東京都出身 From Tokyo

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ポートレートとして東京都出身の偉人たち


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東京都出身イラストポートレートSyusuke Galleryより

東京都出身・新着偉人(It's New)

1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21New!!
1874-1916を生きた詩人、翻訳家であり英文学者。島崎藤村らに合流し文学界の同人となり、東京帝大入学後は「帝国文学」の創刊に参加する。その後、西欧の象徴詩の紹介と翻訳に力を注ぎ、1905(明治38)年の訳詩集「海潮音」は、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの詩を翻訳し、日本の詩壇に大きな影響を与えた。晩年には京都帝国大学教授や同志社大学でも教鞭を執り、多くの門下生を育成し、日本の英文学、フランス文学の発展に貢献した。唯一の小説として1910(明治43)年に自伝的小説「うづまき」を著している。41歳で早世。
【文学の部屋|上田 敏】明治時代編.19New!!
1868-1903を生きた小説家、評論家。現在の早稲田大学で学び、坪内逍遥の影響を受けたのちに硯友社を結成し、同人雑誌「我楽多文庫」を発刊した。1885(明治18)年に発表した「二人比丘尼色懺悔」で文壇に登場し、その後『金色夜叉』などの作品で人気を博す。作風は、美しい文体と情感豊かな情景描写が特徴であり、写実主義とロマン主義を融合させた。写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。代表作の「金色夜叉」は、貫一とお宮の悲恋物語が当時の読者に大きな衝撃を与えたが、未完に終わった。門下生には、泉鏡花、徳田秋声、小杉天外、柳浪など。
【文学の部屋|尾崎紅葉】明治時代編.7
1867-1916を生きた小説家、評論家であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に英文学に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、後にイギリスに留学。帰国後、東京帝国大学で教鞭を執りながら、高浜虚子に勧められ「吾輩は猫である」を1905(明治38)年に執筆し文壇デビュー。その後、「坊っちゃん」や「草枕」などの作品で人気を博し、日本近代文学に新たな視点をもたらした。作風は、ユーモアと風刺に富み、人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「こころ」や「明暗」などの作品を残した。
【文学の部屋|夏目漱石】明治時代編.6
1867-1947を生きた小説家。幼少期から江戸文学などに親しみ、特に日本古典文学に強い関心を持つ。1889(明治22)年「風流仏」や1892(明治25)年「五重塔」で文壇に登場し、理想主義的な作風で知られた。のちに、写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴と並び称され明治文学の一時代を築いた。1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受賞している。
【文学の部屋|幸田露伴】明治時代編.5
1864-1909を生きた小説家、翻訳家。現在の東京外国田大学でロシア語を学び、ロシア文学に傾倒。その後、坪内逍遥の勧めで「小説総論」を発表する。1887(明治20)年に発表した「浮雲」は、日本初の近代小説とされ、写実主義の先駆けとなる。ロシア文学の翻訳も多く手掛け、特にツルゲーネフの作品を手掛けた。
【文学の部屋|二葉亭四迷】明治時代編.4
1829-1894を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から当時の文学に関心高く、特に戯作文学に惹かれた。1855(安政2)年に発生した安政の大地震に関するルポルタージュ「安政見聞誌」を執筆したことで、その名を広めるきっかけとなる。1874年には日本人が刊行した最初の漫画雑誌「絵新聞日本地」を創刊した。代表作には「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」など、西洋文化を取り入れた風刺的な作品を残した。
【文学の部屋|仮名垣魯文】江戸時代編.31
1816-1893を生きた歌舞伎狂言作者。幼少期から当時の読本などの文学に親しみ、特に歌舞伎に強い関心を持つ。1835(天保6)年に五代目鶴屋南北の門下となり、1843(天保14)年には河原崎座の立作者となった。作品は、特に「白浪物」と呼ばれる盗賊を主人公にした世話物で名作を打ち立て、高く評価された。代表作に「三人吉三廓初買」や「青砥稿花紅彩画」などがある。明治時代には新歌舞伎の先駆者としても活躍し、リアリズムを取り入れた作品を多く手掛け、生涯に手掛けた作品は300以上、晩年までその筆は衰えなかった。
