2023年2月14日 トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎氏


の突然の訃報に際し、いらすとすてーしょんより


ご冥福を心より祈念申し上げます

豊田佐吉 Sakichi Toyota

ようこそ!フリーイラストポートレートと


歴史の停車場いらすとすてーしょん」へ
こちらのページでは【経営者の部屋|豊田佐吉】


トヨタグループの祖
をお楽しみください
※豊田佐吉トヨタグループの祖はSyusuke Gallery経営者の


部屋よりお届けさせていただきます

豊田佐吉イラストポートレート(Syusuke Galleryより

豊田章一郎を偲んで

1925-2023を生きたトヨタ自動車社長、会長、名誉会長。豊田章男氏は長男。

章一郎氏は、トヨタ創業者である豊田喜一郎氏の長男で、喜一郎氏が57歳で急逝した1952年にトヨタ自動車工業(当時)に入社した。工販合併したトヨタ自動車の初代社長に就任し、会長、名誉会長などを歴任した。米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁を端緒とするトヨタの海外展開を主導するなど同社の経営基盤を確立した。
日刊自動車新聞電子版2023年2月14日 12:47より引用

豊田家とトヨタ自動車歴代社長

トヨタ自動車は佐吉氏創業「豊田自動織機製作所」内て、喜一郎氏が


社内に自動車制作部門を立ち上げその後独立、現在のトヨタ自動車と


なっています

初代社長

豊田利三郎氏

滋賀県出身 1884-1952
豊田佐吉氏の長女の夫

第2代社長

豊田喜一郎氏

静岡県出身 1894-1952
豊田佐吉氏の長男

第5代社長

豊田英二氏

静岡県出身 1913-2013
豊田佐吉弟・平吉氏の二男

第6代社長

豊田章一郎氏

愛知県出身 1925-2023
豊田喜一郎氏の長男

第7代社長

豊田達郎氏

愛知県出身 1929-2017
豊田喜一郎氏の二男

第11代社長

豊田章男氏

愛知県出身 1956-
豊田章一郎氏の長男

経営者・新着偉人


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39高知県
1917-1993を生きた経営者であり実業家。日本タイプライター精機製作所に勤めた後、1946(昭和21)年に樫尾製作所(現、カシオ計算機)を設立。1954(昭和29)年にリレー計算機、1965(昭和40)年に電子式卓上計算機を開発。同社を急成長させ、カシオを世界的なブランドに育て上げた。
【経営者の部屋|樫尾忠雄】昭和時代編.25New!!
26京都府
1914-1995を生きた経営者であり実業家。1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで三越の社長を務めた。三越の経営改革を推進し、百貨店業界の発展に大きく貢献。特に、店舗の近代化やサービスの向上に力を入れ、顧客満足度を高めた。彼のリーダーシップの下、三越は国内外での店舗展開を進め、ブランド力を強化した。
【経営者の部屋|岡田 茂】昭和時代編.24New!!
26京都府
1910-1971を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設し、財を築き上げた。1939(昭和14)年に日本殖産工業を創設し、その後、社長に就任。1949(昭和24)年にリッカーミシンと改称し、一代で上場企業に育てた。浮世絵のコレクターとしても知られ、平木浮世絵財団に保管されている。
【経営者の部屋|平木信二】昭和時代編.23New!!
0099886中華民国出身
1910-2007を生きた経営者であり実業家。1936(昭和11)年に東洋メリヤスを設立し、1948(昭和23)年には食品販売の中交総社を設立。1958(昭和33)年に急速油熱乾燥法により世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」の商品化に成功し、同年に日清食品と社名変更し、社長に就任。その後「カップヌードル」を発売した。日本即席食品工業協会会長も務めている。
【経営者の部屋|安藤百福】昭和時代編.22New!!
48出生地不明
1909-1985を生きた経営者であり実業家。岡本巳之助は、昭和初期に岡本ゴム工業を創業し、姉、弟と共に天然ゴムラテックスを原料とするスキンの研究に着手し、その後製造に乗り出す。戦後、岡本理研ゴムを経てオカモト株式会社となった。ゴム手袋や避妊具などの製品で市場を拡大し、品質向上と技術革新に尽力したことで、岡本ブランドを確立した。
【経営者の部屋|岡本巳之助】昭和時代編.21New!!
09栃木県
1908-1997を生きた経営者であり実業家。盛田昭夫と共に東京通信工業を設立し、1950(昭和25)年に社長に就任。国産初のテープレコーダーやトランジスターラジオなどを商標『SONY』で輸出し、1958(昭和33)年に社名をソニーに改称。独創的な技術開発を主導し、営業担当の盛田とのコンビで同社を『世界のソニー』に育て上げた。1971(昭和46)年に会長に就任し、幼児開発協会理事長なども務めた。
【経営者の部屋|井深 大】昭和時代編.20New!!
23愛知県
1907-1987を生きた経営者であり実業家。戦前は旅館業などに関わり、1948(昭和23)年に日本初の割賦販売会社を名古屋に設立。1951(昭和26)年には東京で日本信用販売(現、三菱UFJニコス)を設立し、三和銀行と共同でJCBを創設。信販制度を日本に定着させ、消費者金融の発展に大きく貢献した。城山三郎の小説『風雲に乗る』のモデルとしても知られる。
【経営者の部屋|山田光成】昭和時代編.19New!!
22静岡県
1906-1991を生きた経営者であり実業家。自動車修理工見習いとしてキャリアをスタートし、1928(昭和3)年に浜松アート商会を創業。1946(昭和21)年に本田技術研究所を設立し、1948(昭和23)年には本田技研工業を設立してオートバイ製造に乗り出す。1961(昭和36)年イギリスのマン島オートバイレースで圧勝し、同社は世界的なブランドとなる。翌年には自動車生産に参入し、低公害エンジンの開発に成功。1973(昭和48)年に社長を辞して最高顧問に就任し、技術革新と品質向上に尽力し続けた。
【経営者の部屋|本田宗一郎】昭和時代編.18
13東京都
