井深大 Masaru Ibuka盛田昭夫 Akio Morita

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【経営者の部屋|井深 大&盛田昭夫】


出井伸之 元ソニー社長を偲んで創業者のイラストポートレートを!
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井深大イラストポートレート(Syusuke Galleryより

盛田昭夫イラストポートレート(Syusuke Galleryより

出井伸之氏を偲んで

出井伸之氏

元会長兼グループ最高経営責任者(CEO)の出井伸之氏が6月2日に肝不全のため死去したと発表した。84歳だった。1960年にソニー入社後、オーディオ事業部長や広告宣伝本部長を務め、95年に社長に就任した。社長就任後、「デジタル・ドリーム・キッズ」のキーワードを掲げ、パソコン事業「VAIO」を成功させるなど、ソニーのデジタル改革を先導した。日経電子版2022年6月7日 12:47更新より引用

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16富山県
1881-1968を生きた経営者であり実業家。農業から、力自慢を買われて大相撲力士。怪我により引退後商店経営を経て、1919(大正8)年、鉄鋼圧延用のロールを製造する東京ロール製作所を設立。その後、関東大震災復興に伴う鉄鋼需要に応じて大谷製鋼所、大谷製鐵、大谷重工業を続けて設立した。戦後、1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けて、宿泊施設の不足を解消するためにホテルニューオータニを創業させた。
【経営者の部屋|大谷米太郎】大正時代編.15
39高知県
1866-1944を生きた経営者であり実業家。1886(明治19)年、神戸にあった鈴木商店に入社しキャリアをスタートさせる。1894(明治27)年、当主の鈴木岩治郎が亡くなると、未亡人の鈴木よねを支え番頭として活躍する。その後、台湾樟脳油の販売権を獲得など業績を伸ばした。1905(明治38)年、神戸製鋼所の前身である小林製鋼所を買収。1915(大正4)年、米沢の織物工場(のちの帝人)を買収して人造絹糸の事業を開始。第一次世界大戦中には、鉄や物資の大量買い付けを行い、三井・三菱に匹敵する商社に発展させた。しかし、昭和2年の金融恐慌で同店は破綻。
【経営者の部屋|金子直吉】明治時代編.76
30和歌山県
1820-1885を生きた経営者であり実業家。ヤマサ醤油7代目として活躍し、1854年の南海大地震では「稲むらの火」として伝えられるエピソードにより、多くの村民を救った。また津波被害を軽減するための堤防設置や、神田お玉ヶ池種痘所の再建に多額の寄付を行い、社会事業に積極的に貢献している。
【経営者の部屋|濱口梧陵】江戸時代編.23
35山口県
1818-1882を生きた経営者であり実業家。萩藩の命により熊谷家の養子となり、奇兵隊に軍用金を工面、製銃所建設、禁門の変の出兵、武器購入などのために多額の資金を提供し藩財政に貢献した。
【経営者の部屋|熊谷五一】江戸時代編.22
40福岡県
1908-1997を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学経済学部を卒業後、1946(昭和21)年に経団連設立時に総務部次長に就任。その後事務総長、副会長を歴任する。また、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当した。1958(昭和33)年に日本航空の会長に就任し、航空業界でも大きな影響力した。また日韓文化交流にも力を注ぎ、1991(平成3)年には韓国から修交勲章光化章を受章している。
【経営者の部屋|花村仁八郎】昭和時代編.42
42長崎県
1924-1985を生きた経営者であり実業家。キャリアを朝日新聞社でスタートさせ、政治部次長を務める。大物政治家に密着し、派閥記者としてその名を馳せた。1965(昭和40)年に日本教育テレビ(現、テレビ朝日)に移り、同社の制作役員として編成や報道部門を統括した。1977(昭和52)年に1980年開催予定のモスクワオリンピック(日本はその後不参加を表明)の独占放送権を獲得するなど、大きな影響力を誇っていた。
【経営者の部屋|三浦甲子二】昭和時代編.41
15新潟県
1922-2002を生きた経営者であり実業家。1957(昭和32)年に、スピード重視の京都-大阪間を主体とした飛脚業をスタートさせ、1965(昭和40)年佐川急便株式会社を設立。同社の業績を拡大させ全国規模の運輸会社に成長させた。
【経営者の部屋|佐川 清】昭和時代編.40
26京都府
1927-2013を生きた経営者であり実業家。1950(昭和25)年、22歳で株式会社丸福(任天堂の前身)を祖父より継ぎ社長に就任。花札やトランプに加え、1965(昭和40)年に「ウルトラハンド」が大ヒットし、任天堂は玩具事業に傾倒。1983(昭和58)年に家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売し、世界的な成功を収める。また、日本人初の大リーグチーム(シアトル・マリナーズ)のオーナーもつとめた。
【経営者の部屋|山内 溥】昭和時代編.39
14神奈川県
1931-2011を生きた経営者であり実業家。日産自動車の工員などを経て、「現代詩」誌の編集者やヤマハのPR誌「ヤマハニュース」の編集長を務める。1969(昭和44)年に草思社(現在は文芸社の子会社)を創業し、初刊行物「ビートルズ伝記」を出版し、10万部を売り上げ同社の基盤となる。その後も、谷川俊太郎訳の「マザー・グースのうた」などの多くのベストセラーを生み出した。
【経営者の部屋|加瀬昌男】昭和時代編.38
20長野県
1922-2011を生きた経営者であり実業家。出版社の勤務を経てみすず書房の創業に名を連ねる。編集長として「現代史資料」や「荻生徂徠全集」などの重要な書籍を編纂し、みすず書房を総合出版会社に育てる。ヴィクトール・フランクルの原題「一心理学者の強制収容所体験」を「夜と霧」として発刊。や「現代史資料」ではゾルゲ事件などを扱ったシリーズを編纂した。
【経営者の部屋|小尾俊人】昭和時代編.37
14神奈川県