【文学の部屋|河竹黙阿弥】江戸時代編.30
1783-1842を生きた戯作者であり幕臣。旗本の家に生まれ、幼少期から文学に親しみ、『源氏物語』を江戸時代の設定に翻案した長編合巻『偐紫田舎源氏』が大ヒットを記録するも、天保の改革による風俗取締りの影響を受けた。狂歌や川柳にもその才能を発揮し、数多くの作品を残した。
【文学の部屋|柳亭種彦】江戸時代編.26
1776-1822を生きた戯作者。黄表紙や合巻、滑稽本の多くの作品を手がけ、その中でも「浮世風呂」や「浮世床」は代表作として知られる。また商人としての一面もあり、化粧品・売薬店を経営して化粧水「江戸の水」薬「仙方延寿丹」などを売り出して成功を収めた。
【文学の部屋|式亭三馬】江戸時代編.24
1767-1848を生きた戯作者。山東京伝に弟子入りを乞うも、弟子ではなく出入りを許され、京伝の代作や黄表紙を執筆。その後、版元だった蔦屋重三郎の後押しをうけ、読本でベストセラーを連発し、一大ブームを巻き起こした。途中でほとんど失明しながら、お路の代筆を得て、大作「南総里見八犬伝」を28年をかけて完成させた。
【文学の部屋|曲亭(滝沢)馬琴】江戸時代編.22
1761-1816を生きた戯作者であり浮世絵師。浮世絵を北尾重政に学び、大田南畝に認められ、画師として狂歌絵本の作者となる。その後、朋誠堂喜三二と並び称される黄表紙作家として人気を博するも、洒落本が風俗をみだしたとして50日の刑に処された。それから、読み本作家に転向し、曲亭馬琴と人気を二分する。晩年は風俗考証に熱中し「近世奇跡考」などの随筆を残した。
【文学の部屋|山東京伝】江戸時代編.19
1755-1829を生きた歌舞伎狂言作者。初世桜田治助に学んで桜田兵蔵と称し、のち沢兵蔵・勝俵蔵を経て、1811(文化8)年に、南北を襲名した。3世までは、役者あったが4世より作家となる。世話物を得意とし、すぐれた舞台構成と写実的作風の傑作をのこした。代表作「お染久松色読販」「東海道四谷怪談」などがある。
【文学の部屋|鶴屋南北 (4世)】江戸時代編.18
1749-1823を生きた狂歌師、戯作者であり幕臣。多くの筆名を持ち、特に「蜀山人」や「四方赤良」の名で知られる。狂歌や狂詩を通じて天明狂歌ブームを牽引し、黄表紙や洒落本など多岐にわたる文芸活動を展開。代表作は、寝惚先生文集や万載狂歌集など。
【文学の部屋|大田南畝】江戸時代編.17
1746-1811を生きた歌人であり国学者。賀茂真淵に師事し、国学はもとより、歌や漢詩にも優れ、江戸の歌壇に重きをなし、稀代の名文家とも評されている。また、毒舌家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|村田春海】江戸時代編.16
1743-1822を生きた戯作者、浄瑠璃作家であり大工棟梁。1786年に主宰した「噺の会」では、初代三笑亭可楽や初代三遊亭円生などの落語家を輩出し、落語の再興に尽力した。また、式亭三馬や柳亭種彦などを庇護した親分肌でもあった。
【文学の部屋|烏亭焉馬】江戸時代編.15
1738-1791を生きた俳人。 与謝蕪村、大島蓼太などと共にこの時代の俳諧で活躍。諸国を遊歴したのちに、江戸日本橋に春秋庵を開いて、その記念に「春秋稿」初篇を編む。その後続刊しながら、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|加舎白雄】江戸時代編.14
1735-1813を生きた戯作者であり、秋田藩役人。藩に勤めながら、戯作活動を行い、雅号として「朋誠堂喜三二」や「手柄岡持」を使用して、黄表紙界の大物作家となった。代表作の「文武二道万石通」は、松平定信の寛政の改革を風刺した作品として知られている。
【文学の部屋|平沢常富】江戸時代編.13
1718-1790を生きた雑俳の点者であり興行師。俳句が砕けた雑俳の作品に優劣を評価し点をつけることを生業とし、これを万句合と称して興行化に成功する。前句に対する付句は、短詩としてその後独立し、この点者の俳号から、のちに川柳と呼ばれるようになり、現在の川柳の原型となった。
【文学の部屋|柄井川柳】江戸時代編.11
1703-1782を生きた俳諧師。大名の間で流行していた江戸座俳諧宗匠として活躍し、酒井抱一などを輩出した。また与謝蕪村と親交も厚かったとされる。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【文学の部屋|馬場存義】江戸時代編.7
1860-1934を生きた経営者であり実業家。幼いころから時計店で修繕の技術を学び、1877(明治10)年に服部時計修繕所を開業。その後1881(明治14)年に服部時計店を創業。輸入時計販売を手掛ける一方で、国産時計の製造を開始。1913(大正2)年には日本初の腕時計「ローレル」を製造・販売を開始した。