1905-1981を生きた経営者であり実業家。1927(昭和2)年に東京新宿に紀伊國屋書店を開業。舟橋聖一らと共に『文芸都市』や『行動』を創刊し、尾崎士郎らと『文学者』を立ち上げ、資金を提供して刊行を支援。戦後は海外に支店を展開し、紀伊國屋書店を大型書店へと発展させた。また、小説『世話した女』や随筆集『夜の市長』などの著作を発表し、文筆家としても活躍した。
【経営者の部屋|田辺茂一】昭和時代編.17
13東京都
1904-1993を生きた経営者であり実業家。1949(昭和24)年に横浜市立大学の教授となり、1954(昭和29)年には同大学商学部長に就任。その後、不動産ビジネスに専念するために大学職を辞職し、1959(昭和34年)に森ビルを設立。東京の虎ノ門や新橋地区にオフィスビルを集中的に建設し、アークヒルズやラフォーレ原宿などの大型プロジェクトを完成させた。森ビルを貸しビル業界の大手に育て上げ、日本の都市開発に大きく貢献した。
【経営者の部屋|森 泰吉郎】昭和時代編.16
40福岡県
1903-1963を生きた経営者であり実業家。1928(昭和3)年に日本電報通信社(現、電通)に入社。1947(昭和22)年に社長に就任。民間放送の育成と広告代理業の近代化を推進し、電通を世界的な広告企業へと成長させた。日本ABC協会の設立にも尽力し、広告業界の発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|吉田秀雄】昭和時代編.15
32島根県
1899-2000を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学工学部工業化学科を卒業後、大日本セルロイド(現、ダイセル化学工業)に入社。1934(昭和9)年に写真フィルム部門が独立して設立された富士写真フイルムに転籍し、1943(昭和18)年に同社社長に就任。1960(昭和35)年には会長となり、品質第一主義を掲げて技術開発に尽力。同社の品質が高く評価された立役者であった。
【経営者の部屋|春木 榮】昭和時代編.14
13東京都
1896-1963を生きた経営者であり実業家。渋沢栄一の孫は、東京帝国大学経済学部を卒業後、第一銀行副頭取などを経て、1944(昭和19)年に日本銀行総裁に就任。翌年には幣原内閣の大蔵大臣として戦後財政の処理に尽力。公職追放解除後は、国際電信電話(現、KDDI)の初代社長や文化放送の会長を務め、財界で活躍した。また、アチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)を主宰し、多くの民俗学者を育てたことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|渋沢敬三】昭和時代編.13
28兵庫県
1894-1964を生きた経営者であり実業家。京都帝国大学経済学部を卒業後、日本信託銀行に入行。1925(大正14)年に阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)に入社し、1946(昭和21)年に同社社長に就任。1951(昭和26)年には関西電力の初代社長となり、黒部ダム(黒四ダム)の建設を指揮。戦後の電力不足を解消するための大規模な水力発電所の建設に尽力し、関西地域の経済発展に大きく貢献した。黒部ダムの完成(1963年)を見届けた翌年に逝去した。
【経営者の部屋|太田垣士郎】昭和時代編.12
27大阪府
1894-1958を生きた経営者であり実業家。堺の鉄工所職人だった島野庄三郎は、28歳で独立し、1921(大正10)年に島野鐵工所を創業。フリーホイールの生産に着手し、1939(昭和14)年には日本最大のフリーホイールメーカーとなる。1951(昭和26)年島野工業株式会社にとなり、その後、品質向上と技術革新に挑み続け、外装式変速機の生産を開始し、シマノの基礎を築き上げた。
【経営者の部屋|島野庄三郎】昭和時代編.11
10群馬県
1893-1983を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、米問屋に勤め、1924(大正13)年に独立して山崎種二商店(現、タヤマネ)を設立。1940(昭和15)年には、辰巳倉庫を買収し、ヤマタネの基礎を築いた。1933(昭和8)年には証券業に進出し、1944(昭和19)年に山崎証券(現SMBC日興証券)を創業。日本画の収集家としても知られた、1966(昭和41)年、山種美術館を開設している。
【経営者の部屋|山崎種二】昭和時代編.10
40福岡県
1893-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法科大学経済学科を卒業後、三井銀行に入行。1921(大正10)年に欧米へ留学し、金融業界の視察を行う。帰国後、福岡銀行副頭取を経て、第一徴兵保険(後の東邦生命保険)の社長に就任。1953(昭和28)年には博多大丸の初代社長に就任し、福岡市の経済発展に大きく貢献した。浮世絵のコレクターとしても知られ、そのコレクションは太田記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|太田清蔵 (5代目)】昭和時代編.9
27大阪府
1893-1986を生きた経営者であり実業家。小学校卒業後、新聞販売店を手伝い始め、新聞業界に興味を持つ。1922(大正11)年に「南大阪新聞」を創刊し成功を収める。1933(昭和8)年には「日本工業新聞」を創刊し、戦時中の新聞統合政策により「産業経済新聞」となった。戦後、公職追放を経て1950年に復帰し、産業経済新聞を全国紙に育て上げた。1957(昭和32)年には日本電波塔株式会社を設立し、東京タワーを建設に尽力した。
【経営者の部屋|前田久吉】昭和時代編.8
07福島県
1899-1977を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学経済学部卒業後、東京電灯(現、東京電力)に入社。戦後の電力業界再編で誕生した東京電力社長に就任し、手腕を発揮した。企業の社会的責任と協調的競争の持論を強調したことでも、その名を馳せている。
【経営者の部屋|木川田一隆】昭和時代編.7
28兵庫県
1887-1983を生きた経営者であり実業家。神戸高等商業学校(現、神戸大学)卒業後、スタンダード石油を経て鈴木商店に入社。鈴木商店の破綻後、日商(後の日商岩井・現、双日)の設立メンバーの一人となる。1947(昭和22)年に商工省貿易庁長官や、甲南学園理事長などをつとめた。
【経営者の部屋|永井幸太郎】昭和時代編.6
