「未来」にもその名を連ねた。1919(大正8)年に初の詩集「砂金」を刊行し、抒情性に富んだ詩風で注目を浴びる。1923(大正12)年にはソルボンヌ大学に留学し、帰国後は早稲田大学文学部教授となる。鈴木三重吉による雑誌児童文芸誌「赤い鳥」に「かなりあ」などの童謡を発表し北原白秋と並ぶ大正期の代表的童謡詩人でもあった。
【文学の部屋|西條八十】大正時代編.36
13東京都
1892-1927を生きた小説家。東京帝国大在学中に菊池寛らと第3、4次「新思潮」を創刊。1916(大正5)年に「鼻」を発表し、夏目漱石の目に留まり文壇で注目を浴びる。代表作には「羅生門」や「地獄変」があり、古典文学を現代に蘇らせる手法で評価を得る。1927(昭和2)年に「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理由に自殺し、その死は大正時代文学に終焉を告げた。
【文学の部屋|芥川龍之介】大正時代編.35
13東京都
1891-1968を生きた小説家であり評論家。早稲田大学在学中に、葛西善蔵らと同人誌「奇蹟」を創刊し短編、翻訳などを発表。卒業後、文芸時評に携わり、批評家として活躍。1917(大正6)年に初の小説『神経病時代』を発表し、理想と現実の狭間で揺れ動く主人公の苦悩を鮮やかに描き、読者の共感を呼んだ。戦後は社会の不正に対し声を上げ、特に松川裁判の不当性を強く主張し、文芸誌上で活発な論争を展開。同じく小説家、広津柳浪の子。
【文学の部屋|広津和郎】大正時代編.32
13東京都
1889-1963を生きた小説家、劇作家であり俳人。慶應義塾大学文学部在学中に永井荷風や森鷗外に学び「三田文学」からキャリアをスタートさせる。1911(明治44)年に短編「朝顔」や戯曲「プロローグ」を発表し、注目を浴び1917(大正6)年小説「末枯」で文壇にその名を響かせた。1927(昭和2)年には句集「道芝」を刊行し、俳人としても評価を得た。1957(昭和32)年文化勲章を受章。
【文学の部屋|久保田万太郎】大正時代編.30
13東京都
1888-1959を生きた詩人。1907(明治40)年に日本初の口語自由詩「塵溜」を発表し注目を浴びる。1910(明治43)年に処女詩集「路傍の花」を刊行し、詩壇に大きな影響を与えた。1918(大正7)年曙光詩社を創立し、1921(大正10)年「炬火」などの雑誌を創刊し、詩人の育成に尽力した。戦後は法政大学で教鞭を奮ったほか、美術評論家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|川路柳虹】大正時代編.28
13東京都
1887-1940を生きた小説家であり実業家。永井荷風に師事し、1911(明治44)年に短編「山の手の子」を発表し、都会に生きる人々の孤独や憂いを描いた作品で注目を浴びる。1925(大正14)年には長編小説「大阪の宿」を発表し、大阪の郷土色溢れる作品で評価を得る。1933(昭和8)年には父の創業した明治生命保険会社の取締役に就任し、実業と文学を両立させた。
【文学の部屋|水上瀧太郎】大正時代編.27
13東京都
1885-1967を生きた歌人であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に第一歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注ぐ。波乱の生涯を通じて近代短歌と女性解放運動に大きな足跡をいまも残している。本名は、宮崎燁子(あきこ)。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.23
13東京都
1885-1965を生きた小説家であり詩人。東京帝国大学文学部国文学科卒業後、1913(大正2)年に初の小説として、幼少年期を描いた「銀の匙」が恩師夏目漱石に認められ刊行。30代後半ごろから詩を書き始め詩集「琅玕(1935)」などを残した。
【文学の部屋|中 勘助】大正時代編.22
13東京都
1886-1965を生きた小説家、劇作家であり教育者。東京帝国大学国文科中退後、永井荷風に認められ、反自然主義的な作風で小説を始め、1910(明治43)年に初の短編「刺青」を発表した。その後モダニズムの作品を手掛けた。1923(大正12)年の関東大震災を機に関西に移住し、古典的な日本美に傾倒しながら「痴人の愛(1924)」などの作品を残した。1949年文化勲章を受章。
【文学の部屋|谷崎潤一郎】大正時代編.20
13東京都
1879-1959を生きた小説家・随筆家。広津柳浪の門に入り小説家を志すも、落語家や歌舞伎作者に傾倒する。その後、アメリカやフランスに外遊し、帰国後「あめりか物語(1908)」「ふらんす物語(1909)」を発表し文学界に新風を吹き込む。1910(明治43)年には慶應義塾大学教授となり、「三田文学」を創刊。その後、大学職を辞し1916(大正5)年、隠退的自由さの中で花柳小説代表作「腕くらべ(1918)」などの作品を手がけた。1952年文化勲章を受章。
【文学の部屋|永井荷風】大正時代編.15
13東京都
1872-1943を生きた劇評家、劇作家であり小説家。慶應義塾大学を卒業後、1893(明治26)年に時事新報の記者として劇評家としての活動を開始し、報知新聞に移籍して辛辣な劇評で知られるようになる。1902(明治35)年に、岡本綺堂と合作の「金鯱噂高浪」を上演。その後、2世市川左団次の明治座革新興行に参画、松竹に入り文芸顧問として活躍したのち、日本演劇社社長となった。小説では「小猿七之助」「今様薩摩歌」などの作品を手掛けている。
【文学の部屋|岡 鬼太郎】明治時代編.34
13東京都
1872-1939を生きた小説家・劇作家。1890(明治23)年に東京日日新聞に入社を皮切りに、各紙で劇評に携わる。1902(明治35)年に岡鬼太郎との合作「黄金鯱噂高浪」で最初の自作作品が上演される。1911(明治44)年「修禅寺物語」が大ヒットし、2代市川左団次と提携した「鳥辺山心中」「番町皿屋敷」などおおくの歌舞伎作品を生んだ。小説では1916年からは「半七捕物帳」を連載し、捕物帳の先駆者となる。
【文学の部屋|岡本綺堂】明治時代編.33
13東京都
1875-1952を生きた詩人。1898(明治31)年に読売新聞懸賞小説に応募し当選するも、すぐに詩作に専念する。「草わかば(1902)」で注目され、その後「春鳥集」、そして「有明集」で複雑な語彙やリズムを駆使した象徴詩人としての才能を発揮した。その作風は北原白秋や木下杢太郎らに影響を与える。
【文学の部屋|蒲原有明】明治時代編.30
13東京都
1868-1910を生きた小説家、詩人であり評論家。1885(明治18)年に尾崎紅葉や石橋思案らと共に「硯友社」を結成し、機関紙「我楽多文庫」を刊行。その後、坪内逍遥の「小説神髄」の影響を受け、文学改良主義を掲げ、1887(明治20)年に「読売新聞」に「武蔵野」などを連載。口語(言文一致)体の新聞小説として注目を浴びた。演劇や辞書編集 などにも携わっている。
【文学の部屋|山田美妙】明治時代編.26
13東京都
