京都府出身 From Kyoto

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京都府出身イラストポートレートSyusuke Galleryより

京都府出身・新着偉人(It's New)

1285-1308を生きた政治家(第94代天皇)。後宇多天皇の第一皇子(大覚寺統)として生まれ、1301年に17歳で即位。久方ぶりに実現した大覚寺統の天皇として、一門の期待を一身に背負う存在であった。在位中は父・後宇多院の院政下で比較的安定した政務が行われ、持明院統との「交互即位(両統迭立)」という危うい均衡が、かろうじて保たれた時代を象徴する。しかし、その治世はわずか7年、24歳(満23歳)という若さでの崩御により唐突に幕を下ろした。 この早すぎる死は、大覚寺統内に深刻な後継者問題を引き起こし、のちに倒幕へと突き進む弟・後醍醐天皇の運命を大きく狂わせる分岐点となった。短命ながらも、両統迭立体制の「平衡」を身をもって示した天皇である。
【政治の部屋|後二条天皇】鎌倉時代編.27New!!
1288-1336を生きた政治家(第93代天皇)。伏見天皇の皇子として生まれ、1298年、わずか11歳で即位。持明院統の正統を継ぐ存在として、両統対立がすでに避けがたい政治状況の中、幼くして皇位に立たされる。在位はわずか三年にとどまり、鎌倉幕府の裁定により大覚寺統の後二条天皇へ譲位を余儀なくされた。その後は長い院政期を過ごし、自らは前面に立たず、持明院統という「家系」そのものの存続と地位確立に力を注いだ。「皇位を交互に継ぐ」という不安定な仕組みを現実として受け入れ、それを統の存続を最優先するための政治的手段へと転化していく。その姿は、花園天皇、さらには光厳天皇へと皇統を繋ぐ基盤が整えられた。激しく主導権を争うのではなく、忍耐と調整によって「統」を守り抜いたその歩みは、両統迭立という過渡期を成立させた静かな要石として位置づけられる。後伏見天皇は、分裂の時代を「耐え、保つ」ことを選び続けた天皇であった。
【政治の部屋|後伏見天皇】鎌倉時代編.26New!!
1265-1317を生きた政治家(第92代天皇)。後深草天皇の第二皇子。1287年、幕府の裁定により大覚寺統の後宇多天皇から譲位され即位した。父・後深草院の院政下で、直訴窓口である「庭中」を設置するなど訴訟制度の改革を断行し、公家政治の刷新に積極的に取り組んだ。皇位継承をめぐる両統の対立が深まるなか、1298年に皇子(後伏見天皇)へ譲位。その後は院政を通じて自らの系統(持明院統)の地位確立に努め、両統迭立が定着する転換点を形づくった。文化面では歌人・京極為兼と共に「京極派」を形成し、写実的な新風を拓いて「玉葉和歌集」を編纂させるなど和歌史に不滅の足跡を遺した。書道にも優れ「書聖」と称されるほどの能筆であった。1317年、出家して崩御。政治と文化の両面で時代を牽引した、持明院統の最盛期を築いた天皇である。
【政治の部屋|伏見天皇】鎌倉時代編.22New!!
1267-1324を生きた政治家(第91代天皇)。亀山天皇の第二皇子として生まれ、1274年、わずか8歳で即位した天皇。治世は父・亀山上皇の院政下に置かれ、文永・弘安の二度にわたる蒙古襲来(元寇)という国難の時代を象徴する存在となった。また、皇位継承を巡る持明院統との対立が激化し、1287年に幕府の裁定により伏見天皇へ譲位。ここから二つの皇統が交互に即位する「両統迭立」が本格化した。退位後は院政を通じて自らの系統である大覚寺統を支え、後二条・後醍醐へ皇統を繋ぐ礎を築いた。晩年は真言密教に深く帰依し「金剛性」として出家。政治・文化・宗教のすべてをまたぎ、のちの南北朝動乱へ続く時代の転換点を象徴する天皇であった。
【政治の部屋|後宇多天皇】鎌倉時代編.21New!!
1249-1305を生きた政治家(第90代天皇)。後嵯峨天皇の皇子として生まれ、1259年、父の強い意向により兄・後深草天皇から譲位され、わずか11歳で即位した。これが兄の系統(持明院統)と自らの系統(大覚寺統)が皇位を争う「南北朝分裂」へと続く遠い火種となる。治世では二度の蒙古襲来という国難に遭い、自ら伊勢神宮などで敵国降伏を祈願するなど、祈りによる救国を志した天皇として知られる。譲位後の院政では徳政を進めるなど政治改革にも取り組み、一定の成果を上げた。晩年は禅宗に深く帰依して南禅寺を創建するなど文化・宗教の保護にも尽力。救国の祈祷者であると同時に、皇統分裂の起点にも立つ。まさに歴史の転換点を体現した天皇である。
【政治の部屋|亀山天皇】鎌倉時代編.20
1243-1304を生きた政治家(第89代天皇)。後嵯峨天皇の長子として生まれ、1246(寛元4)年、わずか2歳で即位した。幼帝ゆえに政治の実権は父の院政に委ねられたが、人生を大きく変えたのは退位後の処遇であった。父・後嵯峨は次代の皇位を、後深草の子供ではなく、後嵯峨の第二皇子である亀山天皇の血筋に継がせようとした。この決定により、長子である後深草の家系は、皇位の正統な流れから外される危機に直面する。これが、のちに「北朝」となる持明院統(後深草系)と、「南朝」となる大覚寺統(亀山系)の激しい対立の火種となり、のちに日本を二つに分かつ「南北朝動乱」という大きな嵐の幕開けとなった。
【政治の部屋|後深草天皇】鎌倉時代編.19
1220-1272を生きた政治家(第88代天皇)。土御門天皇の皇子として生まれ、1242(仁治3)年、四条天皇急逝による皇位空白を埋めるため、幕府の裁定で即位した。承久の乱後の皇統は混乱のさなかにあり、後嵯峨はその秩序回復を託された「調停の帝」だった。その治世は、譲位後の院政で最も重い意味を持つ。後嵯峨は長子・後深草に代えて次子の亀山を即位させ、さらに将来の皇位継承についても両系を「交互に継がせる」と裁定した。これが「次は自分たちの番」という両系の確執を生み、皇統は持明院統(後深草系)と大覚寺統(亀山系)へ分裂していく。良かれと思ったこの継承政策が、のちに南北朝動乱へと続く「皇統分裂の起点」となった。武士が王権を監視する時代のなかで、皇家の永続を願った苦肉の策は、皮肉にも次の大きな争乱の火種を蒔くこととなった。
【政治の部屋|後嵯峨天皇】鎌倉時代編.18
1231-1242を生きた政治家(第87代天皇)。後堀河天皇の第一皇子として生まれ、1232(貞永元)年、わずか1歳で即位。幼帝ゆえ政務を担う力はなく、朝廷は摂関家の勢力争いと幕府の監視のはざまで揺れ続けた。父・後堀河院が1234年に崩御すると、その影響力を支える基盤も失われ、四条天皇の治世は不安定な宮廷政治と権門の思惑に左右される時代となった。宮廷では和歌や儀礼がなお続けられ、幼い帝は文化の場における象徴であり続けたが、政治の主導権は完全に幕府へ移っていた。1242(仁治3)年、12歳で早世。御所内での不慮の事故が原因と伝わるその最期は、鎌倉幕府による支配の強化と、皇統の迷走を象徴するような、儚く短い治世であった。
【政治の部屋|四条天皇】鎌倉時代編.17
1212-1234を生きた政治家(第86代天皇)。後の後高倉院の第三皇子。承久の乱で後鳥羽・順徳・土御門の三上皇が配流され、仲恭天皇が廃されたのち、幕府はその直系を避け、1221(承久3)年、わずか10歳で即位。幼さゆえ政務は父・後高倉院の院政のもとで進められ、治世は乱後の後始末と公家社会の再編が中心となった。在位中には藤原定家に「新勅撰和歌集」の編纂を命じるなど文化への関心も見せたが、政治は幕府が主導しており、天皇は「新しい秩序の象徴」としての役割にとどまった。1232(貞永元)年、幼い四条天皇に譲位。在位11年ののち、23歳で崩御。後鳥羽院の時代が終わり、鎌倉幕府が王権を事実上掌握した転換点を体現した帝であった。
【政治の部屋|後堀河天皇】鎌倉時代編.16
