偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいま政治の部屋より、古墳時代からお届けしています↓

シューちゃん

古墳時代から政治家たちをお届けしています

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

新着偉人(It's New)

13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!

2026年 生誕記念

今年、節目の年を迎える偉人たちをご紹介します

生誕1100年

Emperor Murakami 7/14/926

926-967を生きた政治家(第62代天皇)。醍醐天皇の第十四皇子。兄・朱雀天皇の譲位を受けて即位した。叔父である藤原忠平の死後は、摂政・関白を置かずに自ら政務を執り行い、父が志した天皇親政を再興した。その治世は「天暦の治(てんりゃくのち)」として後世に理想化されるほど、秩序と文化が安定した時代と評価されている。内政では、貨幣鋳造(乾元大宝)や朝儀・年中行事の整備など、国家の権威と秩序の再構築に尽力した。文化面ではとくに和歌を深く愛し、日本初の正式な選歌機関である「和歌所」を設置して「後撰和歌集」の編纂を命じる。宮廷では「天暦の菊合(きくあわせ)」に象徴されるような雅やかな文化が花開き、村上天皇自身も管弦の名手として知られるなど、平安貴族文化の成熟を体現した存在であった。しかし、その輝かしい治世の裏側では、次第に実権を強める藤原氏との権力バランスの維持に苦心し、崩御後は摂関政治が固定化していく。村上天皇の治世は、天皇が自らの知性と意志で国を治め得た、平安時代における「最後の輝き」とも評される重要な時代であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|村上天皇】平安時代編.24

生誕900年

Taira no Tokiko ?/?/1126

1126-1185を生きた平家一門。平清盛の妻として平家政権を内側から支えた女性で、安徳天皇の祖母にあたる。高い教養と政治的感覚を備え、平家一門の精神的支柱として尊崇された。平家滅亡の際には「二位尼(にいのあま)」として安徳天皇の身を守りつつ行動し、壇ノ浦の戦いで追い詰められた幼い安徳天皇を抱き、入水したことで知られる。その姿は「平家物語」に「浪の下にも都のさぶらふぞ」と描かれ、日本史に残る悲劇的で荘厳な最期として語り継がれる。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|平 時子】平安時代編.18

生誕200年

Gustave Moreau 4/6/1826
Stanislao Cannizzaro 7/13/1826
Sadaji Tsukamoto 12/30/1826

1826-1905を生きた経営者。江戸時代から明治初期に近江商人として活躍。現在の株式会社ツカモトコーポレーションの創始者であり塚本定右衛門(2代)としても名を刻んでいる。
【経営者の部屋|塚本定次】江戸時代編.1
1826-1910を生きた化学者。有機化学の反応であるカニッツァーロ反応を発見。原子と分子,当量の明確な区別をしたことで物理学との整合性をもつ新しい原子量決定法と原子量体系を築く。このことから、後のメンデレーエフ(1834-1907)による周期表の発明に大きな影響を与えた。
【化学の部屋|カニッツァーロ】19世紀に活躍した世界の化学者XXⅣ
1826-1898を生きた時は印象派(前)台頭時代、光の中の温かみのあるタッチに背を向けて、古典回帰を彷彿させるような宗教的題材に丁寧な線と色彩で光を当てる作風を示し、理念や感情を表現した象徴主義を方向付けた。後にフォーヴィスムと呼ばれる野獣派を牽引するマティス、ルオーらを指導したことでも名を残している。
【画家の部屋|ギュスターヴ・モロー】野獣派を育てた象徴主義の巨匠

生誕100年

Momo Iida 1/10/1926
Hiroshi Yoshino 1/16/1926
Hitomi Yamaguchi 1/19/1926
Tsuji Masda 4/27/1926
Marilyn Monroe 6/1/1926
Shinichi Hoshi 9/6/1926

