福岡県出身 From Fukuoka

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福岡県出身・新着偉人(It's New)

1918-1979を生きた小説家でありフランス文学者。東京帝国大学文学部仏文科卒業後、加藤周一や中村真一郎らと文学グループ「マチネ・ポエティク」を結成する。戦後、堀辰雄の勧めで短編集「塔(1948)」を発表する。1954(昭和29)年の長編「草の花」で作家としての地位を確立し、以後「廃市(1950)」「死の島(1966~1972)」など、死と愛、記憶と孤独を主題とする詩的かつ哲学的な作品を多く手がけた。推理小説やSFの分野でも才能を発揮し、推理小説は加田伶太郎の名で執筆、また船田学の名でSF映画「モスラ」の原作となった「発光妖精とモスラ(1961)」を中村真一郎、堀田善衛と共著した。
【文学の部屋|福永武彦】昭和時代編.122
1915-1965を生きた小説家。旧制第五高等学校を経て、1940(昭和15)年に東京帝国大学文学部国文科卒業。戦時中は海軍暗号兵として九州の陸上基地を転々とし敗戦を迎える。この体験をもとに、1946年に発表した「桜島」が高く評価され、文壇に登場し野間宏や椎名麟三とともに第一次戦後派の代表的作家と称された。その後「ボロ家の春秋(1954)」で直木賞を受賞など、人間心理の暗闘を戯画的に描く市井小説が注目され、洒脱なユーモアと日常性を重視した作風で安岡章太郎などの「第三の新人」の橋渡しや先駆者などとも目された。
【文学の部屋|梅崎春生】昭和時代編.119
1905-1977を生きた児童文学者。小学校教員として教え子とともに童話雑誌「赤い鳥」に投稿し、同郷の詩人・北原白秋に才能を見出されて上京。師、白秋の助手を務め、師事する。1930(昭和5)年、「赤い鳥」の休刊に伴い、巽 聖歌らとともに童謡雑誌「乳樹(後のチチノキ)を創刊。1933(昭和8)年に処女童謡集 「旗・蜂・雲」を自費出版し、童謡詩人として本格的に活動を開始。「コドモアサヒ」「コドモノクニ」などに童謡・童話を多数発表し、1940(昭和15)年には「山羊とお皿」などで日本文化協会より第1回児童文化賞を受賞。戦後は日本女子大学で児童文学を講じながら、まど みちお、岩崎京子ら多くの後進を育成する。1962(昭和37)年より日本児童文学者協会第6代会長を務めるなど児童文学界の発展に大きく尽力した。没後は故郷福岡県に與田準一記念館として、みやま市立図書館内に設立されている。
【文学の部屋|与田凖一】昭和時代編.105
1890-1955を生きた小説家であり翻訳家。東京帝国大学仏文学科在学中の1914(大正3)年、芥川龍之介、菊池寛らと第3次「新思潮」を創刊し、その創刊号に「湖水と彼等」を発表し注目を集める。卒業後は、新潮社で「レ・ミゼラブル(1918~)」や「ジャン・クリストフ(1920)」の翻訳を手がけ、名訳として高く評価された。また児童文学にも力を注ぎ、「夢の卵(1927)」「エミリアンの旅(1933)」など寓意に富んだ作品を残した。東大講師をはじめ,法政・明治両大学の教授として教育にも尽力している。戦後は日本ペンクラブの再建に尽力。太宰治との親交が深く、太宰の死後には葬儀委員長も務めた。
【文学の部屋|豊島与志雄】昭和時代編.86
1884-1966を生きた独文学者であり文芸評論家。第一高等学校から東京帝国大学独文科に進み、在学中に夏目漱石の門下生となり、木曜会に参加。そこで、寺田寅彦、高浜虚子らと交流。卒業後は慶應義塾大学、東北帝国大学で教鞭を執り、漱石全集の編纂にも尽力する。戦後は東京音楽学校校長などを歴任。著書「夏目漱石」で1954(昭和29)年に日本芸術院賞を受賞。芭蕉や歌舞伎、能など日本の伝統芸術にも造詣が深く、評論・随筆・翻訳など多方面で活躍。漱石研究の第一人者として、近代文学の記録と批評に大きな足跡を残した。その漱石著「三四郎」のモデルともされている。
【文学の部屋|小宮豊隆】大正時代編.45
