儒学・折衷学派 江戸中期に台頭した陽明学、古学に傾倒することなく各江戸学問の教えを取りまとめた新儒学とした学派は個々が学びを提唱し自由な傾向があったとされる

細井平洲 Hosoi Heishu

ようこそ!フリーイラストポートレートと


歴史の停車場「いらすとすてーしょん」へ
こちらのページでは【儒学・折衷学派|細井平洲】


藩士のみならず町民にも説く教育者
をお楽しみください

細井平洲イラストポートレート(Syusuke Galleryより)

細井平洲って??

儒学の祖・藤原惺窩登場

せいか

日本儒学の祖と言われている惺窩です

1561-1619を生きた藤原定家を先祖に持ち、禅僧の教養であった儒学を体系化、京学派(日本儒学)の祖となる。江戸幕府を開いた徳川家康にその儒学を説き、弟子であった林羅山を推挙し、その後の幕府の官学イコール朱子学と進化していく。
【儒学・京学派|藤原惺窩 Seika Fujiwara】京学派(日本儒学)の祖
せいか

さて今回ご紹介するのは細井平洲せんせですね

へいしゅう

藤原惺窩せんせに私の紹介をしていただいて光栄です

せいか

尾張国知多(愛知県)で豪農の出でしたね

へいしゅう

幼い頃から土いじりより学問が好きでした

せいか

そして京都、長崎と留学して学びを深められたのですな

細井平洲・嚶鳴館開塾

へいしゅう

毎日が刺激的でした
そして1751(宝暦元)年江戸に出て嚶鳴館 (おうめいかん)という私塾を開きました

細井平洲・米沢へ

せいか

その私塾で上杉治憲氏を教えて米沢藩に招かれたのですね

へいしゅう

米沢では藩校に通える者だけでなく農民や町民にも教えを施しました

せいか

米沢藩の財政はV字回復でしたね

細井平洲・尾張へ凱旋

へいしゅう

そんな折、1780(安永9)年に尾張藩からお声が掛かったのです

よしなお

さすが尾張藩じゃ

へいしゅう

これは徳川家康公の9男で尾張藩初代藩主様

1600-1650を生きた徳川家康9男は、地元尾張藩の地盤固めのため築城した名古屋城に徳川家康が死去後入城し尾張藩初代藩主となる。
【探究ネタ】「徳川義直」父、徳川家康の意思を継ぐ初代尾張徳川家
よしなお

そうじゃ

よしなお

時の尾張藩藩主は9代目徳川宗睦がお主を招いたんじゃな

へいしゅう

生まれ故郷の尾張に錦を飾れました

細井平洲・明倫堂督学就任

せいか

そして1783(天明3)年、最古の藩校と呼び声高い明倫堂の督学となられたのですね

へいしゅう

そのころ明倫堂は少し荒んでいましたから少し手を加えました

せいか

まさにここでも武士庶氏問わずに学問を広めたのですな

へいしゅう

それから明倫堂は大盛況となり私のても必要無くなって…江戸に戻りました

細井平洲・再び米沢へ

せいか

そして再び米沢に出向かれてますよね!

へいしゅう

藩主になられた上杉治憲氏に招かれてお伺いしました

せいか

名君と江戸に名を響かせた上杉治憲は細井平洲せんせの教えを着実に実行して米沢藩を盛り立てました

せいか

まさに上杉治憲にとって細井平洲せんせは師匠の中の師匠

せいか

お二人の姉弟関係は身分を超えた美談ですね

現在は"へいしゅうくん"

へいしゅう

そんな甲斐もあって生まれ故郷の東海市では私をイメージしたゆるキャラ"へいしゅうくん"が活躍しています

せいか

いらすとすてーしょんでは儒学・国学の部屋も開設していますので、よろしければお出でくださいね

イラストポートレートSyusukeGallery儒学・国学の部屋Confucianism and Kokugaku
儒学者・国学者の部屋 Confucianism and Kokugaku

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24三重県
1730-1801を生きた国学者であり医師。母の勧めもあり京都にて堀 影山(1688-1757)に師事し国学や医術を学び、1758年10月に故郷の三重松坂に帰郷し本居春庵医院を開業。その後、賀茂真淵に師事し源氏物語や古事記など日本古典を通じて古代の思想・文化研究を行なった。国学の大成を成し遂げたとされ、国学四大人に数えられる。
【国学者|本居宣長 Norinaga Motoori】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人
26京都府
1669-1736を生きた国学の祖は稲荷神官の子として和学をはじめとする古典・国史研究の環境に育ち、学びを深め国学の分野を確立。その成果を当時、儒学のみであった江戸幕府に国学の必要性を訴え、その後発展を遂げていく。
【国学者|荷田春満 Azumamaro Kadano】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人
22静岡県
1697-1769を生きた国学者は、31歳で荷田春満に入門、万葉集の研究に没頭し万葉考を編纂。そこには賀茂真淵の万葉集に対する世界観も記されている。田安(宗武)家の和学御用でもあった。化政期の国学四大人(しうし)の一人(荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)。
【国学者|賀茂真淵 Mabuchi Kamono】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人
26京都府
1583-1657を生きた日本朱子学の祖は、儒学の祖藤原惺窩を師事しその才能を開化、師の薦めにより徳川家康より4代家綱まで将軍に仕え侍講(君主の学問教育)となる。
【儒学・朱子学|林 羅山 Razan Hayashi】日本朱子学の祖
28兵庫県
1561-1619を生きた藤原定家を先祖に持ち、禅僧の教養であった儒学を体系化、京学派(日本儒学)の祖となる。江戸幕府を開いた徳川家康にその儒学を説き、弟子であった林羅山を推挙し、その後の幕府の官学イコール朱子学と進化していく。
【儒学・京学派|藤原惺窩 Seika Fujiwara】京学派(日本儒学)の祖
07福島県
1622-1685を生きた儒学者は、江戸時代における武士の生き様(ふるまい・在り方)を追求し士道を示す。その後、徳川幕府の官学である朱子学に疑問を持ち、儒教そのものの教えに立ち返るとした古学を提唱。このことから古学の祖とされる。
【儒学・古学|山鹿素行 Soko Yamaga】古学の祖
25滋賀県
1608-1648を生きた儒学者。儒道と士道は同じ道と独学で学びを深めた。朱子学を当時の社会に適応させるべく、王陽明全書を読破し、その思想を開化し陽明医学の実践法の一つとする「致良知説」に傾倒した。そして自ら私塾を開き、その学問を極め日本陽明学の祖とされる。多くの医書も残し、その医術を学ぶために藤樹のもとに留学を希望するものは絶えなかったとされる。
【儒学・陽明学|中江藤樹 Tozyu Nakae】日本陽明学の祖
05秋田県
1776-1843を生きた国学者であり医師。秋田藩を脱藩し裸一貫で江戸に出て、最新の学問を苦学で身につけた。1805年本居宣長の嫡子春庭の門下となり1807年に現在の東京京橋にて玄瑞医院を開設。その約2年後には医院を閉鎖。この間に傷寒雑病論解、医道大意(志都能石屋)を著し、医術に深く関わっていたと考えられている。医業を辞めたあとも診察を望む患者は絶えなかったとされる。 国学四大人の一人。
【国学者|平田篤胤 Atsutane Hirata】化政期の国学四大人(こくがくしうし)の一人
21岐阜県
1768-1841を生きた岐阜県出身の江戸後期を代表する儒学者は25歳の時、林錦峯(林羅山から続く幕府儒官の7代目)の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。 文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にも関与。
【儒学・朱子学|林 述斎 Jyusai Hayashi】武士の最高学府「昌平坂学問所」学長