1926-2015を生きた作詞家。戦後、住む家を求めて家族で長野県下諏訪町へ転居。この地で「これからは詩の道で生きる」と決意し、湖畔や山々を歩きながら詩作に没頭する中で「あざみの歌」を書き上げた。1946年に帰京、キングレコードに入社し藤浦洸に師事。1949(昭和24)年、NHKラジオ歌謡で「あざみの歌」が放送され、その翌々年に歌・伊藤久男によってレコード化し大ヒット。作詞家としての歩みを大きく歩み始めた。1953(昭和28)年にはキングレコードに移り、歌・三橋美智也「哀愁列車(1956)」などを作詞した。さらに歌・倍賞千恵子「下町の太陽(1962)」「さよならはダンスの後に(1965)」など、倍賞作品の約1割にあたる詞を提供し、その清純な輝きを放つ歌手人生を支えた。
【文学の部屋|横井 弘】昭和時代編.230
1926-1998を生きた作詞家。戦後の混乱期を乗り越えて1947(昭和22)年、二松学舎専門学校(現、二松学舎大)を卒業。文芸通信社を経て1952(昭和27)年雑誌「平凡」と日本コロムビア共催の作詞コンクールに入選し、「サラリーマン節」で作詞家デビュー。1958(昭和33)年にポリドール専属となり、歌・西田佐知子「アカシアの雨がやむとき(1960)」が、時代の行き止まりに立ち尽くす若者たちの心を射止め、その後大ヒットし注目を集める。歌・加藤登紀子「赤い風船(1966)」、歌・渡哲也「くちなしの花(1973)」など、多くの名曲は、庶民の孤独や哀感を静かにすくい上げる詞風で昭和歌謡を支えた。本名は奥村聖二。
【文学の部屋|水木かおる】昭和時代編.229
1926-2014を生きた詩人。戦後は労働組合運動に従事するも過労で倒れ、療養中に詩作を開始。1952(昭和27)年に詩誌「詩学」に「I was born」を投稿し注目される。翌年には川崎洋・茨木のり子らの詩誌「櫂」に参加。谷川俊太郎、大岡信らとともに、若い世代の共感を呼び戦後詩の新たな潮流を築いた。1957(昭和32)年に第一詩集「消息」を刊行し、以後「幻・方法」などを発表し、1972(昭和47)年「感傷旅行」で読売文学賞、「自然渋滞(1989)」で詩歌文学館賞を受賞。その詩風は、平易な言葉で、人間の弱さと優しさを描いき、多くの作品を残した。
【文学の部屋|吉野 弘】昭和時代編.139
1926-2011を生きた小説家であり評論家。東京帝国大学法学部卒業後、日本銀行に入行するも、結核を患い退職。療養中に日本共産党、その後新左翼陣営に転じて共産主義労働者党を結成。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や思想の科学研究会などで活動を行う。文学家として、戦後に同人誌「世代」の創刊に参加。1961年、太平洋戦争下を背景にした長編小説「斥候よ、夜はなお長きや」を発表。以後、思想・文化・政治を横断する評論活動を展開し、「アメリカの英雄(1965)』などを刊行。また、東大で机を並べた三島由紀夫の自決一ヶ月後、「三島由紀夫(1970)」を刊行し話題をさらった。本名は飯田桃。
【文学の部屋|いいだ もも】昭和時代編.138
1926-1997を生きたSF作家。東京大学農学部卒。大学院在学中に父の急逝により星製薬の社長に就任するも、経営難から退任。その後、1957(昭和32)年に短編「セキストラ」で作家デビュー。以後、「ボッコちゃん(1971)」など、奇抜な発想と意外な結末をもつショートショートを多数発表し、SF文学の第一人者として不動の地位を築いた。1968(昭和43)年には「妄想銀行(1967)」で日本推理作家協会賞を受賞。1983年10月には目標としていたショートショート1001編を達成し、以後は若手作家の育成やエッセイ執筆に注力。没後2013(平成25)年、日本経済新聞主催「星新一賞」が創設され、その精神はいまもなお受け継がれている。本名は星 親一。
【文学の部屋|星 新一】昭和時代編.137
1926-1995を生きた小説家。早稲田大学中退後、川端康成などが講師をつとめていた鎌倉アカデミアに入学、歌人吉野秀雄に師事し文芸活動を開始。出版社勤務を経て、1958(昭和33)年に開高健の推薦で壽屋(現、サントリー)に入社。PR誌「洋酒天国」の編集やコピーライターとして活躍し、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」のキャッチコピーや、成人・新社会人に向けた叱咤激励「直言シリーズ」で知られた。その後、婦人画報に連載した「江分利満氏の優雅な生活(1961~62)」で第48回直木賞を受賞し文壇に登場。以後、母の出自を探った「血族(1979)」、父の人生を辿った「家族(1983)」などを発表し、庶民の生活感や人間関係をユーモアと哀愁を交えて描いた。1963年から死去までの32年間、週刊新潮に連載された日記形式のコラム「男性自身」は、実に1614話に達し、軽妙かつ日常生活の哀歓を綴り、昭和のサラリーマン文学の金字塔となった。
【文学の部屋|山口 瞳】昭和時代編.136

