後深草天皇





Emperor Go-Fukakusa (1243-1304)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

後深草天皇をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

後深草天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として後深草天皇イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

後深草天皇って

館長

後深草天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

父・後嵯峨院が次代の皇位を後深草天皇の子ではなく、弟の亀山天皇の系統へ継がせようとしたことで、兄弟の意地の張り合いに火をつけたのだね

館長

兄の持明院統と弟の大覚寺統。この皇統分裂こそが、のちの日本を二分する「北朝・南朝」の長い争いへと繋がる、運命の分水嶺となりました

こんな背景

シリーズ:承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場

第8回: 後深草天皇〜持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子〜

今回のシリーズ:「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」は…

壇ノ浦の海で平家が滅び、壇上に立つべき幼い安徳天皇 が沈んだとき、日本の王権は深い傷を負いました。
その傷を抱えたまま、平安的な王権を守り抜こうとしたのが、

平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

後鳥羽院 でした。

文化に秀で、武芸にも通じ、「天皇の理想」を胸に抱いた希代の王は、平家滅亡後の新しい世界で、初めて真正面から「武士の国」と向き合うことを迫られました。

一方その頃、鎌倉では源 頼朝 亡きあと、カリスマを失った幕府が内部抗争に揺れ、そのすき間をぬうように北条氏が着実に台頭。「武士が国を治める秩序」をさらに築き上げ、守り固めようとしていました。


対する京では…
後鳥羽院がそのわずかな揺らぎを見逃しません。

「今こそ、武士に奪われた権威を取り戻す時である。」

院は自ら軍事力を整え、文化の力で御家人たちをも魅了し、しかし確かな意志で「帝の逆襲」の準備を進めていきます。

朝廷と武士。
王権と武家政権。
互いの正義が譲れぬ一線を越えたとき、両者は避けられない衝突へ向かっていきました。

そしてその過程で、後鳥羽院の息子たち、そして孫たちがそれぞれの「胸に帝のプライド」を宿し、自らの運命を賭けて歴史の舞台に立つことになります。

1221年。
日本史の転換点 「承久の乱」 がついに幕を上げる。

このシリーズでは、後鳥羽院の影を受け継いだ11人の天皇・院 の物語を追っていきます。
華やかな権力争いではない。
勝者の論理でもない。

これは、武士の国を前にして、帝たちが「何を守ろうとしたのか」。
その心の軌跡を描く、大いなる劇場の物語です。

「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」11人のストーリー

第1回 土後門天皇
争いを拒み、自ら流刑を望んだ「静」の帝

第2回 順徳天皇
父の理想を継ぎ、佐渡に燃え尽きた「熱」の帝

第3回 仲恭天皇
在位わずか78日、運命に翻弄された幼君

第4回 守貞親王(後高倉院)
乱の果てに、図らずも「治天の君」となった父

第5回 後堀河天皇
鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴

第6回 四条天皇
12歳で幕を閉じた、あまりに儚き治世

第7回 後嵯峨天皇
皇統分裂の種を蒔いた、苦渋の調停者

第8回 後深草天皇
持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子

第9回 亀山天皇
大覚寺統(南朝)の祖、理想を追った次子

第10回 後宇多天皇
二つの皇統を束ね、父の理想に生きた院政の主

第11回 伏見天皇
持明院統の誇りを守り、文化に光を求めた帝

父は、後嵯峨天皇

1243年。
後深草天皇(久仁親王)は、後嵯峨天皇 の第一皇子として誕生しました。

皇統の本流が断たれ、後嵯峨天皇が「調停者」として即位した直後の時代。
皇位の安定がいまだ揺らぎ続ける中で生まれた、正統の長子でした。

その誕生は、皇統が再び整い、未来へと連なっていく希望の象徴として迎えられたはずでした。
しかし、その人生は、幼くしてその希望から遠ざかっていくことになります。

わずか2歳で即位

1246年。
わずか満2歳の久仁親王は、父・後嵯峨天皇の譲位によって即位します。
これが後深草天皇でした。

もちろん幼帝に政治ができるはずもなく、実権はすべて後嵯峨上皇が握り続けます。
形式だけの天皇。
政治の風は鎌倉幕府の意向で吹き、朝廷は儀礼と形式を守るだけの場へと傾いていきました。

後深草天皇ご自身は、「自分はなぜここにいるのか」理解できないほど幼いまま玉座に座り続ける日々だったと伝わります。

若くして退位

しかし、後深草の運命を大きく決定づけたのは、即位ではなく「退位」のほうでした。
1259年。
後深草はまだ17歳。
帝としてはこれから本格的に政治を担うはずの年齢です。