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1543-1616を生きた武将。三河国の松平氏に生まれ、幼少期は今川氏・織田氏のもとで人質生活を送るなど苦難の時代を過ごした。桶狭間の戦い後に独立を果たすと、織田信長との同盟を軸に勢力を拡大し、信長没後は豊臣秀吉に従いながらも五大老の筆頭として実力を蓄えていく。1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍を破ると天下の実権を掌握し、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。将軍職を早くに秀忠へ譲った後も大御所として実権を握り続け、1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼして戦国の争乱に終止符を打つ。武家諸法度をはじめとする幕府諸制度の整備を進め、二百数十年続く泰平の世の礎を築き上げた。乱世を生き抜き、忍耐と戦略によって徳川による天下を確立したその生涯は、まさに「戦国を鎮め幕府を切り開く」天下人であった。
【政治家の部屋|徳川家康】戦国を鎮め幕府を切り開く
1560-1639を生きた武将。徳川家の譜代重臣・大久保一族に生まれ、兄たちとともに家康に仕えて数々の戦場で武功を重ねた。三河以来の古参として徳川家の草創期を支えたものの、甥・忠隣が改易されるなど一族の浮沈にも直面する。旗本という比較的低い地位にありながらも、その率直な物言いは将軍・徳川家光にも臆することなく向けられ、武功を立てながらも高位を望まず、新興の権勢家たちに対しては遠慮なく苦言を呈した。晩年には自らの半生と徳川家の歴史を綴った『三河物語』を著し、三河武士の気概と忠義の在り方を後世へ伝えている。栄達を求めて時流に阿ることなく、譜代の誇りを胸に信念を貫き通したその生涯は、まさに「体制に迎合せず生きる」武将であった。
【政治の部屋|大久保忠教(彦左衛門)】体制に迎合せず生きる
1542-1597を生きた武将。伊賀の忍びの流れを汲む服部氏の家に、三河で生まれ、若くして徳川家康に仕えた。三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど数々の戦場で武功を重ね、槍の名手として「鬼の半蔵」の異名で知られる。一方で伊賀の者たちを統率し、情報収集や警護などの任務でも家康を支え続けた。1582年、本能寺の変直後の「伊賀越え」では、家康の危険な逃避行に際して伊賀衆の協力を取りまとめ、安全な帰還に大きく貢献している。武功を誇示して権勢を求めることなく、常に主君の背後にあって影から支えることに徹したその姿は、表舞台の栄光より忠実な奉仕を選んだ生き方を物語る。まさに「表舞台を避けて生きる」武士であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|服部半蔵正成】表舞台を避けて生きる
1539-1600を生きた武将。父・忠吉とともに幼少期から人質時代の徳川家康に仕えた。三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで武功を重ね、家康から絶大な信頼を寄せられる徳川家屈指の重臣となる。1600年、家康が上杉景勝討伐のため会津へ向かうと、伏見城の守備を託された。石田三成ら西軍の大軍に包囲される中、わずかな兵で十日余りにわたり奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げる。この必死の時間稼ぎは家康の東軍結集を助け、関ヶ原の勝利と徳川政権成立への重要な礎となった。生きて帰ることを望まず、自らを捨て石として主君への忠義を貫いたその最期は、まさに「忠義の死で天下を動かす」烈士であった。
【政治の部屋|鳥居元忠】忠義の死で天下を動かす
1568-1595を生きた武将。豊臣秀吉の姉・日秀の長男として生まれた。秀吉の養子となり、小牧・長久手の戦いや小田原合戦、奥州仕置などで功績を挙げる。秀吉の嫡男・鶴松の死後、豊臣家の後継者として関白職と家督を譲られ、政務を担った。しかし秀吉の実子・秀頼の誕生後、その立場は急速に不安定化する。1595年には殺生関白との風聞や豊臣家への謀反を企てたとの疑いを受け、高野山へ追放された後に切腹を命じられた。さらに妻子や側近までもが処刑されるという苛烈な結末を迎える。後継問題と権力の論理に翻弄されたその生涯は、まさに「豊臣後継者の悲劇」を象徴するものであった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|豊臣秀次】豊臣後継者の悲劇
1536-1584を生きた武将。尾張国出身と伝えられ、母が織田信長の乳母を務めたことから、信長とは乳兄弟として育った。桶狭間の戦いや姉川の戦い、長島一向一揆の鎮圧などで武功を重ね、織田家の有力重臣として活躍する。本能寺の変後は羽柴秀吉に味方して山崎の戦いで明智光秀討伐に貢献し、清洲会議を経て美濃大垣城主となった。1584年、小牧・長久手の戦いでは秀吉方の主力として三河への中入作戦を進言し自ら出陣するが、長久手で織田信雄・徳川家康連合軍の急襲を受けて討ち死にした。信長との絆を受け継ぎ、秀吉への忠義を貫いた末に戦場へ散ったその生涯は、まさに「友情と忠義に殉ずる」武将であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|池田恒興】友情と忠義に殉ずる
1522?-1583を生きた武将。尾張国に生まれ、若くして織田信長に仕え、武勇と統率力で織田家随一の重臣へと成長した。「鬼柴田」の異名で恐れられ、越前北ノ庄を拠点に北陸方面軍を率いて上杉氏と激戦を繰り広げ、信長の天下統一事業を軍事面から支え続けた。しかし1582年、本能寺の変で信長が横死すると状況は一変する。清須会議において後継体制を巡り羽柴秀吉と対立し、政治的駆け引きの末に主導権を奪われてしまう。翌1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れた勝家は、正室・お市とともに北ノ庄城で自刃した。織田家随一の猛将として時代を切り拓きながら、主君の死後の権力闘争に飲み込まれていったその姿は、まさに「清須会議に翻弄される」と呼ぶにふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県、出生年を1522年とさせていただきます。