1889-1939を生きた歌人であり小説家、仏教研究家。兄の影響を受け文学に親しみ、与謝野晶子に師事し、与謝野鉄幹の主催する新詩社に入り「明星」に投稿。その後の「スバル」でも活躍し短歌の才能を発揮した。漫画家岡本一平と出会い、長男の岡本太郎を出産。その後、処女歌集「かろきねたみ」を発表後、夫婦で宗教遍歴を歩む。小説家としては、川端康成の知遇を得て発表した、芥川龍之介をモデルにした小説「鶴は病みき」は、文学界に大きな存在を示した。
【文学の部屋|岡本かの子】大正時代編.9
13東京都
1886-1960を生きた歌人であり劇作家。与謝野鉄幹の主催する新詩社に入社し「明星」に次々と歌を発表。その後早稲田大学政治経済科に進学するも中退し、本格的に文学活動を展開する。北原白秋、木下杢太郎らと耽美派文学の拠点となる「パンの会」を結成。「スバル」同人となり、石川啄木らとともに編集を担当した。代表作には歌集「酒ほがひ」、「祇園歌集」、戯曲「午後三時」など。
【文学の部屋|吉井 勇】大正時代編.7
13東京都
1885-1976を生きた小説家、詩人であり劇作家。東京帝国大学に進学するも中退し、文学活動を開始。志賀直哉らとともに文芸雑誌「白樺」を創刊し、白樺派の中心人物として活躍。代表作に「友情」、「お目出たき人」、「井原西鶴」など。理想郷「新しき村」を宮崎県と埼玉県に建設し、理想主義的な社会運動を展開。1951(昭和26)年に文化勲章を受章している。
【文学の部屋|武者小路実篤】大正時代編.5
13東京都
1885-1944を生きた小説家。幼少期から古典文学に親しみ、キリスト教や社会主義の思想に影響を受ける。1906(明治39)年に都新聞(現在の東京新聞)に入社し、処女作「氷の花」を発表。その後、代表作「大菩薩峠」を1913(大正2)年から連載し、未完ながらも大衆文学に大きな影響を与えた。晩年は仏教的思想に傾倒し、独自の文学世界を追求した。
【文学の部屋|中里介山】大正時代編.4
13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21
13東京都
1874-1916を生きた詩人、翻訳家であり英文学者。島崎藤村らに合流し文学界の同人となり、東京帝大入学後は「帝国文学」の創刊に参加する。その後、西欧の象徴詩の紹介と翻訳に力を注ぎ、1905(明治38)年の訳詩集「海潮音」は、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの詩を翻訳し、日本の詩壇に大きな影響を与えた。晩年には京都帝国大学教授や同志社大学でも教鞭を執り、多くの門下生を育成し、日本の英文学、フランス文学の発展に貢献した。唯一の小説として1910(明治43)年に自伝的小説「うづまき」を著している。41歳で早世。
【文学の部屋|上田 敏】明治時代編.19
13東京都
1868-1903を生きた小説家、評論家。現在の早稲田大学で学び、坪内逍遥の影響を受けたのちに硯友社を結成し、同人雑誌「我楽多文庫」を発刊した。1885(明治18)年に発表した「二人比丘尼色懺悔」で文壇に登場し、その後『金色夜叉』などの作品で人気を博す。作風は、美しい文体と情感豊かな情景描写が特徴であり、写実主義とロマン主義を融合させた。写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。代表作の「金色夜叉」は、貫一とお宮の悲恋物語が当時の読者に大きな衝撃を与えたが、未完に終わった。門下生には、泉鏡花、徳田秋声、小杉天外、柳浪など。
【文学の部屋|尾崎紅葉】明治時代編.8
13東京都
1867-1916を生きた小説家、評論家であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に英文学に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、後にイギリスに留学。帰国後、東京帝国大学で教鞭を執りながら、高浜虚子に勧められ「吾輩は猫である」を1905(明治38)年に執筆し文壇デビュー。その後、「坊っちゃん」や「草枕」などの作品で人気を博し、日本近代文学に新たな視点をもたらした。作風は、ユーモアと風刺に富み、人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「こころ」や「明暗」などの作品を残した。
【文学の部屋|夏目漱石】明治時代編.6
13東京都
1867-1947を生きた小説家。幼少期から江戸文学などに親しみ、特に日本古典文学に強い関心を持つ。1889(明治22)年「風流仏」や1892(明治25)年「五重塔」で文壇に登場し、理想主義的な作風で知られた。のちに、写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受章している。
【文学の部屋|幸田露伴】明治時代編.5
13東京都
1864-1909を生きた小説家、翻訳家。現在の東京外国田大学でロシア語を学び、ロシア文学に傾倒。その後、坪内逍遥の勧めで「小説総論」を発表する。1887(明治20)年に発表した「浮雲」は、日本初の近代小説とされ、写実主義の先駆けとなる。ロシア文学の翻訳も多く手掛け、特にツルゲーネフの作品を手掛けた。
【文学の部屋|二葉亭四迷】明治時代編.4
13東京都
1829-1894を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から当時の文学に関心高く、特に戯作文学に惹かれた。1855(安政2)年に発生した安政の大地震に関するルポルタージュ「安政見聞誌」を執筆したことで、その名を広めるきっかけとなる。1874年には日本人が刊行した最初の漫画雑誌「絵新聞日本地」を創刊した。代表作には「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」など、西洋文化を取り入れた風刺的な作品を残した。
【文学の部屋|仮名垣魯文】江戸時代編.31
13東京都
1816-1893を生きた歌舞伎狂言作者。幼少期から当時の読本などの文学に親しみ、特に歌舞伎に強い関心を持つ。1835(天保6)年に五代目鶴屋南北の門下となり、1843(天保14)年には河原崎座の立作者となった。作品は、特に「白浪物」と呼ばれる盗賊を主人公にした世話物で名作を打ち立て、高く評価された。代表作に「三人吉三廓初買」や「青砥稿花紅彩画」などがある。明治時代には新歌舞伎の先駆者としても活躍し、リアリズムを取り入れた作品を多く手掛け、生涯に手掛けた作品は300以上、晩年までその筆は衰えなかった。
【文学の部屋|河竹黙阿弥】江戸時代編.30
13東京都
1783-1842を生きた戯作者であり幕臣。旗本の家に生まれ、幼少期から文学に親しみ、『源氏物語』を江戸時代の設定に翻案した長編合巻『偐紫田舎源氏』が大ヒットを記録するも、天保の改革による風俗取締りの影響を受けた。狂歌や川柳にもその才能を発揮し、数多くの作品を残した。
【文学の部屋|柳亭種彦】江戸時代編.26
13東京都
1776-1822を生きた戯作者。黄表紙や合巻、滑稽本の多くの作品を手がけ、その中でも「浮世風呂」や「浮世床」は代表作として知られる。また商人としての一面もあり、化粧品・売薬店を経営して化粧水「江戸の水」薬「仙方延寿丹」などを売り出して成功を収めた。