1179-1223を生きた政治家(上皇)。高倉天皇の第二皇子として生まれ、幼少期は平家の庇護下で育ち、平家都落ちの際には安徳天皇に同行した。平家滅亡後に帰京し、1189年に親王宣下。のちに持明院宮を号し、皇位が後鳥羽系へ移る中で1212年に出家して行助入道親王となる。しかし、承久の乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が相次いで配流され皇統が途絶えかける異常事態となる。皇位継承が可能だったのは、行助の子・茂仁王(のちの後堀河天皇)のみであった。そこで幕府は茂仁王を即位させるとともに、皇位に就いていない守貞親王を上皇(太上法皇)へ格上げし、治天の君として朝廷を統べさせるという極めて異例の措置をとった。 乱後の混乱を収め、公武の関係再建に力を尽くしたが、わずか二年で薨去。死後、「後高倉院」の院号を贈られる。皇位に就くことなく院政を担った、承久後という非常事態が生んだ治政者であった。
【政治の部屋|守貞親王(後高倉院)】鎌倉時代編.15
1218-1234を生きた政治家(第85代天皇)。順徳天皇の皇子として生まれ、1221(承久3)年、幕府との対立が最高潮に達するなか、わずか2歳で即位。しかし、その玉座は幼い身体にはあまりに重すぎた。承久の乱が敗北に終わると、朝廷の象徴として担ぎ上げられた仲恭天皇は即座に廃位され、在位はわずか78日という日本史でも屈指の短命な帝となった。以後は皇位継承から外され、母とともに閑居し、政治から完全に遠ざけられた静かな人生を送る。皇子として生まれながら、戦いの結果だけで玉座を奪われたその運命は、承久の乱という劇場の残酷さを最も端的に示している。幼さゆえに選ぶことも抗うこともできなかった「時代の犠牲者」であった。
【政治の部屋|仲恭天皇】鎌倉時代編.14
1197-1242を生きた政治家(第84代天皇)。後鳥羽天皇の第三皇子として生まれ、1210(承元4)年に14歳で即位。父の強い院政下にありながら、その激情と理想主義ゆえに朝廷復権の象徴と期待された。和歌・学問に秀で、「禁秘抄」や「八雲御抄」を著すなど文化面の才能も際立つ。1221(承久3)年、父と共に鎌倉幕府打倒を目指した「承久の乱」では、父以上に倒幕へ積極的に参画したとされ、敗戦により退位し、佐渡へ配流された。在島二十一年、粗末な黒木御所で和歌と学問を支えに孤独な歳月を送り、都へ戻ることなく46歳で崩御。激しい情と理想を貫き、流刑の地でも詠み続けたその姿は、朝廷が武士政権に抗う最後の「熱」を体現した存在であった。
【政治の部屋|順徳天皇】鎌倉時代編.13
1195?-1231を生きた政治家(第83代天皇)。後鳥羽天皇の第一皇子として1198(建久8)年に4歳で即位。政務は父の院政下で行われ、土御門は温和な性格ゆえ象徴的存在にとどまった。1221(承久3)年、承久の乱が勃発するも関与せず、むしろ「いまは時期にあらず」と父を諫めたと伝わる。幕府も処罰の対象にしなかったが、父と弟が遠流となる中、自分だけ京に残ることを良しとせず自ら配流を願い出て土佐へ下向。のち阿波に移され、和歌を詠み続け静かに生涯を閉じた。政治の野心を持たず、文化を愛した穏やかな帝。その無害さでさえ時代の激流には抗えず、「罪なき流刑の天皇」として名を残すこととなった。
【政治の部屋|土後門天皇】鎌倉時代編.12
1180-1239を生きた政治家(第82代天皇)。高倉天皇の第四皇子。壇ノ浦で安徳天皇が入水する以前、皇統の断絶を避けるため朝廷は後鳥羽天皇を急ぎ擁立し、わずか3歳で即位させた。このため 1183〜1185年の2年間は安徳天皇と後鳥羽天皇が同時に在位する異例の時代 となり、さらに壇ノ浦では三種の神器の宝剣(草薙剣)が海へ沈んだまま戻らず、即位は正統性に揺らぎを抱えた出発となった。成長後は和歌・書道・楽器に卓越した才能を発揮し文化的威光を放つ一方、武家政権が台頭する新時代にあって天皇親政の復権を強く望み、のちに上皇(院)として政治改革に乗り出す。頼朝没後の幕府の揺らぎを機に皇位の権威回復を図るが、その強烈な政治意志はついに承久の乱へと結実する。敗北後は隠岐へ流されるも、最期まで文芸と帝としての誇りを持ち続けた。後鳥羽院は、失われた帝の力を取り戻そうとした最後の強い上皇であった。
【政治の部屋|後鳥羽天皇】鎌倉時代編.1
1161-1185を生きた武士であり平家一門。平清盛の嫡男である平重盛の次男として生まれ、清盛の孫にあたる。若き貴公子は、一門随一の雅な感性を兼ね備える。宮廷では建礼門院徳子に仕えた右京大夫と恋仲となり、二人が交わした数々の和歌は平家全盛期の華やかな文化を今に伝えている。源平の争乱が激化すると、一族の命運を背負い各地を転戦。戦火の中でも右京大夫に寄せた歌には、抗えぬ運命への悲哀が色濃く滲む。壇ノ浦の戦いで敗北を悟ると、皆に習って静かに海へ身を投じた。その最期は知盛の覚悟や教経の勇猛とは対照的に、平家が誇った「雅」の終焉を告げる儚い悲劇として語り継がれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|平 資盛】平安時代編.42
1160-1185を生きた武士であり平家一門。平家随一の怪力と武勇を誇った猛将で、平清盛の甥にあたる。身の丈六尺(約180cm)とも伝わる堂々たる体躯を持ち、源平合戦において数々の武功を挙げた。屋島・壇ノ浦など最終局面では、鬼神の如き奮戦で平家軍を支え、とりわけ壇ノ浦では源義経を討ち取ろうと海へ馬ごと飛び込んだ逸話が名高い。乱戦の中で義経に迫り、複数の敵を同時に組み伏せる豪勇は「平家物語」の中でも際立つ存在である。平家滅亡が避けられないと悟ると、二人の敵兵を抱えたまま海中へ身を投じ、「武士として最後まで戦い抜く」という矜持を貫いた。その最期は、栄華と滅亡の両方を味わった平家武士の烈しさを象徴するものであり、今もなお源平合戦最大の猛将として語り継がれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府、出生年を1160年とさせていただきます。
【政治の部屋|平 教経】平安時代編.41
1152-1185を生きた武士であり平家一門。平清盛と平時子(二位尼)の子として生まれ、幼少期から武勇に優れた将として成長した。平家一門の中でも冷静沈着かつ勇猛で知られ、屋島から壇ノ浦へ続く最終決戦では、総大将として軍勢を率い、源義経の奇策に対しても動じず戦い抜いた。壇ノ浦で敗色が濃厚となると、幼い安徳天皇や母・時子、姉の徳子(建礼門院)らの悲痛な姿を見届け、「見るべきほどのものは見つ」と言い残し、甲冑のまま海へ身を投じたと伝えられる。その最期は、武士としての名誉と平家一門への忠義を貫いた潔さの象徴であり、「平家物語」において最も美しく哀切な場面の一つとして語り継がれている。その最期は、平家滅亡の物語を静かに締めくくった総大将の姿であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|平 知盛】平安時代編.40
1164-1176を生きた政治家(第79代天皇)。二条天皇の皇子として生まれ、生後わずか7ヶ月で即位した日本史上最年少の天皇である。この異例の即位の裏には、父の急逝と、実権を握ろうとする祖父・後白河院、そして台頭する平清盛の政治的思惑が複雑に絡み合っていた。言葉も発せぬ幼き帝の治世は、「政治は貴族のもの」という常識が崩れ去った時代であり、平清盛が武士として初めて朝廷の最高ランク(公卿)に登り詰め、政治の実権を完全に掌握した時代であった。清盛は自身の血を引く高倉天皇の即位を急ぎ、六条天皇はわずか5歳で譲位させられる。以後、静かな生活を送るも13歳で崩御。自らの意志とは無関係に、巨大な権力構造の部品として扱われたその生涯は、武士の力が天皇や上皇をもしのぎ始めた時代の危うさを静かに映し出している。
【政治の部屋|六条天皇】平安時代編.39
1139-1155を生きた政治家(第76代天皇)。鳥羽上皇と藤原得子(美福門院)の第九皇子。父の強い期待を背負いわずか3歳で即位した。この即位により、兄・崇徳上皇の系統を皇位から外す結果を生み、宮廷内に深い亀裂が生じさせた。治世の実権は父・鳥羽院が握り、幼き帝はその権威の象徴となった。本人は温和で礼儀正しく、家族の情を大切にする性格だったと伝わるが、生まれつき病弱で17歳で急逝。院政の均衡を支えていた「幼い象徴」が消えたことで、朝廷の緊張は一気に高まる。後白河天皇の即位、そして崇徳上皇との対立が表面化し、日本を二分する「保元の乱」という未曾有のクライシスを招く直接の引き金となった。
【政治の部屋|近衛天皇】平安時代編.38
