保井コノ Kono Yasui

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こちらのページでは【植物学者の部屋|


保井コノ】日本人女性初の科学論文&博士授与



をお楽しみください
※保井コノ 日本人女性初の科学論文&博士授与は植物学者の部屋よりお届けします

保井コノイラストポートレート(Syusuke Galleryより

日本人女性初の科学論文そして紫綬褒章

時は1905年女子高等師範学校

この

1905年女子高等師範学校に研究科が出来て…
※現在のお茶の水女子大学

この

その研究科(理科)に進学できたのです

この

まずは鯉の研究成果を纏めて…

初の日本人女性研究者論文受理

この

同1905年に動物学雑誌に論文が受理されたのです

この

「鯉のウェーベル氏器官について」でした
※ドイツの解剖学者が発見した聴覚器官

初の日本人女性医師荻野吟子登場

ぎんこ

女性初の論文はまさに女性科学者の先駆者ですわ

ぎんこ

わたしは日本人女性初の医師となった荻野吟子です

1851-1913を生きた埼玉県出身の日本初女性医師は18歳のとき、不慮の病に罹り婦人科治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意。しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走。こうして吟子女史は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となる。
【医学の部屋|荻野吟子】注目のDoodle登場は日本初の女性医師

初の日本人女性研究者論文海外受理

この

それから6年後の1911年4月のこと…

ぎんこ
この

はい!
「On the Life-history of Salvinia


natans」がアクセプトされたのです

ぎんこ

これは外国の科学雑誌に日本人女性初めて掲載された論文として今も語り


継がれているんですよ!

この

この山椒藻の研究が世界に認められたことでさらに道が開けたんです

Annals of Botany Vol. 25, No. 98 469-483 に1911年4月掲載された保井コノ著On the Life-history of Salvinia natans
Annals of Botany Vol. 25, No. 98 April, 1911
On the Life-history of Salvinia natans

保井コノ米国留学へ

ぎんこ

その後、米国へ留学されますよね!

この

世の中は世界第一次世界大戦の真っ只中の1914年でしたがボストンの


ハーバード大学で石炭の研究を開始


したんです

ぎんこ

わたしも女性というだけで医師になるのが大変だった時代ですから…

ぎんこ

女性が留学となると、さぞ大変だったとお察ししますわ

この

女性が仕事を持つことが大変な時代でしたからね

この

でも、与えていただいたチャンスを


思いっきり楽しみました

ぎんこ

ご帰国後ももちろん研究を続けられたのですよね!

初の女性博士誕生

この

いろいろな方々のサポートもあって


石炭研究を東京帝国大学で続けました

この

そして約10年の研究成果を纏めまして…

この

「日本産石炭の植物学的研究」と


題して東京帝国大学理学部に学位申請を行ったのです

ぎんこ

その成果が認められて1927(昭和2)年に日本初の女性博士誕生となったのですね!

この

47歳の時でした

この

それから戦火の中でも東大と師範学校で研究を重ねました

この

ようやく戦後を迎えました

お茶の水女子大学設立

この

女性教育を発展させたい思いから仲間たちと女子高等師範学校をお茶の水


女子大学として新たな出発が叶いました

ぎんこ

1949年のことですね!

この

それからはお茶の水女子大学で女性


教育に情熱を注ぎました

初の日本人女性紫綬褒章授与

ぎんこ

これらのご功績が認められて、こちらも


日本人女性初の紫綬褒章が1955年に贈られます

この

私は…名声や地位よりも"研究ができることで満足"していました

この

女性が研究できるなんて、夢見たいな時代でしたから…

この

いまは何でも挑戦できる時代です

この

ぜひ好きなことにチャレンジして


欲しいですね

ぎんこ

そういえば、石炭の研究を行っていた英国の女性科学者がいましたよね?