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シューちゃん
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館長
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特集コーナー

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現在特集中政治の部屋
古墳時代からお届けしています

1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕う
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計する
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現する
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|牧野成貞】側用人として泰平を動かす
シューちゃん

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Commemorative Broadcast of Boogie Woogie
朝ドラ「ブギウギ」放送記念

1907-1993を生きた作曲家。19歳でオーケストラに入団し作曲を学ぶ。その後日本コロムビアに専属作曲家として活躍。淡谷のり子への作曲を皮切りに、多くのヒット曲を連発、また戦中は上海で李香蘭へも曲を届けた。そして戦後は笠置シヅ子とのブギウギシリーズをはじめ昭和音楽を築いた。その作曲数は3000を超えた。
【音楽の部屋|服部良一】ブギウギ放送記念①
1889-1950を生きた経営者であり興行師。夫、泰三を共に大阪天満にて寄席興行をはじめ、後の吉本興業を興す。それは大阪の演芸界に革新を起こし、現在も大阪生まれの独自路線で人気を博している。
【経営者の部屋|吉本せい】ブギウギ放送記念②
1910-1998を生きた映画監督。画家になることを夢見たが、現在の東宝に入社し1943年姿三四郎で映画監督デビュー。戦後は敗戦国の姿とヒューマニズムを掛け合わせた作品で、生きることをフィルムに込めた。それは中学時代に読み漁ったロシア文学、その中でもドストエフスキーの影響があったとされている。
【映画監督の部屋|黒澤 明】ブギウギ放送記念③
1924-2010を生きた歌手であり俳優。1929年に子役デビューし、俳優としての才能をすぐさま発揮し人気を博す。戦前後に数々のスクリーンに登場し活躍した。歌手としては1949年公開の主題歌カンカン娘で大ヒットを果たす。引退後はエッセイスト、脚本家として活躍した。
【音楽の部屋|高峰秀子】ブギウギ放送記念④

Medical Scientists active before the 16c.
16世紀以前に活躍した医学者

1493-1541を生きた医学者。ヨーロッパ中を放浪しながら、従来より伝わっていたガレノスなどの当時の医学を論駁し、独自の思想や天文学、錬金術などからなる考え方を示した。その中でも梅毒に対し、物質変換を主旨とした錬金術から見出した水銀を用いた治療を採用するなど、金属化合物の臨床応用を唱えた。このことから毒性学(Toxicology)の分野を切り拓いた一人とされており、医療革命としてのルネサンスの扉を開いた。
【医学の部屋|パラケルスス】16世紀以前に活躍した世界の医学者①
1497-1558を生きた医学者。世界初の医学理論書と位置付けられている医学(1554年)を著した。この書は、生理学、病理学、治療法の3部構成からなり、特に生理学の始まりを告げたと考えられている。この書の普及には、この当時の印刷技術の発展が大きく寄与している。
【医学の部屋|フェルネル】16世紀以前に活躍した世界の医学者②
1510-1590を生きた医学者。これまで主流が内科であった医学に、外科を内科レベルまで引き上げた一人であり、外科学の父と称されている。軍医の経験からそれまで銃創は焼き鏝などで治療を行なうことを止め、独自に調合した軟膏などを用いて治療を行った。また四肢の切断等、血管にも用いられていた烙鉄を動脈結紮による止血法を考案した。これらはヴェサリウスによる解剖学の理解から得られたとされている。著書にA collection of Paré's works(初版1575年)があり、楢林鎮山により紅夷外科宗伝として1706年に翻訳されている。
【医学の部屋|パレ】16世紀以前に活躍した世界の医学者③
1514-1564を生きた医学者。2世紀ガレノスによって興った解剖を、De Humani Corporis Fabrica Libri Septem(1543年)によって解剖を学問レベルに引き上げた。その詳細な解剖図はガレノスの学説からの転換期となる。その後カール5世の侍医などの要職をつとめた。その解剖学の先鋭眼は当時の医学界に大きな衝撃を与え、風当たりも強かったとされる。 それらの背景には16世紀に発展した印刷技術によりガレノスの著作物に触れる機会が多くなったことが挙げられる。またこの当時の解剖学の先駆者としてはレオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられ、その解剖図は数百とも言われ臓器図も描かれている。
【医学の部屋|ヴェサリウス】16世紀以前に活躍した世界の医学者④