1079-1107を生きた政治家(第73代天皇)。白河天皇の強い意向により、わずか8歳で即位。父が上皇として実権を握る院政下では、その影に隠れがちだが、実像は和歌・漢詩・管弦に深く通じ、宮廷の美意識を大切にした気品あふれる名君であった。 政治の主導権が常に白河院にある状況の中で、堀河天皇は文化と儀礼を整え、歌合を主催するなど、宮廷の「精神的中心」を担う存在として重要な役割を果たす。臣下への態度は温和で慈愛に満ち、過失を厳しく責めないことから「人格の主」として深く慕われた。白河院の強権を陰で和らげつつ、社会が激動へ向かう前夜にあって、堀河天皇の治世は束の間の、しかしひときわ美しい安定と文化的成熟の輝きを放った。
【政治の部屋|堀河天皇】平安時代編.35
1053-1129を生きた政治家(第72代天皇)。父・後三条天皇の遺志を継ぎ即位したのち、真に歴史が動くのは譲位して上皇(のち法皇)となってからであった。幼い堀河天皇を即位させ、自らは「院」として政務を掌握し、天皇とは別の権力が上皇に集中する特異な政治体制「院政」を確立する。外戚に依存する摂関政治とは異なり、白河上皇は独自の人的ネットワークと武士団を背景に強力な主導権を築いた。その権勢は「天下三不如意」の逸話にも象徴されるほど圧倒的で、武士を直属の実働部隊として組織化したことは、中世武家社会の成立を早め、平安の政治構造そのものを塗り替える契機となった。その生涯は、伝統的秩序を突き破り、日本史を中世へと押し出した変革の象徴である。
【政治の部屋|白河天皇】平安時代編.34
1034-1073を生きた政治家(第71代天皇)。後冷泉天皇の崩御を受け34歳で即位。母に藤原氏を持たない天皇の誕生は約170年ぶりで、摂関家の外戚支配が続いた政治構造を揺るがす大きな転換点となった。父・後朱雀天皇が願った「外戚政治からの脱却」を継ぎ、即位後は藤原氏の権勢に正面から向き合う。なかでも「延久の荘園整理令」は拡大した荘園を厳格に調査し、摂関家の経済基盤に初めて本格的な改革を加えた歴史的施策である。実務と学問を重んじ、公正な政治を取り戻そうとした姿勢は、平安後期の政治を大きく方向づけた。後三条天皇の治世は、摂関支配の終焉に道を開き、のちの院政成立の土台を築いた「改革の序章」として位置づけられる。
【政治の部屋|後三条天皇】平安時代編.33
1025-1068を生きた政治家(第70代天皇)。後朱雀天皇の第一皇子。父の譲位を受けて19歳で即位するも、政治の主導権は引き続き藤原頼通が握り続け、天皇の発言力は限定的であった。摂関政治は制度として完全に固定化し、国政は天皇の意思よりも摂関家の家格と外戚関係によって動く仕組みが完成していた。宮廷文化は依然として華やかで、和歌や絵画は高い水準を保ったものの、荘園の増加による公地公民制の崩壊、武士団の成長、地方行政の弱体化など、のちの社会変動を予感させる兆しは前政権期よりも明確に現れ始めた。頼通の娘である皇后・寛子との間に皇子が生まれなかったことは、長らく続いた藤原氏外戚支配の構造に大きな綻びを生じさせ、摂関政治が究極の形に到達したと同時に、次代の後三条天皇、そして「院政」へと続く新時代の幕開けを告げる平安中期の歴史的転換点となった。
【政治の部屋|後冷泉天皇】平安時代編.32
1009-1045を生きた政治家(第69代天皇)。 後一条天皇の弟。兄の崩御を受けて26歳で即位した。成人してからの即位であったものの、政治の実権は依然として藤原氏、とりわけ藤原頼通が握り続けていた。後朱雀天皇は誠実で温和な性格とされ、積極的に親政を志すタイプではなかったため、摂関政治の構造を変えることはできなかった。 一方で、在位中には地方情勢の不安定化、荘園の拡大、武士勢力の増大など、後に大きな社会変化へつながる兆しが現れる。また、皇位継承をめぐる複雑な人間関係の中では、天皇自身も藤原氏の思惑に翻弄される局面が多かった。後朱雀天皇の治世は、摂関家が国家の舵取りを完全に掌握した「静かな安定期」であると同時に、後に大きなうねりとなる社会変動の兆しが芽生えた時代の象徴となる。
【政治の部屋|後朱雀天皇】平安時代編.31
1008–1036を生きた政治家(第68代天皇)。一条天皇の皇子として生まれ、三条天皇の譲位を受けて8歳で即位。道長にとって、自身の娘・彰子が産んだ念願の孫の即位であり、政務は道長が摂政として完全に掌握。後一条天皇の治世は、「道長政治」の集大成ともいえる時代となる。 病弱で静かな性格だった後一条天皇は、宮廷の激しい権力闘争から距離を置かざるを得ず、政治的主導権は終始外戚である藤原氏に握られた。一方で、宮廷文化は「栄花物語」に描かれるような空前の繁栄を迎え、儀式・年中行事もこの時期に整えられた。 しかし、繁栄の裏では、道長の息子・頼通が後継として台頭し、摂関家の権力世襲が盤石に築かれた。後一条天皇の治世は、摂関政治が最も安定し、かつ強大な権力体系として完成を見た時代の象徴ともいえる。
【政治の部屋|後一条天皇】平安時代編.30
976-1017を生きた政治家(第67代天皇)。冷泉天皇の第一皇子。従兄弟・一条天皇の死去を受け36歳という遅咲きの即位するも、藤原道長の権勢が絶頂に達しており、天皇自身の政治的自由は大きく制約される。三条天皇は誠実で責任感が強かったとされ、宮中では道長派と天皇側近の対立がしばしば起こるも、道長の抵抗にあい、また視力の悪化を含む体調不良が重なり、譲位へと追い込まれた。その短い治世は、道長の権力がいかに強固であり、天皇でさえ抗いきれないほどの支配構造が成立していたことを象徴している。
【政治の部屋|三条天皇】平安時代編.29
980-1011を生きた政治家(第66代天皇)。円融天皇の第一皇子。花山天皇が出家したのち、その譲位を受けて6歳で即位する。幼少期の政治は、外祖父である藤原兼家が主導し、治世の後半には叔父・藤原道長が台頭。道長の権勢が絶頂へと向かう中、朝廷は強大な摂関支配の舞台となる。一方で、后である定子・彰子のもとには清少納言や紫式部といった女流文学の才女が仕え、「枕草子」や「源氏物語」が生まれるなど、一条朝は国風文化の黄金期と称されるほどの文学的繁栄を迎えた。政治面では摂関政治が進行する中、一条天皇は清廉な姿勢で公務に臨み、国政の秩序を保とうと努めたと評価されている。圧倒的な力を誇る藤原道長の陰にあっても、気品と知性によって天皇としての威厳を保ち続けたその治世は、文化的繁栄の象徴であると同時に、天皇が摂関家の力に縛られていく時代の幕開けでもあった。
【政治の部屋|一条天皇】平安時代編.28
968-1008を生きた政治家(第65代天皇)。冷泉天皇の第一皇子。円融天皇の譲位を受け、17歳で即位した。情熱的で個性豊かな性格の持ち主で、学問・和歌・建築・絵画など多才を発揮したことでも知られる。即位後は、外戚に頼らない独自の親政を志し、貨幣流通の促進や荘園整理といった改革に取り組む姿勢を見せた。しかし、その自立的で積極的な政治姿勢は、権勢を強めつつあった藤原兼家らの強い警戒を呼び起こした。986年最愛の女御を亡くし深い悲しみに沈んでいたところ、兼家らの巧妙な罠にはめられる。夜闇に紛れて内裏(宮中)から連れ出され、強制的に出家させられるという前代未聞のクーデター「寛和の変(かんなのへん)」により、わずか2年の治世で皇位を追われた。退位後は「花山院」として長い隠棲生活を送り、西国三十三所観音霊場の再興など、信仰と芸術に深く関わる人生へと歩みを転じた。その生涯は、平安時代において天皇が自らの個性と意志で政治を動かそうとすることの困難さを物語る、象徴的な悲劇として語り継がれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|花山天皇】平安時代編.27
