伊藤圭介 Keisuke Ito

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こちらのページでは【植物学者の部屋|伊藤圭介】


雄しべ・雌しべ・花粉という言葉を創った男



をお楽しみください

伊藤圭介イラストポートレート(Syusuke Galleryより

あの牧野富太郎もワシを訪ねて


きたことがあったんですよ

けいすけ

このページの主人公はワシ


なんじゃが…
富太郎氏に少し時間を


割いてやろかの!

時は1881年(明治14年)第2回内国勧業博覧会が


3月1日~6月30日の日程で東京上野公園で開催
入場者数は823,094人と記録が残っています

とみたろう

そうそう、こんなこと…19歳のとき


内国勧業博覧会(1881年)で


上京したときさ

とみたろう

その年に東京大学理学部の教授に


なられて小石川植物園の基礎を


つくられた伊藤圭介先生の私邸へいきなり


押しかけたんだ

けいすけ

あのときは何が何だかわからなかった


けど、植物を愛していることは


伝わってきたよ

けいすけ

おっと、なぜわしを訪ねたかって?


「雄しべ、雌しべ、花粉」を知ってたん


じゃろ

けいすけ

この「雄しべ、雌しべ、花粉」を


命名したのはわし「伊藤圭介」だったん


じゃかなら

けいすけ

だから富太郎はわしを訪ねに…

ここからは余談ですが…

とみたろう

ちなみに伊藤圭介せんせは、


シーボルト氏に学ばれたのですよね?

けいすけ

よく存じ上げていたのぅ

けいすけ

運良くシーボルト氏の一行に


出会えて、交流が生まれたんじゃ

とみたろう

そもそもなぜシーボルト氏に


近づいたのですか?

けいすけ

本草学でわからないところがあって…

とみたろう

そうでしたか!

とみたろう

せんせは勉強熱心ですね!

けいすけ

物心ついたころから医術と本草学


(博物学)を学んでおった

とみたろう

それで、シーボルト氏に質問の機会を


得たわけですね

けいすけ

熱心に教えてくれた

けいすけ

それで、シーボルト氏が学びの里を


開いていた長崎出島に遊学を


勧められたんじゃ

とみたろう

なるほど!

そこでシーボルト氏に本格的に蘭学を


学ばれたのですか

けいすけ

その頃は、林洞海なんぞもシーボルト


氏のもとで学んでおったぞ

40福岡県
1813-1895を生きた蘭方医であり奥医師はお玉ヶ池設立メンバーの一人
【医学の部屋|林 洞海 Dohkai Hayashi】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人
しーぼると

出島での学びから1828年植物分類法


として「泰西本草名蔬」を発表したん


だから、まさに日本の植物学の祖だな

けいすけ

これはこれはシーボルトさん

けいすけ

どれもシーボルトさんに教えて


いただいたお陰です

しーぼると

詳しいことは、ここに記載があるので


また時間を見つけて読んでみると


するか!

伊藤圭介先生ノ伝(国立国会図書館デジタルコレクション)