【政治の部屋|柴田勝家】旧世代の誇りに散る
1587-1662を生きた武将であり官僚。徳川家の譜代重臣・酒井家に生まれ、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた。若くして秀忠の側近となり、家光が三代将軍に就任すると幕閣の中心人物として重きをなされる。家光から絶大な信頼を受け、武家諸法度の整備や参勤交代制度の運用、日光東照宮造営への対応など、初期徳川幕府の政治基盤の確立に深く関わった。また、老中たちと将軍との間を取り持つ調整役としても活躍し、将軍権威の強化と安定した幕政運営を支えている。戦乱の時代が終わり、武力ではなく制度によって国家を治める時代への転換期にあって、忠勝は組織と秩序の整備に力を尽くした。その姿は、まさに「家光の側近として幕政を支える」徳川政権の重鎮であった。
【政治の部屋|酒井忠勝】家光の側近として幕政を支える
1545-1624を生きた武将・官僚。三河国の板倉家に生まれ、幼少期は寺に入り僧侶となっていたが、弟の死去に伴い徳川家康の命によって還俗し家督を継いだ。行政や法務に優れた才能を発揮し、江戸町奉行を経て1601年には初代京都所司代に任じられる。京都所司代として朝廷や公家との折衝、京都の治安維持、訴訟や裁判の統括に尽力し、初期徳川政権と朝廷を結ぶ重要な役割を担った。裁判では身分や権勢に左右されず、法と情理の均衡を重んじた公正な判断で知られ、その逸話は後に『板倉政要』などによって広く伝えられている。武力ではなく法と道理によって人々を治め、京都の秩序と徳川政権の信頼を築き上げたその姿は、まさに「公正なる裁判で都を支える」法秩序の立役者であった。
【政治の部屋|板倉勝重】公正なる裁判で都を支える
1540-1591を生きた武将。豊臣秀吉の弟(一説に異父弟)として生まれ、兄の立身とともに各地を転戦し、生涯にわたって豊臣家を支え続けた。中国攻めや紀州征伐、四国平定、九州征伐など天下統一事業の中核を担い、軍事・行政の両面で優れた手腕を発揮する。豊臣政権成立後は大和・紀伊・和泉を領する大大名となり、大和郡山城を拠点に領国経営を進めた。また徳川家康をはじめとする有力大名や公家・寺社との調整役を務め、秀吉の片腕として政権運営を支えている。温厚で誠実な人柄は広く信頼を集め、諸勢力の利害が衝突する場面では仲裁役として大きな役割を果たした。1591年の死は豊臣政権にとって大きな損失であり、その後の不安定化の一因ともなった。その生涯は、まさに「圧倒的調整力で政権を支える」陰の柱石であった。
【政治の部屋|豊臣秀長】圧倒的調整力で政権を支える
1561-1624を生きた武将。豊臣秀吉の親族として若くして頭角を現し、賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳七本槍」の筆頭として知られる。各地の戦いで武功を重ね、豊臣政権下では五大老・五奉行に次ぐ有力大名へと成長し、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として徳川家康の勝利に大きく貢献した。戦後は安芸・備後およそ五十万石を与えられ、西国有数の大大名となる。しかし武断派大名として豊臣家への思いを捨てきれず、次第に徳川幕府との距離を深めていった。やがて広島城の無断修築を理由に改易され、信濃川中島へ移されるなど、その栄華は長く続かなかった。戦功によって頂点へ上りつめながら、新たな時代の政治秩序に適応することができなかったその生涯は、まさに「栄光と失脚の果てに」を象徴する武将であった。
【政治の部屋|福島正則】安土桃山時代編.51
1563-1631を生きた武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる。もとは高い家柄の出身ではなかったが、戦場での武功を重ねることで頭角を現し、伊予国松山二十万石を領する大名へと成長した。文禄・慶長の役では水軍を率いて朝鮮へ出兵し、海上戦でも功績を挙げている。関ヶ原の戦いでは東軍に属して徳川家康を支持し、戦後は領地を加増された。さらに後年には会津四十万石へ移封され、東北有数の大名となる。戦国時代には家柄や血筋だけでなく、実力によって道を切り拓く者たちが現れた。嘉明はその代表例ともいえる存在であり、戦場での働きを積み重ねて地位と領国を築き上げた。その生涯は、まさに「武功が拓いた立身」を体現した武将であった。
【政治の部屋|加藤嘉明】安土桃山時代編.50
1565もしくは1575-1615を生きた徳川家康の次女。戦国時代の政略結婚を象徴する女性であり、その生涯は徳川政権の対外関係と深く結び付いていた。最初に後北条氏の当主・北条氏直へ嫁ぎ、小田原合戦後に北条氏が滅亡すると、のちに池田輝政の正室となって徳川と池田を結ぶ役割を担った。当時の婚姻は、単なる家族の結び付きではなく、和睦や政権安定のための高度な外交手段であった。督姫は、敵対勢力であった北条家との融和や、有力外様大名である池田家との結束強化に関わり、徳川政権の基礎固めに大きく貢献している。自ら表舞台に立つことはなかったが、その婚姻が結んだ縁は新たな秩序の形成を支えた。血縁を外交の力へと変えたその生涯は、まさに「徳川を結んだ婚姻外交」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|督姫】安土桃山時代編.41
1563-1600を生きた明智光秀の娘。細川忠興の正室として嫁ぐが、本能寺の変により一夜にして逆臣の娘という過酷な運命を背負う。それでも細川家を支える中でキリスト教への信仰を深め、洗礼を受けて「ガラシャ」の名を授かった。関ヶ原の戦いを目前に控えた一六〇〇年、石田三成は諸大名の妻子を人質として大坂城に確保しようとする。細川家の留守を預かっていたガラシャは、人質となることで夫や家の行動を縛ることを拒み、自らの命を絶つことで抵抗した。その劇的な死は諸大名に大きな衝撃を与え、石田三成の人質政策を困難にするとともに、東軍側諸大名の結束を促す一因となった。武力ではなく、揺るがぬ信仰と最期の覚悟によって歴史の潮流を大きく変えたその姿は、まさに「信念に殉じた貴婦人」と呼ぶにふさわしいものであった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を福井県とさせていただきます。
【政治の部屋|細川ガラシャ】安土桃山時代編.40
