福井県出身の文学家

近松門左衛門 1653-1724

※出生順

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02青森県
1900-1986を生きた小説家。慶應義塾大学文学部国文科卒業後、郷里青森県や秋田県で教員となる。その後、1933(昭和8)年に「若い人」を発表し作家的地位を確立する。戦後は「青い山脈」や「陽のあたる坂道」など新聞小説で頭角を著し、青春と希望を描いた作品で国民的な人気を博した。健全な常識に立ち明快な作品を書き続けた功績が評価され、1966(昭和41)年に第14回菊池寛賞を受賞。
【文学の部屋|石坂洋次郎】昭和時代編.30New!!
27大阪府
1900-1977を生きた小説家。関西学院普通部卒業後、佐藤春夫に師事し、1923(大正12)年に「一千一秒物語」を発表して文壇に登場。1926(昭和元)年に発表した「星を売る店」で注目を集め、天体や科学文明を題材にした幻想的な作風でモダニズムの先駆者として知られる。戦後は「弥勒」「ヰタ・マキニカリス」など、少年愛や哲学的テーマを扱った作品を発表し、1968(昭和43)年に「少年愛の美学」で第一回日本文学大賞受賞。独自の宇宙論的視点と美学で、その名を刻んだ。
【文学の部屋|稲垣足穂】昭和時代編.29New!!
27大阪府
1900-1964を生きた詩人。現在の京都大学を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒業後、萩原朔太郎に寄宿し、その後詩誌「詩と詩論」の創刊に携わり、現代詩運動を展開して文壇に登場。1930(昭和5)年に発表した「測量船」で注目を集め、詩人としての地位を確立した。四行詩集「南窗集」は、フランス近代詩や東洋の伝統詩の詩法をミックスし、美的死的幻想世界から生命感あふれる田園世界を著した作品に仕上げた。1934年、堀辰雄、丸山薫と主知的抒情詩の拠点となる第二次「四季」を創刊し、戦前の中心詩人であった。
【文学の部屋|三好達治】昭和時代編.28New!!
01北海道
1900-1958を生きた劇作家であり、演出家。東京帝国大学文学部卒業後、小山内薫に師事し、築地小劇場で新劇運動を展開して文壇に登場。1938(昭和13)年に発表した大作「火山灰地」や「五稜郭血書(1933)」で注目を集めた。戦後に著した「林檎園日記(1947)」など、社会主義リアリズムと人間の苦悩を描いた作品で高い評価を得て、国内外で深い共感を呼んだ。新協劇団や東京芸術劇場の結成に参加し、演劇界に大きな影響を与えた。その後、郷里北海道を題材とした長編小説「のぼり窯」を執筆中に持病であったうつ病が悪化し、1958年入院先で縊死した。
【文学の部屋|久保 栄】昭和時代編.27New!!
27大阪府
1899-1972を生きた小説家であり、1968(昭和43)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した文豪。東京帝国大学文学部卒業後、横光利一らとともに「文芸時代」を創刊し新感覚派運動を展開して文壇に登場。1926(昭和1)年に青春と孤独を描いた「伊豆の踊子」で注目を集め、戦前から戦後に著した「雪国」「千羽鶴」「山の音」「古都」など、日本の自然美と人間の内面を繊細に描いた作品で高い評価を得る。日本的美意識と孤独、死生観を主題とした作風は、国内外で深い共感を呼んだ。日本ペンクラブ会長や国際ペンクラブ副会長も務め、国際文化交流にも尽力。1972(昭和47)年の自死は多くの人々に衝撃を与えた。
【文学の部屋|川端康成】昭和時代編.26New!!
13東京都
1899-1987を生きた小説家。教員などを経て、1935(昭和10)年37歳時に「佳人」で作家デビュー。1936(昭和11)年に著した「普賢」で翌年第4回芥川賞を受賞し、文壇に確固たる地位を築く。戦後は「焼跡のイエス」「処女懐胎」など、寓意と神話性を帯びた作品を発表し、太宰治・坂口安吾らとともに「無頼派」「新戯作派」として注目を集めたが、その中でも、特に知的で寓意的な作風で異彩を放った。
【文学の部屋|石川 淳】昭和時代編.25New!!
24三重県
1899-1983を生きた小説家であり随筆家。早稲田大学文学部国文科を卒業後、志賀直哉に師事し、私小説の道を歩む。1937(昭和12)年に短編集「暢気眼鏡」で第5回芥川賞を受賞し、作家的地位を確立。戦後は、「虫のいろいろ」や「まぼろしの記」など、病や死と向き合う中での静謐な心境を描いた哲学性の溢れる作品を多く残した。1978(昭和53)年、文化勲章受章。
【文学の部屋|尾崎一雄】昭和時代編.24New!!
44大分県
1899-1974を生きた詩人であり随筆家。海洋文学に傾倒し、東京高等商船学校に入学も病により断念する。その後、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学するも中退。そして詩作に専念。1932年(昭和7)第一詩集詩集『帆・ランプ・鴎』で注目を集め、1933(昭和8)年には堀辰雄らと詩誌「四季」を創刊し、昭和叙情詩の先頭に立つ。戦後は、愛知大学で教鞭を執り、豊橋市に居を構えて創作と教育に尽力した。
【文学の部屋|丸山 薫】昭和時代編.23
14神奈川県
1898-1977を生きた小説家であり僧侶、政治家。兵庫県豊岡中学校を中退後、川端康成と交わり、1923 (大正12)年「新思潮」、そして「文藝時代」に参加する。その後、プロレタリア文学運動に呼応した「文党」を主宰し、新感覚派の作家として注目を集めた。1930(昭和5)年に出家する。戦後も文壇で活躍し、1957(昭和32)年に「お吟さま」で直木賞を受賞。以後「悪名」「春泥尼抄」「河内風土記」など、大阪・河内の庶民文化や人情を描いた「川内もの」の作品で人気を博した。1966(昭和41)年に平泉中尊寺の貫主をつとめ、1968(昭和43)年に参議院議員当選。毒舌和尚としてテレビや週刊誌でも活躍。宗教・文学・政治を横断する異色の文人として昭和文化に独自の足跡を残した。
【文学の部屋|今 東光】昭和時代編.22
34広島県
1898-1993を生きた小説家であり随筆家。早稲田大学仏文科に学ぶも中退し、1923(大正12)年に「幽閉」を発表し、のちに「山椒魚」と改題し、文壇に名を知られるようになる。その後、戦前の日常を描いた「屋根の上のサワン」や、戦後の混沌とした世相を描いた「本日休診」など、おかしみと哀愁を織り交ぜた独自の文体で人気を博す。1938(昭和13)年に「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を受賞し、戦後は原爆を題材にした「黒い雨」で野間文芸賞を受章する。太宰治の師としても知られ、阿佐ヶ谷文士村の中心人物として文壇に大きな影響を与えた。1966(昭和41)年、文化勲章受賞。
【文学の部屋|井伏鱒二】昭和時代編.21
14神奈川県
