楠木正成





Kusunoki Masashige (1294?-1336)

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こちらのページでは南北朝時代に活躍した政治家

楠木正成をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

楠木正成
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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楠木正成って

館長

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シューちゃん

シリーズ「南北朝の戦い ― その帰結―」第2回目は、楠木正成が登場!

館長

今シリーズは、無垢な理念の時代が終わったあとに始まった、
「秩序の時代」を描く6名の物語です

こんな背景

シリーズ:南北朝の戦い ― その帰結 ―

第2回: 楠木正成〜理想を戦場で体現した知略の英雄〜

今回のシリーズ:「南北朝の戦い ― その帰結 ―」は…
戦いのあとに、何が残ったのか

王権は分裂し、
制度は割れたまま動き続け、
日本社会は武力と忠誠によって再編されていきました。

南北朝の戦いは、
どちらが「正しかったか」を決める戦争ではありませんでした。

それぞれが「正統」を掲げ、
それぞれが引くに引けぬ信念を抱いた結果、
戦いが日常として定着してしまった時代だったのです。

しかし、戦いが続いたあとに、
歴史は必ず「何か」を残します。

それは、誰かが夢見た理想でも、
血筋が証明する正統でもありません。

争い続けた果てに、
誰もが否定できなくなった

「現実としての秩序」

でした。

前回のシリーズ
「南北朝の戦い ― 戦場・地方・王権中枢の三つの視点 ― 」 では、
なぜ分裂が生まれ、
なぜ終わることができなかったのかという、
「構造」を描いてきました。

今回のシリーズ
「南北朝の戦い・その帰結 」が問うのは、
そのさらに先にある景色です。

戦いの最中に、
日本社会には何が残り、
どのような政治が立ち上がっていったのか。

ここに登場するのは、
理念のために戦った人々だけではありません。

正統に殉じ、敗れ去った者。
理想を体現しきって散った者。
戦争を終わらせることはできずとも、
それを「管理」し、「継承」し、
やがて「統治」へと変えていった者

たちです。

彼らの選択は、
南北朝という戦争をすぐには終わらせませんでした。

しかし、
戦争のあとの過酷な世界を生き抜くための、
「新しい仕組み」を、
確かに形づくっていきました。

このシリーズで描くのは、
華やかな英雄譚でも、
敗者の涙が誘う美談でもありません。

「戦争が生み出してしまった現実」

そして、その現実と折り合いをつけながら、
泥沼の中を這うようにして、
秩序を模索した人々の記録です。

「南北朝の戦い ― その帰結 ―」
第1回 新田義貞

正統という理念に殉じた武者

1
第2回 楠木正成

理想を戦場で体現した知略の英雄

2
第3回 足利尊氏

混乱の中で現実の枠組みを選んだ創始者

3
第4回 高 師直

戦争をシステムとして管理した合理主義者

4
第5回 足利義詮

分裂を日常の政治として定着させた二代目

5
第6回 細川頼之

動乱を統治と管理の政治へと昇華させた完結者

6

ここから描く、
無垢な理念の時代が終わったあとに始まった、
冷徹で、しかし強靭な、
「秩序の時代」の物語をお楽しみください。

理想から出発した武将

楠木正成は、
河内国(現在の大阪府付近と考えられています)に生まれた武将です。

在地の新興勢力、
いわゆる「悪党」と呼ばれる層の中で成長し、
若き日は交通の要所を拠点に、
物流や商業ネットワークと深く関わりながら、
成長していったと考えられています。