1921-2000を生きた経営者であり実業家。読売新聞を経て、1954(昭和29)年「アサヒ芸能新聞」を再刊、1956(昭和31)年に「週刊アサヒ芸能」。1961(昭和36)年には徳間書店を創立し、総合出版会社としての地位を確立する。その後、大映を買収・映画業界に進出、特にスタジオジブリの設立に大きく貢献し、「風の谷のナウシカ」などの名作を世に送り出す立役者となった。当時の石原都知事に懇請され、東京都写真美術館の館長を務めるもオープン直前でこの世をさり、その館長は福原義春が後任となった。
【経営者の部屋|徳間康快】昭和時代編.36
40福岡県
1799-1881を生きた経営者であり実業家。江戸後期に、からくり人形や菜種油を使った携帯用燭台や空気圧を利用した油ランプなど、実用的な製品を数々発明し、その後、佐賀藩に招かれ、日本初の国産蒸気機関車と蒸気船を設計・製作にあたった。1875(明治8)年に田中工場を設立し、数多くの発明を続けた。田中工場は、のちに芝浦製作所、そして現在の東芝となっている。これらの業績により「東洋のエジソン」と称された。
【経営者の部屋|田中久重】明治時代編.75
26京都府
1869-1951を生きた経営者であり実業家。創業者である父より島津製作所を受け継ぎ、1895(明治28)年にヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見したのを受けて、X線の研究に着手し、翌年に日本国内初のX線写真の撮影に成功させた。1897(明治30)年に京都帝国大学からの注文を受けて鉛蓄電池を作製し、これが後に「GS(Genzo Shimazu)蓄電池」となる。その後、1909(明治42)年に国産初の医療用X線装置を開発し、X線技術の普及に大きく貢献を果たした。日本十大発明家のひとりに選ばれている。
【経営者の部屋|島津源蔵 (2代目)】明治時代編.74
14神奈川県
1868-1931を生きた経営者であり実業家。1908(明治41)年、東京帝国大学池田菊苗博士がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、この特許を取得。翌年に「味の素」として販売を開始。製造過程での課題を克服し、1917(大正6)年に株式会社鈴木商店(現、味の素株式会社)を設立。
【経営者の部屋|鈴木三郎助】明治時代編.73
21岐阜県
1863-1911を生きた経営者であり実業家。1885(明治18)年に上京し、1887(明治20)年に長瀬商店(現、花王株式会社)を創業。「花王石鹸」を製造・販売し、高品質で低価格の石鹸を提供することで成功を収めた。
【経営者の部屋|長瀬富郎】明治時代編.72
13東京都
1860-1934を生きた経営者であり実業家。幼いころから時計店で修繕の技術を学び、1877(明治10)年に服部時計修繕所を開業。その後1881(明治14)年に服部時計店を創業。輸入時計販売を手掛ける一方で、国産時計の製造を開始。1913(大正2)年には日本初の腕時計「ローレル」を製造・販売を開始した。
【経営者の部屋|服部金太郎】明治時代編.71
29奈良県
1859-1932を生きた経営者であり実業家。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルの指導を受け、兄の春太と共に亜鉛華(酸化亜鉛)を用いた塗料の研究を行う。1880(明治13)年には日本初の洋式塗料ペンキを開発し、翌年には光明社(現、日本ペイント)を設立。その後、日本海軍の艦船用塗料や、皇居の造営にも使用された。塗料業界での革新に留まらず、ゴム工業など新たな用途の開拓者でもあった。
【経営者の部屋|茂木重次郎】明治時代編.70
26京都府
1858-1918を生きた経営者であり実業家。小学校教師を経て、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に就任。その後兄の羽室嘉右衛門と共に製糸工場「羽室組」を創業し、1896(明治29)年に郡是製絲株式会社(現、グンゼ株式会社)を創業。熱心なクリスチャンであり、女性工員の教育にも力を入れた。
【経営者の部屋|波多野鶴吉】明治時代編.69
11埼玉県
1852-1910を生きた経営者であり実業家。1877(明治10)年に上京、石鹸工場「鳴春舎」に入社し、石鹸事業に携わる。1891(明治24)年に小林富次郎商店(現、ライオン株式会社)を創業し、獅子印ライオン歯磨」を発売し事業を軌道に乗せた。その後粉ハミガキ「慈善券付ライオン歯磨」による社会貢献活動など、積極的に慈善事業を展開した。その姿は、熱心なクリスチャンとして「そろばんを抱いた宗教家」とも称される。
【経営者の部屋|小林富次郎】明治時代編.68
12千葉県
1848-1924を生きた経営者であり実業家。幕府医学所で西洋薬学を学び、その後薬剤師としてキャリアをスタートさせ、民間初の洋風調剤薬局となる資生堂を開業。当時の日本にはなかった医薬分業を唱えた。1897(明治30)年に化粧水「オイデルミン」を発売し、資生堂は日本の化粧品業界で確固たる地位を築いた。日本薬剤師会の第3代会長もつとめている。
【経営者の部屋|福原有信】明治時代編.67
28兵庫県
1878-1961を生きた経営者であり実業家。神戸市小学校で代用教員でキャリアをスタートさせ、その後上京し『児童新聞』や『婦女新聞』の編集に携わる。1914(大正3)年に平凡社を創設し、「 や、此は便利だ ポケット顧問」を出版。平凡社はその後、「大百科事典」などの出版を通じて、事典出版社の大手となった。戦後は、平和運動に尽力している。
【経営者の部屋|下中弥三郎】大正時代編.14
27大阪府
1883-1951を生きた経営者であり実業家。父(3代目)の設立した山口銀行(現、三菱UFJ銀行)の社長として銀行業務を拡大し、大阪貯蓄銀行や日本生命保険の会長も歴任している。陶磁器の蒐集家としてもその名を刻み、そのコレクションは現在滴翠美術館に収蔵されている。茶道家としても活動。
【経営者の部屋|山口吉郎兵衛(4代)】明治時代編.66
43熊本県
1853-1932を生きた経営者であり実業家。慶應義塾大学予科を卒業後、兵庫県役人や神戸師範学校の校長などを務めた。その後、大阪毎日新聞の社長に就任、東京日日新聞を合併し、毎日新聞の基盤を築き上げる。明治生命保険や山陽鉄道、南海鉄道などの取締役を歴任など、関西経済界をリードした。