1897-1973を生きた小説家でありノンフィクション作家。東京帝国大学法学部を卒業後外務省を経て、1924(大正13)年に「鞍馬天狗」で文壇にその名を刻み始め、その後「赤穂浪士」でその名を刻む。「ドレフュス事件」「霧笛」「帰郷」など、時代小説から現代小説、ノンフィクションまで幅広いジャンルで活躍する。特に「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」などの歴史ノンフィクションでは、綿密な取材と重厚な筆致で高い評価を得た。戦後は反戦・平和の思想を貫き、文化勲章や芸術院賞を受賞。また、鎌倉の自然保護活動にも尽力し、文学と社会活動を両立させた文人として知られる。本名、野尻清彦。
【文学の部屋|大佛次郎】昭和時代編.20
23愛知県
1895-1975を生きた詩人であり随筆家。早稲田大学や東京美術学校、慶應義塾大学などで学ぶもいずれも中退し、1923(大正12)年に詩集「こがね蟲」で詩壇に登場。ヨーロッパ象徴派の影響を受けたモダニズム詩を展開。そして発表した「鮫」は、戦時中も一貫して体制に迎合せず、鋭い社会批評と人間観察に基づく「抵抗詩人」としてその名を刻んだ。戦後は「落下傘」「蛾」など、反戦・反権力の精神に貫かれた詩を著している。自伝的な「人間の悲劇」「どくろ杯」なども残している。
【文学の部屋|金子光晴】昭和時代編.19
17石川県
1895-1984を生きた詩人であり宗教家、そして日本における自然保護運動の先駆者。天台宗の僧侶として修行を積む傍ら、詩歌や評論を発表し、1922(大正11)年創刊「日本詩人」に詩集「東京市」を発表。都市と自然の対比を描いた詩風で注目を集める。やがて都会生活に疑問を抱き、武蔵野に移住して田園生活に入り、野鳥観察を通じて自然との共生を模索。1934(昭和9)年には「日本野鳥の会」を創設し、「野鳥」といった言葉を生み出す。代表作に「野鳥と共に」「野鳥を訪ねて」などがあり、科学的観察と詩的感性を融合させた「野鳥文学」の創始者として活躍した。
【文学の部屋|中西悟堂】昭和時代編.18
15新潟県
1894-1982を生きた詩人であり英文学者。慶應義塾大学を卒業後、1922(大正11)年に渡英し、オックスフォード大学で英文学を学ぶ。帰国後は慶應義塾大学教授として教鞭を執る傍ら、1933(昭和8)年に詩集「Ambarvalia」を刊行し、日本近代詩におけるモダニズムとシュルレアリスムの先駆者として注目を集める。代表作に「旅人かへらず」「近代の寓話」などがあり、豊かな語感と幻想的なイメージで詩の新境地を切り拓いた。英詩や仏詩の翻訳、詩論・文学評論に大きな足跡を残した一人である。
【文学の部屋|西脇順三郎】昭和時代編.17
41佐賀県
1894-1955を生きた小説家であり社会教育家。東京帝国大学英文科を卒業後、出身地佐賀中学校や校長を務めたのち、文筆と社会教育の道へ進む。1936(昭和11)年より代表作「次郎物語」の連載を開始し、青少年の成長と人間形成を描いた自伝的小説として広く読まれた。その他に「論語物語」「心窓去来」など、その生涯は、文学と教育の両面で昭和の時代で活躍した。
【文学の部屋|下村湖人】昭和時代編.16
21岐阜県
1894-1984を生きた小説家であり俳人。俳句を河東碧梧桐に学び、新傾向俳句運動に参加。1927(昭和2)年に発表した長編小説「無限抱擁」で注目を集めた戦後は「野趣」「俳人仲間」など、独特の描写で高い評価を得た。志賀直哉を生涯の死と仰ぎ、芥川龍之介などとも交わり、文壇では「龍門の四天王」とも称さる。1974(昭和49)年には文化功労者に推されている。
【文学の部屋|瀧井孝作】昭和時代編.15
24三重県
1894-1965を生きた小説家であり評論家。早稲田大学政治経済学部卒業後、1923(大正12)年に「二銭銅貨」で作家デビュー。欧米の探偵小説に影響を受けながら、日本独自の推理小説を確立した。その後「D坂の殺人事件」「人間椅子」など独創的なトリックで読者を魅了する。そして代表作である少年向け「怪人二十面相」シリーズなど、幻想・怪奇・倒錯を織り交ぜた作風で人気を博した。戦後は評論や編集活動を通じて推理小説の普及に尽力。1954(昭和29)年には「江戸川乱歩賞」を創設し、後進の育成にも貢献した。
【文学の部屋|江戸川乱歩】昭和時代編.14
14神奈川県
1893-1969を生きた小説家であり劇作家。慶應義塾大学で学ぶも中退し、1922(大正11)年に演劇を学ぶために渡仏。帰国後、1934(昭和9)年に長編小説「金色青春譜」で人気をさらう。代表作品の「悦ちゃん」「てんやわんや」や「自由学校」など、ユーモアに富む家庭小説や風俗小説で人気を博した。1937(昭和12)年には、久保田万太郎、岸田國士らと劇団文学座を創立し、演劇界にも多彩な才能を発揮した。
【文学の部屋|獅子文六】昭和時代編.13
13東京都
1892-1981を生きた詩人であり翻訳家。与謝野鉄幹と与謝野晶子の勧めで慶應義塾大学で文学を学ぶも中退。1918(大正7)年にフランス詩との若々しい共感を盛った第一訳詩集「昨日の花」などを発表し、日本近代詩に新たな風を吹き込んだ。その功績は、フランス新精神文学の小説、戯曲、エッセイの訳も数多くあり、当時の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|堀口大學】昭和時代編.12
13東京都
1892-1981を生きた俳人であり医師。俳句を高浜虚子に師事し、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に4Sと呼ばれて昭和初期のホトトギスに黄金時代を築いた。1931(昭和6)年主宰誌「馬酔木」で虚子の写生観を批判し、新興俳句運動を推進。東京帝国大学で医学を学び、産婦人科医として活躍。昭和医学専門学校の教授も歴任している。
【文学の部屋|水原秋桜子】昭和時代編.11
27大阪府
1891-1934を生きた小説家。早稲田大学で英文科を学ぶも中退。その後、出版社など設立するも失敗をくり返す。1921(大正10)年31歳の時に「時事新報」に文芸時評を直木三十一の筆名で執筆し、文筆に専念する。ちなみに、年を追って三十二、三十三とし、三十四を飛ばして三十五の筆名で定着している。1930(昭和5)年島津藩の題材とした「南国太平記」を著し、時代小説の流行作家として活躍する。時代小説を芸術分野に高めた功績を讃え、没後その名を冠した直木賞が創設された。本名は植村宗一。
【文学の部屋|直木三十五】昭和時代編.10
03岩手県
1882-1963を生きた小説家。報知新聞社で記者として働きながら、音楽評論家としても活動。1931(昭和6)年から書き始めた「銭形平次捕物控」は383話におよび、江戸時代を舞台とした捕物帳シリーズとして絶大な人気を博した。また、「あらえびす」のペンネームでクラシック音楽に関する評論を数多く執筆し、当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。晩年には故郷の紫波町に蔵書を寄贈し、胡堂文庫を設立。1960年には文化勲章を受章。
【文学の部屋|野村胡堂】昭和時代編.9
13東京都