正成の特徴は、
単なる武勇ではありませんでした。

広い情報網、
合理的な思考、
そして状況に応じて戦い方を組み立てる柔軟な軍略。

それらは、
在地社会で生き抜くために培われた、
現実的な知恵が凝縮されていました。

しかし正成は、
現実だけに身を委ねる武将ではありません。

理念を信じ、
それを戦場で実現しようと考えるようになります。

戦場で理想を証明する試み

1331年、
後醍醐天皇 の討幕の呼びかけに、
正成は呼応します。

千早城・赤坂城での籠城戦に代表される一連の戦いは、
正成の名を一躍全国に知らしめました。

大軍を相手に、
地形と心理を読み、
補給線を断って敵を翻弄する。

正成の戦いは、
数の多寡ではなく、
知略によって勝機を作り出すものでした。

それに加えて、
この戦いの本質は、
戦術の巧みさを遥かに超える理念にありました。

正成が戦場で示そうとしたのは、

天皇の掲げる理想が、武力に屈しないという証明

でした。

正成にとって戦いとは、
勝敗以前に、
理想の正しさを現実に刻みつける術だったのです。

建武の新政と、揺るがなかった信念

鎌倉幕府が滅び、
建武の新政が始まると、
楠木正成は後醍醐天皇の側近として重用されます。

天皇親政という理想を、
誰よりも深く理解し、
支えようとした存在でした。

しかし、建武の新政は、
次第に武士社会の現実と乖離していきます。

制度は整わず、
不満は各地に広がり、
秩序は不安定さを増していきました。

その中でも、
正成は決して妥協しません。

現実に歩み寄ることよりも、
理想を守り抜くことを選び続けたのです。

「敗北を承知」と臨んだ戦場

1336年、
足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、
再び武力による対決が始まります。

この時点で正成は、
戦況が不利であることを十分に理解していました。

それでも正成は、
湊川の戦いに臨みます。

敗北を承知のうえで、
なお戦場に立つことを選びました。

それは無謀な突撃ではありません。

理想を掲げた以上、
最後まで戦場でそれを示しきる

それが、正成自身の選択だったのです。

1336年、
楠木正成は湊川の戦いで戦死します。

その死は、
敗北の結果というよりも、
理想を最後まで引き受けきった末の、
必然的な帰結でした。

理念の時代が残した「帰結」

新田義貞が「正統」に殉じた武将であったとすれば、
楠木正成は、「理想」そのものを戦場で体現しきった武将でした。

しかし、その理想は、
新たな秩序を生み出すところまでは届きませんでした。

正成の死は、
南北朝の戦いが、
理念だけで語られる時代から、

現実と管理によって、
秩序が作られていく時代へと、
移行していくこと

を告げる出来事でした。

楠木正成は、
英雄であると同時に、
「理念の時代」の終焉を告げた象徴だったのです。

明日は、足利尊氏

理想は、ここで尽きました。
次に描くのは、
理想ではなく、
現実を重んじた人物です。

混乱の中で、
勝敗と統治を秤にかけ、
新たな枠組みを選び取った武将。

明日は、
「混乱の中で現実の枠組みを選んだ創始者」足利尊氏の物語です。

1305-1358を生きた室町幕府第初代将軍。源氏の名門・足利氏の棟梁として、当初は鎌倉幕府の有力御家人であり、後醍醐天皇の討幕に転じて幕府滅亡に貢献した。しかし、建武の新政が始まると、その理想が武士社会の現実と乖離していることを見抜き、天皇親政の路線から距離を取る。やがて北朝を擁立し、室町幕府という新たな武家政権を樹立する道を選んだ。正統に殉じた新田義貞や、理想を体現した楠木正成とは異なり、尊氏を突き動かしたのは「混乱の中で武士が生き残るための秩序」の追求であった。その選択は、南北朝分裂という戦争が続く前提のもとで、政治秩序を成立させる方向へと歴史を押し出す結果となる。足利尊氏は英雄でも裏切り者でもなく、南北朝の戦いが「帰結としての政治秩序」を生み出した転換点を体現する存在であった。いらすとすてーしょんでは出生地を栃木県とさせていただきます。
【政治の部屋|足利尊氏】南北朝時代編.12

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15新潟県
1670-1703を生きた武士。越後国新発田藩士・中山弥次右衛門の長男として生まれるが、幼くして両親を失い、父の浪人・死去を経て親族に引き取られながら育った。江戸へ出て堀内道場に入門すると剣才を発揮して免許皆伝となり、高田馬場の助太刀で武名を上げる。この活躍を見込んだ赤穂浅野家の堀部金丸から婿養子に望まれ、赤穂藩士に列した。1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となると、暴徒から赤穂藩邸を守り抜いた後、江戸急進派の中心人物として一貫して吉良討伐を主張し続ける。慎重な大石良雄としばしば対立しながらも、ついに主君の仇討ちの決行に至り、1702年12月の吉良邸討ち入りでは裏門から突入して奮戦した。討ち入り後は幕命により切腹し、主君と同じ泉岳寺に葬られている。忠義を貫くためには時に組織の慎重論に抗うことも辞さず、その信念を最後まで貫いたその生涯は、まさに「忠義と反逆の間に生きる」武士であった。
【政治の部屋|堀部武庸(安兵衛)】忠義と反逆の間に生きるNew!!
28兵庫県
1659-1703を生きた武士。播磨赤穂藩浅野家の筆頭家老の家に生まれ、若くして家督を継いだ。平時は「昼行燈」とも評されたが、1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となる非常事態に直面すると、その真価を発揮する。籠城か恭順かで揺れる藩論をまとめて赤穂城を無血開城し、藩札の換金や家臣への分配にも心を配って藩の混乱を最小限に抑えた。その後は浅野家再興を幕府へ働きかけながら、江戸急進派の逸る心を抑えつつ機をうかがい続ける。しかし再興の望みが絶たれると、ついに吉良討伐を決意した。1702年12月、四十七人の同志を率いて本所の吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らすと、幕命に従い泉岳寺で自刃した。忍耐と統率力によって家臣団をまとめ上げ、主君の死によって生じた裂け目に忠義という形で応えたその生涯は、まさに「忠義で裂け目に応える」武士であった。
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13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!
13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
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