足利義澄





Ashikaga Yoshizumi (1481-1511)

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足利義澄
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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足利義澄って

館長

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シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の第6回目は、
室町幕府第十一代将軍の足利義澄が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第6回:足利義澄〜将軍であることを許されなかった存在〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

「南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏、
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

「室町幕府とは何だったのか」
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

形式だけが残された「動かされる駒」

足利義澄が将軍として歴史の表舞台に立ったとき、
室町幕府はもはや「象徴」としてすら、
機能しなくなっていました。

その予兆は、
義澄の出生から現れています。

戦乱を避けた将軍家の女性が都を離れていたため、
義澄が産声を上げたのは京都ではなく、
遠く離れた駿河国(現在の静岡県)でした。

応仁の乱を経て、
将軍は秩序を調整する主権者でも、
人々の敬愛を集める象徴でもなくなりました。

将軍職は、
有力大名たちが自らの権力を正当化するために奪い合い、
操作する「形式的な記号」へと成り下がっていたのです。

「擁立」という名の監禁

この時代の将軍は、
もはや自らの意志で即位することさえ叶いませんでした。

先代の十代将軍・足利義稙(義材)は、
実力者である管領※細川政元と対立した末、
1493年の「明応の政変」によって都を追放されます。

将軍を排除する決定を下したのは、
将軍自身ではなく、
畿内の実権を握る守護大名でした。

義稙が追われた後の空白を埋めるため、
日野富子(義政の正室)と細川政元の利害が一致し、
呼び出されたのが義澄でした。

義澄は自ら選んで将軍になったのではありません。

秩序なき政治に、
「将軍のお墨付き」というラベルを貼るために、
便宜上据え置かれた「看板」に過ぎなかったのです。

※管領:室町時代における将軍に次ぐ最高の役職

実権を持たない、空虚な主権者

義澄が将軍に就いても、
政治の実権は、
細川政元をはじめとする
畿内の有力大名が握ったままでした。

義澄に許されたのは、
他者が決めた政策を「将軍の命令」として追認することだけ。

独自の判断を下す余地は、
最初から奪われていました。

ここで重要なのは、
義澄個人の能力の問題ではないということです。

義澄は「将軍として行動すること」そのものを、
構造的に禁じられていました。

座っているだけで何もさせてもらえない。

それは統治者としての地位ではなく、
豪華な椅子に縛り付けられた「幽閉」に近いものでした。

「看板」の架け替えと、あまりに容易な排除

やがて、
危うい均衡も崩壊します。

義澄を支えていた管領・細川政元が暗殺(永正の錯乱)されると、
将軍を守る防波堤は消失しました。

畿内が再び混沌とする中、
かつて追放された義稙が勢力を盛り返して京都へ迫ります。

この時、有力者たちは驚くほどあっさりと、
義澄を切り捨てて義稙を再び担ぎ直しました。

これは「政権交代」ですらありません。

ただ、その時の力関係に都合の良い「看板」を、
選び直しただけでした。

象徴としてすら必要とされなくなった義澄に、
将軍という肩書きは何の守りにもなりませんでした。

再起なき死、名ばかりの将軍制

将軍職を追われた義澄は、
再起を期して近江(滋賀県)などの各地を転々とします。

しかし、義稙との決戦を目前に控えた水茎岡山城において、
義澄は戦うことすら許されないまま、
病によって、その短い生涯を閉じました。

かつて将軍は、武を率い、
政治を引き受ける「人格」を持った存在でした。

しかし義澄の時代、
将軍制は「替えがきく部品」を、
はめ込むだけの冷酷な制度へと変質しました。

足利義澄は、
この時代において、
将軍であることを「許されなかった」
最初の将軍でした。

明日は、足利義晴

将軍であることすら許されなかった時代のあと、
次の将軍は、
空洞化した制度そのものを、
否応なく背負わされることになります。

それは、
将軍制がなお続いていることを示すための、
別のかたちの重荷でした。

明日は、
「制度を背負わされた将軍」足利義晴の物語です。

1511-1550を生きた室町幕府第十二代将軍。父・足利義澄が政争の中で将軍職を追われた後、擁立された。義晴の治世、細川氏の家督争いが畿内一帯を混乱させ、将軍はもはや京都に安定して留まることすらできなかった。義晴はたびたび都を追われ、有力大名の庇護下を転々としながら将軍位を保つことを余儀なくされる。その過程で将軍の権威は、統治のための力ではなく、勢力争いを正当化するための「権威の看板」として利用されていった。義晴の生涯は、将軍が政権の中心ではなく、他者の行動に正統性を与える存在へと転落した段階に、幕府が入っていたことを示している。
【政治の部屋|足利義晴】室町時代編.9

