前田綱紀 イラストポートレート

江戸時代編.31

シリーズ:泰平の裂け目 ―忠義と反逆の元禄― 第3回

前田綱紀

Maeda Tsunanori

文治で泰平を体現する

1643–1724 | 出生地:東京都 | 政治の部屋

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教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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「文治で泰平を体現する」前田綱紀の物語

どのような時代を生きたのか

前田綱紀が生きた十七世紀半ばから十八世紀前半は、四代将軍・徳川家綱↗の治世、五代将軍・徳川綱吉↗らの治世を経て、幕府と諸藩の政治が「武力による威圧」から「学問と法規による統治(文治)」へと大きく脱皮していく時代でした。

綱紀は1643年(寛永二十年)、加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれます。しかし1645年(正保二年)、父・光高が三十一歳の若さで急死したため、綱紀はわずか一歳で加賀百万石の家督を継ぐことになりました。幼君による大藩の相続は、幕府からの改易や厳しい介入、さらにはお家騒動の標的となりやすい極めて危険な状況でした。しかし、隠居していた祖父・前田利常が後見役として立ち上がり、幼い綱紀を支えて藩政の危機を乗り切ります。やがて利常が没すると、成長した綱紀はみずから藩政の舵を取る独立した主君として歩み始めました。

徳川家の親藩でも譜代でもない「外様大名」でありながら、全国最大の百万石を誇る加賀前田家。幕府から常に強い警戒と注視を浴び続けるなか、この巨大な藩をいかに無事に治め、泰平の世に適合させるか——それが綱紀に課された生涯の命題でした。

この人物が向き合った「均衡」とは

綱紀が向き合った均衡とは、
「外様最大の大藩としての圧倒的な力と、幕府への絶対的な恭順との均衡」でした。

加賀百万石が持つ軍事力と財力は、戦国の世であれば天下を脅かす強大な武力そのものでした。しかし、戦乱が去った泰平の世において、誇大すぎる武威は幕府の警戒を煽り、お家取り潰しのリスクを極限まで高める諸刃の剣でしかありませんでした。綱紀が選んだのは、力を誇示することではなく、その力を「安定した文治統治」へと昇華させる道でした。綱紀は四代将軍・家綱の後見役であった保科正之↗の娘(摩須姫)を正室に迎えます。この縁を通じて会津藩の文治政治や朱子学の理念を深く吸収し、武力に頼らない高潔な治世のあり方を学び取りました。

軍事的な威圧感を消し去り、高い知性と豊かな仁政によって「誰もが認める格式ある大藩」であり続けること。綱紀が向き合ったのは、巨大な存在感を幕府への脅威ではなく、「泰平の象徴的な信頼」へと変換していく繊細な均衡だったのです。

この人物が示した泰平との「向き合い方」とは

綱紀が示した向き合い方とは、
「学問を興し、文化を蓄え、仁政によって領民を慈しむこと」でした。

綱紀はまず、祖父・利常が進めていた農政改革「改作法(かいさくほう)」を完成させます。年貢の徴収方法を合理化して藩財政を安定させると同時に、農民の生活基盤を保護する先進的な農民支配を確立しました。また1669年の寛文の大飢饉に際しては、「御小屋(おこや)」と呼ばれる救護施設を設けて困窮者に食料や医療を提供するなど、徹底した救民策を講じます。さらに綱紀の政治観を象徴するのが、学問と文化に対する規格外の情熱でした。儒学者・木下順庵や室鳩巣らを招聘して藩士の教養を高めるとともに、本草学者・稲生若水を援助して動植物や鉱物を体系的に網羅する大百科事典『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂事業を強力に推進しました。また、国内外のあらゆる貴重な典籍・古文書・書画を収集し、その圧倒的なコレクションはのちに幕府の儒者・新井白石↗から「天下の書府」と絶賛されるに至ります。

武力ではなく「知」と「文化」によって藩の格を極限まで高めること。学び、救い、蓄えることこそが、綱紀の到達した泰平への答えだったのです。

その生涯は何を残したのか

1724年(享保九年)、前田綱紀は八十歳でその生涯を閉じました。

三歳で家督を継いでから実に八十年近くにわたり加賀藩主の座にあり、家綱、綱吉、家宣、家継、そして吉宗という五代の将軍の時代を駆け抜けた、まさに泰平の生き証人でした。その途方もなく長い治世を通じ、加賀藩はただの一度も流血の惨事や幕府との致命的な対立を起こすことなく、日本を代表する文化的・経済的大藩としての地位を揺るぎないものにしました。綱紀が築いた膨大な書庫と知の遺産は、現在も「尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)」として今日に受け継がれています。大藩の誇りとは、剣の鋭さを競うことにあるのではない。文化を育み、人を育て、民の暮らしを豊かにすることにある。

前田綱紀が示したその姿勢は、まさに「文治で泰平を体現する」という名にふさわしいものでした。

Coming Next

明日は、新井白石

前田綱紀が体現したのは、加賀百万石という大藩における「文治の治世」でした。

そして綱紀が収集した「天下の書府」に驚嘆し、その知識の力を今度は幕府の中枢で爆発させた人物がいます。

明日登場するのは、儒学者として将軍の頭脳となった新井白石。
第4回は、「学問で泰平を再設計する」新井白石の物語に迫ります。

1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計する
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今回のシリーズ「泰平の裂け目」って!?

