佐々木高綱





Sasaki Takatsuna (1160-1214)

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歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

佐々木高綱をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

佐々木高綱
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として佐々木高綱イラストポートレートをお届けします

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佐々木高綱って

館長

佐々木高綱にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

宇治川の先陣争いって、当時の命がけの「出世競争」そのものだったんだね

館長

先陣の功績!まさに誰もが納得のいく「目に見える成果」を、主君の前で証明しようと誰もが狙っていたことと思います

こんな背景

シリーズ:鎌倉という革命

第6回:佐々木高綱 〜宇治川先陣を駆けた武名の象徴〜

今回のシリーズ:「鎌倉という革命」は…

〜武士が初めて「国」をつくった瞬間〜

壇ノ浦の海で平家が滅び、やがて後鳥羽院が隠岐へと流され、朝廷の反撃が静かに幕を閉じたとき、都の人々はようやく悟ることになります。

「もはや、国の行方は京(みやこ)では決まらない。」

承久の乱の敗北は、武士が国を治めるという新しい秩序が、もはや逆戻りできない現実となった瞬間でした。
しかし、この「革命」の始まりはもっと早く、平家滅亡の直後、ある一人の武将の手によってすでに動き出していました。

その男こそ、のちに「武士の都・鎌倉」を築きあげ、日本史に「革命」を起こした源頼朝です。
頼朝が掲げた「武士による国づくり」は、これまで天皇でも貴族でも平家でも成しえなかった政治のかたち。

「武士の国」という、まったく新しい国家構造

でした。

そして、この革命は、頼朝ひとりの力ではありません。
そのそばには、時に支え、時にぶつかり、時に命を懸けて駆け抜けた武士たちがいました。

このシリーズでは、そんな「鎌倉という革命」をともに形づくった10人のストーリーを追っていきます。

「鎌倉という革命」をつくった9人のストーリー

第1回 源 頼朝
敗者の子から「武士の都・鎌倉」を創り上げた男

第2回 安達盛長
頼朝を陰で支えた鎌倉創業の功労者

第3回 熊谷直実
戦と自責の念を抱え仏門へ向かった武士の魂

第4回 北条政子
夫と鎌倉を支え抜いた不屈の「尼将軍」

第5回 梶原景時
才覚と疑惑の狭間で揺れた悲運の参謀

第6回 佐々木高綱
宇治川先陣を駆けた武名の象徴

第7回 曾我祐成
義と情を貫いた「曾我の仇討ち」の若き武士

第8回 源 実朝
孤独と文化に生きた歌人将軍の光と影

第9回 和田義盛
武士の誇りを貫き散った豪胆の武将

第10回 源 義仲
もう一つの源氏の夢

源平の争乱が頂点へと向かう中、濁流うずまく宇治川のほとりに、後世に語り継がれる「名乗り」の瞬間がありました。
名馬「生唼(いけづき)」を駆り、先陣へと躍り出た武士。
それが佐々木高綱(1160–1214)です。

近江源氏の名門・佐々木氏に生まれた高綱は、源 頼朝 が伊豆で挙兵した際、いち早く参陣。
その後の各地の戦いで軍事の中核を担いました。高綱は単なる「勇将」である以上に、冷静な判断力を併せ持つ、頼朝から絶大な信頼を寄せられた武将でもありました。

宇治川の戦い

1184年、頼朝軍は大きな岐路に立たされていました。
打倒平氏を掲げながらも、先に京を制圧し暴走を始めた木曽義仲(源義仲)を討たねばならなかったのです。

京では義仲が、後白河法皇 を幽閉するという暴挙に出ていました。
頼朝は、この事態を受け、朝廷の秩序を回復し源氏の正統性を示すため、弟の源 義経 を総大将とする追討軍を派遣します。

高綱にとってこの戦いは、頼朝の代弁者である義経の眼前で、自らの忠誠心を示す最大の舞台となりました。

宇治川先陣争い

「誰が最初に川を渡り、敵陣を崩すか」。
武士たちのプライドと恩賞を懸けた勝負が始まります。
増水し濁流となった宇治川は、馬が足を取られれば即死という絶体絶命の難所でした。

