嘉納治五郎 Jigoro Kano
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こちらのページでは【発見アスリート|嘉納治五郎】柔道の父は日本オリンピックの祖 をお楽しみください
- 1. 嘉納治五郎イラストポートレート(Syusuke Galleryより)
- 2. 講道館 KODOKAN
- 3. 講道館柔道発祥の地、いまの「永昌寺」に行ってみました
- 4. いまの「講道館」に行ってみました
- 5. 講道館四天王って
- 6. 講道館四天王は私たち
- 7. 幻の1940東京オリンピック
- 7.1. 日本とオリンピックの出会いって?
- 7.2. でもなぜ嘉納治五郎なの?
- 7.3. どんなふうにリードしていたの?
- 7.4. それで嘉納治五郎にどうやって打診?
- 7.5. いまではオリンピックの参加基準が明確化されているようだけど、当時はどうやって決めていたの?
- 7.6. 結果はどうだったの?
- 7.7. 金栗四三ってマラソンの父って呼ばれてるよね!?
- 7.8. それでもう一人の日本代表三島弥彦の結果は?
- 7.9. 日本初参加のストックホルム大会以降はどうなったの?
- 7.10. すごい!これは日本人の初メダルだったの?
- 7.11. 嘉納治五郎は悲しんだんだろうね
- 7.12. 嘉納治五郎は自国開催のオリンピックを見ることができなかったんだね
- 8. 実は空手の普及も一役担いました
- 8.1. 時は1922年
- 8.2. わたしが船越義珍です
- 9. アスリート・新着偉人(It's New)はこちらから
- 10. 広告コーナー
- 11. いらすとすてーしょん検索コーナー
嘉納治五郎イラストポートレート(Syusuke Galleryより)

1912年日本初のオリンピック(ストックホルム大会)参加への道をつくり
1940年まぼろしとなった東京オリンピック招致を決めた男でもあった
講道館 KODOKAN
1882(明治15)年に嘉納治五郎21歳のとき創設
当初は嘉納塾っていう名称で下谷北稲荷町(いまの台東区東上野)にある永昌寺内に創設
すぐに講道館って名称が変更になったんだけどね
それから140年あまりたったいまでは、約200の国と地域で行われている講道館柔道の総本山
現在の場所は東京ドームそば(住所は東京都文京区春日1-16-30)
講道館柔道発祥の地、いまの「永昌寺」に行ってみました
いまの「講道館」に行ってみました
講道館四天王って
明治15(1882)年に講道館柔道が創始されてから140年あまり
その歴史の中で、草創期を支えた「講道館四天王」
その四人とは??
※ちなみに講道館新館内にある柔道殿堂室で写真掲額されています
講道館四天王は私たち
幻の1940東京オリンピック
日本とオリンピックの出会いって?
国際オリンピック委員会( International Olympic Committee:以下IOC)に日本が初めて参加したのは1909年(明治42年)だった
このIOCの歴史を簡単に…フランス人クーベルタンによって近代オリンピックの提案がなされて1894年6月23日設立されたんだ
それから15年の年月を経て、日本にオリンピックというスポーツ大会が開かれているって情報が入ってきた感じだね
このIOCに委員として日本人(アジア人としても)初就任したのが、48歳の嘉納治五郎だった
でもなぜ嘉納治五郎なの?
このころ嘉納治五郎はまさに日本のスポーツ界を教育者としてリードしていたんだ
どんなふうにリードしていたの?
柔道は全国の教育現場でかなり浸透して、その柔道の聖地「講道館」の名を轟(とどろ)かしていたこと
嘉納治五郎が校長を務める「東京高等師範学校(現在の筑波大学)」で、全学生と全教員が参加する大運動会を開催(これは後に課外部活動に発展)したことでスポーツを通じた教育の土壌をつくったとされていること
時は明治時代の中にあっても、全国の都道府県(当時は府県だったけど)に必ず1校以上高等女学校の設置を進めるなどジェンダーダイバーシティの先駆けでもあったこと
その他にもいろいろあったと思うけど、スポーツといえば嘉納治五郎って方程式が成り立っていたのだろうな
それで嘉納治五郎にどうやって打診?