1855-1920を生きた文学家であり政治家。1871(明治4)年に上京し、東京日日新聞に入社。文筆活動を通じて伊藤博文の目に留まり官界入り。1878(明治11)年には英国に渡り、ケンブリッジ大学で法学を修める。留学中に「源氏物語」の英訳を刊行し、欧米に日本文学を紹介。帰国後は演劇改良運動を推進し、歌舞伎の近代化に尽力。翻訳小説「谷間の姫百合(1888-90)」は多くの読者を惹きつけた。晩年には「防長回天史」の編纂に取り組み、歴史家としても名を刻んだ。政界では、逓信大臣・内務大臣・枢密顧問官などを歴任。日本近代文学と政治の両面において、国際的視野を持ち活躍。
【文学の部屋|末松謙澄】明治時代編.37
1909-1974を生きた評論家であり小説家。京都帝国大学文学部在学中の1931(昭和6年)年、サンデー毎日懸賞小説に「七」で入選し文壇に登場。戦後は文芸評論家として活躍し、特に「アヴァンギャルド芸術(1954)」は、時代の潮流を捉え、芸術運動の新たな方向を探るきっかけとなった。1962(昭和37)年には「鳥獣戯話」で評論活動だけでなく小説も手掛けた。
【文学の部屋|花田清輝】昭和時代編.58
1907-1960を生きた小説家。早稲田大学英文科を中退後、労働運動に参加したが、検挙をきっかけに文学に転向する。日中戦争従軍前に発表した「糞尿譚」は、1937(昭和13)年、第6回芥川賞を受賞し戦地で表彰を受ける。その後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の兵隊三部作(装幀はいずれも中川一政)で流行作家となった。戦後は戦犯作家として指弾されるも、故郷である生家と、そこで生きる人々の姿を描いた「花と竜(1952-53)」などで再び評価を得た。1960(昭和35)年に睡眠薬により自死。本名は玉井勝則。
【文学の部屋|火野葦平】昭和時代編.55
1894-1945を生きた小説家。早稲田大学高等予科中退後、職を転々としながら労働運動に参加したことで、プロレタリア文学の道を自ら切り拓く。1926(大正15)年に代表作「海に生くる人々」を発表し、労働者の過酷な生活を描いた作品で注目を浴びる。その後生活は困窮し、流転する道を選び満州へ渡るも、1945(昭和20)年に引き上げ列車の中で病没した。
【文学の部屋|葉山嘉樹】大正時代編.38
1891-1961を生きた小説家。1919(大正8)年に「蔵の中」で文壇デビューし、ユーモアとペーソスを基調とした作風で注目を浴びる。その後、精神的な困難を乗り越え、1933(昭和8)年に「枯木のある風景」で文壇に復帰。戦後は、広津和郎とともに松川事件裁判判決の不当を訴えた文芸評論や、随筆でも多くの業績を残した。
【文学の部屋|宇野浩二】大正時代編.33
1889-1962を生きた小説家であり、禅僧、新聞記者。慶應義塾大学文学部に進学するも、父親の教えに従って中退し、農園経営に従事する。その後、出家し禅僧となるも還俗し、新聞記者として活動する。文壇デビューは「あやかしの鼓」を「新青年」に懸賞投稿し入選から。代表作の長編作品「ドグラ・マグラ」は、怪奇味と幻想性に富み、日本文学において独自の地位を築いた。
【文学の部屋|夢野久作】昭和時代編.3
1798-1868を生きた歌人。家業の商いの側、幼少期から文学に親しみ、歌に専念するため家督を弟に譲り、晩年には大阪で時の歌人らと交わった。その歌風は、今この場所を意識した清新自由なもので、庶民生活に即した歌を詠むものであった。
【文学の部屋|大隈言道】江戸時代編.28
1908-1997を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学経済学部を卒業後、1946(昭和21)年に経団連設立時に総務部次長に就任。その後事務総長、副会長を歴任する。また、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当した。1958(昭和33)年に日本航空の会長に就任し、航空業界でも大きな影響力した。また日韓文化交流にも力を注ぎ、1991(平成3)年には韓国から修交勲章光化章を受章している。