【文学の部屋|式亭三馬】江戸時代編.24
13東京都
1767-1848を生きた戯作者。山東京伝に弟子入りを乞うも、弟子ではなく出入りを許され、京伝の代作や黄表紙を執筆。その後、版元だった蔦屋重三郎の後押しをうけ、読本でベストセラーを連発し、一大ブームを巻き起こした。途中でほとんど失明しながら、お路の代筆を得て、大作「南総里見八犬伝」を28年をかけて完成させた。
【文学の部屋|曲亭(滝沢)馬琴】江戸時代編.22
13東京都
1761-1816を生きた戯作者であり浮世絵師。浮世絵を北尾重政に学び、大田南畝に認められ、画師として狂歌絵本の作者となる。その後、朋誠堂喜三二と並び称される黄表紙作家として人気を博するも、洒落本が風俗をみだしたとして50日の刑に処された。それから、読み本作家に転向し、曲亭馬琴と人気を二分する。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」などの随筆を残した。
【文学の部屋|山東京伝】江戸時代編.19
13東京都
1755-1829を生きた歌舞伎狂言作者。初世桜田治助に学んで桜田兵蔵と称し、のち沢兵蔵・勝俵蔵を経て、1811(文化8)年に、南北を襲名した。3世までは、役者あったが4世より作家となる。世話物を得意とし、すぐれた舞台構成と写実的作風の傑作をのこした。代表作「お染久松色読販」「東海道四谷怪談」などがある。
【文学の部屋|鶴屋南北 (4世)】江戸時代編.18
13東京都
1749-1823を生きた狂歌師、戯作者であり幕臣。多くの筆名を持ち、特に「蜀山人」や「四方赤良」の名で知られる。狂歌や狂詩を通じて天明狂歌ブームを牽引し、黄表紙や洒落本など多岐にわたる文芸活動を展開。代表作は、寝惚先生文集や万載狂歌集など。
【文学の部屋|大田南畝】江戸時代編.17
13東京都
1746-1811を生きた歌人であり国学者。賀茂真淵に師事し、国学はもとより、歌や漢詩にも優れ、江戸の歌壇に重きをなし、稀代の名文家とも評されている。また、毒舌家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|村田春海】江戸時代編.16
13東京都
1743-1822を生きた戯作者、浄瑠璃作家であり大工棟梁。1786年に主宰した「噺の会」では、初代三笑亭可楽や初代三遊亭円生などの落語家を輩出し、落語の再興に尽力した。また、式亭三馬や柳亭種彦などを庇護した親分肌でもあった。
【文学の部屋|烏亭焉馬】江戸時代編.15
13東京都
1738-1791を生きた俳人。 与謝蕪村、大島蓼太などと共にこの時代の俳諧で活躍。諸国を遊歴したのちに、江戸日本橋に春秋庵を開いて、その記念に「春秋稿」初篇を編む。その後続刊しながら、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|加舎白雄】江戸時代編.14
13東京都
1735-1813を生きた戯作者であり、秋田藩役人。藩に勤めながら、戯作活動を行い、雅号として「朋誠堂喜三二」や「手柄岡持」を使用して、黄表紙界の大物作家となった。代表作の「文武二道万石通」は、松平定信の寛政の改革を風刺した作品として知られている。
【文学の部屋|平沢常富】江戸時代編.13
13東京都
1718-1790を生きた雑俳の点者であり興行師。俳句が砕けた雑俳の作品に優劣を評価し点をつけることを生業とし、これを万句合と称して興行化に成功する。前句に対する付句は、短詩としてその後独立し、この点者の俳号から、のちに川柳と呼ばれるようになり、現在の川柳の原型となった。
【文学の部屋|柄井川柳】江戸時代編.11
13東京都
1703-1782を生きた俳諧師。大名の間で流行していた江戸座俳諧宗匠として活躍し、酒井抱一などを輩出した。また与謝蕪村と親交も厚かったとされる。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【文学の部屋|馬場存義】江戸時代編.7
13東京都
1860-1934を生きた経営者であり実業家。幼いころから時計店で修繕の技術を学び、1877(明治10)年に服部時計修繕所を開業。その後1881(明治14)年に服部時計店を創業。輸入時計販売を手掛ける一方で、国産時計の製造を開始。1913(大正2)年には日本初の腕時計「ローレル」を製造・販売を開始した。
【経営者の部屋|服部金太郎】明治時代編.71
13東京都
1846-1898を生きた経営者であり実業家。明治期に入り、北海道で椎茸製造や物産業、旅館業を営む。1876(明治9)年には、秀英舎(現、大日本印刷)を創業する。秀英舎は、新聞や書物の印刷を手掛け、日本初の洋製本を上梓するなど、印刷業界で大きな影響力を誇った。東京板紙会社、大日本図書、日本吉佐移民会社、国民貯蓄銀行などの経営にも携わる。労働組合の結成や工場法の制定を主張し、「日本のロバート・オウエン」とも称されている。
【経営者の部屋|佐久間貞一】明治時代編.64
13東京都
1934- を生きる経営者であり実業家。専業主婦から、「株式会社発明サービスセンター」を設立し、発明家と企業を仲介するサービスを開始。その中で、女性生理用品の改良に目をつけ、製造・販売するアンネを設立した。アンネは1993(平成5)年にライオンに吸収合併され、その後ユニ・チャームに譲渡された。
【経営者の部屋|坂井泰子】昭和時代編.35
13東京都
1931-2023を生きた経営者であり実業家。1953(昭和28)年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、祖父が創業した資生堂に入社。物流の合理化、流通の再編成をすすめ、また医薬品開発など経営の多角化をおこない同社を業界大手に育て上げた。東京都写真美術館の館長など文化活動も盛んであった。
【経営者の部屋|福原義春】昭和時代編.32
13東京都
1926-2007を生きた経営者であり実業家。高校教師などを経て、1961(昭和36)年に西武百貨店に入社。1969(昭和44)年に西武が引き取った東京丸物百貨店を改装し、若者ファッション専門店として池袋パルコとして創業。その後、渋谷パルコを開設し、全国に展開。パルコ文化と呼ばれる若者文化を創り出した。またホテル経営にも参入している。
【経営者の部屋|増田通二】昭和時代編.30
13東京都
1905-1981を生きた経営者であり実業家。1927(昭和2)年に東京新宿に紀伊國屋書店を開業。舟橋聖一らと共に『文芸都市』や『行動』を創刊し、尾崎士郎らと『文学者』を立ち上げ、資金を提供して刊行を支援。戦後は海外に支店を展開し、紀伊國屋書店を大型書店へと発展させた。また、小説『世話した女』や随筆集『夜の市長』などの著作を発表し、文筆家としても活躍した。
【経営者の部屋|田辺茂一】昭和時代編.17
13東京都
1904-1993を生きた経営者であり実業家。1949(昭和24)年に横浜市立大学の教授となり、1954(昭和29)年には同大学商学部長に就任。その後、不動産ビジネスに専念するために大学職を辞職し、1959(昭和34年)に森ビルを設立。東京の虎ノ門や新橋地区にオフィスビルを集中的に建設し、アークヒルズやラフォーレ原宿などの大型プロジェクトを完成させた。森ビルを貸しビル業界の大手に育て上げ、日本の都市開発に大きく貢献した。
