奥平信昌





Okudaira Nobumasa (1555-1615)

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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奥平信昌
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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館長

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シリーズ「江戸を動かした参謀たち」第5話目は、奥平信昌が登場

館長

本シリーズは、「人と組織の動かし方」にスポットライトを当てた六人の物語です

こんな背景

シリーズ:江戸を動かした参謀たち

第5回:奥平信昌〜徳川を支えた女婿〜

今回のシリーズ:「江戸を動かした参謀たち」は…
天下は、誰が動かしていたのか

前シリーズ「非戦の統治者たち 」 では、
作法によって人を整えた者、
美によって価値観を変えた者、
思想によって争いを防いだ者、
そして、信念によって人々を導いた者たちを追いました。

そこには、
武力だけでは説明できない、
もう一つの歴史の動かし方がありました。

そして、天下人は一人でも、
政権は、その一人では動きません。

天下統一の後に訪れた江戸時代も、
例外はありません。

そこで、新たな問いが生まれます。

その問いとは、

「徳川家康はいったい誰に支えられていたのか。」

「勝つこと」と「治めること」

戦国時代には、
強い武将が数多く存在しました。

しかし、
戦に勝つことと、
国家を治めることは別の能力です。

関ヶ原に勝っただけでは、
二百六十年以上続く幕府は生まれません。

必要だったのは、
人をまとめる者。
組織を整える者。
後継者を育てる者。
財政を支える者。
そして、主君に苦言を呈する者でした。

徳川政権の強さは、
家康一人の才能だけではなく、
それを支える中枢の人材によって支えられていたのです。

表に出ない実力者たち

本シリーズで扱うのは、
将軍でもなければ、
天下人でもありません。

今回登場するのは、
主君の隣で考え、
組織を支え、
制度を動かした実務家たちです。

彼らは派手な功績で、
歴史に名を残したわけではありません。

しかし、
組織が迷った時には方向を示し、
危機の時には秩序を守り、
次の世代へと政権をつないでいきました。

言い換えれば、彼らがいなければ、
徳川幕府はこれほど長く続かなかったかもしれません。

戦国から江戸へ

この六人が生きたのは、
天下取りの時代から、
天下を維持する時代へと移り変わる転換期。

求められたのは、
武勇だけではありません。

組織を支え、人を育て、
仕組みを整える力でした。

本シリーズでは、
その力を発揮した六人にスポットライトを当てます。

「江戸を動かした参謀たち」
第1回 酒井忠次

徳川を支えた総参謀

1
第2回 榊原康政

諫言を貫いた忠臣

2
第3回 本多重次

規律を徹した実務家

3
第4回 平岩親吉

後継者を育てた参謀

4
第5回 奥平信昌

徳川を支えた女婿

5
第6回 大久保長安

財政を動かした策士

6
問われているのは「組織を支える力」

優れた組織、指導者とは何でしょうか。

そして、長く続く仕組みは、
どのようにして生み出されるのでしょうか。

歴史は英雄によって動くように見えます。

しかし実際には、その背後で考え、
支え、整え続けた人々がいます。

本シリーズが見つめるのは、
天下人ではなく、
天下人を支えた者たちです。

それは、戦国の勝者がどのようにして、
江戸という巨大な組織を築き上げたのかを探る物語でもあります。

どのような時代を生きたのか

奥平信昌が生きたのは、
戦国大名たちが同盟と離反を繰り返しながら、
生き残りをかけて争った時代でした。

当時の戦国社会では、
敵か味方かという関係は、
決して固定されたものではありません。

昨日までの同盟者が敵となり、
昨日までの敵が味方となることも、
珍しくありませんでした。

信昌が率いた奥平氏もまた、
三河・遠江・信濃の境界地域に、
勢力を持つ国衆として、
常に大勢力の狭間で、