1547-1617を生きた前田利家の正室。若き日の利家と結婚して以来、その生涯を通じて前田家を支え続けた。家中をまとめ上げ、前田家の基盤づくりに大きく貢献した。利家の死後、前田家は豊臣から徳川への激動の政権移行期に直面する。徳川家康から謀反の疑いをかけられ、前田家が存続の危機に瀕した際、まつは自ら江戸へ下ることで家康への恭順を示し、事実上の人質となる道を選んだ。この命懸けの決断は家康の警戒を和らげ、加賀前田家を滅亡の危機から救う決定打となった。自らの安泰よりも家の存続を優先し、激動の狭間で百万石の未来を守り抜いたその姿は、まさに「加賀百万石を守った母」と呼ぶにふさわしいものであった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|芳春院(まつ)】安土桃山時代編.39
1549?-1624を生きた豊臣秀吉の正室。身分の低かった頃の秀吉と結婚して以来、その生涯を通じて夫を支え続けた。良妻として知られる一方で、その役割は家庭の内助に留まらず、豊臣家の女主君として諸大名の妻たちを統率し、政権の奥深くに強固な人的ネットワークを築き上げた。秀吉の死後、豊臣と徳川の対立が深まる中でも現実を見据えて行動し、徳川家康との関係を良好に保ちながら、政権移行期の混乱を和らげることに努めている。その圧倒的な影響力は、家康からも一目置かれるほどであった。戦場に立つことなく、人と人を結び、組織と組織を繋ぐことで政権の求心力を支え続けたその姿は、まさに「豊臣を繋いだ賢妻」と呼ぶにふさわしいものであった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県、出生年を1549年とさせていただきます。
【政治の部屋|高台院(ねね)】安土桃山時代編.38
1547?-1583を生きた織田信長の妹。浅井長政の正室として近江へ嫁ぎ、織田家と浅井家を結ぶ政治同盟の要となる。しかし、兄・信長と夫・長政が対立すると、二つの家の狭間で苦難の運命を背負うこととなった。小谷城落城の際には三人の娘を伴って生き延び、のちに柴田勝家に再嫁する。自身が政治の表舞台に立つことはなかったが、そのたおやかな「血脈」は戦国の歴史を大きく動かした。長女・茶々は豊臣秀頼の母となり、次女・初は京極家へ、三女・江は二代将軍・徳川秀忠の正室となる。豊臣、徳川、そして有力大名へと広がったその血筋は、新たな時代への橋渡しとなった。激動の時代に翻弄されながらも、名門の血を次の世代へ紡ぎ続けたその存在は、まさに「血脈を繋ぎし宿命の糸」と呼ぶにふさわしいものであった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県、出生年を1547年とさせていただきます。
【政治の部屋|お市】安土桃山時代編.37
1513?-1592を生きた豊臣秀吉の生母。尾張国の農民出身とされ、夫・木下弥右衛門の死後は女手一つで秀吉を育て上げた。天下人の母となった後も驕ることなく、豊臣家の精神的支柱として大きな影響力を持った。その存在が最も歴史を動かしたのは、豊臣秀吉と徳川家康の対立が続いていた時期。秀吉は家康との和睦を成立させるため、自らの母である大政所を岡崎(のちに駿府)へ送るという決断を下す。大政所は事実上の人質という極めて危険な立場を自ら受け入れ、両者の不信を和らげる重要な役割を果たした。武力ではなく、母という立場と信頼によって天下統一への道筋を支える。表舞台で政務を執ったわけではない。しかし、自らを犠牲にして豊臣と徳川を結び付け、流血を避けるために尽くしたその姿は、まさに「天下を和した捨て石」と呼ぶにふさわしいものであった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県、出生年を1513年とさせていただきます。
【政治の部屋|大政所(なか)】安土桃山時代編.36
1555-1615を生きた武将。三河国作手を本拠とする奥平氏の当主として乱世を生き抜き、のちに徳川家康の長女・亀姫を娶ることで徳川一門に連なる重臣となった。1575年の長篠城攻防戦では、わずかな兵で武田勝頼の大軍を食い止め、織田・徳川連合軍の勝利を導く重要な役割を果たしている。その功績により家康から絶大な信頼を得るとともに、徳川家との結びつきを一層強めた。関東移封後は上野甘楽郡を治め、さらに美濃加納藩主として領国経営にも手腕を発揮する。武勇だけでなく、姻戚関係と信頼によって徳川家と諸大名を結び付け、政権の安定に貢献したその存在は、まさに「徳川を支えた女婿」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|奥平信昌】江戸時代編.5
1542-1612を生きた武将。徳川家康に幼少期から仕えた譜代の重臣。若き頃は家康の嫡男・信康の傅役(もりやく)に任じられ、その教育と成長を託された。信康事件という悲劇の後も、その誠実な人格と卓越した領国経営の手腕から変わらぬ信任を受け続ける。のちに家康から、次代を担う幼少の九男・徳川義直(五郎太丸)の傅役を託されると、義直の名代として甲斐一国の統治を実質的に主導し、やがて御三家筆頭となる尾張徳川家の基盤と人材を強固に育て上げた。武功を誇るよりも、次代の主君と組織を支えることに生涯を捧げたその姿は、まさに「後継者を育てた参謀」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|平岩親吉】江戸時代編.4
1529-1596を生きた武将。徳川家康の譜代家臣として若き頃から仕え、三河時代から徳川家の発展を支え続けた重臣。戦場では勇猛な武将として知られる一方、平時には厳格な規律と実務能力によって家中を支えた。家康の命令には一切の妥協を許さず、公私を峻別する姿勢で組織の統制維持に大きく貢献したことで知られる。陣中から妻へ送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の簡潔な書状は、実務を重んじるその人柄を象徴する逸話として現在まで語り継がれている。華やかな武功や権謀術数ではなく、規律・責任・実行力によって組織を支えたその姿は、徳川家の成長を下支えした「実務家」の典型であり、「規律を徹した実務家」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|本多重次】安土桃山時代編.35