Series

泰平の裂け目忠義と反逆の元禄

完成された泰平の、その内側で

徳川家康が幕府を開き、秀忠、家光と三代にわたって統治の基盤を固めると、日本は長い戦乱の時代を脱し、安定した社会へと歩み始めました。四代・家綱、五代・綱吉の頃になると、戦のない暮らしは、もはや特別なものではなく、一つの「当たり前」として定着していきます。

しかし、その泰平は、決して自然に続いていたわけではありません。保科正之は、幼い将軍を託され、幕府を支える仕組みそのものを整え、牧野成貞は、新設された側用人として、将軍と幕閣という二つの世界をつなぎ、前田綱紀は、仁政と学問によって、加賀百万石の安定を築きました。新井白石は、学問の力で政治の理論を組み直し、青木昆陽は、一本の甘藷(さつまいも)を通じて、飢饉という最悪の未来への備えを静かに広げていきます。

けれども、どれほど完成されたように見える社会でも、その内側には必ず、歪みと矛盾が蓄積していきます。平和の時代の到来とともに進められた大名統制の結果、職を失った浪人たちの不満。そして、武士の倫理である「忠義」と、幕府が求める「法秩序」との間に生じる、埋めがたい緊張。

三代・家光の死の直後に起きた由井正雪の「慶安事件」は、その不満のマグマが噴き出した最初の瞬間でした。そして元禄十四年(1701)、浅野長矩による江戸城・松の廊下での刃傷は、潜んでいた緊張を、一気に表面化させることになります。

泰平の世に生じた、小さな、しかし決定的な裂け目。本シリーズが描くのは、その裂け目がどのように生まれ、どのように広がっていったのかという物語です。

忠義は、なぜ反逆になり得るのか

安定した体制とは、一度完成すれば永遠に維持されるものではありません。支える者がいて、守る者がいて、初めて成り立つ、危うい均衡の上に咲いた花です。

本シリーズの前半で描くのは、その均衡を誠実に支え続けた人々です。政治によって。学問によって。あるいは、一つの作物によって。それぞれが異なる立場から、戦乱なき社会を維持するために力を尽くしました。

しかし後半で描くのは、その均衡を揺るがすことになった人々です。由井正雪は、溢れかえる浪人たちの失意と不満を背に、幕府へと反旗を翻しました。浅野長矩の刃傷は、一人の大名の衝動にとどまらず、やがて江戸社会を大きく揺るがした赤穂事件へと発展していきます。そして大石良雄や堀部武庸ら赤穂浪士は、亡き主君への「忠義」を貫いた結果、幕府の「法」を破る存在となってしまいました。

ここには、歴史の大きな逆説が存在します。社会の秩序を支えるはずの「忠義」が、時として、秩序そのものへの脅威となってしまうということです。

本シリーズが伝えたいのは、「忠義」と「反逆」は、決して正反対の概念ではないということです。むしろ両者は、表裏一体、紙一重の場所に存在していました。だからこそ「元禄」という時代は、単なる華やかな黄金期としてではなく、人の心の葛藤を描く一つのドラマとして、今なお私たちを惹きつけてやまないのです。

泰平とは、静止した状態ではない

安定した社会とは、葛藤のない「一枚岩の社会」ではありません。むしろ多くの矛盾や緊張を抱え込みながら、それらを絶えず調整し続けることで、辛うじて維持されている、「動的な状態」です。

制度と学問で秩序を支えた者として、保科正之、新井白石。実学と民政で暮らしを支えた者として、前田綱紀、青木昆陽。体制からこぼれ落ちた不満の象徴となった由井正雪。武士社会が最も重んじた忠義ゆえに、法と衝突してしまった浅野長矩、そして赤穂浪士たち。

完成されたように見える社会だからこそ、内部で生じる「裂け目」は深く、時に残酷な問いを突きつけます。なお、由井正雪の出生地・生年には諸説があり史料上の確証はなく、また吉良義央の「悪役」としての人物像の多くは、後世の創作『忠臣蔵』によって形成された側面が大きいことにも、留意しておきたいところです。

元禄文化の華やかな光の陰で、静かに広がっていたその裂け目を追うことは、翻って、現代の私たちが生きる「安定した社会」の本質を、見つめ直すことでもあります。

支えた者たち。揺るがした者たち。そして、その狭間で葛藤し、生きた者たち。彼らの足跡を通して、元禄という時代の底に流れる、「泰平の裂け目」の世界を、ともに旅していきましょう。

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