難しい判断を迫られていました。

今川、徳川、そして武田。

巨大な力に翻弄される中、
若き日の信昌は、
最終的に家康への帰参という道を選びます。

しかし、その決断の代償はあまりにも残酷でした。

裏切りに激怒した武田勝頼によって、
武田方に人質として預けていた信昌の妻や弟、一族が、
ことごとく処刑されたのです。

肉親の血と引き換えに、
退路を断って徳川への忠誠を選んだ信昌。

その覚悟が極限まで試されたのが、
1575年の長篠城攻防戦でした。

武田勝頼率いる一万五千の大軍に包囲されながらも、
信昌はわずか五百の城兵とともに籠城を続けます。

降伏すれば助命される可能性もありました。

しかし信昌は、
飢餓と絶望に耐えながら城を死守し、
織田・徳川連合軍が到着するまでの時間を、
稼ぎ続けたのです。

この長篠城の死守こそが、
織田・徳川連合軍による反撃を可能にし、
のちの長篠の戦いへと繋がる、
最大の分水嶺となりました。

何によって家康と組織を支えたのか

榊原康政 や本多重次 たちと同じく、
信昌が主君と組織を支えたのもまた、
血の滲むような実践によって勝ち得た、
「揺るがぬ信頼を築く力」にありました。

戦国時代の組織は、
武力や制度だけでは維持できません。

人と人との信頼が失われれば、
どれほど強大な大名家でも、
内部から崩壊していきます。

信昌は長篠城において、
文字通り命を投げ出して、
徳川家への忠誠を示しました。

その驚異的な粘り勝ちは、
天下の二大巨頭を動かします。

まず、同盟の主導権を握る織田信長が、
信昌の武功を絶賛しました。

信長は自らの名から一字を授け、
これによっては、
「貞昌」から「信昌」へと改名します。

覇王・信長が、一介の国衆に、
偏諱(へんき)を与えるのは極めて異例のことでした。

そして主君である徳川家康は、
命懸けで領国を守り抜いた信昌に対し、
最大の誠意で応えます。

戦前からの約束通り、
長女である亀姫を信昌に嫁がせました。

さらに、家康自身が秘蔵していた、
徳川家の家宝である名刀「大般若長光」を授けたのです。

戦国時代の婚姻は家と家を結ぶ同盟ですが、
家康が譜代の重臣たちを差し置いて、
新参の国衆である信昌に愛娘と家宝を託した背景には、
「この男だけは絶対に裏切らない」という、
命懸けの共闘が生んだ特別な信頼がありました。

信昌は家康の女婿、
すなわち「身内」となった後も、
その特権的な立場に甘えることなく、
徳川家を支える重臣としての責務を、
実直に果たし続けたのです。

この参謀が示した組織運営のあり方は

信昌が示した組織運営のあり方、
それは「信頼こそが、
組織を結び付ける最強の接着剤である」、
ということでした。

組織は制度だけではまとまりません。
規則を整えることも重要です。
しかし、最終的に人を動かすのは、
「この人のためなら」と思える感情的な繋がりです。

戦国時代の徳川家は、
出自も立場も異なる、
国衆や降将を次々に取り込みながら、
巨大化していきました。

その中で信昌は、
「外様(とざま)の国衆であっても、
命を懸けて結果を出せば、
一門(身内)として迎え入れられる」という、
実力主義と信頼の象徴となったのです。

家族としての結び付きを得た奥平家と徳川家は、
もはや単なる主従関係を超えた、
運命共同体となりました。

信頼は言葉だけでは生まれません。

約束を守ること。
責任を果たすこと。
そして、どれほど過酷な状況であっても、
逃げずに踏みとどまること。

信昌はそのすべてを戦場で実践し、
証明しました。

だからこそ信昌は、
徳川家中において特別な信任を受け、
家を繋ぎ止める役割を担えたのです。

その仕事は何を変えたのか

信昌の仕事は、
徳川家臣団の「結束力」を決定的なものにしました。

長篠城での防衛戦によって、
徳川家を滅亡の危機から救い、
江戸幕府の樹立に向けて、
組織の背後を固める重鎮として君臨し続けます。

関ヶ原の戦い直後には、
初代の「京都所司代」に抜擢。

朝廷や公家、
さらには大坂の豊臣家を監視するという、
一歩間違えれば天下を揺るがす、
最重要ポストを任されたこと自体、
家康が信昌に対して抱いていた、
信頼の深さを物語っています。

のちに美濃加納藩十万石を与えられ、
信昌と亀姫の子・忠明は家康の養子となり、
徳川一門の証である「松平」姓を許されるなど、
奥平家は別格の待遇を受けることになります。