959-991を生きた政治家(第64代天皇)。村上天皇の第五皇子。兄・冷泉天皇の譲位を受け、11歳で即位。先代から続く摂関政治がいっそう進む中、外戚として台頭する藤原兼家(藤原道長の父)ら有力公家の権力争いに巻き込まれ、政治は不安定な環境に置かれる。皇位を次に継ぐべき存在を、冷泉天皇の皇子と自身の皇子のどちらにするかをめぐる争いは深刻で、政局は混迷を極めた。最終的には兼家の政治工作に抗しきれず、26歳で譲位に追い込まれる形となるも、退位後も父としての役割を果たそうとし、のちに一条天皇として即位する息子・懐仁親王の周囲を整えるなど、政治的な基盤づくりに動いたと伝わる。その治世は、摂関政治が本格的に固定化し、天皇が藤原氏の巨大な外戚権力と対峙せざるを得なかった時代の象徴であり、単なる「傀儡」として扱われることを拒み、天皇の威信を守ろうとしたその姿には、平安中期の苦闘と矛盾が色濃く刻まれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|円融天皇】平安時代編.26
950-1011を生きた政治家(第63代天皇)。村上天皇の第二皇子。父の崩御に伴い、18歳で即位した。端正な容姿で知られたが、精神的な不安定さや奇行が目立つという危うさを抱えていた。このため、天皇が自ら政治を差配する「親政(しんせい)」の継続は困難と判断され、叔父の藤原実頼が関白に就任。これを機に、天皇の意思よりも「母方の親戚(外戚)」である藤原氏が主導権を握る「摂関政治」へと、時代は決定的に舵を切ることとなった。在位中は、藤原氏の内部で「誰が次の天皇の親戚(外戚)として権力を握るか」という争いが激化し、その政争に翻弄される形で、わずか2年余りで譲位を余儀なくされた。退位後も、冷泉天皇の血筋(冷泉系)と弟の円融天皇の血筋(円融系)のどちらが皇位を継ぐかという、子孫たちの代まで続く激しい対立の火種となる。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|冷泉天皇】平安時代編.25
926-967を生きた政治家(第62代天皇)。醍醐天皇の第十四皇子。兄・朱雀天皇の譲位を受けて即位した。叔父である藤原忠平の死後は、摂政・関白を置かずに自ら政務を執り行い、父が志した天皇親政を再興した。その治世は「天暦の治(てんりゃくのち)」として後世に理想化されるほど、秩序と文化が安定した時代と評価されている。内政では、貨幣鋳造(乾元大宝)や朝儀・年中行事の整備など、国家の権威と秩序の再構築に尽力した。文化面ではとくに和歌を深く愛し、日本初の正式な選歌機関である「和歌所」を設置して「後撰和歌集」の編纂を命じる。宮廷では「天暦の菊合(きくあわせ)」に象徴されるような雅やかな文化が花開き、村上天皇自身も管弦の名手として知られるなど、平安貴族文化の成熟を体現した存在であった。しかし、その輝かしい治世の裏側では、次第に実権を強める藤原氏との権力バランスの維持に苦心し、崩御後は摂関政治が固定化していく。村上天皇の治世は、天皇が自らの知性と意志で国を治め得た、平安時代における「最後の輝き」とも評される重要な時代であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|村上天皇】平安時代編.24
923-952を生きた政治家(第61代天皇)。醍醐天皇の第十一皇子。父の崩御に伴い、わずか8歳で即位した。幼少であったため、叔父の藤原忠平が摂政として政務を補佐し、朝廷は引き続き安定した運営を目指したが、その治世は、父や祖父(宇多天皇)が築いた平穏が揺らぎ始める大きな転換点となった。在位中、関東では平将門が「新皇」を称して反乱を起こし、西国では藤原純友が武装集団を率いて蜂起する「承平・天慶の乱」が勃発。これらは京の権威を脅かす未曾有の危機であり、朝廷は武士の力を積極的に用いて鎮圧にあたらざるを得なかった。結果として、この対応が後世の武士階級台頭の萌芽となったと考えられている。さらに、在位中には富士山の噴火や大地震、疫病などの災害も相次ぎ、国家全体が動揺する時期でもあった。朱雀天皇の治世は、表面的には貴族社会が続く一方で、その裏側で武士という新たな勢力が力を得始めるといった平安時代の構造変化を象徴する時代であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|朱雀天皇】平安時代編.23
885-930を生きた政治家(第60代天皇)。父・宇多天皇の譲位を受け、わずか13歳で即位。父が築いた「知性と実力」を重んじる政治姿勢を継承し、摂政・関白を置かずに自ら政務を司る「延喜の治(えんぎのち)」を展開した。平安時代の政治と文化の成熟を象徴する名君として知られる。治世では、日本最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂を命じるなど、国風文化を大きく発展させた。一方で、宇多天皇時代からの重臣・菅原道真をめぐる政争(昌泰の変)では、結果的に道真を失脚させることとなり、この決定は醍醐天皇に深い心の傷を残したと伝わる。晩年には、天変地異や疫病が相次いだことから、道真の怨霊を恐れたという逸話も残されている。その治世は、平安文化が最も洗練された「光」の絶頂期であると同時に、怨霊信仰という「影」が歴史に色濃く刻まれた時代でもあった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|醍醐天皇】平安時代編.22
867-931を生きた政治家(第59代天皇)。光孝天皇の第七皇子として生まれるも、皇族の数が増えすぎた当時の事情により、一度は皇族の身分を離れて「源定(みなもとのさだむ)」という名を授かり、一人の貴族として臣下の列に加わる。しかし、父の崩御という緊急事態に際して皇族に復帰し、即位するという日本史上でも極めて珍しい経歴を持つ。即位後は、特定の家系に権力が集中するのを防ぐため、藤原氏から距離を置きつつ、学問の天才・菅原道真を抜擢。「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれる天皇自らの政治を行い、遣唐使の廃止を検討するなど、日本の独自性を尊重する国政を推進した。譲位後は自らが創建した仁和寺に入り、日本史上初めての「法皇(出家した天皇)」でもある。その治世は、慣習に縛られず、天皇の権威と理想を貫こうとした平安中期の大きな転換点であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|宇多天皇】平安時代編.21
1155-1214を生きた平家一門。平清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり、のちの安徳天皇の母となる。平氏政権の最盛期を支え、王朝文化の中心にあったが、源氏との戦いが激化すると、母として、皇族として、一門とともに逃亡を続けた。壇ノ浦で子・安徳天皇、母・二位尼を失い、自らも入水を試みるが救われる。のちに出家し、大原寂光院で静かに余生を送った。「平家物語」における最も象徴的な悲劇の女性として描かれている。 いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|平 徳子】平安時代編.20
1178-1185を生きた政治家(第81代天皇)。平清盛の娘・徳子(のちの建礼門院)と高倉天皇の皇子として生まれ、わずか3歳で即位した幼帝。祖父・平清盛による平氏政権の象徴としての存在であったが、源平の争乱が激化する中で一門とともに都を離れ、西国を転々と流転する日々を過ごした。1185年、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北が決定的となると、三種の神器を抱いて祖母・二位尼とともに入水。数え年8歳でその短い生涯を閉じた姿は、日本史に残る最も哀しい悲劇として語り継がれる。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|安徳天皇】平安時代編.19
1126-1185を生きた平家一門。平清盛の妻として平家政権を内側から支えた女性で、安徳天皇の祖母にあたる。高い教養と政治的感覚を備え、平家一門の精神的支柱として尊崇された。平家滅亡の際には「二位尼(にいのあま)」として安徳天皇の身を守りつつ行動し、壇ノ浦の戦いで追い詰められた幼い安徳天皇を抱き、入水したことで知られる。その姿は「平家物語」に「浪の下にも都のさぶらふぞ」と描かれ、日本史に残る悲劇的で荘厳な最期として語り継がれる。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|平 時子】平安時代編.18
