本多重次





Honda Shigetsugu (1529-1596)

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教科書で見かけたあの有名人
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彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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本多重次
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館長

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シリーズ「江戸を動かした参謀たち」第3話目は、本多重次が登場

館長

本シリーズは、「人と組織の動かし方」にスポットライトを当てた六人の物語です

こんな背景

シリーズ:江戸を動かした参謀たち

第3回:本多重次〜規律を徹した実務家〜

今回のシリーズ:「江戸を動かした参謀たち」は…
天下は、誰が動かしていたのか

前シリーズ「非戦の統治者たち 」 では、
作法によって人を整えた者、
美によって価値観を変えた者、
思想によって争いを防いだ者、
そして、信念によって人々を導いた者たちを追いました。

そこには、
武力だけでは説明できない、
もう一つの歴史の動かし方がありました。

そして、天下人は一人でも、
政権は、その一人では動きません。

天下統一の後に訪れた江戸時代も、
例外はありません。

そこで、新たな問いが生まれます。

その問いとは、

「徳川家康はいったい誰に支えられていたのか。」

「勝つこと」と「治めること」

戦国時代には、
強い武将が数多く存在しました。

しかし、
戦に勝つことと、
国家を治めることは別の能力です。

関ヶ原に勝っただけでは、
二百六十年以上続く幕府は生まれません。

必要だったのは、
人をまとめる者。
組織を整える者。
後継者を育てる者。
財政を支える者。
そして、主君に苦言を呈する者でした。

徳川政権の強さは、
家康一人の才能だけではなく、
それを支える中枢の人材によって支えられていたのです。

表に出ない実力者たち

本シリーズで扱うのは、
将軍でもなければ、
天下人でもありません。

今回登場するのは、
主君の隣で考え、
組織を支え、
制度を動かした実務家たちです。

彼らは派手な功績で、
歴史に名を残したわけではありません。

しかし、
組織が迷った時には方向を示し、
危機の時には秩序を守り、
次の世代へと政権をつないでいきました。

言い換えれば、彼らがいなければ、
徳川幕府はこれほど長く続かなかったかもしれません。

戦国から江戸へ

この六人が生きたのは、
天下取りの時代から、
天下を維持する時代へと移り変わる転換期。

求められたのは、
武勇だけではありません。

組織を支え、人を育て、
仕組みを整える力でした。

本シリーズでは、
その力を発揮した六人にスポットライトを当てます。

「江戸を動かした参謀たち」
第1回 酒井忠次

徳川を支えた総参謀

1
第2回 榊原康政

諫言を貫いた忠臣

2
第3回 本多重次

規律を徹した実務家

3
第4回 平岩親吉

後継者を育てた参謀

4
第5回 奥平信昌

徳川を支えた女婿

5
第6回 大久保長安

財政を動かした策士

6
問われているのは「組織を支える力」

優れた組織、指導者とは何でしょうか。

そして、長く続く仕組みは、
どのようにして生み出されるのでしょうか。

歴史は英雄によって動くように見えます。

しかし実際には、その背後で考え、
支え、整え続けた人々がいます。

本シリーズが見つめるのは、
天下人ではなく、
天下人を支えた者たちです。

それは、戦国の勝者がどのようにして、
江戸という巨大な組織を築き上げたのかを探る物語でもあります。

どのような時代を生きたのか

本多重次が生きたのは、
徳川家康が乱世の中で勢力を拡大し、
一国の大名から天下人への道を歩み始めた時代でした。

戦国時代は英雄や、
名将の華やかな武勇が語られがちですが、
実際に組織を動かしていたのは、
戦場だけではありません。

膨大な軍勢を維持し、
我が強い三河武士たちを統制し、
領国経営の基盤を支える者たちがいてこそ、
大名家は存続することができました。

重次は三河以来の譜代家臣として、
若い頃から家康に仕え続けます。

三河一向一揆、遠江・駿河への進出、
そして武田氏との激戦など、
徳川家が生き残りを懸けて戦い続けた時代を、
常に最前線で経験しました。

戦場では向こう見ずに敵陣へ突っ込み、
片目、片足、数本の指を失いながらも戦う猛将。
その一方で、重次は、
組織を支える冷徹な実務家としても、
高く評価されていました。

家臣団が拡大し、
徳川家が巨大な組織へと成長していく過程で、
重次は「規律」という目に見えない土台を、
己が鬼となって支える役割を担ったのです。

何によって家康と組織を支えたのか

重次が主君と組織を支えたのは、
「徹底した規律と、妥協なき責任感」
にありました。

戦国大名の家臣団には、
さまざまな価値観を持つ者たちが集まります。
武功を求める者、出世を望む者、
領地を守ろうとする者。
そうした個性の強い人々を、
一つの方向へ動かすためには、
例外を許さない共通の規律が必要でした。