Medical Scientists active in the 17c.
17世紀に活躍した医学者

1638-1686を生きた医学者、解剖学者、博物学者でありカトリック司教。コペンハーゲン大学で医学教育を受けた後、ライデン大学で学位を取得。解剖学分野に長け、耳下腺から口腔に唾液を運ぶ管を発見し、この耳下腺管はステノン管と呼ばれている。その後イタリアフィレンツェにて博物学(地質学)研究でその才能を発揮した。その後、ルターの宗教改革を受けカトリックに改宗、神学を学びドイツのカトリック信仰に努めた。
【医学の部屋|ステノ】17世紀に活躍した世界の医学者①
1561-1636を生きた医学者。世界最古の大学と目されるパドヴァ大学で哲学を、その後アルクア大学で医学を学び21歳という若さで学位を取得した。その後出身大学のパドヴァ大学医学教授となり、体重、体温、心拍数などのホメオスタシス研究を行った。特に1614年に著したDe Statica medicinaに不感発汗を報告したことでその名を刻んでいる。
【医学の部屋|サントーリオ】17世紀に活躍した世界の医学者②
1624-1689を生きた医学者であり臨床医。理論よりも臨床を第一に掲げ、マラリアの病態を明確化や猩紅病、リウマチや痛風など観察研究を重視した。このことから疫学研究の祖とも考えられている。その姿はブールハーフェに大きな影響を与えた。イギリスのヒポクラテスとも称されている。
【医学の部屋|シデナム】17世紀に活躍した世界の医学者③
1621-1675を生きた医学者。脳解剖の先駆者でありCerebri anatome(脳の解剖学 1664年)を著し、その観察から大脳皮質が思考に影響を与えていると考えていた。また5つの動脈輪で構成されている大脳動脈輪を現したことでもその名を刻み、現在もウィリス動脈輪と呼ばれている。また糖尿病を患うと尿が甘いことを突き止めており、当時の糖尿病はウィリス病と呼ばれていた。
【医学の部屋|ウィリス】17世紀に活躍した世界の医学者④

Medical Scientists active in the 18c.
18世紀に活躍した医学者

1668-1738を生きた医学者であり教育者。牧師の子として生まれライデン大学で神学、哲学を、その後独学で医学を学び、Harderwijk大学で学位を取得。博物学なども研究し、母校のライデン大学で医学講義を開始。その授業はヨーロッパ最高峰のベストティーチングと評判となり各地から聴講生が押し寄せる。同大学でヨハネス・ヘルニウス(1543-1601)より行われていた臨床実習を確立したことから、大学病院設立と臨床教育の先駆者となった。Institutiones medicae(医学教程 1708年)は主に生理学分野に特化した医学理論書、Aphorismi de Cognoscendis et Curandis Morbis(箴言 1709年)は医学実地書として著している。植物学にも明るく、門下のリンネ(1707-1778)は分類学の父と称されている。
【医学の部屋|ブールハーフェ】18世紀に活躍した世界の医学者①
1709-1751を生きた医学者。オランダ・ライデン大学でブールハーフェに師事。師の提唱した古来の学説をもとにした生理学とデカルト発の機械論的な視座を併せ持つ機械論的生理学をフランスに持ち帰り、さらに発展させた人間機械論(1747年)を展開した。その主張はフランスでは受け入れられず、のちにベルリンに亡命しフリードリヒ大王の庇護を受けた。
【医学の部屋|ラ・メトリ】18世紀に活躍した世界の医学者②
1730-1799を生きた医学者。天然痘の予防方法を学ぶために渡英、そこで天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種する人痘法を学ぶ。マリア・テレジアの要請により英国王室より派遣され人痘法を行い成功させる。このことからオーストリア宮廷の侍医となる。また植物と光の関係を明らかにした研究(Experiments upon vegetables 1779年)は、その後の光合成の発見につながっている。
【医学の部屋|インヘンハウス】18世紀に活躍した世界の医学者③
1708-1777を生きた医学者。ライデン大学でブールハーフェに師事し、その後1736年ゲッチンゲン大学の解剖学などの初代教授となる。1747年に生理学に関する概論Primae lineae physiologiae、そして1757~66年にかけて著したElementa physiologiae corporis humani. 8 Bändeで生理学を大家となる。その中でも筋繊維の収縮は物理学的でなく筋肉内に存在する物質による作用であることを見出した。また18世紀におきた論争、前・後成説で、ハラーは前成説の立場をとったことでも知られている。
【医学の部屋|ハラー】18世紀に活躍した世界の医学者④