1890-1954を生きた劇作家であり小説家。東京帝国大学でフランス文学を学び、演劇研究のために渡仏する。帰国後、フランスで学んだ演劇観を著した戯曲「チロルの秋」を1924(大正13)年に発表し注目を浴びた。代表作に「牛山ホテル」や小説「暖流」など。1937(昭和12)年には劇団文学座を久保田万太郎らと創設した。詩人の岸田衿子の父でもある。
【文学の部屋|岸田國士】昭和時代編.8
33岡山県
1889-1971を生きた小説家であり随筆家。東京帝国大学で独文科を卒業し、夏目漱石に師事。1922年に幻想的な恐怖を描いた作品などを綴った処女作品集「冥途」を発表し、注目を浴びる。その後、ユーモアラスに風刺した随筆集「百鬼園随筆」で独自の世界観を著した。
【文学の部屋|内田百閒】昭和時代編.7
23愛知県
1898-1964を生きた小説家。早稲田大学で政治学を専攻するも中退し、その後社会主義運動にも身を投じたが、1921年に「逃避行」を著し文学に転身する。その後、1933年から連載された「人生劇場」が川端康成の目にとまり大ヒットとなり、流行作家の一員となる。戦後は、歴史小説を主に著し「石田三成」や「高杉晋作」などを残している。
【文学の部屋|尾崎士郎】昭和時代編.6
13東京都
昭和 1888-1964を生きた仏文学者であり随筆家。東京帝国大学で法学を学んだ後、文学研究に転向し、フランスに留学。帰国後、母校のフランス文学講座を担当し、フランス文学を日本に数多く紹介した。門下には小林秀雄など、多くの学者、詩人、評論家を輩出した。父は建築家の辰野金吾。
【文学の部屋|辰野 隆】昭和時代編.5
13東京都
1888-1961を生きた小説家、劇作家、評論家。東京帝国大学で英文科を学び、武者小路実篤に勧められ白樺派に加わり、文壇に登場。戯曲「項羽と劉邦」や小説「青銅の基督」などで注目を浴びる。1923年の関東大震災後、「白樺」の後継誌「不二」を創刊し、文学評論家としても活躍。1960(昭和35)年には自伝「わが心の遍歴」などを残している。
【文学の部屋|長與善郎】大正時代編.42
14神奈川県
1888-1983を生きた小説家。東京帝国大学で英文科を学び、武者小路実篤、志賀直哉らと白樺を創刊。1915(大正4)年に大阪での芸者との恋愛を経て、結婚について描いた「晩い初恋」などで文壇に登場。戦前に「多情仏心」や「安城家の兄弟」などの作品で高い評価を受ける。1959年には文化勲章を受章。戦後の代表作には「極楽とんぼ」や「五代の民」など。兄に小説家の有島武郎、画家の有島生馬 がいる。
【文学の部屋|里見 弴】大正時代編.41
13東京都
1884-1976を生きた俳人、俳論家。東京帝国大学で言語学を学び、河東碧梧桐に師事。1911(明治44)年に自由律俳句の機関誌「 層雲」を創刊し、のち碧梧桐と対立し、無季自由律俳句を提唱した。尾崎放哉や種田山頭火らを育て、俳壇に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|荻原井泉水】大正時代編.40
02青森県
1883-1962を生きた劇作家であり児童文学作家。早稲田大学で英文科を学び、小山内薫の主宰する新思潮の記者となり、劇作家として歩む。1913(大正2)年には、島村抱月の芸術座創立に携わる。戯曲「埋れた春」や「国境の夜」などで注目を集める一方で、赤い鳥などに児童文学作品を残した。その後は、プロレタリア芸術運動に身を投じて、エスペラント運動を行う。戦後は、舞台芸術学院の院長などを務め、1960年には黒石市名誉市民に選ばれている。
【文学の部屋|秋田雨雀】大正時代編.39
40福岡県
1894-1945を生きた小説家。早稲田大学高等予科中退後、職を転々としながら労働運動に参加したことで、プロレタリア文学の道を自ら切り拓く。1926(大正15)年に代表作「海に生くる人々」を発表し、労働者の過酷な生活を描いた作品で注目を浴びる。その後生活は困窮し、流転する道を選び満州へ渡るも、1945(昭和20)年に引き上げ列車の中で病没した。
【文学の部屋|葉山嘉樹】大正時代編.38
30和歌山県
1892-1964を生きた小説家。生田長江や与謝野鉄幹らに師事。1918(大正7)年に谷崎潤一郎の推薦で文壇に登場し、「田園の憂鬱」や「都会の憂鬱」などの作品で大正時代の寵児として、芥川龍之介と並び称され注目を浴びる。1960(昭和35)年には文化勲章を受章。
【文学の部屋|佐藤春夫】大正時代編.37
13東京都
1892-1970を生きた詩人。在学中から「早稲田文学」や三木露風、川路柳虹らの「未来」にもその名を連ねた。1919(大正8)年に初の詩集「砂金」を刊行し、抒情性に富んだ詩風で注目を浴びる。1923(大正12)年にはソルボンヌ大学に留学し、帰国後は早稲田大学文学部教授となる。鈴木三重吉による雑誌児童文芸誌「赤い鳥」に「かなりあ」などの童謡を発表し北原白秋と並ぶ大正期の代表的童謡詩人でもあった。
【文学の部屋|西條八十】大正時代編.36
13東京都
1892-1927を生きた小説家。東京帝国大在学中に菊池寛らと第3、4次「新思潮」を創刊。1916(大正5)年に「鼻」を発表し、夏目漱石の目に留まり文壇で注目を浴びる。代表作には「羅生門」や「地獄変」があり、古典文学を現代に蘇らせる手法で評価を得る。1927(昭和2)年に「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理由に自殺し、その死は大正時代文学に終焉を告げた。
【文学の部屋|芥川龍之介】大正時代編.35
31鳥取県
1892-1930を生きた詩人であり翻訳家。幼少期に生家破産し、各地を転々とする中で詩作を始める。1908(明治41)年に上京し、生田長江に師事しながら独学でドイツ語を学ぶ。1917(大正6)年に初の詩集「霊魂の秋」を刊行し、どこか甘くて、そして感傷的な詩風で注目を浴びる。1920年代にはハイネの詩集を翻訳し、日本のハイネ研究の先駆者でもあった。1930(昭和5)年、播磨灘で投身自殺し、その生涯を閉じている。
【文学の部屋|生田春月】大正時代編.34
40福岡県
1891-1961を生きた小説家。1919(大正8)年に「蔵の中」で文壇デビューし、ユーモアとペーソスを基調とした作風で注目を浴びる。その後、精神的な困難を乗り越え、1933(昭和8)年に「枯木のある風景」で文壇に復帰。戦後は、広津和郎とともに松川事件裁判判決の不当を訴えた文芸評論や、随筆でも多くの業績を残した。
【文学の部屋|宇野浩二】大正時代編.33
13東京都
1891-1968を生きた小説家であり評論家。早稲田大学在学中に、葛西善蔵らと同人誌「奇蹟」を創刊し短編、翻訳などを発表。卒業後、文芸時評に携わり、批評家として活躍。1917(大正6)年に初の小説『神経病時代』を発表し、理想と現実の狭間で揺れ動く主人公の苦悩を鮮やかに描き、読者の共感を呼んだ。戦後は社会の不正に対し声を上げ、特に松川裁判の不当性を強く主張し、文芸誌上で活発な論争を展開。同じく小説家、広津柳浪の子。
【文学の部屋|広津和郎】大正時代編.32
03岩手県
