足利義輝





Ashikaga Yoshiteru (1536-1565)

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実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
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足利義輝
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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足利義輝って

館長

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シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の第8回目は、
室町幕府第十三代将軍の足利義輝が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第8回:足利義輝〜武によって抗った最後の将軍〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

室町幕府とは何だったのか
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

「看板」として育った将軍

足利義輝が将軍として政治の表舞台に現れたとき、
将軍という地位はすでに、
統治の主体でも、秩序の中心でもありませんでした。

父・足利義晴の時代、
将軍権威は有力大名たちの争いを、
正当化するための「権威の看板」として、
消費される存在に成り果てていました。

京都と近江を行き来させられ、
都合の良い場所に置かれ続けた父の姿は、
若き義輝にとって、
将軍という制度の冷酷な現実そのものでした。

義輝は、
将軍が「何かを決める存在」ではなく、
「使われる存在」でしかない時代に育ったのです。

権威に「実体」を与えようとする試み

しかし義輝は、
その現実を「仕方のないもの」として受け入れませんでした。

将軍であるなら、
将軍としての「実体」を取り戻さなければならない。

そう考えた義輝が、
空洞化した権威に血を通わせるために選んだ手段が、
「武」でした。

義輝は、剣豪・塚原卜伝に師事し、
奥義を授けられるほどの鍛錬を重ねたと伝えられています。

それは、単なる武芸趣味ではありませんでした。

「自ら剣を執る将軍」という、
峻烈な姿を示すことで、
なめられきった将軍の威信を、
力によって再定義しようとする、
極めて意識的な試みだったのです。

彷徨いながら主導権を奪い返す

義輝は、
不安定な政局の中でたびたび都を追われながらも、
そのたびに不屈の意志で京都への帰還を果たしました。

諸大名との間に独自のネットワークを築き、
大名同士の紛争を裁定する「室町将軍」としての、
外交権・裁定権を積極的に行使し始めます。

その義輝の姿勢は、
それまでの「動かされる将軍」とは明らかに一線を画していました。

義輝は、
将軍制を背負わされる存在であることを拒み、
再び「将軍が政治を引き受ける主体である」ことを示そうとした、
室町幕府が、
なお抗い得た最後の瞬間だったのです。

「目覚めた将軍」への恐怖と孤立

しかし、その強すぎる意志は、
畿内の実権を握っていた三好氏や、
松永久秀らといった勢力にとって、
この上なく危険なものでした。

彼らにとって将軍とは、
自分たちの支配を飾る「物言わぬ看板」であれば十分であり、
主体的に動き、牙を剥く存在である必要はなかったのです。

義輝が将軍権力を再生させようとすればするほど、
既存の権力構造との摩擦は激化します。

将軍が「再び意思を持ち始めた」ことは、
実力者たちによる支配体制を根底から、
揺るがす脅威となってしまったのです。

武に抗い、武に散る

1565年、
足利義輝は二条御所において、
自らの家臣とも言える軍勢に襲撃されます(永禄の変)。

将軍が居城で討たれるという最期は、
かつて恐怖政治を強いた父祖・足利義教の悲劇を呼び起こします。

しかし義輝は、
畳に何本もの名刀を突き立て、
それらを替えながら迫りくる敵を次々と切り伏せたという、
伝説を残しました。

義輝は、空虚な記号に成り下がった将軍制に対し、
自らの命を賭した「武」という最も原初的な手段で抗います。

しかし、その壮絶な抵抗も、
すでにシステムとして「死に体」であった幕府を救うには、
至りませんでした。

その死が証明したのは、
将軍制がもはや「中から立て直せる段階」を通り過ぎていたという、
残酷な現実。

武によって抗い、武によって救えなかった、
義輝は、室町将軍という物語が迎える、
最も輝かしくも悲しい終止符だったのです。

明日は、足利義昭

武による抵抗が潰えたあと、
将軍制は、
もはや取り戻すべきものではなくなりました。

最後の将軍が選んだのは、
戦うことでも、背負い続けることでもありません。

将軍であることそのものを
「演じる」ことで生き延びるという、
最後の選択でした。

明日は、
「将軍制を手放した将軍」足利義昭の物語です。

1537-1597を生きた室町幕府第十五代、そして最後の将軍。兄・義輝の非業の死を受け、各地を流転した末、織田信長の軍事力を背景に念願の上洛を果たす。義昭は将軍職の復活によって幕府再建を構想したが、実権は信長に握られ、将軍は再び政治の主導権を失った「権威の看板」の存在にとどまった。やがて信長と対立した義昭は、諸大名を糾合していわゆる信長包囲網を形成し、抗争を続ける。しかし1573年、軍事力で圧倒する信長によって京都を追放され、室町幕府の統治機能は事実上の終焉を迎えた。義昭は制度を立て直すことも、新しい時代に抗い続けることもできず、将軍という「看板」を最終的に手放すことで、足利家による二百三十余年の歴史に幕を下ろした。
【政治の部屋|足利義昭】室町時代編.11

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23愛知県
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23愛知県
1536-1584を生きた武将。尾張国出身と伝えられ、母が織田信長の乳母を務めたことから、信長とは乳兄弟として育った。桶狭間の戦いや姉川の戦い、長島一向一揆の鎮圧などで武功を重ね、織田家の有力重臣として活躍する。本能寺の変後は羽柴秀吉に味方して山崎の戦いで明智光秀討伐に貢献し、清洲会議を経て美濃大垣城主となった。1584年、小牧・長久手の戦いでは秀吉方の主力として三河への中入作戦を進言し自ら出陣するが、長久手で織田信雄・徳川家康連合軍の急襲を受けて討ち死にした。信長との絆を受け継ぎ、秀吉への忠義を貫いた末に戦場へ散ったその生涯は、まさに「友情と忠義に殉ずる」武将であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
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23愛知県
1522?-1583を生きた武将。尾張国に生まれ、若くして織田信長に仕え、武勇と統率力で織田家随一の重臣へと成長した。「鬼柴田」の異名で恐れられ、越前北ノ庄を拠点に北陸方面軍を率いて上杉氏と激戦を繰り広げ、信長の天下統一事業を軍事面から支え続けた。しかし1582年、本能寺の変で信長が横死すると状況は一変する。清須会議において後継体制を巡り羽柴秀吉と対立し、政治的駆け引きの末に主導権を奪われてしまう。翌1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れた勝家は、正室・お市とともに北ノ庄城で自刃した。織田家随一の猛将として時代を切り拓きながら、主君の死後の権力闘争に飲み込まれていったその姿は、まさに「清須会議に翻弄される」と呼ぶにふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県、出生年を1522年とさせていただきます。
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