22静岡県
1886-1978を生きた経営者であり実業家。東京高等商業学校(現、一橋大学)を卒業後、三井物産に入社、世界各地の支店長を歴任し、1939(昭和14)年三井物産社長に就任。1963(昭和38)年国鉄総裁に就任、東海道新幹線の開業、山陽新幹線の着工、そして経営合理化を推進し、戦後の国鉄経営再建に尽力した。
【経営者の部屋|石田礼助】昭和時代編.5
33岡山県
1896-1988を生きた経営者であり実業家。高等工業学校(現、東京工業大学)卒業後、東京石川島造船所(現、IHI)に入社、スイス留学時にタービン技術を習得。1950(昭和25)年社長に就任し、徹底した合理化で同社の再建を果たした。その後1965(昭和40)年に経営難であった東芝の社長に就任し、再建を同じく果した。第4代経団連会長として「増税なき財政再建」とうたい行政改革に尽力した。質素な生活ぶりから「メザシの土光さん」としても親しまれていた。
【経営者の部屋|土光敏夫】昭和時代編.4
28兵庫県
1896-1975を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学法学部を卒業後、外務省に入省し、外交官として活躍。1927(昭和2)年に鹿島精一の婿養子となり、鹿島組(現、鹿島建設)に入社。1938(昭和13)年に社長に就任し、戦後は会長として鹿島建設の近代化と国際化を推進。日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」の建設など、多くの革新的なプロジェクトを手掛け、鹿島建設の中興の祖として活躍した。
【経営者の部屋|鹿島守之助】昭和時代編.3
22静岡県
1984-1952を生きた経営者であり実業家。トヨタ自動車の創業者は、東京帝国大学卒業後、父佐吉の経営する豊田自動織機製作所に入社。その後自動車製造に乗り出す。1937(昭和12)年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、初代社長に就任。日本の自動車産業の基盤を築いた。
【経営者の部屋|豊田喜一郎】昭和時代編.2
30和歌山県
1894-1989を生きた経営者であり実業家。松下電器産業(現、パナソニック)の創業者は、家庭用電気器具の製造から始め、パナソニックを世界的な企業に育て上げる。経営理念として「顧客第一主義」を掲げ、従業員の幸福と社会貢献を重視した。また、PHP研究所や松下政経塾を設立し、教育や社会貢献にも力を入れ、その経営哲学は、現代のビジネス界でも高く評価されている。経営の神様とも称されている。
【経営者の部屋|松下幸之助】昭和時代編.1
40福岡県
1889-1976を生きた経営者であり実業家。ゴム底の地下足袋で大きな成功を収め、1918(大正7)年に日本足袋(現、アサヒシューズ)を、1931(昭和6)年にブリヂストンタイヤを創立する。自動車タイヤの国産化を実現し、日本を代表するタイヤメーカーへと成長した。美術品蒐集家としてもその名を刻み、1952年にブリヂストン美術館(現、アーティゾン美術館)を開設。1969年には東京国立近代美術館の建設費を提供し、日本の文化振興に大きな影響を与えた。
【経営者の部屋|石橋正二郎】大正時代編.13
13東京都
1887-1940を生きた経営者であり実業家。1905(明治38)年、古川財閥3代目となり、古河鉱業の社長に就任後、東京古河銀行や古河商事などを新設することで、鉱業に加えて、金融や商業など多岐にわたる事業を展開する総合財閥へと成長させた。
【経営者の部屋|古河虎之助】大正時代編.12
25滋賀県
1889-1964を生きた経営者であり実業家。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1920(大正9)年に箱根土地(後の国土計画)を創立。箱根、伊豆、東京近郊で大規模な開発を成功させ、不動産業界での地位を確立する。また、西武鉄道などの社長を務め、西武グループの基盤を形成した。政治家としても活躍し1953(昭和28)年には衆議院議長に就任した。
【経営者の部屋|堤 康次郎】大正時代編.11
44大分県
1877-1955を生きた経営者であり実業家。1913(大正2)年に大正生命保険(現、プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)を創立し、東京商工会議所で手腕を発揮するなど実業界での影響力を拡大した。その後政治家に転身し、各内閣で大臣を歴任した。
【経営者の部屋|金光庸夫】大正時代編.10
41佐賀県
1882-1980を生きた経営者であり実業家。有明海で採れるカキに含まれるグリコーゲンに着目し、これを菓子に応用できないか模索する。1921(大正10)年に大阪で江崎商店(現、江崎グリコ)を設立し、栄養菓子「グリコ」を製造・販売し、「一粒三百米(メートル)」のキャッチフレーズで、一粒で300メートル走れるエネルギーが得られることを示し、消費行動に大きな印象を与えた。また商品の付録となる「おまけ」という斬新な販売戦略を導入し、子供たちの心を掴んだ。
【経営者の部屋|江崎利一】大正時代編.9
20長野県
1882-1959を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、鉄道院を経て1920(大正11)年に武蔵電気鉄道(現、東急東横線)の経営に携わり、手腕を発揮し、東急グループを創始した。鉄道業界では、早川徳次との経営権争いのエピソードを残している。また蒐集した美術品は現在、五島美術館に収蔵されている。
【経営者の部屋|五島慶太】大正時代編.8
35山口県
1880-1967を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、芝浦製作所(現、東芝)を経て、久原鉱業を引き継ぎ、日本産業(日産)に改組する。日産自動車や日立製作所などを傘下におさめる持株会社体制を導入し、多くの企業を統括する日産コンツェルンを形成した。
【経営者の部屋|鮎川義介】大正時代編.7
08茨城県
1880-1971を生きた経営者であり実業家。一橋大学卒業後、三井物産を経て1914(大正3)年に内田汽船を設立。戦争による船舶需要の急増を見越し、次々に船舶をチャーターし、高騰する船賃で大きな利益をあげた。その後政界に進出し、鉄道大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|内田信也】大正時代編.6
19山梨県
