後嵯峨天皇





Emperor Go-Saga (1220-1272)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょん
こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

後嵯峨天皇をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

後嵯峨天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として後嵯峨天皇イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

室町時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

安土桃山時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

江戸時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治の部屋 Politics

後嵯峨天皇って

館長

後嵯峨天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

ここが「南北朝」の分水嶺となったってことだよね!
母・大宮院がもし兄を選んでいたら…どうなる!?

館長

「持明院統 vs 大覚寺統」という二つの皇統は、持明院統が兄・後深草系、大覚寺統が弟・亀山系!
この兄弟の意地の張り合いが、のちの歴史を彩っていきます

こんな背景

シリーズ:承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場

第7回: 後嵯峨天皇〜皇統分裂の種を蒔いた、苦渋の調停者〜

今回のシリーズ:「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」は…

壇ノ浦の海で平家が滅び、壇上に立つべき幼い安徳天皇 が沈んだとき、日本の王権は深い傷を負いました。
その傷を抱えたまま、平安的な王権を守り抜こうとしたのが、

平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

後鳥羽院 でした。

文化に秀で、武芸にも通じ、「天皇の理想」を胸に抱いた希代の王は、平家滅亡後の新しい世界で、初めて真正面から「武士の国」と向き合うことを迫られました。

一方その頃、鎌倉では源 頼朝 亡きあと、カリスマを失った幕府が内部抗争に揺れ、そのすき間をぬうように北条氏が着実に台頭。「武士が国を治める秩序」をさらに築き上げ、守り固めようとしていました。


対する京では…
後鳥羽院がそのわずかな揺らぎを見逃しません。

「今こそ、武士に奪われた権威を取り戻す時である。」

院は自ら軍事力を整え、文化の力で御家人たちをも魅了し、しかし確かな意志で「帝の逆襲」の準備を進めていきます。

朝廷と武士。
王権と武家政権。
互いの正義が譲れぬ一線を越えたとき、両者は避けられない衝突へ向かっていきました。

そしてその過程で、後鳥羽院の息子たち、そして孫たちがそれぞれの「胸に帝のプライド」を宿し、自らの運命を賭けて歴史の舞台に立つことになります。

1221年。
日本史の転換点 「承久の乱」 がついに幕を上げる。

このシリーズでは、後鳥羽院の影を受け継いだ11人の天皇・院 の物語を追っていきます。
華やかな権力争いではない。
勝者の論理でもない。

これは、武士の国を前にして、帝たちが「何を守ろうとしたのか」。
その心の軌跡を描く、大いなる劇場の物語です。

承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」11人のストーリー

第1回 土後門天皇
争いを拒み、自ら流刑を望んだ「静」の帝

第2回 順徳天皇
父の理想を継ぎ、佐渡に燃え尽きた「熱」の帝

第3回 仲恭天皇
在位わずか78日、運命に翻弄された幼君

第4回 守貞親王(後高倉院)
乱の果てに、図らずも「治天の君」となった父

第5回 後堀河天皇
鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴

第6回 四条天皇
12歳で幕を閉じた、あまりに儚き治世

第7回 後嵯峨天皇
皇統分裂の種を蒔いた、苦渋の調停者

第8回 後深草天皇
持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子

第9回 亀山天皇
大覚寺統(南朝)の祖、理想を追った次子

第10回 後宇多天皇
二つの皇統を束ね、父の理想に生きた院政の主

第11回 伏見天皇
持明院統の誇りを守り、文化に光を求めた帝

父は、後堀河天皇

1242年。
四条天皇 が12歳で急逝すると、皇位継承の本流は完全に途絶えました。
幼帝が続いた朝廷には後継者の明確な指針はなく、「次の天皇を誰にするのか」という、王権の根幹を揺るがす難題が突きつけられます。
その混乱のただ中で「選ばれた」のが、後嵯峨天皇でした。

父は、かつて承久の乱後に自ら望んで土佐・阿波へ流れた土御門天皇
皇位から遠く離れた支流の皇子でありながら、幕府の裁定によって突如として即位に迎えられたのです。

この時点で、後嵯峨天皇は「空白を埋め、秩序を調停する」という重い宿命を背負わされていました。

調停の帝としての歩み

即位後、朝廷は一見安定を取り戻したかのように見えました。
しかしその実態は、後鳥羽院 の系統断絶や摂関家の弱体化により、かつての権威を失った姿でした。

後嵯峨天皇は、「傷ついた皇統をどう繋ぎ直すか」という課題に対し、「調停」という道を選びます。

院政と、未来を分かつ決断

後嵯峨天皇が歴史を動かしたのは、、1246年。
わずか2歳の後深草天皇 へ譲位し、院政(治天の君)を開始してからでした。
幼い後深草に政務を執れるはずもなく、政治の実権はすべて後嵯峨上皇へと集中していきます。

その十数年にわたる院政の中で、後嵯峨は皇統の未来を左右する重大な決断を下します。
本来なら、後深草天皇の系統が皇位を継ぐのが筋でした。
しかし後嵯峨はあえてその原則を外し、