そのとき父・後嵯峨院は、皇位の未来について次のような判断を下します。

本来、後深草の子に継がせるべき皇位を、
後深草の弟・恒仁親王(のちの亀山天皇 )に継がせる。

後深草天皇は、父の強い意向によって「譲位せざるを得ない」状況に押し込まれ、わずか17歳で玉座を去ることになりました。

その胸に生まれたもの、それは表には決して出さない、静かで深い不満と影でした。

皇統の外へ押し出される不安

単に帝位を失うこと以上に、後深草には大きな失望感が迫ります。
自身の子孫ではなく、弟・恒仁親王の血筋へ皇位が継承される。
この決定は後深草にとって痛烈でした。

「なぜ、正統の長子である自分が排除されるのか」

この不安と屈辱こそが、やがて 持明院統(後深草系)の結束を生み、自身を「北朝の祖」として歩ませる原点となったのです。

表には出さない怨念

後深草天皇は、亀山天皇を恨んだわけではありません。
しかし「長子としての正統性」が否定された事実は、深く深く心に刻まれます。

さらに、弟の子・後宇多天皇 が即位するに至り、後深草院の想いは一つの強い「意地」へと変わります。

このとき後深草院が胸に抱いた想いとは、

「次こそは、我が子・熈仁(伏見天皇 )へ」

この静かな願望が、持明院統 vs 大覚寺統という、日本を二分する皇統争いの形を成していきました。

持明院統の祖

後深草天皇の子・伏見天皇が即位し、その孫へと皇位が受け継がれる頃、後深草の家系は独自の皇統を形成しました。これが「持明院統」です。

南北朝時代には「北朝」と呼ばれる道へ進むこの系統。声を荒らげず、ただ静かに皇統の「正統性」を手放さなかった長子の影の深さが、のちに日本を二つへと割る巨大な火種となっていったのです。

明日は、亀山天皇

後深草天皇の弟であり、父・後嵯峨院に選ばれた帝、それが亀山天皇です。

兄の怨念と対照的に、「選ばれた者」として生き、やがて南朝の源流を生むことになります。

次回の承久の乱 〜天皇たちの運命劇場〜は、南北朝分裂のもう一つの起点「大覚寺統(南朝)の祖、理想を追った次子」亀山天皇の物語をお届けします。

1249-1305を生きた政治家(第90代天皇)。後嵯峨天皇の皇子として生まれ、1259年、父の強い意向により兄・後深草天皇から譲位され、わずか11歳で即位した。これが兄の系統(持明院統)と自らの系統(大覚寺統)が皇位を争う「南北朝分裂」へと続く遠い火種となる。治世では二度の蒙古襲来という国難に遭い、自ら伊勢神宮などで敵国降伏を祈願するなど、祈りによる救国を志した天皇として知られる。譲位後の院政では徳政を進めるなど政治改革にも取り組み、一定の成果を上げた。晩年は禅宗に深く帰依して南禅寺を創建するなど文化・宗教の保護にも尽力。救国の祈祷者であると同時に、皇統分裂の起点にも立つ。まさに歴史の転換点を体現した天皇である。
【政治の部屋|亀山天皇】鎌倉時代編.20

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!
13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
【政治の部屋|浅野長矩】一瞬で泰平に裂け目を刻むNew!!
22静岡県
1605?-1651を生きた軍学者。出自には諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたと伝えられる。江戸へ出て軍学者・楠木不伝に師事し、その跡を継いで「張孔堂」と称する軍学塾を開くと、旗本や諸藩士など数千人ともいわれる門弟を集める人気を博した。1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い家綱が四代将軍に就くと、正雪は浪人たちを率いて駿府城や久能山を奪取し、江戸でも放火や要人襲撃を行う反乱計画を企てる。しかし挙兵直前に計画が露見し、駿府へ逃れた正雪は捕り方に囲まれる中、自ら命を絶った。この由井正雪の乱(慶安事件)は、相次ぐ大名改易によって増加した浪人たちの不満を背景としていたとされる。事件そのものは未遂に終わったものの、幕府に浪人問題の深刻さを認識させる契機となり、後の末期養子の禁の緩和などにも影響を与えたと考えられている。泰平の世の裏に潜んでいた不満と矛盾を白日のもとにさらしたその生涯は、まさに「泰平の影に反旗を翻す」軍学者であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を静岡県、出生年を1605年とさせていただきます。
【政治の部屋|由井正雪】泰平の影に反旗を翻すNew!!
13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