Medical Scientists active in the 19c.
19世紀に活躍した医学者

1745-1826を生きた医学者。19世紀新たな分野として脳医学を発展させる。それまでは精神病とされた人を鎖で繋ぐなど拘禁の時代に、同僚であったPussin(1745-1811)がその拘禁から解放し待遇改善を行なったのをヒントに医学者として、その行為の妥当性を提唱した。その環境下で精神病の特徴を昼夜観察し、精神医学分野を切り開くTraité médico-philosophique sur l'aliénation mentale(1801年)を著し、精神医学の祖と称されている。
【医学の部屋|ピネル】19世紀に活躍した世界の医学者①
1749-1823を生きた医学者。ジョン・ハンター(1728-1793)に医学を学び、牛痘に一度罹った人は天然痘に感染しないことを実証(牛痘接種法)し、それまでの人痘接種法を上回る免疫を獲得することに成功。1798年Inquiry into the Variolae vaccinae known as the Cow Poxを著し、その後のワクチン誕生への礎となった。
【医学の部屋|ジェンナー】19世紀に活躍した世界の医学者②
1755-1821を生きた医学者。心臓学の分野を切り拓いた一人とされ、L. Auenbrugger(1722-1809)の提唱した胸部打診を広く普及させ、心肺機能の病気診断方法とした。その後門下であったR. Laennec(1781−1826)による聴診器の発明につながっている。教育者であり、臨床医は、皇帝ナポレオンの主治医もつとめている。
【医学の部屋|コルヴィザール】19世紀に活躍した世界の医学者③
1781-1826を生きた医学者。J.N. Corvisart(1755-1821)の門下となり、この師の唱えた胸部音など医学を学んだ。その後臨床下で直接よりも間接聴診が適する症例に出会い聴診器を発明、その後De l'auscultation médiate Colophon(1819年)に著し、現在の医療現場でも欠かせない器具となっている。また肝硬変やメラノーマなどを発見し、病理解剖学者としてもその名を刻んでいる。
【医学の部屋|ラエンネック】19世紀に活躍した世界の医学者④

Unexpected Medical Scientists in the Edo Period
江戸時代の意外な医業者

1730-1801を生きた国学者であり医師。母の勧めもあり京都にて堀 影山(1688-1757)に師事し国学や医術を学び、1758年10月に故郷の三重松坂に帰郷し本居春庵医院を開業。その後、賀茂真淵に師事し源氏物語や古事記など日本古典を通じて古代の思想・文化研究を行なった。国学の大成を成し遂げたとされ、国学四大人に数えられる。
【医学の部屋|本居宣長】江戸時代の意外な医業者①
1734-1809を生きた(前期)読本の著者筆頭格の作家であり医師。当時中国から俗文学として日本に輸入された白話小説を翻案した前期読本の自身代表作となる短編の怪談奇談集「雨月物語」を和漢混淆文で著した。1771年に火災に伴い全財産を失ったことをきっかけに医師を志し、その2年後に大阪加島で医書を読み漁り、多くの患者と接しながら医術の体得後、1776年大阪尼崎にて開業し1788年には廃業。大阪淡路に隠居の身となり執筆活動を復活させた。
【医学の部屋|上田秋成】江戸時代の意外な医業者②
1776-1843を生きた国学者であり医師。秋田藩を脱藩し裸一貫で江戸に出て、最新の学問を苦学で身につけた。1805年本居宣長の嫡子春庭の門下となり1807年に現在の東京京橋にて玄瑞医院を開設。その約2年後には医院を閉鎖。この間に傷寒雑病論解、医道大意(志都能石屋)を著し、医術に深く関わっていたと考えられている。医業を辞めたあとも診察を望む患者は絶えなかったとされる。 国学四大人の一人。
【医学の部屋|平田篤胤】江戸時代の意外な医業者③