高綱は頼朝から「他人に渡すな」と賜った名馬「生唼」を操り、ライバルの梶原景季(景時 の嫡男)と並び立ちます。
激流の中で高綱は咄嗟に

「この川は西国一の大河ぞや。腹帯の伸びて見えさうは。締めたまへ。」
(この川は西国で一番の大河ですぞ。腹帯がほどけているように見えます。お締めなさい。)

と叫び、景季が手を止めた隙に一気に突破。
見事「一番乗り」を果たしました。
この勝利で勢いづいた頼朝軍は義仲を破り、ついに源氏の総大将としての地位を確立したのです。

義経率いる頼朝軍はこの勢いで義仲を破り、法皇を救出。
鎌倉幕府が天下の覇権を握る決定打の一つとなったのです。

鎌倉創業期の功臣

幕府成立後、高綱は長門・備前の守護を務め、頼朝政権が全国へ秩序を広げていく過程を現場で支えました。
豪胆な武勇だけでなく、行政の実務にも関わるその姿は、東国武士の実力主義が結実した象徴的な存在と言えます。

武勇の果てに求めた「心の救い」

そんな中、1195(建久6)年、高綱は突如として地位を捨て、出家して「西入」と号しました。
以後は諸国を巡り、教化に励む日々を送ります。

なぜ彼は武士としての地位を捨てたのか。
法皇を巡る権力争いや、同族同士の殺し合いを最前線で潜り抜けた者だけが知る「心の疲労」があったのか、あるいは名誉を極めた末の新たな境地だったのか。

一番乗りの熱狂に命を燃やした若き日が「動」ならば、祈りとともに歩んだ後半生は「静」。
高綱の生涯は、鎌倉武士という存在が抱える凄絶な自負と、剥き出しの人間性が辿り着いた、一つの究極の形だったのかもしれません。

次回は、日本三大仇討ちの一つ。
秩序が固まりつつある新時代に抗うように、父の無念を晴らすべく18年の歳月を耐え抜いた若き兄弟の物語。
「義と情を貫いた『曾我の仇討ち』の若き武士」曾我祐成のストーリーをお届けします。

1172-1193を生きた武士。「日本三大仇討ち」の一つとして知られる「曾我兄弟の仇討ち」の兄。幼い頃、実父を工藤祐経に殺害され、困窮と屈辱の中で18年もの歳月を耐え忍んだ。1193(建久4)年、頼朝が威信をかけて行った富士の巻狩りの最終夜、弟・時致とともに祐経を討ち取り、ついに本懐を遂げる。しかし直後に仁田忠常らとの激闘の末に討たれ、わずか21歳で非業の最期を遂げた。幕府が私的な復讐を禁じようとする新時代にあって、命を懸けて義と情を貫いたその物語は、のちに能や歌舞伎の「曽我もの」として時代を超えて語り継がれる伝説となった。いらすとすてーしょんでは出生地を静岡県とさせていただきます。
【政治の部屋|曾我祐成】鎌倉時代編.8

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13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!
13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
【政治の部屋|浅野長矩】一瞬で泰平に裂け目を刻むNew!!
22静岡県
1605?-1651を生きた軍学者。出自には諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたと伝えられる。江戸へ出て軍学者・楠木不伝に師事し、その跡を継いで「張孔堂」と称する軍学塾を開くと、旗本や諸藩士など数千人ともいわれる門弟を集める人気を博した。1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い家綱が四代将軍に就くと、正雪は浪人たちを率いて駿府城や久能山を奪取し、江戸でも放火や要人襲撃を行う反乱計画を企てる。しかし挙兵直前に計画が露見し、駿府へ逃れた正雪は捕り方に囲まれる中、自ら命を絶った。この由井正雪の乱(慶安事件)は、相次ぐ大名改易によって増加した浪人たちの不満を背景としていたとされる。事件そのものは未遂に終わったものの、幕府に浪人問題の深刻さを認識させる契機となり、後の末期養子の禁の緩和などにも影響を与えたと考えられている。泰平の世の裏に潜んでいた不満と矛盾を白日のもとにさらしたその生涯は、まさに「泰平の影に反旗を翻す」軍学者であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を静岡県、出生年を1605年とさせていただきます。
【政治の部屋|由井正雪】泰平の影に反旗を翻すNew!!
13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!

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