足利義昭





Ashikaga Yoshiaki (1537-1597)

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教科書で見かけたあの有名人
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足利義昭
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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館長

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シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の最終話となる第9回目は、
室町幕府第十五代将軍の足利義昭が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第9回:足利義昭〜将軍制を手放した将軍〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

「南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏、
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

「室町幕府とは何だったのか」
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

臨界点を越えたあとの登場

足利義昭が歴史の表舞台に現れたとき、
将軍という存在は、すでに臨界点を越えていました。

兄・足利義輝は、
武によって空洞化した将軍制に実体を与えようと抗い、
その志ゆえに二条御所で討たれました。

義昭が引き継いだのは、
壊れかけの将軍職ではありません。

兄の死によって、
すでに完全に「壊れきった制度」そのものでした。

流浪する公方、そして一瞬の「上洛」

義輝の死後、
義昭は各地を流転します。

将軍家という血筋は、
もはやそれ自体では政治的効力を持たず、
義昭は保護を求めて各地の大名を頼らざるを得ませんでした。

その末に彼が辿り着いたのが、
織田信長という、
それまでの室町政治とはまったく異質な軍事権力でした。

1568年、
信長の軍事力を背景に、義昭は入洛します。

この瞬間、
表向きには「将軍職の復活」が成し遂げられました。

将軍復活という幻想

義昭は、
将軍として京都に戻ることで、
壊れた幕府を立て直す構想を抱いていました。

しかし、その構想は早い段階で、
限界に突き当たります。

実際の政治決定権は、
一貫して信長の手中にあり、
将軍である義昭は、
再び「権威の看板」としての役割に、
とどまらざるを得ませんでした。

皮肉なことに、
義昭の将軍就任は、
将軍制が完全に機能しないことを、
天下に再確認させる出来事となったのです。

"幕間の影"第十四代将軍・足利義栄

ここで一度、
歴史の影に隠れた、
十四代将軍・足利義栄(よしひで)に触れておきます。

義栄は、
三好氏に擁立されたものの、
病弱であり、一度も京の土を踏むことなく、
その短い在職期間を終えました。

義栄の姿が示しているのは、
個人の資質以前に、
将軍制そのものが、
「即位によって息を吹き返す段階」を、
とうに過ぎていたという現実です。

だからこそ義栄は、
語られない将軍でありながら、
制度の終わりを最も端的に照らした、
「余光」のような存在でした。

「信長包囲網」という最後の抵抗

やがて義昭は、
信長の横暴に対抗する道を選びます。

それが

信長包囲網

諸大名に「将軍からの御内書」を発し、
将軍という名の象徴性を用いて、
反信長勢力を糾合しました。

この行動は、
義輝のような「武による抵抗」ではなく、
将軍制が持つ「正統性を付与する道具」としての、
機能を最後まで使い切る試みでした。

このとき、義昭は理解していたのです。

すでに将軍制は、
政治を主導する制度ではなく、
誰かを動かすための補助的な機能にすぎないことを。

1573年、幕府の終焉

しかし、時代の奔流は止まりませんでした。

1573年、
義昭は、信長によって京都を追放されます。

この瞬間、
室町幕府の統治機能は事実上、
完全に消滅しました。

ここで大切なのは、
「滅ぼされた」という結果よりも、
将軍制という名目が、
もはや新しい時代の政治枠組みとして、
必要とされなくなったという事実でした。

将軍制を手放すという決断

義昭は、その後も長く生き続けました。

しかし、将軍制を立て直すことも、
武で抗い続けることも選びませんでした。

晩年の義昭は、
秀吉の御伽衆※となり、将軍という「制度」から距離を置き、それを事実上、手放しました。

これは逃避ではありません。

将軍制が、
もはや内側から修復できないと悟った者の、
最後の現実的判断でした。

※御伽衆(おとぎしゅう)将軍や大名のそばに仕えた話し相手のこと

室町幕府とは、何だったのか

足利義満が完成させた秩序は継承されず、
義教が恐怖で補修し、
義政が目を背け、
義尚が消耗し、
義澄が否定され、
義晴が背負い、
義輝が抗いました。

そのすべての帰結として、
義昭は「手放す」という選択を行いました。

室町幕府とは、
完成された制度ではありませんでした。

それは限られた条件のもとで辛うじて成立し、
一度その前提を失うと支え直すことのできない、
危うい秩序でした。

足利義昭は、
その限界を最後に引き受け、
その将軍制を手放したとき、
二百三十余年の歴史に幕を閉じました。

それは突然の崩壊ではなく、
これまでの人々の選択によって延命され続けた制度が、
ついに役目を終えた瞬間だったのです。

明日からは、新シリーズがスタート

そして、明日から始まるのは、
将軍は、確かに存在しました。

ただしそれは、
政治を決める存在ではなく、
利用され、動かされる「看板」としての将軍でした。

将軍制が空洞化したあとも、