【経営者の部屋|服部金太郎】明治時代編.71
1846-1898を生きた経営者であり実業家。明治期に入り、北海道で椎茸製造や物産業、旅館業を営む。1876(明治9)年には、秀英舎(現、大日本印刷)を創業する。秀英舎は、新聞や書物の印刷を手掛け、日本初の洋製本を上梓するなど、印刷業界で大きな影響力を誇った。東京板紙会社、大日本図書、日本吉佐移民会社、国民貯蓄銀行などの経営にも携わる。労働組合の結成や工場法の制定を主張し、「日本のロバート・オウエン」とも称されている。
【経営者の部屋|佐久間貞一】明治時代編.64
1934- を生きる経営者であり実業家。専業主婦から、「株式会社発明サービスセンター」を設立し、発明家と企業を仲介するサービスを開始。その中で、女性生理用品の改良に目をつけ、製造・販売するアンネを設立した。アンネは1993(平成5)年にライオンに吸収合併され、その後ユニ・チャームに譲渡された。
【経営者の部屋|坂井泰子】昭和時代編.35
1931-2023を生きた経営者であり実業家。1953(昭和28)年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、祖父が創業した資生堂に入社。物流の合理化、流通の再編成をすすめ、また医薬品開発など経営の多角化をおこない同社を業界大手に育て上げた。東京都写真美術館の館長など文化活動も盛んであった。
【経営者の部屋|福原義春】昭和時代編.32
1926-2007を生きた経営者であり実業家。高校教師などを経て、1961(昭和36)年に西武百貨店に入社。1969(昭和44)年に西武が引き取った東京丸物百貨店を改装し、若者ファッション専門店として池袋パルコとして創業。その後、渋谷パルコを開設し、全国に展開。パルコ文化と呼ばれる若者文化を創り出した。またホテル経営にも参入している。
【経営者の部屋|増田通二】昭和時代編.30
1905-1981を生きた経営者であり実業家。1927(昭和2)年に東京新宿に紀伊國屋書店を開業。舟橋聖一らと共に『文芸都市』や『行動』を創刊し、尾崎士郎らと『文学者』を立ち上げ、資金を提供して刊行を支援。戦後は海外に支店を展開し、紀伊國屋書店を大型書店へと発展させた。また、小説『世話した女』や随筆集『夜の市長』などの著作を発表し、文筆家としても活躍した。
【経営者の部屋|田辺茂一】昭和時代編.17
1904-1993を生きた経営者であり実業家。1949(昭和24)年に横浜市立大学の教授となり、1954(昭和29)年には同大学商学部長に就任。その後、不動産ビジネスに専念するために大学職を辞職し、1959(昭和34年)に森ビルを設立。東京の虎ノ門や新橋地区にオフィスビルを集中的に建設し、アークヒルズやラフォーレ原宿などの大型プロジェクトを完成させた。森ビルを貸しビル業界の大手に育て上げ、日本の都市開発に大きく貢献した。
【経営者の部屋|森 泰吉郎】昭和時代編.16
1896-1963を生きた経営者であり実業家。渋沢栄一の孫は、東京帝国大学経済学部を卒業後、第一銀行副頭取などを経て、1944(昭和19)年に日本銀行総裁に就任。翌年には幣原内閣の大蔵大臣として戦後財政の処理に尽力。公職追放解除後は、国際電信電話(現、KDDI)の初代社長や文化放送の会長を務め、財界で活躍した。また、アチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)を主宰し、多くの民俗学者を育てたことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|渋沢敬三】昭和時代編.13
1887-1940を生きた経営者であり実業家。1905(明治38)年、古川財閥3代目となり、古河鉱業の社長に就任後、東京古河銀行や古河商事などを新設することで、鉱業に加えて、金融や商業など多岐にわたる事業を展開する総合財閥へと成長させた。
【経営者の部屋|古河虎之助】大正時代編.12
1879-1945を生きた経営者であり実業家。三菱財閥4代目であり三菱合資社長をつとめた。製鉄、電機、航空機などの重工業部門への進出を推進し、各事業部を株式会社として独立させ、日本最大規模の重工業企業集団に育てた。また東京フィルハーモニーや成蹊学園を設立したことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|岩崎小彌太】大正時代編.3
1867-1939を生きた経営者であり銀行家。1885(明治18)年に渡米しペンシルベニア大学を卒業後、アメリカの銀行で実務を学ぶ。帰国後、1894(明治27)年に第百十九国立銀行(後の三菱銀行)に入行、手腕を発揮し1921(大正10)年には三菱銀行の会長に就任。その後、三菱合資会社の総理事に就任し、三菱財閥全体の運営に関わる要職を担った。