1881-1942を生きた経営者であり実業家。早稲田大学在学中に後藤新平の書生となり、その後根津嘉一郎に認められ鉄道事業経営で手腕を発揮した。ロンドン視察後の1920(大正9)年に東京地下鉄道(現、東京メトロ)を創立。1927(昭和2)年上野-浅草間を開通させた。その後、五島慶太との経営権争いで失脚したエピソードを残している。
【経営者の部屋|早川徳次】大正時代編.5
33岡山県
1880-1943を生きた経営者であり実業家。1906(明治39)年に倉敷紡績社長に就任し、労働環境の改善に努める。1926(大正15)年には倉敷絹織(現、クラレ)を設立し、国産レーヨンの製造販売を開始。中国合同銀行(現、中国銀行)や中国水力電気会社(現、中国電力)の設立にも関わり、地域経済の発展に力を注いだ。また、倉敷中央病院や日本初の西洋美術館である大原美術館を設立者としてもその名を馳せている。
【経営者の部屋|大原孫三郎】大正時代編.4
13東京都
1879-1945を生きた経営者であり実業家。三菱財閥4代目であり三菱合資社長をつとめた。製鉄、電機、航空機などの重工業部門への進出を推進し、各事業部を株式会社として独立させ、日本最大規模の重工業企業集団に育てた。また東京フィルハーモニーや成蹊学園を設立したことでもその名を馳せている。
【経営者の部屋|岩崎小彌太】大正時代編.3
07福島県
1876-1954を生きた経営者であり実業家。東京工業大学を卒業後、アメリカのルイジアナ州立大学に留学し、全米各地の精糖会社を訪ねて精糖技術を学ぶ。その後、南洋興発株式会社を創業し、サイパン島などで製糖業を中心に事業を展開した。、その業績から「砂糖王」とも称されている。
【経営者の部屋|松江春次】大正時代編.2
42長崎県
1875-1971を生きた経営者であり実業家。当時、五大電力会社と謳われた東邦電力を創立し、日本の電力業界で活躍。また茶人としてもその名を馳せている。著作に「人間・福沢諭吉」や、自身の自叙伝などがある。
【経営者の部屋|松永安左エ門】大正時代編.1
27大阪府
1879-1962を生きた経営者であり実業家。1899(明治32)年、大阪で鳥井商店を開業し、その後赤玉ポートワインを発売し大ヒット商品となる。1921(大正10)年に寿屋(現サントリー)を設立し、1929(昭和4)年に日本初の本格的国産ウイスキー「サントリーウヰスキー白札」の製造に成功した。販売宣伝にも革新的な手法を取り入れ、その経営手腕とマーケティング戦略により、サントリーを日本を代表する飲料メーカーへと導いた。
【経営者の部屋|鳥井信治郎】明治時代編.60
04宮城県
1876-1955を生きた経営者であり実業家。夫の相馬愛蔵とともに東京本郷のパン屋「中村屋」を買収し、クリームパンを開発。その後新宿に移転し、インド式カリーを考案して中村屋の名物となる。文化面でも活躍し、店を文化サロンとして開放し、荻原守衛、中村彝などが集った。また学生時代は、島崎藤村に文学を学び、国木田独歩らと親交を深めている。
【経営者の部屋|相馬黒光】明治時代編.59
20長野県
1876-1959を生きた経営者であり実業家。東京専門学校(現、早稲田大学)法律科を卒業後、大阪朝日新聞に入社。その後、名古屋支局長を務め、1906年中京新報を買収し、名古屋新聞(現、中日新聞)として創刊した。政治家としても活躍し、衆議院議長などを歴任した。
【経営者の部屋|小山松寿】明治時代編.58
17石川県
1873-1944を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学工科大学を卒業後、電気業を行い日本窒素肥料を設立し、日本最初の合成アンモニア(カザレー法)の製造に成功させた。昭和初期には、朝鮮半島へ進出し、電力会社をはじめとする多種多様な企業を設立して、日窒コンツェルンを形成した。
【経営者の部屋|野口 遵】明治時代編.57
19山梨県
1873-1957を生きた経営者であり実業家。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の創立に関与し、沿線の宅地開発や宝塚少女歌劇団の創設、大阪梅田におけるターミナルデパートの開設といった、独創的な多角化戦略を展開。東京宝塚劇場や東宝映画の創立にも関与し、日本のエンターテインメント産業の発展にも貢献した。
【経営者の部屋|小林一三】明治時代編.56
22静岡県
1867-1930を生きた経営者であり実業家。木製の動力織機を発明し、織布業に革命をあたえ、豊田自動織機製作所を創業。その後息子の豊田喜一郎がその流れを引き継ぎ、トヨタ自動車の創業に繋げた。
【経営者の部屋|豊田佐吉】明治時代編.55
21岐阜県
1869-1939を生きた経営者であり実業家。現在の一橋大学を卒業後、東京海上保険に入社し、社長・会長まで上り詰め、同社を国際的な保険会社に発展させた。また日本郵船社長などを歴任し、日本人実業家として初のTIME誌の表紙を1931年に飾った。
【経営者の部屋|各務鎌吉】明治時代編.54
20長野県
1869-1960を生きた経営者であり実業家、政治家。慶應義塾大学卒業後、三井銀行入行。富岡製糸場や三井物産で活躍し、経営不振であった王子製紙の再建を成功させる。その後、慶應義塾大学工学部の前身となる藤原工業大学の設立や米内光政内閣の商工大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|藤原銀次郎】明治時代編.53
11埼玉県
1868-1938を生きた経営者であり実業家。慶應義塾大学卒業後、福沢諭吉の養子となる。その後水力電力事業に力を入れ、数々の電力会社を経営し、電気王と称された。
【経営者の部屋|福澤桃介】明治時代編.52
26京都府
1867-1945を生きた経営者であり実業家。三井家総領家の婿養子となり、三井源右衛門を襲名、1894(明治27)年三井呉服店社長となった。その後三井物産、三井銀行社長を歴任した。蒐集した美術品は、現在も三井記念美術館に所蔵されている。
【経営者の部屋|三井高堅】明治時代編.51
07福島県
1867-1945を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、浅野商店に入社,のち浅野総一郎の娘婿となる。浅野系企業の要職を歴任し,明治45年今泉嘉一郎と共に民間初の製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEスチール)を設立。日本の製鉄業界の基盤を築き上げた。