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政治の部屋
1776-1849を生きた家老。薩摩藩の下級武士の家に生まれ、茶道坊主として藩に仕えるなかで前藩主・島津重豪に才能を見出される。当時の薩摩藩は長年の借財と財政難に苦しみ、藩政の立て直しが急務となっていた。改革を託された広郷は、商人との債務整理を進めるとともに、奄美の黒糖専売制を強化し、琉球を介した対外交易の活用などによって藩収入の拡大を図った。その手法は極めて大胆で、幕府の統制を超える交易活動を含んでいた可能性も指摘されている。こうした改革によって薩摩藩の財政は大きく改善し、後に幕末の軍備拡張や藩政運営を支える基盤が築かれた。一方で、その強引な手法や交易の実態をめぐっては、当時から現在に至るまで評価が分かれている。1849年、幕府による追及が及ぶなかで死去し、その最期についても自害説を含め諸説が残されている。藩の存続を第一に考え、賛否を承知のうえで大胆な改革に踏み込んだその生涯は、まさに「断固たる改革と密貿易で薩摩藩を救う」改革者であった。
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1751-1818を生きた大名。松江藩主・松平宗衍の次男として江戸に生まれ、のちに松江藩第七代藩主となる。当時の松江藩は深刻な財政難に陥っていたが、家老・朝日茂保らを重用し、倹約の徹底や治水事業、木綿・朝鮮人参などの産業振興を進めて藩政改革に取り組んだ。その結果、藩財政は着実に再建への道を歩むこととなる。一方で治郷は、幼少の頃から茶の湯に深い関心を抱いていた。藩政の安定化を進めるなかで茶道に力を注ぎ、自ら「不昧」と号して大名茶人として活躍する。名物茶器の蒐集のみならず、茶の湯の理念や美意識を広く伝え、茶書の編纂や職人の保護育成にも尽力した。その活動は後の松江における茶文化の発展に大きな影響を与えている。財政再建によって得た余力を、単なる蓄財ではなく文化の創造へと結び付けたその生涯は、まさに「財政再建の富を茶の湯の美意識に注ぎ込む」改革者であった。
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1751-1818を生きた大名。久保田藩主・佐竹義敦の長男として江戸に生まれ、11歳で家督を継ぐ。1790年に藩校・明徳館を創設し、人材育成を藩政の重要な柱に据えた。栗田定之丞を登用して防砂林の造成を進め、農地を風砂被害から守るとともに、産物方を設置して養蚕や川連漆器などの特産品を奨励した。また、年貢地と知行地の別を問わない農政改革を進め、藩財政と地域産業の立て直しに取り組む。文化露寇の際には幕命に応じて蝦夷地警備を担うなど、対外的な課題にも向き合った。晩年には絹方役所の運営など試行錯誤も見られたが、学問と産業振興を両輪とする改革は久保田藩の発展に大きな足跡を残した。人材を育てることこそが藩の未来を築く道だと信じたその生涯は、まさに「学問で秋田藩を建て直す」改革者であった。
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1751-1822を生きた大名。日向高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸に生まれ、のちに米沢藩主・上杉重定の養子となる。当時の米沢藩は累積する借財と膨大な家臣団を抱え、深刻な財政難に陥っていた。1767年に家督を継ぐと、自ら質素倹約を実践し、竹俣当綱らを登用して藩政改革を推進。藩校「興譲館」の再建、漆・桑・青苧などの殖産興業、支出の削減と組織改革に取り組んだ。天明の大飢饉では備蓄や救済策を講じ、藩の混乱を抑えることに努める。1785年に家督を養子の治広へ譲った後も、「伝国の辞」を示して後見役として改革を支え続けた。その治世のもとで米沢藩は再建への道筋を築き、治憲は後世を代表する名君として高く評価されることになる。和歌「為せば成る 為さねば成らぬ何事も」に象徴される信念を貫き、困難な改革に挑み続けたその生涯は、まさに「米沢に『なせば成る』を示す」改革者であった。
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