当時IOC会長であり創始者のクーベルタンはアジアからもこのオリンピックに参加して欲しいなぁ、と考えていた
それまでの大会でアジアからの参加が無かったからね
そこでアジアからの参加のためにはまず日本を、と考えた
そして駐日フランス大使ジェラール(運よくクーベルタンとジェラールは知り合いだったから話は早い)へ眼鏡にかなう人物を探して欲しいと
ジェラールは嘉納治五郎の評判を耳にしていたから、有無も言わずに嘉納治五郎に白羽の矢を立てたってところかな
嘉納治五郎は政府の了解を得ることを忘れずに、ことを進めてIOC委員を引き受ける…こんなところ
そうして日本がIOCのメンバーになったことで、まず嘉納治五郎が目指したのは1912年のストックホルム大会に日本人参加
いまではオリンピックの参加基準が明確化されているようだけど、当時はどうやって決めていたの?
オリンピック参加のために、IOCは国内のオリンピック委員会をつくることを必須条件にしていたんだ
そのためにまずは日本国内に組織(団体)を新しくつくる必要があった
そこで嘉納治五郎は有識者と協議して1911年(明治44年)7月に大日本体育協会(いまのJOC)をつくったんだ
設立まで幾多の困難があったって話だけで、なんとか体制が整ったから、次は選考会だね
この選考会を開催する趣意書なるものがこちら



1911年10月に予選会を開くことを通知して、その翌月11月に東京羽田運動場(いまの羽田空港)で開催
選手は準備もなにもできなかったんじゃないかって思うけど、無事に開催できたみたい
そうして1912ストックホルム大会へ日本人初、予選会で参加資格が与えられた2選手「金栗四三・三島弥彦」が陸上種目に参加できたんだ
結果はどうだったの?
実はマラソン代表金栗四三は1911年の選考会で当時の世界記録を弾き出した
相当の期待を胸に挑んだ筈なんだけど、本大会(オリンピック)では長距離移動で体に負担がかかったのもあり熱中症(当時の記録では日射病ってなっている)により棄権してしまった
金栗四三ってマラソンの父って呼ばれてるよね!?
うん、そのオリンピックでの悔しさから、さらにマラソンにかける想いを深めて精進したそう
それを称して「マラソンの父」とされているんだね
ちなみにそのマラソンの父、金栗四三は箱根駅伝の父でもあり1920年「四大専門学校(早大・慶大・明大・東京高師:現筑波大)対抗駅伝競走」を発案し成功させた張本人!
それでもう一人の日本代表三島弥彦の結果は?
短距離に出場した三島弥彦は100・200mでは一次予選敗退も、400mでは運良く準決勝まで駒を進めるも右足の故障で棄権したんだって
世界の壁を感じた瞬間かな?
結果はともあれ、参加することに意義があるってところだね
日本初参加のストックホルム大会以降はどうなったの?
ストックホルム大会が終わってからも、嘉納治五郎はフランス人の近代オリンピックの創始者クーベルタンと信頼関係を深めていく
そもそもクーベルタンは教育をスポーツで、と考案した「近代オリンピック」だったから、嘉納治五郎の考えと共通点が多かった
同じ教育者として、二人は惹かれ合うものがあったんだね
時は流れてストックホルム大会から16年後の1928年
オリンピックはこの年、アムステルダム大会
ここで念願の日本初織田幹雄:三段飛び・鶴田義行:200m平泳ぎ、二人の金メダリストが誕生したんだ
実にオリンピック参加から4大会目(1916ベルリン大会は中止)だった
すごい!これは日本人の初メダルだったの?
