足利義持





Ashikaga Yoshimochi (1386-1428)

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足利義持
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館長

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足利義持って

館長

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シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の第2回目は、
室町幕府第四代将軍の足利義持が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第2回:足利義持〜完成した秩序を引き継げなかった将軍〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

室町幕府とは何だったのか
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

偉大すぎる前代の影

足利義持が将軍として政権を引き継いだとき、
室町幕府にはすでに「完成された秩序」が存在していました。

父・足利義満が築き上げたその秩序は、
南北朝の合一を果たし、
公家・武家・寺社、さらには国際関係までもを包み込む、
きわめて高い完成度を持っていました。

しかしその完成度は、
後継者にとっては祝福であると同時に、
逃れがたい重圧へと変化します。

義持は、
「完成された世界」に将軍として足を踏み入れた、
最初の人物だったのです。

父とは異なる政治姿勢

義持は、父・義満の政治を
そのままなぞろうとはしませんでした。

それは、義満の政治が、
制度として再現可能なものではなく、
義満個人の威信と胆力の上に成り立った
一代限りの均衡だったことを、
誰よりも近くで見ていたからです。

義持にとって、
父の政治を繰り返すことは、
安定をもたらすどころか、
反発と混乱を呼び込む危険を大いに抱えていました。

そのため義持は、
明との公式な勘合貿易を一時中断し、
「日本国王」という称号や、
父が用いた派手な権威の演出からも、
一定の距離を置く選択をします。

義持が目指したのは、
朝廷の伝統や神仏への敬意を重んじ、
有力守護大名との合議を基盤とする、
より慎重で保守的な政治でした。

急激な権力集中を避け、
将軍権力を一段引いた位置に戻すことで、
政権の安定を図ろうとしたのです。

平穏の裏で進んだ「空洞化」

義持の治世には、
父の時代のような大規模な内乱は起こりませんでした。

一見すると、
義持の政治は成功していたように見えます。

しかしその平穏は、
室町幕府の秩序が制度として自立した結果ではありませんでした。

義満という比類なき「調整力をもつカリスマ政治家」を失った秩序は、
義持の慎重な運営によって、
かろうじて崩壊を先送りされていただけだったのです。

完成されていたはずの秩序は、
義持のもとで、
少しずつ中身を失い始めていました。

継承できなかったもの

義持が直面した最大の問題は、
父が成し遂げた「完成」を、
制度として引き継ぐことができなかった点にあります。

義満の秩序は、
明文化された仕組みや慣行によって支えられていたのではなく、
義満個人の威信と裁量が、
あらゆる対立を押さえ込むことで成立していました。

それを否定し、
合意と伝統に立ち戻ろうとした義持の選択は、
秩序を安定させるどころか、
将軍権力の輪郭そのものを曖昧にしていきます。

義持は失敗したのではありません。
引き継ぐこと自体が不可能な父の作った秩序を、
引き継がされていたのです。

次代へ引き継がれた課題

義持の治世が残した最大の遺産は、

「完成された秩序は、誰も再現することができない」

という現実でした。

この事実は、次代の将軍に、
より苛烈な選択を突きつけることになります。

秩序を慎重に守るのか。
それとも、恐怖と強権によって補修するのか。

義満のような調整は不可能である。

では、秩序をいかに維持するのか、
慎重な合意によるのか、
それとも恐怖と強権によって補修するのか。

義持の穏健な政治は、
この問いに答えを出す前に終わりを迎えました。

表にでない停滞としての義持政権

足利義持は、
室町幕府を大きく壊すことはありませんでした。

しかし同時に、
幕府を前に進めることもできませんでした。

完成された秩序を前にして、
それを制度として変換できなかった。

その表にでない停滞こそが、
義持の時代の本質です。

室町幕府はここで、
「完成された秩序」と
どう向き合うべきかという問いに答えを出せないまま、
次の、より危うい段階へと進んでいくことになります。

明日は、足利義教

引き継ぐことのできなかった秩序を前に、