【経営者の部屋|森 泰吉郎】昭和時代編.16

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0039イタリア共和国出身
1525-1594を生きた作曲家。ルターの唱えた宗教改革以降、伝統か改革かを迫られたローマ・カトリック教会音楽。その高位聖職者の心を掴んむ歌詞を重視したポリフォニーでカトリック宗教音楽界の頂点に達した。晩年には最高傑作と称えられるCanticum Canticorum を1584年に完成させた。モテットをベースに当時の権力者であったローマ教皇への進言でもあったとされる作品とされる。
【音楽の部屋|パレストリーナ】ポリフォニー作曲の巨匠
0034スペイン王国出身
1582-1643を生きた作曲家。独自のポリフォニーをスペインバレンシアに開花させ、ミゼレーレ(Psalm 51)を18声以上で書き上げた。スペイン伝統のフラメンコにおける2つのパートで構成されていたビジャンシーコを3つのパートで構成する画期的な変革をおこなったことでもその名を残している。
【音楽の部屋|コメス】ビジャンシーコに変革をもたらした作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1585-1672を生きた作曲家。留学先のヴェネツィア楽派ジョヴァンニ・ガブリエリに師事、帰国後宮廷音楽の発展に尽力した。ドイツ語で表現したPsalmen Davidsを1619年に発表。ヴェネツィア楽派由来の豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させたことは特筆する偉業であった。またドイツにおける最初のオペラと伝わるシュッツ作のダフネはオペラと呼べる作品であったかについて現在検証されている。
【音楽の部屋|シュッツ】大バッハへ繋ぐドイツ音楽の父
0039イタリア共和国出身
1583-1643を生きた作曲家。サン・ピエトロ大聖堂オルガニストとして生涯活躍し、新たなカンツォーナやトッカータを表現し、初期バロック音楽の草分けとなる。フレスコバルディを師と仰いだフローベルガー(1616-1667)の流れを南ドイツ・オルガン楽派と呼ばれている。
【音楽の部屋|フレスコバルディ】南ドイツ・オルガン楽派の祖
0049ドイツ連邦共和国出身
1571-1621を生きた作曲家。著書Syntagma musicum(音楽大全は3巻(当初は全4巻の予定と伝わっています)を発行した最古の音楽事典とされ,その第2巻は当時の楽器についての記述があり当時の貴重な資料となっている。1612年に発表した300以上の舞曲を編曲した「Terpsichore」はフランスを中心としたダンスミュージックに用いられていたと考えらている。
【音楽の部屋|プレトリウス】学者肌の作曲家
0041スイス連邦出身
1486-1542を生きた作曲家。フランドル楽派第2期に活躍した巨匠ハインリヒ・イザークに学び、中世ドイツの旋律や和声法を取り入れた多声歌曲で多くの作品を残した。フランドル楽派とドイツ音楽の融合した作曲活動は後のルネサンス期音楽に大きな軌跡を残した。
【音楽の部屋|ゼンフル】フランドル楽派とドイツ音楽の融合
0039イタリア共和国出身
1567-1643を生きた作曲家。ルネサンス音楽からのバロック音楽の時代を作り上げる。伝統あるサン・マルコ大聖堂の楽長を1602年よりつとめ、1607年に初演されたオルフェオを作曲し注目を集め、バロック時代のオペラ到来となる。モンテヴェルディの最高傑作であり、バロックオペラを代表するオペラポッペーアの戴冠は今でも人々を魅了する演目となっている。
【音楽の部屋|モンテヴェルディ】オペラを開花させた作曲家
0031ネーデルランド(オランダ)王国出身
1562-1621を生きた作曲家。フランドル楽派最後の巨匠と位置付けられており、詩篇やモテットなど数多くの作品を残した。またオランダ国内にとどまらず、北ヨーロッパにその名を響かせ、特に多くのドイツ人オルガン奏者を育て上げた功績により「ドイツのオルガニスト育成の父」と称されている。また単一主題と三部構成から成るファンタジアは、のちのバロック期に人気を博したフーガへ発展したとされる。
【音楽の部屋|スウェーリンク】フランドル楽派最後の巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1562-1612を生きた作曲家。ヴェネツィアでウィラートに師事してたガブリエリにから音楽を学び、その後アウクスブルク、ニュルンベルク、ドレスデンで活動。ヴェネツィア楽派のスタイルに独自の音楽スタイルを築き上げた。ルネサンス後期のドイツ音楽をリードした一人。
【音楽の部屋|ハスラー】母国に捧げるドイツ音楽
0044英国出身
1562-1628を生きた作曲家。エリザベス1世らに仕えオルガニストとして活躍。特に鍵盤楽器のための作品を多く残した。その一方でブルの生涯には謎が多くまとわりつく。その謎は女王陛下のためのスパイ活動を行っていたのではとの憶測も広がっている。そして1613年母国英国を離れその後、アントワープ大聖堂のオルガニストとして活躍した。
【音楽の部屋|ブル】謎めく作曲家
0039イタリア共和国出身
1553-1599を生きた作曲家。イタリア・ルネサンス期における宗教音楽が中心だったローマやベネチアと一線を画した、世俗音楽としてマドリガーレ作曲家として特に活躍する。その作品は美しい旋律や感情豊かな表現で人々を魅了した。
【音楽の部屋|マレンツィオ】伊出身・後期マドリガーレの巨匠
0049ドイツ連邦共和国出身
1559-1625を生きた作曲家であり音楽理論家。アウグスブルクの聖ウルリッヒと聖アフラの修道院で音楽を学び、キリスト教音楽の指導者カントルをつとめた。その後音楽理論を論文として「Compendium musicae」を 1591 年に執筆。1681年までに13 版ヨーロッパ全土で教科書として発行されて、その影響は偉大であったとされている。
【音楽の部屋|グンペルツハイマー】対立を回避させた作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1553-1611を生きた作曲家。教会少年合唱団からラッソ率いるバイエルン宮廷楽団の団員となり師事する。その後ヴェネツィアではメルーロにも師事した。ケーニヒスベルクとベルリンの宮廷楽長として約250の宗教音楽などを中心に作曲しました。彼は初期バロック・プロテスタント教会音楽の発展に活躍した。
【音楽の部屋|エッカルト】プロテスタント教会音楽の巨匠
0039イタリア共和国出身
c.1550-1605を生きた作曲家。宗教音楽やマドリガーレでルネサンス期に活躍し、特にマドリガルコメディの分野でその名を刻み音楽劇の先駆けとなった。その作品「L'Amfiparnaso」は1597年ヴェネツィアで出版された。このマドリガルコメディは見て楽しむものではなく、聴く喜劇であると考えられている。
【音楽の部屋|ヴェッキ】音楽劇の先駆け作曲家
0034スペイン王国出身