植物学者・新着偉人


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0044英国出身
1809-1882自然史に精通した博物学者。海軍測量船「ビーグル号」で南半球を航海しその寄港した土地の地質、動植物を調査し、のちの自然選択に基づく「種の起源」として進化論を著した。
【植物学者の部屋|チャールズ・ダーウィン】進化論といえば私
0033フランス共和国出身
1707-1788を生きた自然史をライフワークとした博物学者。1739年よりJardin des plantes(パリ植物園)のディレクターとなり、世界中の植物を収集、フランス植物学の礎を築いた。ビュフォンの編纂書Histoire Naturelleへ進化について言及し、進化論の先駆者として考えられている。
【植物学者の部屋|ビュフォン】Jardin des plantesの開拓者
0044英国出身
1817-1911を生きた医師であり探検家であり植物学者。極地探検家ロス隊の帯同医師として南極探検に参加。植物学者であった父の影響もあり南極地方の植物をまとめたFlora Antarcticaを発表。またC.ダーウィンの親友であり、妻はその師匠であるヘンスローの息女。
【植物学者の部屋|ジョセフ・ダルトン・フッカー】C.ダーウィンの親友
0044英国出身
1731-1802を生きた自然史に精通した医師であり植物分野ではリンネが提唱した分類植物学を「The Botanic Garden(植物の園)」をロマン主義文学として著し社会の注目を集めた。また進化論を著したチャールズ・ダーウィンの祖父としても名を残している。
【植物学者の部屋|エラスムス・ダーウィン】C.ダーウィンの偉大な祖父
0044英国出身
1796-1861を生きた自然史をライフワークとした博物学者。植物学の分野では英国における植物標本館の創設に尽力。またケンブリッジ大学教授として、C.R.ダーウィンの師として名を残している。
【植物学者の部屋|ジョン・スティーブンス・ヘンズロー】C.R.ダーウィンの師
0044英国出身
1627-1705を生きた自然史をライフワークとした博物学者。植物学の分野では種の分類学概念を提唱し種子(顕花)植物である単子葉植物、双子葉植物の分類、そして胞子(隠花)植物の同定を行う。そして約二万種の植物を掲載したHistoria plantarumを著しました。
【植物学者の部屋|ジョン・レイ】単・双子葉を分類しました
0041スイス連邦出身
1516-1565を生きた自然史をライフワークとした博物学者。中でも植物学大全(Opera botanica)は約1500点もの自ら描いた植物図を掲載。世界の植物学者に影響を与える。また世界文献目録を発表し書誌学の基礎を築いたことでも名を残している。
【植物学者の部屋|コンラート・ゲスナー】1500年代に1500点もの植物図
37香川県
1880-1971を生きた日本初の女性博士号(理学博士)を授与された植物学者。晩年にはこちらも日本初の女性紫綬褒章が贈られる。
【植物学者の部屋|保井コノ】日本人女性初の科学論文&博士授与
20長野県
1865-1939を生きた教育者であり、日本における高山植物研究の第一人者は高山植物を中心とした写真家でもあった。そして高山植物のロックガーデンを日本で初めて試みたとされている。
【植物学者の部屋|河野齢蔵】高山植物研究の第一人者は校長先生!?
39高知県
1862-1957を生きた「植物学の父」は生涯に収集した標本は約40万枚、蔵書は約4万5千冊を数え、新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名。日本植物分類学の基礎を築いた一人。「牧野日本植物図鑑」は現在も植物学のバイブルです。
【2023朝ドラは私|牧野富太郎】9月推し偉人 なんと生涯に収集した植物標本は40万枚!?

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37香川県
1888-1948を生きた小説家であり劇作家。京都帝国大学英文科在学中に、芥川龍之介らに勧誘され「新思潮」を創刊。1916(大正5)年に戯曲「屋上の狂人」などを発表する。卒業後、時事新報社の記者となり「無名作家の日記(1918)」などの短編小説を発表し新進作家の道を歩む。また、1917(大正6)年に発表した「父帰る」が1920(大正9)年に2世市川猿之助が演じ、劇作家としての一歩を歩んだ。1923(大正12)年には雑誌「文芸春秋」を創刊し出版業に進出し、 幅広く活躍。 1935(昭和10)年には、亡き友人・芥川龍之介と直木三十五の名を冠した「芥川賞」「直木賞」を創設し、戦後文学の制度的基盤を築いた。戦時中は映画会社「大映」の初代社長も務め、文化産業の発展にも寄与。戦後は公職追放の対象となり、復帰を果たせぬまま1948(昭和23)年に逝去。死後は「菊池寛賞」が創設され、文化功労者を顕彰する制度として現在も継続されている。本名は菊池寛(ひろし)。
【文学の部屋|菊池 寛】大正時代編.49New!!
22静岡県
1885-1945を生きた詩人、劇作家であり医学者。東京帝国大学医学科で皮膚科を専攻する傍ら、森鴎外の影響から医学と文学の両側面から活動を開始。与謝野鉄幹の「明星」に寄稿や、北原白秋らと「パンの会」を興し耽美派詩人として活躍。1909(明治42)年には「南蛮寺門前」、1911(明治44)年には「和泉屋染物店」を発表し、詩作にとどまらず戯曲でも注目を集めた。加えて、美術史やキリシタン史の研究でも深い造詣を示した。医学者としては、顔面の褐青色のあざである太田母斑の研究で業績を残し、東京帝国大学教授を歴任。文学と医学、芸術と科学を横断した知性の持ち主であった。本名は太田正雄。
【文学の部屋|木下杢太郎】大正時代編.48
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