1890-1984を詩人、歌人であり詩人。1908年(明治41)新詩社に入り、「明星」「スバル」に短歌を発表。1912(大正元)年に歌集「悲しき愛」を刊行し注目を浴びる。その後、詩作に転じ、ホイットマン・トラウベル・カーペンターの影響を受けて民衆詩運動を展開し、民衆芸術論の論者のひとりとなる。詩集に「地の子」、訳詩集にホイットマン「草の葉」などを残している。
【文学の部屋|富田砕花】大正時代編.31
13東京都
1889-1963を生きた小説家、劇作家であり俳人。慶應義塾大学文学部在学中に永井荷風や森鷗外に学び「三田文学」からキャリアをスタートさせる。1911(明治44)年に短編「朝顔」や戯曲「プロローグ」を発表し、注目を浴び1917(大正6)年小説「末枯」で文壇にその名を響かせた。1927(昭和2)年には句集「道芝」を刊行し、俳人としても評価を得た。1957(昭和32)年文化勲章を受章。
【文学の部屋|久保田万太郎】大正時代編.30
28兵庫県
1889-1964を生きた詩人であり童謡作家。相馬御風・野口雨情らと早稲田詩社を結成し、その後1909(明治42)年に印象派風の詩や口語自由詩を含む詩集「廃園」で詩壇にその名を刻み、北原白秋の「邪宗門(1909)」と並称され、白露時代を告げる。1918(大正7)年から鈴木三重吉の「赤い鳥」運動に参加し、童謡の作詞を手掛ける。1921(大正10)年には童謡集「真珠島」を出版し、そこに収録された「赤とんぼ」は山田耕筰によって作曲され、現在も広く歌い継がれている。
【文学の部屋|三木露風】大正時代編.29
13東京都
1888-1959を生きた詩人。1907(明治40)年に日本初の口語自由詩「塵溜」を発表し注目を浴びる。1910(明治43)年に処女詩集「路傍の花」を刊行し、詩壇に大きな影響を与えた。1918(大正7)年曙光詩社を創立し、1921(大正10)年「炬火」などの雑誌を創刊し、詩人の育成に尽力した。戦後は法政大学で教鞭を奮ったほか、美術評論家としてもその名を馳せている。
【文学の部屋|川路柳虹】大正時代編.28
13東京都
1887-1940を生きた小説家であり実業家。永井荷風に師事し、1911(明治44)年に短編「山の手の子」を発表し、都会に生きる人々の孤独や憂いを描いた作品で注目を浴びる。1925(大正14)年には長編小説「大阪の宿」を発表し、大阪の郷土色溢れる作品で評価を得る。1933(昭和8)年には父の創業した明治生命保険会社の取締役に就任し、実業と文学を両立させた。
【文学の部屋|水上瀧太郎】大正時代編.27
02青森県
1887-1928を生きた小説家。徳田秋声に師事し、1912(大正元)年に「哀しき父」を発表。その後1918(大正6)年に「子をつれて」で文壇に注目された。貧困や病気、酒びたりの生活の中で、家庭の問題を描いた作品で注目を浴び、私小説作家として自虐的なまでの姿勢をつらぬき「苛烈味の文学」と評された。
【文学の部屋|葛西善蔵】大正時代編.26
27大阪府
1887-1953を生きた国文学者、民俗学者であり歌人。短歌を好み「アララギ」に身を置き、のちに北原白秋らの「日光」のメンバーとなり、歌壇で独自の輝きを放つ。柳田国男を生涯の師と仰ぎ、国文学に民俗学的研究を導入した。民俗学者として各地を巡る旅の中で、その心に湧き上がる情感を、短歌にのせ、多くの作品を世に送り出した。
【文学の部屋|折口信夫】大正時代編.25
10群馬県
1886-1942を生きた詩人。短歌を好み、その後1913(大正2)年北原白秋主宰誌「朱欒」に5編の詩を発表して詩壇デビューとなる。その朱欒を通じて室生犀星と出会い、生涯の良き好敵手となる。1917(大正6)年処女詩集「月に吠える」で詩壇の精鋭となり、1923(大正14)年「青猫」を発表し、口語自由詩による近代象徴詩を完成させた。
【文学の部屋|萩原朔太郎】大正時代編.24
13東京都
1885-1967を生きた歌人、小説家であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注いだ。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.23
13東京都
1885-1965を生きた小説家であり詩人。東京帝国大学文学部国文学科卒業後、1913(大正2)年に初の小説として、幼少年期を描いた「銀の匙」が恩師夏目漱石に認められ刊行。30代後半ごろから詩を書き始め詩集「琅玕(1935)」などを残した。
【文学の部屋|中 勘助】大正時代編.22
45宮崎県
1885-1928を生きた歌人。早稲田大学英文科卒業後、尾上柴舟に師事。1908(明治41)年に初の歌集「海の声」を刊行し、その後、自然を愛する短歌で注目を浴びる。自然を情感豊かに詠んだ歌や、旅と酒にまつわる自由闊達な歌風で活躍した。
【文学の部屋|若山牧水】大正時代編.21
13東京都
1886-1965を生きた小説家、劇作家であり教育者。東京帝国大学国文科中退後、永井荷風に認められ、反自然主義的な作風で小説を始め、1910(明治43)年に初の短編「刺青」を発表した。その後モダニズムの作品を手掛けた。1923(大正12)年の関東大震災を機に関西に移住し、古典的な日本美に傾倒しながら「痴人の愛(1924)」などの作品を残した。1949年文化勲章を受章。
【文学の部屋|谷崎潤一郎】大正時代編.20
15新潟県
1883-1950を生きた詩人、歌人、評論家であり教育者。早稲田大学文学科卒業後、島村抱月に師事し、「早稲田文学」の編集を手掛ける。自然主義評論を執筆や口語自由詩運動に深い関心を持ち詩人としても活躍しながら短歌を始める。1905(明治38)年に初の歌集「睡蓮」を刊行後、口語自由詩で注目を浴びた。その後、文壇を離れ良寛の研究者として活動を展開した。母校、早稲田大学校歌の作詞者としても知られている。
【文学の部屋|相馬御風】明治時代編.36
06山形県
1882-1953を生きた歌人、精神科医であり教育者。東京帝国大学医学部卒業後、伊藤左千夫に師事し、アララギ派の中心人物として活躍しながら短歌を始める。1913(大正2)年に初の歌集『赤光』を刊行し、写生・万葉調の歌で注目を浴びる。1917(大正6)年には、長崎医学専門学校教授を務め、その後、1931(昭和6)年、青山脳病院の院長となり、精神科医、教育者としても多くの業績を文学とともに残した。1951年文化勲章を受賞。
【文学の部屋|斎藤茂吉】大正時代編.19
34広島県
1882-1936を生きた小説家、児童文学者であり教育者。東京帝国大学文学部英文学科在籍時、夏目漱石の授業を皮切りに師事する。その後、小説「千鳥」「桑の実」を発表。娘の誕生を機に、児童文学に深い関心を持ち、1918(大正7)年に児童文芸誌「赤い鳥」を創刊し、芸術性に富んだ童話・童謡の創作を推進し、児童文学の発展に大きく貢献。小川未明、新美南吉らの童話作家を育て、児童文学の普及に尽力した。
【文学の部屋|鈴木三重吉】大正時代編.18
15新潟県