【経営者の部屋|本山彦一】明治時代編.65
13東京都
1846-1898を生きた経営者であり実業家。明治期に入り、北海道で椎茸製造や物産業、旅館業を営む。1876(明治9)年には、秀英舎(現、大日本印刷)を創業する。秀英舎は、新聞や書物の印刷を手掛け、日本初の洋製本を上梓するなど、印刷業界で大きな影響力を誇った。東京板紙会社、大日本図書、日本吉佐移民会社、国民貯蓄銀行などの経営にも携わる。労働組合の結成や工場法の制定を主張し、「日本のロバート・オウエン」とも称されている。
【経営者の部屋|佐久間貞一】明治時代編.64
39高知県
1865-1955を生きた経営者であり実業家。慶應義塾、米国留学を経て、1891(明治24)年に父の創業した三菱に入社。1894 (明治26)年には、叔父の岩崎弥之助と三菱合資を設立し社長となり、三菱財閥の3代目総帥として手腕を発揮した。鉱業と造船を中心に事業を発展し、麒麟麦酒、農政事業、製紙業などの創業にも関わっている。
【経営者の部屋|岩崎久弥】明治時代編.63
39高知県
1851-1908を生きた経営者であり実業家。1872(明治5)年に米国留学、その後帰国し、兄の創立した三菱に入社。1885(明治18)年に亡き兄の後を継ぎ三菱2代目総帥となり、三菱の多角化を推進した。三菱は、海運業から鉱山開発、造船、金融、不動産など多岐にわたる事業を展開した。1890(明治23)年に政府から丸の内の土地を購入し、三菱ビジネスの中心地とした。第4代日本銀行総裁を務めている。
【経営者の部屋|岩崎弥之助】明治時代編.62
39高知県
1835-1885を生きた経営者であり実業家。安積艮斎、吉田東洋に師事し、明治維新後、長崎、大阪の藩営の商社土佐商会で手腕を発揮。1870(明治3)年に三菱商会の前身となる九十九商会を創設し、1873(明治6)年に、三菱商会(その後、三菱蒸汽船会社・現、三菱グループ)と社名変更。台湾出兵、西南戦争などでの軍需輸送により海運界を一手に行う。また鉱山、荷為替、造船などに事業を広げ三菱財閥の基礎を築いた。
【経営者の部屋|岩崎弥太郎】明治時代編.61
28兵庫県
1837-1897を生きた経営者であり実業家。13歳の時に乗っていた船が遭難し、アメリカ商船に救助されてサンフランシスコに渡り、カトリックの洗礼を受けジョセフ・ヒコと名乗る。1858年日本人として初めてアメリカ市民権を取得、翌年にはアメリカ領事館の通訳として帰国を果たした。1864年に、日本で初めての民間新聞「海外新聞」を創刊し「新聞の父」と称されている。横浜で貿易商や、大蔵省に勤務して国立銀行条例の編纂や大阪造幣局の設立にも尽力している。
【経営者の部屋|ジョセフ・ヒコ】江戸時代編.21
13東京都
1934- を生きる経営者であり実業家。専業主婦から、「株式会社発明サービスセンター」を設立し、発明家と企業を仲介するサービスを開始。その中で、女性生理用品の改良に目をつけ、製造・販売するアンネを設立した。アンネは1993(平成5)年にライオンに吸収合併され、その後ユニ・チャームに譲渡された。
【経営者の部屋|坂井泰子】昭和時代編.35
46鹿児島県
1932-2022を生きた経営者であり実業家。1955(昭和30)年に鹿児島大学工学部を卒業し、松風工業に入社。1959(昭和34)年に京都セラミック(現、京セラ)を設立。1984(昭和59)年には第二電電(現、KDDI)を設立し、通信事業にも進出。2010(平成22)年には日本航空の会長に就任し、経営再建を成功させた。「アメーバ経営」と呼ばれる独自の経営手法を確立し、多くの企業に影響を与えている。
【経営者の部屋|稲盛和夫】昭和時代編.34
45宮崎県
1932-2007を生きた経営者であり実業家。千葉大学卒業後、そごうデパートに入社し1960(昭和35)年にソニーに入社。同社創業者に見出され、ソニーのロゴマークやウォークマン、ジャンボトロンなどの製品開発に携わり、ソニーのブランド構築に大きく貢献。取締役を経て、ソニー企業株式会社代表取締役に就任し、活躍した。
【経営者の部屋|黒木靖夫】昭和時代編.33
13東京都
1931-2023を生きた経営者であり実業家。1953(昭和28)年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、祖父が創業した資生堂に入社。物流の合理化、流通の再編成をすすめ、また医薬品開発など経営の多角化をおこない同社を業界大手に育て上げた。東京都写真美術館の館長など文化活動も盛んであった。
【経営者の部屋|福原義春】昭和時代編.32
11埼玉県
1930-2006を生きた経営者であり実業家。戦後、日本国有鉄道職員として勤務の後、建設業や、やみ米の行商などを経て、1965(昭和40)年に個人営業の小口融資をはじめる。1966(昭和41)年に武富士の前身である「富士商事」を設立し、サラリーマン金融で事業を急成長させた。
【経営者の部屋|武井保雄】昭和時代編.31
13東京都
1926-2007を生きた経営者であり実業家。高校教師などを経て、1961(昭和36)年に西武百貨店に入社。1969(昭和44)年に西武が引き取った東京丸物百貨店を改装し、若者ファッション専門店として池袋パルコとして創業。その後、渋谷パルコを開設し、全国に展開。パルコ文化と呼ばれる若者文化を創り出した。またホテル経営にも参入している。
【経営者の部屋|増田通二】昭和時代編.30
08茨城県
1925-2020を生きた経営者であり実業家。1946(昭和21)年に富士通信機製造(現、富士通)に入社。NC(数値制御)装置を開発。富士通ファナック(現、ファナック)専務を経て、1975(昭和50)年同社社長となり、世界有数の産業用ロボットメーカーに育て上げた。技術者としても優れた業績を残し、電気油圧パルスモーターや数値制御器の研究開発に従事。
【経営者の部屋|稲葉清右衛門】昭和時代編.29
01北海道
1922-1998を生きた経営者であり実業家。函館新聞記者を経て、1955(昭和30)年にアート・フレンド・アソシエーションを設立。ドン・コザック合唱団やボリショイ・バレエ団などを招き、成功を収める。その後、居酒屋チェーン「北の家族」を経営し、成功を収めた。多くの文化人と交流のあったことでも知られている。
【経営者の部屋|神 彰】昭和時代編.28
23愛知県