いえいえ、日本人初メダルはその4年前の1920アントワープ大会熊谷一弥(シングル)・熊谷一弥&柏尾誠一郎(ダブルス):テニス」で銀メダルを獲得したのが最初
さらに女性初メダリストもこの金メダリストが誕生した1928アムステルダム大会、人見絹枝:陸上800mで銀メダルだったんだ
この金メダル獲得は、日本中オリンピック歓喜で沸いたんだろうな
そうなると、必然と日本中からオリンピック招致の呼び声が高まってくる
つまり東京大会の実現しよう!、と
そうして1931年、オリンピック招致の機運が最高潮に達すると、70歳になってもなお精力的な嘉納治五郎は東京招致に奔走する
嘉納治五郎の熱意が実り、1936ベルリン大会のIOC総会で1940年の東京開催が決定
当時、欧米ー日本間は移動に20日もかかる時代、遠い日本への選手団派遣はIOC委員から反対も多かった中での勝利だったんだ
嘉納治五郎は逆風の中、IOC委員一人ひとりに日本開催を訴え続けた成果
この招致にかけた想い凄まじいものがあったんだと思う
この時嘉納治五郎は75歳、心身ともに耐え難かったことと思うけど…
そんな中、東京招致が決まった翌年1937年、盟友であり共に近代オリンピック発展を歩んできた創始者クーベルタンの訃報を耳に…
嘉納治五郎は悲しんだんだろうね
その悲しみは計り知れなかったんじゃないかなぁ
訃報から翌年の1938年、2年後に控えた東京開催の最終確認と、同じくして冬季大会を札幌で行うための決定のため、嘉納治五郎は一路カイロへ
IOC総会が1938年3月カイロで開かれるから、そこに参加するためだね
戦争の色濃くなった日本で開催できるの?、と不安の声が多くあったみたいだけど、嘉納治五郎は挙行を断言
嘉納治五郎はIOCの中でも信頼が厚かったから、嘉納治五郎がOKと言っているんだから…って雰囲気だったのかもね
IOC総会が終わったあとも、各国のIOCメンバーへのネゴシエーション忘れなかった
まさにリーダーのあるべき姿
そしてクーベルタンへの弔慰訪問もかかさなかった
でも、この時すでに嘉納治五郎77歳
日本を出発して3月のカイロIOC総会、ギリシヤクーベルタン慰霊祭、そしてアメリカへ渡りIOCメンバー歴訪、まさに世界一周の約3ヶ月の外遊を終えて、氷川丸に乗船しバンクーバーを後にし4月23日帰国の途へ
帰国の途の船上で風邪をこじらせ、肺炎のため5月4日その生涯を閉じられます
まさに日本到着の2日前の太平洋沖の出来事
嘉納治五郎は自国開催のオリンピックを見ることができなかったんだね
この死去に日本政府は嘉納治五郎の想いと相反する方向に
日中戦争が悪化の一途と相まって1938年7月15日、開催地東京都(当時は市)は東京開催をIOCへ返上
これまでの嘉納治五郎の招致活動は水の泡となって
1940東京オリンピックは幻と…



1940東京オリンピック招致ポスター
当時の行政機関「鉄道省」作成
とてもシンプルなデザインでトレードマークはやっぱり富士山?
嘉納治五郎の想いは1964東京(夏)、1972札幌(冬)、1998長野(冬)、そして2020東京へと受け継がれていった、と「いらすとすてーしょん」では思ってやみません
世界の平和も祈念して…ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました
実は空手の普及も一役担いました
時は1922年
4月30日から約1ヶ月の日程で「第一回運動体育博覧会」の運営者の一人だった嘉納治五郎
前から琉球に独自の武術があるって聞いていた嘉納治五郎
この機会にその武術なるものを見たいなぁと嘉納治五郎は企んでいた
ここから続きはぜひ【本土復帰50周年記念|船越義珍】5月推し偉人 沖縄初空手を世界へ をご覧ください
わたしが船越義珍です
【本土復帰50周年記念|船越義珍】5月推し偉人 沖縄初空手を世界へ
今回いらすとすてーしょんでは沖縄復帰50周年を記念して、沖縄から世界へ「空手道」を広げられた第一人者「船越義珍 Gichin Funakoshi」氏を取り上げさせていただきます。この場をお借りして、義珍氏の功績と、戦後沖縄で歩んで来られた絶え間ないご努力なされましたすべての人々に敬意と、そしてこれからの50年も沖縄発「空手道」とイチャリバチョーデーでユイマールな「沖縄」のますますの発展を祈念してお届けさせていただきます。
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