後一条天皇





Emperor Go-Ichijo (1008–1036)

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教科書で見かけたあの有名人
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彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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後一条天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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後一条天皇って

館長

後一条天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

藤原道長のこの句「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の~」は、まさに後一条天皇の治世で詠まれたのだよね

館長

道長政治、つまり摂関支配が現実となり、その支配に最も翻弄された帝だったのかもしれません

こんな背景

シリーズ:摂関政治に翻弄された五人の天皇

第3回:後一条天皇 〜現実となった道長の描いた政治〜

今回のシリーズ:「摂関政治に翻弄された五人の天皇」は…

平安京の雅が最も華やぎ、同時に天皇の権威がもっとも脆く揺らいだ時代。「外戚」という巨大な影が宮廷を覆い、帝たちの運命さえ左右した約100年の物語です。

藤原氏が摂政・関白として権力の頂点に立ち、天皇は幼くして即位し、あるいは成人しても政治の主導権を握れず、「外戚」という名の力に運命を委ねざるを得ませんでした。しかし、決して藤原氏の単なる操り人形ではありませんでした。

ある帝は文化を愛して雅の世界を極め、ある帝は病と孤独の中で尊厳を守ろうとし、ある帝は見えない圧力に抗い、そしてある帝は静かに、しかし確かに時代の転換点へと駒を進めす。

摂関政治の光と影の狭間で、五人の帝が何を思い、何に耐え、何を次代へ託したのか。藤原氏の絶頂期から終焉の予兆まで、「帝」という存在がもっとも翻弄された時代を、五つの治世から紐解いていきます。

全5回でお届けします。

第1回 一条天皇
国風文化の黄金期を育て、外戚に囲まれながら気品と知性で時代を照らした帝
第2回 三条天皇
誇り高き意思を貫こうとしながら、眼病と道長の圧力に押し潰された帝
第3回 後一条天皇
道長政治の象徴となった幼帝は、摂関支配の集大成を生きた帝
第4回 後朱雀天皇
静かな在位の裏で、武士台頭と荘園拡大という変動の波を迎えた帝
第5回 後冷泉天皇
摂関政治最終章。藤原氏の綻びと、院政への扉が開く転換点に立った帝

三条天皇が道長との果てなき攻防の末に光を失い、静かに玉座を降りたその瞬間、平安の空気はまた大きく揺れます。その後を継いだのは、まだ幼い 第68代・後一条天皇(1008–1036)でした。

わずか数え8歳の幼帝は、藤原道長が長年夢見た「外孫の即位」という悲願が結実した瞬間でした。しかしその治世は、華やかさの裏で、権力の重みに押しつぶされそうな危うさを秘めた物語でもありました。

運命づけられた即位

後一条天皇は 一条天皇の第二皇子、母は藤原道長の娘・彰子です。道長にとっては初孫の皇子であり、誕生の瞬間から期待を一身に背負った存在でした。道長は三条天皇の眼病を機に、強引に譲位を迫り、ついに孫を玉座に据えることに成功します。政務は道長、そしてその子・頼通が完全に掌握。この瞬間、摂関政治は「理想の形」に到達しました。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば

道長がこの有名な歌を詠んだのは、まさにこの時代。自らの三人の娘をすべて中宮・皇后として並べ、天皇を「家族」の中に完全に取り込んだ、藤原氏の絶頂期でした。

静かな帝、煌びやかな宮廷

後一条天皇は、内向的で病弱な性格であったと伝わります。宮廷の激しい権力闘争の真ん中に置かれながらも、本人が政治に関わる余地はなく、その役割のすべてを外戚である藤原氏に委ねざるを得ませんでした。

その一方で、幼帝を囲んだのは、比類なき文化の光でした。 「栄花物語」が描き出すように、宮廷では絵画・和歌・儀式が空前の成熟を見せます。現代に続く多くの宮中行事が形式として整えられたのも、この「争いとは無縁の安定期」のころでした。幼い帝の背後で、平安の雅はその極致に達したのです。

摂関支配の集大成と、寂しき最期

しかし、文化が輝く一方で、政治は藤原氏による「世襲」へと姿を変えていきます。道長の権力は息子の藤原頼通へとスムーズに引き継がれ、摂関政治はもはや揺るぎないシステムとして完成しました。

後一条天皇は、そのシステムの中心にいながら、わずか29歳で崩御します。盛大な文化の光に包まれながら、その心にどれほどの孤独を抱えていたのか、知る術はありません。後一条天皇の崩御は、道長から頼通への完全な代替わりを象徴し、「藤原氏の天下」をより盤石なものへと定着させていきました。

明日は、静かな在位の裏で、武士台頭と荘園拡大という変動の波を迎えた後朱雀天皇です。

976-1017を生きた政治家(第67代天皇)。冷泉天皇の第一皇子。従兄弟・一条天皇の死去を受け36歳という遅咲きの即位するも、藤原道長の権勢が絶頂に達しており、天皇自身の政治的自由は大きく制約される。三条天皇は誠実で責任感が強かったとされ、宮中では道長派と天皇側近の対立がしばしば起こるも、道長の抵抗にあい、また視力の悪化を含む体調不良が重なり、譲位へと追い込まれた。その短い治世は、道長の権力がいかに強固であり、天皇でさえ抗いきれないほどの支配構造が成立していたことを象徴している。
【政治の部屋|三条天皇】平安時代編.29
1009-1045を生きた政治家(第69代天皇)。 後一条天皇の弟。兄の崩御を受けて26歳で即位した。成人してからの即位であったものの、政治の実権は依然として藤原氏、とりわけ藤原頼通が握り続けていた。後朱雀天皇は誠実で温和な性格とされ、積極的に親政を志すタイプではなかったため、摂関政治の構造を変えることはできなかった。 一方で、在位中には地方情勢の不安定化、荘園の拡大、武士勢力の増大など、後に大きな社会変化へつながる兆しが現れる。また、皇位継承をめぐる複雑な人間関係の中では、天皇自身も藤原氏の思惑に翻弄される局面が多かった。後朱雀天皇の治世は、摂関家が国家の舵取りを完全に掌握した「静かな安定期」であると同時に、後に大きなうねりとなる社会変動の兆しが芽生えた時代の象徴となる。
【政治の部屋|後朱雀天皇】平安時代編.31

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13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
【政治の部屋|浅野長矩】一瞬で泰平に裂け目を刻むNew!!
22静岡県
1605?-1651を生きた軍学者。出自には諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたと伝えられる。江戸へ出て軍学者・楠木不伝に師事し、その跡を継いで「張孔堂」と称する軍学塾を開くと、旗本や諸藩士など数千人ともいわれる門弟を集める人気を博した。1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い家綱が四代将軍に就くと、正雪は浪人たちを率いて駿府城や久能山を奪取し、江戸でも放火や要人襲撃を行う反乱計画を企てる。しかし挙兵直前に計画が露見し、駿府へ逃れた正雪は捕り方に囲まれる中、自ら命を絶った。この由井正雪の乱(慶安事件)は、相次ぐ大名改易によって増加した浪人たちの不満を背景としていたとされる。事件そのものは未遂に終わったものの、幕府に浪人問題の深刻さを認識させる契機となり、後の末期養子の禁の緩和などにも影響を与えたと考えられている。泰平の世の裏に潜んでいた不満と矛盾を白日のもとにさらしたその生涯は、まさに「泰平の影に反旗を翻す」軍学者であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を静岡県、出生年を1605年とさせていただきます。
【政治の部屋|由井正雪】泰平の影に反旗を翻すNew!!
13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!

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