1921-1999を生きた経営者であり実業家。1946(昭和21)年に井深 大と共に東京通信工業(現、ソニー)を設立し、営業を担当。アメリカ市場でトランジスターラジオの販売を成功させ、SONYブランドを確立させた。1971(昭和46)年に同社社長。欧米の財界人と積極的に交流し、民間外交にも尽力。
【経営者の部屋|盛田昭夫】昭和時代編.27
04宮城県
1920-1998を生きた経営者であり実業家。第二次大戦ではインパール作戦に参加し、九死に一生を得て復員。1946(昭和21)年に京都で婦人洋装装身具卸の和江商事(現、ワコール)を設立し、社長に就任。下着のファッション化の波に乗り、急成長を遂げた。京都商工会議所会頭や日本商工会議所副会頭も務めた。
【経営者の部屋|塚本幸一】昭和時代編.26
39高知県
1917-1993を生きた経営者であり実業家。日本タイプライター精機製作所に勤めた後、1946(昭和21)年に樫尾製作所(現、カシオ計算機)を設立。1954(昭和29)年にリレー計算機、1965(昭和40)年に電子式卓上計算機を開発。同社を急成長させ、カシオを世界的なブランドに育て上げた。
【経営者の部屋|樫尾忠雄】昭和時代編.25
26京都府
1914-1995を生きた経営者であり実業家。1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで三越の社長を務めた。三越の経営改革を推進し、百貨店業界の発展に大きく貢献。特に、店舗の近代化やサービスの向上に力を入れ、顧客満足度を高めた。彼のリーダーシップの下、三越は国内外での店舗展開を進め、ブランド力を強化した。
【経営者の部屋|岡田 茂】昭和時代編.24
26京都府
1910-1971を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設し、財を築き上げた。1939(昭和14)年に日本殖産工業を創設し、その後、社長に就任。1949(昭和24)年にリッカーミシンと改称し、一代で上場企業に育てた。浮世絵のコレクターとしても知られ、平木浮世絵財団に保管されている。
【経営者の部屋|平木信二】昭和時代編.23
0099886中華民国出身
1910-2007を生きた経営者であり実業家。1936(昭和11)年に東洋メリヤスを設立し、1948(昭和23)年には食品販売の中交総社を設立。1958(昭和33)年に急速油熱乾燥法により世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」の商品化に成功し、同年に日清食品と社名変更し、社長に就任。その後「カップヌードル」を発売した。日本即席食品工業協会会長も務めている。
【経営者の部屋|安藤百福】昭和時代編.22
48出生地不明
1909-1985を生きた経営者であり実業家。岡本巳之助は、昭和初期に岡本ゴム工業を創業し、姉、弟と共に天然ゴムラテックスを原料とするスキンの研究に着手し、その後製造に乗り出す。戦後、岡本理研ゴムを経てオカモト株式会社となった。ゴム手袋や避妊具などの製品で市場を拡大し、品質向上と技術革新に尽力したことで、岡本ブランドを確立した。
【経営者の部屋|岡本巳之助】昭和時代編.21
09栃木県
1908-1997を生きた経営者であり実業家。盛田昭夫と共に東京通信工業を設立し、1950(昭和25)年に社長に就任。国産初のテープレコーダーやトランジスターラジオなどを商標『SONY』で輸出し、1958(昭和33)年に社名をソニーに改称。独創的な技術開発を主導し、営業担当の盛田とのコンビで同社を『世界のソニー』に育て上げた。1971(昭和46)年に会長に就任し、幼児開発協会理事長なども務めた。
【経営者の部屋|井深 大】昭和時代編.20
23愛知県
1907-1987を生きた経営者であり実業家。戦前は旅館業などに関わり、1948(昭和23)年に日本初の割賦販売会社を名古屋に設立。1951(昭和26)年には東京で日本信用販売(現、三菱UFJニコス)を設立し、三和銀行と共同でJCBを創設。信販制度を日本に定着させ、消費者金融の発展に大きく貢献した。城山三郎の小説『風雲に乗る』のモデルとしても知られる。
【経営者の部屋|山田光成】昭和時代編.19
22静岡県
1906-1991を生きた経営者であり実業家。自動車修理工見習いとしてキャリアをスタートし、1928(昭和3)年に浜松アート商会を創業。1946(昭和21)年に本田技術研究所を設立し、1948(昭和23)年には本田技研工業を設立してオートバイ製造に乗り出す。1961(昭和36)年イギリスのマン島オートバイレースで圧勝し、同社は世界的なブランドとなる。翌年には自動車生産に参入し、低公害エンジンの開発に成功。1973(昭和48)年に社長を辞して最高顧問に就任し、技術革新と品質向上に尽力し続けた。
【経営者の部屋|本田宗一郎】昭和時代編.18
13東京都
1905-1981を生きた経営者であり実業家。1927(昭和2)年に東京新宿に紀伊國屋書店を開業。舟橋聖一らと共に『文芸都市』や『行動』を創刊し、尾崎士郎らと『文学者』を立ち上げ、資金を提供して刊行を支援。戦後は海外に支店を展開し、紀伊國屋書店を大型書店へと発展させた。また、小説『世話した女』や随筆集『夜の市長』などの著作を発表し、文筆家としても活躍した。
【経営者の部屋|田辺茂一】昭和時代編.17
13東京都
1904-1993を生きた経営者であり実業家。1949(昭和24)年に横浜市立大学の教授となり、1954(昭和29)年には同大学商学部長に就任。その後、不動産ビジネスに専念するために大学職を辞職し、1959(昭和34年)に森ビルを設立。東京の虎ノ門や新橋地区にオフィスビルを集中的に建設し、アークヒルズやラフォーレ原宿などの大型プロジェクトを完成させた。森ビルを貸しビル業界の大手に育て上げ、日本の都市開発に大きく貢献した。
【経営者の部屋|森 泰吉郎】昭和時代編.16
40福岡県
1903-1963を生きた経営者であり実業家。1928(昭和3)年に日本電報通信社(現、電通)に入社。1947(昭和22)年に社長に就任。民間放送の育成と広告代理業の近代化を推進し、電通を世界的な広告企業へと成長させた。日本ABC協会の設立にも尽力し、広告業界の発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|吉田秀雄】昭和時代編.15
32島根県