1528-1599を生きたスペインの宗教音楽の黄金時代を代表する作曲家。ルネサンス期からバロック期にかけてスペインのアンダルシア地方で活動したアンダルシア楽派(Escuela Andaluza)の一人。宗教音楽だけではく、世俗的な音楽(歌曲や器楽曲)も残す。
【音楽の部屋|ゲレーロ】アンダルシア楽派の一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1581-1634を生きた作曲家でありオルガニスト。ニュルンベルクでもっとも古い教区教会の聖ゼーバルト教会でオルガニストを生涯つとめた。さまざまなスタイルのモテットを作曲し17世紀を代表するニュルンベルク楽派の創設者とも称される。
【音楽の部屋|シュターデン】ニュルンベルク楽派の創設者
0049ドイツ連邦共和国出身
1494-1576を生きた詩、音楽を教示するマイスターシンガーであり、本職は靴職人。マルティン・ルターの宗教改革に賛同し、ドイツ語で書いたDie Wittenbergisch Nachtigallは、当時の宗教的な議論や出来事を風刺的に描写し後押しとなる作品となった。後にリヒャルト・ワーグナーはハンスを主人公として楽劇"ニュルンベルクのマイスタージンガー"を作曲している。
【音楽の部屋|ザックス】マイスターシンガー筆頭
0039イタリア共和国出身
c.1377-1445を生きた作曲家であり詩人。恋人の夜明けの別れの嘆きをテーマとした"ターゲリート"のジャンルで活動を行う。独自のスタイルでその作曲数は100編以上と伝わる。その作風は、愛の成就、時折別れや悲哀の描写を織り交ぜ、その豊かな表現力は詩人としての一面も。15世紀の音楽と文学史にその名を残している。
【音楽の部屋|ヴォルケンシュタイン】後朝の作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1483-1546を生きた神学者であり作曲家。教皇の教義・権威によらないキリスト教信仰の自由や聖書に書かれている教えを信奉することを唱え、95ヶ条の論題を教会のドアに掲示して宗教改革を行う。その改革の一つとして、それまでラテン語であった教会音楽を母国語の歌詞に翻訳し、聖書の言葉を理解しやすい言語で歌い、賛美すること目指しプロテスタント音楽の礎を築く。
【音楽の部屋|ルター】母国語で行った宗教改革
0049ドイツ連邦共和国出身
1488-1548を生きた作曲家であり印刷技術者。トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)のキリスト教音楽指導者として活動した。宗教改革指導者であったマルティン・ルターを支持しルター派楽譜の普及に尽力する。またラウは印刷業も営み、楽譜印刷を通じて幅広くプロテスタント教会音楽の発展に寄与した。
【音楽の部屋|ラウ】作曲家であり印刷業者
0032ベルギー王国出身
1532-1594を生きたその美声から幼少期に誘拐の逸話が残るほどの作曲家。ヨーロッパ各地で活動し、ミラノやナポリで経験を積む。その後ミュンヘン宮廷楽団長となり終身活躍した。ミサ曲やモテトゥス、マドリガーレなど2000曲以上の多彩な作品を残し、宗教曲ではルネサンス様式と劇的な表現の作風。特にミュンヘン宮廷でのアルブレヒト5世公と深い親交と相まって、ヨーロッパ中でそのラッソの音楽は高く評価された。アルブレヒト5世公が門外不出とした「7つの悔悛詩篇曲集」があり現在もなお語り継がれている。
【音楽の部屋|ラッソ】バイエルン公に認められた作曲家
0032ベルギー王国出身
1521-1603を生きた作曲家。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世とその後継者ルドルフ2世時の宮廷音楽家としてその名を馳せた。そしてマドリガーレ後期のマドリガル作曲を司り、当時最も多くの作品を残した。その数は1100曲以上とも伝わっている。
【音楽の部屋|モンテ】後期マドリガーレの巨匠
0032ベルギー王国出身
1515-1565を生きた作曲家。音楽家としての才能を発揮するためイタリアへ渡り当時のサン・マルコ大聖堂楽長であったウィラートに師事し研鑽を積み、その後ウィラートを継ぎ同聖堂の楽長となった。特にルネサンス期のマドリガーレの分野でその名を響かせた。 ※出生年を1515年、出生地をベルギーとさせていただきます
【音楽の部屋|ローレ】中後期マドリガーレの巨匠
0039イタリア共和国出身
1517-1590を生きた作曲家であり音楽理論研究者。キオッジャ大聖堂で楽団員となりその後同聖堂のオルガニス、そしてサン・マルコ寺院の当時の楽団長エイドリアン・ウィラートに師事。その後1565 年より同寺院の楽長を終身つとめる。1558年にLe istitutioni harmonicheを著したことで西洋の数学的音楽理論の展開を進め16世紀最大の音楽理論家と称されている。
【音楽の部屋|ツァルリーノ】数学的音楽理論を提唱
0034スペイン王国出身
c.1500-1553を生きたルネサンス期の作曲家。アビラやプラセンシアの大聖堂での楽長として活躍し、その後パウルス3世の治めるローマ教皇庁聖歌隊歌手として活動。時代を反映した宗教曲を数多く残し当時のヨーロッパ音楽に影響を与えた。
【音楽の部屋|モラーレス】スペイン宗教音楽史を刻む作曲家
0039イタリア共和国出身
1533-1604を生きた作曲家兼オルガニスト。1556年にブレシア大聖堂、その後サン・マルコ大聖堂のオルガニストに就任し、30年以上にわたり作曲と演奏で活躍した。また多くの優れた後継者を育て、楽譜の出版も手がける。その偉業はベネチアの音楽文化に大きな影響を与えた。
【音楽の部屋|メールロ】オルガニスト伊の巨匠
0044英国出身
1543-1623を生きた作曲家。カトリック信仰であるバードは、プロテスタントを信仰するエリザベス1世の絶大な信頼を享受し宮廷楽団(チャペル・ロイヤル)としてオルガニストとして、またイギリス国教会のための宗教音楽、マドリガル、コンソート伴奏付き歌曲、室内楽、バージナル音楽、と当時のすべての音楽シーンで活躍した。その偉大さから英国における"音楽の父"と称される。
【音楽の部屋|バード】エリザベス1世に捧げた音楽人生
0033フランス共和国出身
1528-1600を生きたルネサンス期の作曲家。Musique mesurée(フランスの声楽作曲のスタイル)を発展させ、詩の韻律的な律動とリズムを結びつける新しい表現技法を開拓。その結果、クレメン・ジャネランが築き上げたシャンソンをさらに進化させ、新たな音楽的表現を確立。この功績はフランス音楽史に大きな足跡を刻みました。
【音楽の部屋|ル・ジュヌ】シャンソンを発展させた作曲家
0043オーストリア共和国出身
1459-1537を生きた作曲家でありオルガニスト。オーストリア宮廷、神聖ローマ帝国の宮廷で天才オルガニストとして名声を築いた。オルガニストとしてオルガンのための作品を多く手がけ、その才能はヨーロッパ全土に広がっていた。
【音楽の部屋|ホーフハイマー】偉大なオルガニスト
0032ベルギー王国出身
c.1450-1521を生きたフランス・フランドル楽派の作曲家であり、ルネサンス音楽期に活躍。対位法の巧妙な技術を用いて、旋律の美しさ、複雑さ、そして感情豊かな表現を特徴としている。ジョスカンの作曲が世に広まった背景の一つとして印刷技術の発展があり、それまで書写であった楽譜がペトルッチなどの印刷業者によって印刷した楽譜を出版可能となり、1502年にはジョスカンのミサ曲集が出版されている。