1159-1189を生きた武将。源氏の名将として知られ、壇ノ浦まで続く源平合戦において数々の奇跡的勝利を挙げた戦の天才。「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や「屋島の奇襲」など、常識を覆す戦術は今も英雄譚として語り継がれる。しかし、その圧倒的な功績が兄・頼朝の警戒を招き、追われる身となって奥州平泉へ逃れた。最期は、厚い庇護を受けた藤原秀衡の死後、その子である泰衡の襲撃を受け、妻子とともに自害。華々しい栄光と悲劇的な最期を併せ持つ、日本史上屈指の悲劇の英雄と語り継がれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|源 義経】平安時代編.17
1161-1181を生きた政治家(第80代天皇)。後白河天皇の第七皇子であり、平清盛の強力な後押しにより即位し、清盛の娘・徳子を中宮に迎えたことで平氏政権の象徴的な存在となる。父である後白河法皇と、義父である平清盛という二大巨頭の激しい権力闘争の板挟みとなり、その調整に心身を削った。1180年、清盛の専横に対する反発が強まる中、わずか20歳で譲位し、翌年に崩御。その短い治世は、平氏の栄華が頂点に達し、同時に源平合戦という破滅へと突き進む、平安時代最後の動乱期であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|高倉天皇】平安時代編.13
1143-1165を生きた政治家(第78代天皇)。後白河天皇の第一皇子であり、平治の乱(1159)では、父・後白河上皇とともに内裏を脱出して平清盛の陣営に逃れ、反乱軍の源義朝を打倒する契機を作った。即位後は、父の院政を認めない「親政(天皇自らの政治)」を志向したため、後白河院との間に深刻な二重権力状態が生じ、朝廷内は「上皇方」と「天皇方」に分裂。清盛を味方につけることで父に対抗したが、若くして病に倒れ、在位わずか7年、23歳の若さで崩御した。その短い治世は、院政と天皇親政、そして台頭する平氏が複雑に絡み合う動乱期であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|二条天皇】平安時代編.11
1127-1192を生きた政治家(第77代天皇)。崇徳天皇と対立した保元の乱(1156)に勝利し、その後は上皇として長期にわたり院政を展開した。平治の乱や平家政権の成立、さらに源頼朝の台頭に至るまで、激動する時代の政治の中心に位置づけられ、武士勢力と公家勢力の狭間で巧みに権力を保持した。院政を事実上の頂点へ導いた人物であり、日本中世政治の構造を大きく方向づけた。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|後白河天皇】平安時代編.10
1119-1164を生きた政治家(第75代天皇)。鳥羽・白河院政のもとで天皇となったが、皇位継承をめぐる対立から上皇となったのち政治的影響力が限定された。1156年の保元の乱では、院政下の対立構造が先鋭化する中で後白河天皇側と争い、戦いに敗れて讃岐へ流された。後世には怨霊として語られるなど、院政期の政治的混乱と皇位継承問題の複雑化を象徴する人物である。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|崇徳天皇】平安時代編.9
1103-1156を生きた政治家(第74代天皇)。幼くして即位したのち、祖父・白河上皇の院政を継承し、自身も上皇として政治の実権を握った。摂関家に代わる統治方式として院政を本格化させ、寺社勢力・武士勢力と連携しながら政治運営を行った。皇位継承をめぐっては、崇徳天皇と後白河天皇をめぐる対立の背景となり、院政期特有の複雑な権力構造を形成した。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|鳥羽天皇】平安時代編.8
1143-1166を生きた政治家。平安時代後期、藤原忠通の四男として生まれ、若くして摂政・関白に就任した。保元・平治の乱を経て武家勢力が台頭する中、平清盛と密接に連携することで、摂関家としての権威と平氏の武力を結びつける現実的な政治路線を歩んだ。北家の嫡流として「近衛家」を創設し、後の五摂家へと続く血統の固定化を決定づけた。貴族政治の伝統を維持しつつ、中世の権力構造へと適応させた人物である。24歳にて早世。
【政治の部屋|藤原(近衛)基実】平安時代編.7
912-995を生きた医師であり政治家。平安時代中期、朝廷に仕える医師として活動し、朝廷における医療体制の組織化と医学の体系化に貢献。特に、984年に、中国の医学書を引用しつつ独自の知見を加えた日本最古の医学全書「医心方」を編纂し、円融天皇に献上した。律令体制下における学術・専門職官僚の到達点を示す人物である。いらすとすてーしょんでは、出生地は京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|丹波康頼】平安時代編.4
845-903を生きた政治家であり学者。平安時代前期、学問的才能を背景に官僚として台頭し、右大臣にまで昇進した。遣唐使の派遣停止を建議し、大陸文化の影響から自立した国家運営への転換を進めたことでその名を刻んでいる。藤原氏中心の政治構造の中で非藤原系官僚として政権中枢を担ったが、藤原時平との政争により大宰府へ左遷され、同地で没した。その卓越した行政能力と学識は後世まで高く評価され、没後は怨霊信仰と結びついて天神として神格化されるなど、政治史と文化史の両面に大きな影響を残した人物である。 いらすとすてーしょんでは、出生地は京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|菅原道真】平安時代編.3
802-856を生きた政治家。平安時代前期、藤原北家の一員として朝廷で重きをなし、左大臣に就任した。父・藤原冬嗣の路線を継ぎ、娘の高子を清和天皇の女御とし、後の陽成天皇を儲けたことで、北家が「摂関家」としてその血筋が固定化される。貴族官僚として政務運営を主導し、律令体制下における貴族政治を安定させ、後に成立する摂関政治への基盤を整えた人物である。いらすとすてーしょんでは、出生地は京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|藤原長良】平安時代編.2
1920-1992を生きた作詞家であり脚本家。中学卒業後、京都でアニメ映画製作など、職を転々とし、1941(昭和16)年召集され従軍。戦後、東宝の脚本家として「暗黒街の対決(1960)」や特撮映画「モスラ(1961)」などを手がけ、ゴジラシリーズにも名を残した。作詞家としては1958(昭和33)年、日本コロムビアと契約し、歌・小林旭「ダイナマイトが百五十屯(1958)」で鮮烈なデビューをはたす。以後、歌・舟木一夫「学園広場(1963)] 、「銭形平次(1966)」、歌・美空ひばり「柔(1964)」、など、映画やテレビの物語性と共鳴するヒット曲を連発。詞にドラマ性を宿した作風で、昭和歌謡の一翼を彩った。
【文学の部屋|関沢新一】昭和時代編.224
1930-2018を生きた演劇評論家であり古典芸能研究家。同志社大学文学部卒業後、京都観世会事務所に30年勤務しながら関西の舞台を見続け、能、歌舞伎、現代演劇評論を行った。のちに、大阪学院大学国際学部で古典芸能を講じ、後進の育成にも尽力。主な著作として「能楽手帖(1979:駸々堂出版)」、「文楽の世界(1985:講談社)」など多数残す。
【文学の部屋|権藤芳一】昭和時代編.179
1907-1978を生きた文芸評論家。東京帝国大学文学部在学中よりプロレタリア文学運動に参加するも、組織のあり方に疑問を抱き離脱。戦後は埴谷雄高らとともに雑誌「近代文学」を創刊し、戦後文学のオピニオンリーダーとして活動を始める。作家論の一つの典型となる「島崎藤村(1947)」を刊行し、作家的エゴイズムを鋭く批判。また「芸術と実生活(1958)」で私小説における芸術と生活の背反を論じる。さらに「昭和文学史(1963)」では文学史研究に新たな視座を提示。文芸時評でも長年筆を執り、鋭い鑑賞力と批評眼で文壇に影響を与えた。また教育分野では、明治大学文学部教授など後進の育成にも携わった。本名は平野朗(あきら)。