1899-2000を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学工学部工業化学科を卒業後、大日本セルロイド(現、ダイセル化学工業)に入社。1934(昭和9)年に写真フィルム部門が独立して設立された富士写真フイルムに転籍し、1943(昭和18)年に同社社長に就任。1960(昭和35)年には会長となり、品質第一主義を掲げて技術開発に尽力。同社の品質が高く評価された立役者であった。
【経営者の部屋|春木 榮】昭和時代編.14
13東京都
1896-1963を生きた経営者であり実業家。渋沢栄一の孫は、東京帝国大学経済学部を卒業後、第一銀行副頭取などを経て、1944(昭和19)年に日本銀行総裁に就任。翌年には幣原内閣の大蔵大臣として戦後財政の処理に尽力。公職追放解除後は、国際電信電話(現、KDDI)の初代社長や文化放送の会長を務め、財界で活躍した。また、アチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)を主宰し、多くの民俗学者を育てたことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|渋沢敬三】昭和時代編.13
28兵庫県
1894-1964を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、日本信託銀行に入行。1925(大正14)年に阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)に入社し、1946(昭和21)年に同社社長に就任。1951(昭和26)年には関西電力の初代社長となり、黒部ダム(黒四ダム)の建設を指揮。戦後の電力不足を解消するための大規模な水力発電所の建設に尽力し、関西地域の経済発展に大きく貢献した。黒部ダムの完成(1963年)を見届けた翌年に逝去した。
【経営者の部屋|太田垣士郎】昭和時代編.12
27大阪府
1894-1958を生きた経営者であり実業家。堺の鉄工所職人だった島野庄三郎は、28歳で独立し、1921(大正10)年に島野鐵工所を創業。フリーホイールの生産に着手し、1939(昭和14)年には日本最大のフリーホイールメーカーとなる。1951(昭和26)年島野工業株式会社にとなり、その後、品質向上と技術革新に挑み続け、外装式変速機の生産を開始し、シマノの基礎を築き上げた。
【経営者の部屋|島野庄三郎】昭和時代編.11
10群馬県
1893-1983を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、米問屋に勤め、1924(大正13)年に独立して山崎種二商店(現、タヤマネ)を設立。1940(昭和15)年には、辰巳倉庫を買収し、ヤマタネの基礎を築いた。1933(昭和8)年には証券業に進出し、1944(昭和19)年に山崎証券(現SMBC日興証券)を創業。日本画の収集家としても知られた、1966(昭和41)年、山種美術館を開設している。
【経営者の部屋|山崎種二】昭和時代編.10
40福岡県
1893-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法科大学経済学科を卒業後、三井銀行に入行。1921(大正10)年に欧米へ留学し、金融業界の視察を行う。帰国後、福岡銀行副頭取を経て、第一徴兵保険(後の東邦生命保険)の社長に就任。1953(昭和28)年には博多大丸の初代社長に就任し、福岡市の経済発展に大きく貢献した。浮世絵のコレクターとしても知られ、そのコレクションは太田記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|太田清蔵 (5代目)】昭和時代編.9
27大阪府
1893-1986を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、新聞販売店を手伝い始め、新聞業界に興味を持つ。1922(大正11)年に「南大阪新聞」を創刊し成功を収める。1933(昭和8)年には「日本工業新聞」を創刊し、戦時中の新聞統合政策により「産業経済新聞」となった。戦後、公職追放を経て1950年に復帰し、産業経済新聞を全国紙に育て上げた。1957(昭和32)年には日本電波塔株式会社を設立し、東京タワーを建設に尽力した。
【経営者の部屋|前田久吉】昭和時代編.8
07福島県
1899-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学経済学部卒業後、東京電灯(現、東京電力)に入社。戦後の電力業界再編で誕生した東京電力社長に就任し、手腕を発揮した。企業の社会的責任と協調的競争の持論を強調したことでも、その名を馳せている。
【経営者の部屋|木川田一隆】昭和時代編.7
28兵庫県
1887-1983を生きた経営者であり実業家。神戸高等商業学校(現、神戸大学)卒業後、スタンダード石油を経て鈴木商店に入社。鈴木商店の破綻後、日商(後の日商岩井・現、双日)の設立メンバーの一人となる。1947(昭和22)年に商工省貿易庁長官や、甲南学園理事長などをつとめた。
【経営者の部屋|永井幸太郎】昭和時代編.6
22静岡県
1886-1978を生きた経営者であり実業家。東京高等商業学校(現、一橋大学)を卒業後、三井物産に入社、世界各地の支店長を歴任し、1939(昭和14)年三井物産社長に就任。1963(昭和38)年国鉄総裁に就任、東海道新幹線の開業、山陽新幹線の着工、そして経営合理化を推進し、戦後の国鉄経営再建に尽力した。
【経営者の部屋|石田礼助】昭和時代編.5
33岡山県
1896-1988を生きた経営者であり実業家。高等工業学校(現、東京工業大学)卒業後、東京石川島造船所(現、IHI)に入社、スイス留学時にタービン技術を習得。1950(昭和25)年社長に就任し、徹底した合理化で同社の再建を果たした。その後1965(昭和40)年に経営難であった東芝の社長に就任し、再建を同じく果した。第4代経団連会長として「増税なき財政再建」とうたい行政改革に尽力した。質素な生活ぶりから「メザシの土光さん」としても親しまれていた。
【経営者の部屋|土光敏夫】昭和時代編.4
28兵庫県
