大岡忠相 イラストポートレート

江戸時代編.55

シリーズ:法と義のあいだに生きた者たち 第1回

大岡忠相

Ooka Tadasuke

法と情理の狭間で庶民を救う

1677–1752 | 出生地:東京都 | 政治の部屋

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教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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今回のシリーズ「法と義のあいだに生きた者たち」って!?

Series

法と義のあいだに生きた者たち法と情理の狭間で庶民を救う

法と義が、まだ一致していた頃

享保の改革から幕末に至るまで、江戸社会の秩序を支えていたのは、幕府が定めた「法」でした。しかし、その法を運用する現場では、条文を機械的に当てはめるだけでは人々の暮らしを守れない場面が少なくありませんでした。

八代将軍・徳川吉宗のもとで江戸南町奉行を務めた大岡忠相は、『公事方御定書』の編纂に関わる一方で、庶民の実情に目を向けた行政を行いました。幕末に近い時代に活躍した遠山景元もまた、現場の声に耳を傾けながら法を運用した奉行として知られています。彼らにとって、「法」と「義」は対立するものではありませんでした。法を守ることは人々を守ることであり、人々を救うことは法の理念を実現することでもあったのです。

しかし、時代が進むにつれて、その均衡は少しずつ揺らいでいきます。剣術家・斎藤弥九郎は、道場「練兵館」を通じて後の志士たちを育て、侠客・大前田英(栄)五郎は、国家の法の外側で独自の仁義と秩序を守りました。思想家・高山彦九郎は、現実の体制よりも王道の理想を追い求めます。

そして幕末が近づくと、下斗米秀之進は主家の名誉のために法を犯し、平野国臣は尊王の理念のために命を賭し、大塩平八郎は窮民救済のために幕府へ反旗を翻しました。本シリーズが描くのは、「法」と「義」が同じ方向を向いていた時代から、次第にその距離を広げ、やがて衝突していく百五十年余りの歴史です。

法を守ることと、義を貫くことは、両立するのか

法とは、社会の秩序を維持するための仕組みです。義とは、人として守るべき道を貫こうとする内なる信念です。多くの場合、この二つは同じ方向を向いています。しかし、時として両者は正面から衝突することがあります。

大岡忠相と遠山景元は、法を運用する立場にありながら、情理によってその厳格さを和らげようとしました。斎藤弥九郎と大前田英五郎は、それぞれ剣の道、侠の道を通じて、法の外側に独自の秩序を築き上げます。高山彦九郎は、幕藩体制という現実の秩序よりも、王道という理想を優先しました。そして下斗米秀之進、平野国臣、大塩平八郎の三人は、それぞれ武士の面目、尊王の理念、民衆救済という譲れない「義」のために、あえて法を破る道を選びます。その代償はいずれも死という重いものでした。

本シリーズが伝えたいのは、法と義は本来対立するものとは限らないということです。むしろ社会が安定している時代には、両者は互いを支え合う関係にあります。しかし、その均衡が崩れたとき、人はどちらを選ぶのか。八人の生き方は、その普遍的な問いを私たちに投げかけています。

正義は、時代によって形を変える

八人の生涯を並べると、一つの興味深い事実が見えてきます。それは、同じ「義」という言葉であっても、その意味するところは時代や立場によって大きく異なるということです。

大岡忠相にとっての義は、法の枠内で庶民を救うことでした。大前田英(栄)五郎にとっての義は、国家の法の外側にありながらも、人と人との筋目や共同体の秩序を守ることでした。下斗米秀之進にとっての義は、主家の名誉を守ることでした。そして平野国臣や大塩平八郎にとっての義は、法を超えてでも守るべき理想や信念だったのです。なお、大岡忠相の名を広めた「大岡政談」の多くは後世の講談や創作によるものであり、史実とは一致しない部分が少なくありません。同様に、遠山景元についても、「遠山の金さん」として語られる数々の名裁きの大部分は、講談や時代劇によって形づくられたフィクションです。しかし二人に共通する実像は、派手な裁きの名手というよりも、都市行政や法制度の運営を担った優れた実務家であったことにあります。

本シリーズでは、法と義のあいだで揺れ動いた人々の選択を、史実と伝承を見分けながらたどっていきます。彼らは何を守ろうとし、何を捨てたのか。そして、その選択は私たちに何を問いかけているのか。八人の人生を通じて、ともに考えていきたいと思います。

シューちゃん

「法と情理の狭間で庶民を救う」大岡忠相の物語

どのような時代を生きたのか

大岡忠相が生きた十七世紀後半から十八世紀半ば(元禄から享保・宝暦期)は、徳川幕府による統治体制が安定する一方で、人口百万人を抱える大都市・江戸が、度重なる大火や生活困窮、治安対策など新たな都市問題に直面し、法制度と行政の整備が求められていた時代でした。

忠相は1677年(延宝五年)、旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれます。のちに同族の旗本・大岡忠真の養子となって家督を継ぎました。山田奉行や普請奉行を歴任するなかで実務能力を高く評価され、1717年(享保二年)、八代将軍・徳川吉宗↗のもとで江戸南町奉行に任じられます。