Confucianism and Medicine in the Edo Period
江戸時代の儒学と医学

1608-1648を生きた儒学者。儒道と士道は同じ道と独学で学びを深めた。朱子学を当時の社会に適応させるべく、王陽明全書を読破し、その思想を開化し陽明医学の実践法の一つとする「致良知説」に傾倒した。そして自ら私塾を開き、その学問を極め日本陽明学の祖とされる。多くの医書も残し、その医術を学ぶために藤樹のもとに留学を希望するものは絶えなかったとされる。
【医学の部屋|中江藤樹】江戸の儒学と医学①
1666-1728を生きた儒学者。山鹿素行の説いた古学聖学に、辞学的に研究を行なった古文辞学の一派を築く。その思想はその後国学を形成する本居宣長に影響を及ぼしたとされる。父、兄弟共に医者であり、医に多く触れる環境であり、自身も医学書として徂徠先生医言、素問評、鑒定傷寒論を著している。
【医学の部屋|荻生徂徠】江戸の儒学と医学②
1630-1714を生きた儒学者であり薬学者。浪人の身となったことを機会に江戸や京都に遊学し儒学を学ぶ。そこで出会った江戸期の本草学を発展させたとされる向井元升(1609-1677)と医薬の研鑽を深めた。65歳で花譜、75歳で菜譜、そして80歳のときに大倭本草を著し、元升の本草学をさらに高め、日本における博物学の発展となった。84歳には養生訓を著し18世紀を生きる人々への健康法を記した。
【医学の部屋|貝原益軒】江戸の儒学と医学③
1627-1705を生きた儒学者であり古学古義学(堀川学派)の祖。後の傷寒論などの古典に立ち返る医学となる古方派に影響を与えた。山脇東洋もその一人であり、日本初の人体解剖につながる。その生涯は親族から医者になることを勧められるもそれを拒み、加えて儒学者が医者になることを強く非難するも、医者として活躍する多くの門人を抱え慕われた。
【医学の部屋|伊藤仁斎】江戸の儒学と医学④

Before and After of Kaitai Shinsho
ビフォーアフター解体新書

1706-1762を生きた医学者。中国金元時代の医学からの脱却を目指した古方派筆頭の後藤艮山(1659~1733)に師事し、その後同派の大家となる。五臓六腑説に疑問を抱き、ついに1754年幕府の許可を得て日本初の人体解剖を行った。その記録は1759年「蔵志」にて著した。
【医学の部屋|山脇東洋】ビフォーアフター解体新書編①
1723-1803を生きた医学者。40歳を過ぎてから習得したオランダ語力を発揮し解体新書の翻訳を杉田玄白の申し出に同意し尽力した。人と交わることを好まない性格であった。数少ない弟子に解体新書の改訂を行った大槻玄沢がいる。
【医学の部屋|前野良沢】ビフォーアフター解体新書編②
1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】ビフォーアフター解体新書編③
1757-1827を生きた医学者。杉田玄白の門下となり、その後前野良沢より蘭学を学び蘭学塾として芝蘭堂を開校。江戸蘭学の基盤を築いた。解体新書の改訂となる重訂解体新書を完成させている。玄沢の名は師であった玄白、良沢の名をとったものであった。蘭語の指導書として青木昆陽、前野良沢の流れを汲み「蘭学階梯」を1788年に著しており、外国語教育を発展させた一人でもある。
【医学の部屋|大槻玄沢】ビフォーアフター解体新書編④