1881-1956生きた歌人、美術史家、書家であり教育者。早稲田大学英文科卒業後、坪内逍遙に師事し、奈良の仏教美術に深い関心を持ち、美術史家としても活躍しながら短歌を始める。1924(大正13)年に初の歌集「南京新唱」を刊行し、ひらがな書きの万葉調短歌で注目を浴びる。1931(昭和6)年、母校の早稲田大学文学部教授となり、仏教美術史を中心に教鞭を奮った。
【文学の部屋|会津八一】大正時代編.17
34広島県
1881-1928を生きた劇作家、演出家。東京帝国大学英文科卒業後、森鴎外の助言を受け、劇評や翻訳を手がけ「新思潮(第1次)」を創刊し、ヨーロッパの演劇運動や新文芸の紹介を行う。1909(明治42)年二代目市川左団次らと自由劇場を結成し、イプセン、ゴーリキーらの戯曲を試演して近代演劇の基礎を築いた。1924(大正13)年には、土方与志らと築地小劇場を創設し、演出の確立、近代俳優の養成、指導理念の提唱した。
【文学の部屋|小山内 薫】大正時代編.16
13東京都
1879-1959を生きた小説家・随筆家。広津柳浪の門に入り小説家を志すも、落語家や歌舞伎作者に傾倒する。その後、アメリカやフランスに外遊し、帰国後「あめりか物語(1908)」「ふらんす物語(1909)」を発表し文学界に新風を吹き込む。1910(明治43)年には慶應義塾大学教授となり、「三田文学」を創刊。その後、大学職を辞し1916(大正5)年、隠退的自由さの中で花柳小説代表作「腕くらべ(1918)」などの作品を手がけた。1952年文化勲章を受賞。
【文学の部屋|永井荷風】大正時代編.15
04宮城県
1878-1948を生きた劇作家・小説家。第二高等学校医学部中退後、小栗風葉などに師事。1907(明治40)年小説「南小泉村」を発表して自然主義の新鋭と期待されるも二度にわたる原稿二重売り事件で文壇から退いた。1913(大正2)年松竹に入社し、新派劇の座付作者となり戯曲を手がける。一幕物である「玄朴と長英」「平将門(まさかど)」「元禄(げんろく)忠臣蔵」などの歴史劇を発表し、劇壇の一線で活躍した。
【文学の部屋|真山青果】大正時代編.14
20長野県
1876-1926を生きた歌人。生まれ故郷の小学校教育に携わりながら、歌を伊藤左千夫に学ぶ。1903 (明治36)年に歌誌「比牟呂」を創刊し、1909(明治42)年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、斎藤茂吉、土屋文明らとともにアララギ派の有力歌人として活躍。万葉調と写生とを生かした作品から、東洋的な鍛錬道(象徴主義)を貫く作品を展開した。代表作には「馬鈴薯の花(1913)」「切火(1915)」「太虗集(1924)」などがある。
【文学の部屋|島木赤彦】大正時代編.13
33岡山県
1877-1945を生きた詩人・随筆家。岡山県尋常中学校を中退後、上京してイギリスの浪漫主義詩人キーツ・ワーズワース、日本では島崎藤村の詩に触れ独学で文学を学ぶ。その後、杜甫の詩句「花密蔵難見(1897)」を発表し、島村抱月らに認められ文壇デビューとなる。第一詩「集暮笛集(1899)」を刊行し、詩壇的地位を確立した。以降「ゆく春(1901)」など浪漫派詩人として活躍し、蒲原有明とともに象徴派詩人としても知られ、近代詩の一時代を築いた。
【文学の部屋|薄田泣菫】明治時代編.35
13東京都
1872-1943を生きた劇評家、劇作家であり小説家。慶應義塾大学を卒業後、1893(明治26)年に時事新報の記者として劇評家としての活動を開始し、報知新聞に移籍して辛辣な劇評で知られるようになる。1902(明治35)年に、岡本綺堂と合作の「金鯱噂高浪」を上演。その後、2世市川左団次の明治座革新興行に参画、松竹に入り文芸顧問として活躍したのち、日本演劇社社長となった。小説では「小猿七之助」「今様薩摩歌」などの作品を手掛けている。
【文学の部屋|岡 鬼太郎】明治時代編.34
13東京都
1872-1939を生きた小説家・劇作家。1890(明治23)年に東京日日新聞に入社を皮切りに、各紙で劇評に携わる。1902(明治35)年に岡鬼太郎との合作「黄金鯱噂高浪」で最初の自作作品が上演される。1911(明治44)年「修禅寺物語」が大ヒットし、2代市川左団次と提携した「鳥辺山心中」「番町皿屋敷」などおおくの歌舞伎作品を生んだ。小説では1916年からは「半七捕物帳」を連載し、捕物帳の先駆者となる。
【文学の部屋|岡本綺堂】明治時代編.33
04宮城県
1883-1971を生きた小説家。1908(明治43)年に武者小路実篤らとともに「白樺」を創刊し、「網走まで(1910)」で文壇デビュー。その後も「白樺」に代表作「城の崎にて(1917)」などの作品を発表。「和解(1917)」は実父との和解の経験を描いた作品。1949年、文化勲章を受賞。
【文学の部屋|志賀直哉】明治時代編.32
33岡山県
1879-1962を生きた小説家、劇作家であり文学評論家。東京専門学校(現、早稲田大学)を卒業後、「寂寞(1904年)」を発表し文壇デビュー。「塵埃(1907)」「何処へ(1908)」などで自然主義作家として活躍し、つねに文壇の第一線で活動を行なった。その後、活動の主力を「作家論(1942)」「内村鑑三(1950)」などの評論執筆を行なった。
【文学の部屋|正宗白鳥】明治時代編.31
13東京都
1875-1952を生きた詩人。1898(明治31)年に読売新聞懸賞小説に応募し当選するも、すぐに詩作に専念する。「草わかば(1902)」で注目され、その後「春鳥集」、そして「有明集」で複雑な語彙やリズムを駆使した象徴詩人としての才能を発揮した。その作風は北原白秋や木下杢太郎らに影響を与える。
【文学の部屋|蒲原有明】明治時代編.30
38愛媛県
1874-1959を生きた俳人であり小説家。中学校で河東碧梧桐と出会い、その碧梧桐を介して正岡子規に師事し、俳句を学ぶ。1897(明治31)年に「ホトトギス」を子規より引き継ぎ、俳句雑誌として発展させた。子規の没後、碧梧桐の「新傾向」に反対し、伝統俳句の立場に立ち、「客観写生」「花鳥諷詠」の理念のもと、近代俳句を完成させた。1954(昭和29)年には俳人として初の文化勲章を受章している。
【文学の部屋|高浜虚子】明治時代編.29
17石川県
1872-1943を生きた小説家。尾崎紅葉に師事し「藪かうじ(1896年)」で文壇デビューし、読売新聞に連載する「雲のゆくへ」でブレイクした。その後「新世帯(1908)」などで自然主義文学の代表的作家となる。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに紅葉門下の四天王と称されている。
【文学の部屋|徳田秋声】明治時代編.28
39高知県
1869-1940を生きた文学者、翻訳家であり評論家。明治学院在学中に島崎藤村や戸川秋骨と知り合い、卒業後は中学の英語教師を務めながら「文学界」の同人として活躍。その後、日本銀行に勤務しながら文学活動を続けた。1906(明治39)年慶應義塾大学教授となり、欧州大陸文学を講じながら、ドーデ「野の花(1902)」トルストイ「戦争と平和(1914-15)」などの翻訳を手がけた。
【文学の部屋|馬場孤蝶】明治時代編.27
13東京都