【文学の部屋|平野 謙】昭和時代編.107
1901-1994を生きた俳人。第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学し、在学中に高浜虚子に師事。「ホトトギス」同人として活躍し、水原秋桜子、らと共に「ホトトギスの4S時代」と呼ばれる黄金期を築いた。1932(昭和7)年に句集「凍港」を刊行し、都会的・知的・即物的な句風で俳壇に新風を吹き込んだ。また映画技法であるモンタージュ理論を応用した連作俳句を提唱するなど、新興俳句運動を牽引する。戦後1948(昭和23)年には俳誌「天狼」を創刊し人間の本質を問い直す「根源俳句」を提唱、戦後の俳句復興に大きな足跡を残した。また校歌や社歌などの作詞も手がけた。本名は山口新比古(ちかひこ)。
【文学の部屋|山口誓子】昭和時代編.95
1887-1928を生きた歌人であり、教育者、社会運動活動家。父、大谷光尊(西本願寺第21代法主)の亡き後、兄の大谷光瑞と共にし、兄嫁と共に仏教婦人会を共同設立し、日露戦争時の兵士への支援活動を行う。佐佐木信綱に師事し、歌集「金鈴」や歌文集「無憂華」などを著した。また1923年の関東大震災後には、築地本願寺の再建やあそか病院の設立などの人道的活動を行った。京都女子高専(現在の京都女子大学)を創設者としてもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|九条武子】昭和時代編.1
1873-1935を生きた歌人であり、文学者、教育者。教員を経て、1900(昭和33)年に創刊した文学雑誌「明星」は、北原白秋や石川啄木など多くの若手歌人を輩出し、ロマン主義運動の中心的存在となる。与謝野晶子の才能を見抜き、歌集『みだれ髪』の出版を支援。晩年にはパリを訪れ、ヨーロッパ各地を歴訪し帰国後、慶應義塾大学の教授としても多くの後進を育てた。
【文学の部屋|与謝野鉄幹】明治時代編.18
1791-1875を生きた歌人、陶芸家であり尼僧。度重なる家族の死を経験し、出家して蓮月尼と称する。和歌は上田秋成和らに学び、その才能は広く知られ、自分の歌をほりこんだ陶器蓮月焼は多くの人々の評判を集めた。晩年には幼少の富岡鉄斎に影響を与え、その後の作品に大きな影響を与えたとされる。
【文学の部屋|大田垣蓮月】江戸時代編.27
1712-1774を生きた公卿であり歌人。柿本人麻呂や山部赤人の歌を理想とした和歌を目指し、宮廷歌会でその名声は響き渡り、霊元上皇から古今伝授を受け、多くの門人を育成した。
【文学の部屋|冷泉為村】江戸時代編.8
出生年不明-1283を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父、卜部兼顕の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。無常観をテーマにし、深い洞察と鋭い観察力で当時の社会や人間の本質を描き出した日本三大随筆の一つ「徒然草」の著者。晩年には出家し、兼好法師と号した。
【文学の部屋|卜部兼好】鎌倉時代編.6
1263-1328を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父である藤原為家の影響を受け、和歌の道に進む。訪問先の鎌倉で歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして関東歌壇の発展に貢献した。母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|冷泉為相】鎌倉時代編.5
1155-1216を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父である鴨長継の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。著書である「方丈記」は、日本三大随筆の一つとして無常観をテーマにした作品。「無名抄」は、和歌の技法や理論について論じた。 ※出生年を1155年とさせていただきます
【文学の部屋|鴨長明】鎌倉時代編.3
1198-1275を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原定家の影響を受け、和歌の道に進む。続後撰和歌集、続古今和歌集の撰者として活躍。歌学書である「詠歌一体」を著し、和歌の技法や理論について論じている。冷泉為相の父であり、母は、十六夜日記の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|藤原為家】鎌倉時代編.2
1149-1207を生きた政治家、僧侶であり、文学家。40年間にわたって書き綴った日記「玉葉」は、当時の政治や社会の状況を詳細に記録しており現在、当時を知る歴史資料となっている。また文学的才能は和歌でも発揮され、千載和歌集などの勅撰和歌集に収められている。藤原俊成、藤原定家ら当代の代表歌人の庇護者として大きな役割を果たした。征夷大将軍源頼朝誕生の立役者でもあり、摂政、氏長者、太政大臣。関白の要職を務めた。
【文学の部屋|九条兼実】鎌倉時代編.1
1162-1241を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父、藤原俊成の指導を受け、その後「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり活躍した。また「源氏物語」などの古典の書写、校訂にも携わった功績を残している。
【文学の部屋|藤原定家】平安時代編.13
1114-1204を生きた政治家、文学家であり歌人。九条の祖である兼実に和歌の師として迎えられ、その後「千載和歌集」の撰者として活躍した。「新古今和歌集」で活躍する実子の定家をはじめ多くの歌人を輩出したことでもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|藤原俊成】平安時代編.12
1097-1164を生きた政治家、文学家であり歌人。25歳で関白となり、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇を支える。 詩歌にすぐれ、自然の雄大さを詠み、書は法性寺流と書家としてもその名を馳せた。
【文学の部屋|藤原忠通】平安時代編.11
1118-1190を生きた武士、僧、文学家であり歌人。武士として鳥羽上皇に仕え、その後出家し、生涯の大半を奥州から九州の諸国を行脚し多くの和歌を詠んだ。花と月の歌がおおく、その独自の歌風は後の文学に影響を与えた。それらの作品は「新古今和歌集」などに数多く収められている。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|西行】平安時代編.10
845-907を生きた文学家であり歌人、そして朝廷に仕えた官人。宮廷の歌合わせに出詠し、醍醐天皇の命をうけ「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、編纂に携わる。三十六歌仙のひとり。そして紀貫之の従兄弟でもある。 ※いらすとすてーしょんでは紀友則の出没年ならびに出生地を上記載とさせていただきました。
【文学の部屋|紀友則】平安時代編.8
870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】平安時代編.1
1927-2013を生きた経営者であり実業家。1950(昭和25)年、22歳で株式会社丸福(任天堂の前身)を祖父より継ぎ社長に就任。花札やトランプに加え、1965(昭和40)年に「ウルトラハンド」が大ヒットし、任天堂は玩具事業に傾倒。1983(昭和58)年に家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売し、世界的な成功を収める。また、日本人初の大リーグチーム(シアトル・マリナーズ)のオーナーもつとめた。
