円融天皇





Emperor Enyu (959-991)

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円融天皇をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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円融天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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円融天皇って

館長

円融天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

ここにきて、宇多天皇から始まった「天皇自身の意志による政治(親政)」の形が、外戚の手に渡っていくのか…

館長

親政のバトンを繋いできた歴代天皇の想いは、少しずつ藤原氏の大きな渦に飲み込まれていきますが、ただ飲み込まれるだけでは終わらないのが、この物語の見どころなのかもしれません

こんな背景

シリーズ:平安の光と影 -帝たちの承継-

第6回:円融天皇 〜摂関政治の台頭〜

今回のシリーズ:平安の光と影 -帝たちの承継-は…

平安京が誕生して約100年。都が最も美しくのどかな時間、一方で最も揺れ動いた時代でもありました。

それは、第59代・宇多天皇が描いた「理想」から始まり、第65代・花山天皇の「悲劇」で幕を閉じるまでの、帝(みかど)たちの100年にわたる物語です。

ある帝は、自らの知性と意志で国を導こうと情熱を燃やし、 ある帝は、都を揺るがす戦乱や天変地異に心を痛め、 またある帝は、巨大な権力を握る藤原氏の思惑の中で、己の誇りを守り抜こうと抗いました。

雅な宮廷文化の絶頂、その華やかな「光」の裏側には、権力を巡る策略や、愛する者との別れ、そして運命に翻弄される帝たちの「影」が常に寄り添っていました。

今回のシリーズ「平安の光と影 -帝たちの承継-」では、歴史が楽しくなる、七人の帝たちの人間ドラマを追いかけます。何を願い、何を次代へ託したのか。平安という時代の深淵を、その「承継」の軌跡から紐解いてみます。

全7回でお届けします。

第1回宇多天皇
「源氏」から返り咲き、知性と道真を武器に「理想」を創始した帝。
第2回醍醐天皇
「延喜の治」という黄金期を築き、道真の影に終生向き合った帝。
第3回朱雀天皇
平将門の乱など、牙を剥く「武士の力」と「天災」に翻弄された帝。
第4回村上天皇
天皇親政の「最後の輝き」を放ち、雅な平安文化を円熟させた帝。
第5回冷泉天皇
容姿端麗な美貌の裏で、摂関政治への転換点に立ち尽くした帝。
第6回円融天皇
藤原氏の巨大な圧力の中で、天皇の「誇り」を守るため抗い続けた帝。
第7回花山天皇
独創的な改革の半ば、狡猾な策略によって一夜にして夢を奪われた帝。

第62代村上天皇のもとで「天暦の治」という理想的な平安文化が花開いたあと、都には穏やかで美しい風が流れていました。しかし、その光は次第にかよわくなり、静けさの中に藤原氏という巨大な影がじわじわと忍び寄ります。前代の冷泉天皇が、その繊細な心ゆえに政治の表舞台から去り、ついに「天皇主導の政治」から「藤原氏による摂関政治」へと時代の舵が大きく切られたその時、中心に立ったのが、冷泉の弟である第64代円融天皇(959–991)です。

名ばかりの船長

円融天皇は、村上天皇の第五皇子として生まれ、兄・冷泉天皇の突然の譲位を受け、わずか 11歳で即位 することとなります。それは、帝王学を学ぶ暇さえないほどの急進的な展開でした。しかし、この「準備不足」こそが、実権を狙う周囲の貴族たちにとっては好都合だったのです。当時の宮廷は、雅な風情とは裏腹に、極めて危ういバランスの上に成り立っていました。

  • 冷泉天皇の不安定さ
    兄の心の揺らぎが、親政というシステムの崩壊を早めてしまったこと。
  • 藤原氏内部の権力争い
    誰が天皇を「操る」立場に就くかという、親戚同士の醜い主導権争い。
  • 「外戚」という名の椅子取りゲーム
    自分の娘に次の天皇を産ませ、その「おじいちゃん」として権力を独占しようとする執念。