1868-1910を生きた小説家、詩人であり評論家。1885(明治18)年に尾崎紅葉や石橋思案らと共に「硯友社」を結成し、機関紙「我楽多文庫」を刊行。その後、坪内逍遥の「小説神髄」の影響を受け、文学改良主義を掲げ、1887(明治20)年に「読売新聞」に「武蔵野」などを連載。口語(言文一致)体の新聞小説として注目を浴びた。演劇や辞書編集 などにも携わっている。
【文学の部屋|山田美妙】明治時代編.26
12千葉県
1868-1954を生きた戯作者であり新聞記者。幼少期から書・画・漢学を学び、梅亭金鵞に師事して「鶯亭金升」の号を貰い、団団珍聞の編集などを担当。その後、改進、万朝報、中央、やまと、読売、都、東京毎日の各新聞社を転々とし、落語、川柳、狂歌、茶番、小唄など庶民の遊びの文芸を多く手がけた。明治の文壇や芸能界の事情に精通し、小山内薫 などを門下した。
【文学の部屋|鶯亭金升】明治時代編.25
42長崎県
1861-1928を生きた小説家。長崎県に生まれ、家業であった医業にならって、東京大学医学部予備門に入学するも退学し、文学の道を選ぶ。1887(明治20)年に処女作「女子参政蜃中楼」を発表し、その後、「変目伝(1895)」、「黒蜥蜴(1895)」、「今戸心中(1896)」などの作品を発表し、下層社会の悲惨な実態を描いた独自の作風は、深刻小説(悲惨小説)と呼ばれ、異彩を放った。
【文学の部屋|広津柳浪】明治時代編.24
07福島県
1898-1947を生きた小説家であり評論家。同人誌「街」や「塔」を創刊し、作家を志す。1923(大正12)年に、菊池寛が創刊した「文藝春秋」に参加。「日輪」「蠅」などを発表して注目を浴びる。1924(大正13)年に川端康成らとともに「文藝時代」を創刊し、新感覚派文学の運動を推進。その後も、新心理主義の作品を試みるなど、意欲的な創作活動を続けた。また、プロレタリア文学に対して「形式主義文学論争」を交わしたことでもその名を馳せている。代表作には「機械」、「上海」、「旅愁」など。
【文学の部屋|横光利一】昭和時代編.4
40福岡県
1889-1962を生きた小説家であり、禅僧、新聞記者。慶應義塾大学文学部に進学するも、父親の教えに従って中退し、農園経営に従事する。その後、出家し禅僧となるも還俗し、新聞記者として活動する。文壇デビューは「あやかしの鼓」を「新青年」に懸賞投稿し入選から。代表作の長編作品「ドグラ・マグラ」は、怪奇味と幻想性に富み、日本文学において独自の地位を築いた。
【文学の部屋|夢野久作】昭和時代編.3
09栃木県
1887-1947を生きた劇作家であり小説家。東京帝大在学中に芥川竜之介らと第三次「新思潮」を創刊。「津村教授」などの社会劇で新進劇作家として認めら、歴史劇に関心が及び「坂崎出羽守」などを次々に発表。大正末期以降は小説に転じ「真実一路」「路傍の石」などを発表した。戦後は参議院議員となり、国語国字問題に力を注ぎ、当用漢字や現代かなづかい制定、国立国語研究所設立の中心になるなど、多くの功績を残したことでもその名を馳せている。
【文学の部屋|山本有三】昭和時代編.2
26京都府
1887-1928を生きた歌人であり、教育者、社会運動活動家。父、大谷光尊(西本願寺第21代法主)の亡き後、兄の大谷光瑞と共にし、兄嫁と共に仏教婦人会を共同設立し、日露戦争時の兵士への支援活動を行う。佐佐木信綱に師事し、歌集「金鈴」や歌文集「無憂華」などを著した。また1923年の関東大震災後には、築地本願寺の再建やあそか病院の設立などの人道的活動を行った。京都女子高専(現在の京都女子大学)を創設者としてもその名を刻んでいる。
【文学の部屋|九条武子】昭和時代編.1
03岩手県
1896-1933を生きた詩人であり童話作家、農業指導者。稗貫(後に花巻)農学校教諭となる。その後、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を自費出版。農学校を退職後、花巻市郊外で開墾自炊生活にはいり、羅須地人協会を設立して農業指導に献身。肉体の酷使から病床にあいながらも、「グスコー・ブドリの伝記」「銀河鉄道の夜(未完)」などを手がけた。「雨ニモマケズ」は、その病床で手帖に書き残した作品として知られている。
【文学の部屋|宮沢賢治】大正時代編.12
06山形県
1893-1973を生きた児童文学作家。早稲田大学英文科在学中に、童話「黄金の稲束」が大阪朝日新聞の懸賞に入選。大学卒業後はコドモ社に入社し、編集者を経て作家生活に入った。代表作に「泣いた赤鬼」など、素朴で心温まる内容を特徴とし「ひろすけ童話」として親しまれた。日本児童文芸家協会の初代理事長を務め、児童文学の発展に大きく貢献した。
【文学の部屋|浜田広介】大正時代編.11
34広島県
1891-1943を生きた劇作家であり評論家。上京し、第一高等学校に進学するも健康上の理由で中退。その後、病気療養や家族の不幸に重なりながら執筆活動を行い、戯曲「出家とその弟子」を書き上げ、大きな反響を呼んだ。後に発表した、評論集「愛と認識との出発」は当時の青年の必読書となった。晩年には「日本主義文化宣言」などを著し、国家主義に傾倒していく。
【文学の部屋|倉田百三】大正時代編.10
13東京都
1889-1939を生きた歌人であり小説家、仏教研究家。兄の影響を受け文学に親しみ、与謝野晶子に師事し、与謝野鉄幹の主催する新詩社に入り「明星」に投稿。その後の「スバル」でも活躍し短歌の才能を発揮した。漫画家岡本一平と出会い、長男の岡本太郎を出産。その後、処女歌集「かろきねたみ」を発表後、夫婦で宗教遍歴を歩む。小説家としては、川端康成の知遇を得て発表した、芥川龍之介をモデルにした小説「鶴は病みき」は、文学界に大きな存在を示した。
【文学の部屋|岡本かの子】大正時代編.9
17石川県
1889-1962を生きた詩人であり小説家。逆境の幼少期をへて詩人をこころざす。創作活動を積極的に行い、1913(大正2)年に北原白秋主宰誌「朱欒」に詩集「小景異情」を投稿。これがきっかけとなり生涯の友となった萩原朔太郎と共に詩壇に新しい風を吹き込んだ。30歳代から小説に転じ「あにいもうと」「杏つ子」などを発表した。
【文学の部屋|室生犀星】大正時代編.8
13東京都
1886-1960を生きた歌人であり劇作家。与謝野鉄幹の主催する新詩社に入社し「明星」に次々と歌を発表。その後早稲田大学政治経済科に進学するも中退し、本格的に文学活動を展開する。北原白秋、木下杢太郎らと耽美派文学の拠点となる「パンの会」を結成。「スバル」同人となり、石川啄木らとともに編集を担当した。代表作には歌集「酒ほがひ」、「祇園歌集」、戯曲「午後三時」など。
【文学の部屋|吉井 勇】大正時代編.7
43熊本県
1885-1942を生きた詩人、歌人であり童謡作家。早稲田大学英文科に進学し、詩作を始める。与謝野鉄幹の門人となり、「明星」「スバル」に作品を発表。のちに木下杢太郎らと耽美派文学の拠点となる「パンの会」を結成。代表作には詩集邪宗門」、「思ひ出」、歌集「桐の花」、童謡集「トンボの眼玉」など。また児童文学雑誌「赤い鳥」を通じて童謡運動を推進し、「この道」や「雨降り」などの童謡を数多く発表した。晩年には糖尿病と腎臓病を患い、1942年に57歳で死去した。
