狩野芳崖 Kano Hogai
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こちらのページでは【画家の部屋|狩野芳崖】
近代日本画の祖 をお楽しみください
狩野芳崖イラストポートレート(Syusuke Galleryより )
激動の時代を歩んだ近代日本画の祖
狩野派木挽町で学ぶ
江戸のはじめ、探幽さんによって江戸幕府の御用となった江戸狩野派
その奥絵師の一つの家、木挽町
江戸末期にそこで近代日本画のスーパースターとなる芳崖が学びます
その才能をみるみる開花させ、なんと門下イチに
江戸から明治に
しかし江戸から、時代は明治に…
絵師としての職業を失ってしまいます
不遇な時代を過ごしながらも、絵を書くことをやめなかった雅邦さん
転機は突然にやってきます
内国絵画共進会 上野
実は、1882(明治15)年に第一回内国絵画共進会が上野で開催されると聞いたのです
芳崖さんは、この機会を逃しませんでした
満を持して出品させていただきました
しかし、その最高賞を得たのは他でもない橋本雅邦さんらでした
その2年後の1884(明治17)年には第二回内国絵画共進会が開催
そこでも橋本雅邦さんは上位にランクイン
私はかろうじて佳作のような賞をいただきました
フェノロサとの出会い
しかし、このときとあるビッグネームの目に芳崖さんの作品が目に留まります
そのビッグネームとは
お雇い外国人※であったフェノロサさんでした
※明治初期官庁や学校などに欧米諸国から日本政府に雇用され来日した外国人
フェノロサさんはこの内国絵画共進会を強く批判していました
なぜなら新しい画風は受け付けていなかったからです
こんなことでは日本の美術に未来はないと考えていたフェノロサさん
そしてこの会で受賞してもあまり意味がないと…
そこで、雅邦さんの作品を見て、今後の可能性を見出したのだと思います
西洋絵画を学ぶ
フェノロサは私にこう言いました
あなたの未来のために西洋絵画の技術を学んで欲しい
多分、こんなことを言われたのではと、いらすとすてーしょんは考えています
わたしはフェノロサに従いました
そしてフェノロサ、その盟友岡倉天心の弟子たちより、芳崖さんは西洋絵画の技術を学びます
絵の先生は私より年上と思っていたが、私の子供ほどの年齢とは…
でも必死で、写生力、陰影法、遠近法を学びました
フェノロサ、岡倉天心の狙いは?
フェノロサ、岡倉天心の狙いはまさに芳崖さんを新しい日本画を描けるように育てることだったのです
芳崖さんはみるみるその腕を上げていきます
そして芳崖さんが描く新しい日本画はフェノロサ、天心に認められるようになりました
よくぞ期待に答えてくれたぞ
【画家の部屋|岡倉天心】近代美術を語るに外せない偉人
東京美術大学の初代日本画教授に内定
それから東京美術大学の初代日本画教授に内定します
しかし、この頃すでに芳崖さんの体は病に冒されていました
持病の悪化
開校待たずに他界
悲母観音図
その絶筆となったのがこの悲母観音図です
Wikimedia Commonsより
1888年に描かれ、現在の東京藝術大学に所蔵されてございます
近代日本画の祖 誕生
この芳崖さんの奥絵師としてのスキル、そして西洋絵画のスキルを併せ持った新しい日本画を描いたことで、近代日本画の祖と称されるようになりました
狩野派木挽町って?
ここでおさらいです
狩野派木挽町については尚信さんのイラストポートレートをご覧ください
私が狩野探幽の弟で、初代木挽町です
【画家の部屋|狩野尚信】奥絵師木挽町家初代
そもそも狩野派って?
えっ!?
狩野派についてですか??
それでしたら松栄さんのイラストポートレートをご覧ください
狩野派については私、狩野松栄のイラストポートレートでご紹介していますのでお立ち寄りください
【画家の部屋|狩野松栄】狩野永徳の父
狩野芳崖の後を継いだ橋本雅邦
雅邦さんがこの世を去った後、雅邦さんの大親友だった橋本雅邦さんに白羽の矢が
内国絵画共進会で賞を総なめした橋本雅邦さん
やはり、その腕はそもそもフェノロサさんに認められていたのかもしれません
私、橋本雅邦のイラストポートレートはこちらです
2023年10月5日公開予定です