牧野成貞 イラストポートレート

江戸時代編.30

シリーズ:泰平の裂け目 ―忠義と反逆の元禄― 第2回

牧野成貞

Makino Narisada

側用人として泰平を動かす

1635–1712 | 出生地:東京都 | 政治の部屋

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教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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「側用人として泰平を動かす」牧野成貞の物語

どのような時代を生きたのか

牧野成貞が生きた十七世紀後半は、武力によって秩序を維持してきた徳川幕府が、高度に成熟した安定的な統治体制へと変貌していく時代でした。

四代将軍・徳川家綱↗の治世には、保科正之↗らによって「武断政治」から「文治政治」への転換が進められました。そして五代将軍・徳川綱吉↗の時代を迎えると、幕府の政治機構はさらに劇的な変化を遂げることになります。成貞は1635年(寛永十二年)、旗本・牧野儀成の次男として生まれました。若い頃から、三代将軍・家光の四男である徳川綱吉↗に近侍として仕えます。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を経て館林藩家老にまで抜擢されました。

1680年(延宝八年)、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、幕政の表舞台へと躍り出ます。当初の綱吉政権は、大老・酒井忠清や堀田正俊ら重臣(幕閣)を中心に運営されていました。しかし1684年(貞享元年)、大老・堀田正俊が江戸城中で稲葉正休に暗殺されるという前代未聞の事件が起こります。将軍が最も信頼する大老を城内で失ったことは、綱吉にとって甚大な衝撃でした。この事件を機に、将軍の居所と老中たちの詰所(御用部屋)が物理的に引き離されることになります。

将軍の意思を安全かつ直接的に幕政へ反映させるため、両者を仲介する新たな仕組み。「御側御用人(側用人)」の存在が、絶大な政治的意味を持つようになっていったのです。成貞はまさに、その幕政改革の最前線に立たされることになりました。

この人物が向き合った「均衡」とは

成貞が向き合った均衡とは、
「将軍の強大な意思と、老中を中心とする伝統的な幕府制度との均衡」でした。

江戸幕府の政治は本来、老中たちの合議制によって運営される仕組み(幕閣政治)でした。一方で、将軍・綱吉は学問や礼節を重んじ、自らの理想とする政治方針を強く持った君主でした。将軍の意思のみを優先すれば政治は独断に傾き、逆に既存の制度ばかりを尊重すれば将軍の権威は形骸化しかねません。その双方の板挟みとなりながら、滑らかな疎通を図る「架け橋」として設置されたのが側用人でした。

初代側用人に任じられた成貞は、綱吉の意向を老中へ伝え、また老中や幕閣の意見を整理して将軍へ届ける取次役を担いました。これは単なる伝令役ではありません。双方の意図を汲み取り、角を立てずに政治を円滑に動かすという、極めて繊細かつ高度な政治的調整能力が求められる仕事でした。しかも「側用人」は前例のない新設の役職であり、権限の限界も手探りの状態でした。伝統を重んじる老中たちから見れば、「制度の外から将軍の威を借りて口を挟む存在」として警戒されたことも想像に難くありません。

成貞が向き合ったのは、新役職ゆえの強い緊張感でした。将軍の絶大な信任を背負いながらも、既存の幕府機構との不必要な衝突を避け、両者をつなぎ続けること——それこそが成貞に課された使命だったのです。

この人物が示した泰平との「向き合い方」とは

成貞が示した向き合い方とは、
「将軍の側近に徹し、自らの誇示を控えながら政治の回路となること」でした。

成貞は将軍・綱吉から極めて不変の信頼を受けていました。綱吉が成貞の江戸屋敷へ数多く訪問した(御成)史実は有名であり、両者の深い絆を物語っています。将軍の身近に位置する側用人は、その権勢の大きさから批判や嫉妬の対象になりやすい立場でもありました。後世の俗書や風説では、成貞や綱吉をめぐる様々な噂が語られることになりますが、それらの多くは過剰に脚色されたものであり、確実な史実ではありません。史実が語る確かな事実は、成貞が初代側用人として、激動する綱吉政権の初期から中期を誠実に支え続けたということです。やがて政治の実権は、次代の側用人である柳沢吉保へと移り、成貞は静かに政治の一線から退いていきました。しかし、側用人というシステムを幕府の新たな骨組みとして定着させたのは、紛れもなく成貞の功績でした。

保科正之↗が「制度と法制の確立」によって泰平を支えたとするならば、成貞は「将軍の意思と制度を接着する回路」をつくることで泰平を支えた人物といえます。将軍の最も近くにありながら、自らが主役になろうとせず、どこまでも「つなぎ役」に徹した姿勢こそ、成貞の生き方でした。

その生涯は何を残したのか

1712年(正徳二年)、牧野成貞は七十七歳でその生涯を閉じました。

成貞が開拓した「側用人」という役職は、その後も柳沢吉保や新井白石↗・間部詮房らに受け継がれ、江戸幕府の中央政治を動かす最高幹部ポストの一つとして定着していきました。巨大な組織や国家の政治は、現場の制度(老中)だけでも、トップの決断(将軍)だけでもスムーズには動きません。制度を動かす機構と、トップの意思を正確に伝える回路の双方が噛み合ってこそ、組織は泰平を保ち続けることができます。
成貞が残した最大の足跡は、将軍の意思と幕府という巨大な機構の間に新たな政治回路を築いたことでした。それは、戦乱が去り、複雑化した泰平の世だからこそ必要とされた「新しい政治の形」だったのです。