次の将軍は、まったく異なる手段を選びます。

それは、
穏健さとは正反対の方法でした。

明日は、
「恐怖によって秩序を補おうとした将軍」足利義教の物語です。

1394-1441を生きた室町幕府第六代将軍。足利義満の子として生まれ、兄・義持の死や義持の子で第五代将軍となった義量も若くして早世したため、将軍権力の不安定さが表面化した。こうした状況の中、義教は籤引きによって将軍に選ばれる。義教が直面したのは、父・義満が築いた強大な将軍権力が、安定した制度ではなく、義満個人の卓越した政治手腕と威信に大きく依存していたという現実であった。秩序は完成していたが、それを恒常的に支える仕組みは失われていた。義教はこの空白を、合意や調整ではなく、強権と恐怖による統制で埋めようとする。苛烈な処断は一時的に幕府権威を回復させたが、やがて1441年、嘉吉の乱で暗殺される。その最期は、制度に裏付けられない権力を、力だけで維持しようとした試みの限界を鮮明に示している。
【政治の部屋|足利義教】室町時代編.5

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26京都府
1563-1646を生きた武将。細川幽斎の長男として生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えて各地の戦いで武功を重ねた。父譲りの教養を備え、「利休七哲」の一人に数えられる茶人としても知られる一方、剛毅な性格と優れた軍事能力を持つ武将でもあった。1600年の関ヶ原の戦いでは早くから徳川家康支持を明らかにし、岐阜城攻めや本戦で活躍して東軍勝利に大きく貢献する。その功績により豊前小倉三十九万石を与えられ、後に豊後の一部も加増された。九州北部の要衝を治めながら徳川政権の西国支配を支え、近世大名としての細川家の基盤を築いている。父・幽斎が守り抜いた家名を受け継ぎ、武勇と統治の力によって新たな時代の秩序を支えたその姿は、まさに「圧倒的武功で新体制を支える」武将であった。
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26京都府
1534-1610を生きた武将であり歌人。室町幕府の奉公衆の家に生まれ、足利義藤(後の義昭)に仕えて将軍擁立に尽力した。織田信長の時代には丹後国を与えられ、軍事と領国経営の両面で手腕を発揮する。信長没後は豊臣秀吉に従い、さらに関ヶ原の戦いでは徳川家康方へ与するなど、激変する時代の潮流を見極めながら細川家の存続を図った。武将としてだけでなく文化人としても高名で、古今和歌集の秘伝である「古今伝授」の継承者として朝廷や公家社会に深い人脈を築く。1600年の田辺城籠城では、歌道断絶を憂えた朝廷の働きかけによって講和が実現したことでも知られる。武力のみならず教養と情報網を武器に乱世を生き抜き、細川家を次代へ繋いだその姿は、まさに「歌道と情報で家名を支える」文化人政治家であった。
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23愛知県
1540-1591を生きた武将。豊臣秀吉の弟(一説に異父弟)として生まれ、兄の立身とともに各地を転戦し、生涯にわたって豊臣家を支え続けた。中国攻めや紀州征伐、四国平定、九州征伐など天下統一事業の中核を担い、軍事・行政の両面で優れた手腕を発揮する。豊臣政権成立後は大和・紀伊・和泉を領する大大名となり、大和郡山城を拠点に領国経営を進めた。また徳川家康をはじめとする有力大名や公家・寺社との調整役を務め、秀吉の片腕として政権運営を支えている。温厚で誠実な人柄は広く信頼を集め、諸勢力の利害が衝突する場面では仲裁役として大きな役割を果たした。1591年の死は豊臣政権にとって大きな損失であり、その後の不安定化の一因ともなった。その生涯は、まさに「圧倒的調整力で政権を支える」陰の柱石であった。
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29奈良県
1549-1584を生きた武将。大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、戦乱の続く大和国の統治にあたった。当時の大和は松永久秀の侵攻や国人勢力の対立によって混乱が続いており、順慶は長年にわたり久秀と争いながら勢力の維持に努める。織田信長が畿内で台頭するとこれに従い、大和支配の中核を担う存在となった。1582年の本能寺の変では、明智光秀と羽柴秀吉の間で態度を決めかねたことから「洞ヶ峠を決め込む」の語源として知られるが、実際には軽率に動かず情勢を慎重に見極めた末に秀吉方へ与している。英雄的な武功よりも、現実的な判断と外交的な駆け引きによって家と領国の存続を優先したその姿は、まさに「現実外交で大和を支える」役割を果たした武将であった。
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