【経営者の部屋|串田万蔵】明治時代編.39
1832-1914を生きた経営者であり実業家。新橋~横浜間の鉄道や道路の開設、横浜のガス灯の設置や埋立事業に携わる。その後、北海道炭礦鉄道会社や石狩十勝に高島農場を開拓するなど,数々の企業経営を行った。また易の研究にうちこみ,「高島易断」を刊行し呑象と号してその開祖となった。
【経営者の部屋|高島嘉右衛門】明治時代編.17
1755-1810を生きた医師。幕府の奥医師として徳川家斉の侍医は漢方を中心とした考証学派の中心人物となる。となり幕府官立の江戸漢方医学校であった躋寿館を父から受け継ぐ。
【医学の部屋|多紀元簡】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑧
1798−1846を生きた医学者であり博物学者。宇田川玄真の養子となり、医学・薬学・植物学・化学などの分野を切り開いた。特に本草学から植物学を、そして化学分野では元素・酸化・還元・水素・酸素・炭素などの語彙をつくり、イギリス化学書であったElements of Experimental Chemistryの蘭語版を翻訳。増補し舎密開宗として1837年初版を完成させた。
【医学の部屋|宇田川榕菴】ビフォーアフターP.F.シーボルト編⑦
1756-1798を生きた医学者。津山藩医の家系に生まれ当初漢方医であったが、大槻玄沢の門下となり、蘭学を学ぶ。オランダの医学者Johannes de Gorter(1689-1762)の著した内科書を西説内科撰要として翻訳し、日本語として初の内科学問書となった。
【医学の部屋|宇田川玄随】ビフォーアフター解体新書編⑤
1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】ビフォーアフター解体新書編③
1723-1803を生きた医学者。40歳を過ぎてから習得したオランダ語力を発揮し解体新書の翻訳を杉田玄白の申し出に同意し尽力した。人と交わることを好まない性格であった。数少ない弟子に解体新書の改訂を行った大槻玄沢がいる。
【医学の部屋|前野良沢】ビフォーアフター解体新書編②
1666-1728を生きた儒学者。山鹿素行の説いた古学聖学に、辞学的に研究を行なった古文辞学の一派を築く。その思想はその後国学を形成する本居宣長に影響を及ぼしたとされる。父、兄弟共に医者であり、医に多く触れる環境であり、自身も医学書として徂徠先生医言、素問評、鑒定傷寒論を著している。
【医学の部屋|荻生徂徠】江戸の儒学と医学②
1910-1998を生きた映画監督。画家になることを夢見たが、現在の東宝に入社し1943年姿三四郎で映画監督デビュー。戦後は敗戦国の姿とヒューマニズムを掛け合わせた作品で、生きることをフィルムに込めた。それは中学時代に読み漁ったロシア文学、その中でもドストエフスキーの影響があったとされている。
【映画監督の部屋|黒澤 明】ブギウギ放送記念③
1760-1849を生きた浮世絵師。幼い頃より絵描きを好み、役者絵の大家勝川春章に浮世絵を学び、その破門と相なる。その後美人画も手がけ、読本の挿絵を手掛け、その中でも曲亭馬琴の挿絵は人々を魅了した。その後70代で描き始めた風景版画「富嶽三十六景」が大ヒット、歌川広重と競い合い、富嶽百景を残す。
【画家の部屋|葛飾北斎】波絵の知名度は世界一
1839-1892を生きた浮世絵師。1850(嘉永3)年に歌川国芳の門をたたく。1866(慶応2)年には兄弟子の落合芳幾との共作「英名二十八衆句」残酷絵シリーズで一躍脚光を浴びた。晩年は歴史画、美人画に加えて郵便報知新聞、絵入自由新聞、やまと新聞などの新聞挿絵を手掛けた。
【画家の部屋|月岡芳年】新たな時代の浮世絵を探る筆
1828-1894を生きた絵師であり日本洋画家。はじめ狩野派に絵を学び、その後独学で絵を習得。幕末から幕府洋学機関に入局し油画の研究を行なった。リアリズムこそ洋画の骨頂と捉えたその作風は、近代洋画の先駆者とされている。 明治天皇の肖像画も描いている。
【画家の部屋|高橋由一】日本初の油絵習得!?
1747-1818を生きた浮世絵師であり江戸時代の西洋画家。当初狩野派に絵を学び、その浮世絵師にとなり美人画を手がける。その後1720(享保5)年蘭書の輸入が解禁と同時に挿絵に描かれた洋風画に江漢は傾倒。1783(天明3)年に銅版画を成功させた。本草学者平賀源内門下として前野良沢、大槻玄沢らとの交流により蘭学に精通していたと考えられている。
【画家の部屋|司馬江漢】銅版画を成功させた洋風画家
1835-1908を生きた絵師であり日本画家。江戸幕府奥絵師木挽町家に兄弟子狩野芳崖と共に学ぶ。その後芳崖を認めたお雇い外国人フェノロサに雅邦もその才能を認められ、雅邦と同じく新日本画運動の中心人物となる。東京美術大学の初代日本画教授に内定していた雅邦の突然の訃報に際し、雅邦は芳崖を引き継ぎ同校での日本画の発展に情熱を注いだ。 教え子に大学では横山大観、私塾では川合玉堂など。