1548-1606を生きた武将。徳川家康に幼少期から仕え、「徳川四天王」の一人として知られる重臣。武勇に優れる一方で、主君に対しても臆することなく意見を述べる剛直な人格で知られた。小牧・長久手の戦いをはじめ幾多の戦場で活躍し、その勇猛さは敵方からも恐れられたという。しかし康政の真価は戦場だけにとどまらない。豊臣秀吉の天下となった後も、家康の立場や徳川家の将来を見据え、必要とあれば苦言や諫言をためらわなかった。その率直さと揺るがぬ忠誠心は家康から深く信頼され、家臣団の精神的支柱として大きな役割を果たした。主君に迎合するのではなく、組織の未来のために言うべきことを言い続けたその姿は、「諫言を貫いた忠臣」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|榊原康政】安土桃山時代編.34
1527-1596を生きた武将。徳川家康の最古参家臣の一人として仕え、「徳川四天王」の筆頭に数えられた重臣。三河統一から織田・徳川同盟の時代、さらには豊臣政権下に至るまで、数々の重要局面で家康を支え続けた。軍事だけでなく外交や家臣団統率にも優れ、長篠の戦いでは織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献するなど、その冷静な判断力と実行力は広く知られている。家康からの信任は極めて厚く、重要案件ではたびたび名代として送り出された。自ら前面に出るのではなく、組織全体を支えながら主君の意思を実現する。その姿は、徳川政権の礎を築いた「総参謀」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|酒井忠次】安土桃山時代編.33
1547-1622を生きた武将・茶人。織田信長の実弟として戦国の中枢に身を置きながら、本能寺の変や関ヶ原といった激変の時代を生き延びた異色の存在。武の道だけでなく茶の湯に深く関わり、権力の近くにありながらも距離を保つことで、自らの居場所を移し続けた。豊臣から徳川へと体制が移る中、彼が選んだのは対立や忠誠の固定ではなく、静かに環境へ適応するという柔軟な生存戦略であった。守るべきものを限定せず、時代とともに立ち位置を変える。「生き延びること」それ自体を選択し続けたその姿は、非戦の時代におけるもう一つの統治のあり方を示している。
【政治の部屋|織田有楽斎(長益)】安土桃山時代編.31
1545-1605を生きた武将。尾張に生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えて武功を重ね、関ヶ原後に土佐一国を与えられ大名としての基盤を築いた。一豊のスタイルは、目立った軍略や大胆な拡張にとどまらず、新たに与えられた領地を着実に整備し、統治の土台を築き上げる点にあった。その背景には、内助の功で知られる妻・千代の支えもあり、限られた資源の中で機会を確実に掴み取る堅実な判断を可能にしていた。土佐入国後は長宗我部氏の旧家臣などの旧勢力との軋轢を調整しながら、城下町や家臣団を整備し、領国として機能する基盤を確立した。一豊の領国経営は、急進的な改革に頼らず既存の条件を活かして秩序を整え、持続的に運営できる体制を築く点に特徴がある。土佐に基盤を築いた経営者であった。
【政治の部屋|山内一豊】安土桃山時代編.21
1537?-1599を生きた武将。尾張に生まれ、織田信長に仕えて頭角を現し、のちに豊臣政権の中枢を担った。利家のスタイルは、単なる武功にとどまらず、武断的な家臣団と文治的な統治をつなぎ、組織全体の均衡を保つ卓越した「調整力」にあった。豊臣秀吉のもとで五大老の一人として政権運営に関わりながら、加賀百万石の基盤を築く重要な役割を担い続けた。利家の統治は、強制的な統制や制度の設計に依存するのではなく、組織の肥大化に伴って生じる「利害の対立」を、人と人との関係性によって埋め、仕組みを滞りなく機能させる点に特徴がある。有力大名や家臣団の意思を現実の秩序へとつなぎ続けた、関係を束ねた調整者であった。いらすとすてーしょんでは出生年を1537年とさせていただきます。
【政治の部屋|前田利家】安土桃山時代編.12
1535-1585を生きた武将。織田信長の重臣として、政権の中枢で膨大な行政実務を担い続けた武将。長秀のスタイルは、戦場での武功にとどまらず、中央から与えられた方針や命令を現場のリアルな形へと確実に落とし込む卓越した「執行力」にあった。拡大を続ける織田政権において、北陸方面の占領地経営や、天下布武の象徴である安土城下の都市インフラ整備など、統治の基盤づくりに関わる重要な役割を担い続けた。長秀の統治は、新たな制度を自ら構想することではなく、組織の肥大化に伴って生じる「命令と現場の乖離」を実務によって埋め、仕組みを滞りなく機能させる点に特徴がある。信長の強い意思を社会の現実へと翻訳し続けた、実務を担った執行者であった。
【政治の部屋|丹羽長秀】安土桃山時代編.11
1565–1613を生きた武将。尾張に生まれ、織田・豊臣に仕えたのち徳川家康の娘婿として外様大名の中核に位置し、姫路藩を基盤に西国支配の要を担った大名。その特徴は、領国そのものを統治の構造として設計した点にある。関ヶ原の戦い後に大規模な改修が施された姫路城を中核とし、城下町の配置や交通網、河川流通を一体的に整備することで、軍事・行政・経済が連動する広域的な「統治空間」を構築した。これにより、武力や個人の力量に依存しない、持続的で合理的な地域支配を実現した。その統治は人や利害の調整にとどまらず、空間そのものに秩序を組み込む点に特徴がある。輝政は、領域設計によって支配の基盤を具現化した空間型の統治者であった。
【政治の部屋|池田輝政】安土桃山時代編.9
1537-1598を生きた武将。尾張の足軽出身から織田信長に仕え、軍功を重ねて台頭。本能寺の変後、明智光秀を討って主導権を握り、全国統一を成し遂げた。その特徴は、戦で獲得した支配を一過性の覇権に留めず、誰もが従う秩序として制度化した点にある。太閤検地によって土地と収穫を把握し、刀狩によって兵と農を分離することで、社会構造を再編した。さらに大名配置や転封を通じて権力関係を再構築し、戦場での優位を全国規模の統治構造へと転換した。しかしその体制は秀吉個人の調整力に強く依存しており、持続性には課題を残した。秀吉は、覇権を国家秩序へと変換した統合者である。いらすとすてーしょんでは出生地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|豊臣秀吉】安土桃山時代編.3