後深草天皇の系統ではなく、
自身の第七皇子(後の亀山天皇 )を次の帝に

指名したのです。
この異例の継承方針こそが、のちに後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)という二つの皇統を生み出し、やがて南北朝動乱へと連なる分裂の起点となりました。

善意の調停が生んだ「未来の影」

後嵯峨院の選択は、決して悪意ではありませんでした。
どちらの血統も絶やさず、兄弟が互いに譲り合いながら交互に即位する。
そんな「理想の均衡」を夢見ていたのです。


しかし、その善意は現実には逆の効果を生みました。
両陣営に「自分たちこそが正統だ」という執念を植え付け、皇室を二分する避けがたい火種となってしまったのです。

皇統の天秤が揺れ始める

1272年に後嵯峨院が崩御すると、押しとどめていた均衡の紐は一気に解け、皇統は真っ二つに割れていきます。
絶対的な裁定者を失ったことで、皇位決定権は事実上、幕府の手へと投げ出されました。

幕府は後深草・亀山の兄弟いずれにも決めかね、両者の背後にいる母・大宮院(姞子)へ意向を問いました。
その結果、大宮院が亀山側を支持したことで、皇位の流れは弟へと傾き、皇統は決定的に二派に割れていくこととなりました。

後嵯峨院の死は、これまで形を潜めていた「分裂」という濁流が、いよいよ表舞台へ溢れ出す転機となったのです。

歴史に残るのは「調停者」の名と、「分裂の起点」

後嵯峨天皇は、承久の乱によって傾いた王権を立て直すために即位し、調停をもって皇統の連続性を守ろうとした天皇でした。

しかし、その未来へ託した善意の均衡は、そのまま「持明院統 vs 大覚寺統」という二つの皇統の出発点となり、
やがて日本史上最大級の政治的断絶する「南北朝の分裂」へと続いていきます。

調停者でありながら、知らぬ間に未来へ裂け目を残してしまった帝。
その存在こそ、後嵯峨天皇の歴史的な位置でした。

明日は、後深草天皇

後嵯峨天皇の正統の長子でありながら、皇位を弟に譲らざるを得なかったのが、後深草天皇です。

その静かな不満と深い影が、のちに皇統を二つに裂き、南北朝動乱へとつながる長い宿命を生み出していきました。

次回の承久の乱 〜天皇たちの運命劇場〜は、幼くして即位し、若くして譲位させられた「持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子」後深草天皇の物語をお届けします。

1243-1304を生きた政治家(第89代天皇)。後嵯峨天皇の長子として生まれ、1246(寛元4)年、わずか2歳で即位した。幼帝ゆえに政治の実権は父の院政に委ねられたが、人生を大きく変えたのは退位後の処遇であった。父・後嵯峨は次代の皇位を、後深草の子供ではなく、後嵯峨の第二皇子である亀山天皇の血筋に継がせようとした。この決定により、長子である後深草の家系は、皇位の正統な流れから外される危機に直面する。これが、のちに「北朝」となる持明院統(後深草系)と、「南朝」となる大覚寺統(亀山系)の激しい対立の火種となり、のちに日本を二つに分かつ「南北朝動乱」という大きな嵐の幕開けとなった。
【政治の部屋|後深草天皇】鎌倉時代編.19

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

26京都府
1275-1327を生きた公卿。鎌倉時代末期、祖父・兼平と父・基忠が築き上げた「鷹司家」の地位を継承し、五摂家の一角として王権中枢を支え続けた。摂関が政治的主導権を失いつつある時代において、その役割を「国家運営のシステム」の維持に集約させ、揺るぎない実務能力を発揮。後醍醐天皇の即位、そして鎌倉幕府の終焉へと向かう緊迫した情勢にあっても、急進的な改革や権力闘争に身を投じることはなかった。その姿勢は、王権を「理念」ではなく「運営される仕組み」として存続させる、鎌倉期公家社会の最終的な到達点を示した。南北朝分裂を直接生み出したものではないが、王権が分裂へ向かう直前まで制度的連続性を保ち続けた点において、次代への重要な橋渡しであった。
【政治の部屋|鷹司冬平】鎌倉時代編.32New!!
26京都府
1247–1313を生きた公卿。鎌倉時代後期、父・鷹司兼平が築き上げた鷹司家の地位を、摂家の一角として盤石にした継承者。摂関がかつてのような絶対的権力を失いつつあるなかで、基忠はその役割を「国家運営の精緻な実務」へと昇華させた。元寇という未曾有の国難を背景に、天皇個人の資質や時勢の混乱に左右されることなく、朝廷儀礼や官僚組織を滞りなく機能させ続ける体制を死守。基忠の功績は、破壊的な改革ではなく、完成された「型」を崩さず磨き上げ、次代へ引き渡した点にある。王権が分裂する前夜、この「運営の型」を徹底して守り抜いた基忠の仕事こそが、後に南北朝が真っ二つに裂けてもなお、双方が「政府」として存続し得た骨太な構造的背景となった。
【政治の部屋|鷹司基忠】鎌倉時代編.31New!!
26京都府
1228-1294を生きた公卿。鎌倉時代後期、五摂家の一つである鷹司家を確立した人物。藤原道長以来、実権装置としての摂関政治が形骸化するなかで、朝廷儀礼や官制を精緻化し、王権運営を「個人の力量」から、誰が担っても大きく揺るがない「制度」へと移行させた。天皇が武力や主導権を直接握らずとも、儀礼と官僚機構によって王権が機能し続ける体制を、事実上定着させた点で、歴史にその名を刻む。兼平の時代に整えられたこうした制度的安定は、後に南北朝期に王権が二つに割れても、それぞれが「国家」として存続し得た重要な前提条件の一つとなった。南北朝という巨大な分裂を、制度の側から支える礎を築いた「システムの設計者」であった。
【政治の部屋|鷹司兼平】鎌倉時代編.30New!!
26京都府
1338-1374を生きた政治家(北朝第4代天皇)。北朝初代天皇・光厳天皇の皇子として生まれ、南北朝の分裂が定着しつつある動乱期に育つ。1352年、観応の擾乱による混乱の最中、三上皇が南朝方に拘束されるという未曾有の危機に際し、足利幕府の庇護のもとで即位した。後光厳天皇の治世は、正統を戦場で争う時代から、分裂した王権を「制度として維持する」段階への移行期にあたる。幕府との協調を前提に、朝廷儀礼や官位制度の安定を重視し、北朝を日常的な統治機構として定着させる役割を担った。自ら前線に立つことはなかったが、その存在によって北朝は「一時的な対抗勢力」から、京都に根を張る「継続的な王権」へと変質していく。後光厳天皇は、南北朝という分裂を戦争ではなく秩序として体現した、北朝安定化の象徴的な天皇であった。
【政治の部屋|後光巌天皇】南北朝時代編.8New!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により
運営させていただいております
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます

いらすとすてーしょん検索コーナー

いらすとすてーしょん検索コーナー

いらすとすてーしょん検索コーナー

ようこそいらすとすてーしょんへ

  • 独自のタッチで描いたイラストポートレート

    お楽しみください
  • イラストポートレートはプライバシーポリシー内にある著作権の範囲内でしたらフリー

    ご活用いただけます(プライバシーポリシー
  • モバイルの場合はスクショを、PCの場合は

    右クリックなどでイラストポートレートを

    保存いただけます
  • Syusuke Galleryは「いらすとすてーしょん」にアップしている全イラストポートレートが

    ご覧いただけます
  • 新着偉人(It's New)は「いらすとすてーしょん」の独自にピックアップした偉人たちを日替わりで紹介しております
  • 都道府県・国、そして出生年別などは、サイトマップ検索ボックスをご活用ください

※検索「カテゴリー」「タグ」「キーワード」欄に


複数入力された場合は、すべて一致の場合のみヒットします

新着偉人(It's New)

新たに公開のイラストポートレートをご覧ください

26京都府
1275-1327を生きた公卿。鎌倉時代末期、祖父・兼平と父・基忠が築き上げた「鷹司家」の地位を継承し、五摂家の一角として王権中枢を支え続けた。摂関が政治的主導権を失いつつある時代において、その役割を「国家運営のシステム」の維持に集約させ、揺るぎない実務能力を発揮。後醍醐天皇の即位、そして鎌倉幕府の終焉へと向かう緊迫した情勢にあっても、急進的な改革や権力闘争に身を投じることはなかった。その姿勢は、王権を「理念」ではなく「運営される仕組み」として存続させる、鎌倉期公家社会の最終的な到達点を示した。南北朝分裂を直接生み出したものではないが、王権が分裂へ向かう直前まで制度的連続性を保ち続けた点において、次代への重要な橋渡しであった。
【政治の部屋|鷹司冬平】鎌倉時代編.32New!!
26京都府
1247–1313を生きた公卿。鎌倉時代後期、父・鷹司兼平が築き上げた鷹司家の地位を、摂家の一角として盤石にした継承者。摂関がかつてのような絶対的権力を失いつつあるなかで、基忠はその役割を「国家運営の精緻な実務」へと昇華させた。元寇という未曾有の国難を背景に、天皇個人の資質や時勢の混乱に左右されることなく、朝廷儀礼や官僚組織を滞りなく機能させ続ける体制を死守。基忠の功績は、破壊的な改革ではなく、完成された「型」を崩さず磨き上げ、次代へ引き渡した点にある。王権が分裂する前夜、この「運営の型」を徹底して守り抜いた基忠の仕事こそが、後に南北朝が真っ二つに裂けてもなお、双方が「政府」として存続し得た骨太な構造的背景となった。
【政治の部屋|鷹司基忠】鎌倉時代編.31
シューちゃん

シュー(Syu)です
2026年も、よろしくね

館長

「いらすとすてーしょん」は5年目を迎えました。今年も、皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

お探しのジャンルはございますか?

Japan OR Global

検索はこちらから

Syusuke Gallery
イラストポートレートをお楽しみください

いらすとすてーしょんイラストポートレートSyusukeGalleryTOPPAGE-LOGO
この人知ってる?新たな出会いがあるかも!?Syusuke Gallery