Before and After of P.S.Siebold
ビフォーアフター P.S.シーボルト

1743-1828を生きた医学者であり博物学者。分類学の父と称されたリンネ(1707-1778)に学び、解体新書が登場した翌年1775年に出島に来日。76年には江戸参府一行に加わり日本の医学者と交わったとされる。日本へ刺絡療法のほか、消毒・殺菌効果を利用した水銀水(マーキュロクロム液)療法を広めた。一方、鍼灸療法をヨーロッパに持ち帰ったとされる。
【医学の部屋|ツンベルク】ビフォーアフターP.F.シーボルト編①
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
【医学の部屋|小石元俊】ビフォーアフターP.F.シーボルト編②
1771-1849を生きた医学者。関西遊学時に小石元俊に蘭学を学び、その後元俊の薦めで芝蘭堂へ留学し、大槻玄沢、宇田川玄真に蘭学を学んだ。その後大阪に戻りクリニックを開業する。1822年に西日本で流行したコレラ(狐狼狸)の治療を積極的に行ったとされている。
【医学の部屋|斎藤方策】ビフォーアフターP.F.シーボルト編③
1760-1835を生きた医学者。漢蘭折衷医家は、外科分野で全身麻酔による世界初めての乳がん摘出手術(1804年)に成功し、その名を刻みこの部位では合計で143症例を行ったとされ、その他の手術も行っている。
【医学の部屋|華岡青洲】ビフォーアフターP.F.シーボルト編④

Chemists active in the 18c.
18世紀に活躍した化学者

1733-1804を生きた化学者であり、バリウムやマンガンなどの元素や多くの化合物を発見し報告した。また、酸素ガスについて「Chemical Treatise on Air and Fire」という論文を1777年に著したが、プリーストリーより2年遅かったため、酸素の初発見者とは認められていない。しかし、シェーレはプリーストリーより数年前に酸素の存在を確認していた。
【化学の部屋|プリーストリー】18世紀に活躍した世界の化学者①
1742-1786を生きた化学者であり、バリウムやマンガンなどの元素や数多くの化合物を発見し報告した。また酸素ガスにおいて、1777年Chemical Treatise on Air and Fireとして著したがプリーストリーより2年遅れたため、発見者となっていない。プリーストリーより数年前にその酸素の存在を確認していたという。
【化学の部屋|シェーレ】18世紀に活躍した世界の化学者②
1728-1799を生きた化学者。ヘルモント(1579-1644)が発見した空気とは異なる気体を石灰や炭酸マグネシウムを熱した際、その重量が減少することを確認し、そこから消失した気体が二酸化炭素(当時の呼び名は固定空気)であることを発見した。これは1754年にDe Humore Acido a Cibis Orto et Magnesiaとして著されている。
【化学の部屋|ブラック】18世紀に活躍した世界の化学者③
1735-1784を生きた化学者。ウプサラ大学で鉱物と化学研究を行った。シェーレの指導教授として酸素発見の道をひらくも、論文の推敲が遅れたことが、プリーストリーの後背となった原因とも囁かれている。
【化学の部屋|ベリマン】18世紀に活躍した世界の化学者④

Chemists active in the 19c.
19世紀に活躍した化学者

1777-1857を生きた化学者。とても高価だったウルトラマリンの代替品の研究をフランス政府より依頼され、コバルトブルーの合成に1802年に成功させた。これにより青色絵の具が普及し始め、ターナー、ルノワール、モネなどの印象派やゴッホなどのポスト印象派絵画に影響を与えたとされる。ホウ素や過酸化水素の発見者としてのその名を刻んでいる。
【化学の部屋|テナール】19世紀に活躍した世界の化学者①
1778-1829を生きた化学者。ボルタ電池を用いて様々な化合物の電気分解を行ったことでその名を刻んでいる。その結果カリウム、ナトリウムなどを発見した。また電灯の初期作品となるアーク灯を発明し実用的な世界初の電灯となった。
【化学の部屋|デービー】19世紀に活躍した世界の化学者②
1779-1848を生きた化学者。セリウム、セレンなどの元素を発見し、ポリマーなどの化学用語をはじめ、元素記号の原型,化合物命名法を築いた。そして有機・無機化合物の分類を初めて示したことでもその名を刻んでいる。
【化学の部屋|ベルセリウス】19世紀に活躍した世界の化学者③
1786-1889を生きた化学者。脂肪が酸性物質とグリセリンの化合物であることを明記したRecherches chimiques sur les corps gras d'origine animale(1823年)で生物物質における化学分析を初めて著した。またDe la loi du contraste simultané des couleurs(1839年)は類似色の調和、対比の調和といった色彩研究を著し、スーラなどの新印象派に影響を及ぼした。
【化学の部屋|シュヴルール】19世紀に活躍した世界の化学者④

