酒井田柿右衛門(渋雄)13代 Kakiemon Sakaida XⅢ

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酒井田柿右衛門(渋雄)13代】濁手復興



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酒井田柿右衛門(渋雄)13代


イラストポートレート(Syusuke Galleryより

柿右衛門の白い「濁手」

無形文化財登録

1955年(昭和30年)

柿右衛門の白い美「濁手」

柿右衛門の作品の大きな特徴の一つに、『濁手素地』と呼ばれる、柔らかく温かみのある乳白色の素地があげられます。柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する素地で、1670年代にその製法が完成したと言われています。

しかし江戸中期(1700年代)になると、「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流となったのに加え、内乱によって下火になっていた中国・景徳鎮磁器の輸出が再び本格化し、オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出が減少、江戸幕府による貿易制限等国内情勢の変化も相まって、濁手の製作は一時中断を余儀なくされました。

その後時代は明治、大正、昭和と移り、濁手の復興が待ち望まれる中、十二代柿右衛門(1878生~1963没)はその子十三代柿右衛門(1906生~1982没)とともに長い間途絶えていた濁手素地を復元させるため、柿右衛門家に伝わる『土合帳』等の古文書を基に試行錯誤を重ねます。

そして1953(昭和28)年、ようやくこれに成功し、その技法は1955(昭和30)年3月、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されました。

柿右衛門公式HPより抜粋
詳しくは柿右衛門公式HPへ

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1926-1997を生きたSF作家。東京大学農学部卒。大学院在学中に父の急逝により星製薬の社長に就任するも、経営難から退任。その後、1957(昭和32)年に短編「セキストラ」で作家デビュー。以後、「ボッコちゃん(1971)」など、奇抜な発想と意外な結末をもつショートショートを多数発表し、SF文学の第一人者として不動の地位を築いた。1968(昭和43)年には「妄想銀行(1967)」で日本推理作家協会賞を受賞。1983年10月には目標としていたショートショート1001編を達成し、以後は若手作家の育成やエッセイ執筆に注力。没後2013(平成25)年、日本経済新聞主催「星新一賞」が創設され、その精神はいまもなお受け継がれている。本名は星 親一。
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13東京都
1926-1995を生きた小説家。早稲田大学中退後、川端康成などが講師をつとめていた鎌倉アカデミアに入学、歌人吉野秀雄に師事し文芸活動を開始。出版社勤務を経て、1958(昭和33)年に開高健の推薦で壽屋(現、サントリー)に入社。PR誌「洋酒天国」の編集やコピーライターとして活躍し、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」のキャッチコピーや、成人・新社会人に向けた叱咤激励「直言シリーズ」で知られた。その後、婦人画報に連載した「江分利満氏の優雅な生活(1961~62)」で第48回直木賞を受賞し文壇に登場。以後、母の出自を探った「血族(1979)」、父の人生を辿った「家族(1983)」などを発表し、庶民の生活感や人間関係をユーモアと哀愁を交えて描いた。1963年から死去までの32年間、週刊新潮に連載された日記形式のコラム「男性自身」は、実に1614話に達し、軽妙かつ日常生活の哀歓を綴り、昭和のサラリーマン文学の金字塔となった。
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