【経営者の部屋|花村仁八郎】昭和時代編.42
1799-1881を生きた経営者であり実業家。江戸後期に、からくり人形や菜種油を使った携帯用燭台や空気圧を利用した油ランプなど、実用的な製品を数々発明し、その後、佐賀藩に招かれ、日本初の国産蒸気機関車と蒸気船を設計・製作にあたった。1875(明治8)年に田中工場を設立し、数多くの発明を続けた。田中工場は、のちに芝浦製作所、そして現在の東芝となっている。これらの業績により「東洋のエジソン」と称された。
【経営者の部屋|田中久重】明治時代編.75
1903-1963を生きた経営者であり実業家。1928(昭和3)年に日本電報通信社(現、電通)に入社。1947(昭和22)年に社長に就任。民間放送の育成と広告代理業の近代化を推進し、電通を世界的な広告企業へと成長させた。日本ABC協会の設立にも尽力し、広告業界の発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|吉田秀雄】昭和時代編.15
1893-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法科大学経済学科を卒業後、三井銀行に入行。1921(大正10)年に欧米へ留学し、金融業界の視察を行う。帰国後、福岡銀行副頭取を経て、第一徴兵保険(後の東邦生命保険)の社長に就任。1953(昭和28)年には博多大丸の初代社長に就任し、福岡市の経済発展に大きく貢献した。浮世絵のコレクターとしても知られ、そのコレクションは太田記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|太田清蔵 (5代目)】昭和時代編.9
1889-1976を生きた経営者であり実業家。ゴム底の地下足袋で大きな成功を収め、1918(大正7)年に日本足袋(現、アサヒシューズ)を、1931(昭和6)年にブリヂストンタイヤを創立する。自動車タイヤの国産化を実現し、日本を代表するタイヤメーカーへと成長した。美術品蒐集家としてもその名を刻み、1952年にブリヂストン美術館(現、アーティゾン美術館)を開設。1969年には東京国立近代美術館の建設費を提供し、日本の文化振興に大きな影響を与えた。
【経営者の部屋|石橋正二郎】大正時代編.13
1858-1932を生きた経営者であり実業家。海外留学を経て近代的な技術と経営手法を日本に導入し、特に三井鉱山の発展に寄与し、炭鉱業界での成功を収めた。後に益田孝の後任として三井合名会社の総理事に就任し、財閥をさらに発展させる。1932(昭和7)年、血盟団事件で暗殺されその生涯を閉じた。
【経営者の部屋|團 琢磨】明治時代編.33
1857-1933を生きた経営者であり実業家。石炭採掘事業に着手し電力,鉄道,セメントなど多角的に事業を展開。麻生グループの創始者となった。
【経営者の部屋|麻生太吉】明治時代編.9
1551-1635を生きた経営者。博多を代表する石見銀山などを経営する家系の6代目は千利休と茶で通じ、当時の権力者たちとの親交を深め、特に豊臣秀吉の寵愛を受けた。その秀吉の朝鮮出兵の際には多くの援助を行なっている。徳川政権後は落日を迎えた。
【経営者の部屋|神屋宗湛】室町・桃山時代編.1
1763-1823を生きた経営者。久留米藩の御勝手方御用となり、若津(福岡県大川市)に手津屋を創業し、若津と大阪・江戸間を結ぶ航路を開き商圏を拡大。特に大坂(阪)での筑後米取引に功績を残した。
【経営者の部屋|林田正助】江戸時代編.4
1630-1714を生きた儒学者であり薬学者。浪人の身となったことを機会に江戸や京都に遊学し儒学を学ぶ。そこで出会った江戸期の本草学を発展させたとされる向井元升(1609-1677)と医薬の研鑽を深めた。65歳で花譜、75歳で菜譜、そして80歳のときに大倭本草を著し、元升の本草学をさらに高め、日本における博物学の発展となった。84歳には養生訓を著し18世紀を生きる人々への健康法を記した。
【医学の部屋|貝原益軒】江戸の儒学と医学③
