山口県出身 From Yamaguchi

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山口県出身イラストポートレートSyusuke Galleryより

山口県出身・新着偉人(It's New)

1897-1996を生きた小説家。代用教員を経て、数々の土地で暮らし、1921(大正10)年に短編『脂粉の顔』で懸賞一等当選し文壇デビュー。その後、再上京し作家生活に入った。自らの恋愛遍歴や激しい感情を著した「色ざんげ(1933~35)」、能や歌舞伎の題材を題材にした「おはん(1957)」、自伝的作品「或る一人の女の話(1972)」などの作品で注目を集めた。恋多き人生と旺盛な創作意欲で100歳を目前に亡くなるまで「生涯現役」を貫いた文学家であった。
【文学の部屋|宇野千代】昭和時代編.150New!!
1903-1930を生きた童謡詩人。高等女学校卒業後、兄弟で文芸サロンを始め、1923(大正12)年、「みすゞ」名で「童話」「婦人倶楽部」などの雑誌に投稿し掲載され、西條八十に認められる。「お魚」など、自然や小さな命に寄り添う作品は、優しさとわかりやすさが特徴の詩風で人気を博したが、夫の束縛や病苦により断筆を余儀なくされ、娘の親権をめぐる絶望の末、1930(昭和5)年、26歳で自死。没後半世紀を経て約500編の遺稿が整理され、1984(昭和59)年に「金子みすゞ全集」として刊行を機に改めて評価され、今では教科書や合唱曲にも取り上げられるなど、日本を代表する童謡詩人として広く親しまれている。本名は金子テル。
【文学の部屋|金子みすゞ】大正時代編.53
1909-2014を生きた童謡詩人。幼少期に家族と離れて祖父と暮らし、後に家族の元へ台湾へ渡る。台北工業学校土木科卒業後、台湾総督府交通局に勤務する傍ら、1934(昭和9)年、雑誌「コドモノクニ」に投稿した童謡が北原白秋に認められ、以後童謡詩人として本格的に活動。戦後、日本に帰国し「チャイルドブック」創刊に携わり、編集者としても活躍。1959年に退社後は詩・童謡・絵画に専念し、1968年に詩集「てんぷらぴりぴり」で野間児童文芸賞を受賞。1994(平成6)年には日本人初の国際アンデルセン賞作家賞を受賞。代表作に「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「ふしぎなポケット」「一ねんせいになったら」など、子どもの視点に立った優しく哲学的な詩風で、現在も幅広く親しまれている。本名は石田道雄。
【文学の部屋|まど みちお】昭和時代編.110
1876-1967を生きた言語学者。関口家に生まれるも父を亡くし、新村家の養子となる。東京帝国大学文科大学博言学科卒業後、日本の言語学の先駆者であった上田萬年に師事し、日本の言語学、国語学の道を歩む。その後、研鑽を積み、京都帝国大学教授として長年教鞭を執る。欧州留学を経てキリシタン資料の語学的価値を明らかにするなど、南蛮文化研究の先駆者としても活躍。語源学にも深く取り組み、日常語から古語まで幅広く考証。1955(昭和30)年には国民的辞書「広辞苑」の初版を編纂し、辞書文化の礎を築いた。1956(昭和31)年に文化勲章受章。日本の国語学の基礎を築いた巨星であった。
【文学の部屋|新村 出】昭和時代編.83
1882-1940を生きた俳人。幼少期に母を自死で失い、祖母に育てられる。早稲田大学文学科に進学するも神経衰弱で中退。帰京後、父と共に酒造業を営むも破産し、一家離散。離婚、出家を経る。荻原井泉水に師事し、1913年から自由律俳句の革新者として「層雲」に投句。五・七・五にとらわれない句風で、「分け入っても分け入っても青い山」など、自然と孤独を詠んだ句が、読者の心を掴み評価された。旅と酒と句に生き、各地の草庵を転々としながら自選句集「草木塔(1940)」などを残した。晩年は松山の「一草庵」に定住し、1940(昭和15)年に59歳でその生涯を閉じる。本名は種田正一。