こうした複雑な事情が渦巻く中、幼い円融天皇は、行き先も操舵も他人に握られた 「名ばかりの船長」 として、激動の海へと押し出されたのです。彼は、豪華な御座所に座りながらも、自分を支えるはずの大人たちが、実は自分を「道具」として見定めているという冷徹な視線を、その幼心に感じていたのかもしれません。

藤原兼家の台頭

円融天皇の治世において、その人生に最も濃い影を落としたのが、のちの藤原道長の父・藤原兼家です。兼家は、自らの娘・詮子(せんし)を円融天皇の女御とし、のちの一条天皇となる皇子を誕生することで、権力の頂点へと駆け上がろうとしました。それまでも摂関政治は存在していましたが、円融天皇の代で、それは「完全に逃れられないシステム」として固定化されます。

もはや、政治を動かすのは「天皇の知性や意志」ではなく、「誰の娘が次の天皇を産んだか」という外戚の論理へと完全に移り変わってしまったのです。都の雅な空気の裏側で、皇位は藤原氏の権力争いのための「盤上の駒」となっていました。

冷泉系 vs 円融系

円融天皇の治世の大部分は、苛烈な皇位継承争いに費やされました。

  • 冷泉系: 兄・冷泉天皇の血を引く皇子たち(のちの花山天皇など)
  • 円融系: 円融天皇自らの血を引く皇子(のちの一条天皇)

藤原氏内部の派閥争いと、この二つの皇統の対立が複雑に絡み合い、宮廷は常に疑心暗鬼に包まれていました。円融天皇は、自らが「親政」を行おうと試みるたびに、この複雑な政局の波に足元をすくわれ、心の平穏を保つ間もないほどに翻弄され続けたのです。

26歳、無念の譲位

政治の主導権が完全に藤原兼家側へと傾く中、ついに円融天皇は26歳という若さで譲位へと追い込まれます。これは帝の意志というより、兼家による執拗な政治的圧力によって「押し出された」決断でした。しかし、ここからが円融天皇の真骨頂でした。彼はただ、失意のまま退くことはしなかったのです。彼は「円融上皇」となってからも、最愛の息子・懐仁親王(一条天皇)を守るため、静かに、しかし着実に動きました。

  • 未来の盾となる人材の配置
    息子が即位した際、藤原氏に飲み込まれないための側近を整える。
  • 宮廷のパワーバランスの調整
    譲位と引き換えに、息子の即位を確約させるという高度な政治交渉。
  • 「父」としての基盤づくり
    皇室の誇りだけでなく、一人の父として、息子の治世が「黄金時代」となるための種をまく。

政治の最前線から退かされてもなお、愛する息子のために知略を尽くす。その姿は、宇多天皇から始まった「親政のバトン」を、形を変えてでも次代に繋ごうとする、帝としての最後の意地だったのかもしれません。