【画家の部屋|橋本雅邦】芳崖の後を継ぐ近代日本画
1797-1858を生きた浮世絵師。火消職から15歳で絵師との二足の草鞋を履く。初世歌川豊国に入門叶わずも歌川豊広門下に入る。天保4年ごろより東海道の宿場風景を描いた版元の名を冠す保永堂版「東海道五拾三次」で一躍名所絵の名手としての地位を確立。木曽街道六十九次や名所江戸百景などの風景版画を残した。
【画家の部屋|歌川広重】旅ブームでバズる名所絵
1798-1861を生きた浮世絵師。初世歌川豊国の門人となり水滸伝豪傑百八人之一箇の錦絵として役者絵シリーズが好評となり一躍、武者絵の国芳と称された。風景画、美人画、役者絵、花鳥画、武者絵、風刺画、戯画、版本の挿絵、肉筆画など作域は広範に活動。その中で天保の改革時に現した風刺画を描き日本における風刺画の第一人者とされている。門人に月岡芳年。
【画家の部屋|歌川国芳】武者絵の国芳
1786-1865を生きた浮世絵師。初世歌川豊国の門人となり江戸化政期の美人画は粋な美意識を追求、そして役者絵は特に人気を博し役者絵の国貞と称された。草双紙(合巻)挿絵にも幅広く作品を残している。
【画家の部屋|歌川国貞】役者絵の国貞
1769-1825を生きた浮世絵師。歌川豊春(1735-1814)の高弟となり、その豊春を祖とする江戸後期の浮世絵歌川派を確立した。1794(寛政6)年スタートの役者絵のシリーズ、役者舞台之姿絵で猪首猫背型を特徴とした人物画に印象の強い形と色彩によって実在感を強調する画風とし人気を博した。多くの門人を抱え国貞、国芳といった人気絵師を輩出した。
【画家の部屋|歌川豊国】役者絵はリタッチで大人気
1906-1976を生きた歌手。1933(昭和8)年、主婦の座からコロムビアに入社。「船頭可愛や」「下田夜曲」 「博多夜船」などのヒット曲を連発し小唄勝太郎などに並ぶ人気歌手となる。戦後、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である「五木の子守唄」は全国にその名が響いた。これは音丸が現地で見出したとされ古関裕而が採譜、音丸によってキングレコードよりレコード化された。
【音楽の部屋|音丸】主婦から人気歌手へ
1906-1981を生きた音楽家。東京音楽学校(現、東京藝術大学声楽科)1928(昭和3)年首席卒業。柳宗悦の妻であり声楽家の柳兼子、ドイツ人声楽家のネトケ・レーヴェに師事。この時皇后陛下の前でのベートーベンの荘厳ミサをアルト独唱者として抜擢される。その後歌謡界でも活躍し「銀座の柳」は大ヒットとなる。また「美しい日本語で歌われる香り高い日本の歌を人々の中に波のように広げよう」という運動を起こし、国語学者の金田一春彦らに呼びかけて「波の会」を結成。現在の日本歌曲振興波の会となっている。 明治時代の初めに銀座の名物であったヤナギは、関東大震災で焼失するも佐藤千夜子の唄う「東京行進曲」に続き四家歌う大ヒット曲「銀座の柳」で復活を果たした。
【音楽の部屋|四家文子】昭和の声楽界大御所
1919-1981を生きた歌手。作曲家大村能章に弟子入りし、声楽を歌手四家文子の指導を仰いだ。戦後難関とされたビクターの新人歌手オーディションに合格し、その後歌手デビュー。1947年「港が見える丘」が大ヒット。またこれを受けて横浜を代表する公園「港の見える丘公園」が1962年5月に開園。園内には歌碑も設置されている。日本都市公園100選に選ばれている。その歌声は濡れたビロウド(魅惑の低音ボイス)と称されている。
【音楽の部屋|平野愛子】港が見える丘♪が由来!?
1936- を生きる化学者。2000年ノーベル化学賞受賞。絶縁体であるポリアセチレンに対して電気伝導性を成功させる。この発見により有機電子材料の研究や応用に革新を与え、さまざまな技術に応用されている。
【化学者の部屋|白川英樹】絶縁体に通電‼️
1921-2015を生きた物理学者。2008年ノーベル物理学賞受賞。素粒子の質量起源に着目し研究し素粒子物理学の分野で優れた業績を残した。加えて加速器技術や素粒子の探索、理論物理学の発展、宇宙理論と様々な分野で現在も応用されている。
【物理学者の部屋|南部陽一郎】宇宙へ導く研究者
1906-1979を生きた物理学者。1965年ノーベル物理学賞受賞(日本人としては永遠のライバルであり同級生の湯川秀樹に続き2人目)。素粒子物理学の分野での業績を残し、電磁相互作用の理論である量子電磁気学(量子電磁力学)の発展をもたらす。
【物理学者の部屋|朝永振一郎】秀樹の永遠のライバル
1878-1935を生きた物理学者。同じ研究を行なっていた、X線の結晶構造分析でノーベル賞を受賞したブラッグ親子にタッチの差で2番手となり受賞を逃す。東京帝国大学理科大学教授。また英語教師だった夏目漱石を師と仰ぎ、同著書「吾輩は猫である」の水島寒月のモデルにもなっている。
【物理学者の部屋|寺田寅彦】天才学者・水島寒月!?