【文学の部屋|種田山頭火】大正時代編.43
1907-1937を生きた詩人。幼少期から文学に親しみ、ランボーやベルレーヌのフランス象徴派の影響を受けて詩作を始める。1925年に上京し、小林秀雄らと交流。1934(昭和9)年に第一詩集「山羊の歌」で、人生の哀愁や孤独描いた作品で刊行し、詩壇にその名を刻んだ。第二詩集「在りし日の歌(1938年)」の編纂直後の1937年に結核性脳膜炎で早世。
【文学の部屋|中原中也】昭和時代編.54
1818-1882を生きた経営者であり実業家。萩藩の命により熊谷家の養子となり、奇兵隊に軍用金を工面、製銃所建設、禁門の変の出兵、武器購入などのために多額の資金を提供し藩財政に貢献した。
【経営者の部屋|熊谷五一】江戸時代編.22
1880-1967を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、芝浦製作所(現、東芝)を経て、久原鉱業を引き継ぎ、日本産業(日産)に改組する。日産自動車や日立製作所などを傘下におさめる持株会社体制を導入し、多くの企業を統括する日産コンツェルンを形成した。
【経営者の部屋|鮎川義介】大正時代編.7
1851-1925を生きた経営者であり実業家。神戸でマッチ製造会社「清燧(せいすい)社」を設立し、事業の成功に導いたことから「マッチ王」と称された。教育にも尽力し滝川中学校・高等学校の創立者としても知られている。
【経営者の部屋|瀧川辨三】明治時代編.29
1841-1912を生きた経営者であり実業家。 明治初期に現在のリーガルコーポレーションの前身となる軍靴製造会社を設立。大阪商工会議所の前身であった大阪商法会議所を五代友厚、広瀬宰平などと共に設立。田中市兵衛・松本重太郎らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|藤田伝三郎】明治時代編.5
1771-1849を生きた医学者。関西遊学時に小石元俊に蘭学を学び、その後元俊の薦めで芝蘭堂へ留学し、大槻玄沢、宇田川玄真に蘭学を学んだ。その後大阪に戻りクリニックを開業する。1822年に西日本で流行したコレラ(狐狼狸)の治療を積極的に行ったとされている。
【医学の部屋|斎藤方策】ビフォーアフターP.F.シーボルト編③
1876-1963を生きた日本画家。小学校を首席卒業し軍人を志望するも病弱にて断念し、少年園という雑誌を読み画家を目指す。その後学費援助を受け上京し野口幽谷門下となる。1894(明治27)年、初めて美術協会に出品し賞を得る。その後1896(明治29)年に日本南画会の創立メンバーの一人となる。1907(明治40)年出品した秋塘真趣は宮中お買い上げとなった。戦後1958(昭和28)年に文化勲章、1960(昭和30)年には現在の日本南画院の創設メンバーの一人となった。
【画家の部屋|松林桂月】南画、東の巨匠
1828-1888を生きた絵師であり日本画家。江戸幕府奥絵師木挽町家に学びその腕は門下一となる。明治維新後、不遇な時代を過ごしたが内国絵画共進会でお雇い外国人として来日していたフェノロサにその才能を見出され、新日本画運動の中心人物となる。岡倉天心、フェノロサが創立に尽力した東京美術大学の初代日本画教授に内定するも持病の悪化で他界。その後は木挽町家の同門橋本雅邦が芳崖を引き継ぎ日本画の発展に情熱を注いだ。
【画家の部屋|狩野芳崖】近代日本画の祖
1879-1946を生きた経済学者は当初法学を志し京都大学法学部を経て同大学経済学部教授に就任。経済学態大綱、第二貧乏物語、資本論入門を書き上げ経済学分野に名を残す。その後日本共産党入りし検挙。入獄生活を送る。出所後は主として文学に勤しむ。
【経済学者の部屋|河上 肇】貧困問題に真っ向勝負
1901-1975を生きた第61・62・63代内閣総理大臣
【内閣総理大臣の部屋|佐藤榮作】第61・62・63代(通算在職日数2798日)
