源 義仲





Minamoto no Yoshinaka (1154-1184)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

源 義仲をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

源 義仲
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として源 義仲イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

源 義仲って

館長

源 義仲にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

同じ「源」の名字なのに、その頼朝は鎌倉という幕府を実現、義仲は幕府を夢見たまま消えていったって感じかなぁ

館長

「もし、義仲が勝っていたら…、そんな空想を抱かせることこそ、義仲が歴史に残した最大のプレゼントかもしれません

こんな背景

シリーズ:鎌倉という革命

第10回:源 義仲〜もう一つの源氏の夢〜

今回のシリーズ:「鎌倉という革命」は…

〜武士が初めて「国」をつくった瞬間〜

壇ノ浦の海で平家が滅び、やがて後鳥羽院が隠岐へと流され、朝廷の反撃が静かに幕を閉じたとき、都の人々はようやく悟ることになります。

「もはや、国の行方は京(みやこ)では決まらない。」

承久の乱の敗北は、武士が国を治めるという新しい秩序が、もはや逆戻りできない現実となった瞬間でした。
しかし、この「革命」の始まりはもっと早く、平家滅亡の直後、ある一人の武将の手によってすでに動き出していました。

その男こそ、のちに「武士の都・鎌倉」を築きあげ、日本史に「革命」を起こした源頼朝です。
頼朝が掲げた「武士による国づくり」は、これまで天皇でも貴族でも平家でも成しえなかった政治のかたち。

「武士の国」という、まったく新しい国家構造

でした。

そして、この革命は、頼朝ひとりの力ではありません。
そのそばには、時に支え、時にぶつかり、時に命を懸けて駆け抜けた武士たちがいました。

このシリーズでは、そんな「鎌倉という革命」をともに形づくった10人のストーリーを追っていきます。

「鎌倉という革命」をつくった10人のストーリー

第1回 源 頼朝
敗者の子から「武士の都・鎌倉」を創り上げた男

第2回 安達盛長
頼朝を陰で支えた鎌倉創業の功労者

第3回 熊谷直実
戦と自責の念を抱え仏門へ向かった武士の魂

第4回 北条政子
夫と鎌倉を支え抜いた不屈の「尼将軍」

第5回 梶原景時
才覚と疑惑の狭間で揺れた悲運の参謀

第6回 佐々木高綱
宇治川先陣を駆けた武名の象徴

第7回 曾我祐成
義と情を貫いた「曾我の仇討ち」の若き武士

第8回 源 実朝
孤独と文化に生きた歌人将軍の光と影

第9回 和田義盛
武士の誇りを貫き散った豪胆の武将

第10回 源 義仲
もう一つの源氏の夢

源 頼朝 が鎌倉で武士の新しい秩序を築こうとしていたその頃、その対極で、まったく別の「源氏の未来」を描こうとした男がいました。
それが源(木曽) 義仲(1154–1184)です。

木曽の自然が育んだ「野生の英雄」

義仲の人生は、わずか2歳で暗転します。
1155年。
父・源義賢が、源義朝 の長男・義平によって討たれた「大蔵合戦」です。
父を失い、さらに義朝側の追手から逃れるため、幼い駒王丸(義仲)は家臣の腕に抱かれ、夜に紛れて信濃国・木曽谷へと逃げ延びました。

源氏の嫡流を巡る義朝・頼朝親子との深い因縁。
それを背負いながら、義仲は山深い木曽で牙を研ぎます。

厳しい自然の中での生活は、彼を「強く、温かい男」へと育て上げました。
家臣たちと家族のように寝食を共にした日々が、激情家でありながら仲間の苦しみには誰よりも寄り添う、素朴で真っ直ぐな義仲の魂を形作ったのです。