【経営者の部屋|山内 溥】昭和時代編.39
1869-1951を生きた経営者であり実業家。創業者である父より島津製作所を受け継ぎ、1895(明治28)年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見したのを受けて、X線の研究に着手し、翌年に日本国内初のX線写真の撮影に成功させた。1897(明治30)年に京都帝国大学からの注文を受けて鉛蓄電池を作製し、これが後に「GS(Genzo Shimazu)蓄電池」となる。その後、1909(明治42)年に国産初の医療用X線装置を開発し、X線技術の普及に大きく貢献を果たした。日本十大発明家のひとりに選ばれている。
【経営者の部屋|島津源蔵 (2代目)】明治時代編.74
1864-1936を生きた化学者。帝国大学理科大学化学科を卒業後、ドイツライプツィヒ大学でオストワルド教授の下で研究を行い、帰国後、東京帝国大学教授となる。その後1908(明治41)年、昆布の出汁からグルタミン酸ナトリウムを単離し、甘味、酸味、塩味、苦味に次ぐ第五の味覚として「うま味」の成分であることを発見。その翌年には鈴木三郎助により「味の素」として商品化された。
【化学の部屋|池田菊苗】日本の化学者 明治時代編.1
1858-1918を生きた経営者であり実業家。小学校教師を経て、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に就任。その後兄の羽室嘉右衛門と共に製糸工場「羽室組」を創業し、1896(明治29)年に郡是製絲株式会社(現、グンゼ株式会社)を創業。熱心なクリスチャンであり、女性工員の教育にも力を入れた。
【経営者の部屋|波多野鶴吉】明治時代編.69
1914-1995を生きた経営者であり実業家。1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで三越の社長を務めた。三越の経営改革を推進し、百貨店業界の発展に大きく貢献。特に、店舗の近代化やサービスの向上に力を入れ、顧客満足度を高めた。彼のリーダーシップの下、三越は国内外での店舗展開を進め、ブランド力を強化した。
【経営者の部屋|岡田 茂】昭和時代編.24
1910-1971を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設し、財を築き上げた。1939(昭和14)年に日本殖産工業を創設し、その後、社長に就任。1949(昭和24)年にリッカーミシンと改称し、一代で上場企業に育てた。浮世絵のコレクターとしても知られ、平木浮世絵財団に保管されている。
【経営者の部屋|平木信二】昭和時代編.23
1867-1945を生きた経営者であり実業家。三井家総領家の婿養子となり、三井源右衛門を襲名、1894(明治27)年三井呉服店社長となった。その後三井物産、三井銀行社長を歴任した。蒐集した美術品は、現在も三井記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|三井高堅】明治時代編.51
1865-1926を生きた経営者であり実業家。継承難を抱えていた住友家に養子入りし、別子銅山などの経営改革を進める。1900(明治33)年には住友総理事に就任、銀行業など事業拡大を積極的に行い、三井、三菱と並ぶ大財閥へと成長させた。公家出身であり、第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望を兄に持つ。
【経営者の部屋|住友友純】明治時代編.44
1864-1926を生きた経営者であり実業家。京都で紙巻たばこ「サンライス」を製造を開始し、国産タバコの普及に尽力する。当時、横文字名の煙草として人気となり、ハイカラなライフスタイルを象徴する商品となった。同時期に東京で紙巻タバコ「天狗」を展開した岩谷松平と派手な宣伝合戦を繰り広げたことでも名を馳せた。その後、たばこの専売制移行により村井銀行を創立し,鉱山・石油業に進出している。
【経営者の部屋|村井吉兵衛】明治時代編.36
1861-1924を生きた経営者、実業家であり政治家。京都瓦斯(ガス)会社の設立に関わり、京都市内へのガス供給を推進した。また京津電気軌道(京都と滋賀を結ぶ電気鉄道)の経営にも携わり、交通インフラの整備を通じて地域経済の発展、そして京都の産業発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|奥 繁三郎】明治時代編.34
1842-1912を生きた経営者。丁稚奉公で仕事を学び、舶来雑貨の問屋「加賀文」を築き、西南戦争に端を発した物価暴落に目をつけて商品を買い占め、その後の景気回復で財を成した。その後従弟だった勝次郎がその後「加賀文」から「岩井商店」を興しその後の株式会社岩井商店となった。
【経営者の部屋|岩井文助】明治時代編.6
1844-1913を生きた経営者であり実業家。洋装の流れと西南戦争の特需の波にのり、その後、第百三十銀行を設立。大阪麦酒など多くの企業設立に関わり、大阪財界を中心に活躍した。藤田伝三郎・田中市兵衛らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|松本重太郎】明治時代編.3
1545-1596を生きた経営者。 桃山時代に活躍し徳川家康に仕え、京都を中心とした商家である茶屋の祖であり、その後茶屋四郎次郎は通称となる。 いらすとすてーしょんでは出生地を京都、出生年を1545年とさせていただきます。
【経営者の部屋|茶屋四郎次郎(初代 清延)】室町・桃山時代編.2
1688-1748を生きた経営者。先代からの家業であった大文字屋を古着・呉服商で発展させ、正札つき現金販売を取り入れ、越後屋,白木屋とならび当時の大呉服店と称される百貨店大丸の礎を築いた。
【経営者の部屋|下村彦右衛門】江戸時代編.14
1832-1903を生きた経営者。小野組の番頭として生糸取引に従事し頭角を顕す。明治7年小野組の経営破綻後、銅山を含む鉱山の買収を通じて独立事業を展開し、古河財閥の基礎を築いた。
【経営者の部屋|古河市兵衛】江戸時代編.12
1831-1887を生きた経営者。京都豪商であった井筒屋8代目は、生糸販売,両替業などを営み、江戸時代を経て明治期初期には三井組、小野組とともに財政確立のために莫大な資金を調達、官金出納を扱った(明治7年には、島田組と共に経営破綻している)。また明治6年に渋沢栄一により創設された最古の銀行である第一国立銀行(第一銀行の前身)へ三井組の高福と共に大口出資を行った。
【経営者の部屋|小野善助】江戸時代編.5
1700年代に活躍した経営者。京都、江戸、大阪で呉服商や両替商を営み、後の維新時島田組となる蛭子屋を創業し初代となった。江戸時代を経て明治期初期には三井組、小野組とともに財政確立のために莫大な資金を調達、官金出納を扱った(明治7年には、小野組と共に経営破綻している)。
【経営者の部屋|島田八郎左衛門(初代)】江戸時代編.2
1743-1809を生きた医学者。古医方であり蘭学を学んだ山脇東洋の流れを汲んだ漢蘭折衷派の一人。関西以西で医学を学んだ後に芝蘭堂で大槻玄沢に蘭学を学ぶ。その後京都に戻り究理堂を開校し蘭学を普及させた。京都における蘭学の礎を築いたとされる。
【医学の部屋|小石元俊】ビフォーアフターP.F.シーボルト編②
1706-1762を生きた医学者。中国金元時代の医学からの脱却を目指した古方派筆頭の後藤艮山(1659~1733)に師事し、その後同派の大家となる。五臓六腑説に疑問を抱き、ついに1754年幕府の許可を得て日本初の人体解剖を行った。その記録は1759年「蔵志」にて著した。
【医学の部屋|山脇東洋】ビフォーアフター解体新書編①
1627-1705を生きた儒学者であり古学古義学(堀川学派)の祖。後の傷寒論などの古典に立ち返る医学となる古方派に影響を与えた。山脇東洋もその一人であり、日本初の人体解剖につながる。その生涯は親族から医者になることを勧められるもそれを拒み、加えて儒学者が医者になることを強く非難するも、医者として活躍する多くの門人を抱え慕われた。