1876-1967を生きた言語学者は、留学先の大英図書館で1593年熊本天草で翻訳(ポルトガル式ローマ字で記載)されたキリシタン版伊曽保物語を発見し手写の日々を送り日本に持ち帰り現在もなお、国語学研究における重要な資料の一つとなっている。
【言語学の部屋|新村 出】偉大にしてチャーミングと推薦いただきました
1907-1981を生きた民俗学者は、生涯にわたって日本各地の村々を旅し学問を切り開く。出身の周防大島をはじめ離島研究に力を注ぎ、観光・農業・経済の分野で手腕を発揮した。
【民族学の部屋|宮本常一】日本を隅々まで歩いた学者
1905-1996を生きた学校教師は夢だった歌手に転身、戦前マロニエの木陰が大ヒット、その後第1回NHK紅白歌合戦出場から合計10回の実力派。山口県柳井市には松島詩子記念館。
【音楽の部屋|松島詩子】教師から転職「マロニエの木陰」大ヒット
1915-2010を生きた陶芸家は深川萩四家の一つに数えられ、萩焼の伝統を守っている。萩焼の始祖である李勺光(りしゃくこう)の流れをくむ家柄でもある。
【陶芸家の部屋|坂田泥華(一平)13代】萩焼坂田泥華窯16代襲名が待ち焦がれる
1907-1937を生きた詩人は両親からの過度な期待と身近な人々の運命の経験から描いた表現は、いまも身近に感じられる中原文学
【文壇発見】「中原中也」朝ドラ「ちむどんどん」で再注目されました 文学の部屋
1833-1877年を生きた明治新政府樹立の功績から、大久保利通・西郷隆盛と共に維新の三傑と称されています。
【探求ネタ】「木戸孝允」日本史から見た偉人たち
1427-1508を生きた臨済宗僧であり、朱子学普及に努めたことから薩南学派の祖として名を残している。
【探究ネタ】「桂庵玄樹」日本の宗教に携われた人々
1771-1849を生きた蘭方医で1822年コレラ流行時には臨床方針を考案。山口県生まれで長州藩医をつとめた。
【医学の部屋|斎藤方策 Housaku Saito】漢蘭折衷医学のスペシャリスト
1918-1990を生きた山口県出身の昭和を代表する写真家は戦後三羽烏と呼ばれた作家太宰治・坂口安吾・織田作之助の写真を残し名を刻んだ。
【ファインダーの巨匠|林 忠彦】文壇を輝かせた男 写真家の部屋

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13東京都
1899-1951を生きた小説家。東京女子師範附属高女から日本女子大学英文科に進みんだ1916(大正5)年、17歳で「貧しき人々の群」を坪内逍遥の推薦で中央公論に発表し天才少女と注目される。これを契機に大学を中退し作家生活に入り、代表作の一つ、米国留学後、結婚・離婚の体験を「伸子(1928)」を綴った。1927年からソ連に渡り、共産主義思想に傾倒し帰国後、日本プロレタリア文学運動に参加し、共産党員の宮本顕治と結婚後、弾圧下で検挙・執筆禁止を繰り返しながら創作を続ける。戦後は「歌声よ、おこれ(1946)」などで民主主義文学運動の先頭に立った。女性の自立と社会変革を描き続け、その生涯は日本の近代文学史にその名を刻む文学家であった。本名は宮本ユリ。
【文学の部屋|宮本百合子】昭和時代編.151New!!
35山口県
1897-1996を生きた小説家。代用教員を経て、数々の土地で暮らし、1921(大正10)年に短編『脂粉の顔』で懸賞一等当選し文壇デビュー。その後、再上京し作家生活に入った。自らの恋愛遍歴や激しい感情を著した「色ざんげ(1933~35)」、能や歌舞伎の題材を題材にした「おはん(1957)」、自伝的作品「或る一人の女の話(1972)」などの作品で注目を集めた。恋多き人生と旺盛な創作意欲で100歳を目前に亡くなるまで「生涯現役」を貫いた文学家であった。
【文学の部屋|宇野千代】昭和時代編.150
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