表舞台で華々しく語られることは少なく無くとも、将軍のすぐ傍らから幕政を静かに動かし続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」という名にふさわしいものでした。

Coming Next

明日は、前田綱紀

牧野成貞が果たしたのは、将軍の側近という立場から幕府政治を円滑に動かすことでした。

しかし、泰平の世を支えた舞台は江戸城の中だけではありません。地方の大藩において、仁政と学問によって「もう一つの泰平」を体現した名君がいました。

明日登場するのは、加賀百万石の五代藩主・前田綱紀。
第3回は、「文治で泰平を体現する」前田綱紀の物語に迫ります。

1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現する
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今回のシリーズ「泰平の裂け目」って!?

Series

泰平の裂け目忠義と反逆の元禄

完成された泰平の、その内側で

徳川家康が幕府を開き、秀忠、家光と三代にわたって統治の基盤を固めると、日本は長い戦乱の時代を脱し、安定した社会へと歩み始めました。四代・家綱、五代・綱吉の頃になると、戦のない暮らしは、もはや特別なものではなく、一つの「当たり前」として定着していきます。

しかし、その泰平は、決して自然に続いていたわけではありません。保科正之は、幼い将軍を託され、幕府を支える仕組みそのものを整え、牧野成貞は、新設された側用人として、将軍と幕閣という二つの世界をつなぎ、前田綱紀は、仁政と学問によって、加賀百万石の安定を築きました。新井白石は、学問の力で政治の理論を組み直し、青木昆陽は、一本の甘藷(さつまいも)を通じて、飢饉という最悪の未来への備えを静かに広げていきます。

けれども、どれほど完成されたように見える社会でも、その内側には必ず、歪みと矛盾が蓄積していきます。平和の時代の到来とともに進められた大名統制の結果、職を失った浪人たちの不満。そして、武士の倫理である「忠義」と、幕府が求める「法秩序」との間に生じる、埋めがたい緊張。

三代・家光の死の直後に起きた由井正雪の「慶安事件」は、その不満のマグマが噴き出した最初の瞬間でした。そして元禄十四年(1701)、浅野長矩による江戸城・松の廊下での刃傷は、潜んでいた緊張を、一気に表面化させることになります。

泰平の世に生じた、小さな、しかし決定的な裂け目。本シリーズが描くのは、その裂け目がどのように生まれ、どのように広がっていったのかという物語です。

忠義は、なぜ反逆になり得るのか

安定した体制とは、一度完成すれば永遠に維持されるものではありません。支える者がいて、守る者がいて、初めて成り立つ、危うい均衡の上に咲いた花です。

本シリーズの前半で描くのは、その均衡を誠実に支え続けた人々です。政治によって。学問によって。あるいは、一つの作物によって。それぞれが異なる立場から、戦乱なき社会を維持するために力を尽くしました。

しかし後半で描くのは、その均衡を揺るがすことになった人々です。由井正雪は、溢れかえる浪人たちの失意と不満を背に、幕府へと反旗を翻しました。浅野長矩の刃傷は、一人の大名の衝動にとどまらず、やがて江戸社会を大きく揺るがした赤穂事件へと発展していきます。そして大石良雄や堀部武庸ら赤穂浪士は、亡き主君への「忠義」を貫いた結果、幕府の「法」を破る存在となってしまいました。

ここには、歴史の大きな逆説が存在します。社会の秩序を支えるはずの「忠義」が、時として、秩序そのものへの脅威となってしまうということです。

本シリーズが伝えたいのは、「忠義」と「反逆」は、決して正反対の概念ではないということです。むしろ両者は、表裏一体、紙一重の場所に存在していました。だからこそ「元禄」という時代は、単なる華やかな黄金期としてではなく、人の心の葛藤を描く一つのドラマとして、今なお私たちを惹きつけてやまないのです。

泰平とは、静止した状態ではない

安定した社会とは、葛藤のない「一枚岩の社会」ではありません。むしろ多くの矛盾や緊張を抱え込みながら、それらを絶えず調整し続けることで、辛うじて維持されている、「動的な状態」です。

制度と学問で秩序を支えた者として、保科正之、新井白石。実学と民政で暮らしを支えた者として、前田綱紀、青木昆陽。体制からこぼれ落ちた不満の象徴となった由井正雪。武士社会が最も重んじた忠義ゆえに、法と衝突してしまった浅野長矩、そして赤穂浪士たち。

完成されたように見える社会だからこそ、内部で生じる「裂け目」は深く、時に残酷な問いを突きつけます。なお、由井正雪の出生地・生年には諸説があり史料上の確証はなく、また吉良義央の「悪役」としての人物像の多くは、後世の創作『忠臣蔵』によって形成された側面が大きいことにも、留意しておきたいところです。

元禄文化の華やかな光の陰で、静かに広がっていたその裂け目を追うことは、翻って、現代の私たちが生きる「安定した社会」の本質を、見つめ直すことでもあります。

支えた者たち。揺るがした者たち。そして、その狭間で葛藤し、生きた者たち。彼らの足跡を通して、元禄という時代の底に流れる、「泰平の裂け目」の世界を、ともに旅していきましょう。

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