佐々木道誉





Sasaki Doyo (1296-1373)

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教科書で見かけたあの有名人
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佐々木道誉
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館長

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シューちゃん

シリーズ「建武の新政・南北朝開幕」の3回目は、武士の佐々木道誉だよ

館長

今シリーズは、後醍醐天皇が掲げた「建武の新政」の渦中に立たされた、4名の物語です

こんな背景

シリーズ:建武の新政・南北朝開幕

第3回: 佐々木道誉〜忠義にも理念にも縛られず、秩序を渡り歩いた婆娑羅の風雲児〜

今回のシリーズ:「建武の新政・南北朝開幕」は…

前回のシリーズ
「両統迭立の臨界点―天皇たちの選択― 」 では、
承久の乱以後、武力ではなく制度によって王権を守ろうとした天皇たちの歩みを描いてきました。

後伏見天皇 は、
皇位を譲り、耐え、統を保つことを選びました。

後二条天皇 は、
大覚寺統の希望を背負いながらも、
十分な時間を与えられぬまま、その役割を終えました。

花園天皇 は、
理性と倫理によって制度を支え、
争いを起こさないことそのものを統治としました。

こうして、
両統迭立 という妥協による均衡は、
かろうじて時代を支え続けていたのです。

しかしその均衡は、
後醍醐天皇 の登場によって、
大きく揺らぎます。

後醍醐天皇は、
皇位を交互に譲り合うという枠組みを、
「天皇の意思を縛る制度」として否定しました。

後醍醐天皇が掲げたのは、

武家に依存しない王権の回復、
公家政治の再生、
そして、法と倫理にもとづく国家の再設計

それが、天皇自らが国家を統べるという明確な理念、
建武の新政 でした。

後醍醐天皇は、

「長く続いた武士の時代の歪みを、ここで正す」

という強い使命感を抱いていました。

1333年、鎌倉幕府は滅亡し、
後醍醐天皇は京都に還幸。
理想は、現実となりました。

しかし同時に、
その瞬間から、
試練も始まっていました。

倒幕のために実際に戦い、
血を流したのは武士たちです。

地方の武力、
複雑な利害、
恩賞の問題。

公家主導で設計された理想の政治は、
急速に「現実の武士社会」との摩擦を起こしていきます。

建武の新政とは、
いわば「理想が本気で試された時代」でした。

そして、
その理想が現実の壁に突き当たり、
崩れていくとき、
日本は再び「南北朝」という未曾有の分裂へと向かいます。

このシリーズ、
「建武の新政・南北朝開幕」 では、
制度や理念そのものではなく、
その渦中に立たされた人々にスポットライトを当てます。

後醍醐天皇の決断に呼応し、
あるいは翻弄され、
それぞれの立場で動かざるを得なかった者たち。

彼らの選択の積み重ねが、
建武の新政をかたちづくり、
同時に、それを終わらせていく記録です。

「建武の新政・南北朝開幕」
第1回 護良親王

理想を剣で体現し、最初に燃え尽きた皇子

1
第2回 赤松則村(円心)

地方の現場で理想を実行し、現実を選んだ武士

2
第3回 佐々木道誉

忠義にも理念にも縛られず、秩序を渡り歩いた婆娑羅の風雲児

3
第4回 万里小路藤房

理想を制度に落とし込もうとして、最初に挫折した至誠の公家

4

建武の新政は、
単なる「失敗した改革」ではありません。

それは、
理想と現実が真正面からぶつかった、
避けることのできなかった歴史がここにあります。

このシリーズでは、
勝者と敗者を裁くのではなく、
その歴史を生きた人々の選択を描いていきます。

ここから、
日本の歴史は再び、
深く、そして激しく揺れていきます。

秩序の外側に立つ武士

佐々木道誉は、
1296年。
近江国(現在の滋賀県)に生まれました。

名門・佐々木氏の一族という恵まれた出自でありながら、
その生き方は家格や血筋に安住するものではありませんでした。

既存の秩序を嘲笑い、
華美な装束をまとい、
贅を尽くした振る舞いをためらわない。

その型破りな姿から、
道誉はやがて、
「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれるようになります。