明日は、独創的な改革の半ば、狡猾な策略によって一夜にして夢を奪われた花山天皇です。

926-967を生きた政治家(第62代天皇)。醍醐天皇の第十四皇子。兄・朱雀天皇の譲位を受けて即位した。叔父である藤原忠平の死後は、摂政・関白を置かずに自ら政務を執り行い、父が志した天皇親政を再興した。その治世は「天暦の治(てんりゃくのち)」として後世に理想化されるほど、秩序と文化が安定した時代と評価されている。内政では、貨幣鋳造(乾元大宝)や朝儀・年中行事の整備など、国家の権威と秩序の再構築に尽力した。文化面ではとくに和歌を深く愛し、日本初の正式な選歌機関である「和歌所」を設置して「後撰和歌集」の編纂を命じる。宮廷では「天暦の菊合(きくあわせ)」に象徴されるような雅やかな文化が花開き、村上天皇自身も管弦の名手として知られるなど、平安貴族文化の成熟を体現した存在であった。しかし、その輝かしい治世の裏側では、次第に実権を強める藤原氏との権力バランスの維持に苦心し、崩御後は摂関政治が固定化していく。村上天皇の治世は、天皇が自らの知性と意志で国を治め得た、平安時代における「最後の輝き」とも評される重要な時代であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|村上天皇】平安時代編.24
950-1011を生きた政治家(第63代天皇)。村上天皇の第二皇子。父の崩御に伴い、18歳で即位した。端正な容姿で知られたが、精神的な不安定さや奇行が目立つという危うさを抱えていた。このため、天皇が自ら政治を差配する「親政(しんせい)」の継続は困難と判断され、叔父の藤原実頼が関白に就任。これを機に、天皇の意思よりも「母方の親戚(外戚)」である藤原氏が主導権を握る「摂関政治」へと、時代は決定的に舵を切ることとなった。在位中は、藤原氏の内部で「誰が次の天皇の親戚(外戚)として権力を握るか」という争いが激化し、その政争に翻弄される形で、わずか2年余りで譲位を余儀なくされた。退位後も、冷泉天皇の血筋(冷泉系)と弟の円融天皇の血筋(円融系)のどちらが皇位を継ぐかという、子孫たちの代まで続く激しい対立の火種となる。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|冷泉天皇】平安時代編.25
968-1008を生きた政治家(第65代天皇)。冷泉天皇の第一皇子。円融天皇の譲位を受け、17歳で即位した。情熱的で個性豊かな性格の持ち主で、学問・和歌・建築・絵画など多才を発揮したことでも知られる。即位後は、外戚に頼らない独自の親政を志し、貨幣流通の促進や荘園整理といった改革に取り組む姿勢を見せた。しかし、その自立的で積極的な政治姿勢は、権勢を強めつつあった藤原兼家らの強い警戒を呼び起こした。986年最愛の女御を亡くし深い悲しみに沈んでいたところ、兼家らの巧妙な罠にはめられる。夜闇に紛れて内裏(宮中)から連れ出され、強制的に出家させられるという前代未聞のクーデター「寛和の変(かんなのへん)」により、わずか2年の治世で皇位を追われた。退位後は「花山院」として長い隠棲生活を送り、西国三十三所観音霊場の再興など、信仰と芸術に深く関わる人生へと歩みを転じた。その生涯は、平安時代において天皇が自らの個性と意志で政治を動かそうとすることの困難さを物語る、象徴的な悲劇として語り継がれている。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|花山天皇】平安時代編.27

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13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
【政治の部屋|浅野長矩】一瞬で泰平に裂け目を刻むNew!!
22静岡県
1605?-1651を生きた軍学者。出自には諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたと伝えられる。江戸へ出て軍学者・楠木不伝に師事し、その跡を継いで「張孔堂」と称する軍学塾を開くと、旗本や諸藩士など数千人ともいわれる門弟を集める人気を博した。1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い家綱が四代将軍に就くと、正雪は浪人たちを率いて駿府城や久能山を奪取し、江戸でも放火や要人襲撃を行う反乱計画を企てる。しかし挙兵直前に計画が露見し、駿府へ逃れた正雪は捕り方に囲まれる中、自ら命を絶った。この由井正雪の乱(慶安事件)は、相次ぐ大名改易によって増加した浪人たちの不満を背景としていたとされる。事件そのものは未遂に終わったものの、幕府に浪人問題の深刻さを認識させる契機となり、後の末期養子の禁の緩和などにも影響を与えたと考えられている。泰平の世の裏に潜んでいた不満と矛盾を白日のもとにさらしたその生涯は、まさに「泰平の影に反旗を翻す」軍学者であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を静岡県、出生年を1605年とさせていただきます。
【政治の部屋|由井正雪】泰平の影に反旗を翻すNew!!
13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!

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