「南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。
それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。
南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。
ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた
崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み
を指しています。
その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏、
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。
それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。
南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。
では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。
強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。
将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。
このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。
そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。
室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。
しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。
本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。
室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。
それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。
このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。
描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。
南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。
室町幕府とは、何だったのか。
その問いに、
ここから向き合っていきます。
足利義教が将軍として歴史の舞台に登場したとき、
室町幕府はすでに深刻な袋小路に入り込んでいました。
父であり室町幕府三代将軍・足利義満が築いた「万能の秩序」はすでに霧散し、
兄であり四代将軍・足利義持が守ろうとした「穏健な合議制」も、単なる停滞へと変質していました。
義教が引き受けたこの時代は、
前進する力を失い、
バラバラに解体され始めた「動かない幕府」という、
過酷な遺産でした。
義教の即位は、前代未聞の形で行われました。
義持の死後、将軍位は空白となり、
その後を継いだ義量も若くして世を去ります。
有力な後継者が不在の中、
将軍を選んだのは「籤引き」という神頼みの手段だったのです。
これは、将軍という地位がもはや
「当然の血統」では維持できず、
超越的な権威を借りなければ、
正統性を証明できない段階に入っていたことを暗示しています。
還俗※して仏門から引き戻された義教は、
最初から誰の支持基盤も持たず、
常に周囲からの不信と警戒の目にさらされた
「孤独な将軍」として出発せざるを得ませんでした。
※還俗(げんぞく):僧侶になった者が、僧侶であることを捨て俗人となること
義教が直面したのは、
義持の時代よりもさらに尖鋭化した、
利己主義の世界でした。
有力守護や寺社勢力は、
もはや話し合い(合議)では動かず、
自らの権益を守ることだけに四苦八苦していました。
その中で、義教の心には、
「もはや、合意では秩序を動かせない」
という絶望的な認識が、
のちに義教を極端な選択へと駆り立てます。
義教が選び取った手段は、
合意でも妥協でもありません。
「将軍に逆らう者は、一人残らず処断する」
という、剥き出しの強権政治でした。
有力守護への苛烈な介入や、
寺社勢力への強硬な姿勢に動きます。
義教は、将軍の命に従わぬ守護大名に対して、
容赦なく圧力を加えました。
たとえば、一色氏や赤松氏といった名門に対しても、
家督や領地に踏み込む形で介入を行います。
また、比叡山延暦寺という聖域に対しても、
軍事的な威圧を辞さず、
将軍の命令が絶対であることを突きつけました。
義教は、「逆らえば危険である」という恐怖を、
武家・公家・寺社のすべてに浸透させることで、
バラバラになりかけた社会を、
無理やり縫い止めようとしました。
これは単なる個人の残虐性ではなく、
機能不全に陥った幕府を再起動させるための、
義教なりの「最後の手段」だったのです。
短期的には、
この劇薬は劇的な効果を発揮しました。
将軍は再び「畏怖される存在」となり、
幕府の権威は一時的に回復します。
人々は義教を「万人恐怖」と呼び、
息を潜めて従いました。
しかし、恐怖で繋ぎ止めた秩序は、
忠誠ではなく、
社会の深部に「不信」と「憎悪」の念を堆積させていきます。
1441年、
播磨守護・赤松満祐による「嘉吉の乱」。
将軍が家臣の居館で、
祝宴の最中に討たれるという衝撃的な結末は、
恐怖政治の行き着く先が「秩序の安定」ではなく、
「自己破壊」であることを、
血塗られた形で証明してしまいました。
足利義教は、
壊れかけた室町幕府を立て直そうとして、
自らをあたかも「冷酷な独裁者」の役割を引き受けるかのように、
振る舞いました。
その政治は確かに一時的には、
幕府を動かしましたが、
同時に将軍と家臣の信頼関係を決定的に破壊しました。
恐怖によって無理やり補修された秩序は、
義教の死とともに完全に崩壊し、
室町幕府は後戻りできない混沌の渦にのまれていくことになります。
恐怖の政治が崩れたあと、
次代の将軍は、秩序と正面から向き合うことを
選びませんでした。
それは、
また別の意味で、
幕府の転換点となります。
明日は、
「秩序から目を背けた将軍」足利義政の物語です。