1910-1998を生きたエッセイスト(随筆家)。幼児期より能に触れその後、能を主軸としたエッセイを多数執筆。また能を通じた民俗学への探究から著したエッセイは日本文化の伝播となっている。
【文学の部屋|白洲正子】能探究のエッセイスト
1914-1989を生きた詩人。朝日新聞家庭欄の詩を担当。その詩集「月曜日の詩集」でおかあさんの詩としてし人気を博する。詩の入門書「詩の世界」は中学生向けに描かれて一冊はどの世代からも支持を集めている。
【文学の部屋|高田敏子】お母さんは詩人
1930- を生きるノンフィクション作家。「滄海よ眠れ」「記録 ミッドウェー海戦」は第二次世界大戦ミッドウェーでの日本の戦死者3,057名全員の軌跡をありのまま描く偉業を成し遂げる。また二・二六事件の謎を紐解く「雪はよごれていた」の著者でもある。
【文学の部屋|澤地久枝】桁外れの取材力
1844-1903を生きた歌人。江戸末期より短歌を学び、明治に入り東京小石川に歌塾「萩の舎」を開塾。その門下生に樋口一葉をはじめ約1000人を超えたとされる。
【文学の部屋|中島歌子】樋口一葉の歌の師
1912-1977を生きたヨーロッパ文学者であり文壇で活躍した。代表作は1949年英国の文学、そして1960年に発表した文学概論。首相をつとめた吉田茂の長男。
【文学の部屋|吉田健一】私の父は吉田茂です
1887-1940を生きた会社員であり文学家。明治生命創業家に生まれ、慶應義塾大学在籍時に永井荷風、小山内薫に影響を受け文学を志す。そして生涯会社員と文壇の二刀流を歩む。慶應義塾大学塾長をつとめた小泉信三とは同級生であり、瀧太郎の妹が嫁いでいる。
【文学の部屋|水上瀧太郎】二刀流の小説家
1868-1910を生きた小説家であり詩人の文学家。硯友社を結成し我楽多文庫に寄稿、その後坪内逍遥の小説神髄に影響を受け、言文一致論、日本韻文論を唱えた一人。
【文学の部屋|山田美妙】小説神髄に影響を受けた言文一致論者
1837-1884を生きた明治初期の自由民権派ジャーナリストは江戸末期徳川幕府の要職をつとめる。明治期に入り、政論を主とし、最も支持された有力紙朝野新聞社長となり主筆の末広鉄腸と共に藩閥政治と戦う。また晩年は大隈重信率いる立憲改進党に合流し、早稲田大学の前身である東京専門学校の運営にもあたった。
【ジャーナリストの部屋|成島柳北】新政府と戦う筆
1909-1973を生きたジャーナリストは菊池寛が創立した文藝春秋社に第一期生として入社、戦後は編集局長として切り開いた分野は現在の文春のスタイルを確立したとされている。同社3代目社長としても経営手腕を発揮した。
【ジャーナリストの部屋|池島信平】文藝春秋社第一期生
1901-1944を生きたジャーナリストは生後多くを過ごした台湾で異文化を体感し、その後東京帝国大学を卒業後、中国に渡りさらにその認識を深めた。その頃魯迅、スメドレーに出会い、そのスメドレー女史を通じてゾルゲに出会う。深刻化する日ソ開戦回避に努力するもソビエト連邦のスパイとして位置付けられ反戦行動弾圧のため1944年処刑される。 獄中で家族に綴った手紙は戦後「愛情はふる星のごとく」として出版され多くの反響を呼ぶ。
【ジャーナリストの部屋|尾崎秀実】ソ連のスパイ?それとも反戦主義者?
1738-1791を生きた俳諧の連歌師は白井鳥酔、松露庵烏明に師事し俳諧を学び、蕉風復興を目指し江戸を中心にその人生を捧げる。また父の郷里信州に俳諧普及に尽力し地方の文化発展にも情熱を注いだ。
【江戸文学|俳諧の連歌】「加舎白雄」蕉風復興と信州俳諧普及へ
1746-1811を生きた国学者であり俳諧の連歌師は化政期の国学四大人の一人賀茂真淵に学び、本居宣長との交流もあった。江戸大尽を表す十八大通の一人とされている。仮名遣いの名人とされその歌風は万葉長ではなく古今調として江戸派を立ち上げたとされる。
【江戸文学|俳諧の連歌】「村田春海」国学も歌もこなした江戸大尽
1888-1966を生きた経済学者は親子二代にわたり慶應義塾長を務める。その後東宮教育に抜擢され皇太子(現上皇)教育常時参与となり皇室の発展に寄与。
【経済学者の部屋|小泉信三】親子二代にわたる慶應義塾長
1837-1913を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第一五代将軍Yoshinobu Tokugawaの在職期間は1年0ヶ月。水戸徳川家水戸藩九代目徳川斉昭の七男。
【探究ネタ】「徳川慶喜」江戸幕府第十五代征夷大将軍
1846-1866を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第十四代将軍Iemochi Tokugawaの在職期間は7年9ヶ月。紀伊徳川家紀州藩十一代目徳川斉順の長男。
【探究ネタ】「徳川家茂」江戸幕府第十四代征夷大将軍
1824-1858を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第十三代将軍Iesada Tokugawaの在職期間は4年8ヶ月。父第十二代将軍家慶の四男。
【探究ネタ】「徳川家定」江戸幕府第十三代征夷大将軍