【文学の部屋|北原白秋】大正時代編.6
13東京都
1885-1976を生きた小説家、詩人であり劇作家。東京帝国大学に進学するも中退し、文学活動を開始。志賀直哉らとともに文芸雑誌「白樺」を創刊し、白樺派の中心人物として活躍。代表作に「友情」、「お目出たき人」、「井原西鶴」など。理想郷「新しき村」を宮崎県と埼玉県に建設し、理想主義的な社会運動を展開。1951(昭和26)年に文化勲章を受章している。
【文学の部屋|武者小路実篤】大正時代編.5
13東京都
1885-1944を生きた小説家。幼少期から古典文学に親しみ、キリスト教や社会主義の思想に影響を受ける。1906(明治39)年に都新聞(現在の東京新聞)に入社し、処女作「氷の花」を発表。その後、代表作「大菩薩峠」を1913(大正2)年から連載し、未完ながらも大衆文学に大きな影響を与えた。晩年は仏教的思想に傾倒し、独自の文学世界を追求した。
【文学の部屋|中里介山】大正時代編.4
14神奈川県
1884-1963を生きた小説家であり劇作家。新聞記者としての経験を活かし、1925(大正14)年に都新聞(現在の東京新聞)を退社し作家活動を始める。その作風は「股旅物」というジャンルを開発し、人情の機微に描く。代表作には「関の弥太っぺ」、「瞼の母」、「荒木又右衛門」など。また劇作家としても成功し、「沓掛時次郎」や「掏摸の家」などの戯曲を残した。大衆文芸の振興に尽力し、二十一日会や新鷹会などの勉強会を主催し、山岡荘八や池波正太郎、西村京太郎らを育てた。
【文学の部屋|長谷川 伸】大正時代編.3
08茨城県
1882-1945を生きた詩人であり童謡作家。現在の早稲田大学で坪内逍遥に師事するも大学を中退し詩作を始める。その後児童文学雑誌「金の船(のち金の星」に童謡を数々発表し、北原白秋らとともに童謡運動を推進した。また地方色ゆたかな民謡も、多く手がけた。
【文学の部屋|野口雨情】大正時代編.2
15新潟県
1882-1961を生きた児童文学作家であり詩人。現在の早稲田大学在学中に著した小説「紅雲郷」が坪内逍遥に認められ文壇デビュー。大正デモクラシー思潮に支えられ創刊した「赤い鳥」のブームに乗り、処女童話集「赤い船」を発表後、「赤い蝋燭 と人魚」をはじめ数々の童話集を刊行し近代的な児童文学のに傾倒し、児童文学者として活躍した。
【文学の部屋|小川未明】大正時代編.1
27大阪府
1878-1942を生きた歌人、詩人であり社会運動家。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となる。その鉄幹に見出され1901(明治34)年、奔放な愛の情熱をうたった「みだれ髪」を発表し、大きな反響をよび、その後も、日本浪漫主義を代表する歌人として活躍した。日露戦争時に発表した詩「君死にたまふことなかれ」は日露戦争の激戦地にいる弟の身を案じた作品であり、当時の社会に大きな反響を呼んだ。また1921(大正10)年には、男女平等教育を唱え文化学院の創立に携わり、婦人問題・教育問題への積極的発言もおこなった。
【文学の部屋|与謝野晶子】明治時代編.23
15新潟県
1878-1914を生きた小説家、詩人であり弁護士。現、明治大学を卒業後、弁護士として活動を始め、文学活動にも積極的に参加。石川啄木らと共に同人誌「明星」の終刊後に「スバル」の創刊に携わる。また弁護士としては、幸徳事件(大逆事件)の弁護人を務め、日本の社会主義運動に大きな影響を与えた事件を担当することで、広く注目された。雑誌「太陽」に幸徳事件をモデルにした小説「逆徒」を掲載したが発禁処分を受けている。35歳で早世。
【文学の部屋|平出 修】明治時代編.22
13東京都
1878-1923を生きた小説家であり評論家。現北海道大学に進学し、その後、アメリカのハバフォード大学とハーバード大学で学び、社会主義や西欧文学に影響を受ける。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人誌「白樺」を創刊し、文学活動を展開。1917(大正6)年「カインの末裔」、1919(大正8)年「或る女」(1919年)など、人間の内面や社会問題を鋭利に描いた作品を著した。また、北海道の農場を開放し、農民の生活改善に尽力するも波多野秋子との心中という悲劇的な結末を迎えた。
【文学の部屋|有島武郎】明治時代編.21
28兵庫県
1875-1962を生きた民俗学者であり文学家。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省官僚を勤めた後に、地方の農村調査を通じて民俗学に興味を持つ。1910(明治43)年に岩手県遠野地方の民話を集めた「遠野物語」を著し、日本の民俗学の基礎を築く。「海上の道」や「桃太郎の誕生」など、多くの作品を通じて日本の伝統文化や民間伝承を研究した。1951(昭和26)年に文化勲章を受章。
【文学の部屋|柳田國男】明治時代編.20
13東京都
1874-1916を生きた詩人、翻訳家であり英文学者。島崎藤村らに合流し文学界の同人となり、東京帝大入学後は「帝国文学」の創刊に参加する。その後、西欧の象徴詩の紹介と翻訳に力を注ぎ、1905(明治38)年の訳詩集「海潮音」は、ヴェルレーヌ、ボードレールなどの詩を翻訳し、日本の詩壇に大きな影響を与えた。晩年には京都帝国大学教授や同志社大学でも教鞭を執り、多くの門下生を育成し、日本の英文学、フランス文学の発展に貢献した。唯一の小説として1910(明治43)年に自伝的小説「うづまき」を著している。41歳で早世。
【文学の部屋|上田 敏】明治時代編.19
26京都府
1873-1935を生きた歌人であり、文学者、教育者。教員を経て、1900(昭和33)年に創刊した文学雑誌「明星」は、北原白秋や石川啄木など多くの若手歌人を輩出し、ロマン主義運動の中心的存在となる。与謝野晶子の才能を見抜き、歌集『みだれ髪』の出版を支援。晩年にはパリを訪れ、ヨーロッパ各地を歴訪し帰国後、慶應義塾大学の教授としても多くの後進を育てた。
【文学の部屋|与謝野鉄幹】明治時代編.18
38愛媛県
1873-1937を生きた俳人であり随筆家。正岡子規に野球を教わったことがきっかけで俳句に強い関心を持ち、子規の高弟として高浜虚子と共に、俳句革新運動を助けた。1902年子規の没後に新聞「日本」の俳句欄選者を受け継ぐ。その後、従来の5-7-5の定型を破り、自由詩形式を取り入れた自由律俳句を提唱し、俳句の新しい表現方法を追求した。新傾向俳句に与えた影響は大きく、また高浜虚子との対立を生んだ。代表作には「碧梧桐句集」や「三千里」などがあり、旅行記や随筆も多く執筆した。晩年にはヨーロッパからアメリカを訪れ、その経験を作品に反映させた。
【文学の部屋|河東碧梧桐】明治時代編.17
10群馬県
1872-1930を生きた小説家。幼少期から文学に親しみ、特に漢詩文や西洋文学に強い関心を持つ。兄に従い上京し、尾崎紅葉の門下となり、その後、国木田独歩、島崎藤村と交流を深めた。1902年に発表した「重右衛門の最期」で作家としての地位を確立した。その後「蒲団」や「田舎教師」などの作品で、自己の内面を赤裸々に描写する「私小説」として自然主義運動の先頭に立ち自然主義文学の代表的作家となった。