1911-2000を生きた物理学者。原子核・素粒子の研究から三段階論を提唱。この理論では、生成段階(状態の確率的生成)、進化段階(状態の時間的変化)、測定段階(確率的な測定結果の得られる段階)の三つの過程とする理論を展開。また原子力の平和利用に関する三原則を提唱し、原子力の戦争利用の否定、人類の福祉の追求、国際的な協力と情報共有の重要性を強調した。
【物理学者の部屋|武谷三男】原子力平和利用を提唱
1885-1942を生きた詩人であり歌人。明治中期に与謝野鉄幹、晶子らによって浪漫主義の代表となった「明星」を舞台に石川啄木らと活躍する。 その後第1詩集「邪宗門」を発表し一躍日本の詩界のリーダーとなる。
【文学の部屋|北原白秋】「明星」の新人賞
1891-1961を生きた大正、昭和に活躍した小説家。初期の作品の作風は自然主義の後の沸き起こった白樺派よりは、美しさこそ芸術の価値とした唯美を彷彿させた。その後は実相を表現するリアリスト的な作品に傾倒する。
【文学の部屋|宇野浩二】唯美からリアリストへ
1909-1974を生きた評論家であり小説家。その文体は豊かなレトリックを用いて表現され、歴史小説も手がけた。戦後、芸術分野ではアヴァンギャルドを提唱し影響を与える。
【文学の部屋|花田清輝】レトリックの魔術師
1894-1945を生きた小説家は、ロシア文学に魅了され、その後文芸戦線でデビュー。プロレタリア文学界を労農芸術家連盟(労芸)として活動した。
【文学の部屋|葉山嘉樹】プロレタリア文学をリードした一人
1551-1635を生きた経営者。博多を代表する石見銀山などを経営する家系の6代目は千利休と茶で通じ、当時の権力者たちとの親交を深め、特に豊臣秀吉の寵愛を受けた。その秀吉の朝鮮出兵の際には多くの援助を行なっている。徳川政権後は落日を迎えた。
【経営者の部屋|神屋宗湛】秀吉に寵愛された博多豪商
1903-1951を生きた作家は文学を目指し上京。そこで波瀾万丈の人生を送り、その経験を活かした作品で一躍流行作家に駆け上がる。日記風の自叙伝「放浪記」の著者。
【文壇発見|林芙美子】時代と感性をペンで綴る小説家
1813-1895を生きた蘭方医であり奥医師はお玉ヶ池設立メンバーの一人
【医学の部屋|林 洞海 Dohkai Hayashi】東大医学部の前身となる神田お玉ヶ池種痘所設立メンバーの一人

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13東京都
1885-1967を生きた歌人であり教育者。華族の家系に生まれ、波瀾万丈の青年期を送る。成年期に入り、佐佐木信綱に短歌を学び、1915(大正4)年に第一歌集「踏絵」を自らの手で世に送り出した。その後、社会の諸相を鋭く捉えた情熱的な歌風で人々の注目を集めた。戦後も歌集の刊行を続け、平和への願いを込めた活動にも力を注ぐ。波乱の生涯を通じて近代短歌と女性解放運動に大きな足跡をいまも残している。本名は、宮崎燁子(あきこ)。
【文学の部屋|柳原白蓮】大正時代編.51New!!
13東京都
1884-1945を生きた小説家。日本女子大学校国文科を中退後、幸田露伴に師事し、1903(明治36)年に「露分衣」を発表。女優として舞台に立つ時期もあったが、夫の勧めで1911(明治44)年に大阪朝日新聞懸賞小説「あきらめ」で一等当選し文壇に登場。以後、「木乃伊の口紅(1913)」「炮烙の刑(1914)」など、鋭敏で豊かな官能感覚と、複雑な女性心理を描く作品は人気を博した。破天荒な生活、そしてスキャンダラスな恋愛や海外生活を送るも、女性の自立や愛の相克をテーマにした作品で、近代文学に新風を吹き込んだ。その人生を瀬戸内晴美(のちの寂照)が描いた「田村俊子(1961)」は第一回田村俊子賞を受賞している。本名は佐藤とし。
【文学の部屋|田村俊子】大正時代編.51
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館長

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