【音楽の部屋|ジョスカン】世界初出版された作曲家
0032ベルギー王国出身
c.1490-1562を生きたヴェネツィア楽派の作曲家。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長となり終生この職を務めた.宗教曲を中心に,器楽曲など多くの曲を残す。その代表モテット作品は「O magnum mysterium」でテクスチュアルな豊かさを放っている。
【音楽の部屋|ウィラート】ヴェネツィア楽派の祖
01北海道
1917-1996を生きた歌手。上京後頼る親戚の不渡りにより芸妓の道へ。浅草で清元を延千嘉、小唄を春日とよ、民謡を菊池淡水に学び、1934(昭和9)年3月より日東蓄音器(ニットーレコード、現:日本マーキュリー)専属歌手となり同年6月10日「水兵ぶし」などでラヂオデビュー。1937(昭和12年)年公開映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌として、同名曲と共に発売された「あゝそれなのに」が90万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手に上り詰める。 戦後は女剣劇四天王のひとり、中野弘子とコンビを組み競演。 ※水兵ぶしは、美ち奴、塩原秩峰のデュオ ※女剣劇四天王 不二洋子、大江美智子、浅香光代、中野弘子
【音楽の部屋|美ち奴】私も売れっ子鶯歌手
34広島県
1915-2011を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝大)卒業後、1年間教職につくが、その美声を買われ1936(昭和11)年にコロムビアより「愛の揺籃」でデビュー。その後「古き花園」「純情の丘」「新妻鏡」などのヒット曲を歌う。戦後、美しい低音で歌う「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「別れても」など数多くのヒット曲を出し戦前戦後と活躍。その歌唱力から「歌謡界の女王」と呼ばれた。終戦の年、慰問で広島を訪れ、8月6日帰りの列車(芸備線)がトンネルに入ったところで原爆が落ち、九死に一生を得た。本来は女の未練歌「フランチェスカの鐘」を鎮魂歌として歌った。
【音楽の部屋|二葉あき子】人柄宿る歌声
14神奈川県
1910-1999を生きた歌手。オペラ歌手を目指し、その後歌謡界に転身。列強日本色濃くなった1936(昭和11)年、「忘れちゃいやヨ」が発禁処分になり、日中戦争の翌年となる1938(昭和13)年にも「支那の夜」が検閲当局に指摘される。しかし日本兵士に圧倒的な支持を得て大ヒット。その後「蘇州夜曲」も大ヒットし李香蘭と人気を二分する国民的歌手となる。戦後の1952(昭和27)年、フィリピンのマニラ市郊外モンテンルパに抑留されていた日本人との交流によって生まれた「ああモンテンルパの夜は更けて」がレコード化され、大きな感動を呼ぶ。NHK紅白歌合戦第1回(1951年)紅組初代トリを戦後の大ヒット曲「桑港のチャイナ街」つとめた。
【音楽の部屋|渡辺はま子】激動昭和の歌姫
13東京都
1906-1976を生きた歌手。1933(昭和8)年、主婦の座からコロムビアに入社。「船頭可愛や」「下田夜曲」 「博多夜船」などのヒット曲を連発し小唄勝太郎などに並ぶ人気歌手となる。戦後、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である「五木の子守唄」は全国にその名が響いた。これは音丸が現地で見出したとされ古関裕而が採譜、音丸によってキングレコードよりレコード化された。
【音楽の部屋|音丸】主婦から人気歌手へ
15新潟県
1904-1974を生きた歌手であり葭町花街芸者。芸者姿で戦前の歌謡界に一時代を築く。1932(昭和7)年独特の節回し♪ハア〜で始まる「島の娘」は空前の大ヒット。そして33(昭和8)年夏にその前年に発売された都会的な盆踊り曲「丸の内音頭」に手を加えた「東京音頭」を三島一声とのデュエットで発売。その後、またなく間に全国に広がり。盆踊りといえば東京音頭と日本の盆踊りシーン定着。それまでの妓籍から一線を画し、小唄不二派の家元として小唄勝太郎が誕生した。
【音楽の部屋|小唄勝太郎】音頭ブームの火付け役
13東京都
1906-1981を生きた音楽家。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)1928(昭和3)年首席卒業。柳宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、ドイツ人声楽家のネトケ・レーヴェに師事。この時皇后陛下の前でのベートーベンの荘厳ミサをアルト独唱者として抜擢される。その後歌謡界でも活躍し「銀座の柳」は大ヒットとなる。また「美しい日本語で歌われる香り高い日本の歌を人々の中に波のように広げよう」という運動を起こし、国語学者の金田一春彦らに呼びかけて「波の会」を結成。現在の日本歌曲振興波の会となっている。 明治時代の初めに銀座の名物であったヤナギは、関東大震災で焼失するも佐藤千夜子の唄う「東京行進曲」に続き四家歌う大ヒット曲「銀座の柳」で復活を果たした。
【音楽の部屋|四家文子】昭和の声楽界大御所
01北海道
1911-1984を生きた歌手。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)卒業、その後覆面歌手「ミス・コロムビア」として1933(昭和8)年浮草の唄でデビュー。同年松竹蒲田映画「十九の春」の主題歌を大ヒットさせコロムビアの看板歌手となる。その後生涯と共にするデビューまもない霧島昇と松竹映画「愛染かつら」の主題歌旅の夜風をカップリングし黄金期を迎えた。
【音楽の部屋|松原 操】覆面歌手ミス・コロムビア
02青森県
1907-1999を生きた歌手。日本のシャンソン界を先導した。愛称は「ブルースの女王」。当初ピアノ科であったが、その声に魅せられた白銀のソプラノと讃えられて荻野綾子に薦められ、声楽科に転入し1929年東京音楽学校(現、東京音楽大学)首席で卒業。その歌声は10年に一度のソプラノと話題をさらった。1937年服部良一作曲の別れのブルースが空前の大ヒット。その後も雨のブルース、東京ブルースと、ヒット曲を連発しブルースの女王の地位を確立した。永遠のモダンボーイの異名ももつディック・ミネを歌手として見出したことでも知られている。
【音楽の部屋|淡谷のり子】ブルースの女王はシャンソンの母
13東京都
1919-1981を生きた歌手。作曲家大村能章に弟子入りし、声楽を歌手四家文子の指導を仰いだ。戦後難関とされたビクターの新人歌手オーディションに合格し、その後歌手デビュー。1947年「港が見える丘」が大ヒット。またこれを受けて横浜を代表する公園「港の見える丘公園」が1962年5月に開園。園内には歌碑も設置されている。日本都市公園100選に選ばれている。その歌声は濡れたビロウド(魅惑の低音ボイス)と称されている。
【音楽の部屋|平野愛子】港が見える丘♪が由来!?