当時の江戸は世界有数の巨大都市へと成長していましたが、その一方で火災、貧困、犯罪、物価高騰などさまざまな社会問題を抱えていました。忠相は、こうした大都市を支える法と行政の最前線に立つことになったのです。

この人物が向き合った「法と義のあいだ」とは

忠相が向き合った「法と義のあいだ」とは、「幕府の法を公平に運用する責任と、庶民の現実に寄り添う情理との両立」でした。

町奉行は裁判官であり、行政官であり、警察責任者でもあります。法は誰に対しても公平に適用されなければなりません。しかし、奉行所へ持ち込まれる事件や訴えの背景には、貧困や災害、人間関係など、条文だけでは割り切れない事情が数多く存在していました。

法を厳格に守れば人を救えないことがある。一方で、情に流されれば法の公平性が損なわれる。忠相が向き合ったのは、この相反する二つの要請をいかに調和させるかという課題だったのです。

この人物が選んだ「答え」とは

忠相が選んだ答えとは、「法の公平性を守りながら、人々を救う仕組みを整えること」でした。

忠相は、吉宗の進める享保の改革のもとで、評定所一座の一員として幕府の基本法典『公事方御定書』の編纂に関わりました。それまで担当者ごとの判断に委ねられることも少なくなかった裁判に一定の基準を与え、法の運用の客観性向上に貢献したのです。その一方で、忠相は社会問題への実務的な対応にも力を注ぎました。火災の絶えなかった江戸では、町人による消火組織である町火消の整備を進め、防災体制の強化に尽力します。また、目安箱への投書を契機として設立された小石川養生所にも深く関わり、貧しい人々が医療を受けられる仕組みづくりを支えました。

さらに青木昆陽↗の才能を見出し、サツマイモ栽培の普及を後押しするなど、飢饉への備えにも取り組んでいます。なお、「三方一両損」や「子争い」といった有名な「大岡政談」の多くは、忠相の死後に講談や戯作によって創作された逸話であることが知られています。しかし、そうした伝説が生まれた背景には、忠相が実際に法制度の整備と庶民生活の安定に大きく貢献したという事実がありました。

その生涯は何を残したのか

1752年(宝暦二年)、大岡忠相は七十五歳でその生涯を閉じました。晩年には奏者番や寺社奉行を兼ね、三河国西大平藩一万石の藩主となります。町奉行から大名へ昇進した異例の人物としても知られています。

忠相が関わった『公事方御定書』は、その後の幕府法制の基盤となりました。また、町火消や小石川養生所に象徴される施策は、江戸社会を支える重要な制度として長く機能し続けます。後世に生まれた「大岡政談」の数々は必ずしも史実ではありません。しかし、それほどまでに人々が理想の奉行像を忠相に重ね合わせたこと自体が、彼への高い評価を物語っています。

忠相の生涯が語るもの、それは法と情理は本来対立するものではなく、優れた制度と現実への理解によって両立し得るという事実です。まさに「法と情理の狭間で庶民を救う」という副題にふさわしい、法と行政の力で江戸社会を支えた名奉行でした。

Coming Next

明日は、遠山景元(金四郎)

大岡忠相が示したのは、法の公平性を守りながら、人々の暮らしに寄り添う実務家としての生き方でした。

時代が下り、幕末が近づく頃、江戸の町にはもう一人、現場の実情を重んじながら法を運用した奉行が現れます。若き日の奔放な逸話で知られ、時に老中・水野忠邦による過度な統制政策にも異論を唱えながら、町人の暮らしと都市の活力を守ろうとした人物です。

明日お届けする第2回は、「現場の声に耳を傾け法を生かす」遠山景元(金四郎)の物語です。

1793-1855を生きた江戸幕府の幕臣・旗本。長崎奉行などを務めた遠山景晋の子として江戸に生まれた。若い頃には町人地で生活した経験があったとも伝えられ、のちの民情理解の素地となったといわれる。小納戸、勘定奉行などを経て、1840年に江戸北町奉行へ就任。後に南町奉行も務め、江戸の治安と民政を支えた。天保の改革期には、老中・水野忠邦による統制政策のもとで職務にあたったが、庶民生活への影響にも目を向け、現場の実情を踏まえた対応を重視した。水野失脚後には南町奉行として復帰し、寄席や株仲間の復活など都市経済と町人文化の再建にも関わったとされる。後世、「遠山の金さん」として数々の名裁きが講談や芝居、時代劇で語られているが、その多くは創作である。しかし、実際の景元も優れた行政手腕と裁判能力を備えた能吏として高く評価されていた。法を杓子定規に振りかざすのではなく、現場の声や庶民の暮らしに耳を傾けながら職務を全うしたその姿は、まさに「現場の声に耳を傾け法を生かす」奉行であった。
【政治の部屋|遠山景元(金四郎)】現場の声に耳を傾け法を生かす

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