【経営者の部屋|白石元治郎】明治時代編.50
06山形県
1867-1950を生きた経営者であり実業家。慶応義塾大学で学び、その後ハーバード大学へ留学。帰国後、時事新報社を経て三井銀行に入社し第一線で活躍する。その後、第14代日銀総裁や大蔵大臣などを歴任した。
【経営者の部屋|池田成彬】明治時代編.49
10群馬県
1867-1941を生きた経営者であり実業家。東京帝国大学卒業後、農商務省にはいりその後ドイツに留学し製鉄技術を学ぶ。帰国後は官営八幡製鉄所の技師として技術開発に尽し、その後、白石元治郎と共に民間初の製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEスチール)を設立。日本の製鉄業界の基盤を築き上げた。
【経営者の部屋|今泉嘉一郎】明治時代編.48
28兵庫県
1866-1946を生きた経営者であり実業家。家業だった鮮魚の買い付けや運送業を継ぎ、株式会社林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロ)を創立。関連事業の多角化をはかり、大洋捕鯨、西大洋漁業統制などを設立し、日本の水産業の基盤を築き、近代日本の漁業経営に大きな影響を与えた。
【経営者の部屋|中部幾次郎】明治時代編.47
43熊本県
1866-1945を生きた経営者であり実業家。記者としてキャリアをスタートさせ、通信手段の革新に乗り出すために、1901(明治34)年に日本広告と電報通信社(現在の電通)を設立。当初は、広告業と通信業を融合させ、国内外の情報伝達と広告事業の拡大を推進し、その後国策により通信部門を切り離し、広告代理業に専念することで、今日の広告代理業としての基盤を築いた。
【経営者の部屋|光永星郎】明治時代編.46
46鹿児島県
1866-1950を生きた経営者であり実業家。同郷の川崎正蔵に招かれて川崎造船所(現在の川崎重工業)初代社長に就任。その後数々の会社社長、役員を務めた。文化面でも活躍し、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵、そして様々な美術品は、松方コレクションの名で知られ、東京国立博物館、国立西洋美術館所蔵品の母体と現在もなっている。第4・6代内閣総理大臣を務めた松方正義を父に持つ。
【経営者の部屋|松方幸次郎】明治時代編.45
26京都府
1865-1926を生きた経営者であり実業家。継承難を抱えていた住友家に養子入りし、別子銅山などの経営改革を進める。1900(明治33)年には住友総理事に就任、銀行業など事業拡大を積極的に行い、三井、三菱と並ぶ大財閥へと成長させた。公家出身であり、第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望を兄に持つ。
【経営者の部屋|住友友純】明治時代編.44
46鹿児島県
1865-1953を生きた経営者であり実業家。アメリカやドイツに留学し、帰国後、父の秘書を務めながら、千代田火災保険や日本製鋼所などの経営に携わり、その後政界で活躍した。次女の正子は、白洲次郎に嫁いでいる。
【経営者の部屋|樺山愛輔】明治時代編.43
08茨城県
1861-1937を生きた経営者であり実業家、そして茶人。福沢諭吉にその才能を愛でられ、その後慶應義塾、留学を経て三井銀行に入校。三井呉服店(現在の三越)で様々な改革を行い百貨店の礎を築いた。51歳で実業界を退き、茶人としての活動に専念し始め、代表作として『大正名器鑑』を完成させた。その茶人活動は茶道具の蒐集や評価にとどまらず、日本茶文化の保存・発展に大きな貢献を果たす。近代茶人の名を残す一人として広く知られている。
【経営者の部屋|高橋義雄】明治時代編.41
11埼玉県
1860-1936を生きた経営者であり実業家は技術者でもある。王子製紙(現:王子ホールディングス)からキャリアをスタートさせ、日本の製紙業界の基盤を築き、その後も製紙業の発展に尽力した。これにより日本は紙の自給自足を達成し、製紙業は産業革命の一翼を担う重要な分野となった。
【経営者の部屋|大川平三郎】明治時代編.40
13東京都
1867-1939を生きた経営者であり銀行家。1885(明治18)年に渡米しペンシルベニア大学を卒業後、アメリカの銀行で実務を学ぶ。帰国後、1894(明治27)年に第百十九国立銀行(後の三菱銀行)に入行、手腕を発揮し1921(大正10)年には三菱銀行の会長に就任。その後、三菱合資会社の総理事に就任し、三菱財閥全体の運営に関わる要職を担った。
【経営者の部屋|串田万蔵】明治時代編.39
21岐阜県
1867-1934を生きた経営者であり実業家、政治家でもある。慶應義塾卒業後、三井銀行に勤め、鐘淵紡績(現在のカネボウ)に入社し1921(大正10)年には社長に就任し手腕を発揮した。時事新報社社長時に「帝人事件」を告発したことでもその名を刻んでいる。衆議院議員当選3回。
【経営者の部屋|武藤山治】明治時代編.38
28兵庫県
1864-1945を生きた経営者であり実業家、建築家でもある。日本初の鉄骨構造を採用した三井本店を1902(明治35)年に完成させる。横河工務所、横河橋梁製作所、横河電機研究所などを設立した。東京国立博物館に寄贈した東洋陶磁器は「横河コレクション」として現在に受け継がれている。
【経営者の部屋|横河民輔】明治時代編.37
26京都府
1864-1926を生きた経営者であり実業家。京都で紙巻たばこ「サンライス」を製造を開始し、国産タバコの普及に尽力する。当時、横文字名の煙草として人気となり、ハイカラなライフスタイルを象徴する商品となった。同時期に東京で紙巻タバコ「天狗」を展開した岩谷松平と派手な宣伝合戦を繰り広げたことでも名を馳せた。その後、たばこの専売制移行により村井銀行を創立し,鉱山・石油業に進出している。
【経営者の部屋|村井吉兵衛】明治時代編.36
41佐賀県
1863-1938を生きた経営者であり実業家。中上川彦次郎にその才能を認められ、三井銀行に入行。後の東芝となる芝浦製作所の支配人を務めた後、王子製紙の専務に就任。1909(明治42)年には大日本製糖の社長に就任し、同社の再建に尽力した。さらに、製造業を中心に日本の産業発展に貢献し続けた。出身校の慶應義塾大学(日吉キャンパス)には、子息・藤山愛一郎の寄贈によって建てられた銅像があり、今もその輝きを放っている。
【経営者の部屋|藤山雷太】明治時代編.35
26京都府
