足利義尚





Ashikaga Yoshihisa (1465-1489)

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
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足利義尚
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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足利義尚って

館長

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シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の第5回目は、
室町幕府第九代将軍の足利義尚が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第5回:足利義尚〜象徴として消耗した若き将軍〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

室町幕府とは何だったのか
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

実体を失った将軍職の継承

応仁の乱は、
ある日突然起きた事故ではありません。

将軍が「秩序の調整役」という実質的な機能を失い、
ただ「次の将軍を誰にするか」という、
名目だけが政治の争点となった結果、
有力大名たちの利害が正面から衝突した必然の破局でした。

1467年に始まったこの内乱で、
京都は10年にわたって焼け続け、
幕府の統治機構は完膚なきまでに崩壊しました。

足利義尚が将軍に即位したのは、
そんな灰の中から「秩序」という言葉が消え去った時代でした。

父・足利義政は早くから政務を投げ出し、義尚は若くして、中身の抜け落ちた「空洞の椅子」を引き継ぐことになったのです。

将軍という「象徴」に課された過酷な役割

義尚の時代、
将軍はすでに、
政治を決定する統治者ではありませんでした。

それでも、
幕府が存在していること、
そして「いつか秩序が戻る」という幻想を維持するために、
将軍という職位は必要とされ続けました。

象徴である以上、
父のように沈黙を守ることは許されません。

将軍が秩序回復の意思を持っていることを示すためには、
誰の目にも分かるかたちで「最前線」に立つ必要があったのです。

もはや言葉や合議が通用しない世界で、
残された唯一の表現手段。

それが、将軍自らが軍を率いて戦場に姿を現す、
「親征」だったのです。

※親征:君主が、自ら軍を率いて出征すること

武を執る将軍という、避けられなかった選択

義尚は、失われた将軍権威を回復するため、
自ら甲冑を纏い、
軍を率いて前線に立つ道を選びました。

それは、緻密な軍事戦略というよりも、
「将軍がまだ戦っている」という姿を見せるための、
必死のパフォーマンスでもありました。

近江(滋賀県)の守護・六角高頼が幕府の領地を横領したことを受け、
義尚は自ら大軍を率いて出陣します(鈎の陣)。

分裂し、誰も命令を聞かなくなった社会に対し、
義尚は「自らの身体」を現場に投じることで、
バラバラになった権力構造を繋ぎ止めようとしたのです。

成果なき遠征と若き命の摩耗

しかし、すでに崩壊した政治構造を、
将軍一人の決意で変えることは不可能でした。

義尚が戦場に立つ姿は、
一時的に武士たちの耳目を集めましたが、
それは諸勢力の対立を根本から解消する、
決定打にはなり得ませんでした。

将軍の命令はもはや一貫して機能せず、
遠征は泥沼化します。

義尚は長期にわたる陣中生活の中で、
象徴としての重圧と絶え間ない心労、
そして不規則な生活に蝕まれていきました。

1489年、
近江の陣中にて病没、
享年25(満23歳)。

それは、偶発的な不運というより、
実権なき「役割」だけを過剰に背負わされ、
システムの維持のために心身を削り続けた末の、
必然の「摩耗」でした。

消耗となる制度

義尚の時代、
室町幕府はもはや、
社会を支える制度ではありませんでした。

それは、象徴となる人物を戦地へ送り出し、
その人生と命を代償にして、
かろうじて幕府という「看板」を延命させるだけの、
残酷な消耗型システムへと変質していたのです。

義尚の短い生涯は、
将軍制が「人を救うための仕組み」から、
「命をすり潰すための制度」へと転落した段階に入ったことを、
決定的に物語っています。

明日は、足利義澄

象徴すら消耗し尽くされたあと、
将軍という地位は、
守るべき存在ですらなくなります。

次の将軍は、
将軍でありながら、
将軍であることを認められませんでした。

明日は、
「将軍であることを許されなかった存在」足利義澄の物語です。

1481-1511を生きた室町幕府第十一代将軍。応仁の乱後、将軍職は有力守護大名の権力闘争の中で操作される存在となり、義澄もその一人として擁立された。先代の第十代将軍・足利義稙(義材)が政変によって追放されるなど、この時代の将軍はすでに安定した継承の主体ではなかった。義澄は将軍に就いたものの、実権は管領・細川政元をはじめとする畿内の有力大名に握られ、自立した統治を行うことはできなかった。やがて細川政元の死を契機とする畿内の権力争いに巻き込まれ、将軍職を追われ、復帰することなく生涯を終える。その生涯は、将軍の位だけが形式的に存続し、将軍として振る舞うことすら許されなくなった段階に、幕府が入っていたことを象徴している。
【政治の部屋|足利義澄】室町時代編.8