1534-1582を生きた武将。尾張を拠点に勢力を拡大し、桶狭間の戦いを契機に台頭、楽市楽座や兵農分離を推し進めながら中央政権の確立を目指した戦国大名。その特徴は、既存の戦の前提そのものを疑い、戦場の構造を根本から再編した点にある。鉄砲の集団運用や兵站の整備によって、従来の合戦様式を大きく転換し、従来の力関係を無効化した。戦術や運用を磨くのではなく、勝敗を決定づける前提条件そのものを書き換えることで優位を構築する。局地の勝敗に依存せず、戦場全体を新たなルールへと組み替えることで、戦いのあり方そのものを変革した。その戦は、力の差ではなく構造の差によって勝敗を導くものであった。前提を覆し、戦そのもののルールを書き換える。それが、織田信長の戦であった。
【政治の部屋|織田信長】安土桃山時代編.1
1147-1199 を生きた鎌倉幕府初代将軍。平治の乱で父を失い、20年もの流人生活を伊豆で耐え忍ぶ。その潜伏期間は、のちに武士の世を創り出す「革命」の礎となる。挙兵後は東国武士の信頼を勝ち取り、宿敵・平家を滅ぼすと、鎌倉に独自の政治拠点を構築。全国に「守護・地頭」を置く画期的な制度を整え、貴族ではなく武士が土地を治める日本初の本格的な武家政権を樹立する。冷静な知略と強烈な統率力で平安から中世への扉を開いた。その統治システムは、死後も北条氏らによって引き継がれ、その後の日本の政治構造を決定づける根幹となった。いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県とさせていただきます。 イラストポートレートは伝源頼朝像を参照しております。
【政治の部屋|源 頼朝】鎌倉時代編.2
1863-1927を生きた地理学者、政治家であり評論家。札幌農学校卒業後の1886(明治21)年、ダーウィンに倣って海軍練習船に便乗。太平洋やオセアニア各地を歴訪。この経験をまとめた「南洋時事(1887)」が注目を集める。その後、1894(明治27)年に著した「日本風景論」は、日本の自然美を科学と美学の両面から論じ、国民に風景の価値を啓発した文学的地景論であり、同年(1894)に内村鑑三によって著された「地理学考」とともに明治の二大地理書として歴史に名を残している。その後も、世界各地に足を運び、新聞や雑誌での評論活動を行うかたわら、国政でも活躍した。
【文学の部屋|志賀重昂】明治時代編.47
1927–2007を生きた小説家。東京商科大学(現、一橋大学)で経済学を学び、卒業後は愛知学芸大学で経済学講師となる。1955(昭和30)年から連載を開始した「中京財界史」で作家活動を開始し、1957(昭和32)年に海外商社マンを描いた「輸出」で文學界新人賞、1959(昭和34)年に「総会屋錦城」で直木賞を受賞。以後、「役員室午後三時(1971)」「官僚たちの夏(1975)」などを発表し、経済小説という新ジャンルを切り拓いた。企業、官僚、戦争、歴史を通して「働くことの意味」や「組織と個人の葛藤」を描き続け、その独自の視点は「城山経済学」とも呼ばれる。没後には妻との死別を綴った「そうか、もう君はいないのか」などのエッセイも話題となった。本名は杉浦英一。
【文学の部屋|城山三郎】昭和時代編.142
1875-1947を生きた詩人であり評論家。1893(明治26)年、19歳で渡米し、詩人ホアキン・ミラーの山荘に住み込みながら英文学を学び、1896(明治29)年に英文詩集「Seen and Unseen」を刊行したことをきっかけに、Yone Noguchiの名で英米詩壇に知られる存在となる。1903(明治36)年にロンドンで「From the Eastern Sea」を自費出版し、国際的評価を確立。翌年に帰国後、1905(明治38)年から慶應義塾大学英文科教授として40年にわたり教育に携わる。日本語による詩作にも取り組み、「二重国籍者の詩」「林檎一つ落つ」などを発表。日英米の詩人の交流に尽力した。日本文化の海外紹介にも尽力し、芭蕉や浮世絵に関する英語著作を多数刊行。彫刻家イサム・ノグチの父としても知られている。
【文学の部屋|野口米次郎】明治時代編.38
1913-1943を生きた児童文学作家。幼くして母を亡くし、養子に出されるなど寂しい幼少期を過ごす。旧制半田中学校卒業後、小学校の代用教員として働きながら、児童雑誌「赤い鳥」に「正坊とクロ(1931)」が掲載されたのをきっかけに、童謡・童話の掲載を重ねる。その中でも、1932(昭和7)年に発表した「ごん狐」で注目を集めた。東京外国語学校に入学、そして卒業後は、病気と戦いながら、愛知県立安城高女の教職に就きながら創作を続けるも、第一童話集「おぢいさんのランプ(1942)」が生前の最後の本となった。結核により29歳で早世。戦後は、国語教科書に採用され続け、現在も広く親しまれている。本名は渡辺正八。
【文学の部屋|新美南吉】昭和時代編.72
1895-1975を生きた詩人であり随筆家。早稲田大学や東京美術学校、慶應義塾大学などで学ぶもいずれも中退し、1923(大正12)年に詩集「こがね蟲」で詩壇に登場。ヨーロッパ象徴派の影響を受けたモダニズム詩を展開。そして発表した「鮫」は、戦時中も一貫して体制に迎合せず、鋭い社会批評と人間観察に基づく「抵抗詩人」としてその名を刻んだ。戦後は「落下傘」「蛾」など、反戦・反権力の精神に貫かれた詩を著している。自伝的な「人間の悲劇」「どくろ杯」なども残している。
【文学の部屋|金子光晴】昭和時代編.19
1898-1964を生きた小説家。早稲田大学で政治学を専攻するも中退し、その後社会主義運動にも身を投じたが、1921年に「逃避行」を著し文学に転身する。その後、1933年から連載された「人生劇場」が川端康成の目にとまり大ヒットとなり、流行作家の一員となる。戦後は、歴史小説を主に著し「石田三成」や「高杉晋作」などを残している。
【文学の部屋|尾崎士郎】昭和時代編.6
1583-1672を生きた漢詩人、文学家であり武士。徳川家康に仕え、大坂夏の陣で活躍するも、その後浪人となり藤原惺窩に入門。儒学、書道、茶道、庭園設計に精通し、京都の詩仙堂を建てて隠棲した。特に詩文に長け江戸時代の漢詩人の祖としてその名を刻む。著書に「覆醤集」など。また煎茶の祖とも称される。
【文学の部屋|石川丈山】江戸時代編.1
1921-1999を生きた経営者であり実業家。1946(昭和21)年に井深 大と共に東京通信工業(現、ソニー)を設立し、営業を担当。アメリカ市場でトランジスターラジオの販売を成功させ、SONYブランドを確立させた。1971(昭和46)年に同社社長。欧米の財界人と積極的に交流し、民間外交にも尽力。