政治そのものが止まったわけではありません。

むしろ、その空白を埋めるようにして、
別の人々が権力を動かし始めていたのです。

誰が、将軍を動かしたのか。

どのように、将軍の名を用いたのか。

そして、その政治は、
何を支え、何を壊したのか。

次のシリーズでは、
細川勝元・細川政元・細川澄元・太田持資・日野富子・大内義興から
「看板となった将軍」を動かした人々に焦点を当て、
室町政治の実相を描きます。

シリーズ
「看板となった将軍を動かした人々〜 管領政治と室町権力の実相 〜」

将軍が権力を失ったあとも、
政治は、確かに続いていました。

1411-1488を生きた武将。室町幕府奉公衆として将軍に近侍する家系に生まれ、その出自を背景に京都政権の内側に連なる立場を持ちながらも関東へ下向し、現地における軍事・統治の実務基盤を築いた過渡期の人物。将軍家と関東管領の対立が深まる中、中央の理念を現場に適応させ、在地勢力の掌握と軍事拠点の運用を通じて秩序を持続可能なかたちで定着させる統制能力を発揮した。その活動は単なる戦闘指揮にとどまらず、地域権力を組み替えながら統治構造そのものを再編し、一元的支配から地域主導の運営へと移行する転換を象徴する。そして子である道灌の活躍を準備した、実務型武家官僚の典型である。いらすとすてーしょんでは、出生地を京都府とさせていただきます。
【政治の部屋|太田資清】室町時代編.12

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政治の部屋
1828-1864を生きた福岡藩士・志士。福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の子として生まれる。若くして国学に親しみ、尊王思想を深めた。梅田雲浜との出会いを契機に国事へ関心を強め、西郷隆盛、真木和泉、清河八郎ら諸国の志士たちと交流しながら尊王攘夷運動に身を投じる。安政の大獄では月照の薩摩逃避行に同行し、その後も京都を中心に活動を続けた。1862年には島津久光の上洛に際した挙兵計画に関わり、寺田屋騒動で捕縛される。釈放後も活動を再開し、1863年には公卿・澤宣嘉を擁して生野の変を主導した。しかし挙兵は短期間で失敗に終わり、捕らえられて京都の六角獄舎へ収監される。翌1864年、禁門の変の混乱のなかで、他の志士らとともに処刑された。 藩士という立場を超え、理想と信念に従って行動し続けたその生涯は、後の維新運動にも大きな影響を与えた。幕府の法や既存の秩序よりも尊王の理念を優先したその姿は、まさに「法を越え尊王の義に殉じる」志士そのものであった。
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政治の部屋
1789-1822を生きた盛岡藩士。陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の子として生まれる。江戸で平山行蔵に学び、武芸や兵学を修めたのち帰郷し、私塾「兵聖閣」を開いて人材育成にあたった。また、ロシアの南下を警戒し、北方防備の重要性を説いたことでも知られる。当時の盛岡藩(南部家)と弘前藩(津軽家)の間には、長年にわたる対立意識が存在していた。秀之進は主家の名誉を重んじる立場から、弘前藩主・津軽寧親に辞官隠居を求める書状を送り、最終的には襲撃を計画した。1821年(文政四年)、変名の「相馬大作」を用いて行動したが、計画は発覚して未遂に終わり、江戸へ逃れた後に捕縛される。1822年(文政五年)、幕府法に背いた重罪人として千住小塚原で処刑された。しかしその行動は後世に大きな議論を呼び、主君への忠義を貫いた人物として語られる一方、私憤による無謀な行為とする評価も存在する。法に従うべき武士でありながら、藩の名誉を守るという信念を優先したその生涯は、まさに「武士の面目のために幕府の法を侵す」人物であった。
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政治の部屋
1747-1793を生きた思想家・尊王家。上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士・高山正教の子として生まれる。青年期に『太平記』などの歴史書に強い影響を受けて尊王思想を深め、やがて家を出て全国を遊歴した。北は陸奥から南は九州まで各地を巡り、その見聞を旅日記に書き残している。京都では公家と交流し、朝廷への敬意と古来の伝統の尊重を説いた。また、江戸では前野良沢や杉田玄白らの知識人とも接触し、各地の学者や藩士との交流を重ねた。京都の三条大橋付近で御所に向かって拝礼したと伝わる「皇居望拝」の逸話は特に有名で、現在もその姿を刻んだ銅像が建てられている。林子平・蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられ、その尊王思想は後の幕末にも影響を与えた。1793年(寛政5年)、九州遊歴中の久留米で四十六歳の生涯を閉じる。権力や身分に頼ることなく全国を歩き、自らの理想を訴え続けたその姿は、まさに「王道の義を胸に全国を歩く」思想家そのものであった。
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政治の部屋
1793-1874を生きた侠客・博徒。上野国勢多郡大前田村(現在の群馬県前橋市)に生まれる。若い頃に博徒同士の抗争に巻き込まれ、各地を流浪したと伝えられる。のちに故郷へ戻ると、関東・東海・甲信に広い縄張りを持つ有力な親分となり、争いの仲裁に優れたことから「天下の和合人」と称された。同じ上州の国定忠治とは対照的な存在として語られ、「博打打ちと盗っ人は違う」として盃を拒んだという逸話も残る。法の外に生きる存在でありながら独自の筋目と仁義を重んじ、晩年には遠島となった子分たちを援助したとも伝えられる。明治維新後まで生き、1874年(明治7年)に八十二歳で死去。その生涯は、まさに「無法の世界で独自の仁義と秩序を保つ」侠客そのものであった。
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