Chemists active in the 20c.
20世紀に活躍した化学者

1866-1919を生きた化学者。中心金属原子に配位子と呼ばれる分子やイオンが結合する配位子場理論を提唱し、このことから錯体化学の創始者となる。この新たな無機化学の研究分野を拓いたことから1913年ノーベル化学賞を受賞した。
【化学の部屋|ヴェルナー】20世紀に活躍した世界の化学者①
1850-1936を生きた化学者。 van't Hoff(1852-1911)と同じく化学平衡に関するル・シャトリエの法則を1884年に発表し、その後、この分野で30本以上の論文を発表した。
【化学の部屋|シャトリエ】20世紀に活躍した世界の化学者②
1863-1944を生きた化学者。1907年にフェノールとホルムアルデヒドとの反応によるフェノール樹脂を発明し、世界初の完全な人工合成樹脂が誕生させた。これをベークライトと名づけ、そのことでプラスチックの父と現在は称されている。
【化学の部屋|ベークランド】20世紀に活躍した世界の化学者③
1868-1934を生きた化学者であり物理化学者。当時化学者として名を馳せていたHofmann(1818-1892)やBunsen(1811-1899) に化学を学んだのちに、1904年から着手した空気中の窒素からアンモニアを合成する研究を行い、ハーバー(・ボッシュ)法として確立した。この功績から1918年ノーベル化学賞を受賞した。また第一次世界大戦中に毒ガス兵器の研究を行ったことでも知られている。
【化学の部屋|ハーバー】20世紀に活躍した世界の化学者④

Literary figures active from the Asuka period
飛鳥時代から昭和時代活躍した文学者

出没年不明 飛鳥時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、皇子や皇女の死に際しての挽歌や、天皇の行幸に供奉して詠んだ歌が多いことから、宮廷に仕えた宮廷歌人であったと考えられている。柿本人麻呂と明記された歌は万葉集に長歌16首、短歌67首を数え、柿本人麻呂歌集では長短含めて約370首が収められている。皇室関係、自然、旅、死、恋愛などを題材にした雄渾な作風で知られ、のちに、山部赤人と共に歌聖と称されている。
【文学の部屋|柿本人麻呂】飛鳥時代編.1
出没年不明 奈良時代を生きたと思われる文学家であり歌人。人物像は主に作品から推測され、下級官人として聖武天皇に仕え、宮廷歌人として活躍したと推察されている。また各地を旅し、その土地の歌を残した。自然の美しさを詠んだ叙景歌で知られ、対句や比喩を多用した緻密な表現が特徴。万葉集は長歌13首,短歌37首が収められている。のちに、柿本人麻呂と共に歌聖と称され、三十六歌仙のひとりでもある。
【文学の部屋|山部赤人】奈良時代編.1
700年ごろ-785を生きた文学家であり歌人、そして貴族。大伴旅人の長男として生まれ、多くの官職を歴任。歌人としては、日本最古の歌集である『万葉集』の全歌数4516首のうち473首の約10%の歌が掲載されていることから編者の一人とされている。その全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残した。内訳は27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首となっている。政治的な波乱の時代であり、多くの事件や政治闘争に巻き込まれ、759(天平宝字3)年新年の宴の歌を最後に785年の没するまでの約25年間歌を詠まなかったのか、残されていないのか、いまでも不明となっている。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|大伴家持】奈良時代編.2
1887-1928を生きた歌人であり、教育者、社会運動活動家。父、大谷光尊(西本願寺第21代法主)の亡き後、兄の大谷光瑞と共にし、兄嫁と共に仏教婦人会を共同設立し、日露戦争時の兵士への支援活動を行う。佐佐木信綱に師事し、歌集「金鈴」や歌文集「無憂華」などを著した。また1923年の関東大震災後には、築地本願寺の再建やあそか病院の設立などの人道的活動を行った。京都女子高専(現在の京都女子大学)を創設者としてもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|九条武子】昭和時代編.1

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