【医学の部屋|伊藤仁斎】江戸の儒学と医学④
1837-1924を生きた絵師であり文人画家。国学、漢学、陽明学を学び西洋画以外の絵画技法を習得していたとされる。田能村直入らと日本南画協会を興し文人画の振興に尽力した。日本文人画における最後の代表画家とされている。
【画家の部屋|富岡鉄斎】最後の文人画巨匠
1864-1942を生きた日本画家。明治33年渡欧。円山四条派で活躍していた幸野楳嶺 に師事。これに渡欧で学んだ西洋画法をとりいれて独自の画風を確立。その後京都画壇の中心となり上村松園、西山翠嶂,土田麦僊らを育成した。 代表作の獅子は円山四条派の画技に加えてコロー,ターナーのセピア調の写生的作品に仕上げている。
【画家の部屋|竹内栖鳳】動物の匂いまでも描く
1652-1724を生きた絵師。父の仕事に付き添い江戸に出て、中橋狩野家(狩野安信)にて絵を学ぶ。岩佐又兵衛および菱川師宣の風俗画を好み、江戸庶民の粋な様を絵として残す。また松尾芭蕉らとの交流から俳諧にも通じていた。1698(元禄11)年島流しとなり約12年間三宅島へ流罪。この間に残した作品は島一蝶と呼ばれている。その後大赦にて江戸に戻り人気絵師英一蝶として数々の作品を手がけた。
【画家の部屋|英一蝶】江戸に愛された英派の祖
1583-1638を生きた絵師。父(もしくは師)光吉とともに現、大阪ぬて土佐派画系の継承につとめ、土佐派を光吉より嗣ぐ。その後、息子の光起を伴い京都に移り土佐派復興につとめる。54帖総ての段を表した源氏物語画帖の絵は土佐光則の作と伝えられているが、その弟子たちによって完成されたとされている。 ※いらすとすてーしょんでは出生地を京都府とさせていただきます
【画家の部屋|土佐光則】土佐派再興に捧げた人生
1752-1811を生きた絵師。与謝蕪村に俳諧や文人画を学び、その後円山派を創始した円山応挙の影響を受け、写生に開眼し軽妙洒脱な画風を創出。この新しい画風は師の応挙没後、さらに隆盛し、京都四条高倉を居としてた呉春をはじめ,呉春を頼る画家の多くが四条通りに集まっていたため,四条派と呼ばれるようになり、呉春はその四条派の祖と称される。
【画家の部屋|呉春】四条派の祖
1733-1795を生きた絵師。狩野探幽の流れをくむ鶴沢派、石田幽汀の門下となり、その後出会う西洋画に魅せられ写実に傾倒した。その新しい写実に溢れた画風は京都の商人の目にとまり発展。多くの門下生が加わり円山派が形成される。この円山派で学び呉春の形成した四条派と併せて円山四条派と呼称される。
【画家の部屋|円山応挙】円山派の祖
1607-1650を生きた絵師。狩野孝信の次男で探幽の弟は、兄探幽の築いた奥絵師の木挽(竹川)町家初代となり、絵の作成、修理、鑑定、教育、後継者育成といった江戸幕府における画壇の中心的な役割を担った。
【画家の部屋|狩野尚信】奥絵師木挽町家初代
1602-1674を生きた絵師。徳川政権樹立以降、それまで活動していた京から江戸に活動の拠点を移し江戸狩野を創始。狩野派を象徴す祖父でもあった永徳の大画様式から一転し、余白を生かした瀟洒で端正な新様式で江戸狩野様式を確立。それ以後の江戸狩野派の規範として受け継がれていく。また幕府の権力機構に相応して派の組織改革にの臨み、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と階層組織ををつくり、幕府内での狩野派の地位を不動のものとした。
【画家の部屋|狩野探幽】江戸狩野の祖
1519-1592を生きた漢画絵師。狩野派二代目狩野元信の三男は、兄 祐雪,秀頼の早世により家督を継承。1563(永禄6)年「涅槃図(大徳寺)」1566(永禄9)年に長男 永徳と共に制作した「山水図、虎豹猿図、四季花鳥図屛風(大徳寺聚光院)」を描いた。父 元信の筆を引き継ぎ、それをさらに平明化し,その作品は柔らく優しさを感じさせるタッチで描かれている。
【画家の部屋|狩野松栄】狩野永徳の父
870年ごろ-945を生きた文学家であり歌人、そして貴族。自身が土佐守の任期を終え、934(承平4)年12月に高知県土佐の官舎を出て、翌年2月に平安京の自邸へ帰り着くまでの旅を、和歌まじりにつづった旅日記を土佐日記として綴る。また自身を女性に見立て、仮名散文で個人的心情を吐露し仮名日記の最初の作品として日本文学史上に大きな足跡を残した。そして最大の偉業は、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げた古今集の撰進であり、国風文化の推進・確立を果たした。三十六歌仙のひとり。
【文学の部屋|紀 貫之】日記文学の祖
1415-1499を生きた僧は本願寺8世。宗祖親鸞以来衰退の危機にあった浄土真宗を1代で現在の続く教団の礎を築いたことから本願寺の中興の祖として称されている。
【探究ネタ】「蓮如」日本の宗教に携われた人々
1882-1955を生きた日本における内陸アジア(東洋史)研究の第一人者であり京都帝国大学総長は、太平洋戦争の最中、学徒出陣に対して当時の内閣に猶予を求める活動を帝国大学総長として牽引するも学生を戦火に送る苦渋の選択を受け入れる。
【歴史学の部屋|羽田 亨】学徒出陣と戦った京大総長
1888-1955を生きた京都府出身の画家は時は昭和初期、洋画界の一時代を築いた二人の天才画壇、梅原龍三郎と安井曾太郎。具象画の登竜門「安井賞展」の生みの親でありデッサンの神様のそのスタイルは「安井様式」独自の表現方法を確立した。
【画家の部屋|安井曾太郎】素描の天才・デッサンの神様
1669-1736を生きた国学の祖は稲荷神官の子として和学をはじめとする古典・国史研究の環境に育ち、学びを深め国学の分野を確立。その成果を当時、儒学のみであった江戸幕府に国学の必要性を訴え、その後発展を遂げていく。
【国学者|荷田春満 Azumamaro Kadano】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人

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26京都府
1285-1308を生きた政治家(第94代天皇)。後宇多天皇の第一皇子(大覚寺統)として生まれ、1301年に17歳で即位。久方ぶりに実現した大覚寺統の天皇として、一門の期待を一身に背負う存在であった。在位中は父・後宇多院の院政下で比較的安定した政務が行われ、持明院統との「交互即位(両統迭立)」という危うい均衡が、かろうじて保たれた時代を象徴する。しかし、その治世はわずか7年、24歳(満23歳)という若さでの崩御により唐突に幕を下ろした。 この早すぎる死は、大覚寺統内に深刻な後継者問題を引き起こし、のちに倒幕へと突き進む弟・後醍醐天皇の運命を大きく狂わせる分岐点となった。短命ながらも、両統迭立体制の「平衡」を身をもって示した天皇である。
【政治の部屋|後二条天皇】鎌倉時代編.27New!!
26京都府
1288-1336を生きた政治家(第93代天皇)。伏見天皇の皇子として生まれ、1298年、わずか11歳で即位。持明院統の正統を継ぐ存在として、両統対立がすでに避けがたい政治状況の中、幼くして皇位に立たされる。在位はわずか三年にとどまり、鎌倉幕府の裁定により大覚寺統の後二条天皇へ譲位を余儀なくされた。その後は長い院政期を過ごし、自らは前面に立たず、持明院統という「家系」そのものの存続と地位確立に力を注いだ。「皇位を交互に継ぐ」という不安定な仕組みを現実として受け入れ、それを統の存続を最優先するための政治的手段へと転化していく。その姿は、花園天皇、さらには光厳天皇へと皇統を繋ぐ基盤が整えられた。激しく主導権を争うのではなく、忍耐と調整によって「統」を守り抜いたその歩みは、両統迭立という過渡期を成立させた静かな要石として位置づけられる。後伏見天皇は、分裂の時代を「耐え、保つ」ことを選び続けた天皇であった。
【政治の部屋|後伏見天皇】鎌倉時代編.26
シューちゃん

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