北陸で加速した英雄伝説

1180年、以仁王が全国の源氏に平家討伐を命じる令旨を発します。
これこそ、義仲が山深くで牙を研ぎながら待ち続けた「父の無念を晴らす」唯一無二の好機でした。

木曽谷で産声を上げた義仲の軍勢は、当初は地元の豪族らによる小さな集団に過ぎませんでした。
しかし、ひとたび北陸路を駆け抜ければ、その武名は瞬く間に燎原の火のごとく広がります。
横田河原の戦いで越後の大軍を圧倒し、水津でも勝利を重ね、義仲の名は「平家を震え上がらせる北陸の怪物」として歴史の表舞台に躍り出ました。

そして1183年。
伝説の「倶利伽羅峠の戦い」。
義仲は地形を熟知した大胆不敵な奇襲を仕掛け、平維盛率いる平家の大軍を暗闇のなか「地獄谷」へと追い落とします。
この勝利こそが、長く続いた平家一強の時代を終わらせる、決定的な転換点となったのです。
頼朝に先んじて平家を都から追い落とした義仲は、ついに歴史の頂点を掴みかけます。

「旭将軍」と呼ばれた男の、あまりに短い栄光

破竹の勢いで上洛を果たした義仲は、京の民から

「朝日将軍」あるいは「旭将軍」

と喝采を浴びました。暗い時代の夜明けを告げる太陽的存在に、人々は新しい時代の救世主を見たのです。

しかし、この輝きは長く続きません。
連年の飢饉で喘ぐ京都に、規律の徹底しきれない数万の軍勢が居座ったことで、略奪が横行。
人々の期待は急速に失望へと変わっていきました。

さらに義仲の「純粋すぎる信義」が仇となります。
皇位継承問題で北陸宮を強硬に推し、武士が立ち入ってはならない「聖域」に踏み込んだことで、老獪な後白河法皇の怒りを買ったのです。
山育ちの真っ直ぐな男は、都の冷徹な政治という迷宮のなかで、出口を見失っていきました。

孤立の果ての「絶望の決断」

義仲が迷走するなか、鎌倉の頼朝は朝廷と交渉を重ね、着々と「正義の座」を固めていました。
西国で平家と戦う義仲の背後で、法皇による「義仲排除」の動きが加速します。

信頼していた者たちに裏切られ、逆賊の汚名を着せられた義仲。
ついに、法住寺殿を焼き討ちにして後白河法皇を幽閉するという、絶望的な強硬策に打って出ます。

それは「政治の正解」ではなく、裏切られ続けた男が選んだ、あまりに不器用な「武士の怒り」でした。
この瞬間、義仲は完全に孤立。
彼の傍らに残ったのは、もはや木曽以来の絆で結ばれた、数少ない腹心たちだけでした。

粟津に消えた、もう一つの源氏の灯

1184年正月。
頼朝が放った範頼・義経 が大軍が、牙を剥いて迫ります。
防衛線となった宇治川。冷たい冬の激流を前に、義経軍の精鋭たちが動きます。ここで歴史に刻まれたのが、佐々木高綱 による「宇治川の先陣争い」でした。

頼朝から授かった名馬・生噛(いけずき)に跨った高綱が、猛然と川を渡り一番乗りを果たします。
その圧倒的な勢いと、鎌倉武士たちの団結した軍勢の前に、義仲の防衛網はついに崩れ去りました。


義仲は、再起を懸けて近江国・粟津へと敗走します。
しかし、運命は彼に味方しませんでした。
深い泥田(内湖)に愛馬の足を取られ、身動きを封じられた義仲。
そこへ無数の矢が浴びせられ、その生涯を閉じます。
享年31。

もう一つの源氏の夢

源義仲の生涯は、武士がはじめて歴史の主役に躍り出たあの激動期において、頼朝が示した正解とは別の、「もう一つの可能性」でした。

頼朝が構築したのは、規律と制度、そして冷徹な計算によって成り立つ「武士の国家」です。それは安定と秩序をもたらしましたが、同時に個人の情熱や絆を飲み込んでいく巨大なシステムでもありました。