1861-1924を生きた経営者、実業家であり政治家。京都瓦斯(ガス)会社の設立に関わり、京都市内へのガス供給を推進した。また京津電気軌道(京都と滋賀を結ぶ電気鉄道)の経営にも携わり、交通インフラの整備を通じて地域経済の発展、そして京都の産業発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|奥 繁三郎】明治時代編.34
40福岡県
1858-1932を生きた経営者であり実業家。海外留学を経て近代的な技術と経営手法を日本に導入し、特に三井鉱山の発展に寄与し、炭鉱業界での成功を収めた。後に益田孝の後任として三井合名会社の総理事に就任し、財閥をさらに発展させる。1932(昭和7)年、血盟団事件で暗殺されその生涯を閉じた。
【経営者の部屋|團 琢磨】明治時代編.33
0089中華人民共和国出身
1855-1926を生きた経営者であり中国の貿易商。1885年に日本へ渡り、長崎や大阪で雑貨行商や傘販売を経営する。1890年には神戸で貿易・海運会社「怡生号」を創設。マッチや雑貨の輸出を成功させ、瀧川辨三との合弁で「義生号」を設立する。日本と中国の貿易を通じて財を成し、孫文の革命運動を支援したことでもその名を刻む。別荘「移情閣」は孫文ゆかりの地として現在も孫文記念館として保存されている。
【経営者の部屋|呉 錦堂】明治時代編.32
44大分県
1854-1901を生きた経営者であり実業家。英国留学後、井上馨の推薦により工部省に入省。その後、戦前5大新聞の一つだった時事新報や後のJR山陽本線となる山陽鉄道の社長を歴任し、日本の産業発展に大きく貢献。1891(明治24)年には三井銀行の理事に就任し、同銀行の再建に取り組み、三井鉱山や三井物産の理事を務めるなど、三井グループの改革と成長を推進。日本の近代産業基盤を構築したひとりであった。福沢諭吉の甥としても知られている。
【経営者の部屋|中上川彦次郎】明治時代編.31
15新潟県
1852-1921を生きた経営者であり実業家。明治・大正期に機械貿易商として活躍。輸入業のノウハウを、アーレンス商会、次いでベア商会で学び、これらの経験が大きな転機となり、1880年(明治13年)に独立、ヨーロッパ視察を経て1888年(明治21年)に高田商会を設立し、機械の輸入販売を手がけた。高田商会は西洋の先進技術を日本に導入し、工業機械の供給を通じて日本の産業発展に大きく貢献した。
【経営者の部屋|高田慎蔵】明治時代編.30
35山口県
1851-1925を生きた経営者であり実業家。神戸でマッチ製造会社「清燧(せいすい)社」を設立し、事業の成功に導いたことから「マッチ王」と称された。教育にも尽力し滝川中学校・高等学校の創立者としても知られている。
【経営者の部屋|瀧川辨三】明治時代編.29
30和歌山県
1851-1916を生きた経営者であり実業家。オルガン修理をきっかけに国産オルガンの製造を開始する。山葉風琴製造所を設立。その後、日本楽器製造(現・ヤマハ)となり、ピアノの国産化を推進するなどヤマハの基礎を築いた。
【経営者の部屋|山葉寅楠】明治時代編.28
24三重県
1850-1933を生きた経営者であり実業家。1879年に朝日新聞社の創業に携わり、その経営に参加した。また1915年には「全国中等学校優勝野球大会」(現・全国高等学校野球選手権大会)を創設し、その第一回大会の始球式も務めた。この功績により2015年に日本野球殿堂入りを果たしている。
【経営者の部屋|村山龍平】明治時代編.27
46鹿児島県
1850-1920を生きた経営者であり実業家。キセルでタバコを吸う時代に、東京で紙巻タバコ「天狗」を製造・販売し、ハイカラブームの火付け役となった。また京都で同様に紙巻きタバコを扱っていた村井吉兵衛と派手な宣伝合戦を繰り広げたことでも知られている。
【経営者の部屋|岩谷松平】明治時代編.26
16富山県
1848-1930を生きた経営者であり実業家。渋沢栄一の支援を受け、現在の太平洋セメントの礎を築き、さらに安田善次郎の助力を得て、海運、鉱山、造船、鉄鋼、電力など多角的に事業を展開。第一次世界大戦の特需を背景に、一代で浅野財閥を形成した。
【経営者の部屋|浅野総一郎】明治時代編.25
25滋賀県
1847-1926を生きた経営者であり実業家。司法官を経て住友に入社し、別子鉱業所支配人、1900年には第2代総理事に就任し、住友財閥の基礎を築いた。大阪紡績、大阪商船の設立にも関与した。
【経営者の部屋|伊庭貞剛】明治時代編.24
44大分県
1847-1922を生きた経営者であり実業家。福沢諭吉にその学才を認められ、岩崎弥太郎の懇請により三菱に入社。岩崎家の三代にわたり支え続け、同社の主要事業の中核を担い、三菱財閥の大番頭として活躍した。
【経営者の部屋|荘田平五郎】明治時代編.23
19山梨県
1846-1911を生きた経営者であり実業家。キャリアの初期は農業、生糸などの行商から始まり、その後、横浜で生糸などの投機取引に成功し、相場師としてその名を馳せた。また鉄道事業を中心とする株式投資を積極的に行い、甲州財閥の一翼を担った。
【経営者の部屋|雨宮敬次郎】明治時代編.22
24三重県
1845-1933を生きた経営者であり実業家。横浜で製茶貿易をスタートさせ、その後当局と協力し全国茶業組合を設立した。輸出茶の品質向上に尽力し、日本の茶を扱うビジネスにおいて中心的な役割を果たした人物であった。
【経営者の部屋|大谷嘉兵衛】明治時代編.21
33岡山県
1844-1933を生きた経営者であり実業家。益田孝に見出され、三井物産で活躍。その後、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社合併により設立された大日本麦酒株式会社の初代社長に就任。ビール王と称された。
【経営者の部屋|馬越恭平】明治時代編.20
11埼玉県
1840-1931を生きた経営者であり実業家。明治政府の官吏として活動した後、第一国立銀行(現・みずほ銀行)、東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所など、数多くの企業や団体の設立、経営に関わった。引退後は社会福祉事業にも積極的に取り組み尽力した。
【経営者の部屋|渋沢栄一】明治時代編.19
46鹿児島県
1837-1912を生きた経営者であり実業家、政治家。鹿児島で呉服商、長崎で貿易商として成功を収めた後、大阪へ進出する。日本政府郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路の運営に携わる。その後1887年川崎造船所(現・川崎重工業)を創設し、日本の造船業の基礎を築いた。