1896-1975を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法学部を卒業後、外務省に入省し、外交官として活躍。1927(昭和2)年に鹿島精一の婿養子となり、鹿島組(現、鹿島建設)に入社。1938(昭和13)年に社長に就任し、戦後は会長として鹿島建設の近代化と国際化を推進。日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」の建設など、多くの革新的なプロジェクトを手掛け、鹿島建設の中興の祖として活躍した。
【経営者の部屋|鹿島守之助】昭和時代編.3
22静岡県
1984-1952を生きた経営者であり実業家。トヨタ自動車の創業者は、東京帝国大学卒業後、父佐吉の経営する豊田自動織機製作所に入社。その後自動車製造に乗り出す。1937(昭和12)年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、初代社長に就任。日本の自動車産業の基盤を築いた。
【経営者の部屋|豊田喜一郎】昭和時代編.2
30和歌山県
1894-1989を生きた経営者であり実業家。松下電器産業(現、パナソニック)の創業者は、家庭用電気器具の製造から始め、パナソニックを世界的な企業に育て上げる。経営理念として「顧客第一主義」を掲げ、従業員の幸福と社会貢献を重視した。また、PHP研究所や松下政経塾を設立し、教育や社会貢献にも力を入れ、その経営哲学は、現代のビジネス界でも高く評価されている。経営の神様とも称されている。
【経営者の部屋|松下幸之助】昭和時代編.1
40福岡県
1889-1976を生きた経営者であり実業家。ゴム底の地下足袋で大きな成功を収め、1918(大正7)年に日本足袋(現、アサヒシューズ)を、1931(昭和6)年にブリヂストンタイヤを創立する。自動車タイヤの国産化を実現し、日本を代表するタイヤメーカーへと成長した。美術品蒐集家としてもその名を刻み、1952年にブリヂストン美術館(現、アーティゾン美術館)を開設。1969年には東京国立近代美術館の建設費を提供し、日本の文化振興に大きな影響を与えた。
【経営者の部屋|石橋正二郎】大正時代編.13
13東京都
1887-1940を生きた経営者であり実業家。1905(明治38)年、古川財閥3代目となり、古河鉱業の社長に就任後、東京古河銀行や古河商事などを新設することで、鉱業に加えて、金融や商業など多岐にわたる事業を展開する総合財閥へと成長させた。
【経営者の部屋|古河虎之助】大正時代編.12
25滋賀県
1889-1964を生きた経営者であり実業家。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1920(大正9)年に箱根土地(後の国土計画)を創立。箱根、伊豆、東京近郊で大規模な開発を成功させ、不動産業界での地位を確立する。また、西武鉄道などの社長を務め、西武グループの基盤を形成した。政治家としても活躍し1953(昭和28)年には衆議院議長に就任した。
【経営者の部屋|堤 康次郎】大正時代編.11
44大分県
1877-1955を生きた経営者であり実業家。1913(大正2)年に大正生命保険(現、プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)を創立し、東京商工会議所で手腕を発揮するなど実業界での影響力を拡大した。その後政治家に転身し、各内閣で大臣を歴任した。
【経営者の部屋|金光庸夫】大正時代編.10
41佐賀県
1882-1980を生きた経営者であり実業家。有明海で採れるカキに含まれるグリコーゲンに着目し、これを菓子に応用できないか模索する。1921(大正10)年に大阪で江崎商店(現、江崎グリコ)を設立し、栄養菓子「グリコ」を製造・販売し、「一粒三百米(メートル)」のキャッチフレーズで、一粒で300メートル走れるエネルギーが得られることを示し、消費行動に大きな印象を与えた。また商品の付録となる「おまけ」という斬新な販売戦略を導入し、子供たちの心を掴んだ。
【経営者の部屋|江崎利一】大正時代編.9
20長野県
1882-1959を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、鉄道院を経て1920(大正11)年に武蔵電気鉄道(現、東急東横線)の経営に携わり、手腕を発揮し、東急グループを創始した。鉄道業界では、早川徳次との経営権争いのエピソードを残している。また蒐集した美術品は現在、五島美術館に収蔵されている。
【経営者の部屋|五島慶太】大正時代編.8
35山口県
1880-1967を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、芝浦製作所(現、東芝)を経て、久原鉱業を引き継ぎ、日本産業(日産)に改組する。日産自動車や日立製作所などを傘下におさめる持株会社体制を導入し、多くの企業を統括する日産コンツェルンを形成した。
【経営者の部屋|鮎川義介】大正時代編.7
08茨城県
1880-1971を生きた経営者であり実業家。一橋大学卒業後、三井物産を経て1914(大正3)年に内田汽船を設立。戦争による船舶需要の急増を見越し、次々に船舶をチャーターし、高騰する船賃で大きな利益をあげた。その後政界に進出し、鉄道大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|内田信也】大正時代編.6
19山梨県
1881-1942を生きた経営者であり実業家。早稲田大学在学中に後藤新平の書生となり、その後根津嘉一郎に認められ鉄道事業経営で手腕を発揮した。ロンドン視察後の1920(大正9)年に東京地下鉄道(現、東京メトロ)を創立。1927(昭和2)年上野-浅草間を開通させた。その後、五島慶太との経営権争いで失脚したエピソードを残している。
【経営者の部屋|早川徳次】大正時代編.5
33岡山県
1880-1943を生きた経営者であり実業家。1906(明治39)年に倉敷紡績社長に就任し、労働環境の改善に努める。1926(大正15)年には倉敷絹織(現、クラレ)を設立し、国産レーヨンの製造販売を開始。中国合同銀行(現、中国銀行)や中国水力電気会社(現、中国電力)の設立にも関わり、地域経済の発展に力を注いだ。また、倉敷中央病院や日本初の西洋美術館である大原美術館を設立者としてもその名を馳せている。
【経営者の部屋|大原孫三郎】大正時代編.4
13東京都