この

フランクリンさんですね

この

彼女はDNAの二重らせん構造を見つけた偉大な科学者ですが…

ロザリンド・フランクリン登場

この
ぎんこ

このフランクリンさんも困難な時代で活躍された代表的な女性科学者ですね

この

いろいろな方々を知ることで勇気と


希望が本当に広がりますね

植物学者・新着偉人(It's New)はこちらから

0044英国出身
1809-1882自然史に精通した博物学者。海軍測量船「ビーグル号」で南半球を航海しその寄港した土地の地質、動植物を調査し、のちの自然選択に基づく「種の起源」として進化論を著した。
【植物学者の部屋|チャールズ・ダーウィン】進化論といえば私
0033フランス共和国出身
1707-1788を生きた自然史をライフワークとした博物学者。1739年よりJardin des plantes(パリ植物園)のディレクターとなり、世界中の植物を収集、フランス植物学の礎を築いた。ビュフォンの編纂書Histoire Naturelleへ進化について言及し、進化論の先駆者として考えられている。
【植物学者の部屋|ビュフォン】Jardin des plantesの開拓者
0044英国出身
1817-1911を生きた医師であり探検家であり植物学者。極地探検家ロス隊の帯同医師として南極探検に参加。植物学者であった父の影響もあり南極地方の植物をまとめたFlora Antarcticaを発表。またC.ダーウィンの親友であり、妻はその師匠であるヘンスローの息女。
【植物学者の部屋|ジョセフ・ダルトン・フッカー】C.ダーウィンの親友
0044英国出身
1731-1802を生きた自然史に精通した医師であり植物分野ではリンネが提唱した分類植物学を「The Botanic Garden(植物の園)」をロマン主義文学として著し社会の注目を集めた。また進化論を著したチャールズ・ダーウィンの祖父としても名を残している。
【植物学者の部屋|エラスムス・ダーウィン】C.ダーウィンの偉大な祖父
0044英国出身
1796-1861を生きた自然史をライフワークとした博物学者。植物学の分野では英国における植物標本館の創設に尽力。またケンブリッジ大学教授として、C.R.ダーウィンの師として名を残している。
【植物学者の部屋|ジョン・スティーブンス・ヘンズロー】C.R.ダーウィンの師
0044英国出身
1627-1705を生きた自然史をライフワークとした博物学者。植物学の分野では種の分類学概念を提唱し種子(顕花)植物である単子葉植物、双子葉植物の分類、そして胞子(隠花)植物の同定を行う。そして約二万種の植物を掲載したHistoria plantarumを著しました。
【植物学者の部屋|ジョン・レイ】単・双子葉を分類しました
0041スイス連邦出身
1516-1565を生きた自然史をライフワークとした博物学者。中でも植物学大全(Opera botanica)は約1500点もの自ら描いた植物図を掲載。世界の植物学者に影響を与える。また世界文献目録を発表し書誌学の基礎を築いたことでも名を残している。
【植物学者の部屋|コンラート・ゲスナー】1500年代に1500点もの植物図
20長野県
1865-1939を生きた教育者であり、日本における高山植物研究の第一人者は高山植物を中心とした写真家でもあった。そして高山植物のロックガーデンを日本で初めて試みたとされている。
【植物学者の部屋|河野齢蔵】高山植物研究の第一人者は校長先生!?
39高知県
1862-1957を生きた「植物学の父」は生涯に収集した標本は約40万枚、蔵書は約4万5千冊を数え、新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名。日本植物分類学の基礎を築いた一人。「牧野日本植物図鑑」は現在も植物学のバイブルです。
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23愛知県
1803-1901を生きた愛知県出身の日本初の理学博士は幕末から明治期の本草学者・蘭学者・博物学者・医学者。日本初の理学博士。男爵。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作ったことでも知られる。
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26京都府
1901-1994を生きた俳人。第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学し、在学中に高浜虚子に師事。「ホトトギス」同人として活躍し、水原秋桜子、らと共に「ホトトギスの4S時代」と呼ばれる黄金期を築いた。1932(昭和7)年に句集「凍港」を刊行し、都会的・知的・即物的な句風で俳壇に新風を吹き込んだ。また映画技法であるモンタージュ理論を応用した連作俳句を提唱するなど、新興俳句運動を牽引する。戦後1948(昭和23)年には俳誌「天狼」を創刊し人間の本質を問い直す「根源俳句」を提唱、戦後の俳句復興に大きな足跡を残した。また校歌や社歌などの作詞も手がけた。本名は山口新比古(ちかひこ)。
【文学の部屋|山口誓子】昭和時代編.95New!!
13東京都
1901-1976を生きた随筆家。木綿貿易で巨万の富を築いた近江商人薩摩治兵衛の孫として育つ。1918(大正7)年に渡英し、オックスフォード大学で古典劇を学ぶ。その後パリに移住し、社交界の寵児として「バロン薩摩」の異名をとる。藤田嗣治らと親交を深め、莫大な私財を投じて芸術家の支援に尽力。1929(昭和4)年にはパリ国際大学都市に「日本館(薩摩館)」を建設し、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章。戦中もフランスに留まり、文化人の保護に努める。戦後は無一文で帰国し、東京浅草で随筆「巴里・女・戦争(1954)」「ぶどう酒物語(1958)」などを執筆し生計を立てた。その後、徳島に移住し晩年を過ごす。その生涯は、日仏文化交流に尽力し、激動の時代を駆け抜けた、波乱万丈そのものであった。
【文学の部屋|薩摩治郎八】昭和時代編.94
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