【経営者の部屋|川崎正蔵】明治時代編.18
13東京都
1832-1914を生きた経営者であり実業家。新橋~横浜間の鉄道や道路の開設、横浜のガス灯の設置や埋立事業に携わる。その後、北海道炭礦鉄道会社や石狩十勝に高島農場を開拓するなど,数々の企業経営を行った。また易の研究にうちこみ,「高島易断」を刊行し呑象と号してその開祖となった。
【経営者の部屋|高島嘉右衛門】明治時代編.17
28兵庫県
1829-1891を生きた経営者であり実業家。横浜正金銀行頭取などを歴任。同じく実業家であり、政治家の白洲次郎の祖父であり、神戸女学院の前身であった私塾に土地を提供したことでも知られている。
【経営者の部屋|白洲退蔵】明治時代編.16
25滋賀県
1842-1903を生きた経営者であり実業家。近江商人の家系に生まれ、1858年に兄らと共に近江特産品を行商する持下り業を1858年に開始した。明治期に入ると、大阪に呉服店「紅忠」を開店し、これが後に伊藤忠商事、丸紅の前身となった。総合商社伊藤忠財閥の創始者として知られている。
【経営者の部屋|伊藤忠兵衛】明治時代編.15
16富山県
1838-1921を生きた経営者であり実業家。安田財閥の創始者。小売や両替商を営む安田商店を開業し、その後金融業、不動産業と事業を拡大し成功を収めた。現在の、みずほ銀行、損害保険ジャパン、明治安田生命、東京建物などの基礎を築いている。また東京大学に寄付した講堂は現在「安田講堂」と知られている。
【経営者の部屋|安田善次郎】明治時代編.14
41佐賀県
1865-1937を生きた経営者であり実業家。森永製菓の創業者。当初陶器販売に従事し、その後渡米し働きながら西洋菓子の製法を習得。帰国後、東京赤坂に洋菓子店「森永西洋菓子製造所」を開業し、製菓業界の第一人者となった。
【経営者の部屋|森永太一郎】明治時代編.13
39高知県
1836−1896を生きた経営者であり実業家。石川七財とともに三菱財閥の創業者である岩崎彌太郎の右腕として活躍した。その彌太郎の没後、三菱を退き、1889年に第3代日本銀行総裁に就任し、指揮を執った。
【経営者の部屋|川田小一郎】明治時代編.12
19山梨県
1860-1940を生きた経営者であり実業家。株式投資で財を成し、東京瓦斯(ガス),東京電灯(電気)などの大株主として経営に参加、また経営不振であった東武鉄道の再建に乗り出しす。武蔵大学の前身である武蔵高等学校の創立者でもあり、美術品蒐集家でもあった。
【経営者の部屋|根津嘉一郎】明治時代編.11
19山梨県
1821-1913を生きた経営者であり実業家。1859年の横浜開港を機に山梨県の特産品を扱い始め、その後、地元山梨で金融業を展開する。また不動産や株式投資にも手を広げ、甲州財閥の筆頭格としての地位を築いた。
【経営者の部屋|若尾逸平】明治時代編.10
40福岡県
1857-1933を生きた経営者であり実業家。石炭採掘事業に着手し電力,鉄道,セメントなど多角的に事業を展開。麻生グループの創始者となった。
【経営者の部屋|麻生太吉】明治時代編.9
27大阪府
1865-1947を生きた経営者であり実業家。1896年軍用の毛布・服地を製造する日本毛織を創立し、戦時景気の波に乗り多額の財を成した。
【経営者の部屋|川西清兵衛】明治時代編.8
33岡山県
1833-1910を生きた経営者であり実業家。豪商大原壮平の養嗣子となり、大原家が出資した倉敷紡績所(のちの倉敷紡績)の初代社長となる。また資金調達のため倉敷銀行(のちの中国銀行)を設立し頭取としても活躍した。
【経営者の部屋|大原孝四郎】明治時代編.7
26京都府
1842-1912を生きた経営者。丁稚奉公で仕事を学び、舶来雑貨の問屋「加賀文」を築き、西南戦争に端を発した物価暴落に目をつけて商品を買い占め、その後の景気回復で財を成した。その後従弟だった勝次郎がその後「加賀文」から「岩井商店」を興しその後の株式会社岩井商店となった。
【経営者の部屋|岩井文助】明治時代編.6
35山口県
1841-1912を生きた経営者であり実業家。 明治初期に現在のリーガルコーポレーションの前身となる軍靴製造会社を設立。大阪商工会議所の前身であった大阪商法会議所を五代友厚、広瀬宰平などと共に設立。田中市兵衛・松本重太郎らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|藤田伝三郎】明治時代編.5
27大阪府
1838-1910を生きた経営者であり実業家。第四十二国立銀行や大阪商船(現在の商船三井)などを興した。藤田伝三郎・松本重太郎らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|田中市兵衛】明治時代編.4
26京都府
1844-1913を生きた経営者であり実業家。洋装の流れと西南戦争の特需の波にのり、その後、第百三十銀行を設立。大阪麦酒など多くの企業設立に関わり、大阪財界を中心に活躍した。藤田伝三郎・田中市兵衛らと並び称される大阪財界人の一人。
【経営者の部屋|松本重太郎】明治時代編.3
39高知県
1852-1920を生きた経営者であり実業家。従弟の三菱財閥創始者岩崎弥太郎を支え、関連銀行の頭取などをつとめた。
【経営者の部屋|豊川良平】明治時代編.2
15新潟県
1848-1938を生きた経営者であり実業家。三井物産の設立時に参画し、同社の経営責任者となり三井財閥の礎を築いた。また三池炭鉱の払下げを実現させ、のちの三井鉱山を前身となる三池炭鉱社を設立した。茶人,美術品収集家としても知られている。
【経営者の部屋|益田 孝】明治時代編.1
26京都府
1545-1596を生きた経営者。 桃山時代に活躍し徳川家康に仕え、京都を中心とした商家である茶屋の祖であり、その後茶屋四郎次郎は通称となる。 いらすとすてーしょんでは出生地を京都、出生年を1545年とさせていただきます。
【経営者の部屋|茶屋四郎次郎(初代 清延)】室町・桃山時代編.2
40福岡県
1551-1635を生きた経営者。博多を代表する石見銀山などを経営する家系の6代目は千利休と茶で通じ、当時の権力者たちとの親交を深め、特に豊臣秀吉の寵愛を受けた。その秀吉の朝鮮出兵の際には多くの援助を行なっている。徳川政権後は落日を迎えた。
【経営者の部屋|神屋宗湛】室町・桃山時代編.1
21岐阜県
1603-1676を生きた経営者であり、その後の臨済宗僧侶。関ヶ原宿で江戸時代の高級旅館(本陣)の経営者は、臨済宗復興に尽力した愚堂東寔の導きにより、50歳前後で出家した。
【経営者の部屋|至道無難】江戸時代編.20