【経営者の部屋|盛田昭夫】昭和時代編.27
1907-1987を生きた経営者であり実業家。戦前は旅館業などに関わり、1948(昭和23)年に日本初の割賦販売会社を名古屋に設立。1951(昭和26)年には東京で日本信用販売(現、三菱UFJニコス)を設立し、三和銀行と共同でJCBを創設。信販制度を日本に定着させ、消費者金融の発展に大きく貢献した。城山三郎の小説『風雲に乗る』のモデルとしても知られる。
【経営者の部屋|山田光成】昭和時代編.19
1939- を生きる生物学者。1987年ノーベル生理・医学賞を日本人として初の受賞。抗体の多様性の形成メカニズムを解明し、免疫応答の基本を明らかにした。その後、脳科学研究にシフトし現在もなお、最前線の研究者として活躍している。
【生物学者の部屋|利根川 進】日本人初受賞は生理・医学賞
1944- を生きる物理学者。2008年ノーベル物理学賞受賞。CKM行列の一部であるCP対称性(Charge-Parity symmetry)の破れについて提唱、物質と反物質の不均衡(バリオン数非対称性)を説明するための理論的を確立した。このクォークのフレーバー変化を説明するための理論的枠組みは益川-小林理論(またはCKM理論)と現在も世界で支持されている。 ※益川敏英(1940-2021)共同受賞者
【物理学者の部屋|小林 誠】益川-小林理論でノーベル物理学賞
1940-2021を生きた物理学者。2008年ノーベル物理学賞受賞。クォークの混合(クォークフレーバー)におけるCKM行列の提案を行い、理論的な枠組みの研究で素粒子物理学の新たな分野を切り拓いた。このクォークのフレーバー変化を説明するための理論的枠組みは益川-小林理論(またはCKM理論)と現在も世界で支持されている。 ※小林誠(1944-)共同受賞者
【物理学者の部屋|益川敏英】益川-小林理論でノーベル物理学賞
1832-1870を生きた蘭学者でありジャーナリスト。蘭学は植物学者となる伊藤圭介に学び、その後英語、フランス語を学ぶ。江戸幕府開成所(洋学校)の教授職を務め外字新聞の翻訳にあたる。日本史上初の定期刊行雑誌「雑誌西洋」、また日本人による初の新聞「中外新聞」を創刊した。
【ジャーナリストの部屋|柳河春三】日本人初の新聞を創刊
1579-1655を生きた武士から出家した僧侶であり、庶民にもわかりやすい仏教説話を伝播するため仮名草子作家としても活躍した。日本を形成した思想家の一人としてその名はいまもなお響かせています。
【探究ネタ】「鈴木正三」日本の宗教に携われた人々
1897-1985を生きた陶芸家は建築壁に陶磁器を用いた陶壁を作り出す。陶芸歴史研究の第一人者であったが謎に包まれる「永仁の壺事件」を引き起こす。
【陶芸家の部屋|加藤唐九郎】陶壁(建築物✖️陶磁器)私が創りました
1543-1616を生きた武将であり戦国大名は江戸幕府初代征夷大将軍となり政治を司り、260年続く江戸時代の基盤をつくった。
【探究ネタ】「徳川家康」話題沸騰〜どうする家康〜
1539-1600を生きた武士は13歳から徳川家康の御付きとなり、天下分け目関ヶ原戦いの前哨戦となる伏見の戦いで石田三成率いる西軍に対して善戦、籠城後壮絶な最期を遂げる。
【探究ネタ】「鳥居元忠」天下人への前哨戦を戦った徳川家康の恩人
1548-1606を生きた徳川四天王の一人は、徳川家康が桶狭間の戦いで今川義元に兵糧を届けた帰りに出会い、利発の康政をそれ以降家臣として家康の天下統一を後押しした一人。
【探究ネタ】「榊原康政」あの秀吉を美文字で罵る文武両道は徳川家康の恩人
1527-1596を生きた松平家に仕えた酒井家を10歳で継ぎ、今川義元に見出された才覚で人質であった徳川家康と共に桶狭間の戦いに出陣。ここから徳川家康の右腕として武功を立てていきます。
【探究ネタ】「酒井忠次」信長も秀吉も認めた武勇は徳川家康の恩人‘日本史からみた偉人たち’
1542-1596を生きた服部家2代目は父であり初代保長が松平家に仕えていたことから、その後の徳川家へ仕え武功を立てた武士。1596年に亡くなったが、その功績を讃え江戸城の門にはいまも半蔵門の名を響かせている
 【探究ネタ】「服部半蔵(正成)」今も半蔵門に名を残す徳川家康の恩人
1829-1913を生きた建築家、伊藤平左衛門9世は明治の東京・横浜で洋風建築、清国で中国建築、京都や奈良で日本古代建築を研究。愛知県庁舎など明治初期の東海地方に洋風建築を導入し、東本願寺御影堂など多くの近代社寺建築も手掛けた。内国勧業博覧会、パリ万国博覧会などに出品し数々の賞を受賞
【建築家の部屋|伊藤平左衛門 (9世)】明治期を代表する建築家は工匠一家の9世なり
1547-1583年を生きた織田信長の妹とされ浅井長政、柴田勝家に嫁ぎ、歴史に奔走した人生を歩んだ。
【探究ネタ】「市(お市の方)」 兄は天下統一まであと一歩 日本史からみた偉人たち
1934-2007を生きた建築家。共生、新陳代謝(メタボリズム)、情報、循環(リサイクル)、中間領域、フラクタル(非線形)、生態系(エコロジー)等、45年間提言してきたコンセプトはいずれも「生命の原理」を追求した。
【建築家の部屋|黒川紀章】カプセルも恐竜も手がけた!機械じゃなくて生命の時代へGo!
東京都港区に本社を置く、電機メーカーを中心とする日本の多国籍コングロマリット。
【経営者の部屋|井深 大&盛田昭夫】出井伸之 元ソニー社長を偲んで創業者のイラストポートレートを!
1779-1848を生きた漢方医(古医方)でありインド医学(仏教医学)の影響を受けたとされ「古訓医伝」を著書
【医学の部屋|宇津木昆台 Kondai Utsugi】江戸時代における傷寒論研究の第一人者
1534-1582を生きた尾張国出身の武将はどの世代からも「好きな歴史上の人物は?」数々の調査で堂々の1位の人気を博する。尾張国内の反勢力を一掃した後、信長を全国区に押し上げたのは、今川義元を討ち取った桶狭間の戦い。ここから一気に天下人に駆け上がります。
【探究ネタ】「織田信長」 本能寺の変は6月2日 日本史からみた偉人たち
1537?-1598を生きた尾張国出身の武将は主君信長のあだを奉じ16世紀末、ついに全国統一を実現した秀吉は、度量衡を統一し、全国に役人を派遣して土地の生産力を石高(米の生産量)で算出、税収の安定徴収化を図った。また、農民から武器を取り上げ農耕に専念させることで一揆を防ぎ、武士と農民の身分を明確にするなど、戦国の世の中から安定した社会を築くために構造改革を行った。