対して義仲が目指したのは、武士としての正義をどこまでも愚直に、そして家族のような忠義で結ばれた仲間と共に歩む、驚くほど素朴で真っ直ぐな「武家政権」でした。
義仲が敗れたのは、政治という名の冷たい駆け引きに不慣れだったからかもしれません。あるいは、武士としての純粋な理想を、あまりに強く貫きすぎたからかもしれません。

けれど、計算や理屈だけでは決して動かせない歴史の熱量が、確かに彼の中にはありました。
源義仲。
「鎌倉」という巨大な革命の陰で、敗者ゆえに色褪せない強烈な光を放ち続けています。
彼が夢見た、熱き血の通ったもう一つの源氏の道は、今も歴史の彼方で、誰にも侵されることのない輝きを放っているのです。

鎌倉という革命から、「承久の乱」という渦へ

源義仲が目指した「もう一つの源氏の道」は、歴史の表舞台から消え去りました。
この敗北によって、頼朝が主導する鎌倉の秩序は決定的なものとなり、一つの時代の区切りを迎えます。

こうして、シリーズ「鎌倉という革命」は、10名の物語で幕を閉じます。

源頼朝という一人の男の挙兵から始まった、武士による統治の試み。
安達盛長がその足場を固め、熊谷直実が武士の葛藤を体現し、北条政子が組織を守り抜きます。
梶原景時が実務を担い、佐々木高綱が戦場を駆け、曾我祐成が古い慣習の中で生き、源実朝が文化の確立に舵を切り、儚く消え去ります。
和田義盛が創業期の武士の姿を留め、源義仲が別の可能性を示して散っていく物語もありました。

これらは、感情と権力、情念と制度、理想と現実が激しくせめぎ合い、日本という国家の形を根底から変えた「革命」でした。
そんな中…

新しい秩序が定着し、鎌倉の力が強固になるほど、それに反発する力もまた蓄積されていきます。
頼朝亡き後の鎌倉で、北条氏が冷徹なまでに実力支配を固める一方で、朝廷は武士の台頭を「王権の危機」と思いを強くしていきます。

その「王権の危機」は、静かに、しかし確実に朝廷内に広がっていきました。
遺志を継ごうとする者、現状を打破しようとする者、そして時代の波に呑まれる者。
やがて、「天皇」たちの胸にも「王権の危機」は大きくなり、やがて一つの大きなうねりとなります。

1221年。
歴史は「承久の乱」という、国家の根幹を揺るがす巨大な渦へと突入します。
次に物語の主軸となるのは、武士ではありません。 帝として生まれ、帝として抗い、そして帝としてその運命を受け入れた者たちです。

新シリーズ
「承久の乱 〜天皇たちの運命劇場〜」
武士の国家に牙をむいた、七つの運命がついに幕を上げます。

1195?-1231を生きた政治家(第83代天皇)。後鳥羽天皇の第一皇子として1198(建久8)年に4歳で即位。政務は父の院政下で行われ、土御門は温和な性格ゆえ象徴的存在にとどまった。1221(承久3)年、承久の乱が勃発するも関与せず、むしろ「いまは時期にあらず」と父を諫めたと伝わる。幕府も処罰の対象にしなかったが、父と弟が遠流となる中、自分だけ京に残ることを良しとせず自ら配流を願い出て土佐へ下向。のち阿波に移され、和歌を詠み続け静かに生涯を閉じた。政治の野心を持たず、文化を愛した穏やかな帝。その無害さでさえ時代の激流には抗えず、「罪なき流刑の天皇」として名を残すこととなった。
【政治の部屋|土後門天皇】鎌倉時代編.12