1879-1945を生きた経営者であり実業家。三菱財閥4代目であり三菱合資社長をつとめた。製鉄、電機、航空機などの重工業部門への進出を推進し、各事業部を株式会社として独立させ、日本最大規模の重工業企業集団に育てた。また東京フィルハーモニーや成蹊学園を設立したことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|岩崎小彌太】大正時代編.3
07福島県
1876-1954を生きた経営者であり実業家。東京工業大学を卒業後、アメリカのルイジアナ州立大学に留学し、全米各地の精糖会社を訪ねて精糖技術を学ぶ。その後、南洋興発株式会社を創業し、サイパン島などで製糖業を中心に事業を展開した。、その業績から「砂糖王」とも称されている。
【経営者の部屋|松江春次】大正時代編.2
42長崎県
1875-1971を生きた経営者であり実業家。当時、五大電力会社と謳われた東邦電力を創立し、日本の電力業界で活躍。また茶人としてもその名を馳せている。著作に「人間・福沢諭吉」や、自身の自叙伝などがある。
【経営者の部屋|松永安左エ門】大正時代編.1
27大阪府
1879-1962を生きた経営者であり実業家。1899(明治32)年、大阪で鳥井商店を開業し、その後赤玉ポートワインを発売し大ヒット商品となる。1921(大正10)年に寿屋(現サントリー)を設立し、1929(昭和4)年に日本初の本格的国産ウイスキー「サントリーウヰスキー白札」の製造に成功した。販売宣伝にも革新的な手法を取り入れ、その経営手腕とマーケティング戦略により、サントリーを日本を代表する飲料メーカーへと導いた。
【経営者の部屋|鳥井信治郎】明治時代編.60
04宮城県
1876-1955を生きた経営者であり実業家。夫の相馬愛蔵とともに東京本郷のパン屋「中村屋」を買収し、クリームパンを開発。その後新宿に移転し、インド式カリーを考案して中村屋の名物となる。文化面でも活躍し、店を文化サロンとして開放し、荻原守衛、中村彝などが集った。また学生時代は、島崎藤村に文学を学び、国木田独歩らと親交を深めている。
【経営者の部屋|相馬黒光】明治時代編.59
20長野県
1876-1959を生きた経営者であり実業家。東京専門学校(現、早稲田大学)法律科を卒業後、大阪朝日新聞に入社。その後、名古屋支局長を務め、1906年中京新報を買収し、名古屋新聞(現、中日新聞)として創刊した。政治家としても活躍し、衆議院議長などを歴任した。
【経営者の部屋|小山松寿】明治時代編.58
17石川県
1873-1944を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学工科大学を卒業後、電気業を行い日本窒素肥料を設立し、日本最初の合成アンモニア(カザレー法)の製造に成功させた。昭和初期には、朝鮮半島へ進出し、電力会社をはじめとする多種多様な企業を設立して、日窒コンツェルンを形成した。
【経営者の部屋|野口 遵】明治時代編.57
19山梨県
1873-1957を生きた経営者であり実業家。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の創立に関与し、沿線の宅地開発や宝塚少女歌劇団の創設、大阪梅田におけるターミナルデパートの開設といった、独創的な多角化戦略を展開。東京宝塚劇場や東宝映画の創立にも関与し、日本のエンターテインメント産業の発展にも貢献した。
【経営者の部屋|小林一三】明治時代編.56
22静岡県
1867-1930を生きた経営者であり実業家。木製の動力織機を発明し、織布業に革命をあたえ、豊田自動織機製作所を創業。その後息子の豊田喜一郎がその流れを引き継ぎ、トヨタ自動車の創業に繋げた。
【経営者の部屋|豊田佐吉】明治時代編.55
21岐阜県
1869-1939を生きた経営者であり実業家。現在の一橋大学を卒業後、東京海上保険に入社し、社長・会長まで上り詰め、同社を国際的な保険会社に発展させた。また日本郵船社長などを歴任し、日本人実業家として初のTIME誌の表紙を1931年に飾った。
【経営者の部屋|各務鎌吉】明治時代編.54
20長野県
1869-1960を生きた経営者であり実業家、政治家。慶應義塾大学卒業後、三井銀行入行。富岡製糸場や三井物産で活躍し、経営不振であった王子製紙の再建を成功させる。その後、慶應義塾大学工学部の前身となる藤原工業大学の設立や米内光政内閣の商工大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|藤原銀次郎】明治時代編.53
11埼玉県
1868-1938を生きた経営者であり実業家。慶應義塾大学卒業後、福沢諭吉の養子となる。その後水力電力事業に力を入れ、数々の電力会社を経営し、電気王と称された。
【経営者の部屋|福澤桃介】明治時代編.52
26京都府
1867-1945を生きた経営者であり実業家。三井家総領家の婿養子となり、三井源右衛門を襲名、1894(明治27)年三井呉服店社長となった。その後三井物産、三井銀行社長を歴任した。蒐集した美術品は、現在も三井記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|三井高堅】明治時代編.51
07福島県
1867-1945を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、浅野商店に入社,のち浅野総一郎の娘婿となる。浅野系企業の要職を歴任し,明治45年今泉嘉一郎と共に民間初の製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEスチール)を設立。日本の製鉄業界の基盤を築き上げた。
【経営者の部屋|白石元治郎】明治時代編.50
06山形県
1867-1950を生きた経営者であり実業家。慶応義塾大学で学び、その後ハーバード大学へ留学。帰国後、時事新報社を経て三井銀行に入社し第一線で活躍する。その後、第14代日銀総裁や大蔵大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|池田成彬】明治時代編.49
10群馬県
1867-1941を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、農商務省にはいりその後ドイツに留学し製鉄技術を学ぶ。帰国後は官営八幡製鉄所の技師として技術開発に尽し、その後、白石元治郎と共に民間初の製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEスチール)を設立。日本の製鉄業界の基盤を築き上げた。