【探究ネタ】「豊臣(羽柴)秀吉」 天下人は「さる」と呼ばれてた 日本史からみた偉人たち
1535-1585を生きた尾張国出身の武将は織田信長の宿老であり浅倉義景討伐後若狭一国を与えられる国持大名に。豪傑さは政治手腕も発揮されたとされ、織田家の繁栄に尽力。本能寺の変のあと後嗣そして領地再配分を議論する「清洲会議」では信長嫡孫の三法師を推すが…そして秀吉と共に…。
【探究ネタ】「丹羽長秀」 越前朝倉103年の歴史に終止符を打った男 日本史からみた偉人たち
1536-1584 尾張国?出身の武将の母養徳院は信長の乳母で、乳兄弟となることから必然に信長に支えることに。本能寺の変のあと後嗣そして領地再配分を議論する「清洲会議」では信長嫡孫の三法師を推すが…そして今後の池田家の躍進は…いかに。
【探究ネタ】「池田恒興」 おやかた様とは乳兄弟 日本史からみた偉人たち
1522?〜1583を生きた尾張国出身の武将は織田信長の宿老であり、豪傑武将と名を馳せる。本能寺の変のあと後嗣そして領地再配分を議論する「清洲会議」では信長三男「信孝」を推すが…そして想いを寄せるお市の方とは…。
【探究ネタ】「柴田勝家」 還暦前後での初婚は雲の上の人 日本史からみた偉人たち
1913-1943を生きた愛知県出身の昭和を代表する児童文学作家の代表作は「ごん狐」、雑誌「赤い鳥」出身作家の一人であり、ごん狐は18歳時の作品。愛知県半田市名誉市民であり新美南吉記念館も同地に。
【文壇発見|新美南吉】平和を願ったごんぎつね
1893-1981を生きた新婦人協会創設者は日本のジェンダーダイバーシティの先駆け社会(婦人運動)活動を明治・大正・昭和の時代を越えて展開、男女平等、女性解放運動のために一生を捧げた。
【探究ネタ】「市川房枝」ジェンダーダイバーシティ先駆者 日本史からみた偉人たち
1889-1972を生きた愛知県出身の明治・大正・昭和を生きた奇術師は1920代にアメリカに渡り終戦を通り越し、30年あまりアメリカで活躍した奇術師。「Great Tenkai」と称されるほど抜群の世界的知名度を誇る。創作奇術を讃える最高の名誉石田天海賞は1968年から97年までの間19名が受賞されている。
【探究ネタ】「石田天海|Tenkai Ishida」奇跡のマジシャン
1870-1934を生きた愛知県出身の昭和初期を代表する名女方の一人は、明治、大正、昭和の三時代で活躍し活躍。 團菊左時代を築いた五代目尾上菊五郎にその才能を見出され養子になり、その後十五代目市村羽左衛門の相手役としてその名を響かた。
【芸能(歌舞伎)の部屋|尾上梅幸(六代目) Baiko Onoe Ⅵ」三時代を魅了した名女方
1899-1982を生きた愛知県出身の画家は岡田三郎助,辻永に師事し、従軍画家として戦地に赴いた。戦後は郷里の,辻永に師事し、従軍画家として戦地に赴いた。戦後派郷里の愛知県に戻り「バレリーナ」シリーズで一躍脚光を浴びる。その後の「舞妓」シリーズは鬼頭芸術の集大成となった。
【画家の部屋|鬼頭鍋三郎】「バレリーナ」そして「舞妓」シリーズでブレイク
1873-1957を生きた愛知県出身の復古大和絵の祖は近代日本画壇の巨匠、日本の自然をこよなく愛し14歳で京都の日本画家、望月玉泉(のちに円山派の幸野楳嶺)に師事し数多くの風景画を描く。
【画家の部屋|川合玉堂】まさに近代日本画の最高峰
1767-1823を生きた愛知県出身の復古大和絵の祖は幼少時は比叡山延暦寺で天台宗を学び古くからある習慣・風習・文化などに深く興味があり研究を重ねて、佐竹本三十六歌仙絵巻、伴大納言絵詞等の複数の模写を残すなど、平安時代の大和絵の復古を実現、復古大和絵の祖と評されます。
【画家の部屋|田中訥言 Totsugen Tanaka】絵師はやまと絵を復興へ
1905-1999を生きた愛知県出身の洋画家は1994年に女性洋画家として初めて文化功労者を受賞。一宮市三岸節子記念美術館でコレクションに出会えます。
【画家の部屋|三岸節子 Setsuko Migishi】 女性洋画家として初受賞はまさにジェンダーダイバーシティの先駆者
1901-1986を生きた愛知県出身の洋画家は半世紀にわたりフランスに暮らし、3歳年上の画家・佐伯祐三氏の影響を受け、貧しさの中、鋭いタッチで一心不乱にパリの街を描き続けた。パリ市長に“最もフランス的な日本人”と称され、フランスの最高勲章、レジオン・ド・ヌール勲章を受賞。
【画家の部屋|荻須高徳 Takanori Ogisu】 “最もフランス的な日本人”って言われちゃった
1852-1927を生きた愛知県出身の日本人女性3人目の公許女医(医師)は済生学舎に女子入学を許可させ、産科での貧窮者の無償施療、乳児院での無償の種痘治療などの慈善活動を生涯にわたり展開した。
【医学の部屋|高橋瑞子 Mizuko Takahashi】 日本女性医師3人目
1926-2020を生きた物理学者はニュートリノ天文学という新しい学問を切り開いた大型水チェレンコフ検出器による地下実験 Kamiokande を提案したのは1978年のこと、それから24年の時を経てノーベル物理学賞を受賞。
【物理学者の部屋|小柴昌俊】ニュートリノ観測成功
1803-1901を生きた愛知県出身の日本初の理学博士は幕末から明治期の本草学者・蘭学者・博物学者・医学者。日本初の理学博士。男爵。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作ったことでも知られる。
【植物学者の部屋|伊藤圭介】雄しべ・雌しべ・花粉という言葉を創った男
1895-1989を生きた 愛知県出身の昭和を代表する哲学者はジンメル、カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行う。法政大学総長を1962年より務める。詩人の谷川俊太郎は長男。
【哲学の部屋|谷川徹三】息子は谷川俊太郎
1863-1927を生きた愛知県出身の明治大正を代表する地理学者でありジャーナリストは当時としては数少ない世界旅行家として活動。日本人の景観美の意識変革に大きな役割を果たしたとされる著『日本風景論』を残した。
【地理学者の部屋|志賀重昴】日本の風景は世界でも群を抜いて美しい

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