37香川県
1914-1985を生きた歌手であり俳優。不合格となった宝塚音楽歌劇学校を諦め、現在の日本歌劇学校の前身であった松竹楽劇部生徒養成所に入る。芸名を三笠静子とし1927年初舞台を踏んだ。その後、改称された大阪松竹少女歌劇(OSSK)の第一回公演「カイエ・ダムール」の主題歌として「恋のステップ」をリリース。その歌唱力とダンスで世間を圧巻した。戦後、戦前からシズ子の才能を認めていた服部良一作曲の「東京ブギウギ」が戦後日本において大ヒットとなり、ブギウギブームを巻き起こした。ブギとつく曲は全16曲を数え「ブギの女王」と称された。2023年秋放送の朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で描かれる。 ※1987年同じくNHKで放映された銀河テレビ小説「わが歌ブギウギ」でも同モデルとして描かれている。
【音楽の部屋|笠置シヅ子】美空ひばりを魅了したシンガー
07福島県
1910-1910を生きた歌手はピアニストの夢を諦めずに、上京後音楽学校編入。コロンビアレコードの所属し1933年デビューを果たす。その後戦火にあわせて軍歌を数々ヒットさせた。戦後は戦前からの同郷の友、古関裕而作曲「イヨマンテの夜」が大ヒット、高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」も古関裕而作曲で1948年に発売している。
【音楽の部屋|伊藤久男】エールに栄冠は君に輝く贈る
28兵庫県
1911-1998を生きた松竹京都撮影所の銀幕スターはその美声で「大江戸出世小唄」を大ヒットさせ歌手デビュー。"歌う映画スター”と称された。戦後はシリーズ「伝七捕物帖」で人気復活を果たす。
【音楽の部屋|高田浩吉】歌う銀幕俳優
36徳島県
1908-1991を生きた歌手はブルースの女王淡谷のり子に見出され、1935年「ダイナ」を大ヒットさせ、和製ジャスの草分け的存在となる。戦後も芸能界で活躍しその分野の親分的存在であった。脚本家ジェームス三木の名付け親でもある。
【音楽の部屋|ディック・ミネ】永遠のモダンボーイ
05秋田県
1908-1944を生きた歌手はサラリーマンを経て当時レコード歌謡人気で勢いのあった日本ポリドールに入社。ポスト東海林太郎と期待され1936年デビューを果たし人気歌手となる。1938年"上海だより"の歌いだし「拝啓 御無沙汰しましたが」は戦争の色濃くなる日本において東海林太郎を上回るヒットとなり当時の流行語にもなる。その後召集され35歳で戦死。
【音楽の部屋|上原 敏】エースの歌声は拝啓ご無沙汰
14神奈川県
1903-1942を生きた歌手は家業の医院を継ぐため医師を目指すも東京音楽学校に進学、音楽校教員からビクター専属歌手となり侍ニッポンが大ヒット。その後の♪とんとんとんからりん…と歌いだしの"隣組"はドリフの大爆笑のオープニング曲の原曲であり、CMソング替え歌としても採用され今耳にしても新鮮。声楽家(Bariton)としても活躍。
【音楽の部屋|徳山 璉】♪ド・ド・ドリフは私の曲
05秋田県
1898-1972を生きた遅咲きの歌手は大学卒業後、満州鉄道入社。その後夢であった歌手を目指しクラシック歌手としてデビュー。その後戦果の色濃くなる時と同じくしてヒット歌謡曲を連発し国民人気歌手の座を射止める。戦後は癌を患い闘病しながらも直立不動の姿勢、独特の髪型、特徴的なロイド眼鏡は健在、歌謡界初の紫綬褒章受賞をはたした。
【音楽の部屋|東海林太郎】その歌う姿は直立不動
0039イタリア共和国出身
1813-1901を生きたイタリアオペラ作曲家。自身3作目となる演目ナブッコの斬新的な旋律でまずはミラノ市民を魅了、その後イタリア統一運動の機運と相まってイタリア全土に支持され象徴的存在になる。このナブッコの第3幕2場で歌われる「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は第二のイタリア国歌と位置付けられ、その作者であるヴェルディはオペラ王と今も称えられている。
【音楽の部屋|ジュゼッペ・ヴェルディ】イタリア全国民の心に響く"Va, pensiero, sull'ali dorate"
0039イタリア共和国出身
1858-1924を生きたイタリアオペラ作曲家はテーマを人間をリアリズムを表現する作風。一度耳にすると口ずさむことのできる旋律で聴衆を魅了。未完でありながら代表作として名を馳せるトゥーランドッドの初回公演を指揮した生涯の右腕トスカニーニの指揮棒を落とす名場面はいまでもプッチーニの偉大さを象徴。
【音楽の部屋|ジャコモ・プッチーニ】一度耳にするとリフレインするイタリアオペラ作曲家
0039イタリア共和国出身
1792-1868を生きた初期ロマン派時代のオペラ界をリードした売れっ子作曲家。作曲の特徴は同じフレーズを徐々に音量を増やしながら繰り返し聴衆を魅了する。また彼の名を世界に今もなお響かせているのは美食家としての一面。特にフォアグラやトリュフを組み合わせた料理はロッシーニ風として今も食卓を彩っている。
【音楽の部屋|ジョアキーノ・ロッシーニ】作曲家と美食家どっちが有名?
0039イタリア共和国出身
1466-1532を生きた音楽家はリローネ(弦14本のヨーロッパ古楽器)の発明者。レオナルドダビンチを師と仰ぎ、リュート(有棹撥弦楽器)のスペシャリストとして活躍。またその歌声はルネッサンス期最高の歌唱力と称された。 20世紀に入りレオナルドの描いた肖像画(Portrait of a Musician)はミリオロッティとされています。
【音楽の部屋|アタランテ・ミリオロッティ】私の師はレオナルド
0039イタリア共和国出身
1750-1825を生きたイタリア出身のウィーン宮廷楽長は師であり親代わりの当時の宮廷楽長ガスマンに学び、その後ベートーヴェン、シューベルトといった世界的な音楽家を育てる音楽教育家としても名を残した。
【音楽の部屋|アントニオ・サリエリ】知られざる天才イタリア作曲家
0043オーストリア共和国出身
1736-1809を生きた古典派音楽の作曲家であり音楽教育者は親交のあった交響曲の父フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの依頼によりベートーヴェンの師となる。音楽を理論的思考で捉えていることから、ハイドンは作曲のベストティーチャーと称える。
【音楽の部屋|アルブレヒツベルガー】ベートーベンの師はベストティーチャー
0043オーストリア共和国出身
1756-1791を生きた古典派音楽の天才作曲家は35歳で早世。父レオポルドの英才教育を受け、その才能をさらに開花。そして古典派音楽(交響曲)の父と称されたフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとの出会いによって古典派音楽は絶頂期を迎える。
【音楽の部屋|モーツァルト】まさに天才作曲家
0043オーストリア共和国出身
1732-1809を生きた圧倒的な演奏時間と作曲数で交響曲の父と称される作曲家は、音楽が階級の高い人たちだけのものだった時代(バロック)から、市民にも手に届く時代(古典派)に活躍。そして楽曲形式のひとつ「ソナタ形式」を確立。
【音楽の部屋|ハイドン】市民による市民のための音楽をつくりました
0043オーストリア共和国出身
1908-1989を生きた20世紀世界を魅了した指揮者。解釈された音楽に対して演奏者一人一人の能力を最大限に引き出し、そしてその能力を調和させる卓越したリーダー的要素に加えて、その彼の存在自体がゲストのみならず開場一体を虜にする絶対的なカリスマ性で今もその人気は衰えず。
【音楽の部屋|カラヤン】孤高の指揮者・20世紀クラシック界の帝王
0001アメリカ合衆国出身
1901-1971を生きた「キング・オブ・ジャス」と称されたジャズトランペット演奏者。ニューオリンズ発祥のアフリカ系アメリカ人音楽だったジャズを世界に広げ存在感を高めた。その功績は人種の垣根を乗り越えるダイバーシティ先駆者でもあった。
【音楽の部屋|ルイ・アームストロング】King of Jazz Satchmo!!