重次はその規律の運用を、
誰よりも厳格に執行します。

命令は確実に実行する。
責任は最後まで果たす。
そして、公と私を絶対に混同しない。

その苛烈なまでの姿勢は、
「鬼作左(おにさくざ)」と称され、
身内であっても決して特別扱いせず、
公私を厳格に分ける冷徹さがありました。

重次を象徴する逸話として有名なのが、
長篠の戦いの陣中から妻へと送った書状です。

一筆啓上
火の用心
お仙泣かすな
馬肥やせ

わずか十数文字。
ここには、生死を懸けた決戦を前にしながらも、
私情を語る言葉も、
戦功を誇る言葉も一切ありません。

家を守ること。
火災という致命的なリスクを防ぐこと。
後継者(お仙)を無事に育てること。
そして、戦力の本質である馬を管理すること。

極限状態の戦場にあってもなお、
重次が求めたのは、
銃後の人間がそれぞれの、
「役割」を冷徹に全うすることでした。

重次にとって、
日々の小さな責任を当たり前に果たすことこそが、
巨大な組織を支える唯一の基本だったのです。

この参謀が示した組織運営のあり方は

重次が示した組織運営のあり方、
それは「規律こそが、組織の自由を支える」
ということでした。

規律という言葉には、
一見すると窮屈な印象があります。

しかし組織において規律とは、
人を縛り付けるためだけに存在するものではありません。

誰が何を担うのか。
何を優先するのか。
責任はどこにあるのか。

それが明確なルールとして機能しているからこそ、
組織は疑心暗鬼に陥らず、
非常時でも混乱せずに機能します。

もし個人の感情や、
その場の思い付きだけに判断を任せてしまえば、
組織は内側から簡単に崩壊していきます。

特に、主君の寵愛や、
身内の情実によってルールが歪められるとき、
組織の腐敗は始まります。

重次は、相手の身分や立場に左右されることなく、
法と規律に照らして一歩も引かない頑固さで、
組織の公義を守り続けました。

重次は、華やかな策謀を巡らせたわけではありません。
壮大な戦略を描いたわけでもありません。

しかし、「決められたことを徹底する。
責任を曖昧にしない。公私を分ける」
という当たり前を、
誰に対しても貫き通しました。

それは、綺麗事を排した、
戦国の実務家だからこそ到達できた、
極めて現実的で強固な組織論だったのです。

その仕事は何を変えたのか

重次の仕事は、徳川家臣団に
「規律を重んじる実務文化」を根付かせました。

戦場における個人の武勇だけでは、
領国が広がり、肥大化していく組織を、
維持することはできません。

組織が成長すればするほど、
派手な手柄を立てる者以上に、
ルールを守り、地味な責任を果たし、
秩序を維持する者が不可欠になります。

酒井忠次が全体のバランスを調整し、
榊原康政が主君の暴走に、
命懸けで苦言を呈する中で、
重次は現場の法と秩序を厳格に維持し、
組織の骨組みを強固に固めました。

その容赦のない積み重ねが、
やがて来る「法による統治」の時代へと、
繋がっていきます。

江戸幕府が二百六十年以上にわたり、
戦国へ逆戻りすることなく、
安定を保ち続けた背景には、
優れた戦略だけではなく、
この「日々の規律と責任を果たす」という、
重次が現場に植え付けた鉄の文化がありました。

本多重次は、その文化を、
自らの生き様をもって支え抜いた人物だったのです。

明日は、平岩親吉

本多重次が示したのは、
組織を足元から動かすために欠かせない、
「規律の力」でした。

しかし、どれほど厳格な規律があっても、
組織はそれだけで未来を築くことはできません。
ルールを守らせる一方で、
次の時代へと理念や経験を受け継ぎ、
次世代の指導者を育てる、
「器」もまた重要になります。

次に登場するのは、
徳川家から絶大な信頼を受け、家康の愛息や、
後の後継者たちの成長を影から支え続けた男。

第4回は、
「後継者を育てた参謀」平岩親吉の物語に迫ります。

1542-1612を生きた武将。徳川家康に幼少期から仕えた譜代の重臣。若き頃は家康の嫡男・信康の傅役(もりやく)に任じられ、その教育と成長を託された。信康事件という悲劇の後も、その誠実な人格と卓越した領国経営の手腕から変わらぬ信任を受け続ける。のちに家康から、次代を担う幼少の九男・徳川義直(五郎太丸)の傅役を託されると、義直の名代として甲斐一国の統治を実質的に主導し、やがて御三家筆頭となる尾張徳川家の基盤と人材を強固に育て上げた。武功を誇るよりも、次代の主君と組織を支えることに生涯を捧げたその姿は、まさに「後継者を育てた参謀」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|平岩親吉】江戸時代編.4

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13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
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13東京都
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
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13東京都
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
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