それは単なる奇行ではなく、

既存の枠組みに縛られることを拒絶する

それが、
道誉なりの強烈な意志の表明でした。

理想に殉じない、潮流を読む力

倒幕の動きが広がったとき、
道誉もまた、
後醍醐天皇のもとで戦いました。

しかし、
護良親王 のように
理想を背負い込むことはありませんでした。

また、
赤松則村 のように
地方の利害に執着することもしませんでした。

道誉にとって重要なのは、
ただ一つ。

「この時代の潮流は、どこへ流れていくのか。」

道誉は、
歴史が動く瞬間を、
冷静に、
そしてどこか楽しむかのように特等席で見つめていたのです。

建武の新政を見抜く「婆娑羅」の目

建武の新政が始まると、
多くの武士が期待と戸惑いの間で揺れ動きました。

しかし道誉は、
いち早く気づいていました。

この政権は

理想は高いが、
武士の現実を支えきれない。

公家主導の硬直した制度や、
現場を無視した恩賞。

赤松則村のような地方武士が抱いた違和感を、
道誉は

「新しい時代への欠陥」

として冷酷に見抜いていました。

だからこそ、
足利尊氏が新政に見切りをつけたとき、
道誉もまた一瞬の迷いもなく動いたのです。

裏切りではなく、新しい秩序への「適応」

道誉の行動は、
しばしば「裏切り」と評されてきました。

しかし、
道誉は最初から特定の主君に殉じることも、
一つの理念に身を委ねることもしなかったのです。

足利尊氏に従うのは、
忠義のためではありません。

道誉が求めたのは、

どの秩序が生き残るか

尊氏が新しい時代を創る側の人間だと判断したからこそ、
道誉は尊氏の側近となり、
その右腕となって、
室町幕府という新しい秩序の土台を築いていきます。

武力と享楽、そして文化の創造

戦場では勇猛な武士でありながら、
政治の場では

「近すぎず、遠ざからず」

という絶妙な距離感を保ちました。

その一方で、
茶の湯や連歌といった文化を深く愛し、
自らも新しい美意識を創造していきます。

武力と享楽、
現実主義と遊び心。

これらを矛盾なく併せ持つ姿は、
従来の「忠義一途な武士像」を根底から塗り替えるものでした。

秩序の変わり目を生き抜く

護良親王は理想を剣で体現し、
燃え尽きました。

赤松則村は地方の責任から、
現実を選びました。

そして佐々木道誉は、
どちらにも縛られず、
時代そのものを軽やかに渡り歩きました。

理想を信じすぎず、
現実に沈み込みすぎない。

その流動的な生き方こそが、
南北朝という混沌とした時代が生み出した

「最も洗練された武士の姿」

だったのかもしれません。

建武の新政が崩れ、
新しい武家政権が産声を上げたとき、
佐々木道誉はすでにその中心にいました。

忠義でもなく、
理念でもない。

秩序を読み、
波に乗る。

それが、
佐々木道誉という「婆娑羅」が選び取った、
生き方でした。

明日は、万里小路藤房

最後に登場するのは、
理想を「制度」に落とし込もうとした、至誠の公家です。

天皇の理想は、
現実を動かし、
歴史を動かしました。

しかしその理想を、
法と制度として正しく機能させようとしたとき、
最初に行き詰まったのは誰だったのか。

明日は、
「理想を制度に落とし込もうとして、最初に挫折した至誠の公家」
万里小路藤房の物語に迫ります。

1295?- 没年不明を生きた公卿。後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人と称され、建武の新政において政策立案や文書行政を担った実務の中枢である。必ずしも高い家格に恵まれた人物ではなかったが、その卓越した実務能力を見抜かれ、天皇の掲げる理想を「制度」として具体化する重責を任された。しかし、天皇親政という高潔な理念を法令や人事に落とし込む過程で、武士たちの現実的な要求や恩賞問題との深刻な乖離に直面する。理想と現実、王権と武力。その狭間で調整に奔走するも、両者を真に結びつけることは叶わなかった。藤房は、建武の新政が直面した「文治による統治」の限界を、現場で最初に引き受けた公家であった。その存在は、醍醐天皇の理想が決して空論ではなく、国家のあり方を本気で変えようとした試みであったことを証明している。だが、恩賞の不公平や政務の混乱を諫める自らの訴えが天皇に届かないと悟ったとき、藤房は官位を捨て、突如として出家し、歴史の表舞台から姿を消す。これは、建武の新政がもはや立ち行かなくなることを予告する、象徴的な出来事となった。
【政治の部屋|万里小路藤房】南北朝時代編.4

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13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
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13東京都
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現するNew!!
13東京都
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
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