1733-1817を生きた医学者。古方派大家であった山脇東洋の影響を受け医院を開業。蘭学者と交わりながらオランダ語に訳された医学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)』入手し、前野良沢らを誘い翻訳に取り組み日本初の解剖学書である「解体新書」を著した。門下であった大槻玄沢や宇田川玄真らはその後江戸蘭学を発展させている。
【医学の部屋|杉田玄白】日本初の解剖学書を著しました
1793-1853を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第十二代将軍Ieyoshi Tokugawaの在職期間は16年2ヶ月。父第十一代将軍家斉の次男。
【探究ネタ】「徳川家慶」江戸幕府第十二代征夷大将軍
1773-1841を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第十一代将軍Ienari Tokugawaの在職期間は50年0ヶ月。御三卿一橋家二代目一橋治済の長男。
【探究ネタ】「徳川家斉」江戸幕府第十一代征夷大将軍
1737-1786を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第十代将軍Iehara Tokugawaの在職期間は26年4ヶ月。父第九代将軍家重の長男。
【探究ネタ】「徳川家治」江戸幕府第十代征夷大将軍
1712-1761を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第九代将軍Ieshige Tokugawaの在職期間は14年6ヶ月。父第八代将軍吉宗の長男。
【探究ネタ】「徳川家重」江戸幕府第九代征夷大将軍
1709-1716を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第七代将軍Ietsugu Tokugawaの在職期間は3年1ヶ月。父第6代将軍家宣の四男。
【探究ネタ】「徳川家継」江戸幕府第七代征夷大将軍
1662-1712を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第六代将軍Ienobu Tokugawaの在職期間は3年5ヶ月。父第三代将軍家光の三男綱重(甲府藩主)の長男。
【探究ネタ】「徳川家宣」江戸幕府第六代征夷大将軍
1646-1709を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第五代将軍Tsunayoshi Tokugawaの在職期間は28年5ヶ月。父第三代将軍家光の四男。
【探究ネタ】「徳川綱吉」江戸幕府第五代征夷大将軍
1641-1680を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第四代将軍Ietsuna Tokugawaの在職期間は28年9ヶ月。父第三代将軍家光の長男。
【探究ネタ】「徳川家綱」江戸幕府第四代征夷大将軍
1604-1651を生きた1603年徳川家康征夷大将軍任命より1867年徳川慶喜大政奉還宣言後明治改元まで265年間続いた江戸幕府、その第三代将軍Iemitsu Tokugawaの在職期間は27年9ヶ月。父第二代将軍秀忠の次男。
【探究ネタ】「徳川家光」江戸幕府第三代征夷大将軍
1884-1966を生きた言語学者は昭和初期に沸き起こった方言の研究を「方言区画論」として1927年に発表し最前線でリードした一人。民俗学者で同じく方言を研究し「方言周圏論」を同年1927年に発表した柳田國男と方言論論争を巻き起こした。
【言語学の部屋|東条 操】方言研究は「方言区画論」
1894-1935を生きた東京都出身の日本画家は40歳と早逝した日本画家は二十代前半で横山大観、小林古径といった日本画界の巨匠の目に止まり古来の日本画技法を基軸として、最新の技法を取り入れ日本画壇に新しい息吹を吹き込む。東京渋谷の山種美術館は速水画伯の最大コレクションを誇り、最高傑作と名高い「炎舞」を鑑賞できます。
【画家の部屋|速水御舟 Gyoshū Hayami】細密描写の日本画巨匠
1884-1978を生きた東京都出身の日本画家は古来の大和絵技法を世襲し、それをさらに発展させ、小林古径、前田青邨と並び称される新古典主義日本画の時代を築いた。
【画家の部屋|安田靫彦】院展の三羽烏の一人
1923-2003を生きた世界フライ級世界王者。1952年(昭和27年)5月19日、後楽園球場にて世界フライ級王者ダド・マリノ(アメリカ)に判定勝ちを収めた。この日を日本プロボクシング協会は「ボクシングの日」と制定
【発見アスリート|白井義男】12月26日、国民が熱狂した5.19の立役者を偲んで
1735-1813を生きた本名平沢常富は武士であり、戯作者、狂歌師、俳諧師と多彩な文豪でもあった。特に黄表紙では当時の流行作家山東京伝と肩を並べるほどの人気作家。しかし後の寛政の改革で藩主より叱責を頂戴し黄表紙から手を引く。
【江戸文学|黄表紙】「朋誠堂喜三二 (平沢常富)」戯作者、狂歌師でも武士
1749-1823を生きた武士であり、副業は洒落本の売れっ子作家。また狂名が四方赤良とした狂歌三大家一人であり、その一派は山手蓮と称された。戯作の花形作家「山東京伝」の才能を見出した一人でもある。
【江戸文学|戯作】「大田南畝」江戸時代のラップスター