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

政治の部屋
1828-1864を生きた福岡藩士・志士。福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の子として生まれる。若くして国学に親しみ、尊王思想を深めた。梅田雲浜との出会いを契機に国事へ関心を強め、西郷隆盛、真木和泉、清河八郎ら諸国の志士たちと交流しながら尊王攘夷運動に身を投じる。安政の大獄では月照の薩摩逃避行に同行し、その後も京都を中心に活動を続けた。1862年には島津久光の上洛に際した挙兵計画に関わり、寺田屋騒動で捕縛される。釈放後も活動を再開し、1863年には公卿・澤宣嘉を擁して生野の変を主導した。しかし挙兵は短期間で失敗に終わり、捕らえられて京都の六角獄舎へ収監される。翌1864年、禁門の変の混乱のなかで、他の志士らとともに処刑された。 藩士という立場を超え、理想と信念に従って行動し続けたその生涯は、後の維新運動にも大きな影響を与えた。幕府の法や既存の秩序よりも尊王の理念を優先したその姿は、まさに「法を越え尊王の義に殉じる」志士そのものであった。
【政治の部屋|平野国臣】法を越え尊王の義に殉じるNew!!
政治の部屋
1789-1822を生きた盛岡藩士。陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の子として生まれる。江戸で平山行蔵に学び、武芸や兵学を修めたのち帰郷し、私塾「兵聖閣」を開いて人材育成にあたった。また、ロシアの南下を警戒し、北方防備の重要性を説いたことでも知られる。当時の盛岡藩(南部家)と弘前藩(津軽家)の間には、長年にわたる対立意識が存在していた。秀之進は主家の名誉を重んじる立場から、弘前藩主・津軽寧親に辞官隠居を求める書状を送り、最終的には襲撃を計画した。1821年(文政四年)、変名の「相馬大作」を用いて行動したが、計画は発覚して未遂に終わり、江戸へ逃れた後に捕縛される。1822年(文政五年)、幕府法に背いた重罪人として千住小塚原で処刑された。しかしその行動は後世に大きな議論を呼び、主君への忠義を貫いた人物として語られる一方、私憤による無謀な行為とする評価も存在する。法に従うべき武士でありながら、藩の名誉を守るという信念を優先したその生涯は、まさに「武士の面目のために幕府の法を侵す」人物であった。
【政治の部屋|下斗米秀之進】武士の面目のために幕府の法を侵すNew!!
政治の部屋
1747-1793を生きた思想家・尊王家。上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士・高山正教の子として生まれる。青年期に『太平記』などの歴史書に強い影響を受けて尊王思想を深め、やがて家を出て全国を遊歴した。北は陸奥から南は九州まで各地を巡り、その見聞を旅日記に書き残している。京都では公家と交流し、朝廷への敬意と古来の伝統の尊重を説いた。また、江戸では前野良沢や杉田玄白らの知識人とも接触し、各地の学者や藩士との交流を重ねた。京都の三条大橋付近で御所に向かって拝礼したと伝わる「皇居望拝」の逸話は特に有名で、現在もその姿を刻んだ銅像が建てられている。林子平・蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられ、その尊王思想は後の幕末にも影響を与えた。1793年(寛政5年)、九州遊歴中の久留米で四十六歳の生涯を閉じる。権力や身分に頼ることなく全国を歩き、自らの理想を訴え続けたその姿は、まさに「王道の義を胸に全国を歩く」思想家そのものであった。
【政治の部屋|高山彦九郎】王道の義を胸に全国を歩くNew!!
政治の部屋
1793-1874を生きた侠客・博徒。上野国勢多郡大前田村(現在の群馬県前橋市)に生まれる。若い頃に博徒同士の抗争に巻き込まれ、各地を流浪したと伝えられる。のちに故郷へ戻ると、関東・東海・甲信に広い縄張りを持つ有力な親分となり、争いの仲裁に優れたことから「天下の和合人」と称された。同じ上州の国定忠治とは対照的な存在として語られ、「博打打ちと盗っ人は違う」として盃を拒んだという逸話も残る。法の外に生きる存在でありながら独自の筋目と仁義を重んじ、晩年には遠島となった子分たちを援助したとも伝えられる。明治維新後まで生き、1874年(明治7年)に八十二歳で死去。その生涯は、まさに「無法の世界で独自の仁義と秩序を保つ」侠客そのものであった。
【政治の部屋|大前田 英(栄)五郎】無法の世界で独自の仁義と秩序を保つNew!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