【文学の部屋|田山花袋】明治時代編.16
21岐阜県
1872-1943を生きた詩人であり小説家。幼少期から文学に親しみ、特に詩作と小説に強い関心を持つ。明治学院で学び、在学中に「文学界」に参加し、ロマン主義詩人として「若菜集」を発表。その後、小説に転向し、1906年に発表した「破戒」で自然主義文学の代表作家となる。代表作には「春」や「家」などがあり、特に父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説「夜明け前」は歴史小説として高く評価されている。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴であり、明治・大正・昭和期の日本文学に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|島崎藤村】明治時代編.15
04宮城県
1871-1952を生きた詩人であり英文学者。幼少期から文学に親しみ、特に詩作に強い関心を持つ。東京帝国大学で英文学を学び、在学中に「帝国文学」の編集委員となり詩作を始める。高山樗牛の勧めで1899年に発表した処女詩集「天地有情」で新体詩人としての地位を確立。その後も「暁鐘」や「東海遊子吟」などの詩集を刊行した。詩風は漢文調の叙事詩が特徴で、特に「荒城の月」の作詞者(瀧廉太郎作曲)として広く知られる。晩年にはギリシャ語の原典からの翻訳としてホメロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」の翻訳を手掛けた。1950年文化勲章受章。
【文学の部屋|土井晩翠】明治時代編.14
06山形県
1871-1902を生きた文学家、文芸評論家であり思想家。東京帝国大学で哲学を学び、在学中に小説「滝口入道」が懸賞入選となり、文壇デビュー。雑誌「太陽」の編集に携わり、ロマン主義や日本主義を唱えた。その後、ニーチェの思想に影響を受け、個人主義や超人思想を賛美し「美的生活を論ず」を著した。また日蓮への傾倒し「日蓮上人とは如何なる人ぞ」を著した。32歳で早世も多くの評論を残し、明治時代の文学と思想に大きな影響を与えた。
【文学の部屋|高山樗牛】明治時代編.13
12千葉県
1871-1908を生きた小説家、詩人でありジャーナリスト。幼少期から文学に親しみ、特に自然主義文学に強い関心を持つ。現在の早稲田大学で学び、徳富蘇峰の影響を受けた。1894(明治27)年に日清戦争の従軍記者として活動し、弟宛てに送った手紙をルポルタージュとして発表した「愛弟通信」で文壇デビュー。その後、「武蔵野」や「忘れえぬ人々」などの作品を綴った。作風は、自然描写と人間心理の深い洞察が特徴。晩年には「婦人画報」の創刊にも関わり、編集者としても活躍した。
【文学の部屋|国木田独歩】明治時代編.12
32島根県
1871-1918を生きた劇作家、小説家、詩人であり文芸評論家。幼少期から文学に親しみ、特に演劇に強い関心を持つ。早稲田大学で坪内逍遥に学び、「早稲田文学」の編集に携わり、文芸評論家として活躍。1902(明治35)年からイギリスとドイツに留学し、帰国後、坪内逍遥と共に文芸協会を設立し、シェイクスピアなどの海外戯曲を上演、新劇運動を推進した。1913(大正2)年には松井須磨子と共に芸術座を結成し、トルストイの「復活」などを上演し、「カチューシャの歌」は当時の大衆に大流行した。作品は心理描写に優れ、人間の内面を深く掘り下げたものが多く、また、文芸評論においては、日本の近代文学の理論的基礎を築いた。1918年にスペイン風邪により急逝したことは日本の演劇界にとって大きな損失となった。
【文学の部屋|島村抱月】明治時代編.11
20長野県
1869-1937を生きた作家であり社会運動家。幼少期から文学に親しみ、特に社会問題や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、後にキリスト教に改宗。キリスト教の思想を基に社会問題や人間の生き方を深く考察していく。1899(明治32)年に毎日新聞記者となり、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙運動などで活躍。特に足尾銅山鉱毒問題の報道は社会に大きな影響を与えた。1901(明治34)年には幸徳秋水らと社会民主党を結成し、非戦論を唱えた。代表作に「火の柱」や「良人の自白」など、社会主義や平和主義をテーマにした作品を多く執筆。晩年にはキリスト教と仏教の融合を試みるなど、多岐にわたる活動を展開した。
【文学の部屋|木下尚江】明治時代編.10
43熊本県
1868-1927を生きた小説家、評論家。幼少期から文学に親しみ、特に自然描写や人道主義に強い関心を持つ。同志社英学校で学び、兄の徳富蘇峰が創設した民友社に参加。1899(明治32)年に発表した「不如帰」が大ヒット。その後も「自然と人生」や「思出の記」などの作品で人気を博す。作風は、キリスト教の影響を受けた自然描写と人間愛に満ちた内容が特徴。晩年にはトルストイを訪問し、その思想に共鳴し、東京の世田谷に居を構え、「蘆花恒春園」と名付け自給自足の生活を実践した。反戦思想を唱え、社会問題や人間の生き方について深く考察したことでもその名を馳せている。
【文学の部屋|徳冨蘆花】明治時代編.9

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02青森県
1900-1986を生きた小説家。慶應義塾大学文学部国文科卒業後、郷里青森県や秋田県で教員となる。その後、1933(昭和8)年に「若い人」を発表し作家的地位を確立する。戦後は「青い山脈」や「陽のあたる坂道」など新聞小説で頭角を著し、青春と希望を描いた作品で国民的な人気を博した。健全な常識に立ち明快な作品を書き続けた功績が評価され、1966(昭和41)年に第14回菊池寛賞を受賞。
【文学の部屋|石坂洋次郎】昭和時代編.30New!!
27大阪府
1900-1977を生きた小説家。関西学院普通部卒業後、佐藤春夫に師事し、1923(大正12)年に「一千一秒物語」を発表して文壇に登場。1926(昭和元)年に発表した「星を売る店」で注目を集め、天体や科学文明を題材にした幻想的な作風でモダニズムの先駆者として知られる。戦後は「弥勒」「ヰタ・マキニカリス」など、少年愛や哲学的テーマを扱った作品を発表し、1968(昭和43)年に「少年愛の美学」で第一回日本文学大賞受賞。独自の宇宙論的視点と美学で、その名を刻んだ。
【文学の部屋|稲垣足穂】昭和時代編.29
シューちゃん

シュー(Syu)です
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館長

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