1761-1816を生きた戯作(散文学)の洒落本、黄表紙、(後期)読本と、時代の江戸幕府の取り締まりに応じて自在に作風を変化させた代表的作者であり、当時の花形作家。
【江戸文学|戯作】「山東京伝」江戸時代のベストセラー作家
1917-2001を生きた歌舞伎役者の屋号は成駒屋、女形ひとすじの人生を貫き、戦後歌舞伎界の最も牽引した名優。2022年亡くなったエリザベス2世が1975年来日時に公演を披露するなど海外への歌舞伎発展にも尽力。
【芸能(歌舞伎)の部屋|中村歌右衛門(六代目) Nakamura Utaemon VI】私は歌舞伎の女形
1906-1975を生きた歌舞伎役者の屋号は大和屋、近代劇の祖と称される小山内薫の薫陶をうけ、昭和7年に劇団新劇場、東宝劇団を経て松竹に復帰した。歌舞伎界きっての読書家でもあり美食家でもあった。
【芸能(歌舞伎)の部屋|坂東三津五郎(八代目) Bandō Mitsugorō VIII】空前絶後の人と称された名優
1874-1945を生きた歌舞伎役者の屋号は橘屋、フランス系アメリカ人の父を持ち、日本人離れしたその目鼻立ちから「花の橘屋」と称されました。第十五代襲名時、口上予定であった九代目市川團十郎の逝去により、一人襲名口上を行いさらに高い評判を得た。吾妻流宗家・初代吾妻徳穂は嫡出でない子にあたります。
【芸能(歌舞伎)の部屋|市村羽左衛門(十五代目) Uzaemon Ichimura XV】歌舞伎界のイケメンは花の橘屋
1838-1903を生きた歌舞伎役者の屋号は成田屋、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次とともに「團菊左時代」を築く。荒事の代表的な時代物演目「暫」を1895年(明治28年)に一幕物として演じ團十郎家のお家芸「歌舞伎十八番」にひとつとされました。
【芸能(歌舞伎)の部屋|市川團十郎(九代目) Ichikawa Danjūrō IX】團菊左時代を築きました
1844-1903を生きた歌舞伎役者の屋号は音羽屋、二代目市村羽左衛門を襲名し、その後尾上菊五郎を襲名。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに「團菊左時代」を築く。世話物(江戸時代に生きている人たちを題材にした社会・現代劇)を得意と、江戸っ子気質を余すところなく披露した。
【芸能(歌舞伎)の部屋|尾上菊五郎(五代目) Onoe Kikugorō V】團菊左時代を築きました
1909-1988を生きた歌舞伎役者は1950年中村勘三郎を襲名。800以上の役を演じギネスブックに名を連ねる。1966年国立劇場柿落とし公演「菅原伝授手習鑑」にて主人公、菅丞相を演じた。
【国立劇場建て替え記念|中村勘三郎(17代目) Kanzaburo Nakamura XVII】12月推し偉人 Nov./1966
1887-1973を生きた彫刻家は、挿絵、版画、水彩・油彩・水墨とあらゆる絵画美術も手掛け、長野県上田にて約46年もの彫塑を指導し美術教育に尽力。また無類の相撲好きであり横綱審議会委員や相撲博物館長も歴任。
【彫刻家の部屋|石井鶴三 Tsuruzo Ishii】相撲通であり上田の芸術を築いた芸術界の重鎮
1911-1997を生きた長唄唄方は豊かな歌唱力と深みある芸風で古典芸能の世界を継承。作曲活動も積極的に努められ、1987年重要無形文化財個人所有者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|杵屋佐登代】昭和の長唄唄方最高峰のひとりは人間国宝
1909-1998を生きた日本舞踊流派のひとつ吾妻流を昭和に入り再興した家元。幼きころは7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事し踊りの基礎を学び、14歳で名取りは天才少女と囃し立てられた。
【音楽の部屋|吾妻徳穂】日本舞踊界の天才少女は吾妻流宗家・初代
1924-2018を生きた日本舞踊花柳流の舞踊家は、古典伝承と創作活動(「湯女群像」や「吾輩は猫である」を発表)の両面で活躍。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
【音楽の部屋|花柳寿南海】人間国宝の代表作は「吾輩は猫である」
1881-1962を生きた小唄春日流の創立者は、作曲、演奏と多彩な才能を発揮し新たな小唄の世界を拓いた。門下生の育成に心血をそそぎ、その功績を讃えられて紫綬褒章受賞。
【音楽の部屋|春日とよ】小唄春日流の創立者
1894-1974を生きた近代数寄屋建築の巨匠。時の首相吉田茂邸も手掛けた。
【建築家の部屋|吉田五十八】近代数寄屋建築の巨匠吉田は吉田邸を手掛ける!?

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13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21New!!
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20
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