0001アメリカ合衆国出身
1898-1937を生きた20世紀のアメリカ音楽史最も名を馳せた作曲家。初のクラシック作曲作品「ラプソディ・イン・ブルー」はアメリカで進化したジャズとヨーロッパ伝統のクラシックを化学反応させたアメリカンミュージックを確立。1935年に発表したオペラ「ポギーとベス」はいまも人気作品のひとつ。
【音楽の部屋|ジョージ・ガーシュウィン】アメリカンミュージックの生みの親
0001アメリカ合衆国出身
1927- を生きる屈指のソプラノ・リリコ・スピント歌手。メトロポリタン・オペラで初のアフリカ系アメリカ人として主演を演じた実力者はアメリカ文化に貢献した人に送られるケネディ・センター賞を1980年に受賞。
【音楽の部屋|レオンティン・プライス】メトロポリンタン・オペラに響かせた伝説の歌姫
0001アメリカ合衆国出身
1897-1993を生きたアフリカ系アメリカ人アルト(コントラルト)歌手。出身のアメリカ合衆国において人種問題をその歌声を武器に闘い革命を巻き起こす。そして敗戦後連合国統治から復帰した1953年に来日を果たし被爆地広島を含む全国ツアーを実施し、その歌声で日米の新たな歴史を繋いだ。
【音楽の部屋|マリアン・アンダーソン】歌声でダイバーシティを巻き起こす
0001アメリカ合衆国出身
1923-1977を生きた20世紀を世界を代表するソプラノ歌手。その人生は公私共に波瀾万丈。トップの座を射止めた歌声は完璧を追い求め、そして愛に翻弄される。2023年は生誕100年、そして2017年に公開された「私は、マリア・カラス」はマリアの未完の自叙伝を映画化。誰も知らないマリア・カラスに会えます。
【音楽の部屋|マリア・カラス】Maria by Callas
13東京都
1911-1997を生きた長唄唄方は豊かな歌唱力と深みある芸風で古典芸能の世界を継承。作曲活動も積極的に努められ、1987年重要無形文化財個人所有者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|杵屋佐登代】昭和の長唄唄方最高峰のひとりは人間国宝
13東京都
1909-1998を生きた日本舞踊流派のひとつ吾妻流を昭和に入り再興した家元。幼きころは7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事し踊りの基礎を学び、14歳で名取りは天才少女と囃し立てられた。
【音楽の部屋|吾妻徳穂】日本舞踊界の天才少女は吾妻流宗家・初代
26京都府
1905-2004を生きた井上流、井上八千代(四世家元 四代目) は寛政年間(1789~1801)に近衛家の舞指南役を勤めた井上サト(初世井上八千代)が宮廷文化を基盤に創始し、約二世紀の歴史を持つ祇園甲部の正式唯一の流派。京都の年中行事「都をどり」を1872年より開催。
【音楽の部屋|井上八千代(四世家元 四代目)】4月の風物詩「京都をどり」を支えた井上流家元
13東京都
1924-2018を生きた日本舞踊花柳流の舞踊家は、古典伝承と創作活動(「湯女群像」や「吾輩は猫である」を発表)の両面で活躍。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|花柳寿南海】人間国宝の代表作は「吾輩は猫である」
13東京都
1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
35山口県
1905-1996を生きた学校教師は夢だった歌手に転身、戦前マロニエの木陰が大ヒット、その後第1回NHK紅白歌合戦出場から合計10回の実力派。山口県柳井市には松島詩子記念館。
【音楽の部屋|松島詩子】教師から転職「マロニエの木陰」大ヒット
0049ドイツ連邦共和国出身
1813-1883を生きた歌劇王の異名を持ち19世紀ヨーロッパ全土を魅了した作曲家。その一度聞いたら虜になる作曲はまさに天才。その天才的な音楽家は自身の生活よりも犬を愛した動物好きの一面も。
【音楽の部屋|リヒャルト・ワーグナー】天才歌劇作曲家を癒したのは犬だった!?
0049ドイツ連邦共和国出身
1810-1856を生きた指の影響でピアニストから偉大な作曲家に転身。当時人気のピアニストクララとの二人三脚で音楽界を渡り歩くも、精神疾患を患いその才能を46歳で閉じた。
【音楽の部屋|ロベルト・シューマン】すべてのピアノを愛した作曲家
0049ドイツ連邦共和国出身
1819-1896を生きた作曲家でありピアニストはドイツ紙幣100マルクの肖像でもあった。
【音楽の部屋|クララ・シューマン】19世紀の天才音楽少女
0049ドイツ連邦共和国出身
1833-1897を生きた高い完成度を求めた作曲家はロベルト・シューマン、クララに出会うことでその後の人生を広げた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「バッハ」そして「ブラームス」)の一人。
【音楽の部屋|ブラームス】本物の完璧主義者!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1685-1750を生きた音楽一家に生まれた偉大な作曲家は苦境の中に光を見出した努力家であった。そして20人の子供をもうけ大家族は音楽一家を形成。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「ベートーベン」「ブラームス」そして「バッハ」)の一人。
【音楽の部屋|J.S.バッハ】音楽の父は、大家族の父でもあった!?ドイツ3Bの一人
0049ドイツ連邦共和国出身
1770-1827を生きた作曲家は交響曲,協奏曲,室内楽曲,ピアノ曲,声楽曲など,あらゆるジャンルにわたり作品を手がけた。ドイツ3B(ドイツを代表する大作曲家「バッハ」「ブラームス」そして「ベートーベン」)の一人。
【音楽の部屋|ベートーベン】散歩と引越し好きのドイツ3Bの一人
28兵庫県
1915-2012を生きた兵庫県出身 1915-2012 元宝塚歌劇団専科の男役で劇団名誉理事を歴任。1933年に新設された星組に配属、戦後雪組組長となり1946年歌劇公演を再開。本名は石井吉子、愛称は春日野先生、ヨッちゃん先生。
【音楽の部屋|春日野八千代】ヨッちゃん先生見守る入学式@宝塚音楽学校

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13東京都
1930-を生きるノンフィクション作家。幼少期に満洲へ移住。敗戦後の引き揚げ体験が後の作品に深く影響を与える。早稲田大学卒業後、中央公論社編集者を経て、1972(昭和47)年「妻たちの二・二六事件」で作家デビュー。以後「火はわが胸中にあり(1978)」「滄海よ眠れ(1986)」など、昭和史・戦争・女性の生き方をテーマに綿密な取材と史実に基づく作品を多数発表。菊池寛賞、日本ノンフィクション賞、朝日賞など受賞歴多数。社会的発言にも積極的で、「九条の会」呼びかけ人など戦争の悲劇と平和の尊さを訴え、現在も活動を続ける。
【文学の部屋|澤地久枝】昭和時代編.173New!!
13東京都
1930-2007を生きた小説家。戦前は海軍軍医の父の転勤に伴い各地を転々とする。津田塾大学英文学科卒業後、夫の赴任先アラスカで執筆を開始。1968(昭和43)年、アラスカの風土に生きる男女を描いた「三匹の蟹」で芥川賞を受賞し文壇に登場。その後、女学生時代に広島で原爆投下後の救援活動に従事し、その惨状体験を生かした「浦島草(1977)」などの神話的な世界観や、超越した人間描写で、数々の作品を手がけた。1987年から約10年間、芥川賞初の女性選考委員を務めた。本名は美奈子。
【文学の部屋|大庭みな子】昭和時代編.172
シューちゃん

シュー(Syu)です
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館長

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