【経営者の部屋|今泉嘉一郎】明治時代編.48
28兵庫県
1866-1946を生きた経営者であり実業家。家業だった鮮魚の買い付けや運送業を継ぎ、株式会社林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロ)を創立。関連事業の多角化をはかり、大洋捕鯨、西大洋漁業統制などを設立し、日本の水産業の基盤を築き、近代日本の漁業経営に大きな影響を与えた。
【経営者の部屋|中部幾次郎】明治時代編.47
43熊本県
1866-1945を生きた経営者であり実業家。記者としてキャリアをスタートさせ、通信手段の革新に乗り出すために、1901(明治34)年に日本広告と電報通信社(現在の電通)を設立。当初は、広告業と通信業を融合させ、国内外の情報伝達と広告事業の拡大を推進し、その後国策により通信部門を切り離し、広告代理業に専念することで、今日の広告代理業としての基盤を築いた。
【経営者の部屋|光永星郎】明治時代編.46
46鹿児島県
1866-1950を生きた経営者であり実業家。同郷の川崎正蔵に招かれて川崎造船所(現在の川崎重工業)初代社長に就任。その後数々の会社社長、役員を務めた。文化面でも活躍し、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵、そして様々な美術品は、松方コレクションの名で知られ、東京国立博物館、国立西洋美術館所蔵品の母体と現在もなっている。第4・6代内閣総理大臣を務めた松方正義を父に持つ。
【経営者の部屋|松方幸次郎】明治時代編.45
26京都府
1865-1926を生きた経営者であり実業家。継承難を抱えていた住友家に養子入りし、別子銅山などの経営改革を進める。1900(明治33)年には住友総理事に就任、銀行業など事業拡大を積極的に行い、三井、三菱と並ぶ大財閥へと成長させた。公家出身であり、第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望を兄に持つ。
【経営者の部屋|住友友純】明治時代編.44
46鹿児島県
1865-1953を生きた経営者であり実業家。アメリカやドイツに留学し、帰国後、父の秘書を務めながら、千代田火災保険や日本製鋼所などの経営に携わり、その後政界で活躍した。次女の正子は、白洲次郎に嫁いでいる。
【経営者の部屋|樺山愛輔】明治時代編.43
08茨城県
1861-1937を生きた経営者であり実業家、そして茶人。福沢諭吉にその才能を愛でられ、その後慶應義塾、留学を経て三井銀行に入校。三井呉服店(現在の三越)で様々な改革を行い百貨店の礎を築いた。51歳で実業界を退き、茶人としての活動に専念し始め、代表作として『大正名器鑑』を完成させた。その茶人活動は茶道具の蒐集や評価にとどまらず、日本茶文化の保存・発展に大きな貢献を果たす。近代茶人の名を残す一人として広く知られている。
【経営者の部屋|高橋義雄】明治時代編.41
11埼玉県
1860-1936を生きた経営者であり実業家は技術者でもある。王子製紙(現:王子ホールディングス)からキャリアをスタートさせ、日本の製紙業界の基盤を築き、その後も製紙業の発展に尽力した。これにより日本は紙の自給自足を達成し、製紙業は産業革命の一翼を担う重要な分野となった。
【経営者の部屋|大川平三郎】明治時代編.40
13東京都
1867-1939を生きた経営者であり銀行家。1885(明治18)年に渡米しペンシルベニア大学を卒業後、アメリカの銀行で実務を学ぶ。帰国後、1894(明治27)年に第百十九国立銀行(後の三菱銀行)に入行、手腕を発揮し1921(大正10)年には三菱銀行の会長に就任。その後、三菱合資会社の総理事に就任し、三菱財閥全体の運営に関わる要職を担った。
【経営者の部屋|串田万蔵】明治時代編.39
21岐阜県
1867-1934を生きた経営者であり実業家、政治家でもある。慶應義塾卒業後、三井銀行に勤め、鐘淵紡績(現在のカネボウ)に入社し1921(大正10)年には社長に就任し手腕を発揮した。時事新報社社長時に「帝人事件」を告発したことでもその名を刻んでいる。衆議院議員当選3回。
【経営者の部屋|武藤山治】明治時代編.38
28兵庫県
1864-1945を生きた経営者であり実業家、建築家でもある。日本初の鉄骨構造を採用した三井本店を1902(明治35)年に完成させる。横河工務所、横河橋梁製作所、横河電機研究所などを設立した。東京国立博物館に寄贈した東洋陶磁器は「横河コレクション」として現在に受け継がれている。
【経営者の部屋|横河民輔】明治時代編.37
26京都府
1864-1926を生きた経営者であり実業家。京都で紙巻たばこ「サンライス」を製造を開始し、国産タバコの普及に尽力する。当時、横文字名の煙草として人気となり、ハイカラなライフスタイルを象徴する商品となった。同時期に東京で紙巻タバコ「天狗」を展開した岩谷松平と派手な宣伝合戦を繰り広げたことでも名を馳せた。その後、たばこの専売制移行により村井銀行を創立し,鉱山・石油業に進出している。
【経営者の部屋|村井吉兵衛】明治時代編.36

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26京都府
出生年不明-1283を生きた文学家であり歌人、そして随筆家。父、卜部兼顕の影響を受け、和歌や随筆の道に進む。無常観をテーマにし、深い洞察と鋭い観察力で当時の社会や人間の本質を描き出した日本三大随筆の一つ「徒然草」の著者。晩年には出家し、兼好法師と号した。
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26京都府
1263-1328を生きた文学家であり歌人、そして政治家。父である藤原為家の影響を受け、和歌の道に進む。訪問先の鎌倉で歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして関東歌壇の発展に貢献した。母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼。
【文学の部屋|冷泉為相】鎌倉時代編.5
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