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26京都府
1563-1646を生きた武将。細川幽斎の長男として生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えて各地の戦いで武功を重ねた。父譲りの教養を備え、「利休七哲」の一人に数えられる茶人としても知られる一方、剛毅な性格と優れた軍事能力を持つ武将でもあった。1600年の関ヶ原の戦いでは早くから徳川家康支持を明らかにし、岐阜城攻めや本戦で活躍して東軍勝利に大きく貢献する。その功績により豊前小倉三十九万石を与えられ、後に豊後の一部も加増された。九州北部の要衝を治めながら徳川政権の西国支配を支え、近世大名としての細川家の基盤を築いている。父・幽斎が守り抜いた家名を受け継ぎ、武勇と統治の力によって新たな時代の秩序を支えたその姿は、まさに「圧倒的武功で新体制を支える」武将であった。
【政治の部屋|細川忠興】圧倒的武功で新体制を支えるNew!!
26京都府
1534-1610を生きた武将であり歌人。室町幕府の奉公衆の家に生まれ、足利義藤(後の義昭)に仕えて将軍擁立に尽力した。織田信長の時代には丹後国を与えられ、軍事と領国経営の両面で手腕を発揮する。信長没後は豊臣秀吉に従い、さらに関ヶ原の戦いでは徳川家康方へ与するなど、激変する時代の潮流を見極めながら細川家の存続を図った。武将としてだけでなく文化人としても高名で、古今和歌集の秘伝である「古今伝授」の継承者として朝廷や公家社会に深い人脈を築く。1600年の田辺城籠城では、歌道断絶を憂えた朝廷の働きかけによって講和が実現したことでも知られる。武力のみならず教養と情報網を武器に乱世を生き抜き、細川家を次代へ繋いだその姿は、まさに「歌道と情報で家名を支える」文化人政治家であった。
【政治の部屋|細川藤孝(幽斎)】歌道と情報で家名を支えるNew!!
23愛知県
1540-1591を生きた武将。豊臣秀吉の弟(一説に異父弟)として生まれ、兄の立身とともに各地を転戦し、生涯にわたって豊臣家を支え続けた。中国攻めや紀州征伐、四国平定、九州征伐など天下統一事業の中核を担い、軍事・行政の両面で優れた手腕を発揮する。豊臣政権成立後は大和・紀伊・和泉を領する大大名となり、大和郡山城を拠点に領国経営を進めた。また徳川家康をはじめとする有力大名や公家・寺社との調整役を務め、秀吉の片腕として政権運営を支えている。温厚で誠実な人柄は広く信頼を集め、諸勢力の利害が衝突する場面では仲裁役として大きな役割を果たした。1591年の死は豊臣政権にとって大きな損失であり、その後の不安定化の一因ともなった。その生涯は、まさに「圧倒的調整力で政権を支える」陰の柱石であった。
【政治の部屋|豊臣秀長】圧倒的調整力で政権を支えるNew!!
29奈良県
1549-1584を生きた武将。大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、戦乱の続く大和国の統治にあたった。当時の大和は松永久秀の侵攻や国人勢力の対立によって混乱が続いており、順慶は長年にわたり久秀と争いながら勢力の維持に努める。織田信長が畿内で台頭するとこれに従い、大和支配の中核を担う存在となった。1582年の本能寺の変では、明智光秀と羽柴秀吉の間で態度を決めかねたことから「洞ヶ峠を決め込む」の語源として知られるが、実際には軽率に動かず情勢を慎重に見極めた末に秀吉方へ与している。英雄的な武功よりも、現実的な判断と外交的な駆け引きによって家と領国の存続を優先したその姿は、まさに「現実外交で大和を支える」役割を果たした武将であった。
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