譜代、外様、そして一門。
信昌はその境界線を越えて組織を一つに結び、
新参の家臣たちに対して、
「忠義の価値」を背中で示し続けました。

徳川家康は、
力だけで天下を奪ったのではありません。

奥平信昌のような、
死線をともにして結ばれた、
「本物の絆」を持つ存在がいたからこそ、
二百六十年続く揺るぎない土台を、
完成させることができたのです。

明日は、大久保長安

奥平信昌が示したのは、
異なる家や立場を結び付ける、
「信頼の力」でした。

しかし、どれほど強い信頼関係があっても、
組織を実際に動かしていくためには、
「財政」が必要です。

軍勢を養い、領地を開発し、
城を維持するためには、
莫大な資金を生み出す仕組みが欠かせません。

次に登場するのは、
卓越した金山・銀山開発と行政手腕によって、
徳川政権の圧倒的な経済基盤を築き上げた、
異色の実務家。

シリーズ「江戸を動かした参謀たち」の最終話となる第6回は、
「財政を動かした策士」大久保長安の物語に迫ります。

1545-1613を生きた武将。徳川家康にその卓越した実務能力を見出され、江戸幕府初期の財政と産業政策を支えた異色の行政官。甲斐・石見・佐渡など主要鉱山の開発と管理を担い、金銀生産を飛躍的に拡大させることで幕府財政の基盤確立に大きく貢献した。また、街道整備や治水事業、新田開発にも積極的に取り組み、経済と物流の発展を推し進めている。武将として戦場で功績を挙げた人物ではないが、資源・人材・資金を動かすことで徳川政権を内側から支えた。その手腕は家康から絶大な信任を受けた一方、死後には不正蓄財の嫌疑による「長安事件」が発生し、その評価は今日まで議論が続いている。しかし、江戸幕府の経済基盤形成に果たした役割は極めて大きく、「財政を動かした策士」と呼ぶにふさわしい人物であった。 いらすとすてーしょんでは、出生地を山梨県とさせていただきます。
【政治の部屋|大久保長安】財政を動かした策士

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政治の部屋
1846-1866を生きた徳川十四代将軍。紀州藩主・徳川斉順の子として、父の死から16日後に江戸の紀州藩邸で生まれ、満2歳で紀州藩主を継いだ。1858年、将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派の支持を受け、満12歳で第14代将軍に就任する。1862年には孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎え、朝廷と幕府の融和を図る公武合体を象徴する存在となった。翌年には家光以来およそ230年ぶりとなる上洛を果たし、朝廷からの強い攘夷要求を受けて幕府として攘夷実行を約束する。続く上洛では将軍として初めて海路を用いるなど、朝廷との関係維持に奔走した。勝海舟の進言を容れて神戸海軍操練所の設置を認めるなど、新しい時代への理解も示している。1866年、第二次長州征伐のため滞在していた大坂城で病に倒れ、満20歳で死去した。和宮との仲は睦まじく、側室を置かなかったと伝えられる。家茂の死を知った勝海舟は日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記した。若くして朝廷と幕府の狭間に立ち続け、その調停に心身を削ったその生涯は、まさに「公武合体に若き命を賭す」将軍であった。
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政治の部屋
1824-1858を生きた徳川十三代将軍。文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城西の丸に生まれる。多くの兄弟が幼くして亡くなるなかで唯一成人し、将軍後継者となった。幼少から病弱であったため、その器量や健康状態を不安視する声もあったが、老中・阿部正弘らの支持を受けて世子の地位を固めた。1853年、黒船来航の混乱のさなかに家慶が死去すると、同年中に第13代将軍に就任する。翌年には日米和親条約が締結されたが、家定自身は病状が重く、幕政は阿部正弘、ついで堀田正睦らが主導した。御台所に天璋院(篤姫)を迎えるも実子には恵まれず、将軍継嗣をめぐって井伊直弼ら南紀派の推す徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が激しく対立する。1858年、家定は諸大名を前に慶福を後継者とする意向を示し、続いて一橋派の処分を発表した。これは病弱で政治的発言の少なかった家定が、自ら後継問題について明確な意思を示した数少ない場面であった。その翌日、34歳で死去する。病弱の身で黒船来航後の国難と将軍継嗣問題の渦中に置かれたその生涯は、まさに「病弱の将軍として継嗣問題に揺れる」将軍であった。
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1793-1853を生きた徳川十二代将軍。寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる。兄の早世により将軍後継者となり、1837年、44歳で第12代将軍に就任したが、実権はなお大御所・家斉が握り続けていた。家斉の死後、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を進めるものの、諸方面の反発を受けて挫折。その後は阿部正弘を重用し、海防強化や政務改革に取り組んだ。家臣の進言に「そうせい」と応じることが多かったことから「そうせい様」と渾名された一方、人材登用では優れた眼識を発揮した。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、家慶はすでに病床にあり、阿部正弘の報告に「斉昭と相談せよ」と述べるにとどまった。それから間もない同年、家慶は60歳で死去し、子の家定が跡を継いだ。徳川の泰平が終わりを迎え、幕末への扉が開かれる歴史の転換点に立ち会ったその生涯は、まさに「黒船来航に立ち会う将軍」であった。
【政治の部屋|徳川家慶】黒船来航に立ち会う将軍New!!
13東京都
1773-1841を生きた徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家斉】50年の治世で幕府を緩ませるNew!!

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