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39高知県
1917-1993を生きた経営者であり実業家。日本タイプライター精機製作所に勤めた後、1946(昭和21)年に樫尾製作所(現、カシオ計算機)を設立。1954(昭和29)年にリレー計算機、1965(昭和40)年に電子式卓上計算機を開発。同社を急成長させ、カシオを世界的なブランドに育て上げた。
【経営者の部屋|樫尾忠雄】昭和時代編.25New!!
26京都府
1914-1995を生きた経営者であり実業家。1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで三越の社長を務めた。三越の経営改革を推進し、百貨店業界の発展に大きく貢献。特に、店舗の近代化やサービスの向上に力を入れ、顧客満足度を高めた。彼のリーダーシップの下、三越は国内外での店舗展開を進め、ブランド力を強化した。
【経営者の部屋|岡田 茂】昭和時代編.24

2024年パリ オリンピック、パラリンピック開催を記念して「いらすとすてーしょん」ではオリンピックに関連する偉人たちのイラストポートレートをお届けしました↓

いらすとすてーしょん新キャラクター

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館長

さて本年いらすとすてーしょんの新キャラクターが誕生しました

館長

シューちゃんです

シューちゃんはいらすとすてーしょんのキャラクターです
シューちゃん

シュー(Syu)です
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3年目を迎えた2024年も皆様に役立つ世界の偉人たちをシューちゃんと共にフリーイラストポートレートをお届けします

いらすとすてーしょんからのお知らせ

創業76年を迎える総合広告代理業を営む栄光社のイチオシと「いらすとすてーしょん」のコラボレーションが2022年7月1日ついにオープン!イチオシ美術とそのイラストポートレートで贈る作者をぜひご堪能ください
創業78年を迎える栄光社Web page新企画「イチオシ」と


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